第一六章 「密約」
日本国内基準表示時刻1月7日 午後17時14分 東京 内閣総理大臣官邸地下 官邸危機管理センター
『――Dチーム全員の回収を確認。オスプレイ、離陸します!』
報告するオペレーターの口調には、興奮の色が見えた。そして興奮は、容易なまでに管理センターの中枢にまで及んでくる。及んで来ないという道理など生じよう筈も無かった。それまでの一時間近くに亘り、この席上に在って彼らが目の当たりにしていたのは圧倒的なまでの戦闘力の発露であり、言い換えれば奇跡でもあったのだから。
「――わが国に……これ程の男達がいるのか」
「――驚いた……たった七人で二千人を壊滅させるなんて」
「――しかも全員ほぼ無傷だ」
「――まさに切り札、ガーライルとやらの命運も決まったな」
現場の興奮が、放言へと転じて円卓にも蔓延しようとしている。それを引き締める必要を官房長官 蘭堂 寿一郎は感じていた。隅に控えていた補佐官が進み出、引き締めるに足る材料の入室を告げた。同じく材料の入室を告げられた総理大臣 坂井 謙二郎と蘭堂の視線が再び交差する。そこに、係官の声が室内に響く。
「――八十島官房長 入室されます」
「…………?」
「…………!」
疑念と驚愕が、特に防衛省制服組の並ぶ一角から、それもほぼ同時に生じる。彼らも含めた列席者を睥睨する様に、随員を従えた肩幅の広い異形が歩く。今更何を――疑問と隔意が列席者の視線に籠り、異形の官房長はそれらからは超然として円卓に進んだ。
「お待たせいたしました。総理」
「それで、どうかな?」
「内通者の素性が判明いたしました」
「…………!?」
それまで場を占めていた興奮が、驚愕にとって代わる。しかし予想されていたことであった。全世界に張り巡らされている警察庁の情報収集網、純粋な軍事情報に留まらない政治、経済から個人情報に跨る全てを収集するにあたり、それが威力を発揮しないわけが無かったのだ。しかしこうも早期に答えが出るというのは、さすがの坂井と蘭堂からしても、実のところ予想外ではあった。
「出してもらおうか」
「その前に、確約を頂きたく存じます」
言い、八十島は席に付いた。無礼であると見做す以前に、億劫そうなその仕草が演技か、あるいは彼の生来の癖によるものなのか判断しようとした者が多く、然してそのどちらかに関して確証を得た者もまたいなかった。
「確約だと?」
と言ったのは筧 情報本部長だ。問い掛けはしたものの、八十島の真意が筧には判っていた。それは確約と言うよりも、おそらくは要求に近いであろう。
「事は、防衛省の情報部門の対処能力を越えた状況にあると私は愚考するものであります。従って、各機関及び政府各部門の職域を超えた連携が必要であります」
筧は更に聞いた。
「それよりも八十島さんは、今回の内通者の出現が、ロメオの謀略である可能性は無い、と仰るのか?」
「その可能性は此処に来るまでに私はとっくに捨て去っております。相手は正真正銘の内通者です」
「正真正銘」という言葉に力を篭めて八十島は応じた。背後を顧み、随伴の部下に手振りを示す。会議室の壁面と一体化した情報表示端末の画像が切り替わるまで、数秒の時間が必要であった。
程なくして一人の女性の姿と、彼女に関し日本の情報機関が把握している全てが、地図、文字及び写真、そして各種電子資料に姿を変えて情報表示端末の全てを占め始める――それは勿論、防衛部門とは毛色の異なる、だがそれ故に国内外の広域に跨る、それも多方面の分野を網羅した公安部門の情報であった。そのタイミングの絶妙さも然ることながら、視覚化されたそれらを前にして絶句と共に、危く立ち上がり掛けて椅子まで揺らしたのは当の蘭堂官房長官自身であった。
「ルーガ‐ラ‐ナードラだと……!」
「発信源はロメオの首都アダロネス中枢。特に音声分析の結果、100パーセントというわけではありませんが、照合率は90パーセントを越えております」
「――よりによって、ロメオの重要人物か……!」
「――それも三年前の河首相遭難事件の主犯格と目されている人物ではないか。信用できるのかね?」
列席者の間から口々に不安と憤懣が漏れ、そして坂井総理は聞いた。
「どうなのか? 八十島君」
「個人として信用に値するか否かは兎も角、現在の彼女の水面下の打診は、これを利用する価値は大いにあります。つまるところ、彼女とのこうした接触記録は、現在のみならず今後の対ロメオ外交に関し、これを我が国優位に進める上でも有益な材料になるということです」
「ガーライル追跡に限らず、彼女を情報源として今後も利用するということか?」
「左様です」
蘭堂の問い掛けに、八十島は頷いた。
「しかし内通の動機がわからないな。こうやって我々と内通したところで、ローリダ本国は勿論彼女自身何の得にもならないだろう」
「なるからこうやって内通している。あるいは純粋な危機感より彼女は行動を起こしたのかもしれません。つまる所、核兵器を奪って祖国を出奔した、その点だけでもガーライルがローリダにとって脅威と見做される要素は十分にあります。例えばガーライルが核兵器を手土産にローリダの敵対国に帰順したら……どうなりますか?」
「ノルラントのことか?」
再びの蘭堂の問い掛けに、八十島はやはり頷いた。
「……もっとも、単に核兵器がカネになるから持出した、という動機もあり得るわけですが。それでもロメオの中枢を根幹から揺るがす事態ではありますな」
「それで八十島君、確約とは何のことかね?」と坂井総理が聞いた。語尾に、やや興味の響きが加わっていた。
「今回のミステルス‐ル‐ヴァン‐ガーライル追跡に関し、我が警察庁からも情報要員を参加させる必要があると、私は考えます。総理をはじめ皆様にはそれをお認め頂きたい」
「馬鹿を言うな!」と、半ば反射的に声を上げたのは松岡統合幕僚長であった。
「先刻まで特殊作戦群は、ノドコールに於いてロメオの武装兵相手に苛烈な撤退戦を演じていたのだ。実戦経験はおろか何の戦闘技術も持ち合わせていない警察機関の人間など、足手纏いにしかならないぞ」
「最後まで話をお聞きあれ幕僚長。同行させるのではなく、防衛省とは別経路から情報を収集し、ガーライルの追跡に当たらせる必要があると私は考えております。事を解決するに、防衛省が可能な方法もあれば、警察にしかできない方法もある。それに情報を共有し、組織の垣根を越えて投入する要員も増えれば、それだけ早期の事態収拾も叶いましょう。総理をはじめ皆様方にはその点御理解を戴きたいものですな。何よりも、今は非常時であります」
八十島が「非常時」という単語に力を込めたように、蘭堂をはじめ参集した一同には聞こえた。そこに底意地の悪さを感じ取った者もまた、決して少なくは無かった筈である。
「捜査するということかね? 職員を国外に派遣するなりして」
「当方の調査によれば、ガーライルの細胞はこの新世界の広域に散り、彼の核兵器略取その他の行為にあたりガーライルの手足同然に機能していることが判明しております。細胞の中には異国の政財界及び軍に深く関わる者もおる。恐らくはガーライルの逃亡と不法行為に関しても少なからぬ便宜を図っているものと思われます」
席上からも声が上がった。
「その点はかのナードラとか言うローリダ人も噛んでいるのではないか? それを考えれば、彼女は利用価値があると思う」
「利用価値? むしろ危険性が高まったと言うべきではないのかね?」
「いや、官房長が言う様に、ゆくゆくは今後の対ローリダ外交を有利に進める上でも彼女は格好のカードになり得るだろう。拒否すれば今回の接触記録を公にしてしまえばいい。公表をちらつかせるだけでも、あのローリダ人にはよい牽制材料となりましょう」
「…………」
あれがそんな性質の人間か……浮付いた打算を廻らせる列席者たちを、何時の間にか冷やかに見つめる蘭堂がいた。祖国の危機とはいえ、あの女が、あのルーガ‐ラ‐ナードラが何の腹蔵も無しに此方に接触を図って来るという展開が、彼女を前に立ち回った経験を有する蘭堂には信じられずにいる。
坂井総理は言った。
「特戦群の他、防衛省と警察庁の関係部門より人員を抽出し、任務部隊を編成する。彼らはこれよりガーライル専従だ」
「総理……!」松岡統合幕僚が目を剥いた。
「ハッ! 御理解頂き有難うございます総理」
待ち構えていたように席を立ち一礼――八十島のそれは、絶句し、不承不承といった表情を隠さない武官らと対称を為すかのような動作であった。忌々しげに武官らの睨む前で平然……否粛々と、かつ深々と頭を下げる八十島。その際に彼がどのような顔をしているか、坂井総理をはじめ誰も察する術を持っていない――そこに、坂井総理の新たな命令が告げられる。
「任務部隊の編成と任務遂行はこれを最優先で行い給え。手段は問わない。地の涯までもそのガーライルとかいうローリダ人を追い詰めろ。その後は……」
『――368便、離陸します!』
『――…………!』
それまで脇に追い遣っていた、だが重大な問題が、オペレーターの報告という形を借り、国家の中枢を担う人々の鼻先に再び突き付けられて来た。
エウスレニア王国基準表示時刻1月7日 午後18時27分 首都ラルバ アンガニ王太子国際空港
アンガニ王太子国際空港 主従二本存在する滑走路のうち、国際便の離発着を一手に引き受ける主滑走路はメートル換算にして3280の長さを有する。ただしそれは日本の技術支援を背景にした延伸工事の結果によるもので、それ以前の滑走路は一本、それもやはりメートル換算で2000でしかなかったものであった……
……抑制された爆音、だがその推力を全開に六つのジェットエンジンが唸る。その3280メートルの距離を一杯に使ってもなお、新日本航空368便 B-767JTSC-300は地上より比高30メートルほど浮き上がる程度の推力と揚力とを確保したに過ぎなかった。元はと言えばエウスレニアからこの機体を飛ばすために滑走路は延び、同時に十億単位の資金が投じられたのだ。それは対外無償支援に名を借りた日本側の全面的な持出しであった。結果として、脅迫と暴力とを以て368便を支配するグナドスの若者たちは新たな翼を得た。
這う様に飛ぶ旅客機、だがその高度は徐々に上がっていく。同時に黄昏に侵食された大地も遠ざかる――その様を諏訪内 佐那子は半ば茫然として機窓から見下ろしていた。乗客が200名も減ったところで、機体が軽くなる筈も無い。もどかしい離陸の挙動からもそのことがわかる。おでこに巻いた包帯の一部からは、未だ赤い血がじんわりと滲み出していた。
再度の離陸に必要な燃料補給の条件として、主に女子供、老人を対象にした乗客の解放を申し出たのは、エウスレニア政府の交渉人であったという。人道的な問題故ではなく、嘘か真か368便に補給すべきB-767専用燃料の備蓄が少ないという交渉人が述べた理由が、グナドスのハイジャッカー達をして人質の解放を決断させた。「荷物」を減らせばそれだけ遠くまで飛べる。人質を下ろす程度ではこの機体規模からすれば気休めにすらならないのではないかという彼らの一部からの懸念は、仲間の多くの耳には入らなかった。それに、エウスレニア当局が十分な給油量確保を理由に、治安部隊突入までの時間稼ぎを図ろうとしているのではないかという懸念が、彼らをして空港からの早急な離脱を後押しする形となった。
「心配ですか?」
隣席から声をかけられ、佐那子は機窓から目を離した。日本に妻子を待たせている商社員の男が、笑い掛けていた。作り笑いであることは、彼の笑っていない目からすぐにわかった。佐那子と同じく、彼もまた志願して機に残った……そう、佐那子は残ることを択んだのだ。
当初、グナドス人には降りる様命じられていたが、グナドス人に撃たれたエドナ人と彼の妻、さらにもうひと組の夫婦を下ろすためにふたりは残った。佐那子の後ろの席、グナドス人に抗議したエドナ人を、無謀だと詰った日本人の老夫婦。その夫が、エドナ人が撃たれて少し後にあろうことか狭心症の発作を起こし、佐那子はエドナ人なみならず彼にも応急処置を施して機外へ送り出したのだった。その結果、ハイジャッカーどもの選から漏れた佐那子は機内に残された。商社員はその巻き添えを食った様なものだ。
エドナ人の容体は、今に至るまで教えてもらっていない。
「――大した医者だな。お前」
グナドス人の間でダキと呼ばれる、黒い肌の男は処置を終えた佐那子にそれだけを言った。佐那子にはこの異邦人がハイジャック集団のオブザーバー的な存在であるように思われた。但し、佐那子の見るところ、彼の方がグナドス人のリーダーよりも他のグナドス人たちには敬意を払われていた……それだけではなく、ダキは畏れられてもいた。
「……ええ、あなたは?」
申し訳なさそうな佐那子の問いに、商社員は頭を振った。『心配したところで仕方がない』と彼の表情が答えていた。
「フレイコット輸入の商談に比べれば、何ということもありませんよ。それに……」
「…………?」
「貴方がいれば安心だ。貴方は医者ですからいざというとき助けてもらえる」
「……ええ、わたしは医師だから」
言い聞かせるように、佐那子は呟いた。「聞け!」というグナドス人の怒声がそこに重なる。それは悪魔の宣告の様に、この場に残った日本人35名には聞こえた筈であった。
「これよりこの機は、デルバリアへ向かう! そこでお前達が自由の身になるのが現世か来世かは、ニホンの政府が決めることだ!」
「…………!?」
旅客機が漸く雲海を越えた。
旅は続く。その先に待つ「自由」の意味を、考えない乗客はひとりもいなかった。