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第四章  「箱庭にて」

ローリダ共和国国内基準表示時刻1月4日 午前11時41分 ローリダ本土より南方二四〇海里洋上


「――海図室より報告、間もなく会合点」

 当直士官からの報告を、戦隊司令官 ローリダ共和国海軍少将 オルターズ‐イ‐イドラーは木製の司令席に在って聞いた……と、次には電探室からの報告が艦内通話回線を伝って来た。

『――方位0‐3‐1。本艦の南西より距離50リークに船影を認む。的針0‐4‐3。予定針路との交差まであと二十分』

「司令、宜しいですな?」

 共和国海軍駆逐艦「ハ・ダズル」艦長 イノセンティス中佐に問われ、イドラー司令はただ無言で頷いた。中佐は航海長に向き直り、現針路の維持と船影を視認し次第の報告を命じる。イドラーは艦長を信じ、艦長もまた幾下の幹部の経験と技量に信頼を置いていた。「ハ・ダズル」の針路は真南。このまま行けばあと十二分でこの世界の誰も領有していない海洋に、「ハ・ダズル」は到達することになる。


 ――遡ること一週間前、海軍本部参事官であったイドラー少将は急遽戦隊司令に任ぜられ、大小の艦艇六隻から成る艦隊の指揮を命ぜられた。旗艦たる「ハ・ダズル」を含む駆逐艦二隻、対潜掃討に特化した哨戒艦四隻という組み合わせの、大規模な戦時を想定しない小艦隊。個々に提携港の違う各艦は共和国本土の南方洋上で会合し、そして共和国本土の海を出るに当り最後の補給を終えた。民間船を徴用した仮設補給艦からの給油と物資の補給であった。本土及び植民地より差し向けた民間船による補給……というのがローリダ海軍における洋上補給の方式で、少なくとも「スロリア戦役」まではそれが全世界的には最良にして最先端の手法と考えられてきた。ただし戦後の今、艦隊に随伴可能な速力と航続力を有し、燃料から物資までを一括して供給可能な総合補給艦の建造が、他に優先して進行しているという事実こそが、海軍が「スロリア戦役」で得た貴重な教訓のひとつであり、その対価として被った被害は決して少なくは無かった。「スロリア紛争」において、共和国海軍はこの総合補給艦を有する海軍と戦い、完膚なきまでに敗れたのである。


 スロリア近傍の海域に進出しての定期艦隊演習というのが、共和国の内外に表明された小艦隊の編成と出撃の理由であり、言い換えれば名目であった。現地人とローリダ人入植者間の対立に乗じノドコール制圧を窺うニホンに対する、武力を以ての牽制という共和国政府の真意は、この場合誰の目にも明らかであったが、実のところこの真意すら、やはり名目であると言えるのかもしれない。

 一週間を演習海域までの移動と軽度の艦隊運動訓練に費やした後、旗艦「ハ・ダズル」は一隻のみ艦列より離れ、さらに南の海域を目指した。予定されていた行動であった。混乱は生じなかった。艦隊各艦の艦長に、出港命令と同時に手交された命令書、それも本土近海での補給作業が終わった後の開封を厳命された命令書に記されてあった文面には、まさにこの行動が記されてあったためだ。事情を知らぬ各艦の将兵、彼らの動揺と疑念を余所に、ただ艦長位にある者のみが平然として、離脱信号を発し艦列から離れていく旗艦を見送った。ただイドラー少将と参謀長ランケル大佐のみが、作戦内容の一部始終を出港前より知らされていた。


「……正直、今まで冷や汗ものでした」

 と、そのランケル大佐が言った。額に滲む細かな汗粒が、彼らがこれより臨む「真の任務」に対する緊張を物語っていた。

「君もかね? 私もだよ」

 イドラー少将はそう言って微かに笑った。参謀長と違い、その物腰は年齢の功とでも言うべきか、ずっと落ち着き払っている。これから彼らが為すべき任務ではなく、これまで彼らが為してきた任務のことを、二人は話し合っていた。


「船影見ゆ。方位0-2-1。輸送船と思われる」

 艦橋からの報告に、イノセンティス中佐は艦内通信用の送受話器を取り上げた。

「こちら艦長。命ずる。識別符号、打て」

『――通信室。識別符号、打ちます』

 少しの沈黙――やがて艦長が回線を開いた通信室は、無感動な口調で報告した。

『――通信室より艦長へ、識別符号一致しました。「アダバート」です』

 すかさず、イノセンティス中佐は艦内放送用の回線を開いた。

「艦長より達する。本艦は間もなく徴用船と会合、並走し物資の移送訓練を行う。実戦と考え、一切手を抜かぬよう気を引き締めて掛かれ。総員作業用意!」

 実戦――言い終えて、再び出掛かった単語を、中佐は息を呑みこらえる。「ハ・ダズル」が出港以来本土より携えて来た荷物の中身を知る者は、この艦上には中佐と、彼より上席にあるランケル参謀長、イドラー司令以外に存在しない。実戦と同じ気構えで当たれと中佐は乗員に命じたが、当の兵士たちは定時の訓練に対するような気楽さで今次の物資移送訓練に当たるであろう。むしろ兵には荷物の中身を知らせない方が、却って全ては上手く行くかもしれない。


 共和国海軍駆逐艦「ハ・ダズル」は、その艦後方に所在する全ての兵装と構造物を撤去し、代わりに平坦な回転翼機専用の飛行甲板と簡易な格納設備を備えている。その当初から意図した改装ではなく、むしろ損傷を奇貨とした即興的な試行の賜物であった。四年前の「スロリア戦役」の際、劣勢に陥ったスロリアの主戦線を支援するべく、ニホン本土近海への進出と海上交通路の破壊という任を受けてローリダ本土を発った本国艦隊の中に「ハ・ダズル」もいた。


 時の第一執政官、ギリアクス‐レ‐カメシス自らアダロネス軍港に出向き、その抜描を見送った共和国海軍空前の壮途は、その主目的を達成しない内に徹底的なまでの挫折を見た。艦隊は早くからニホン軍の警戒線に捉えられ、空海からの迎撃に晒された結果、参加艦艇大小二八隻に及ぶ共和国海軍は半数以上の艦艇を喪失、あるいは大中破の損害を被るという空前の敗北を喫することとなったのである。

 その際、遊撃部隊の一翼を担っていた「ハ・ダズル」はニホン軍戦闘機の撃った誘導弾を被弾し、後甲板の構造物を悉く吹き飛ばされた。被弾炎上、乗員にも百名に及ぶ死傷者を出しつつも、機関そのものは健在であったが故に「ハ・ダズル」は自力で、それも沈没した僚艦の乗員を収容しつつ最寄りの植民地への後退を果たし、現地における応急処置を経て本国への復帰を果たすこととなったのである。


 ただし、戦闘で被った被害からの復旧は大きく遅れた。具体的には艦体そのものの修復こそ行われたものの、戦闘で喪った兵装の回復はなされず、それ故に空いた空間を生かし以後の「ハ・ダズル」は新装備の試験艦、仮設の運送艦的な運用を為されることとなった。様々な雑役を経て、有力な対立国たるノルラントと領有を争うシレジナに三百名から成る陸兵と建設資材を送り届けて帰投した後、「ハ・ダズル」は再び海軍工廠に入渠、そこで航空設備の増設という改装を受けることとなったのである。増設された飛行甲板と格納庫は、「ノドコール共和国」が必要とする物資を収容するに十分な広さと気密性を、偶然にも有していた。ニホンの侵攻に対する上で、最も有力な切り札に成り得る「広域反応破壊兵器」たる「神の火」を収容するに足る――


 「移送訓練」が始まっていた。

 艦橋に設えられた光電管式受像機が、揚収用エレベーターで飛行甲板上に運ばれる梱包を映し出している。「神の火」の本体とも言える反応物質入り球形容器と専用雷管を別個にした梱包が五つ。予定ではそれらはノドコールに運び込まれた後、派遣された技術者の指導の下で組み立てられることになっている。分解された状態では反応が始まることはおろか起爆することも絶対に無い筈なのだが、それでも過日、住民反乱鎮圧を名目にノドコールの首都キビルに投下されたこいつの引き起こした惨禍を思えば、イノセンティス艦長としては腹中に爆弾を抱えているような緊張は拭えなかった。

 ワイヤーで固縛され、クレーンに固定された梱包が、飛行甲板からの合図とともに甲板から離れ、クレーンに吊るされて向かう先では並走する貨物船が貨物扉を開けてその収容を待ち構えている。「神の火」の運用法は、地対地ロケットへの搭載と航空機からの投下が想定され、いずれの手段も装備としてはとうの昔にノドコール共和国に搬入済みであった。あとはノドコール共和国の首脳が適切な時期を見計らい、ニホン軍に対して投じることを決断するだけ……と言ったところだ。


『――むしろ、「神の火」は使わないことに意味がある。と小官はこの場で提言いたします』

 ……と、あの陸軍少佐は言っていたっけ――作業を注視する目を並走する貨物船に向け、イノセンティス艦長は過去を顧みた。去年の十月に行われた海軍戦略研究会の席上、あの「ルーガ総研」の研究員という女性の陸軍少佐は、「神の火」の意義についてそう語っていた。

『――僅か一基で一都市を灰燼に帰せしめる兵器は、その威力と衝撃の度合いにおいて我々がこれまで持ち得ぬものであるが故に、その扱いは軍の戦略より高次元の政略、外交の分野で決定されねばならなくなるでしょう。つまりは、我が国政府は「神の火」の扱いに慎重であるべきである一方で、他国の敵対行為に対しては「神の火」の投入を示唆することで、他国に対する牽制、あるいは威圧と為すということです。同時に、この破格の威力故に「神の火」の製造と運用に関する技術は我が国一国で独占されねばなりません。他国がこれを製造し、保有しようとする動きは、あらゆる手段を投じてこれを妨害しなければならなくなるでしょう』

『――つまりは、ニホンが「神の火」の保有を企図した時、我が国はこれを挫折せしめる、ということで宜しいのか?』

 イノセンティス中佐の質問は、ニホンの意図をどうやって挫折せしめるのか? という疑念をも含んでいた。ミヒェール‐ルス‐ミレスという名の少佐は、特徴的な丸眼鏡を一瞬煌めかせ、半開きのブラインドから漏れる逆光を背景に言った。

『――ニホンが「神の火」保有の意図を確かにしたとき、実力行使を以てこれを挫折せしめるのは、現状では不可能とは言わぬまでも極めて困難であることは小官も認識するところであります。従って、その際の手段も政略によって為されるべきです』

『――どういうことかな?』

 誰かが言い、ミレス少佐は応じるように続けた。

『――ニホンに対する融和を演出してやればよいのです。我が国の主導の下、文明度において同程度の複数国を巻き込み、ニホンにも彼らとの相互不可侵条約、ひいては軍縮条約を結ばせるのが得策でしょう。第三国が関わる以上、ニホンの外交戦略上我々の呼びかけを無視することはできず、条約交渉の間だけでもニホンの軍備増強を遅らせることが出来るという効果も見込めます。勿論、条約が有効である間に、我が国はスロリアで喪った軍備の再建も速やかに進み、唯一の「神の火」保有国という我が国の優位も揺るぎません』

『――相互不可侵なだけではなく、相互監視も行わせるという案もいいかもしれない。我が国以外の「神の火」の保有と開発を防ぐための……』

『――傾聴に値する意見ですわ中佐。相互監視機関が我が国の影響下にあればなおよいかと……』



 ――回想より戻った現実の眼前、白黒画面の中で、五つ収容していた梱包の内、最後のひとつがクレーンで揚げられ、貨物船の甲板へと揺られつつ動いていく。結局ミレス少佐らの構想は、当のローリダが他国に「神の火」を供与するという形で挫折したが、それが同族の国であるだけ、最悪の想定よりもまし、ということになるのだろうか? あの研究会の席上、ミレス少佐は最悪の想定のひとつとして、ニホンが「神の火」を保有することと同様に、ローリダ及びニホンより文明の成熟度合いの劣る、意思決定機構の旧態依然とした国家及び勢力が「神の火」を入手し、己が外交的野心を満足するための道具として使うことを語った。前者は兎も角、後者はあり得るのだろうか?……


『――掌甲板士官より艦橋へ、移送作業終了。確認願います』

「了解……物資移送、視認した」

 艦橋より外に出、マイクを握り応答するイノセンティス中佐の背後で、司令と参謀長の話す声がする。

「どうやら上手くいったな」

「願わくばこういう工作は堂々とやりたいものですな。ニホン人の目があると思うと腹が立つ」

「あとはノドコールの同胞があれを有効に使ってくれることを祈ろう」

 貨物船の船橋、その一角が光り、同時に中佐は放たれた発光信号を目で読み取った――――「シエンカンシャス エイエンノアンネイヲカミヨリタマワランコトヲ」


『――永遠の安寧を神より賜わらんこと……を?』

 離れゆく友軍に向けるべき文面ではなかった。むしろ葬儀の場で聖職者が告げるような、死者を悼む言葉だ。艦橋から双眼鏡を構えつつ、怪訝に眼差しを曇らせたイノセンティス中佐はその先にあるものを捉え、表情をさらに疑念に歪めた。

 映写機?――相手の船橋からこちらに向けられたカメラ状の機械を前にして、中佐は戦慄を覚える。戦慄というよりも嫌な予感……と言った方が正しいのかもしれない。その「映写機」が不意に赤い光を点滅させ、光は「ハ・ダズル」の艦橋に向けられる――

「――え?」

 予期しない光の点滅を、襲撃の予兆と察するには中佐には知識も準備も不足していた。貨物船の一隅から引き出された対戦車誘導弾は一発、白煙を曳き飛び出した弾体は、船橋からのレーザー誘導により軌道を修正しつつ、最後には寸分狂わぬ正確さで「ハ・ダズル」の艦橋を直撃した。

 逃れることのできた者は誰もいなかった。イノセンティス中佐も、イドラー司令もランケル参謀長も対戦車誘導弾の生み出した紅蓮に焼かれて死んだ。その後には艦隊と「ハ・ダズル」の指揮系統の喪失が生じた。

「艦橋、通信途絶!」

「…………!?」

 他部署に詰めていた「ハ・ダズル」の将兵を襲う新たな衝撃。別方向より立て続けに放たれた誘導弾の第二射はマストを狙い、やはり寸分違わぬ正確さで通信用主空中線を破壊する。「ハ・ダズル」は外部との連絡手段を完全に喪失し、それを待ち構えていた様に貨物船から無数の梯が渡される。直後に武装した乗員が一斉に「ハ・ダズル」へと亘って来た。

「――異邦人!?」

 驚愕と同時に飛んで来た銃弾が、ローリダ艦の乗員を薙ぎ倒す。突入者の構える銃の連射は早く、狙いも正確だった。突入者の多くが布や仮面で顔を隠していたが、ローリダ人のそれとは違う細身と背丈の低さ、さらに尋常ではない俊敏さは隠しようがなかった。応戦をしようにも奇襲、その上に指揮官が死に、銃器の取り扱いも不慣れとあっては、そのための命令は混乱に輪をかける効果しかもたらしてはいない。

 乗員の懐にまで迫った襲撃者の振るう短刀、さらには至近距離で放たれた散弾が殺戮をさらに拡大させていく――――襲撃者は艦尾、艦首……そして艦中央の三方向から「ハ・ダズル」に流れ込むように侵入し、そして艦の抵抗力、さらには乗員の戦意すら削いでいく。殺害を免れた乗員も多くは縛られ、艦底の倉庫あるいは艦首の描鎖庫へと押し込められる運命を辿った。


 その描鎖庫に入りきれないが故に甲板上に縛られ、集められた士官の一団――というより、「海賊」たちは明らかに捕虜としての軍人を扱う術を心得ていた。降伏した乗員を士官、下士官、水兵に別ち、相互の連絡を不能にしたのだ。士官の中で生き残った最先任者たる主計長、彼を取り囲むように見下ろす幾つもの無表情な眼光、それは人形の様でもあり、飢えた獣のそれにも重ねられた。手にした得物にはローリダ軍制式の銃もあれば、見たことのない他国製の銃すら見受けられ、中には軍用の対装甲擲弾を背負っている者もいる。服装も装備も区々だが、それでも全身より発散する荒々しい波動は隠すことができなかった。


「……お前たちは何者だ!?」

 座らされたままの状態から「海賊」たちを見上げ、主計長は声を荒げた……と、同時に切った頭から赤い筋が垂れるように血が零れて首筋にまで達する。その彼を銃柄で殴りつけ、此処まで引きずって来た人影が、無表情な眼差しもそのままに主計長に拳銃を向けた――否、拳銃と一体化した剣の切先を。

「ひ……!?」

 覆面の奥で怒る女の眼。薄手の服装の上に弾倉を繋いだ戦闘用サスペンダーこそ着けていたが、それでも形のいいバストと括れた腰、そして流麗な脚線は隠すことはできない。だが、主計長が覚えるのにはちゃんとした根拠がある。つい先刻、この主計長の眼前で彼女は二名の武装兵を、この拳銃付の剣を振いほんの数秒で斃してしまったのだから……その際艦内の天井まで飛んだ血糊の一部が、彼女の覆面には未だ紅くこびり付いていた。周囲の男どもからして彼女の振る舞いを止めないのは、この「海賊」どもの中にあって、眼前の女が指揮官的な立場にあることの現れであるようにも見えた。


「やめろ」

 遠巻きに、しかし威圧感のある野太い声が海賊たちを一瞬硬直させた。拳銃の女も含めた海賊どもの視線が一度に艦橋の方向に向かう。次には中背で肩幅の広い、だが明らかに筋肉質と判る覆面姿が部下を引き連れて現れた。一方で腹が出ているようにも見えるのは、まるでニホン軍が着るような防護服を着ているが故だけではなかった。主計長ならずとも、年の頃は五十歳代くらいだろうか?……と、その男を見たローリダ軍の士官は確かにいた。

「…………」

 制止の声を駆けてもなお銃口を下ろさない女、他少数の部下に対し、覆面の男は無言で頭を振って見せる。それで事は済んだ。女は渋々……という風に拳銃を収め、他の男たちも彼女に倣う。男の意思は、ローリダ艦を不法占拠した武装集団の中では絶対だった。

 腹心らしき中年の異種族を顧み、口を塞ぐ仕草を見せる。やはり殺す積りか?……という衝撃は杞憂に過ぎた。獣耳をした異種族の指示の下で猿轡を噛まされ、縛られたまま放置されるローリダの士官たち――――潮が引く様に侵入者の気配が消え、次には烈しい衝撃と共に排煙口から炎が上がる――――取り残されたままその様に接した士官、機関に明るいおよそ半分が、「海賊」どもの工作により主機関室が破壊されたことを悟った。恐らくは電力供給用の補助機関も……つまりは、「ハ・ダズル」はもはや自力では動けず、外部との連絡も完全に断たれたまま……ということになる。戦慄するほどの手際の良さであった。


 男が最後に「ハ・ダズル」を脱して貨物船に飛び乗るのを待ち構えていたように、貨物船は動き出した。前進し針路を南へ、そして船は徐々にローリダの軍艦から距離を取って行く。砲撃される心配は無かった。砲を操る将兵は縛ってある上に、動力供給用の配線も全て切断してあるのだから。何より肝心の動力が――

「…………」

 貨物船の船橋からは、機関を破壊され黒煙を噴き上げるローリダ艦の姿が手に取るようにわかる。沈みはしないが修理には曳航が必要、さらにはその修理自体にも時間が必要になるだろう。修理が成るには見積もって半年……といったところだろうか? これでローリダ軍は貴重な主力艦船を一隻、喪ったことになる。

「ボス、雇主から通信が入っています」

 部下が言い、衛星通信機の送受話器を差し出す。男は遠ざかる軍艦を見やりつつ、送受話器を受け取った。

「俺だ」

『――報告は受けた。鮮やかな手際、感服したよ』

「わざわざ俺に言う程の事か?」

『――棟梁は君だ。真っ先に君自身が報告すべきことだと思うが?』

「お前と話すことは何もない。ガーライル」

『――それで、「神の火」は五発、全て押収したのだな?』

「ああ……」

 回線を挟んだ双方で、感情が凍りつく。

『――君とはまた、共に仕事をしたいものだ。穏便に頼むよ「鷹の羽」……いや、丹宇 半蔵(ニウ ハンゾウ)

「衛星回線でその名は出すな。あほう」

『――…………』

 鼻で笑う声が聞こえ、回線がプツリと切れた。送受話器を引き千切って海に放り投げようとして、男は辛うじて踏み止まる。不本意な仕事への苛立ちに悶える男が独り、その彼を、覆面の女が舵輪を握りつつ遠巻きに見詰めていた。




ローリダ共和国国内基準表示時刻1月4日 午前11時41分 ナガ半島西部 第266反応兵器製造/貯蔵施設 「アギナダの箱庭」


『――ノドコール共和国の入植者たちは、一致団結してニホンの侵略軍に立ち向かっています。義勇軍はノドコール南岸ロギノール市において依然奮闘中。ニホン人を押し返しつつあり――――』


 映像放送の音が喧しい。しかし広い部屋であったが故に多くの兵士はそれを斟酌せず、映像放送受像機から離れた寝台に在って思い思いに休息を楽しんでいた。ただし、受像機に寝台の近い者にとっては苦痛であることこの上ない。彼らの意思を代表するように、受像機の音量調整ダイヤルに手を伸ばした共和国国防軍二等兵 オルシス‐リ‐ナグナンを、先輩格の一等兵が咎めた。

「コラ、みんな見てないまでも聞いてるんだ。勝手に音量を弄るんじゃねえ」

「ハア……すんません。でもこれ、もう三時間も同じ番組ばかりですよ」

 調整ダイヤルを弄るまでもなく、手を引っ込める。と同時に不平も口から出てしまう。

「未だ上番していて見てないやつもいるだろう? 都合がいいじゃないか」

「ユダシス一等兵どのはご覧になっているのでありますか?」

「ああ、見てるよ」

 ユダシスと呼ばれた一等兵は漫然と頷き、ナグナン二等兵は憔悴気味に吐息した。

「先刻からずっと……眠れなくて」

「布団被って、耳塞いで寝ちまえ。少なくとも今年の夏、新兵が入ってくるまではおまえはそこ固定だからな。我慢しろよ」

「…………」

「受像機が煩いところで、シレジナ行きになった連中よりずっとましってものさ」

 不承不承、ナグナン二等兵は二段式寝台の下段に不眠気味の体を横たえた。朝方までに及んだ上番が明けて熟睡したのはほんの二時間ほど。その二時間が過ぎようとしたところに耳を劈く勇壮な音楽と共に特別番組が始まった。その後には浅い眠りと悪い目覚めが交互に訪れた。軍務で引き攣った精神の芯が、雑音のカンナで削られること夥しい。

 本来、兵舎にあってラジオや受像機に近い寝台は、年季を重ねた古参兵の占める特等席である筈なのだが、この基地では兵舎の配置上これらの機器が出入り口のすぐ側にあるが故に例外となってしまっている。隊容検査の際、兵舎を巡回する警備中隊長の目が真っ先に留まるのが受像機に近い寝台なわけで、この場合ナグナン二等兵ら新兵の寝台は、古兵にとっては横着に塗れた兵舎の深奥を隠す格好の「防波堤」なのであった。


 募る不快さをもてあましつつ、ナグナン二等兵は言った。当直時刻が同じであることが、新兵の古兵の挙動に対する不審を掻き立てていた。

「ユダシス一等兵どのは、お休みにならないのですか?」

「仲のいい従兄弟がふたり、義勇兵で向こうにいるんだ。ずっと見てれば顔を見られるかなって」

「ああ……」

 納得し、同時にまだ見ぬ戦場の空気を思って背筋を震わせる。そこに、ユダシス一等兵の言葉が重なる。

「従兄弟の実家(いえ)には、受像機が無いんだ……顔が見えたら手紙を書いてあげないと」


 ナグナン二等兵は、二か月前にこの基地に配属となった。より正確に言えば、この施設に付属する警備大隊の基地だ。先年の初めに入営し、基礎訓練を経て前線とは程遠いこの施設に警備兵として配属されている。偶然というより、共和国国防委員会事務局に勤める親族の人脈であった。ローリダ本島の北部、中堅地主の次男に生まれたナグナンは、長じて法学を学ぶために首都アダロネスに上ったが、学徒の身ではあっても共和国公民男子に均しく課される兵役からは免れえず、二年後に入営の運びとなった。


 入営とは一口で言っても、あの「スロリア戦役」直後のことで、同年代の新兵に比して多少は学のあるが故に、多くの例に漏れずナグナンもまた訓練隊の上官より半ば執拗に士官候補生、あるいは下士官への任官を勧められたものだが、本人はそれを固辞して一兵卒たるを択んだ。幾ら共和国への忠誠を強調されたところで、ナグナン当人には軍務には全く興味が湧かなかった。だいいち、勧めに従って士官候補生にでもなっていれば、それだけ軍に拘束される期間も延びるわけで、早期に娑婆に戻り学業に専念したい彼としては、軍務はできるだけ早く切り上げたい「障害」でしかなかった、というわけである。


 ただ、比較的平穏な本土の基地に配属になった自分の代わりに、実家がアダロネスのパン屋という青年……否、未だ十八歳にもならない少年がひとり、最前線たるシレジナ行きになったという、人伝に聞いた風聞は、多少なりとも彼の良心を苦しめてはいた。昔から存在したその手の矛盾が「スロリア戦役」後に一層顕在化して来たように、今のナグナン二等兵には思えて仕方がない。


『――! ――! ――!』

 布団を被り、悶えるようにまどろんでいるうちに、時計からブザー音が鳴る。警備兵の交替時間の到来を告げ、同時に次の警備兵に警備隊本部への集合を命じる合図だ。その「次」の中に、ナグナンとユダシスも含まれている。夜は静まり返った施設の只中で独り立哨だったが、この次は分隊単位で隊列を組んでの巡回任務。ただ歩いて基地内の様子を見られる分、心細さの方が先に立つ立哨よりは恵まれた任務ではある……とナグナン本人は思う。


 舌打ちしつつ寝台から起き出し、装具を整えている内に、早くも兵舎に帰って来た同室の兵が、非番の兵に話し掛けているのをナグナンは聞いた。

「ロジス軍曹からお達しだ。非番のやつは食堂に薬を取りに来いってよ」

「薬?……風邪薬なら間に合ってるけど」

「違う。アダロネスの偉い先生方が、おれたちのために薬を作ってくださったんだと」

「何の薬だよ?」

「何でも、『神の火』の毒気に充てられても身体が溶けない薬だそうな」

「へえ……すごいもんだな」


「…………」

 銃架から自分用のザミアー7突撃小銃を取り上げつつも、ナグナンの関心は古兵たちの会話に向いていた。「神の火」の発する毒性の空気に触れると身体が溶けるというのは、その真偽の程はさておき、外部の関係者から「アギナダの箱庭」と呼ばれる広大なこの施設に詰める警備兵の間では広く共有される話であった。「アギナダの箱庭」――――それは、キズラサ教成立以前より語られる世界創生の神話に出てくる、堕天使ルキが作ったという世界のあらゆる災厄と苦悶を再現し、詰め込んだ箱庭だ。

「おい行くぞ」

 背後から既に準備を終えたユダシスに促され、ナグナンは彼の後に続いた。ナグナンたちのいる兵舎から警備大隊本部まで歩いて五分。そこで点呼を受けた後、彼ら警備分隊は先ず箱庭最北の警戒線まで軍用トラックで送られ、以後二時間をかけて基地全景を半周する形で本部まで行軍、再度の交替時刻までこれを繰り返すことになる。本部の外ではナグナンらとは逆コースで警戒線を巡回する分隊が、警備犬を伴って移動を始めていた。その一方、ナグナン達を警戒線まで連れて行く軍用トラックが二台、本部正面に並んで警備兵の搭乗を待ち構えている。まるで宗教儀式の様に始まっては終わった点呼の後、兵を積んだトラックはゆっくりと施設内の交通路を走りだした。走り出した車上で、やはり平穏に飽いた兵士の会話が始まる。


「なあ、あの薬の話、本当かな?」

「『神の火』に効くって薬か?」

「それそれ、今日配られるって薬さ」

「どうかなあ……でも、あれを思い出しちまうとなあ。藁にも縋るって気持ちよ」

「あれ?……部内教育で見せられた映像のことか?」

「それよ。同じ死ぬにしても、ああはなりたくないものだぜ」


 ああ、あれか――脳裏で兵士たちと共通の記憶を探り当て、同時にナグナンの背筋が寒くなる。配属されたときに、部内教育の一環として見せられた記録映像のことを、ナグナンは思い出していた。ローリダと同じく、「神の火」の原料となる反応物質を扱う技術力を有する何処かの国で起こったという事故の一部始終。実験中、反応物質の配合を誤った結果、発生した急激な反応を制御できずに拡散した放射線が周囲の作業員を傷つけ、周囲に居合わせたその悉くを死に至らしめたのだ。


 反応物質に対するぞんざい(・・・・)な扱いが招いた悲劇……手の施しようもなく、生きながら焼け爛れ腐り落ちる作業員の身体を、映像は終始鮮明なまでに記録し続け、映像を前にナグナンは心から怯えたものであった。同じくその画像を目の当たりにした者の中には、余りに凄惨な光景を前に気分の悪化に耐えられず中座した者もいる。引率の下士官も技官も、敢えてそれを止めることはしなかった。ナグナン達新兵にとって映像は、「神の火」の恐ろしさ、そして自分たちが此処に在る意味を深く噛み締めさせられる出来事となった。


「…………」

 幌を払ったトラックの荷台からは、荒涼なまでに広がる建築物の群を見渡すことが出来た。まるで造り立ての集合住宅を思わせる一切の個性も無い矩形の建造物の居並び、それらは金網の塀で幾重にも区切られつつナグナンの眼前で無粋なまでの広がりを見せていた。「神の火」の原料となる「中核元素」の精製工場だ。本土、あるいは国外の植民地で採取された鉱石から「中核元素」を抽出し、濃縮するために作られた広大な設備――ただし現状では最適な抽出方法が確立しておらず、それぞれに異なる三つの方式に則って設備は稼働を続けている。それ故に設備は冗長になり、発生する経費もまた莫大であった。


 やはり兵員を満載した複数のトラック、研究員用の車両と行き会いつつ、ナグナンの乗ったトラックは精製区画を抜け、広さではよりこじんまりとした区画に達する。地盤を深く掘り下げた処に、嵌った様にして設けられた異様な建造物、それもナグナンの所属する警備大隊本部と兵舎を合わせた以上に巨大な建造物が三つ。地上に伸びた煙突からもまた三条、仲良く太い水蒸気を噴き上げている――


「魔女の窯……相変わらず煮立っている」

 と、傍らのユダシス一等兵が言った。「魔女の窯」と、その区画を兵士たちは呼ぶ。あの広範で殺風景な精製区画で生産された中核元素を、さらに「純化」させるための設備だと、「アギナダの箱庭」の技官は胸を張って説明したものだった。「神の火」そのものは中核元素を原料とするだけでも兵器としては破格の威力を誇るが、中核元素の「純化」によりその威力と殺傷力はさらに増す。ナグナンたちは未だあの中に立ち入ったことはないが、実際に立ち入った経験のある下士官の話では、「魔女の窯」という二つ名に相応しく、巨大な溶鉱炉を思わせる本体の周囲を包むように、黒鉛でできたブロックが幾重にも積み上げられている。そこに時折、鳥が囀るような音が聞こえる。当の下士官によればそれが、「中核元素」が「純化」していく際に発する自然の音なのだという……にわかに信じがたい、不気味な話だとユダシス達は語り合ったものであった。


 トラックは数回交通路を曲がり、そして配管の入り組んだ、始終機械の唸る音に包まれた通りに達した。街の工場地帯のそれと変わらない、ある意味落ち着いて眺めていられる光景だと、ナグナンは思っている。ただしそこで作っているのは「神の火」本体に付属する起爆装置、電波高度計、専用の点火薬といった爆弾そのものの部品ばかり――「アギナダの箱庭」で生きている限り、死の匂いからは先ず逃れることはできないというわけだ。通りの終端、「箱庭」の深奥に当る区画に達した時、ナグナンは思わず息を呑みその物々しさに気圧される。

 そこは外目にはやはり工場施設そのものであったが、その周囲を三重に囲む塀と聳える櫓、等間隔で立哨する武装兵が、それまでに通った施設とは違う性格を初見の者にすら強く印象付けさせる筈であった。戦車すらその構内を巡回して走り回っているというその区画で作られているのが、「神の火」の心臓であることを知らない者は、まず「箱庭」には存在しない。俗に「中核球」と呼ばれる、中核元素でコーティングした純中核元素を、点火薬と共に閉じ込めた球体……「箱庭」で作られている爆弾そのものの部品は、この球体内に秘められた高エネルギーを最適のタイミングで効率よく開放するための副次的な「器官」であるのに過ぎない。それ故に警備も厳重で、「箱庭」の所長すら立ち入りには事前の予約と許可証を要する。


「今日は多いな」

 と、ユダシス一等兵が言った。正門から出てくるトラックの数のことを……である。

 完成し、保管された中核球は、やはり厳重に梱包され、大型トラックに積み込まれて最終組立工場に向かう。当初は軍制式の大型トラックを使っていたが、今となってはより積載能力と安定性に優れたニホン製のトラックを使っている。生産と保管とは言っても、中核物質の希少性と危険性から、この広範な設備をフルに使っても生産可能な「神の火」は月に十発出るかどうか……と言ったところで、それでも、この破格の威力を以て「神の火」を保有しない敵対国を威圧するには十分な数であるとも言える。

 一方、工場では従来の中核元素使用の中核球の生産はめっきりと減り、純中核元素使用の中核球の生産が多くなっている。さらには中核球自体、技術開発の成果としてより軽量の弾体――――例えば、砲弾やミサイルの様な―――の中に収まる程の小型化が進んでいる。そのことはナグナン自身も此処の警備に付いた経験から知っている。いずれは此処から送り出された新型の「神の火」が、「スロリア」以後の劣勢を(はら)い、ニホンの様な強敵すら屈服させることになるだろうとは、ナグナンのみならずこの施設に関わる人間たちに共通した感慨であった。


 緊張に満ちた深奥を抜け、トラックは予定通りの時間で警戒線の辺縁に達した。トラックはそこでナグナン達を下ろし、交替要員を乗せて警備隊本部に戻ることになる。

「ん……?」

 哨所の傍、普段はあまり目にすることの無い野戦救急車が止まっているのをナグナン達は見た。哨所を与る軍曹が声を上げ、トラックから降り立ったナグナン達に前進を促した。普段は「魔女の窯」と中核球製造工場の周りでしか目にしたことの無い、分厚い化学防護服に全身を覆った兵士たちが、救急車の周囲に在って何らかの準備を始めていた。所属を示す腕章は見えなかった。


「お前たち、早く来い!」

 軍曹が声を荒げて兵士たちを呼ぶ。慌ただしく整列を終えたナグナン達警備兵の前に防護服が一人進み出、兵士たちは反射的に敬礼した。防護服の階級章が、軍医であることを示していた。丁寧な答礼と同時に、防護服と繋がったガスマスクの目が魚眼の如くに光った。

「第1師団化学戦大隊のファン‐デロン軍医大尉である。緊急時に付き説明は手短に行う。そのままで聴け」

「…………」

 内心で身構えるナグナン達に、軍医が心を動かされた様子は無かった。一方でナグナンは考える――第1師団? 首都の精鋭部隊が、重要施設とは言えなぜこんな辺境にいるのだろう?……否、どうやってこんなに早く駆け付けて来ることが出来たのだろう?


 軍医は、言った。

「現在、不穏な情報が流れている。敵性工作員が製造施設近傍に潜伏し、『神の火』の奪取を企図しているというのだ。最悪の場合、破壊工作により中核元素の漏洩という事態も起こるかもしれない。そこでこれより、諸君らに己が身を守るための備えに掛かってもらう」

「――!?」

 傍らに立つ部下と思しき防護服姿に、軍医大尉は目配せした。防護服が二人掛かりで箱を抱え、警備兵の隊列の前に置いた。箱には錠剤と思しき包みが大量に詰まっていたが、それが何を意味するのか、この時点でナグナン達が推し量るのはさすがに困難であった。そこに、軍医の説明が続く。

「これは共和国国防科学研究所が開発した、中核元素に対する肉体の耐性を付けるための試薬だ。諸君らも話は聞いていることと思う。これより諸君らに試薬を配る。受け取り次第、即座に服用せよ。事は急を要するのだ」

 軍医の部下がナグナン達に並ぶよう命じ、兵士たちは前列より錠剤を受け取っていく。流れ作業を思わせる配布と服用が始まり、続く中で、ナグナンだけはただ一人、配られた錠剤を未だ掌の中で持て余している。子供の頃から錠剤を呑み込むのは苦手だった。錠剤を握りつつナグナンの目は仮設の便所まで泳ぎ、背に腹は代えられず、彼はそこで水を得ることに決めた。

「おいナグナン、何処へ行く?」

「ちょっと便所に」

 訝しむユダシス一等兵に作り笑いで応じつつ、ナグナンは早足で隊列を離れた。早く済まさないことには巡回に遅れてしまうという焦りが、便所に隣り合う手洗い場で、錠剤を取り落とすという痛恨のへままで引き起こした。錠剤が流れ込んだ排水溝、その更に奥から錠剤を取り出そうなどという奇跡は、キズラサの神ですら起こすことはできないだろう……と、ナグナンは半ば本気で暗然としたものだ。散々逡巡した揚句、ナグナンは便所の外に出た。下士官に一喝……あるいは引っ叩かれるのを承知で軍医にもう一錠を貰えないものかと頼もうと試みたのである。


 重い脚を無理に走らせて駆け戻った先――

「え……?」

 信じがたい光景を前に、ナグナンはむしろ茫然として立ち竦んだ。

 軍医を名乗った防護服を始め、錠剤を配った男たちも、そして救急車も消えていた。文字通り、影も形も無くなっていた。それ以上にナグナンがこの場を離れるまでその場に立っていた筈の兵士たちが、全員生気を失って倒れているのを目の当たりにし、ナグナンの足元から上が地震にでも遭ったかのように震え始める。空気としての死が拡がっていることに、ナグナン自身、その肌で気付いたためであった。入営以来、これまで遭遇するとは考えすらしなかった死!


 その死を織りなす一人の中に、ユダシス一等兵の姿を見出した瞬間、ナグナンは背負っていた小銃を放り出し彼を抱き起した。白目を剥いた上に口から吹き出した血と泡が、抱き起すにはすでに手遅れであることを物語っていた。あの錠剤か……と気付くのは早く、かといって戦慄を覚えるのには遅すぎた。少し間違えば、自分もこの死者の列に加わっていたと考えることすら、ナグナンには恐ろしいことの様に思われた。

「手を挙げろ! 武器を捨てろ!」

「…………!?」

 不意に怒鳴られ、反射的にナグナンは顔を引き攣らせて背後を顧みた。新型のザミアー小銃を構えた兵士が一人、彼の周囲にはやはり武装した兵士がいて、彼らはとっくに前進して死体の検分に掛かっていた。手を上げて立ったナグナンをその足元から頭の天辺まで凝視し、兵士は訝しげにナグナンを睨む。

「おまえ警備隊の所属か……薬を飲まなかったのか?」

「錠剤は苦手だったもので……」

 微かに兵士は苦笑した。と同時に階級章が曹長、しかも軍警察隊であることをナグナンは察する。ナグナンに向けた銃口が下がり、曹長は言った。

「運がいいな。おまえ、名前と所属、階級は?」

「第266施設警備大隊 第三中隊第二小銃小隊……二等兵、オルシス‐リ‐ナグナンであります……!」

「……よしナグナン二等兵、銃を執れ。今は非常時だ。これからは本官の指揮下で行動しろ。いいな?」

「あのう……曹長どのは……?」

「東部管区軍警察隊のオルガスタ軍警曹長である。警備大隊本部からの緊急連絡を受け、此処に急行して来たのだ」

 許されたナグナンが銃を執るのと同時に、検分を終えた軍警が声を上げた。

「曹長! 駄目です! 全員死んでおります!」

「――ッ!」

 舌打ちし、傍らの通信兵を呼び出す。繋いだ先は、別働の軍警であろう。

「オルガスタだ。そちらはどうだ?」

『――。――』

 通話の内容は聞き取れなかったが、その中で「警備隊」、「兵舎」という単語が複数回出て来たのがナグナンの不安を掻き立てた。やがて苛立たしげに送受話器を通信機に叩き付け、曹長は彼の部下に集合を促した。

「警備隊本部は全滅……兵舎にいた兵も全員死んだ……毒殺だ」

「あの薬が……!」

 絶句、それは周囲の軍警たちの注目を生んだ。オルガスタ曹長が横目でナグナンを睨み、聞いた。

「おまえ、何か知っていることはあるか?」

「ついさっきまで軍医が薬を配ってたんです……第1師団の化学戦部隊の所属とか……国防科学研究所が開発した新薬だとか……」

「どういうことだ?」

「あいつらはおれたちに言ったんだよ! 薬を飲めば『神の火』の毒気に触れても大丈夫だって!」

「…………」

 軍警たちは互いに顔を見合わせた。死の静寂から打って変わり、生者の驚愕と困惑が荒涼たる警戒線の周辺を支配しようとしている……と同時に、通信兵が強張った顔もそのままにオルガスタ曹長に送受話器を差し出した。

「別働隊から通信が入っています」

『――こちら飛行場! 所属不明の部隊と交戦中! やつら飛行機で「神の火」を持ち出そうとしている! 応援求む――』

「…………!?」

 さらなる衝撃が、曹長をしてトラックへの乗車を命じさせた。飛行場まで走る途上、道端に散らばるようにして倒れる警備兵や作業員の姿を目の当たりにし、ナグナンならずとも誰もが震えた。死体のいずれもが、医官を装った侵入者の勧めに従ってあの薬を服用した者たちであることは、死体の一切の外傷の見えないことから容易に察することが出来た。あの毒薬が想像以上の広範囲にばら撒かれていることに対する衝撃も然ることながら、まかり間違えば自分も彼らと同じ道を辿ることになったかと思えば、ナグナン本人の抱え込んだ衝撃は尋常なものではなかった――こんな事になるのがわかっていたならば、素直に前線への出征命令に従っていた方がずっとましだった!



「下車! 下車し散開せよ!」

 トラックがつんのめる様にして止まり、曹長の命令が耳朶を打つ。この段に及び、ザミアー小銃に実包を装填していなかったことに気付く。震える手で十発綴りの弾丸クリップを薬室に押し込んでいる間にも、下車戦闘は始まっていた。爆音と砂塵を巻き上げ、誘導路を進む大型輸送機が一機――しかし滑走路に到達した瞬間に、他方向より放たれた火矢が輸送機の胴体を貫き、華々しいまでの炎の拡がりを兵士たちの眼前に生んだ。離陸に失敗し炎上する輸送機の方向から、対装甲擲弾を背負った数名を含んだ分隊が、ナグナンらに銃を向けて迫ってくる。ナグナン達に対する警戒を解けないでいる様にも見えた。

「我々は東部管区軍警隊だ。お前たちの所属は!?」

 オルガスタ曹長の呼びかけに、向けられた銃口が下りた。

「我々は施設警備大隊の者です。侵入者の掃討作戦に当っておりました」

 駆け寄った兵が言った。彼が着任以来の顔見知りであることに気付き、ナグナンは内心で安堵する。警備大隊に追及する形で駆けよって来た軍警隊の姿もまた、オルガスタ曹長を安堵させたように見えた。

「報告いたします。我が隊は警備大隊の増援を得、飛行場の敵を掃討致しました!」

「ご苦労軍曹、それで損害は?」

「管制、通信施設はすべて破壊、要員も全員殺害されておりました……毒殺であります。それとわが方からも六名ほど」

「わかった。では次に制圧すべきは何処だと思うか?」

 すかさず、警備大隊を指揮していた下士官が進み出た。階級は伍長。彼の顔もまた、ナグナンは大隊司令部で目にしたことがある。

「中核球の製造、貯蔵施設ではないでしょうか? 爆弾本体よりもそこを抑えられた方が厄介です」

 曹長は全員に乗車を命じた。トラックに向かう途上、曹長と伍長の会話をナグナンは背中で聞いた。

「……生き残りは貴官たちだけか?」

「わかりませんが……今のところ自分が掌握できているのはこの十二名だけです」

「こいつは大ごとだぞ……ニホンとの戦争どころじゃない」

「隊長!」と、追及して来た通信兵が曹長に送受話器を突き出した。手荒く取り上げた送受話器の向こうで、引き攣った声が聞こえて来た。

『――こちら第三分隊……報告します。現在「神の火」貯蔵庫にて「神の火」の所在を確認中……幾つかが既に持ち出されている模様……繰り返します――』

「幾つ?……何発持ち出されている?」

『――それが……在庫記録と突き合わせて改めて集計しませんと……要員も皆死亡しておりますし……』

「くそっ! そこもか……!」

 更なる捜索を命じ、曹長は送受話器を通信兵に叩き付けた。誰の目から見ても彼は明らかに動転していたが、それを指揮官にあるまじき振る舞いと責める者は、この場にはもはや誰もいない。「神の火」本体全ての所在も然ることながら。帳簿上は仕掛品であるのに過ぎない中核球の所在もまた最重要の確認事項である筈だった。『神の火』は、中核球に閉じ込めた中核元素を効率よく暴走させるための器のようなものであって、完全な中核級さえ確保できれば、「神の火」起爆のメカニズムを把握している限り、広域破壊兵器としての「神の火」の体裁は何者であろうと整えることが出来ると言っても過言ではない。そのことは此処「箱庭」にあっては研究員から警備兵にいたるまで周知の事実であった。


 兵を満載したトラックが「箱庭」で最も重要な区画を前にして止まり、曹長は迅速な降車を命じた。彼自身、小銃を引っ掴み、半地下式貯蔵庫の搬入口に向かい隊の先頭を切って走り出している。厳重に盛り土の為された貯蔵庫の入り口、それが今となっては何の意味も為さない、虚しいものであるようにナグナンには見えた。一枚の重さが一戸建ての家屋のそれに匹敵するほど巨大な分厚い扉、半開きになったその周囲でもまた、技術者と兵士が無数に倒れていた。彼らの多くが毒殺ではなく銃撃による死であるのが判った。


 扉の隙間を、兵士たちは銃を構えつつゆっくりと進む。そこから貯蔵庫まで車一台が通る程の通路が一直線、地下を貫いている。進むにつれてむっとする熱気が肌には気色悪く、同時に貯蔵庫内の空気の流れを支配している筈の空調機器が既に機能していないことに気付く。

 破壊されたのか?――歩を進めたさらに深奥、空気はさらに淀み、熱くなっていた。鼻腔を擽る熱気に、硫黄が腐ったような臭気が混じり始めた。防御線のように前途に積み上げられた資材の山、その一角が不意に光り、ナグナンは反射的に伏せた。

「――!?」

 機関銃の発射音に、跳弾がコンクリートの内壁を削る音が重なる。機銃の連射を察知できなかった兵が弾幕に捉えられて倒れ、そこに仲間を傷付けられた同僚の怒声と銃声が続いた。伏せたナグナンもまた銃を構え、引鉄を引絞って弾丸を送り込む。それでも機銃の発射は止まず、装填した十発全てを使い切りもう十発を薬室に押し込んだ処で、ナグナンは怪訝そうに前方を睨んだ。機銃の狙いが、一か所に固定されたままであることに彼は気付いた。

「…………」

 匍匐を維持しつつ、なるべく頭を上げぬように射点へとにじり寄る。尚も咆哮を続ける機銃に対する恐怖は、それが完全に一方向に固定されたものであることに気付くにつれて、霧が晴れる様に消えて行った。ついには機銃の横たわる資材の山の、そのすぐ下に達し、やはり匍匐のまま山を越えた先に目にしたものに、ナグナンは思わず目を細めた。射手の姿は初めから何処にも見えず、ただ子供が悪戯にやるような仕掛けのみが、機銃の引鉄を引き続けていた。

「なんてことだ……」

 絶句し、仕掛けを外して発射を止める。後続する軍警隊に安全を確保した旨手信号を送り、ナグナンは小銃を構え直して通路を完全に抜けた――貯蔵庫の中枢。

「ナグナン二等兵! 間もなく外から増援が来る! それまで後退し貯蔵庫を確保する。退がるんだ!」

「――!?」

 退がろうにも、今のナグナンにはそれを実行する精神の余裕はもはや完全に失われていた。こじ開けられ、乱雑に放って置かれたままのコンテナの山は、ナグナン達が状況の把握に忙殺されている間に、何者かの手で中核球が全て持ち出されてしまっていることを物語っていた。


 そのコンテナの山に埋もれる様にして鎮座する、剥き出しの大きな中核球がひとつ。

 無数の配線で起爆装置と繋がったそれを前に、ナグナンは為すべきを知らないまま立ち尽くすしかない。

 中核球の傍ら――電光表示板のローリダ数字が目まぐるしく変わる。

 半ば茫然としてそれを目の当たりにしたナグナンの眼前で、表示板の数字が「0(ノルン)」へと変わった。


「え――!?」

 中核球が振動を始め、同時に周囲の空気が、一気に重くなったように感じた。

 その更に次には中核球が光り出すのをナグナンは見た。まるで地に在っていきなり海底の更に深淵まで導かれたかのような、深く蒼い光がナグナンの網膜を灼き、次には意識の混濁が脳幹から全身へと伝播していくのをナグナンは感じる。

 それでも光が眩しくて、思わずナグナンは手でそれを遮るようにした。思わず眼前に上げた掌――それが蒼い光に焦がされ、砂糖菓子が崩れて行くようにゆっくりと崩れ、千切れ飛ぶ掌。

「――!?」

 身体が滅する恐怖――朦朧とする意識の中にそれを感じ取るより先に、ナグナンのみならず、その場の全員の躯が軽くなる。同時にそれが、彼らの生者としての最後の記憶だった。


 浮き上がりつつ千切られ、生きながらに無へと還って行く兵士たち。

 蒼い光はそのまま更に烈しい、黄色い光となって一帯に拡がり、光の柱は分厚い貯蔵庫の天崖すら突き破った。

 その足許から生じた光の波が、周囲の建造物を押し流す様にして拡がり、砂塵と土砂を巻き上げて天を汚す。

 「神の火」は、それが覚醒して僅か一分で「箱庭」の全てを押し流し、閃光と共に全てを無に帰した。




ローリダ共和国国内基準表示時刻1月4日 午後13時06分 首都アダロネス 第一執政官官邸(エウペ‐セパ)


『――報告致します第一執政官閣下……本日午前十一時未明、反応兵器研究、生産施設が何者かの襲撃を受け全壊した模様です。被害は……厳重警戒区域中央から半径三十リーク以内に存在した全ての研究開発施設及び、貯蔵中の全ての『神の火』が消失……間違い御座いません。全て消失です……事態収拾のため緊急展開した東部管区軍派遣部隊からの連絡も、十二時二十五分の定時連絡を最後に依然途絶中であります』


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