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第二章  「共和国の残照」 (1)




ローリダ共和国基準表示時刻11月03日 午前4時21分 首都アダロネス郊外 ルーガ邸――別名「椿閣(ルヴェンヒルム)」――



 冷酷なまでの炎熱は蜃気楼を以て地平を灼き、全ての緑と生命をその懐に包まんとしていた。

 

 地肌剥き出しの荒地――

 芽吹いたばかりの雑草の青は、燃盛る外気に触れるや瞬時にして水気を吸い取られるようにして奪われ、その枯れ果てた(むくろ)を再び生まれ出でた地へと還していく――


 もう何日、彷徨い歩いたことだろう――それでも夢遊の世界に委ねたその身は、時間の流れと、一切の渇きと苦痛からはまるで天上から俯瞰するかのように無縁であった。むしろ周囲の地平の無限なることが、彼女から一切の理性を少しずつ、だが着実に奪おうとしている――彷徨う彼女には、そう思われた。


 そして彼女を突き動かす一つの思い――歩かねば。

 歩みは拙く、そして緩慢。

 見上げれば、烈日は眼下に獲物を見出した猛禽のように彼女の頭上を占め、そして毒と熱のこもった眼差しを光として注いでいる。

「…………」


 自分は、何のために歩いているのか?……歩くために彼女は、もはやそれすら忘れた。

現実とも夢とも区別のつかない、あまりに過酷な荒れ野の旅――疲労と緊張との弛緩は、一歩を踏み出した直後に穿たれた陥穽となって彼女の片足首を捉え、そして引き摺りこむ。

「――――!」

 自らの不注意を呪うのと、流砂の滝壺に身を委ねるのと、ほぼ同時――

 もがけばもがく度に、流砂は彼女の手、足を捉え永劫の墜落へと誘おうとする――



 夢の中、息の詰まるような感覚が、全くの紛いものであることを、彼女は知っている。


「…………」

 静寂と暗闇、そして香の匂いの支配する寝台で、ルーガ‐ラ‐ナードラはゆっくりと目を開けた。目を開け、豪奢な、広い寝台の天蓋を見詰めながら緑の瞳を闇に馴らす……そこに、つい先刻まで悪夢に身を委ねていた者の怯えや驚愕は無かった。

 

 自分が悪夢を見ていることは、ナードラにははじめから判っていた。だが目覚めてその不愉快な夢を中絶しようと思わなかったのは、夢の中で彼女自身の行く末を見届けたいという、恐怖とは無縁な好奇心があった故のことだ。それに、同じ内容の悪夢なら、彼女はこれまでにもすでに三回は見ていた。


 ……そう、同じ悪夢ばかり見る。

 完全に闇に慣れた目を、ナードラは窓辺の方向に凝らした。分厚いカーテンに覆われた、壮麗な中空庭園へと続く窓。冬の夜は未だ明けず、冷厳な闇は未だ、勢いを失いつつある日の出を前に居座り続けている――


 ――ふと、外の何処かで鳥の無く声を聞いた。




シレジナ方面基準表示時刻11月03日 午前6時17分 ローリダ政府直轄領シレジナ マナビアス沖。


「砲撃が始まったぞ!」

 前進命令こそ未だ下されてはいなかったが、それが近いことは、上陸前の制圧射撃の始まりを告げる誰かの叫び、そして曇天の雷の如く断続的に響き渡る砲声から十分予想できる事であった。沖合を埋めるそれぞれの輸送船内では朝食の配食が始まっていたが、上陸作戦に臨む兵士たちの大半は、慣れぬ洋上生活の結果として、それに心からの食欲を示さなくなっていた。余りにも窮屈な航海故に、誰もが上陸を望んでいた。喩え上陸した先に、針山の如き重火器の槍衾が待ち構えていたとしても――


 その輸送船「アルバシーⅡ」の船橋下部、兵員用食堂――

 「食事は兵士にとって最良の娯楽である」という使い古された言葉を、今更ながらに噛締めている者がそこには多かった。本国で輸送船に乗込み……否、家畜のように詰め込まれて航海を続けることほぼ20日――単調な航海は先日を以て終わり、乗船する臨時歩兵第112連隊の将兵は、この日の朝を以て予定された死地へと送りこまれようとしている。この「新世界」において列強国家の一角たるノルラント同盟に急襲され、制圧されるに至った海外直轄領シレジナを奪回するために編成された水陸両用打撃部隊の先鋒として……


 本来は国営商社たる南ランテア社所有の貨物船で、現時点ではシレジナ奪回部隊の指揮下に在る「アルバシーⅡ」。その兵員食堂の一隅で、共和国国防軍二等兵 セオビム‐ル‐パノンはおそらくは彼が人生で最後に食することになるであろう(トレイ)の中身を、ゲンナリとした表情も隠さずに見下ろしていた。堅い黒パンは、それだけでキャッチボールが出来る程硬く、そして酸っぱい。野菜スープは起き出したばかりの消化器に優しい、適度な暖かさを保っていたが、味は薄く、そしていくら匙で皿の底から掻き乱してみたところで具は僅かしか掬い出すことが出来なかった。堅く、噛み千切れない程筋張った川魚の燻製、ローストビーフとは名ばかりの、下に敷いた手紙の文面を透かして見ることができる程薄い肉の切れ端、舌が痺れる程塩辛く漬け込まれ、皿に盛られた時にはもはや原型すら留めていなかった不味いキュウリとキャベツの酢漬け……


 ……もう何百年も続いているかのように思える上陸作戦参加部隊の朝食を、宗教的な儀式のように口に運ぶ……それまで何ら痛痒も感じなかったのが、この出撃の日には特別な感慨が沸いてくるというものだ。つまりパノンは、この日の朝食に遠い故郷アダロネスの、自宅の朝食を重ね合わせていた――


 セオビム‐ル‐パノンはアダロネスの出身で、あと二日で17歳になる。彼の家はパン屋だった。彼自身も幼い頃よりパン職人だった父を手伝い、日々を家業に精を出していたものだった。

 パノンが14歳の時、父が病に倒れた。病状は致命的なものではなかったが、それ以来パン屋の仕事の量に於いて、パノンが占める比重はずっと大きくなった。パノンもまた、一端のパン職人としてそれを望んだ。パノンの努力もあってパン屋は父の代に乗ったばかりの軌道から外れることなく、家庭もまた円満だった。


 だが――


 波乱は、一通の召集令状という形でセオビム家に舞込んできた。そして徴兵に適した壮丁(そうてい)など、セオビム家にはいない……筈であった。五人家族のセオビム家の中の、三人の男性――病み上がりの中年男と、年端も行かない少年、あとは未だ十歳にもなっていない子供――の何処に、過酷な兵役に堪え得る適性があるというのか? それに父はパノンが生まれるずっと前の昔に、二年間の義務兵役を終えている。召集令状なんて、何かの間違いではないのか?

 当然、抗議はした。だが抗議に向かったアダロネス市中央市役所の係官は、パノンらの件とは全く関係の無い書類に目を通し続ける傍らで、こう言い放ったのだ。

「――君らの家だけじゃないんだ。今は共和国全体が非常時を迎えている。東方の蛮族が何時この本土に土足で踏み入って来るか判らんというのに、君らだけが(いたずら)に権利を振り回されても困るというものだね」

 ローリダ共和国において法定の徴兵対象と成り得る最低年齢は18歳。だが志願兵となれば16歳から入営することができる。散々逡巡した挙句、パノンは志願兵たるを択んだ。父と弟……そして家族を守るための精一杯の選択――

 入営する日の朝、父は涙を流してパノンを抱き締めた。それが、父の、彼の息子に為し得る唯一の餞けだった。病でだいぶ肉の落ちた父の胸に埋もれながらパノンは子供心に生還を誓ったものだ。入営から僅か三ヶ月の速成訓練の後、共和国陸軍二等兵に任官したパノンは、休暇や準備訓練の期間を与えられることもなく、この臨時編成の「寄せ集め連隊」に配属されている。


「――パノン、なあパノン」

「…………?」

 すっかり冷めた野菜スープの、実入りの少ない水面を覗き込みつつ、沈思に耽っていたパノンを現実に引き戻したのは、やはり朝食の盆を手に隣に座った若い兵士だった。外目では年の頃はパノンと変わらないように見えたが、日に焼けて赤みがかった肌と間延びした顔立ちから窺える土臭い育ちは、隠しようが無かった。パノンの同年兵で、今年で18歳になるクリム‐デ‐グースだ。

 都市出身のパノンと違い、クリムは農村の出身だった。それも農村でも最低辺の、土地を所有しない農奴階級の出身だった。まだ日も昇りきらぬ朝から耕地に出、日の落ちる時間帯までをそこで土に塗れつつ彼らは働く。それでも彼とその家族が日々の糧を稼いでいる耕地は、半年に一度顔を見ることのできるかどうかの間柄でしかない大地主の所有物なのだ。反抗することは勿論、対等に話をすることなど、まずあり得ないことだった。


  生まれてから死ぬまで他人の土地を耕し続けるという彼らの運命から考えて、報酬はいくら野良仕事に精を出そうとも期待できるものではなかった。収穫の過半に達する地代を、ごっそりとさっ引かれた上、僅かに残った彼らの取り分もまた租税や人頭税、キズラサ教会が課す「十分の一税」、あるいは都市に住む地主に土地管理の一切を委託されて赴任してきた「徴収代理人」が、地主に対する「土地管理手数料」として課す「特別税」で掌の上の氷塊の如くに消え、失われていく……それは地方に存在する貧困と隷属の連鎖であり、農奴の次男に生まれたクリムもまたその連鎖を構成する歯車でしかなかった。先年にいきなり課税率が上がり、そこに農作物の不作が重なって租税を払えなくなるまでは……


 租税を払えない農民が、その代償として取るべき手段は、この時期のローリダ共和国では大きく二つに分けられる。土地を売却し、その代金で租税を納めるか、あるいは一家の中で適齢期の若者を兵士として軍に差し出すか……結果として売るべき土地の無いグース家は、次男を軍隊に差し出す途を択んだ。そうして着の身着のまま、奴隷同然に連れて行かれた兵営の中に、パノンがいたというわけだ。


「どうしたクリム?」

 頭を上げたパノンを、クリムは神妙そうな表情で見返した。

「戦闘……始まったな」

「ああ……始まった」

「何とも思わないのか? これが食い納めかもしれないのに……」

「嫌な事は、考えないことにしてる」

「そうか……」

 納得したように頷き、クリムは空で十字を切った。指を組み、食事の祈りを始める。

「……天にましますキズラサの神よ。私に今日の糧を与えて下さったことに感謝いたします。願わくは我が糧が、あなたに対する奉仕の、何よりの力とならんことを……」

 食事の度に神に祈りを捧げる習慣は、都市部ではだいぶ廃れた習慣だった。パノンの家でも祈りを捧げるのは夕食の時ぐらいで、それも指を組んで聖典の一説を唱える程度だ。そういう意味ではクリムの信心深さはパノンにとっては奇異であり、新鮮であった。それは何もクリムだけではなく、農村出身の兵士たちに共通した性格だった。


 「軍隊は、いい」というのがクリムの口癖だった。こと軍隊に籍を置いている限り、その人間が衣食住に事欠くことはまずない。特に毎日、まとまった量の食事にありつけるというのが農奴上がりの彼には魅力的であったらしい。事実、兵役年限を修了してもその福利厚生の充実故に、なおも軍人たり続けることを択ぶ地方出身者はかなりの割合で存在した。パノンとクリムら新兵の教育を受け持った古参の軍曹も、そうしたくち(・・)だった。


「――お前らのような何の取り柄も無い貧民が、飢えたくないと思えば軍隊に入るしかない。それも推薦を受けて下士官になるしか途は無い。おれは重税と強欲な領主しかいない田舎から逃げ出して軍隊に入り、戻りたくない一心で、それこそ血を吐くような努力をして下士官になった。お前たちの中にもおれのような境遇の者も少なからずいるだろう。戻りたくない者は努力しろ。努力し、武功を挙げ、上官にゴマをすって兵営にしがみ付け!」


 「過去の戦役」で消耗した「兵員補充」の名の下、圧縮され、日の出から日の入りまで科目の詰め込まれた新兵訓練課程の最中、数えるほどしかなかった昼下がりの座学のとき、その軍曹は言ったものだ。クリムのそれと似たり寄ったりの貧しい村落を故郷とし、五人兄弟の末っ子というその教班長は、クリムと同じく重税を納められないが故の「身売り」の結果として兵営の門を潜り、長じて「栄達」を遂げたのであった。そして「スロリア戦役」の「勝利」の結果として、班長やクリムのような農奴出身者がローリダ軍の俗語で「兵営の王」とも呼ばれる下士官へと昇任するための間口は、今では大いに啓かれている。何故なら、下士官が物理的に不足を来たすようになったからである。戦争による損耗で――


 パノン達のような新兵は知る由も無かったが、「スロリア戦役」後、空前の下士官と下級士官の損耗は深刻な事態として軍の人事部門の双肩に圧し掛かって来ることとなった。(もっとも、軍の上層部は「『スロリア戦役』だけではなく、それ以前の数多の戦役による損失が累積した結果として、これらの階級に属する人材の損耗率が無視しえぬ段階にまで達した」とこの事態について元老院に対して釈明した)

 階級で言えば伍長以上、大尉以下の階級は、ローリダ共和国国防軍、その敵手たる日本国自衛隊においても組織の実践部門における中核であり、重要な人的資源の大部分である。従って、軍の人事部門は新規徴兵の対象になった者の中で、それらの階級を得るに学歴的、経歴的に適性ありと判断し得る者、それらの階級を得るに僅かでも相応の適性を見いだすことのできた者に特別の措置を講じる必要に迫られた。それは具体的には士官、下士官候補生制度の拡充であり、人事制度の改善であった。それでも経験豊富な下士官、下級士官の補充は、満足な結果をすぐに出せるというわけではなく、改善は依然継続中だったのである。


 ――その、「スロリア戦役」。

「――てめえらは、なあんにも知らねえ。俺たちがスロリア(向こう)でどんなに想像を絶する経験をしてきたか……」

 新兵訓練課程の締め括りたる野外演習の合間、野営するための宿営地に居合わせた他部隊の古兵は、現状に対し初心な若手に対する嘲弄と苦笑の入り混じった表情で、勝利に終わった「スロリア戦役」の「実際」を語ってくれたものだ。もちろん、将校たちの多くが「戦略研究会」と称するパーティーに参加するべく、演習場郊外にある広大な某将官の別荘へと出かけてしまった後のことだったが……

 「スロリア戦役」の帰還兵――彼が語ってくれた内容は、パノンのような新兵たちにとっても衝撃的なものだった。その古参兵は、従軍した部隊がニホン軍の攻勢を前に敗走を重ね、指揮系統の崩壊した部隊は命からがらスロリア西部のノドコール植民地へと逃げ帰って来たのである。彼自身、その戦闘の過程で所属する小隊が壊滅し、装備も物資も失った挙句に身一つでニホン軍の追撃から逃れ、ノドコール国境を跨いだのだった。

「――ニホン人は強い。何より、あいつらの撃つ弾はミサイルから銃弾までよく当たる。俺たちが数発撃って照準の修正をしている間に、あいつらは十発二十発とバカスカ撃って全部狙ったところに命中する。俺たちがまともに太刀打ちできる相手じゃない」

「…………」

 古参兵の話は、パノン達がそれまで兵営で聞いてきた話とは全く違っていた。やはりそれまで数えるほどしか行われなかった座学の時間で、兵士の精神教育を担当していた宣撫士官は、話がかの「スロリア戦役」に及ぶや自軍の「精神的優位」を強調し、「蛮族」たるニホン人に対する蔑視を植え付けようと躍起になっていたものだが……

「……でも、戦争はこっちが勝ったんでしょう?」

「勝った!?」

 パノンの問いかけを、古参兵は怒った野獣のような眼差しで睨み返した。

「勝ったってぇのはな、敵の領土を分捕って、敵の金品を手に入れて、敵のやつらを奴隷にして初めて勝ったって言うんだ。少なくともスロリアの前まではそうだった……だが、スロリア戦は違う。あの戦いで政府は元より俺たちも、失ったものに吊り合うだけの何も未だ手に入れちゃいない。そんなのを勝ったとは、到底言えねえ」

 


 ……古兵の話を思い出しつつ、片手でフォークを弄ぶうち、パノンの意識から食堂の風景は消えていた。やはり生まれて初めて戦地へ赴くことへの不安が、彼の朝食の時間を虚ろなものにしていたのかもしれない。

「――パノン?」

「どうした……?」

「食べないのか?」

 と、クリムはフォークでパノンの盆を指すようにした。クリムの盆は、すっかり平らげられ、虚無のみの盛られた食器と化していた。

「ああ、いらない」

 と、パノンはクリムにまだ半分ほど量の残っている盆を押し付けるようにした。パノンのような街育ちにとって、軍隊の食事のお粗末さは、とてもではないが堪えられるものではなかった。特にまる二週間、慣れない船旅を強いられている今ではそうだ。喜色を隠さないクリムが、パノンの盆にフォークを突き立てようとしたそのとき――

『――第112連隊、装備着用の上、上甲板、上甲板に集合! 上甲板に集合せよ!』

 スピーカーを通じ流れて来たのは、出撃命令も同然だった。一切の感情を排した、事務的な口調がそれを物語っていた。パノンは席を立つや、座席の下から背嚢を取り出して億劫そうに担ぎ、そして駈け出す――

「そおら来た!」

「何だよせっかくのメシを!」

 悲鳴に近いクリムの声……その瞬間、人生で最後になるかも知れぬ食事を堪能する機会を、多くの新兵たちが失ったことは確かであった。




ローリダ共和国基準表示時刻11月03日 午前7時24分 首都アダロネス サン‐ベルグルーナ大聖堂


 黒――人為的に拡がる闇の支配する空間は広大で、天頂部分を彩るステンドグラスのみが、多色の淡い光を投掛けていた。

 

『――神は見守っておられる。迷える人を、泣ける人を、悩める人を……未来への絶望は無用の行為である。神は神を信ずる者に、より善き未来を与えるであろう……』

 注意深く見れば、漆黒の空間に集う群衆を前に説教を続ける司祭の、その背後に聳える巨大な祭壇を飾る彫刻個々の、豊かな表情の詳細を目にすることが出来る筈であった。歓喜、悲哀、苦痛、憤怒――古代の長衣に身を包んだ彫刻の人物像は区々(まちまち)であったが、彼らの眼差しはいずれも祭壇の最上部に向けられ、何時の日か天上より降臨するであろう何かを、あたかも烈日の驟雨(しゅうう)のごとくに待ち侘びているかのようであった。


『――神を渇望せよ。さらば神は与えられん。神は偉大なり。神は万能なり。神の御光照らす処、汝らに道は啓けん……』


 渇望――その日、ここサン‐ベルグルーナ大聖堂に集った四桁にも上る参詣者の中で、少なからぬ数の人間がそうした思いを胸に秘めていたかもしれない。建立以来150年、ローリダ共和国首都アダロネスの一角を占める大聖堂は、主に市井の一般庶民から上流市民層を対象にその信仰を伝え、広めてきた。そして現在彼らの国の置かれている状況が、聖堂に集う群衆に恐らくは未来への不安を与え、そして彼らの信じる神の救済を求めていた。


『――キズラサの神は我らを試しておられます。我らの信心の続く限り、何者も我らから安寧ある未来を奪うことはできません。喩え悪魔の国が我らを貶め、悪魔の民が我らの約束の地を穢そうとも、我らは信仰を棄ててはなりません。神は見守っておられます。神は悪魔を決してお許しにはならないでしょう……』


「悪魔の国ニホン」

「悪魔の民ニホン人」


 ――その固有名詞がローリダの市井の人々の間で市民権を得るようになって、すでに三年近くの歳月が過ぎようとしていた。突如東方より出現し、共和国の「明白な(マニフェスティア)る天命(・デステニカ)」を嘲笑うかのように挫折せしめた謎の勢力。「明白なる天命」の尖兵たる共和国国防軍は彼らの圧倒的な軍事力を前に共和国史上空前の大敗北を喫し、未だその痛手から立ち直れずにいる。ことスロリアの件に関し、政府は表立って「敗北」の一字を使うことはなかったが、今や帰還兵の口や国外の様々な媒体から漏れ伝わる風聞から、「敗北」は少なくとも首都アダロネス市中においては公然の秘密となっていた。何よりも、その「敗北」の余波としか思えない影響が、時間差を置いて彼らローリダ人の社会にも押し寄せて続けている――


「…………」

 瞑想――漆黒に満ちた群衆の海の一角。

 頭から肩を覆う純白のヴェールは、周囲を覆う漆黒の中でも明らかに目立った。そしてそれ以上に、その主の醸し出す硬質の空気が、周囲の人々に主に対する距離を、自ずと置かせていた。薄いヴェールの向こうで閉じられる瞳、睫毛は長く、白皙の頬は人ならぬ神々しさすらヴェールの内側に宿していた。薄い唇は、主がこの場に赴いて以来ずっと、声にならない声で祈りの言葉を唱え続けていた。

 

『――神よ、偉大なるキズラサの神よ、戦場に斃れし同胞に祝福を与えたまえ。永遠の安寧を与えたまえ。邪悪なる異教徒に永遠の業罰を与えたまえ……』


 かつて、彼女は戦場に斃れた良人のことのみを此処で祈ればよかった。だが三年前から、それに同じく戦場で斃れた戦友が加わった。司教が語るところの「悪魔の国」との戦いにより、彼女は士官学校の同期たる友人を喪ったのだ。


 彼女――ルーガ‐ラ‐ナードラは思った。

 「悪魔の国」との戦い――あれ以来、共和国(パプリアース)ローリダ(ディ・ローリダ)は変わった。

「激闘の末に得た、蛮族の西侵阻止」――それが三年前の政府公式発表によるスロリア戦役のいわば「勝利宣言」であったが、三年を経た今となっては、それを信じている共和国公民など一人もいない。軍事、政治、経済……戦前より、勝利を前提として回っていたこれら三輪の要素が、「対ニホン戦の勝利」の直後に軋み始め、今では焼き付きと空中分解すら起こし始めている現実を眼前に突き付けられていては、かの「スロリア戦役」こそが、母なる共和国衰亡の転換点と見做す者もまた静かに数を増していたのだった。そして人々は、突き付けられた現実を前に、何ら為すところを知らないかのように見えた。


 「敗北」の余波――その始まりは、一向に還元されない「将来の植民地」スロリアへの投資であった。還元されない資本は、その運用に資産の大半を宛てていた新参の資本家や富裕市民層を一瞬で没落させ、彼らを対象にした融資や資産の管理を請け負っていた民間銀行の経営状態を、不良債権の増大という形で悪化させた。銀行はそれまで他の植民地開発事業に携わっていた企業や個人事業者に対する融資を引き揚げ、あるいは貸出金利を引き上げて債権処理に充当することで対処し、それは結果として開発半ばで放棄された植民地の出現という事態を引き起こしている……否、融資を引き揚げられた事業者側とて黙って引き下がるわけではなく、むしろ共和国ローリダの植民地政策の現場を担う彼らの大半が、元老院議員や有力な騎士階層と血縁、地縁、あるいは金縁で結び付いていたから、銀行の対応は即座にこうした有力者お抱えの「無産階層」による銀行の経営陣に対する脅迫や、物理的な危害という形で跳ね返って来るというわけであった。先年にルーガ総研が作成し、元老院に宛てた年次報告書内で述べたところの「貸し渋り(カシシブリ)」は、今では植民地開発以外の産業分野にまで波及し、共和国の経済に暗い影を落としつつある――


 衰退は、その発端が唐突であるだけ社会を急速に蝕み、そして緩慢に破壊しつつある。そしてナードラ自身も国家の指導的な立場にある階層の人間であるからして、それに向き合う義務があると考えている。何にも増して、ナードラ自身かつては対ニホン戦の主戦論者であり、今思えばあまりに楽観的に過ぎた祖国の軍事的優位に対する過信と、敵国のそれに対する過小評価の赴くがまま、その「悪魔の国」を共和国ローリダとの戦争へと志操させた張本人の一人であったのだから――

 

「――――」

 記憶――彼女のそれは、三年前の、共和国ローリダにとって最も偉大で、今ではルーガ‐ラ‐ナードラにとって最も忌まわしい光景を想起させた。



 ――死体の重なり合い、あるいは数分も経ぬ内に「謀殺」が為されたその場所。

 ――彼女は立ち尽くす。死体の重なりの中で、最もローリダが憎み、その生を奪うことを欲していた人物の許へ。

『…………』

 今までは、それで全てが上手くいっていた。

 そして今回も、全てはそれでうまく行く筈だった。

 和平交渉と称し、懐中に誘い出した敵国の首班に屈服を強い、あるいは殺害する……それは文明度の低い異種族に対するに効率的な「征服」を行う上で有効な手段の一つであり、そして高等文明の担い手であるローリダに反抗した「蛮族」に対する報復の一環でもあった。

 そして今回も、それで一つの「蛮族」が終焉を迎える筈であった。

 ニホンの首班――完全にこと切れ、血の泥濘の中に身体を横たえる男の傍に佇むのと、生を奪われる間際に在っても毅然として言葉を発した男の姿に震撼を覚えたのと同時。


 そのとき――

 気配――背後の席を占めたそれを察するのと同時に、ナードラの眼が開く。瞳の色は、暗がりの中にあっても透き通らんばかりの深緑を湛えていた。

「――ガーライル……何時、アダロネスに戻った?」

 囁きに近い大きさだったが、美しい声だった。背後の気配が鼻で笑うのを、彼女はやはり気配で察した。

「何故、私だと分かった?」

「ここまで臭うのだ……お前が流してきた血がな」

「…………」

 気配の主から、言葉が消えた。だが怒りや失望によるものではなかった。何故なら、背後の黒い影は、前に座る白いヴェールに友愛だの癒しだのを一片たりとも期待していなかったから―――――

 黒い影が、言った。

「……帰ってきたのは、昨夜だ」

「商売か? それとも私事でか?」

「商売?……任務と言って欲しかったな」

「任務と呼ぶには、お前たちの仕事は悪どさが過ぎるな」

「かつて敵国の首班を自陣に誘い出して謀殺した烈女の言葉とは思えないな。我が友ルーガ‐ラ‐ナードラ」

「我が敵ミステルス‐ル‐ヴァン‐ガーライル……痴れ者が……!」

 語尾に宿る感情の発露――その中にあからさまな隔意は、黒い影をむしろ満足させたように思われた。


『――神とともにあるべし……!』


 説教が終わり、そして礼拝は終わった。



「――――!」

 ヴェールを脱ぎ、ナードラは大きく息を吸い込んだ。漆黒から抜けたばかりの視覚に、初冬の日差しは痛く、そして冷たきに過ぎた。それでも、あの群衆の中で感じた重苦しさを払拭するのに、午前の空気は十分な清涼さを持っていた。ぞろぞろと聖堂より外に出る人々の中には、そうした彼女に美しさに息を呑み、思わず振り返る者もいたが、当のナードラは、もはやそんなことには慣れっこになっているかのように、人々の視線からは超然としてゆっくりと石造りの階段を降り始めている。

 後に続く乳母が、躊躇いがちにナードラに聞いた。

「お嬢様、何かお話を……?」

「それは言うな。エリサ」

 乳母は押し黙った。彼女の口調は平然としていたが、普段の彼女が絶やすことのない余裕が失われていることを、彼女の忠実なる乳母はすぐに察した。


「……お恵みを、どうぞご慈悲を……」

 薄汚れた手、あるいは椀……唐突に、あるいは震える手で差し出されたそれらを、歩を停めたナードラは眉ひとつ動かさずに凝視する。聖堂前に屯する襤褸を纏った浮浪者の群、それらは先年より急速にその数を増している。政府の経済政策の失敗の帰結として衣食住の保証を絶たれた下層民。あるいは首都の辺縁より田畑を棄て流入して来るかつての自営農民のなれの果て……そのさらに根本的な原因はやはり――そして、共和国(パプリアース)ローリダ(ディ・ローリダ)は「優勝劣敗」、「適者適存」という、その建国以来この国を支配する社会通念上、そうした「弱者」にとって決して生き易い場所ではない

「お嬢様……?」

「エリサ……」

 哀願の目で同意を求められ、緑色の瞳が同意に煌めく。銀貨を詰めた鞄を開け、ナードラの前に立った乳母が浮浪者たちに慈悲を与えている間、ナードラの廻らせた瞳は、一台の高級乗用車の前で止まった。

 ガーライル――ナードラがそう呼ぶ男は、それまで身を包んでいた黒いマントを解き、その無機的な眼差しをやはり彼女に注いでいた。だが、その顔は紋様に彩られた仮面に覆われ、見る者に彼の感情を図る術を喪わせていた。仮面が、三年前に名も知れぬ紛争地帯で顔に戦傷を受けたが故のことを、ナードラはつい最近に知った。

 ナードラの眼前で、仮面の男は懐から徐に何かを取りだした。掌に収まる程度の大きさでしかない「それ」を耳に充て、仮面の男はまるで電話でも扱うかのように振る舞っている。

「ほう……」

「まあ……!」

 同時に起こる感嘆――乳母は眼を見開き、ナードラは眼を細める。

 乳母が言った。

「神聖な場所に……ニホンの物を持ち込むなんて……!」

 あれが、噂に聞く「ニホン式電話機」か……仮面の男の振る舞いを凝視しつつ、ナードラは思った。思えばこれも「悪魔の国ニホン」と関わったが故の、一つの結果だった。「あの戦争」以前から、この「新世界」中に大量に拡散を続ける「悪魔の国」の文物。それが「あの戦争」後には、今や我が偉大なる母国にまで第三国を通じ浸透を始めている……!

 「ニホン式電話機」など、その顕著な一例だった。有線の回線を介することなく、しかも場所と手間を選ばずに遠方の人間と会話ができる魔法の電話。我が共和国ローリダでは空想科学小説にしか登場しえない奇跡を、あのニホン人はとうに現実のものとしているのだ……!


 太陽光線で稼働するという手のひらサイズの計算機。ローリダのレコードやフィルムなど比べものにならない程大量の音楽、映像、さらにはそれら以外の大量の情報を詰め込むことのできる極小型の記憶媒体。デジタルカメラなる高性能の小型写真機。大きさにしてローリダの家庭用テレビ受像機、あるいは卓上電気計算機程度の大きさでしかないのに、それら以上の広い用途と性能を発揮する、パソコンなる家庭用(それが政府や軍専用ではなく、日本ではごく一般の家庭用……という点にナードラは少なからぬ衝撃を受けた)電子計算機。そして、加速、燃費、操縦性……全てにおいてローリダ製のそれを遥かに凌駕する性能を持つ乗用車や各種機械……日本は母国ローリダと戦端を開くずっと前から、そうした彼らの文明の所産を生み出し、使いこなし、彼らの製品を新世界に広く浸透させつつあったのだ。

 「浸透」……といえば「ニホン式電話機」もそうだ。「ニホン式電話機」は、電波中継用の機器とその末端たる電話機のセットで初めて機能するという。つまり、此処アダロネスの何処かに中継用の機器がある筈だが、市中でそれを見出すこともできなければ、当局もその「悪魔の国の利器」を積極的に捜索し、摘発している素振りすら見えなかった。理由は大体察しが付く。個人が小型の電話機を持ち歩き、時と場所を択ばず通話するということが、アダロネスの役人には未だ想像の外なのだ。我々の想像を超える技術力。それ故に、ニホンの「浸透」は横行している……


 ……その「ニホン式電話機」で会話する仮面の男を無心に眺めながら、ナードラは言った。

「私も欲しいな、あれは……」

「お嬢様……!」

「戯れ言だ。本気にするな」

 そのとき、会話を終えた仮面の男が、再びナードラを顧みた。

「…………?」

 笑った……仮面でそうは見えなかったが、ナードラには判った。一転し踵を返し高級車の後部席に乗込む仮面の男、同時にナードラの注意を惹いたのは、その彼に、影のようにつき従う二人――

『異種族……?』

 背の高い青年だった。漆黒の肌、細身だが引き締まった上半身の胸板が、金色の装飾品とともにハーフコートの襟から覗いていた。編み上げた(こわ)い黒髪の束は肩までかかる程に長く、長い鼻筋と異常に発達した首回りが、常人に近付くのを躊躇させるほどの威圧感を醸し出している。眼は細いサングラスに覆われていたが、その向こうに強烈な殺気を宿していることぐらい、ナードラにはすぐに判った。

 そしてもう一人―― 一見する限りでは少女だった。背は大して高くはない。ただ、上下黒一色の服から窺える細い、鞭のような肉体の輪郭は、厳しい肉体的鍛錬の賜物であることをナードラは同じ一見の内に感じ取った。蒼空を写し取ったかのような青い、豊かな長髪――その横から覗く尖った、大きな耳が、見る者に種族の違いを厳然と印象付けている。その眼差しは、やはりサングラスに覆われ、ナードラですら窺い知ることは出来なかった。若い……ただし、二人とも只者ではない。彼らの容姿と立ち居振る舞いは明らかに、過酷な修練を経た末に、影に生き影に死ぬ運命を持つ職種の人間のそれであった。

 

 仮面の男が後部座席に乗り込み間際に顎をしゃくるようにした。それが合図だった。仮面の男に続きほぼ同時に車に乗り込む二人。そして車はそのまま動き出し、聖堂の敷地を抜けていった――


 ナードラもまた、時を置いて車を聖堂より走らせる。聖堂の正面より車道に出、暫く走った後、ナードラの乗った車は聖堂方向へと向かう数台のトラックと行き合う。灰色の車体、黒い政府公用車専用ナンバープレートを付けた軍仕様の大型トラック。その荷台に乗込んでいる、個性を圧殺する白い防護面に身を包んだ黒服の要員……それは、この国においては最強の治安機関たる共和国内務省保安局(ルガル)と並び、民衆――それも貧しく、生活能力の皆無に等しい人々――に恐れられている存在であった。

「『選別班(ガナト)』……」

 すれ違い、そして予想通り聖堂方向へと向かっていくトラックの一群を、ナードラは自分でも自覚しない内に無表情のまま、私用車の後部席から見送っていた。乳母に至っては、肩の震えと目の強張りを隠そうともしない。

「お嬢様……!」

(せわ)しいことだ……あの連中も」


 「選別班(ガナト)」――正式名称、共和国人種衛生局人口調整課。それは「人種衛生面で、優良なるローリダ人の繁栄に不適格とされる要素の排除」を企図して創設され、「高等種族たるローリダ人に相応しからぬ不健全、不道徳的な生活様式を有する無産市民」の拘引、「一般矯正施設」への収容を行う執行機関である。また、それに加え彼らは薬物投与、断種、脳外科手術、そして専門用語で「最終的解決」とも称される安楽死処置といった「先進文明的手法」を駆使した不適格層の「高度矯正」をもその主任務とするのだった。

 

 ……おそらくは、今朝礼拝に出た何処かの「お節介」が、聖堂の浮浪者たちのことを人種衛生局に通報したのだろう……速度を上げ始めた車の中で、ナードラはそう考えた。適者適存、優勝劣敗を人間社会発展の礎とする共和国ローリダにおいて、貧困とはその状況下にあること自体が許し難い罪であり、それから脱する能力も意思もないと判断された者は、共和国公民たるの資格なしと見做される。それが、ナードラがこの国に生を享けるより100年以上も前から、国家指導層の明確な意思として存在していた国是であった。つまりは100年前、かの「共和国人種衛生法」が公布されたときに発せられた元老院の布告を引用すれば、「自然の摂理は、弱肉強食であり、優勝劣敗、適者生存である。底辺層、異常者が一定数以上に増えた文明社会は活力を喪い衰退する。文明社会の衰退を防ぐには、競争と選別によりそうした『不安定要素』を、人為的に排除せねばならない」……というわけである。


 ニホンでも、我が国がやる様な「淘汰」を行っているのだろうか?……支道を駆け、アダロネス市内を東西に貫く大通りを前方に見出した車内で、ナードラは暫し考えた。



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