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第六章  「シレジナ」


シレジナ方面基準表示時刻1月5日 午前7時34分 シレジナ地方ナガフル上空 ノルラント軍前線基地「ドナン1023」 


『――スロリアだけではなく、この新しい世界の各地で戦争が始まっている。人間も含めこの世界に住まう数多(あまた)の種族が、彼我の相克を解消する手段として闘争という、我々日本人の歴史観からすれば紀元前以来最も使い古された手段に依存せざるを得ないというのは、闘争の歴史に絶えず晒されてきた我々日本人からすれば、今となっては失笑すら覚えるほどに食傷を覚える感慨となりつつある。我々がそのような闘争の坩堝の只中に在って、他種族に対し絶対的な優勢を維持しているのは、前世界より蓄積し続けた闘争の経験と記憶が、彼らに隔絶する程多くの質量を有しているからに他ならない。ただしそれは決して誇るべきことではない。闘争における絶対的な優位も、経験から学ぶ能力が劣っていれば、それが来年のことであれ百年後であれ、自ずとそれに優れた他者にとって代わられるだけである。つまりは一つの経験から一つの教訓しか得ることのできない者、その一つにも満たない教訓しか導き出すことのできない者は、一つの経験から十の教訓を得る者に敗れ去る道理である……』


 報告書へのタイピングを止め、二等陸佐 佐々 英彰は窓ひとつ無い部屋の天井を見上げた。リベットも生々しい合板材剥き出しの天井と網の掛かった通気口が、相も変わらず個室の仮初の主人を見返して来る。主人……あるいは囚人と言い換えても今の状況は通じるかも知れない。再び視線を転じた足元には、こじんまりとした薄板の様な放熱器が、狭い個室に暖かい空気を流し続けていた。簡易ベッドとやはり簡素な造りの机を除けば、広さにして四畳程度の個室。それでも、佐々 英彰が現在身柄を預けている乗り物の内部では恵まれた居住環境のひとつだ。比高にして5000メートルに及ぶ高空の旅。それはすでに二四時間続いている。空の上ではあるが、飛行機の旅に付きものの不愉快な動揺は無く、まるで大海を進む客船の甲板上にあるような安定感が続いていた。


『――!……――!……――!……』

 電磁器の響きが古臭いブザー音が続いて鳴るのを聞く。これまで三度の食事と彼我幹部を交えた打ち合わせの他には一度たりとも鳴らなかった内線電話のブザーが、これまでの経験とは異なる時間帯である朝食後に響く。それも心胆に爪を立てるかの様な不愉快な響きであった。送受話器に手を伸ばし、一瞬取るのを躊躇う。ただしそれもやはり一瞬のことで、取り上げた送受話器の向こうから、抑揚に乏しい女性の声が聞こえて来る。

『――サッサ中佐、第二幹部室にお集まりください。間もなく着陸予定時間です』

「……わかった」

『――迎えの兵を寄越しますか?』

「結構」

 やや冷たく応じた直後に通話が切れ、佐々は送受話器を戻した。そのまま彼の目が天井の通気口に向かい、自ずとその眼差しに険しさが宿る。厚遇こそされてはいるが、歓迎はされていない。そのような立場に、今の佐々はいる。



 護衛艦のそれと見紛うばかりに狭い通路を真っ直ぐに抜け、第二幹部室に通じる扉がその入り口を固める警備兵の手により開かれる。灰色の軍服を纏った恰幅のいい大男。だが佐々を見据え、観察するその眼差しは、一切の感情の機微を示さない顔立ちに負けず劣らず、まるでマネキン人形のそれのように空虚な黒に光っている。此処に配属される前は、彼も一端の兵士として、相応に過酷な戦場を潜った身であるのだろうと、佐々は自身の人生経験を重ね合わせつつ考えた。


「…………!」

 円形の巨大な窓、だが強化ガラス張りのそれを通じても並航する飛行船の船影を初めて眼前にして絶句し、足を竦ませなかった者は、佐々も含めて旅の一員となった幹部自衛官たちの中でも皆無であったろう。全長にして百メートルを優に超える巨大硬式飛行船から成る空の船団。そして当の佐々たちもまた、先日以来その客として空の旅を続けていたというわけであった。ただし佐々 英彰の場合、それは決して快適な旅では無かった。


「佐々二佐!」

 呼ぶ声がする。若い声であった。背丈は佐々に負けず劣らず高い。波間を切り取ったような海上迷彩の鮮やかな作業着が、未だ少年らしさを残した青年の笑顔に着られていた。襟の階級章は一等海尉。

「こちらにどうぞ。いい眺めですよ」

「ああ、しかしもう慣れちまったな」

 と、佐々は青年幹部に誘わるがまま、同じテーブルを挟んで座った。

「コーヒーでも欲しいところですね。香料入りの粉末ミルクはさすがに……」

「…………」

 この段になって、佐々はそれまでの硬い表情を綻ばせた。一等海尉 磐瀬 詩郎佐(しろうのすけ)の、恐らくは生来の産物であろう朗らかさに、歴戦の武官たる彼であっても暫し課せられた使命を忘れてしまう。



 磐瀬 詩郎佐というのは、彼のれっきとした本名であった。自衛官としての任官に本名の申告が必要である以上、それは当然の事実であった。ただし「佐」という、今となっては聊か古風に過ぎるとの評も免れない一字が彼の姓名の末尾を占めるに至ったのは、その系譜が一千年以上前の鎌倉期にまで遡ることのできるという彼の父方の一族に、「佐」の字が代々受け継がれてきたが故のことであったが、この点に関しては彼自身の預かり知らないところで生じた紆余曲折もまた存在している。一族の因習を嫌った彼の父は、息子たる磐瀬一尉の生誕にあたり、「詩郎」という一族の系譜に属さない名を付けようとしたが、先祖伝来の一字を入れることに拘る祖父との間で幾度か悶着が生じた末に、詩郎の後に「佐」を「取って付ける」形で命名に決着を見たという――ただし日常の場面の多くで彼が「詩郎佐」という名で呼ばれることは無く、彼自身日常でも「詩郎」の名で通していた。公の場で名前を呼ばれる以外に、「磐瀬 詩郎佐」という彼の本名に接する者は多くは無く、彼の本名に接した者の多くが我が耳を疑い、やがては唖然としつつも自己を納得させようと努めたものであった。


 磐瀬一尉は先月付で防衛省に着任し、その前には青森県 大湊地方総監部に在って司令部要員の末端に名を連ねていた。定例の人事異動ではなく、彼自身を今回の軍事視察団に加えるために、防衛省の中枢に在る誰かが骨を折った形跡の窺える変則的な配属であった。佐々と同じく大卒幹部候補生出身、補給科から陸警隊、更に転じて情報科へと進んだという、組織としての自衛隊の人事を知る者からすれば尋常ならぬ経歴が、佐々に当初は警戒すべきものに思えたこともまた事実である。ただし本人の口から骨を折った人物の素性を知るに至った今となっては、長年の同志間を思わせる、打ち解けた空気が生まれていることもまた事実であった。


「…………?」

 磐瀬一尉がさり気無く紙片をテーブル上に滑らせ、佐々もまたさり気無く手を伸ばして受け取る。どうやっているのかは佐々には判らないが、それは磐瀬一尉が東京との定期的な――それも個人的な――連絡を維持している証であった。


 紙片を開くや一読して閉じる……無感動ではあったが、佐々の眼光はやや暗かった。

「……次長はあの人と連絡が取れたんだな」

「次長も驚いておられましたよ。まさか佐々二佐があの人物と懇意とは……と」


 『赤坂の観察なお継続中。本省特定幹部及び共和党関係者の往来密になりつつあり』――此処から遠く離れた場所で戦争が始まり、同時に工作も活発化している。それもやはり戦場ではない日本の中枢において……である。その工作の主体の(ふところ)に、佐々たちは観戦武官として飛び込もうとしている、というわけであった。


 部屋から出た同僚たちが集まり始めるのを察し、紙片を懐に押し込むようにして収める。磐瀬一尉が言った。

「通気口のあれ、ウザいですね。あれのお陰で迂闊に書類も作れないし秘密の打ち合わせもできない」

「おい……」

 まるで他者に聞かれることを前提にしたような声で磐瀬一尉は言い、小さな声ではないことが反射的に佐々の注意を喚起する。あるいは東京との密通を秘匿する意図で通気口に仕掛けられた監視装置について言及して見せたのかもしれないが、この場に居合わせた面々に気まずさを超えた空気を醸成してしまったことは事実であった。特に、寛ぐ自衛官らを通路側にあって凝視するノルラントの衛兵にとっては――


「――戸惑ってる……もの堅い人種に思えたが、存外顔に出るものだな」

「少なくとも自分たちがやっていることが善行ではないことを、ノルラント人が自覚しているようでよかった」

 ノルラント人の様子を横目に佐々は呟き、一方で平然と磐瀬一尉は言ってのけた。呆れを通り越して半ば感銘に口元を微笑ませ、佐々は言った。

「成る程、悪意を以てではなく、安全のために監視しているという言い訳では苦しいか」


『――!……――!……――!』

 ブザーが鳴る。使い込まれた電磁器の発する、時折掠れる、音程の外れた警報音だ。その後には抑揚に乏しい、その上に尊大さすら感じさせるノルラント公用語で放送が始まった。空の船旅の終わり。地上への降下を告げる船内放送だ。同時に船橋への収容通路に繋がる扉が開き、巨大飛行船の運航幹部と随員を伴った制服姿が第二幹部室に踏み入る。幹部室に集った作業服姿とは明らかに異なる濃緑の陸上自衛隊冬期常装、それを着こなした中背を、彼は大股で幹部室の中央に進ませた。その後にやや遅れて、やはり陸海の常装姿二人が続く。彼の年齢の程は佐々と同等、ただし階級は彼の方が佐々よりもひとつ高かった。


「諸君、集まってくれ」

 若いが、年齢不相応の威厳を含んだ声であった。ご丁寧にも真っ白い手袋まで嵌めた手を叩いて注意を惹きつつ、一等陸佐は幹部たちに集合を促した。機甲科の徽章と年功を示す他、一度の従軍歴も見受けられない幹部常装を、佐々はまじまじと凝視する……同じく常装を纏った随員の三等陸佐は、普通科徽章の他二度の前線勤務歴を従軍章で示していたが、老けた容姿も相まって外目の紳士然とした端正さと威厳の調和では、一等陸佐に二歩も譲る程印象では劣った。事前に知り得た情報では、この三等陸佐の方が一等陸佐に対し防衛大学校の一期先輩に当る幹部であるそうだが……


 集まった幹部連と軽く会話を交わす一等陸佐の視線が自然に廻り、遠巻きに彼を窺う佐々と磐瀬を見出して止まる――柔和な目付きが、縄張りに踏み入った外敵を見出した獣のようにぎらつく一瞬を、恐らく二人は同時に見逃さなかった。

「佐々二佐、急いでくれ」

「いま行きます。花谷団長」

 磐瀬一尉に軽く目配せし、佐々は一歩を踏み出した。佐々と交叉した磐瀬一尉の眼、続いて佐々を見送る眼が、苦々しげに笑っていた。




 一等陸佐 花谷 靖人。防衛大学校首席卒業、陸上自衛隊幹部学校を優等で修了という「学歴」は、平時と戦時の別なく彼の武官としての経歴を輝かしいものとするのに十分な要素であった。陸海空自衛隊創設以来、あるいは前身たる帝国陸海軍の建軍以来、幹部当人の昇級が前線における実績ではなく、各種幹部学校ひいては防衛大学校卒業時の卒業年次と卒業時の成績によって左右されるものである以上、防大卒の「正統派幹部」たる花谷一佐が、一般幹部候補生出身、通称「U幹」たる佐々に対し気後れを覚える要素など皆無である筈が、今となっては第三者が自衛隊高級幹部個人の能力を値踏みする要素として、当人のスロリア紛争時の役職を引き合いに出すようになった以上、自衛官の「学歴」は少なからぬ退色を強いられるようになってしまっているのかもしれない。その点「イル・アムの英雄」佐々 英彰に対し、当時第七師団残置司令部首席幕僚として留守部隊の統制に当たっていた花谷一佐の「戦歴」が見劣りしてしまうのは避け難いものであるように思われた。


 ……ただし、政治的立ち位置で共和党に近い、保守的な国家観を有する人々にとって、花谷一佐は稀代の英雄と見做されている。

 やや後退した生え際こそ目につくものの、均整の取れた長身も相まって花谷一佐が気鋭の少壮幹部と呼ばれるに相応しい男臭さと端正さを兼ね備えた容貌の持主であることは、彼と思想を異にする人々の間でも共通して抱く印象であった。インターネットTV放送局「チャンネル大和」内の自衛隊広報番組にゲスト出演した際、「陸自の幹部盛装よりも帝国陸軍の将校軍服が似合う男」と紹介された時、彼はそれを否定もせずに微笑を浮かべ、「護国の御柱となったとき、偉大なる英霊たちからもそう声をかけてもらえるよう精進する所存です」と応じ、それが一部視聴者の彼に対する信仰にも似た人気を惹起することに繋がった。気の早いことに、ネット上で「花谷靖人を総理大臣にする会」を立ち上げた陸自OBもいる。そして現在の日本国外を取り巻く情勢、さらには花谷一佐個人の有する自衛隊内外に跨る人脈を考慮すれば、それは決して夢物語とは言い切れないものとなっていた。佐々自身、出立に先立って防衛省近傍で開かれた前線監視団壮行会の席上でそのことを痛感させられている。



 巨大飛行船は船内放送で降下を乗客に周知させた後、時間にして十分間機首を下方に傾けて降下を続け、それから姿勢を水平に復してさらに十分間降下した後に着陸した。葉巻型の船体から張り出した前中後三対、計六基のアウトリガーの衝撃吸収機能はお世辞にも優秀とは言えず、着地の瞬間に生じた烈しい揺れに、前線監視団の中には足許から姿勢を崩しその場に倒れ込んだ者も出たほどである。椅子に座って身を固定するなり、何かに捕まるなり周知させるべきではなかったかと、佐々自身手近な椅子に捕まりつつ脳裏で運航管理者を詰ったものであった。


 機関との接続を切られた推進用回転翼が空転しつつ、徐々にその勢いを減じていくのが展望室からは良く見える。翻って眼下の地上、並航しつつ着陸を果たした同型船の下部ランプドアが開き、次の瞬間には銀灰色の腹から無数のトラックや装甲車両が地上へと吐き出されて行くのが見える。車列の向かう先には車両や天幕、コンテナと通信塔、そして仮設の構築物等の織りなす規則正しい段列が、地平線上を文字通りに埋め尽くしていた……ノルラント軍南部方面軍前線基地ナガフル。そこから南東に約二百キロを隔てた先に、ノルラントの軍隊が「奪還」を志すシレジナ要塞が所在している。


「ハナヤ大佐、アリイドラ軍監長閣下以下全幕僚が大佐をお待ちです。ご準備を」

「そうか……半年振りだな。胸の高鳴りが止まらないよ」

 笑い交じりに飛行船の幹部に応じ、花谷一佐は展望室を顧みた。引き連れた部下に流す眼差し。目に宿った無関心気味な優越感が最後、佐々を前にして隔意あり気に留まった。

「諸君、此処からが前線だ。ノルラントの勇士たちに粗相のないようにな」

 告げる命令の語尾が、荒いものに佐々には聞こえた。任務への精励を促した積りなのだろうが、虚勢でもあると佐々には感じられた。一方で花谷一佐は佐々らに再び背を向け、若い海自幹部を交えノルラントの武官と話し込んでいる。そんなわけがある筈もないのに、彼らは十数年来の友人のように打ち解けているように佐々には見えた。

何時の間にか佐々の背後に身を寄せていた磐瀬一尉が、囁く様に言った。

「壮行会の一件、未だに根に持っているようですね」

「…………」

 佐々は微笑でそれに応じた。諦観と皮肉が、何時しか男臭い笑みの中に同居してしまっている。


 

 

二日前――日本国内基準表示時刻1月3日 午後6時34分 東京都新宿区 市ヶ谷ブライトヒルズ


 自衛官としての佐々 英彰の知る限り、如何なる集会の場においても外界からは超然とした実質剛健さに支配されてきた筈の大広間は、足を踏み入れたその日一月三日の夕方過ぎには、その源さえ判らぬ浮付いた空気が、じんわりと拡散を始めているように制服越しの肌から感じられた。

 もっとも、思い返せば浮付いた空気の尖兵は、あの「スロリア紛争」の直後から日本国内に迫り始めていた。「転移」から十年を経た後に勃発した対外戦争の経緯と勝利が、高揚感を伴った衝撃となって、戦争への免疫に乏しい人々、旧い言葉で言い換えるところの「銃後」の人々の、精神のより情緒的な深奥を震わせることとなったのであった。あるいは、「目覚めさせる」こととなった……と言うべきであろうか?


 ただ、そのような銃後の変化を佐々が認識するのに、任務を解かれた彼が生き残った部下たちと共に祖国に帰還するまでに多少の時差が必要ではあった。認識した後には、むしろ困惑が彼の前に訪れた。戦前まで日本に一定の勢力を保っていた筈の、外交の一手段としての戦争を否定する言説、否定はせぬまでも慎重な姿勢を崩さぬ言説の多くが今となっては霧散し、逆に市井ですら戦争を語ることに対する抵抗が無くなってしまっている。戦争こそが国に繁栄を保証し、国民を富ませるための唯一の手段と化したかのような、それは日本国民の意識の一変ぶりであった。


「――佐々さんは……」

 正面玄関を抜けてロビーを歩きつつ、一等海尉 磐瀬 詩郎佐(しろうのすけ)は言った。折り目正しい海上自衛隊制服を着こなしてはいても、何処となくぎこちなく見える……というより、その様を傍らで見ていて、佐々は制服が似合っていると強いて思うようにするのを、結局は内心の苦笑と共に諦めた……この若者には、スカイブルー基調のデジタル迷彩一色の作業服が一番似合う。

「……お帰りは電車だそうですが、時間は大丈夫ですか?」

「終電までには帰るよ。十分に余裕を持ってね」

 佐々は微笑んだ。それを向けられた磐瀬が、含みを持たせた笑みに気付くのに僅かな間すら必要とはしなかった。

「では、自分もお供することにします」

「…………」

 敢えて返事をせず、佐々はロビーの中で行き足を速めた。その間も視線は周囲から注がれていた。華美さが抑制されているが故に、むしろ防衛関係者の集まる場に相応しい、健全さの前面に押し出された感のあった市ヶ谷ブライトヒルズのロビーは、今では脚光を浴びつつある彼らの周りに集い、過分なまでの余禄を掠めんとする何者かの溜まり場と化しているように感じられた。ロビーから彼らが一歩も動かないのは、彼らがはじめからこの場に来る資格を有していないからに他ならないから、佐々には一層そのように察せられるのだった。

「嫌な空気だ……奥に行けば、もっと酷いことになるのでしょうが……」と、随行する磐瀬一尉も言った。


『――ばんざぁぁぁぁい! ばんざぁぁぁぁぁい!!』

 柄にも無い、男たちの一斉唱和を二人は背中で聞く。出席者と誼を通じたロビーの連中が、当人がいざ会場に向かう段になって歓声を張り上げて送り出しているのだ。心から彼の門出を祝っているというより、それは時勢の変化に対する喜びの声であった。

「…………」

 嘆息――思わず佐々が漏らしたそれに気付き、磐瀬は思わず頬を引き締める。



 ノルラント同盟政府の招請による、シレジナ方面派遣前線監視団の壮行会。この場合、前線監視団は観戦武官という呼称の言い換えであった。ノルラントという、決して密な接触のあるわけではない勢力からの打診に、当初は乗り気ではなかった政府サイドが派遣団編成へと傾いたのは、年末に決定的となった破局の収拾。その一環として当事者たるノドコールのローリダ人勢力とその後ろ盾と目された「ロメオ」本国に対する掣肘を加える必要性を痛感したからに他ならない。つまりは――


「――圧力というわけだ。ロメオに矛を収めさせるための」

 と、壮行会の舞台となる大宴会場に通じる入口の近くで、取り巻きに向かい得意気に話す声を佐々と磐瀬は聞いた。野党第一党たる共和党の若手議員で、佐々自身、テレビの国会中継や安全保障関係の勉強会で彼の顔を見知っている。かと言ってさほど親密な間柄ではなく……言い換えれば彼とはその程度の関係でしかない。むしろこの場に招待されていない取り巻きを安易に引き入れている彼に対し、舌打ちを以てあからさまに隔意を示して見せたのは磐瀬の方であった。そのような二人の視線を知ってか否か、共和党の議員は続けた。


「ノルラントとの共闘を匂わせ、ロメオをしてスロリアへの傾注を鈍らせんとする自民党政権の策は、その方向性においては正しい。だがいま一歩踏み込みが足りない。私としては、スロリア方面より空母……いや空護と言わんと左翼が五月蠅いからね……その空護を一隻ぐらい引き抜いてシレジナ近海を泳がせるぐらいはやってもいいと思う」

『おおっ――――……!』

 その後には同意を示す感嘆がお決まりのように続いて湧く。その反応――というより追従――が佐々には内心では不快で、彼の心情を代弁するかのように吐露して見せたのはやはり磐瀬であった。

「いい気なものだ。半年間……半年間も艦艇(フネ)をスロリアに張り付けている海自(ウチ)の戦力はすでにカツカツだというのに」

「艦艇や兵士が簡単に湧いて出るものと思っているのだろうさ。活字や漫画のようにな」

「成程、軍艦や兵士が無限に湧いて出る魔法の壺……そいつを我が国が持っていると……」

「……信じているようだな。当の海自幹部の中でも」


 自然、会場に向かう足が速まっていた。議員たちとその取り巻きたちの群を過る寸前、耳に入った慣れぬ訛りが佐々の眦を曇らせた。

「……ワガ母国は、ニホンのそのような決断を支持スルでショウ。そこにワガ母国 大ノルラントの軍艦もクワワレバローリダに対する圧力ハ盤石デス」

「あくまで偶然に近くを航海していたという形で、ね」

 議員の返しに、堰を切ったような哄笑がその後に続いた。磐瀬が小声で言った。

「あの異国人、『チャンネル大和』によく出てるな……留学生だって話だけど」

「ノルラント人か?」と佐々。

「ええ、他にも何人かいましたよ……防大生が司会やってる企画にもよく顔出してた女のノルラント人……ええっと、名前はシルビアだったかな。美人だったからよく覚えていますよ」

「彼らも招待状を貰っているのかな」

「公安が仕事をしていることを祈るしかありませんね」

 佐々と磐瀬、ふたりは互いに横目を見合わせた。ともすれば異国の間諜にもなり得る人間を、無防備にも自国の式典の場に引き入れている者に対する、共通した感情の発露がそれであった。



 空虚な喧騒の只中に、ふたりは既にいる。


 壮行会の元となった観戦武官団を招請したのはノルラントであったが、当の壮行会がその始まりから終わりまで共和党の支配下にあるのを佐々たちが認識――否、思い知らされるのに、五分も要しなかった。


『――この壮挙に臨む前線監視団は近い将来正式に組織化され、この新世界に我が国日本の威光を知らしめるに十分な効力を有することになりましょう。すなわち前線監視団の赴く先こそが新世界においては真に安全な地であり、赴く側こそが戦に当たり正義を有する側ということであります。前線監視団は、この点を自明の理とせねばならないという、その実極めて困難なる任務を課せられているのであります……!』


 壇上に並んで座する観戦武官団を背景に、共和党幹事長 三杉 八尋が誇らしげに語る。壮行会の主導者でありながら初めから欠席を決め込んでいた党首 士道 武明の名代でもある以上、彼が壮行会における半ば主賓的な位置に収まってしまうのは自然な流れで、見方によっては彼が将来の共和党党首たるに相応しい大役を一任されたと取ることもできるだろう。

 この三杉と前後して登壇した来賓は優に七人を超えた。この種の集会にしては過分な数であった。もし来賓たちの挨拶が単なる餞の言葉に終始していれば、佐々自身、壮行会の雲行きに安堵を抱いたかもしれないが、結局のところ彼の希望は叶えられることはなかった。単なる壮行会というよりも、共和党とそのシンパの決起集会的な要素を感じ取った者は、壇上に在って励ましを受ける人々に限っても佐々と磐瀬だけではなかっただろう。


『――私はこの度の観戦武官団派遣、ひいては再度のスロリア出兵に運命を感じているのであります』

 声の主からは、六十に差し掛かろうかという実年齢にそぐわない言葉の軽さを、佐々自身の聴覚からは否定することができなかった。共和党にごく近い民間シンクタンクの長にして、「チャンネル大和」の執行役員にも名を連ねているという男が一人、名は井山 正晴。士道の知己を得てシンクタンクを立ち上げる前は、大手新聞社にあって防衛省の番記者だったという彼自身、今回の主賓たる花谷一佐個人ともその頃からの交流がある。佐々自身、現在に至るまで彼と幾度か話を交えたことがあるが、どうも好感を持てない人物ではあった。主張が、情緒に傾き過ぎるように感じられたのである。


『――歴史を顧みて頂きたい。「前世界」において、我が国は武威と独善的な思想により諸民族より収奪せんと図った欧米白人勢力に、有色人種勢力よりただ一国敢然と立ち向かったという、名誉ある歴史を有しています。そして今、我が国は流れ着いたこの新世界において、やはり独善的な信仰を旗印に世界を侵略せんとする異種族と対峙している。思うにこれは運命なのであります! 我が国日本のみ、ひいては我ら日本民族のみが、世界を併呑せんとする邪なる勢力に立ち向かい、その意図を挫く運命を有し、そして世界を正しい方向に導く運命を有すると言っても過言ではない!』

「…………」

 佐々は、井山の背中から思わず目を逸らすようにした。感極まった男の言葉は、もはや彼個人の一方的な世界観と希望に終始し、幹部たちを送り出す餞の詞ではなくなってしまっていた。その井山の言葉に対し、会場に在って壇上に熱気を帯びた眼差しを集中する参加者たち――彼らの中には共和党の政治家、その支援者もいれば共和党系の運動家、自衛隊の現役幹部もいる。さらには佐々自身顔を見知っている元自衛官もやはり、二三人では効かぬほどの数、壇上の演説に聞き入っているのが判る。彼らの中には退役なり任期満了なりでごく円満に自衛隊から去った者もいれば、そうでない者もいる。隣に座した磐瀬一尉あたり、後者についてはその点佐々より詳しいかもしれない。


『――観戦武官団の長として、日本国の名誉を背負い壮途に就く重責を担うこと、小官にとり武人としてこれに過ぎたる栄誉はありません』

 一等陸佐 花谷 靖人という人は、少壮気鋭の自衛隊高級幹部である以上に、その精悍な外見と弁舌の巧みさを以て共和党とそのシンパを惹き付けてやまないのだろうとは、思想的に共和党の対極に位置する人々にとっては共通した感慨であり、佐々 英彰もまた、壇上の花谷一佐の背後に在って抱くことになった印象であった。

『――現在、我々陸海空自衛隊は、遠きスロリアの地において暴戻なる武装勢力と対峙しており、今より時を経ずして再度の対決に臨むこととなるでしょう。彼らの祖国に対する献身に報い、彼らに比肩しうる成果を上げるべく、我々観戦武官団は壮途に赴くものです。比肩する成果とは何か? それはすなわち、新世界に対する見聞を広め、共に世界情勢を語るに足る知己を国外に求め、以後の安全保障政策に資する財産を獲得すること。これ以上の成果は無く、而して決して果たさざることあたうべからざる至上の使命と小官は信じるものです』

 会場の各所から散発的に、だがはっきりと聞こえる程に拍手が湧くのが壇上からもよく判る。ただし不穏な発言であるようにも佐々には聞こえた。知己を国外に求め……という一言が、聞き流すには余りに浅からぬ意図を有しているように彼の心中に引っ掛かってしまっている。

『――現在、ご列席の皆様もご存じでいらっしゃいますように、日本はこの新世界にひとつの秩序を作り上げるべく邁進を続けています。現在の日本政府がそれを意識せずとも、国民の意思が邁進に対する流れを作りつつあります。これもまた、皆様もよくご存じの筈です。日本が作り上げるべきひとつの秩序、それを思う時、小官としてはこの世界に導かれた我が国そして我ら日本民族の使命を強く意識せざるを得ないのです』

「…………」


 「ひとつの秩序」……あるいは「新秩序」ともいう。近来になって保守系の論壇で唱えられるようになった言葉であった。この世界で日本が指導的位置に立ち、世界の政治経済を主導していこうという新たな外交政策の披歴である。スロリア紛争の結果により期せずして明確になった他国、異種族に対する日本の政治的、軍事的な優位を背景に勢いを持ち始めた「思想」とも言えた。

 その「思想」を、制服を着た自衛官、それも高級幹部が語る――危険であり、不遜な行為であるように佐々には思え、それは事実であった。かと言ってそれが判らぬ花谷一佐であろう筈がなく、佐々も花谷一佐の挨拶が続くごく短い間の内に彼の意図する処を悟ってしまっている。つまりは今次の前線視察で不遜な言動を払拭するに足る成果を上げる見通しを、花谷一佐が持っている何よりの証であるように佐々には感じられたのである。あるいは――


「……佐々二佐、会場の向かって右端」

「…………!?」

 不意に磐瀬に囁かれ、導かれるようにして巡らせた佐々の目が、驚愕に揺らいだ。

取り巻きを従えて会場の右端に居座る和服姿の老人がひとり、だが年齢に似合わない恰幅の良さは太い胴と盛り上がり気味の肩の輪郭からもはっきりと判る。薄いサングラスを掛けている上に頭には一本の頭髪も無かったが、むしろそれ故に他者に対し、老人の外見を実年齢以上に若々しく見せることに成功していた……言い換えれば、佐々が武官としての老人を最後に見た時から、彼は一年として年を取っていないように見えた。

「海原海将か……!」

「……後ろ盾もいるから、あんな大風呂敷を広げられるというわけだ」

 佐々の呟きと磐瀬の言葉には、共に打ち消しがたい苦々しさがある。


 花谷一佐の言葉を最後に、壇上で行われるべき儀式の類は閉会の辞のみとなった。ただし会場における歓談に入ってもなお、参加者の過半を占める積極出兵派の熱気は醒めてはいない。今となっては制服を脱いだ元自衛隊幹部の間に、その傾向は顕著であった。彼らが隊を辞したのが「転移」前、あるいは遡ること半世紀以上前に制服を脱いだ者もいる。その間国外への部隊派遣があり、小規模な紛争への介入こそあっても、彼らの多くが「スロリア紛争」のような大規模な軍事衝突、それも国運の掛った対決を迎える遥か以前に自衛官としての人生を終えている……否、自衛隊という国防組織の辿ったまる一世紀に及ぶ平穏ならざる足跡を顧みれば、軍事組織としての本分を全うしつつある後進たちの姿が、老境に達した彼ら先達には眩しく映えるのかもしれない。「スロリア紛争」自体が日本側の大勝利に終わり、自衛隊に注がれる名声もいや増そうとしている現在となっては特に――


「――焚き付ける人間にも事欠きませんしね」と、磐瀬一尉が言った。退役自衛官を中心として参加者が複数群れ、会場の中に幾多もの島を作っているのに佐々は今更ながら気付く。単なる交際や顔合わせと言い切るには余りに腑に落ちない、むしろ言い切るのに不安を覚える程の熱気に、佐々は内心で焦燥を覚えつつある。

「口では自衛隊(われわれ)に対する賞賛やら同情やらを並べ立てたところで、彼らにとって我々は道具でしかないのですよ」

「道具……だと?」

「『ぼくのかんがえたにっぽん』を実現するための道具……いや、駒ですね。自衛隊(われわれ)は」

 『ぼくのかんがえたにっぽん』――それが、過激な愛国主義や排外主義者の理想とする強国としての日本の在り方を、革新側より皮肉った表現であることを佐々は知っていたし、その概念の根底を、自衛隊の戦力強化が占めていることをも彼は知っていた。ただしそれは安全保障のための抑止力たるに留まらない、場合によっては外交の手段として積極的に行使され得る軍事力としてだ。


「あいつらは口では祖国のためだの先祖の名誉回復だのを謳いながら、結局は自分から主体的に行動することをしない。むしろ行動する者の背後に在ってオーガナイザーたるを決め込んでいる。その方が彼らの愛国者としての矜持も傷付かずに済むわけですし、責任も負わずに済むからです。彼ら愛国者にとって、実際に前線で血を流す我々なぞ『ぼくのかんがえたにっぽん』の生きた象徴であり、ノンポリに対する広告塔であり、国内に在って主義の異なる者を掣肘するに最も扱い易い道具というわけです。しかも我々が戦闘で傷付くか死ねば自分たちの考えがより補強され、支持されると安易に考えている」

「……成程、舐められたものだな」


 あまりに楽天的で、無責任な考え方をすると佐々は思う。その思考の主体が世間の機微に疎い若者ではなく、分別を弁えている筈の年配者であるというのだから尚更始末が悪い。むしろ戦争を破滅と同義と捉え、それを遂行する主体たる軍隊を、扱い方を誤れば国家の統制し得ない危険な存在となり得ると認識している分だけ、彼らの言う「サヨク」の方が正常な状況認識を有しているのかもしれない。


 その年配者たちの放言は、なおも続いている。

「――しかしいい時代になったものですな。次代を担う若者を鍛え、国家に奉仕する喜びを教え込むには戦争以上の良薬は無い」

「――全くです。若者を甘やかすとろくなことが無い。その点アメリカによる内政干渉と戦後体制は最悪でありました。平和ボケにより徒に権利のみを主張し、祖先や伝統を蔑ろにすることのみを吹き込まれた世代により歪められた日本は、在るべき処へと修正(ただ)されねばなりません。『転移』はまさに『天意』と申せましょう」

「――その点はまさに『天意』でしょうなあ。いつぞやの戦争と違い、もはや負ける心配をせずとも済むわけですし」


 その後に遠慮無い哄笑が続いた。だがそれも不意に止まる。打算塗れの自分たちの会話に今更ながら気後れを覚えたのではなく、彼らにとっての「最良の駒」が、シャンパングラスを片手に歩み寄って来たからであった。

「お話が弾んでいるようで何よりです」と、花谷一佐。

「――君はいい時代に巡り合った。これもまた『天意』の賜物と言うべきだろうな」

 花谷一佐に対する気後れが見られず、当の一佐自身それを気にも留めていない様子から、恐らくは彼の元上官に当たる人物であるのかもしれない。

「ほうテンイ?……『転移』を指すのですかな? それとも『天意』?」

「どちらにお取りになっても宜しいかと思いますよ?」

 追従にも似たもう一人の言葉に、和やかな笑いが花谷一佐の周囲に生まれた。直後、花谷一佐の伴う若者に一同の関心が集中する。

「こちらの海自の方は?」

「今度観戦武官団に同行する、士道二等海尉です」

 花谷一佐の紹介に、青年幹部は背を糺した。

「二等海尉 士道 資明。この度本省内局広報本部より志願して参りました!」

「ほう……士道?……ひょっとして士道党首の?」

「そう、士道党首のご子息にして、次代の自衛隊を担う逸材でもあります」

 花谷自身に紹介され、士道二尉は一層胸を張ったように見えた。それ位、態度が堂々としている。

「ついでに言えば、次代の国政をも担う、かな?」

 投げ掛けられたおどけた言葉に、士道はやや俯いた。一方で浮かんだ微笑が、満更でもないという内心を曝け出しているようにも見える。

「今の私には隊務に専念するのが最優先であり、喜びでもあります。それ以外のことを考えるのは、もう少し時が経ってからのことになるでしょうね」

「そのもう少し先の未来のためにも、士道君には見聞を広めてもらわないとな」

 男たちは笑った。希望を語ってはいるが、何処か虚しい会話の群に新たな数名が加わり、途端に会話の中心が一変する。

「海原 栄三……!」

 苦々しく呟いたのは、磐瀬一尉であった。随員を従えた海原という男が、会話の群を割るように花谷の前に現れた時、花谷をはじめ一同が背を糺すのと同時に、皆の表情から一切の柔和さが消えるのを佐々は見た。

「海原閣下……!」

 花谷一佐は声を弾ませ、海原は花谷に手を差出した。老境に達してもなお太い腕、花谷の手を握る節くれ立った掌が、かつては海の男であった男の過去を、佐々と磐瀬の二人に、ほぼ同時に思い起こさせた。

「この任務は、日本を新秩序の筆頭に据えるための重要な第一歩だ。大いにやりたまえ」

「はっ! この花谷 靖人、閣下らの期待に添うべく奮励させて頂きます」

 

「磐瀬、行こう」

 彼らから距離を取ろうと、佐々は磐瀬に告げた。磐瀬にしても異論はなかった。何より、そろそろ辞去の時間が迫っていたこともある。踵を返した二人が、会場出入口に向かい一歩を踏み出そうとした時――

「佐々二佐!」

 花谷自身の呼ぶ声に、二人の足が止まった。顧みた佐々の視線の先で、花谷が涼しい顔もそのままに手招きしている。嘆息し、歩み寄る佐々を、群れの面々は険しい眼差しを隠さずに迎えるのだった。

「海原閣下、紹介いたします。今次観戦武官団……いや、前線視察団において、小官を補佐することになる佐々二佐です」

「佐々です」

 それだけを言い、佐々は海原に敬礼した。佐々の敬礼を、老人はサングラス越しでもそうと判る険しい眼差しで遇した。

「佐々二佐は……」

「……いい、彼のことは知っている」

さらに口を開きかけた花谷を、海原は手を挙げて制する。佐々は言った。強いて隠しているつもりでも、慇懃無礼な口調は隠せずにはいられなかった。

「お久しぶりです海原閣下。十年前以来……といったところでしょうか」

「あの頃、君と我々の間には色々とあったが、今は共に同じ目的のために邁進する同志というわけだ。宜しく頼むよ」

「…………」何も言わず、今度はやや苛立たしげに、佐々は花谷一佐に目を向けた。

「閣下と花谷一佐は、どういう御関係で?」

「海原閣下は私の視野を広げてくださった方だ。統合幕僚学校にいた頃、ちょっとした会合で知己を得てね。以来私にとって閣下は兵学と人生の師も同然だ」

「花谷さん、あなたは彼がどういう人間か判ってそんなことを言っているのですか?」

「英雄だ。稀代の軍略家と言っても過言ではない」

「本気でそう思っておられるのなら、辞書の書き換えが必要ですな」

「なに……!?」

 目を剥いた花谷を、佐々は険しい眼差しをして見返した。その素早さと眼光の烈しさにおいて、佐々のそれは花谷のそれを瞬間的に圧倒した。そこに海原が言う。あたかも、師が弟子を庇うかのようなタイミングだった。

「『イル‐アムの英雄』の二つ名は伊達ではないようだな。いや、最近では『ベース‐ソロモンの虐殺者』とも呼ばれているそうだが佐々二佐」

「殺した同胞の数では、あなたも対等でしょうに」

 ふたりは、互いの眼を睨んだ。

「……イル‐アムで失った部下の命もそうですが、小官は自分の取り零した生命の重みを死ぬまで忘れずに背負っていく積りです。海原閣下、あなたにはその覚悟がおありか? おありではないから、無責任な放言を続けておられるのではないですか?」

「貴様……!」

「やめないか佐々二佐!」

 花谷一佐が声を荒げた。周りを見回せば、花谷と海原の取り巻きですら、血走った眼を佐々と磐瀬に向かい吊り上げていた。

「我々の任務は常に平穏の下で行われるものではないことを思い返せ。この先赴く前線では不測の事態が待ち構えているかもしれない。此処で徒に不和の種を捲いては、無事祖国に帰りついたところで蟠りがさらに大きくなるだけだろう」

「花谷さん、あなたもご存じの筈だ。『転移』前、彼と彼の同志が日本に与えようとした計り知れない国益の棄損のことぐらい――」

「国益の棄損だと? そんなもの私は関知していない。反日主義者の陰謀だ!」

「そうだ! 反日主義者の陰謀だ!」

「閣下と花谷一佐に謝罪しろ!」

 周囲から難詰の声が上がる。口調こそは荒々しいが、群れているが故に生じた威勢を駆っていることは隠せない……そして、だからこそ佐々は怯まなかった。

「花谷さん、あなたが今所属している自衛隊は、日本の過去を取り戻すためではなく、未来を創るための組織であることを忘れてもらっては困る。栄光の時代とやらを現在に引き戻したいというのであれば、今すぐ制服を脱いでからなさるべきでしょう」

「貴様!」

 花谷は歯を剥きだした。紳士然とした容貌が崩れ、粗野な地肌が露出しているようにも見て取れる。磐瀬二尉が佐々の袖を引くのと同時、それまで不快な緊迫の中で所在無げに立ち尽くすだけであった士道二尉の傍らに、新たな人影が立った。女性、それも若い、異国人の女性であった。年齢は士道二尉と殆ど同じか?

「花谷一佐、向こうで我が国の代表がお待ちです。ご挨拶を差上げたく思いますのでご足労頂けませんでしょうか?」

「佐々二佐、時間です。行きましょう」

「わかった」

「あ、ああ」

 佐々と花谷、ふたりの高級幹部は同時に応じた。不承々々……しかし潮が引くように薄れ始める緊張、それに比例して崩れ始める人の環の中で、佐々は異国人の女性が士道二尉に目配せするのを見逃さない。

恋人?――喧騒の中で見つめ合う二人の眼差しは、佐々にその単語を連想させるに足る柔和さが入り混じっていた。

会場の群がりから離れ、出入口に向かい歩く途上、磐瀬一尉が言った。

「あれがノルラント人ですよ。『チャンネル大和』でレギュラーを持っている」

「さっきの女か?」

「はい。驚きました。誰が入場の便宜を図ったのやら」

「…………」

 出処の判らぬきな臭さが、彼の鼻腔を擽り始めていた。それは明らかに不快な感覚だった。




現在――シレジナ方面基準表示時刻1月5日 午前7時34分 シレジナ地方ナガフル上空 ノルラント軍前線基地「ドナン1023」


 およそ前線には不似合いな高級乗用車五台に、視察団は分乗を促された。その周囲には総理大臣でも護送するかのごとき装甲地上車の群が付いた。

 異国の、それも総数にして一個小隊にも満たない数の前線視察団を送り届けるには過分な陣容と警備の数であった。「我々を対等の相手として、可能な限り誠意を以て迎えようとしているのだ」と、車内にあって花谷一佐は声を弾ませたものだが、佐々からすれば折角懐中に飛び込んできた宝を逃がさまいと努めているかのように見えた。


「やはりスロリア紛争の勝利のお陰でしょうか? 我々に配慮しているようにも見えます」

 と、花谷の隣に在って彼の副官を務める士道 資明二等海尉が言う。上官に対する追従にしては、その声には余りに若者らしく、純粋な感情の吐露であるように聞こえた。

「その通りだ士道二尉。いまやわが国に注目している国は多い。国の力を示すに経済や文化の力も重要だが、それらと同様に……否、場合によってはそれ以上に武威こそが物を言うのだ。特に寄る辺の無いこの世界においてはな」

「はい……!」

 二人の会話が続く間も、佐々の眼は車窓から広がる前線へと注がれていた。軍用道路の両端から見渡す限りに広がる荒れ地。その所々に在る段列と、点在する装甲、あるいは非装甲の車両と装備……それらのいずれも、お世辞にも日本側と比肩し得る水準には無いように佐々には思われた。日本がローリダとぶつかるより遥か前より彼らと抗争状態にあると聞くから、だからこそノルラントの人々は、日本に同盟者としての価値を見出したのだろうとも思われた。

 士道二尉が言った。

「この現実、祖国に在って惰眠を貪っている平和主義者どもにも見せてやりたいものです」

「そうだな。報告をする機会には事欠かないだろう」

 前線に目を細める佐々の視界を、速度を上げて同道する装輪装甲車が塞ぐ。暗灰色をした牛のような車体に小口径砲塔を載せただけの外見。車内の様子は、格子と装甲板に塞がれて窺うことはできなかった。装甲車が離れ、同時に周囲を固めていた車両の群が側道へとその向かう先を転じる。

 恐らくは仮設であろうか? 六角柱状の建物の組み合った建物のほぼ正面で車は止まった。待ち構えていたように車列を囲んだ暗灰色の軍服姿。彼らの胸に抱かれていた物を目にして、佐々は一瞬我が目を疑うのだった。

「写真機?」

「此処がノルラントの前線司令部だ。粗相(そそう)のないようにな」

 感情の籠らない口調で花谷一佐が言い放ち、同時に外から地上車のドアが開けられる。颯爽と地上に一歩を踏み締めた花谷一佐に、申し合わせた様なシャッター音とフラッシュの火線が注がれる。まるで選挙に臨む政治家のように手を振り、花谷一佐はノルラント人に笑い掛けた。まるでこの場所こそが彼の祖国であって、何年かぶりに漸くこの場に帰り着いたかのような態度であった。

その一方で佐々二佐は訝しむ――こいつらは、何だ?


「ハナヤ大佐!」

 一方向ではなく、多方向からノルラント人の呼ぶ声に、花谷一佐は会釈での応対を続けていた。軍服に写真機という出で立ちから、彼らが正規の部隊ではない、広報部門の人間であることは説明を要さずとも察することができた――前線の取材ならば兎も角、異国の訪問者を迎えるには違和感を覚えざるを得ない人間の配置だと、佐々には思われた。

「嫌な感じですね」と、磐瀬一尉も囁く。

 不意に歓迎の華やかな、だが空虚な喧騒が退き、新たな人影を正面に見出した花谷一佐が背を糺した。一瞬遅れ、佐々たちも彼に倣うのだった。

「ハナヤ大佐、丁度一年振りかな?」

「軍監長もお変わり無く何よりです」

 初老の達したばかりと思われる金髪の中背。鬢に相当する部分からはとうに頭髪が喪われている。高位に在ると窺える分厚い軍用コートの下、暗灰色の胸に軍監長の階級章が見えた。ノルラントの軍隊においては「前世界」の方面軍司令官に相当する階級だと、佐々は予め教えられている。

「歓迎するよ。君たちが来てくれたというだけでも心強い」

「恐縮です。イザク‐アリイドラ軍監長」

 相好を崩す花谷一佐の一方で、佐々の眼はイザクという名の司令官の傍らに注がれている。恐らくは司令部の幕僚であろうか、暗灰色の制服は同じ、だが銀灰色の髪の毛をした若い女性幹部の顔には見覚えがあった。

「佐々二佐……!」

 声を強いて、磐瀬一尉がまた囁いた……と同時に、自ずと辿られた佐々の記憶の糸が、在るべき処に行き当たる――壮行会で見た異国人の女。と同時に、彼女が花谷一佐の傍らに微笑を向けているのを察する。士道二尉であった。彼もまた微笑を以て彼女の涼しい眼差しに応じている。そこに新たな人影が、硬い足音と共に司令部の奥より姿を現そうとしている――否、足音では無く、杖の克ち合う音であることを佐々が察するのと、異形とも思える姿が監視団一行の前に姿を現すのと同時であった。


「ナジース‐ジレ?」

「そうだ。我らが誇る逸材にして、英雄だ」

 イザク‐アリイドラが言った。背丈はイザク‐アリイドラよりも高かった。銀灰色の長髪と丸い黒眼鏡が、身を捩じらせる様にして杖を突いて歩く。歩く度に引き摺られる脚の片方がぎこちなく軋む。まるで眼前に神でも見出したかのように、顔面に喜色を浮かべた花谷一佐が差し出した手を、黒眼鏡のノルラント人は無言で、軽く手を上げて制した。黒手袋に覆われた手が、そのまま別の人物へとにじり寄りつつ差し出される――


「…………?」

 自身に向かい差し出された黒い手を、佐々 英彰は憮然として見つめた。

近づいて見れば、丸い黒眼鏡のノルラント人が、年齢的に自分と近い顔立ちであることに気付く。そのノルラント人は、佐々に向かい口元を笑みに引き攣らせていた。不器用だが、悪い笑顔では無かった。慎重に伸ばした手で、佐々は黒手袋に覆われた手を握り返す。

「ナジース‐ジレだ。会えて嬉しいよサッサ中佐……イル‐アムの英雄」

 ぎらつく黒眼鏡の奥で笑っているであろう眼が、佐々には見えない。

 花谷一佐が憮然として、二人の握手を窺っている。




当面不定期に連載します……ということで。

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