表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
49/83

序章  「兵棋演習」

ローリダ共和国国内基準表示時刻1月4日 午前1時12分 首都アダロネス郊外


 真夜中に「椿閣(ルヴェンヒルム)」を出た車は、それから一時間余りで首都圏を出、その後は薄い緑の拡がる高原帯を走る内に日が替わった。

 もっとも、ルーガ家に仕える運転手にとっても、後席に坐するルーガ‐ラ‐ナードラにとっても知らない道ではなかった。高原もその標高が上がり、首都アダロネスからの距離を開くに至り、車は屋外灯の居並ぶ直線道路に達する……共和国国防軍士官学校の外苑、名物たる高原練兵場(ハイラブレン)に達した瞬間だった。日が昇っている間は遠方の山々とも相まって抜群の景勝ぶりを目に入れることが出来る。


 「緑萌ゆる高原の若人の家」――と、かつての宗主国ギルタニアの詩人セオナトス‐セレンは、自らの筆より成る旅行記の中で国防軍士官学校を指してそう詠んだ。今から遡ること約二百年前の話で、その時点で共和国ローリダの独立からは三十年、国防軍士官学校の創設から十年が過ぎていた。尤もその頃は未だ国防軍士官学校とは呼ばれておらず、単に士官学校と呼ばれていた。勿論「転移」から遥か昔の話である。


 北暦1302年、独立戦争当時はノーディアポリスと呼ばれていたアダロネスの辺縁を守備し、陸河の交通を監視する目的で普請された砦に士官学校の前身は遡る。独立が達成された後、純軍事的に不要となった砦を流用する形で士官学校が開かれ、以後を共和国ローリダの軍隊がその規模と展開する領域を拡大させていくのに比例する形で、その校舎と敷地もまた充実を見ていくこととなった。創建以来の本部にして聖堂も所在するギルアニス砦を中心に大講堂と一般講堂、観閲練兵場、そして教練練兵場が並ぶ。それら中枢を更に取り巻く様にして学校幹部と教官、そして生徒宿舎が連なる。特に生徒宿舎は高原帯と首都圏を隔てる断崖沿いに、それも斜面に屹立する形で拡がり、部屋からの眺めは当然ながら見事なものであった。


 ただし生徒は入校してから一年は士官学校の敷地から出ることを一切許されず、後は宿舎と本部、あるいは砦から離れた高原の練兵場を行き来することに終始する。それが創立以来の慣習ではなく、創立から二十年を経て弛緩し切った士官学校の風紀を糺すために新たに導入された慣習であることをナードラが知ったのは、彼女が身一つの他には旅行鞄一個を持って士官学校の正門を潜ってから三ヶ月後のことであった。

 齢十六歳のルーガ‐ラ‐ナードラ生徒が入校を果たした時、「一年目の慣習」は上流階級子弟のサロンと化した士官学校生徒宿舎を流れる香水とカカオの匂いの入り混じった甘ったるい空気を前に、時を追うごとに浸食され、緩慢な屈服を強いられつつあったものだ。富裕な家の出の生徒は何かと理由を付けては士官学校を脱し、あるいはそのまま卒業の日まで戻って来ない者すらいた。規則と罰則の守護者にして行使者である筈の教官たちもまたこれを黙認していた。ナードラはと言えば、士官学校を支配する外界の空気に対し超然として、士官学校生徒としての襟を正し続けて一年目を終えた。


 舗装された直線道路は、そこを走り出してから十分余りで消えた。

 士官学校の正門を目前にして、車はギルアニス砦創建以来の石畳の道を、不気味にサスペンションを揺らしつつ右折と左折を幾度か繰り返す。予め舗装された平坦な道を行くことを前提とした高級乗用車が踏み入るには、あまりに丁重な造りの路ではないことぐらい、車上に在ればよくわかる。

 屋上に見張り台のある石造りの門。元はギルアニス砦の支城的な兵糧集積所で、堅固な門構えの他、その直前まで蛇の様に曲がりくねった門前の道もまた、寄せ手の突入を困難ならしむるためのひとつの工夫であった。士官学校への流用に際して行われた改装により、門として機能し得る箇所のみが補強の上で残され、本部へと通じる石畳の道もまた引き直された。工事の完遂と同時に、門を境にして士官学校は外界と完全に隔絶されることになった。爾来二百年に亘り士官学校は、この門から共和国国防軍に将来の指揮官たる人材を送り出し続けることとなったのである。


 門扉の閉じられた正門前で車は止まり、傍らの哨所から小銃を背負った兵士が進み出て来る。ルーガ家の運転手が通行証を兵士に示し、それを一瞥するや兵士は速やかに哨所に戻って本部に開門を促したようであった。士官学校卒業者にのみ与えられる優待入校章、これを提示された以上、士官学校はその要件の如何を問わず無条件でその所有者を校内に招じ入れなければならない……が、今のナードラには単なる卒業生の気紛れに依らない、この深夜に士官学校の深奥に足を踏み入れる正統な名分が存在している。


 鈍く、足元を揺るがすかのような響きを立てて門扉が開く。入校式と長期休暇の初日に、この辺り一帯が様々な高級車で埋め尽くされていたのをナードラは門を潜りつつ思い出していた。本来、士官学校の広汎な敷地内には国防軍鉄道連隊の管轄する物資及び人員輸送用の駅があって、休暇を得て帰宅する生徒は列車に便乗しそこから最寄りの街まで出ることになっていた。しかし、それを好まない生徒あるいは彼らの父兄が差し向けた乗用車で、決して広いとは言えない門前の空間は、長期休暇初日にはまるで首都アダロネスの官邸前中央道のように渋滞を起こしてしまうのだった。

 自分で引き起こした渋滞に辟易した父兄の中には、士官学校敷地内に飛行場を造営せよと言う者までいて、それは後に、空軍要員に初歩操縦訓練を施すための飛行場造営となって実現を見ることとなった……勿論、休暇の間中軍用機ではない飛行機がそこの主となるのは言うまでも無い。ただし、決して無駄な行為ではなかったのも事実だ。何しろ今の共和国国防軍空軍は、半ば殺人的な必死さで操縦士の大量養成に取り掛かっている。


 正門を抜け、本部たるギルアニス砦で終点に達する並木道を車は走り続けた。その途上、独立戦争時に使用された火砲から現有の火砲、共和国国防軍の旧型戦闘車両及び航空機が展示場に居並んで車を出迎える。更に奥へと進めば、軍服も凛々しい将官やら幹部やらの立像、あるいは騎馬像の居並ぶ一帯に車は差し掛かる。いずれも士官学校を出、長じて共和国ローリダに数多の戦勝と栄光をもたらして来た英雄たちであった――あるいは戦場に斃れ、母校における顕彰の対象となった「軍神たち」――彼らの言行に憧れ、あるいは何時の日か彼らの列に加わらんとして士官学校の生徒たちは学業と武技の修練に励む。


 大講堂――百年前、当時最大の対外戦争の戦勝を祝い、時の第一執政官を始めとする数多の元老院議員の寄付により建立された建物の前で車は止まった。車寄せを兼ねた正面入口に在って彼女を出迎える女性士官の姿を認め、ナードラは白皙の頬からやや険しさを消した。警備兵を従えたミヒェール‐ルス‐ミレス少佐が、微笑と共に彼女の主を迎えた。


「お帰りなさい。代表。お言いつけどおり既に始めておりますが、宜しいので?」

ナードラは微かに笑い、直後に表情からそれを消した。

「好都合だ。戦争そのものは既に始まっているであろうからな。特にニホン人にはそのような傾向が高い」

「はい。ナードラ様」

「彼らが四年前のように奇襲を択べば、全ては一気に混迷へと転じよう」

 あとは沈黙に身を任せ、二人は大講堂の深奥へと廊下を歩き続けた。士官学校の全生徒と教員を収容可能な広さを有する講堂、その直下へと通じる螺旋階段を下り、その先に設けられた一つの空間に通じる両開きの扉の前で二人は歩を止める。大講堂地下の屋内体育室が彼女たちの向かう先であった。進み出た衛兵により開けられた扉の向こう、吹き抜けの通路から下に臨む体育室の変貌ぶりに、ナードラは通路を歩きつつ黙って目を細めるのだった。



「…………!」

 総面積にして上層の講堂の半分。共和国ローリダに存在するあらゆる体育競技を実施可能な程の広さを誇る屋内体育室は、今となってはその三分の一を巨大な戦況表示盤に支配されている。スロリア中部からノドコール全域を網羅した巨大な地図の中で再現されたスロリアの山と海、そして平原上には各種の軍隊符号が置かれ、それは吹き抜けの通路に在って表示板を俯瞰する側からすれば、一瞥でスロリアの地に蠢く敵味方の配置と動静を把握する一助となっていた。

 特に青一色の軍隊符号はスロリア中部からノドコールの東部、南方海域に至るまでその展開領域を拡大しており、ノドコール中部から西端まで犇めく様に配された赤一色の軍隊符号を、海陸より半包囲の態勢に置いている……それも、年を跨ぎ現在に至る僅か二週間の内に達成された迅速なまでの兵力展開であった。ノドコールは東南より攻められようとしている。今に始まったことではなく、あの「スロリア戦役」後に成った三年の休戦期間を経た後の、避けることあたわぬ戦争の再開――というべきであろうか?


『――国外情報分析班より報告。青軍機甲旅団、ノドコール――スロリア境界への終結を確認』

 拡声器で下される指示に従い、図上の軍隊符号が動く。立て掛けられた世界地図を背景に、台上から戦況表示盤を見下ろしつつ指示を下すのも、下された指示に従い符号を動かすのも、灰色の制服に身を包んだ国防軍士官学校の生徒であった。首都の国防軍総司令部の地下指揮所を思わせる活気が士官学校の一角に生じていた――それは通年通りの冬期休暇に入った士官学校を舞台に、ルーガ総研が計画した「兵棋演習」の始まりの光景だ。



 演習を実施する上で必要となる要員を士官学校の生徒から募集したところ、休暇中の実施にも関わらず定員を大幅に超える生徒が志願して来たのは、ルーガ総研に演習の場所を提供し、募集そのものをも実施した士官学校本部にとっても、兵棋演習そのものを企画したナードラ本人にとっても意外な反応であった。志願者の中には士官学校の教官を務める正規士官もいる。陸海空を表す赤白青の士官正装を纏った彼らもまた、休暇を返上して生徒たちの中に入って軍隊符号を動かし、あるいは戦況表示盤の傍らで国外の動画放送に注視し戦況を動かすに足る情報の収集と分析に取り掛かっていた。


 兵棋演習と銘打ってはいるが、この場には表示板上で再現された戦況を動かす賽も無ければ、賽の出目に目を光らせる統裁官もこの場にはいない。ニホンの衛星通信網から受信する動画放送と、ルーガ財閥関連企業の国外事業所から送信されるテレタイプ通信の内容が、この場合戦況を左右する賽の目の役割を果たしている……全ては、この場から数千リークの陸海を隔てたノドコールで対峙する同胞と、侵攻軍の一挙手一投足を追跡することに傾注されている。ただその行為を実施するに当り、望外の数の志願者が殺到したという事実が、未来の国防を担う生徒と若手士官の間に少なからぬ危機感が共有されていることの現れであった。


 清水に溶けつつ沈む氷塊を思わせる声で、ナードラは言った。

「ミヒェールのお陰だな。よほどお前の講義が衝撃的であったと見える」

「なるべく深刻な危機感は持たせまいと努めたつもりですが……」と、戦況表示盤を注視するミヒェールの横顔は浮かれてはいない。ルーガ総研研究員という肩書で、彼女は士官学校の講義も受け持っている。「ニホン軍概論」というそれは、不定期かつ自由講座の形態を取っていながら、講義の中にニホンの軍事力からニホン社会の内情まで網羅しているが故に、最新の軍事知識を渇望してやまない士官学校の生徒たちには高い人気を誇っていた。講義の度に教室に生徒が入り切らないのが常態として、時には非番の教官すら末席を占めてミヒェールの講義に耳を傾ける程だ。彼らが入校する前年に勃発した戦争、未曾有の敗北というその結果に受けた衝撃が、共和国ローリダの社会に深刻な衝撃を及ぼし続けているというわけで、未だに打開することあたわぬ圧倒的なまでの劣勢を覆す切欠を、将来の国防軍士官たちは求めていた。その点はナードラですら痛感する処である。



『――偵察機より報告。ノドコール南部洋上、座標ディア17に、青軍海軍の別働隊展開を確認。大型戦闘艦四隻……これは!……全てイージス艦と思われる』

「――――!?」

 「イージス」という固有名詞と共に、漣を思わせる軽い動揺が体育室に拡がる。ニホン海軍でも最強の打撃力と防御力を有する戦闘用艦艇が、四隻もまとまった数で戦闘海域に展開しているという、半ば信じがたい急報が生んだ衝撃であった。

 共和国直轄領ナヴィゲウスを発ち、高空より戦闘地域に浸透した「気象観測機」からの報告、恐らくは先週現地改修で搭載したばかりのニホン製暗視監視装置が、幸運にも艦影を捉えたのだろう。監視装置とは言っても本来は軍用ではなく、ニホン人がとある外国に測量用途で売り付けたものを、その国経由でローリダが入手したものだ。アダロネスの海軍情報部が把握しているニホン海軍「イージス艦」の保有隻数は八隻。気象観測機の監視情報が正しければ、日本軍はこの方面に保有するイージス艦の半分を投入していることになる。あるいはそれ以上かもしれない。


「……『スロリア戦役』以来だな。このような動きは」

 ノドコール南部海上、指定の座標まで押し出されたイージス艦の符号を目で追いつつ、ナードラは言った。

「はい……攻撃準備かと思われます」

「イージス艦で? 艦砲射撃か?」

「……いえ、ナードラ様」

 ミヒェールは頭を振った。

「砲撃よりもずっと遠く、かつ正確にノドコールを叩く積りの様です」

「……始まるか」

 屋内に再現された広大な戦場を、ナードラは険しく睨む。

 鮮やかなグリーンの瞳が烈しく、かつ憂い気に煌めいている。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ