表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/83

第二章  「共和国の残照」 (2)




 一時間後――ナードラと乳母を乗せた高級地上車は聖堂を脱し、そのまま首都アダロネス市内の車道を市中央へ向け走っていた。


 『――定時報告。エストヴェント12番街区にて下層民の暴動発生。現在治安部隊が展開中。各車迂回されたし』

 運転席備え付けの無線受信機は、政府指導部専用回線を通じ市内の交通情報を常時更新し伝えてくる。しかし、昨今になって入ってくる放送の多くは、市内の交通情報というより治安情報と言った方が正しいようにナードラには思われた。


 暴動、騒乱、火災――もはや共和国の首都アダロネスにおいて、公共電波でこれらの単語を聞かない日はないと言っても過言ではない。貧民街や工業地帯で頻発する労働者の暴動、正確な理由すら図れぬ突発的な騒乱、そして出所の知れぬ火災……それらの連鎖は緩慢に、だが確実に首都のみならず共和国全土に社会不安を惹起しつつある。


「…………」

 自動車専用道路の路肩に止まる装甲車の縦列――ナードラの緑色の瞳は吸い寄せられるようにしてそこで止まり、そして車体の傍らに立つ完全武装の共和国陸軍兵士の姿に惹かれた。暴動に対処するに既存の警察機関だけでは数的にに対応できず、軍の部隊が動員されるようになって決して短い時間が過ぎたわけではなかった。だが……


 先週の共和国元老院の一室で、一部の有志議員の主催により行われた保安情勢報告会において行われた出席者の遣り取りを、ナードラは脳裏で反芻していた。


『――四月の暴動発生件数は13件。暴動によって発生した死者は44名。その内治安部隊による拘禁後に死亡したもの10名。4名が自殺だとしているがその根拠はいまだ不明。さらに他3名の死因を、治安部隊は公表していない』

『――治安部隊は暴徒に対するに警棒ではなく銃剣と小銃の水平射撃を以てしている。これでは民衆の敵意を徒に煽るばかりである。しかも、軍用犬を使って女子供を襲わせている。重大な事態を引き起こす前に暴動への対処任務を警察機関のみに絞るか、対抗手段を制限するべきだ』

『――かと言って、暴徒への対処に適当な能力を持つ機関ないし組織が他にあるだろうか? 我々は現状では最善ではなく「よりまし」を選択しなければならないのだ』

『――軍内部には、首都警備に他管区の軍部隊のみならず民族防衛隊までもその指揮下に動員できるよう法改正を働きかけようとする動きがあると聞いている。これは軍部の権力拡大に繋がる危険な兆候ではないのか?』

『――共和国内務省保安局(ルガル)はどう考えているのだ? 大体国内の治安維持は彼らの管轄ではないか?』

『――残念ながら共和国内務省保安局(ルガル)は植民地で頻発する反共和国運動への対処で手いっぱいだ。国内に全力を注ぐ余裕などない』


 内情は、決して逼迫しているわけではなかったが、逼迫への坂道は傾斜を増していた。下層民の不満は爆発寸前、従来ならば対外戦争により彼らの不満を外部へ逸らすことも容易だったのであろうが、それを可能にする軍事力は、三年前の「挫折」以来、未だ回復することあたわざる状態にあった。時間にして僅か二週間の戦闘、だが気が付けば共和国は、その二週間程度の内に余裕ある外征を可能にするための陸上兵力も、洋上艦隊も、空軍力も全てを蕩尽し尽くしていたのだ。


 地上車は元老院正門に達し、そこで止まった。公用車ならばほぼフリーパスで此処を通過できるのだが、地上車はルーガ家の私用車であるため、議場を警備する元老院警備隊による身分確認を経ないと元老院の敷地内へ車を乗り入れることは叶わないのだ。それでも、地上車は一度止まっただけですんなりと国政の最高府の敷地内へと乗り入れることができた。


 警備隊の詰所を経、白亜の壮麗な元老院議場の正面玄関に面した車寄で地上車を停めさせると、ナードラは言った。

「エリサ、私は暫く戻らぬ。先に(やしき)に戻っていてくれぬか?」

「はい、お嬢様」

 乳母の対処も手慣れたものだ。三年前に国政の第一線を離れたとはいえ、彼女の主は政府において未だ重要な役割を担っていることを乳母は理解している。先に外に出た運転手がドアを開け、自らの手で資料を抱えたナードラは、地に足を付け外へと出た。


「――――!」

 元老院議場正面に聳える巨大な銅像を見上げ、ナードラは内心で感嘆の息を漏らす。

 騎馬像――軍人たるを示す共和国草創期の軍服の上に、政治家たるを示す長衣を纏った青年の像。その顔立ちは息を呑むほどに美しい。そしてその眼差しは、険しさと柔和さの絶妙の調和を伴って遥か彼方へと注がれている。昔、未だ幼女と呼ばれていた時分の彼女が、祖父に連れられて生まれて初めて元老院への参内を果たした時、間近で銅像に対面した彼女は怯えて祖父の背後に隠れようとしたものだ。像の余りの巨大さに、幼い彼女は今にも像が動き出しこちらへ圧し掛かって来そうに思われたのである。


 ノール‐ディ‐アダロネス――およそ300年前のローリダ独立戦争の英雄であり、初代執政官として二期を務めた共和国の開祖……政戦両略において空前の才幹と指導力を発揮した彼が、現在の共和国の内情を見たら、果たしてどのような感慨を抱くことになるであろうか?……共和国(パプリアース)ローリダ(‐ディ‐ローリダ)、その起源は信教の自由を求めて未開の群島と称されたローリダに移住し、野山を拓き居を定めるに至った人々の自治する少数の植民州に(さかのぼ)る。だが暴虐な宗主国ギルタニアの圧政の手がこの島にまで延びるに及び、植民者たちは武器を手に立ち上がり、以後十年に亘る闘争の末に独立を勝ち取り、共和政を成立させ現在に至っているのであった。アダロネスの銅像は、まさにローリダの独立と建国の象徴――


「ナードラ様、皆様お集まりでございます」

 玄関ロビーで設けられた、仮設の受付所で待っていた官僚に、ナードラは頷いて応じた。この日午前中に、元老院有志と外交、経済、そして軍事……各分野の専門家を集めて行われる新世界情勢研究会。例年――少なくとも、共和国が「解放戦争」の熱狂に沸き立っていた三年前まで――ならば、これに愛国的な文化人や軍需産業の重鎮をも加えた、研究会とは名ばかりの饗宴と化していたのだが……


 会場たる雛壇状の空間――案内の運営係官に先導され、ナードラが通されたのは、雛壇の最上階の一角であった。そこに付された肩書に、ナードラの柳眉が心持か上がる。


「前ノドコール総督、前元老院議員代行、現在ルーガ総合研究所 代表」

 祖父の代行とはいえ、かつては仮にもこの白亜の殿堂の住人であった自分の肩書が、あの三年前から全くに変わっていないことを、ナードラは今更のように思った。その後にこみ上げてきたのは、自嘲にも似た笑み――隣席に位置する一人の人物の視線に気付いたのは、そのときだった。

「…………」

 険しい、初対面の人物ならば同席することすら強い逡巡を覚えるであろう程に厳めしい表情の初老の人物、彼の傍に腰を下ろすことになるのは果たして何年ぶりであろうか……?

「ルーガ‐ラ‐ナードラ、変わりないようだな。何よりだ」

 その人物――デロムソス‐ダ‐リ‐ヴァナスは言った。市井の一庶民の生まれから身を起こし、長じて軍に一兵卒として入隊、その後に軍才を見出されて共和国陸軍少将にまで栄達を重ね、退役した後に転じた政界においても重ねた数々の実績とそれに伴う下級兵士、民草の声望……今や国政の最高意思決定機関たる元老院において、民衆派の筆頭として名を馳せる彼に先に声を掛けられるのは、富裕ならぬ富豪階層たる騎士階級の出であるナードラにとっては意外だった。

「ヴァナス様におかれましては、スロリア戦没将兵の遺族救済事業に並々ならぬご尽力の末、心労の重なること甚だしと聞き及びましたる次第。どうぞご自愛くださいますよう……」

「それは言うな」

 ヴァナスは苦笑気味に手を上げ、ナードラの言葉を制した。

「元老院の末席に在る者として、貴賤を問わず共和国に身命を賭した者に名誉と福祉とを以て報いるは当然の責務ではないか。取り立てて語る必要のある事ではあるまい」

「その当然の責務を、議場や酒席で口に語るだけを以て善しとする軽薄なる輩もまた、元老院の住人でございますれば、ヴァナス様の行いも否が応にも民草(たみくさ)の着目するところとなりましょう」

「カディス殿の御令孫は、我が共和国で最も危険な不満分子であらせられるようだ」

 ヴァナスは疲れたように笑った。ナードラは話題を変える必要を感じた。

「議員……できれば私はその他大勢の一人としてこの会の席に付きたかったのですが」

「まあ堅いことを言うな。君の役割は増しているのだ。君がかつて元老院の議席を占めていた頃より、遥かにな……先月のニホン情勢に関する『ルーガ総研』の分析を読ませてもらったが、あれは素晴らしかった」


「…………」

 ナードラは押し黙った。ヴァナスの発言は事実であった。三年前の対ニホン攻勢の急先鋒が今や一転してニホンの外交、軍事戦略の第一人者――共和国政軍両分野に属する人々から、ルーガ‐ラ‐ナードラはそう見られている。当初はかのスロリア紛争の総括を行う目的で、彼女が実家たるルーガ財閥の経済力を背景に、私的に設立した安全保障研究所は、今やかの「スロリア戦役」以後の共和国の外交面、軍事面での決断に、少なからぬ影響力を持ちつつあった。

「…………」

 視線を転じた雛壇の中段の隅、そこに通されている人影に、ナードラは見覚えがあった。

「ロルメス……」

 三年前は、金髪の好青年だった元老院のサラブレッドは、その生来の壮麗さこそ変わっていなかったが、今ではその端正な顔に鷲のような険しさを漂わせていた。やはり三年前、スロリアの前線視察の際にニホン軍の捕虜となったロルメス‐デロム‐ヴァフレムスが、抑留されたニホンの本土から母国に帰国を果たしたのは翌年のやはり末であった。同じく捕虜となった将兵全員の帰国を見届けてから帰るつもりでいたところ、翌年の六月に早くもその時を迎えた筈が、ニホン国内視察と称しさらに半年帰国を先延ばしした形となっている。その間ロルメスはニホンの風土、文物に触れ、ニホンの要人と会談し、さらには彼らのテレビ番組に出演して共和国の立場を説明したりなど、様々に立ち回っていたようだ。「蛮族」ニホンの捕虜になればまず生命は助からないというのが戦前に広まっていた通念であったが、彼をはじめとする四万人に及ぶスロリア戦捕虜の帰還は、その通念を覆す形となった。それはまた、捕虜の帰還自体とその後に帰還兵の口によってもたらされた「敵国」ニホンの体験談という形で、共和国全市民に別の意味での衝撃を与えることになった――


「――ニホンは、いい国だ」

 帰還兵たちは、一人の例外なく共和国の敵国のことをそう語った。特に彼らが土産として持ち込んできた数々のニホンの文物が、彼らの感慨を裏付けていた。太陽の光で動くというポケットに入る程小型の計算機、湯を入れるだけで出来上がる即席のヌードルスープ、手のひらサイズでしかない小型のラジオ放送受信機、文庫本程度の厚さしかない極薄型のテレビ放送受像機、その他高性能の家庭用電気機器、ローリダでは、まず上流階級専用の食料品店でしか売っていないような美味な菓子の山……農村出身の兵士の中には、穀物や野菜、果物の種子を持ち帰って来た者もいたし、物品の携帯に関してある程度自由な裁量を認められた下士官以上の階級の者の中には、カブやスクーターと呼ばれるニホン製の小型二輪車まで持ち込んできた者までいた……!


 そして……捕虜ではなくむしろ「客人」として、抑留された彼らが受けて来た歓待の数々――帰還を果たした兵士たちは、待ち構えていた親族に、そして友人に、身ぶり手ぶりを交えてそれまで彼らが捕虜としての生活を送って来た異国の事を話すのだった。


「――アダロネスの街並みなんて、オオサカやナゴヤの賑わいと比べたら辺境の片田舎のようなものだ。しかもオオサカやナゴヤはニホンの首都じゃないんだぜ」


「――シンジュク、シブヤ、ハラジュク、ギンザ……これだけじゃない。トーキョーにはこの世のありとあらゆる快楽を閉じ込めた街がたくさんあるんだ。もちろん俺たちは見物し、遊びまわったさ。時間を忘れて、そして俺たちの懐具合に限界があることも忘れてね」


「――我が国の都市は水平方向に発展していくが、ニホンの都市は、水平方向は勿論垂直方向にも発展する。彼らは都市設計にあたり高層建築物の多用を以てその都市建設の根幹と為し、それは都市部の周辺からの人口吸収に多大な効果をもたらしている」


「――ニホン人の文明の程度は、我々の持つ文明のそれを遥かに凌駕していることを、私は認めざるを得ない。例を挙げれば、通話に電線や大掛かりな送信装置を必要とせず、掌に収まる位の大きさでしかない電話機――否、それ以上に有益な情報を収集することのできる機器――を、我が国では未だ高等学院生でしかない程度の少年少女が自在に使いこなし、日雇い程度の仕事で少し働いて金を貯めるだけで、我が国ではごく少数の富裕層の財産にしかなり得ない高性能の乗用車を、未だ二十歳にもならないような若者が乗りこなしている。これは今でも認め難いことだが、ニホンの文明は我が国の30年……否、50年先を優に進んでいる」


「――ニホンには、冷酷な地主の所有物たるを強いられている農奴というものがない。強欲な企業経営者の搾取に喘ぐ労働者もいない。病気になれば誰もが最小限の出費で質の高い治療を受けられ、子供たちはいかに貧しい出自であろうとも必要最低限度の教育を彼らの政府より保証されている。それらを可能にしているのは公平な税制、公平な司法、そして適正な立法である。残念ながら、我が共和国にはその何れも無いことを、小官はこの度の経験から認めざるを得ない。ニホンには我が国の元老院と同じような議会があり、その構成員は世襲や推挙に拠る元老院とは違い、ニホンでは成人以上の国民全員が参加する選挙によって広く集められている。軍備再建やニホン敵視政策も結構だが、我らがニホンに勝つためには、まずその種の改革から必要なのではないのか?」


「――ニホンの宗教には、禁忌というものがありません。一年を通じ、彼らは全くに違う神を崇める祭りを幾つも行います。年の初めにジンジャなる彼らの聖殿に一年の平安を祈念し、年の中頃にホトケなる異教の神に先祖の霊の安寧を祈り、先祖の墓前で先祖の霊を祀る。そして彼らは年の終わりには、さらに他の異教の教祖の誕生日を盛大に祝うのです。そのような無分別な信仰は、これまで我が国では野蛮で恥ずべきものとされてきましたし、私も今まではそう信じてきました。ですが……ああやって間近に見た上であえて申し上げれば、そうした度を過ぎた寛容さこそ、その実ニホン人があのような強大な国家を作り上げた根幹なのではないかと私は愚考する次第です」


 先年、ニホンより帰還を果たした元捕虜たる国防軍の将官、高級士官を対象にした元老院での公聴会、発言の内容はそれまでローリダ群島という世界の中で全てを創り、全てを決めて来たローリダの人々にとって衝撃的であり、そして屈辱的ですらあった。何よりも問題とすべきは彼らの宗教観……多神!――それも、異なる教義の宗教の神を祀るような、野蛮で無分別な信仰心しか持たないような連中に、我らが共和国ローリダは敗けたというのか!?


 その屈辱感ゆえか、公聴会に参加した元老院議員や専門家の多くが、今次の戦役の敗因を国力や文化といった要素以外の、技術的な問題に矮小化しようとした。その建国以来300年余り、そして「転移」後30有余年、共和国ローリダにはその栄光と繁栄を彩って来た数多い戦勝の陰で、敗北の経験もまた両手両足の指を使っても数え足りぬ程に存在する。だがそれらの全てが本格的な決戦に入る前段階としての中小規模の戦闘の結果とか、植民地獲得後に起こった住民反乱の過程の一つであり、戦役の命運を決定するとか、戦局全体を左右するといった重大な性格を有するそれではなかった……だが、「スロリア戦役」は違った。自信(過信?)を以て臨んだその初めから終わりまで、徹頭徹尾共和国ローリダは敗け続けたのである。


「――敵の兵器が優れていた。我が軍は装備面でニホン人に後れを取り、用兵の妙により敢闘し勝利してもなお、その劣位を覆すまでには至らなかった」

 実戦面での専門家たる国防軍総司令部付の参謀少佐(このとき同席していたナードラは、彼のことを「国防軍兵器促販担当営業係」と評した)は、そう語って「現場サイドからの」スロリア戦役に関する報告会を総括した。これを額縁通りに受け取った議員は決して少なくなかったであろうとも、ナードラは思った。敗北したとはいえ、貴族や騎士といった国運を決する上流階層の国防軍に対する信頼は未だ絶大であり、今や国防軍総参謀長兼近衛軍団司令官として軍部に、そして政界に絶大なる権力を奮うに至ったカザルス‐ガーダ‐ドクグラム元帥の、こうした階層にも及ぶ隠然たる影響力を、ナードラはその胸中に意識していたのである。


「――ニホン族!……あの狡猾で精妙なる兵器を使いこなす東方の蛮族に対するにあたり、我ら国防軍は劇的な方針転換を以て彼らに対することを小官はここに披歴するものであります。つまりは、連中との正面からの対決はこれを避け、交易の阻害、国外の反ニホン勢力に対する軍事支援などを以てニホン族に間断ない消耗を強い、しかる後にニホンの中枢に打撃を与えるのです。ニホンが突進する猛牛であるのならば、我ら国防軍はそれを華麗にあしらいつつ消耗と出血を強い、最終的には長剣を以て猛牛の心臓を一突きする闘牛士と申せましょう。賢明なる元老院の諸氏にはどうか、我ら国防軍に猛牛を惑わすマントと、止めを刺す長剣を与えて頂きたい……!」


 公聴会の翌日に開かれた元老院常会での、ドクグラムの発言――詩的で婉曲な言い回しながら、ドクグラムが何を欲しているかぐらい、中等学院生徒程度の知性の持ち主ならば誰でも判る。だが、要求される側に不快感を与えない言い回しで何かを要求する術に、この元帥は何よりも長けていた。こうした煽動と懐柔の才に、この新任元帥が長けていることだけはナードラも認めざるを得ない……そして、彼が要求しているマントと長剣はすでに具現化していた。


「ミステルス‐ル‐ヴァン‐ガーライル……」

 まだ開かれぬ研究会の場、未だ入場の客の流れが絶えないその会場の喧噪の中で、ナードラは呟いた。ナードラとは士官学校の二期上にあたるその仮面の男は、国防軍少尉に任官して僅か二年の内に武勲を重ねて中佐への最短昇進記録を塗替え、それから何の未練もないかのように軍を退き、彼自身の若い才幹と野心の赴くままに新たな活躍の場へと飛び込んで行った。そして――

「南ランテア社 首席商館長(ヘル・カピタン)

 現在の彼の肩書は、ガーライルがもはや、共和国ローリダの外交、植民地政策の影の部分の一切を取仕切る頂点に立ったことを意味していた。表向きは貿易会社ながら、占領地の植民、民政、反乱勢力鎮撫のみならず敵対国への政治、軍事面の情報収集及び工作活動――政府及び軍が、彼らの有する諜報機関から別方向でそれらを外注するために設立した純然たる「国営商社」たる南ランテア社。それは傘下に約100機の各種航空機、100隻の武装商船を有し、さらには各植民地に散らばる支社や商館警備の名目の下、外国人傭兵を含む合計10万名もの陸戦兵力を抱えている。ローリダ共和国に陸海空軍を構成する国防軍の他に、南ランテア社という、もう一つの軍隊があるようなものだった。


 おそらくは、ニホンを撹乱するマントの役割は、ガーライル率いる南ランテア社のものとなるだろう……ナードラはそのようなことを漠然と考えた。では、ニホンに止めを刺す長剣とは?……そこまでナードラが思索を巡らせたとき――


 予鈴――それは完全に空席を満たし、ざわめくばかりの来客の意識を壇上へと集中させる効果をもたらしていた。文字通りの満席、来場者の中には元老院議員の他、軍人、官僚、企業人、そして文化人や宗教者と思しき顔ぶれさえそこには伺えた。それだけ、今回の研究会で扱われる話題は、ローリダ共和国という社会の、あらゆる分野の上層に属する人々の関心を惹いていることになる。


 司会者たる元老院議員が、誘導係の官僚に先導され登壇しようと講壇の隅に歩み寄るのをナードラは見た。元老院議員の象徴たる長衣越しでも見える、歩くたびにゆっさゆっさと揺れる贅肉を纏った巨体と、それ故に危うげで且つ愛嬌のある歩き方を見せる後姿に、ナードラは嫌という程見覚えがあり、そして微笑ましさすら感じていた。


 クルセレス‐ド‐ラ‐コトステノン。現職の元老院議員でありながら、国家に対する忠誠心ゆえではなくむしろ富豪の数多い道楽の一つとしてその職に就いているような人物と、彼は彼を知る大多数の人間にそう思われおり、それは事実であった。個人的には彼の親友の孫にあたる謹厳実直なナードラが、そんなコトステノンを許容しているのは傍目には奇妙なこととして映るかもしれない。今回の研究会で彼は司会を務めることになっており、それは実のところ、今回主催者側の末席に連なることとなったナードラの意向でもあった。そしてナードラの意向ゆえに、コトステノンは彼以外の人間はおろか、彼自身もまた性格的に向いていないと思っていた大役を引き受けることとなったわけである。


 コトステノンが登壇し、作ったような沈黙と険しい眼差しとを以て観客を一巡する。それだけで、照明の大半が落とされた空間から、喧騒は潮の退くように消えていくのだった。彼の醸し出す生来の富豪としての威厳、そして後天的な元老院議員としての威厳の配合が絶妙であることは、この場の誰もが認めざるを得ないところであろう。


 形ばかりの咳払いをし、コトステノンはマイクに向き直った。

『――御来場の諸氏には、多忙なる中貴重なる時間を割いて頂き、主催者としては感謝の言葉もない。今回の海外情勢研究会の目的は、顕在化した我らが共和国ローリダ最大の脅威であるニホン……あの悪魔の国に関し、我が共和国国外で進行中の事実と、現在共和国が有する情報とを諸氏と共有することにある。これより発表する事実に関しては、諸氏にとって不愉快な内容も散見されるであろうが、古人曰く敵に勝つには、先ず敵を知ることこそ必要であるという金言を、本職も信じるものである。諸氏にはどうか有意義な時間を過ごして頂くことを本職は切に願うものである……では、これより登壇する発表者諸君に拍手を』

 コトステノンは発表者に手招きした。今回、観衆の拍手に送られ壇上に足を踏み入れる発表者は4名、いずれも官界、学会、軍部において将来を嘱望される若手研究者であり、ローリダ共和国におけるニホン研究の第一人者でもあった。最後の4人目にあたる女性士官が壇上から観客席を見上げ、投掛けられた視線はかなりの距離を超えてナードラの緑の眼差しと交差する――二人が口元に自ずと微笑を洩らしたのは同時だった。



共和国元老院外交委員会 院内総務 ファムガン‐リガ‐ルー

アダロネス高等法院 国外情勢研究所 主任研究員 ヒドリー‐ダ‐ルス

国防軍総司令部 総司令部第一兵站局(作戦立案) ニホン課課長 共和国陸軍大佐 ルドナス‐ル‐タ‐セラ

ルーガ総合研究所 主任研究員(国防担当) 共和国陸軍少佐 ミヒェール‐ルス‐ミレス



『――最初に、共和国外交委員会よりファムガン‐リガ‐ルー院内総務に、ニホンの外交政策について語って頂こう。ルー院内総務、前へ』

 ルー院内総務と呼ばれた長衣の男は立ち上がった。痩せぎすで血色の悪い顔と、(ひたい)よりだいぶ後退した黒い頭髪の反面で豊かな頬髯を誇る青年、長衣の下に着込んだ緋色の制服から、彼が年齢似合わず政府中央の官僚として高い地位に在ることがわかった。衆目に一礼して講壇の中央に立ち、ルー院内総務の発表が始まる。


『――かの「スロリア戦役」から3年、ニホン……かの忌まわしき悪魔の国は、現在に至るまで着々と我が共和国に対する外交攻勢を強めております。相互安全保障を名目にスロリア周辺国及びその衛星国と同盟を結び、平和維持軍と称しその兵力をスロリアに展開させております。この地図をご覧ください』

 講壇傍らに置かれた光像式投影器が瞬き、一枚の地図を映し出した。スロリア亜大陸の過半を埋め尽くすに至った、敵対勢力を示す赤い標識の群……その一方で、ローリダの勢力圏を示す緑は西端に追い遣られ、赤に圧迫されているかのように見えた。自国の余りの劣勢を突き付けられ、息を呑む観衆の反応を僅かな明かりから確認すると、ルー院内総務は続けた。

『――現在、スロリア本土に展開しているニホンの地上軍は1個連隊。それも工兵主体の部隊構成となっております。これはニホン軍自身の発表による情報であり、後に我が外交部としても独自の情報収集活動により、これを事実と確認しております。しかし、この工兵部隊及びスロリアの民生及び農業支援を名目にしたニホンの植民機関の護衛のためと称し、スロリア東部から中部に展開しているニホンの衛星国及び従属国の軍隊の総兵力は3万に達する見込みです。そのいずれもニホン製の武器を装備し、スロリア東端はノイテラーネに置かれているニホン軍司令部の指揮下にあることが確認されております……自国の外交及び安全保障に自らの手を汚さず、他国の動員と貢献を以て臨むこの点にこそ、ニホンの対外侵略政策の本質が表れていると申せましょう』



 直後、観衆の発散する空気の質が変わった。少なくともナードラにはそう思われた。

『――ニホンの国力は我々の予想を超えて強大であります。しかしその国力の強大なることに反して、ニホンは外交に於いて孤立することをなによりも恐れております。戦役にあたって自国の影響下にある他国を抱き込み、諸国間連合を形成して敵国に対するのは、ニホン人という種族の習性のようなものなのです。次に、それを可能にしているニホンの外交政策に関する考察ですが――』

 咳払いし、さらに講壇に備え付けの冷水を一杯呷ると、ルー院内総務は続けた。

『――何故に前述の諸国が、ニホンの命ずるままに兵力を供出し、ニホンの軍事戦略を成就させるべく動くのか? ニホンの外交方針は、先ず武力を以て対象国を威嚇することから始まり、しかる後に彼らの工業設備を移入することから始まります。この過程でその国本来の工業基盤は浸食され、解体され、やがてはニホンの支配下に置かれていくことになるのです。それらの国々では、もはやニホンの存在なしには経済が成り立ちません。住民はニホンの言うままにニホンの文物を買わされ、ニホンの要求するままにニホン人の望むものを作らされた上にそれらを安く買い叩かれ、ニホンの望むままにその国の自由を捨て去ることを強いられるのです』

 鉛の塊のような沈黙――それはこの場で息をする一切の人間から、呼吸する術を奪い尽くしたかのようにナードラには思われた。以前……「スロリア戦役」前にも感じた重苦しい雰囲気。そして今の彼女には、その理由がはっきりとわかっていた。人々は重ね合わせているのだ。そうした国々の現在に共和国ローリダの未来を――


 それは恐れだ……と、ナードラは思う。すべては純粋なる信仰心や、正義感によるものではなかった。

 恐れ――何時の日か、母国ローリダが外敵に屈服し、絶対的なまでの支配下に置かれるのではないかという恐れ、支配下に置かれた自分たちは一切の公民としての権利を剥奪され、家畜同然の存在として収奪と抑圧に怯えて暮らすことになるのではないかという恐れ――それこそが共和国ローリダを突き動かし、他者との抗争へと向かわせていったのだと……それはかつて植民州と呼ばれていた時代、時の宗主国ギルタニアの雷威に怯え、独立を果たしてからもなお、その動向に敏感ではいられなかった時代を経て身に沁みついて来た民衆レベルの警戒感と無縁ではいられなかった故であるのかもしれない。


 確かに、戦を求めたのはローリダの民だ。しかし、元老院とその周りに群がる様々な集団の意向によって世論の方向があらぬ方向に捻じ曲げられ、その導くがまま国民は戦争へと傾くこととなったのは否定できない。純粋に土地や利権を獲得したいと望むのならば、戦争以外の方法にも目は向けられるべきであったろう。そうならなかったのは、当の戦争行為が視覚的にも、情緒的にも共和国民衆の他国に対する競争心と、自国に対する愛国心に訴える効果が十二分に期待でき、事実期待以上の成果を上げたからであった。

 戦によって得られる領土、権益、ひいては支配下に置いた土地とその民の生殺与奪の一切……だがこれらを求めたのは敗けないという明確なまでの根拠があったからである。言い換えれば、国防軍という強大無比な担保の存在――それが失われた今、突き付けられた現実はこれまで勝利に浸り、敗北に対する免疫に乏しい人々に牙を剥きつつある……そして敗北の次に訪れた新たなる恐怖は、さらに先鋭化した対ニホン強硬論と、それを補強する軍備回復、拡張運動となって元老院から市井までを揺り動かしつつあった。


「――ニホンに報復を! 軍備を強化しよう!」

「――スロリアを忘れるな! ニホン人に何倍にもしてやり返せ!」

「――何時の日かニホンの首都に赤竜旗を立てよう!」


 主要新聞の見出しを借りて広がり、再戦へと人々を志操する報復への声。それは特にかの戦役でスロリアにおける利権と投資を失い、あまつさえは弟、息子、良人としての高級士官の身内を戦場で失った上流階層の間で顕著であった。ナードラはと言えば、ある意味「身内」である彼らに同情こそ覚えても、その後に来る報復論には、正直なところ同調できないでいる。「スロリア戦役」前から厳然として存在し、「スロリア戦役」中に顕在化し、「スロリア戦役」後に一層に拡大した彼我の軍事的格差が、彼女をして純粋な軍事力行使による日本との対峙に躊躇を覚えさせていたのだった。もはや軍事行動で雌雄を決するには共和国の敵はあまりに強過ぎ、そして共和国が被るであろう被害はあまりに甚大に過ぎる……


『――ニホン人! 人間という表現を使うのもおぞましいあの獰悪な種族は、支配下に置いた異種族の若者の血を以て自国の安泰を図らんとしている! これは明白なる事実であります。そしてかくの如き現状が、これら諸国の現在に留まらず、我が共和国の未来であることを遺憾ながらこの場を借り申し上げておきたい! 我が自由にして偉大なる共和国は、このままではいずれニホンに屈従し、ニホンの征服欲の赴くまま、貴重なる若者の血と身体を捧げなければならぬ(とき)が来ることでありましょう!』


「――――!!?」

 絶句!――それを表現する声や音が、物理的に存在しないことをナードラは知っていたが、この時は会場の空気にそれを聞いたように思った。あたかも、張り詰めた氷が割れるのにも似た音!……それでもナードラの冷徹な知性は壇上から流れ落ちる「打算交じりの感情の奔流」に押し流されることなく、彼女なりの善後策を導き出しつつある……


『――我々ローリダ人! 自由を愛し、何者にも屈服した経験のない我々は苦境にある今こそ立ち上がらねばなりません! 喩え軍備の過半を喪い、多くの血を流そうとも、我々は蛮族と戦い共和国の独立を守らなければならない! ノドコール現地人よりなる、不公正なる住民投票を約束した三年前の和約はこれを破棄するべきです! 低文化の種族に、自らニホンへの隷従の道を選ばせるなど、ましてやそれを黙って傍観するなど、彼らを教化し導く高等文明の担い手であるローリダ人の為すべきことではない!』


 三年前の和約――ニホン人が停戦の条件として持ち出した住民選挙による独立可否の決定は、同じく決定した両国首脳による同時宣言こそ、その直前で元老院の反対を理由にしたローリダ側の要請とそれを受けた日本側の譲歩により見送られたものの、既定事項として現在も進行している事実であった。そして現在のノドコールの情勢を見るに付け、ローリダ側にとって事態は年を経る毎に悪化しているように思われた。


 平和を取り戻した直後に、初めてノドコールに足を踏み入れたニホン人を、ローリダ側は当初は軍隊、あるいは植民者と見做した。何故なら彼らもまた、軍事力による制圧と前後して大量の移住者や開拓民を送り込み、植民地の支配を強めていったからだ……だが、その実際は違った。彼らの多くが技術者であり、医師であり、報道記者であり、そして教師であった。植民者として必須の自衛のための武器すら持たない彼らは、反乱の傷痕の未だ癒えない各地の村落、ローリダ人や現地人すら見捨てた未開の奥地にまで殆ど身一つで分け入り、彼らの農業、土木技術を農民に教え、衛生と福祉の向上に尽力した。現地では彼らニホン人は現地人と同じ場所で寝起きし、現地人と食卓を囲み同じものを食べているという(それは文明度の劣った現地人を、動物同然と見做し、生活に関する全てを「分離」するローリダの方式とは明らかに一線を画していた)。さらには土地に応じた彼らの作物を即座に用意して植え育て、住民と共に野山で働き、現地にある材料だけで目を見張るほど立派な家や橋、堤防まで作り上げる……ニホン人がノドコールで現地人の信頼を勝ち得るのに、三年もの時間は必要無かった。当初はニホン軍が「解放」のためノドコールまで進攻してこなかったことを理由に、ニホン人を非難する住民もいたというが、今ではその声すらめっきり影を潜めていると聞く……


 ナードラ自身が驚いたのは、ニホン人がノドコールに根を下して暫く経った後のことであった。それまで予想――否、覚悟――していたニホンの火事場泥棒的なノドコール領有の意思表示が全く出なかったことは勿論、むしろニホン人は現地の反ローリダ勢力と交渉を持ち、五年後の住民投票の日まで独立運動を自重するよう働きかけたのである。ローリダの収奪と反乱とで荒廃した現地の復興事業への惜しみない支援の確約が、その対価となった形だった。そしてローリダ側ですら、交渉の内容からニホン人の好意を妨害する正当性を持たなかった。極東の蛮族が進んで反乱勢力と交渉を持ち、彼らを抑えつけておいてくれるというのなら、何者がそれを止める権利を有するであろうか?……だが、それから三年が経ち、日本の援助の下で事態の平穏が日常のものとなるにつれ、一切の目立った騒乱が消えたノドコールに於いて、気が付けば共和国ローリダは失地回復のための軍事行動を起こす切欠を失っていた――それが、誰にも先んじて事態を把握したナードラを戦慄させた。


 何を考えている?……ニホン人。


 表情にこそ出さなかったものの、ナードラは内心で混乱した。ここまで手を尽くすのには、その背景に何らかの利益供与があって然るべきではないか? ニホン人は果たして、何を見据えて、一見して自らのノドコールにおける立ち位置を狭めるかの如き行動を取るのか? ローリダ人の及びのつかない、遠大な構想を彼らは抱き、現在に至るまで実行中だと言うのか?


 一方、本国は本国で、そうした「闖入者」ニホンの行動を、むしろ余裕を以て傍観していた。「ニホン人は手に入れたノドコールを、碌に経営することも出来ずに持て余している」……と。


「――ニホン人は植民地経営の何たるかを知らぬ。知らぬから無駄な出費を繰り返し、(いたずら)に国力を消耗している」

「――まったく愚かな連中だ。現地人を服従させるどころか現地人を甘やかし、付け上がらせている。これでは自国を富ませるどころか逆に富を吸い取られるだけではないか」

「――このような野蛮で分別を知らぬ種族に我が共和国は敗けたというのか!? 軍も政府も恥を知らぬ。再戦し蛮族より約束の地を取り返し、生意気な蛮族に教訓を垂れてやるべきであろうに」


 ――過日、招待に応じて出席した大貴族宅で開かれた宴会の席上、立ち聞きした資本家たちの会話を、ナードラは脳裏で反芻した。「スロリア戦役」で多くを失った資本家、企業家、財産家は数多い。だが彼らの多くが失ったものを取り戻そうと蠢動を始めている。その蠢動の矛先が政府であり、そして軍部であった。だが、果たしてそこに国民の真の声はあるのだろうか?

「…………」

 国民の声……300年以上前の宗主国ギルタニア帝国からの独立、それに続く建国以来、共和国ローリダを構成し、運営する上で最も重要な要素である筈のそれが度重なる政争と利権争いの末に隅に追い遣られ、無視されるようになって果たしてどれ程の時が過ぎたことだろうか? 共和国の事実上の支配者である元老院議員は、自らの決定をさも民意の如くに言い立て、結果として多くの国民を死地へと追い立てている……


 壇上から振り撒いた緊張を置き去りにしてルー院内総務は降壇し、そしてコトステノンは新たなる登壇者の名を告げた。アダロネス高等法院 国外情勢研究所 ヒドリー‐ダ‐ルス主任研究員。前者が官界の代表ならば、「民族防衛隊」下部組織であるセラ‐ネルテリ少年軍の風紀矯正部長であり、神学、歴史学、人種文化学の博士号を持つこのルス研究員は学会の代表者であった。そして彼の研究対象は、一言で言い表すならば「ニホンの頽廃文化」だ。


 度の強い眼鏡と猫背、肩から腰に掛けて横に広がった体躯の一方で、カモシカのように細い脚が印象的なそのルス主任研究員は壇上に立ち、眼鏡を光らせつつ壇下の聴衆を睥睨した。

『――まことにけしからんことにニホン族は、俗悪極まるその下等文化の産物を、惜しげもなく諸国にばら撒き、諸国の文化を駆逐し破壊しつつあります! そしたニホン族の魔手は、この神聖なる共和国ローリダの本土にも延びようとしているのです!』

 その声は野太く、34歳という実年齢に相応しからぬまでの威厳に満ちていた。だがそんなことは少なくともナードラにとってはどうでもよいことだ。

『――ご覧ください。かの蛮族のおぞましき所業を……!!』

怒鳴るように言い、ルス博士は手ぶりで光像式投影器の操作を傍らの助手に命じた。直後に投影される画像に、暗闇の中各所で反射的に沸く淑女の軽い悲鳴と紳士の動揺――ナードラは目を細め、その表情から一切の柔和さを消した。


 ――汚らわしい……!


 裸体の女性と男性との、不道徳なまでの絡み――表面にその様を描いた小箱とレコード状の記憶媒体、一見してニホン製とわかるそれらは押収した治安部隊員の傍で巨大な山を形成している。直後にそれは群衆の前でガソリンを掛けられ、火を点けられるや一個の巨大な篝火と化すのだった……

感情に任せて机を叩き、ルス博士は捲し立てた。


『――これはまさしくキズラサの神に対する冒涜であります! あの唾棄すべき蛮族どもは、奴らの堕落した文化をこの世界にばら撒くのみに飽き足らず、事もあろうに神聖なるローリダ本土に持ち込もうとしているのであります! 去る先月、我が国治安機関と民族防衛隊有志の合同捜索により、我らは異種族収容区において大量のニホン製猥褻物を押収するに至りました。異種族の売人は即決裁判の後処刑、しかし問題は解決したわけではない。ニホン人はこれらの下劣なる文物を以て我が国の将来を担う健全なる青少年を惑わし、堕落させしめんと企図しているのです。現に、首都アダロネスの貧民街や売春窟では、去年よりこうした頽廃媒体等数多くのニホン製猥褻物が第三国を通じ裏で流通し、治安機関に押収されておる!』


「――――!!」

 驚愕を混じったどよめき。だがそんな聴衆の中でナードラは超然としていた。何も意識して平静を装ったわけではなく、それ以上に深刻な、あるいは馬鹿々々しい事実をすでに把握していたからでもあった。つまり彼女は驚く気にもなれなかったのである。


 遡ること先週、元老院議員にして、元老院内でも顕職にあるとある人物の邸宅に、治安機関の捜査員が公安委員長直筆の署名入り令状を手に踏み込んだ。反逆罪といった国事犯以外の罪状による在職中の不逮捕、捜査対象外の特権を持つ元老院議員に対する異例ともいえる行為。だが捜査員は彼の書斎や金庫には一切眼もくれず、当年17歳になる議員の息子が普段より占有する広大な地下室へと向かい、そのドアを蹴破った――

「――――!?」

 そこで彼らが目にしたのは、本棚から床までを埋め尽くす大量のニホン製猥褻物と、やはりそれを視聴するために特別に運び込まれた、巨大なニホン製受像機だった。猥褻物、受像機双方とも書類上は第三国から議員個人への「贈答品」。大きさにして一般家庭の玄関ドア二枚分、しかし受像機にしては異様なまでに厚さの無い平坦な作りのそれを、治安機関員が四名がかりで隣家の目を憚りつつ押収物運搬用トラックの荷台に運び込み、それに続き押収物収納箱にして五箱分にも及ぶ量の猥褻物を、一箱に就き捜査員二名の手でやはりトラックに運び込む様は、見る者によっては問題の切実さ以上にむしろ滑稽さを想起させる光景であるように受け取られるのかもしれなかった。事実、過去の例に洩れず体面を(はばか)った元老院とその意を受けた治安当局の手によって完全に「揉消された」はずのこの醜聞が、どういう経路を辿ってか口さがない市井の庶民層の間に漏れ伝わり、今では民衆は元老院議員の醜態を酒の肴にして嘲笑っているとも聞く。もちろん市中巡回の治安機関員のいない場所で、ではあるだろうが……


 ルス博士の糾弾は続いた。

『――猥褻物ばかりではない! ニホン人による文化侵略は留まるところを知りません。一例を挙げれば、この映像資料をご覧頂きたい』

 映写機の画像が切替り、国外より入手したというニュース動画を映し出した。広大な舞台の上、満場のペンライトの織り成す波の上で一糸乱れぬ振付を披露しつつニホン語の歌を唄う、着飾った異種族の少女の一群……それが暫く続いた後に画面が切替り、厳粛な記者会見の様子が映し出される――


『――我が国エウスレニアとニホンとの文化交流事業の一環として、エウスレニア初のアイドルグループEUR48が結成されることになりました。後援はニホンの大手広告代理店二社とエウスレニアの大手新聞社複数から成る合弁企業です。EUR48はニホンの有力アイドルグループの姉妹ユニットとして結成されるものであり、すでに世界三カ国で同様のアイドルグループが結成されています。後援会社の広報担当者によりますと、メンバーの育成は出自、経歴を問わず一般より十代の少女を広く募集し、オーディションなる日本独自の方法により選抜された訓練生に歌唱、ダンス、演技を教育することにより行われます。これは我が国芸能界にはこれまで無かった斬新な試みであり、先日エウスレニア国内で行われた結成発表の記者会見の場で、ニホン側代表のアキモト社長は、ニホンの手法がエウスレニアの文化振興の一助になることが出来れば、これ以上に光栄なことは無い。グループの活動はあくまでニホンの手法に拘ることなく、エウスレニアの伝統及び芸能文化を広く取り入れていきたいと語り、満場の拍手を誘いました――』


 ニュース動画は、連続して焚かれるフラッシュの先で、メンバーを構成する少女らに囲まれる、端正な容姿のニホン人女性を映し出していた。中年に達しかけた年齢故か、流石にその肌から瑞々しさは失われていたが、それでもスーツを着こなした長身も相まって、年齢を感じさせないだけの美貌と快活さを、アキモトという名のニホン人女性は保ち続けているように見えた。

「…………」

「ルーガ総研」におけるニホン国内情報の収集事業の過程で、ナードラはこの人物を知っている。ニホンの女性実業家、それも文化輸出政策を掲げるニホン政府の後押しを受け、ニホン一国に留まらずこの世界各地を巡り、ニホン人の言う「アイドルグループ」の、ニホンの友好国における運営を一手に引き受ける芸能関係の企業家だ。その彼女もまた、少女と言われていた時分に、EUR48の原型となったニホンのアイドルグループの一員として芸能の世界に入り、歌手、女優として栄達を重ねた末に長じて現在の地位を得たと聞く……


『――これはまさに侵略であります! 無垢なる少年少女にニホンの言語、信仰を強制し、彼らを以て現地住民を文化面より洗脳する! これを侵略と言わずして何と言うべきでありましょうか!』

 怒声と共に、再び映写機の画面が切替る。平積みにされた書物の山、画面に対し暗がりの各所で息を呑み、怪訝そうに声を顰める観衆を他所に、それらの表紙に例外なく描かれている特徴ある平易な人物像には、ナードラの眼と感性はとうの昔に馴れていた。顔の輪郭に比して眼が大きく、顔に一筋の彫りや皺さえ見出せない老若男女の(かお)……三年前、敵国の情報収集の一環として「それ」に接していたごく初めの頃には何と醜悪な絵で、事物に対する認識力の乏しい種族かと呆れたものだが、今ではそれが却って味わい深く、時として愛おしく思えてしまうナードラがいる。

『――「マンガ」なるこれらの俗悪なる書物は、近年恐るべき勢いで諸国に流入しております。内容は我が共和国の幼児向け絵本程度の物ですが、余りに平易な絵柄で、単純な物語故に未開の民は平気でこれらを受け容れてしまうのです。これは由々しき事態であります。何故ならこれらのマンガの中では、ニホン人は必ず自らを正義の執行者とし、我らローリダの民を悪の権化として描いているからです。かの「スロリア戦役」以来、その悪しき傾向は一層に高まっているのだ!』


「――――!!?」

 ルス博士の発言は、発火したばかりの聴衆の衝撃と憤怒に油を注ぐ形となった。ざわめき出す壇下の人々……唐突に聴衆の一人が立ち上がり、壇上を指差して叫んだ。

「こんなことが許されていいのか!? 正義は我々にこそある筈ではないか!!」

 それが切欠だった。人々は拳を振り上げ、怒声を張り上げる。

「ニホンの謀略を打破せよ! 奴らをこれ以上のさばらせるな!」

「キズラサの神よ! 極東の蛮族に業罰を与えたまえ!!」

「…………」

 「反ローリダ的な漫画」――それがニホンに存在し、さらにはこの世界中に拡散していることはナードラもまた知っていたし、現物に目を通したこともある。内容的にはルス博士が挙げたような「正義のニホン人」が、現実には存在し得ないような、人間離れしたその技を以て「獰悪な共和国国防軍、あるいはローリダ人の手先たる悪人」を圧倒する話は、それらの代表的なものであった。マンガだけに留まらず、例を挙げればニホンの三人組の盗賊団がふとした事からローリダ軍に追われる異種族の少女を匿い、共に冒険の旅に出るアニメ映画。ニホンの私立探偵が、とある要人の依頼を受けて、これを暗殺するべくニホン国内に侵入したローリダの工作員と戦う活劇(これと似たパターンで、主人公が私立探偵ではなく、はみ出し者の警察官二人組、というものがあった)。さらには時空と時間を超えてこの世界に出現したヤマトなる古のニホンの巨大戦艦が、その強力な砲撃兵装を駆使してローリダ艦隊を壊滅させるという空想科学戦記などに至っては、それら何れもがナードラからして見ればあまりに荒唐無稽な内容で、笑止とでも言うべきものであった。


 そうした作品の中で描かれる敵役のローリダ人は至って一面的だ。緑の服を着た醜悪な、知性に乏しい獣の様な顔の軍団、彼らは被征服民を顎でこき使い、あるいは犬猫のように殺す……その殺し方も多様で創造力に満ちている。火炎放射器で焼き払ったり、互いに剣闘を強制して殺したり、あるいは巨大な二輪車や馬で集団ごと引き潰したり等々……当のニホン人の中にも、これらの反ローリダ的な作品の荒唐無稽さに対し、馬鹿々々しさと苦々しさとを以て接している者もいるようだ。というのも、最近の「ルーガ総研」における資料収集の過程でわかって来た事実ではあるのだが……


 ……それでも、ニホン文化の浸透力には驚くべきものがある――ナードラとしては、それだけは認めざるを得なかった。決して人々を服従させるとか、文化を押しつけているわけではない。軍事力を直接に伴うことの無い、ごくごく平和的な進出から彼らの「浸透」は始まり、気付いた時にはニホンは、そうした国々にとって「かけがえのない友人」になっているのだ。そう……まるでそうした諸国でも広く人気を獲得している、ニホンの少年向け冒険マンガでよく描かれる仲間集めの話のように――


 ニホン製子供向け動画による、反ローリダ感情の醸成――実のところ、ナードラにはそれ以上の懸念があった。奇を(てら)った物語ではなく、表立って反ローリダを謳っているわけではないが、ニホンの漫画や動画作品には、ごくごく普通のニホン人家庭の生活、ニホン人男女の恋愛を描いたものもまた数多くある。これらの作品もまたニホンの「友好国」へ積極的に輸出され、さらにはこうした諸国から多数の国々へと拡散している……そこに、ローリダにとっての恐ろしい暗示がある。


 この場合、物語の内容は問題ではない。その背景――言い換えれば舞台――として描かれているニホンの文化、生活様式、ニホン人の思考様式こそが問題なのだ。ニホンの漫画や動画は、それを移入した諸国民の間に、こうしたニホン文化を自然に喧伝する役割を果たしている。ニホン文化に触れた者が何時しかニホン文化に憧れ、漫画や動画の登場人物に憧れるあまりニホンの生活様式に染まり、ニホンの文物を競って受け容れ、やがてはニホン人と同じ人生観、宗教観を持つようになる……キズラサ教、共和政といった高等文明の流布を以て全世界の「文明化」を国是とするローリダにとって、最大の悪夢がそこにある。その上になにも文化面だけではなく、その高度な生産技術を駆使し物質的な面でもニホンはそれら諸国に影響を与えつつあるのだ。


 ニホンが、独自の外交政策を展開する上で重視している要素――文化の浸透だけではない、それ以外の要素――にナードラが思考を廻らせようとしたとき、ルス博士の持ち時間は過ぎ、新たな発言者に壇上は譲られる――




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 悪いとこしか見せてないのがリアリティある [一言] 日本の報道機関でもこんなに偏見報道しないぞ(笑)
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ