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第一〇章  「The Long Dark Blue Line  SceneⅣ」

 防衛大への帰着から一月を経、十二月も半ばに達しない頃、防衛大の学生たちは彼らが八月以来個々に秘めて来た葛藤を晴らす機会を与えられることになった。


『――内閣府発表。20××年12月8日。我が国は内閣総理大臣の権限を以てスロリア亜大陸に展開中の平和維持軍に命令し、現在スロリア東部を不法占拠する武装勢力に対し、実力を以てこれを排除することと決しました。遡る事午前四時未明、PKFはノイテラーネの各空港施設に展開した航空自衛隊機による武装勢力各航空基地に対する爆撃を敢行。空自派遣部隊は所定の目標をすでに達し、現下に至るまで任務を継続中であります。陸上自衛隊及び海上自衛隊派遣部隊も航空攻勢に呼応し、陸自派遣部隊主力はノイテラーネ領ハン-クット西方100キロまで前進。また別働隊が海上自衛隊の支援の下、スロリア亜大陸中部某所に強襲上陸、前進拠点を確保いたしました――』


 内閣官房長官 坂井 謙二郎の声明は簡潔で、本人の声も機械のそれを思わせる程に抑揚に乏しかったが、十二月八日の早朝、学生食堂傍の談話室に在って国営テレビの報道特別番組に見入る健太郎たち四学年生にとっては、神の宣託を思わせる厳かさを以て聞こえた。戦争は、学生たちの予想を裏切るタイミングで始まり、そして予想を裏切る形で始まった。

 およそ百年前の真珠湾攻撃を思わせる、戦闘機による敵航空基地に対する強襲――それから暫くの時間続いた厳かな記者会見の画像が、誰かのリモコン操作で他の局に切替り、今度は砂嵐の走る低画質の世界で、黒煙を噴き上げる敵の飛行場の全容を映し出す。戦闘空域より一万メートル近く上空を周回する大型無人偵察機の捉えた「戦果確認」の光景――立ち上る黒煙の数、そして太さは、空自が撃滅した敵の空軍もまた、この戦あるを予期し何らかの行動を起こそうとしていたように思われた。


「これは……勝ったな」と、傍らで聞こえた声の主を、健太郎は弾かれた様に顧みた。射る様な健太郎の眼差しの先で、士道資明がただ無感動に広角画面を凝視している。

「勝った?」

「敵は空の傘を失い、しかも我が方の空爆に対し有効な防戦を為し得なかった。これは敵の策敵警戒能力、対空兵器の性能が我が方より劣る事を意味する。違うかな?」

「……」

 健太郎の沈黙……その代わりを埋めるかのように、資明の言葉は続いた。

「ぼくには意外だったよ。今の優柔不断な自民党政府がこのような速攻を択ぶとはね……来週、いや再来週にはこの戦争の片は付いているだろう。その頃には我が軍の将兵は解放軍として、ノドコールとやらで現地住民の歓呼の声に迎えられているさ」

「……なるほど」

 資明の言葉に、健太郎は素っ気無さを装うようにして応じた。ただし、「そこまで補給が続けばな」とは口には出さなかった。敵飛行場に対する攻撃の烈しさは、明らかに占領とそれに続く再使用を企図したものでは無かった。自衛隊がスロリア中部を平定する間、敵空軍の活動を封じるためだけに空自は投じられ、敵の飛行場は完膚なきまでに破壊された――健太郎にはそう思われた。

 

 それから二週間は、疾風の如き進撃の内に全ては過ぎた。あのスロリアの地と同じように、防衛大すらスロリア派遣平和維持軍の攻勢目標とされたかのような話題の席巻振りであった。課業の合間、あるいは休日にテレビのスイッチを入れる度に、報道特別番組のキャスターは自衛隊の快進撃を宣伝している。まるで自分自身が戦場に在って、一軍を指揮しているかのように熱っぽい口振りが、健太郎には不愉快なものに聞こえた。と同時に、時折資料映像として流される敵戦車、あるいは重要施設の破壊の光景には、健太郎ならずとも心を奪われている。


 白黒のみが存在を許された大地、まるでゲームかアニメの一場面のように被弾し炎上する武装勢力の車両、艦艇、あるいは施設……その周囲を逃げ惑う敵兵の白い人影――下方監視赤外線が映し出す夜も続く一方的な破壊の光景に、現実の戦争を連想した者は、防衛大の中にも多くはいない様に思われた。

 昼夜を問わない空陸からの破壊と襲撃は、実数にして自衛隊スロリア派遣部隊を上回っていた筈の敵軍を消耗させ、その布陣を委縮させる。やがて自衛隊は、スロリア中部に於いて捕捉した敵地上軍主力を北と東、ひいては南岸より半包囲する体勢を取った。

 防大生にとってそれは、戦史や軍事学の講義で学んだ通りの地上戦の流れ――ただしその主体が日本の自衛隊であるという事実が、彼ら学生には信じられないでいる。中南部はイル‐アム方面における激闘、海上交通の遮断を期して日本近海にまで進出して来た武装勢力の「艦隊」と、本土残置の海空自部隊との海空戦という異常事態を経ても、二週間を通じて自衛隊の優位、それも絶対的な優位は揺るがなかった。兵力の不足、さらには補給上の問題から敵地上軍の完全な包囲殲滅には失敗したが、「スロリアの嵐」作戦と称された一連の戦闘は、日本側の優勢の内に終わったのである。しかし――


「――神宮寺は生温い!」と、戦闘の停止に至ってもなお政権に対する非難の声を張り上げたのは、やはり士道資明であった。

「一個旅団でもいい! ノドコールに差し向ければそれだけで武装勢力は瓦解する。労せずしてノドコールを奪ることも叶うではないか? 何故それをしない?」

 ノドコールにおける住民叛乱の報を前に、士道は声を荒げたものだ。その点は健太郎もまた同意見であった。全軍を西進させるのでは無く、補給能力の枠内で兵力の一部を割きノドコールの住民叛乱に加担する素振りをみせるだけで、武装勢力の蠢動にとどめを刺すことが出来るのではないか?……あまりに上手く行き過ぎた進撃が、健太郎をしても甘い見通しを抱かせるに至ったというわけであったし、彼らの他にもそうした見通しを抱いた学生はいた。

 しかし学生たちの思惑を他所に停戦の事実は継続し、神宮寺内閣の特使が自衛隊機でノイテラーネに入り、武装勢力と停戦交渉に入ったという報がもたらされるに至って、遂には誰もが戦争の終わりを確信する。勝つには勝ったが、消化不良を思わせる「もたれ」を感じさせる終わり方ではあるように思われた。



「――特使って、4大隊の蘭堂の親父さんらしいな」

「――ええっ? あの人って政治家の息子だったんですか? どうして防大なんぞに……」

「――息子が戦場に引き出されない内に、終わりを急いだってことか」

「――おれとしても終わってほっとしたけど、しっくり来ない終わり方だったな」

 12月も既に終盤、つまりは年の瀬であった。スロリアにおける戦勝、それでもなお生じた完勝への未練を引き摺るかのように学内の各所で生じる学生たちの会話を他所に、健太郎は正門に向かい歩く。年末休暇を翌週に控えた最後の週末のことであった。

 濃紺の冬季常装に長い外套という出で立ちは、学生服であっても一線級の武官を思わせるに足る精悍さを、見る者――特に民間人――に印象付けさせるようで、二年次の年末休暇で横須賀の街に出た際、行き会った観光客と思しき老女の一団に、「まるで二.二六みたいね」と噂されたのが健太郎には思い出された。彼女らに古の二.二六事件の首謀者たる陸軍青年将校のイメージと健太郎の外套姿が重なったためらしいことは、当時の健太郎であってもすぐに理解できたものだ。

 それからさらに二年――繰り返される集中訓練によって培われた頑健な体躯、同時に生じた幹部候補生への責任感は、外套を纏い鏡の前に立った健太郎自身をも驚愕させる程に彼の姿に凄味を与えていた。その凄味を持て余しつつ健太郎は正門まで歩いている。もう一人の外套姿が健太郎を顧み、手を振って急ぐよう促して来た。


「ケン、遅い!」

「御免!」

 小走りに走り寄り、健太郎は軽く頭を下げた。声こそ荒げていたが、柳原‐N‐アニの色素の薄い瞳は、笑って彼女の同伴者を迎えていた。東京まで出て、一緒に学術書を探して欲しいと誘ったのはアニであった。翌年になればまた、ふたりは部隊研修に明け暮れる日々が始まる。恐らくは卒業までふたりがまともに顔を合わせることのできる日は少なくなっている筈であった。だからふたりで少し話をしよう……という積りであったのかもしれないと健太郎は考えた。拒否する理由は無かった。

 麓まで降り、そこからは京急本線と山手線を乗り継いで東京駅まで上る。その手前にある総合書店がアニの狙い処であった。健太郎も知っている店だ。中学時代からの付き合いと言ってもいい。書店にはドリンクバーをも備えた展望室もあって、東京駅の壮麗な全景を横目に、購入した本をその場で読み耽ることも可能であった。もっとも、目当ての本は健太郎の援けを借りる前に容易く見つかったのだから、アニの意図が本探し以外にあることは、この段階でも健太郎は容易に察せられた。


 その間……というより、防大を出て東京まで行く間、自分たちを取り巻く空気がじんわりと変わっていることに、健太郎は内心で愕然としている。何より、それまで人々が自分たちに向ける視線に籠められていた無関心と奇異が、敬意と畏怖に取って代わってしまっていた。不快な感触では無かったが、着心地の悪い服に辟易する様なそれに似た感触に健太郎が囚われたことは確かであった。

「なんというか……居心地が悪いね」

「……?」

 展望室での健太郎の言葉を、ホットチョコレートに口を付けながらアニは聞いた。怪訝に首を傾げるアニを健太郎は予期したが、彼女の反応は違った。

「わかるよ。私たちを見る目が少し……少しだけ変わったというかさ……」

「やっぱり……あの戦争のせいかな」

「せいと言うか、おかげと言い直すべきかも」

 そう言い、アニは真顔で頷いて見せた。

「そうだね……」

 悄然と応じ、健太郎は前日のテレビで見た光景を思い返している。二週間余りの戦いの中でスロリアの地に斃れ、戦友より一足先に本土へと無言の帰還を果たした自衛隊員たちの姿。空自の輸送機で本土に運ばれ、彼らの原隊を経て家に帰りついた彼らを、残された者は愕然として、あるいは毅然として迎える。その戦死者の中のひとり――近隣の幼稚園児たちが彼の実家に昇香に来たのを捉えた一場面は、テレビでそれを目の当たりにした全国に衝撃を与えた。つまりは――


『――幼子ですら戦場に斃れた自衛隊員の献身の尊きを知る。しかして今次の戦争に反対する平和主義者の大人どもはそれを全く理解しようとしないのはどういうことなのか? 答えは明快だ。平和主義者は国際情勢はおろか未来の日本を担う次世代に対しても無理解で、無責任で、無謀であろうとしているのだ! 心ある日本国民はこの事実を看過してはならない! 我々は子供たちに頑迷な大人と見做される様な事があってはならないのだ! 我が国において平和主義者とはすなわち、自分の属する国家はおろか自分の子や孫の行く末に対して頑迷で、責任を持つ意思も無ければ能力も持たない人間のことである! 喩え同胞であってもそのような人間をのさばらせておくことは、ローリダ人と共存する以上に危険な行為である!』


 連立与党の一翼、共和党党首 士道 武明は街頭演説でその場面を引用しそう述べている。国民の意思統一の過程で異なる意見の排除の必要を示唆しているという点で、この発言は与党内であっても問題となった。ただしより大きな問題とならなかったのは、いち政治家の意見を顧みる余裕が戦争指導に傾注する与党指導部内からも、そして「転移」以来初の本格的な対外戦争を前に、その帰趨に固唾を呑む有権者からもまた他者の意見を詮索する余裕が失われていたからに他ならない。


『――わたしたち有権者が為すべきは、自衛隊員を生かす可能性について考えることであって、正義の行方定まらぬ戦場に彼らを無思慮に放り込むことではありません。我が国にとって正義の戦争とはすなわち、我が国の国土国民の存立を守るための戦争のみなのであって、単に、見ず知らずの土地にこちらに有利な国境線を引くための戦争ではないのです。これは日本国憲法施行以来不変の、我が国の防衛の大原則と申し上げたい』

 士道の演説の同日、対抗する野党労働党代表 阿佐谷 薫は党及び複数の平和団体主催のシンポジウムで行った講演の中でそう語った。彼女の講演そのものは内容面でも破綻の無い、極論に傾いたものではなかったが、実は講演に先立つ段階でひとつの問題が発生している。開催に先立ち、阿佐谷代表は会場に集まった人々にスロリアで戦死した自衛隊員に対する黙祷を呼び掛けたのだが、出席者の中にこれに従わなかった者がいたのだ。

 シンポジウム自体はネット放送でライブ中継されていたから、この場面が切り取られ、外部に波紋を広げるのに時間は掛からなかった。出席者個人は勿論、彼らの所属する団体及び組織は、忽ちその釈明に忙殺されることになった。「個人の思想信条の自由を行使しただけ」という釈明など、「人間として最低限の節度」と「武装勢力の暴虐ぶり」を持ち出されては戦車砲を向けられたプレハブ小屋の如くに儚い言い訳でしかない。釈明と謝罪を求める声はどういうわけか阿佐谷代表自身にも及んだが、当の彼女は今のところ言い掛りでしかない批判に対し黙殺を決め込んでいる。


「……?」

 傍に子供がいることに健太郎は気付く。未だ幼稚園児とも思える程の背丈の低さと頭の大きさが可愛らしい。ぽかあんと口を半開きにして健太郎を見上げたかと思うと、子供は健太郎に向かい敬礼した。拙い敬礼――だがそれ故に愛らしい仕草。

「……」

 席を立って背を正し、健太郎は子供に向かい答礼した。

 健太郎と子供の顔に、同時に笑みが漏れる。書籍を抱えたアニが、半ば唖然として健太郎の敬礼を眺めている。


「――ケンは、航空科に行くって本当?」とアニが健太郎に聞いたのは、書店を脱して地下鉄の駅に降りたときのことであった。

「卒業する前から行くって決まってるわけじゃないよ。まずは幹候校行かないと」

「わたしはてっきりケンが陸自で普通科か機甲科に行きたいのかなって思ってたからさ……」

 行き会った高校生数人が、話し込むふたりに一斉に顔を向けた。


「――あれ防衛大じゃね?」

「――自衛隊いいよな。今度の戦争で見直しちゃったよ」

「――おれ、今度防大受けるんだ」

 すれ違い、遠ざかってはいても、彼らの会話が背中越しに聞こえてくる。堪らず、健太郎はクスリと笑う。

「始めは鞆惣先輩と同じ陸自で、高射特科でもやろうかななんて軽い気持ちでいたけど、何度か集中訓練に参加する内にさ、戦場のすぐ上空にあって、戦闘の進捗を把握できる位置に居られたらなあと思ってさ……それで航空科に行こうと思う様になったわけ」

「鞆惣先輩……婚約者亡くなったんだって」

「――!?」

 健太郎の足が止まった。躊躇いつつも、アニの言葉は的確に聞こえた。

「今日言おうと思ってたんだ……鞆惣先輩の婚約者がスロリアで戦死したこと」

「そうか……」

 それまでテレビやインターネットを挟んだ向こう側に押しやって来た防大生の宿命が、今になって肩に圧し掛かって来るのを健太郎は感じた。来年、状況が落ち着けばクルジシタンのときと同じく、また学生舎のロビーを新たな防大卒業者の遺影が占めることになるだろう。現状で三百名前後と把握されている戦死者の中に、防大から巣立って行った先輩は果たして何名いるのだろうか?

「状況って、わかる?」

「負傷した部下を助けようとして、撃たれたとしか……今わかってるのはそれだけ」

「……」

 思わず、健太郎は制帽を目深に被り直した。急に湿っぽくなった目を、彼は他人に見られたくは無かった。改札を潜ってホームに立ったところでアニとは別れた。外出の理由は他にもある。再三に渡る父からの呼び出しを、息子は無下にはできなかった。

 電車を乗り継ぎ、少し歩いたところで健太郎の足は緑の目立つ、閑静な住宅街に差し掛かる。それも、広い敷地と重い佇まいを有する邸ばかりが目立つ一角であった。幅の広い路地に入り、健太郎の記憶が正しければあと二度、角を曲がれば蘭堂家に達しようかというとき、心地良い六気筒エンジンの音が流麗な車体を伴って車道を通り抜けて行くのを健太郎は見た。今となっては弾数の少なくなった外国製の高級乗用車が軽やかに角を曲がり。健太郎とは別方向へと走り去っていく。ツーシーターの席に座るカップルと思しき若い男女の男には、健太郎は十分過ぎる程見覚えがあった。


「レンか……」

 防大入校以来、疎遠となった弟 廉士郎は未だ大学の二年生で、大学生にして非政府組織を主催している。ただし兄としての健太郎が今の彼について聞き知っているのはそこまでで、あとは同年代の政治家、実業家の子弟、芸能人と広く付き合っているのを風聞としても知っているといった程度だ。その点、自分よりは政治家向きではないか……と健太郎は純粋に思っている。


 最後の角を曲がり、蘭堂家の前、黒塗りの公用車が車庫の前に乗り出して止まっているのを健太郎は見た。健太郎の姿を認めた運転手が先に彼に低頭し、同時にSPと思しき屈強な体躯のスーツ姿が立ちはだかる。そこに、やや狼狽した運転手の声が追い縋る。

「その人はいいんです! 健太郎様ですから」

 言うが早いが、運転手が健太郎の前に進み出て再び低頭した。喜色を隠すまでも無いといった風であった。

「お久しぶりで御座います。健太郎様。立派におなりになって……!」

「永山さんも、変わり無いようで良かった」

 世辞では無い。最初に国政に打って出た頃から父に仕えている永山 幸助は、言い換えれば健太郎が生まれる前から父とは付き合いがある。その縁で、多忙な父に代わり健太郎は子供の頃から色々と遊びに連れ出して貰ったこともあった。家族同然と言ってもいい。その永山は眼から涙すら流し、健太郎の帰宅を喜んでくれている。

「父さん、居る?」

「はい!……お話をなさるのでしたら早い方が宜しいかと存じます」

 官邸からの一時帰宅で、今から数十分後には党本部に行くのだと永山は言った。鉄筋コンクリート造りの、やや大ぶりな観のある門を潜り、玄関を見出したところで健太郎は足を止めた。


「おかえり」

「……」

 父、寿一郎の立ちはだかる姿が、まるで伏撃に現れた対抗部隊の戦車を健太郎に思わせた。不敵な笑顔を崩さず、父は家に入る様促した。

「ただいま」

 敬礼――息子の型通りのそれを、父は笑った。苦笑であった。

「二、二六みたいだな……」

「歩いていると、よく言われる」

「彼女はできたか?」

「内部恋愛は禁止なので……」と、アニの顔を思い返しながら健太郎は答えた。何故にアニなのかは、わからなかった。

 調度は政治家の本邸に相応しくシックな、だが空虚な空気の流れる洋間に自ら息子を通し、父はサイドボードに向かう。手伝おうとソファーから腰を上げようとした息子を、父は制した。

「少し、一緒にやろう」

『いいだろ?』と、その鋭い眼が聞いていた。

「一杯だけなら」

「……」

 父の口元が笑みに歪み、グラスと氷に続きテーブルに置かれた酒瓶に、健太郎は目を丸くした。「転移」前の外国産の高級酒――飲んだことは無いが、これ一本で新車一台買える程に値が急騰していることを、健太郎は知っている。健太郎の眼前で琥珀色の液体が氷を割り、そして濁り無い酒精を含んだ冷気がグラスの中に流れ出していく。

「……」

 父がクラスを掲げ、息子も応じた。グラスに少し口を付け、それでも喉を蕩かす程の美味と芳香を堪能した後、父は言った。

「正直、お前が任官すると言ってくれておれはほっとしている」

「蘭堂家はそういう一族であるべきだとぼくは思ってるから……」

「……」

 父は息子に目を細めた。訝る様な、だが慈しむ様な眼差しであった。

「ノブレスオブリージュか……似合わない考えだな」

 再びグラスに口を付ける。グラスの半分までを干したところで、父は再び言った。

「おれがお前と同じ年齢の頃は、官僚になること以外にはカネと女のことしか頭に無かったが、お前はあの頃のおれ以上に地に足のついた考え方をする……どうだ、遊ぶ金には困ってないか?」

「給料を貰ったばかりなので……」

「そうだった……防大は給料が出るんだったな。足りるのか?」

「使う時間がないから……」

 父は笑った。悪気があって言ったわけではないことぐらい、息子にはすぐに判った。

「そう言えば、レンが居たようだけど……」

「NPOの活動資金が不足しているから、うちの政治資金から融通してくれとさ。そんなこと出来るわけ無いだろって一喝したら、あいつ怒って出て行きやがった。逆ギレってやつだな」

「でも……充実しているようでよかった」

 健太郎は言い、再びグラスに口を付けた。二口分ほど舌で味わい、喉に流しこんだ。

「竹緒姉さんはどう?」

「あいつはいま、エウスレニアにいるよ。現地法人を作るって、ここ一月は日本と向こうを行ったり来たりだな」

 兄弟の中で一番出来がいいのは、姉の竹緒ではないかと健太郎は思う。都内の名門大学卒業、金融関係の大企業に三年勤めた後に同僚と共に企業家として独立した彼女は、この世界を又に掛けて動き回っていると言っても過言では無かった。秘書が現れ、出発の刻限に達したことを告げる。行先の党本部に少し遅れる旨を伝えるよう命じて下がらせ、父は息子に向き直る。


「ケン、時間はあるか? 晩飯、一緒に神楽坂で食べないか?」

「……友達を待たせてあるんだ」

 伏し目がちに、健太郎は言った。嘘であった。と同時に、父の表情にやや陰りが生まれるのを健太郎は察した。腰を上げた健太郎の後を追って歩き、父は言った。

「卒業、来年の三月だったな」

「戦争……また起きるかな」と健太郎は聞いた。父は少し考える素振りを見せ、言った。

「戦争するかどうか決めるのは、我々の側だったな……大丈夫、少なくともお前が正式に任官するまでは戦争にはならないよ」

「……」

「不服か?」

「いや……安心したよ」

 父は頷き、父子は揃って門に向かって歩く。

「ではまた」

 敬礼――父はまた苦笑し、息子の背を叩いた。

「卒業式、必ず行くからな」

 それ以上は何も言わず、健太郎は家を出た。家を出て最初の突き当たりに達したところで元来た途を顧みる。父が門の傍に立って、息子の行く先を見守っていることに気付く。手を上げて応じ、健太郎は再び歩き出した。もう来た途を顧みなかった。幾度か角を曲がり、通りに出た時、面した公園に認めた人影に、健太郎は思わず声を上げ掛ける。


「アニ……?」

 公園のベンチに腰掛けていた人影が、健太郎の声を聞いた瞬間に立ち上がる。と同時に、立ち上がったアニの傍に数名の子供たちが群れているのが見えた。子供たちの幾人かが健太郎を指差し、健太郎は慌ててアニに駆け寄った。

「用事じゃなかったの?」

「うん……早めに終わったから」と言うアニの顔が、躊躇っている。「ケンは、ここで何をしていたの?」

「少し実家にね……アニは?」

「少し歩いていたら、ちょっとね……」

 子供たちが話しかけて来たのだと、アニは言った。健太郎の足元をも取り囲み、盛んに「すごい」「かっこいい」と黄色い声を掛けてくる子供たちを前に、健太郎であっても思わず相好が緩んでしまう。


 ほんの夏頃までは想像だにできなかった光景であった。これはどういうことだろうか?……否、何故だろうか?――と考えてしまう健太郎がいる。

 戦争に正義も悪も無く、正義の反対はそのまた別の正義なのだという大人たちの理屈が、子供にすんなりと理解される筈が無い。多くの子供たちから見れば、スロリアの戦いはテレビの空想活劇と同じく正義と悪の戦いであり、日本からそう遠くないスロリアの地に、突如出現した武装勢力という悪から自分たちを守るべく、自衛隊という「正義の味方」が颯爽と現れた――それまで大人たちが自衛隊を空気の様に扱ってきた結果が、純真な子供たちの眼前にそういう構図を作り上げている。という見解が、後にとある社会学者によって唱えられ、市井に膾炙していくことになるのだが、これはまた別の話である。


 子供たちと別れ、地下鉄まで歩き出したとき、健太郎たちの傍を一台の高級車が停まる。ことさらに健太郎たちを路肩に見出したからでは無く、単に赤信号の為せる業であった。父の車だ、と察した時には、健太郎は車に向かい立ち止っている。後席の窓ガラスが少し開き、健太郎の父とアニの目が合った。

「……」

「……」

 立ち竦み、射竦められるアニの無表情と、車の中から怪訝の中にも値踏みする様な父の眼が、好対照を為している様に息子には思われた。やがて信号が変わり、父はアニに微かに笑い掛けた。動き出した車内から、父が息子に手を上げるのがリアガラス越しに見えた。そのまま車は走り去り、ふたりは残された。


「あれが……ケンのお父さん?」

「そうだよ」

 素っ気なく健太郎は言い、足を速めた。「アニ」

「たまたまそこにいたなんて、嘘なんだろ?」

「……」

 重い沈黙を、健太郎は背中に気配として感じ取る。健太郎の洞察は、当たっていた。

「ぼくも父さんに嘘を()いたんだ。友達が待ってるから、家を出るって……家に長居したくなかったから」

「ケン……」

「……そしたら、君が待っていた。君のお陰で、ぼくは嘘吐きにならずに済んだ」

 健太郎はアニを顧みた。健太郎を見上げるアニの瞳が、微かに潤んでいた。

「コーヒーとケーキでいい? 美味しい店を知ってるんだ。奢るよ」

「ダメだよ……それじゃ」

「……?」

 反駁され、健太郎は思わずアニを見返した。アニは顔を怒らせていた。

「ケン、私の頼みを聞いて」

「い……いいよ」

「今度の冬季休暇……ふたりで温泉、行って欲しい」

「……!?」

 驚いて、健太郎はアニを見返した。

 冬の風が、再び氷の粒を東京の片隅まで運んで来た。




現在――ノドコール国内基準表示時刻1月3日 午後24時17分 ノドコール南部洋上 海上自衛隊揚陸輸送艦 LST‐4101「じゅんよう」


 星明りの瞬きは、さらに勢いを増している。照らし出された海原の脈動の烈しさもまた、そのことを示していた。

「――それで、どうだった?」

「どうだったって、何が?」

「行ったんだろ? アニと温泉に」

「……ああ、行った」

 星明りの下で、健太郎は青白い顔を笑わせた。それが傍らにいる沢城丈一に対する、蘭堂健太郎の答えであった。手にしたペットボトルの中、ウイスキー入りのコーラは半分まで中身が減っていた。

「酔って来たな……ちょっと眠ろうかな」

「おいおい……!」

 健太郎は寝たふりを決め込み、沢城は話を聞きたいばかりに慌ててそれを止める。洋上を威圧する巨艦の一角にあっても、ふたりがいる僅かな空間だけは、三年前で時間が止まっているかのように時間は明るく過ぎている。

「じゃあ、これだけは答えてくれよ。楽しかったか?」

「ああ、楽しかった」

「アニの裸、見れた?」

「混浴だったからな」

 ニッと、健太郎は歯を見せて笑って見せた。それが健太郎の答えだった。感銘を受けたかのような表情を浮かべ、沢城は尚も聞いてきた

「……で、どうだった?」

「仮にも同期じゃないか。それ以上は勘弁してくれよ」

「まあ……そうだな」

 沢城は納得したように頷き、今度は健太郎が切り出した。

「タケちゃんは、休みはずっと実家だったっけ……」

「おうよ。帰ったらいきなり町の名士扱いでさ、出身高校からも後輩に顔見せに来いだってさ……担任の野郎、ガチガチの日教組のくせに現金なもんだったぜ」

「でも、いい思いもしたんだろう?」

「いや、迂闊に街に飲みに行けなくなっちゃったからなぁ……それよりも、中学時代の友達が死んだ方がおれにはショックだったな」

「……」

 健太郎は押し黙った。前にも聞いた話だった。高卒で陸自に入隊した沢城の中学時代の同級生が、スロリアの戦闘に参加し戦死していたのである。進んだ高校こそ違え、当人とは小学校時代からの親交があった沢城がそのことを知ったのは、冬季休暇が明けてすぐのことであった。


 満天の星の織り成す原野、それらに目を奪われつつ沢城が言った。

「アニは、今は美保か」

「ひょっとすればスロリアに前進しているかも」

 今となっては空自の正規操縦士として第一線部隊で勤務しているであろう柳原‐N‐アニの、凛々しいパイロットスーツ姿がふたりには思い出された。卒業の翌年、アニが送って来たメールに添付された写真、パイロットスーツ姿は変わらず、だがその背景たる乗機は年を追う毎に変わっていく。最初は華奢なT‐7初等練習機だったそれが、今年の初めにはC‐2輸送機の威容に姿を変えていた。それはまた、一人の女性幹部としてのアニの精進の記憶であった。思えば二年前の卒業式――


「――学生隊 解散!」

 発声一過、卒業生総代として健太郎たちの学生生活の終わりを告げる大任を果たしたのもアニであった。反射的に投げ上げられる無数の制帽、学生舎からの旅立ちを告げる儀式を経たその日を境に、防大生はその呼称を候補生に変え、各地の幹部候補生学校に散っていくことになる。


『――卒業生の皆さん、スロリアとは我が国の外交的勇気、政治的実直さ、そして忍耐力と意思に対する挑戦となりつつあります。怖気づいてはいけません。怯んでもいけません。好戦的ではないが断固として、敵意は持たないが油断せず。これこそが未知の外部勢力に対するに、我が国のあるべき姿勢でなければなりません。

 従って、束の間の平穏のうちに時流に迎合し、自らの行くべき途を塞ぐようなことがあってはならないのであります。むしろ歴史の審判の中で、最善とは言われぬまでもよりましであったと言われる途を取り、その積み重ねの先に最善の未来を創り上げるべきでありましょう。候補生の皆さんのこれからの練磨と活躍、そして決断が、日本にとり最良の未来を創る上で、貴重な一助となることを期待します』


 主賓として卒業式に列席した内閣総理大臣 神宮寺 一は、祝辞の中でそう述べて健太郎たちの門出を祝った。明確にそうとは発言しなかったが、祝辞の中で再度の軍事衝突あるを示唆したという意味で、神宮寺総理の発言は内外にやはり衝撃を与えた。それでもヒステリックなまでに戦争の恐怖を強調し彼を批判した者が極少数派に留まったのは、やはり自衛隊のスロリアにおける「破格の実績」が大きかったのかもしれない。


 その神宮寺総理を主とする来賓席の中には、父 蘭堂 寿一郎の姿もあった。登壇し校長の手ずから卒業証書を受け取る際、父子は互いに軽く目配せをした。それが、健太郎の卒業に際し彼が為し得た肉親への唯一の挨拶となった。何故なら卒業生が恒例の「帽子投げ」を終え、記念講堂から退場する時には、父の姿はSPや補佐官に取り巻かれ、息子に先立つようにして講堂から離れようとしていたのだから――息子の卒業を見届けた直後に父が特別機で日本を発ち、総理特使として友好国及び第三国歴訪に臨んだことを、息子は後に知った。閣僚として公に尽くす時間を割き、父は息子の旅立ちを見届けたということになる。


 事実、健太郎たちに対する、「大変な時に防大を卒業した連中」という周囲の評価は、時を追う毎に広く定着しようとしていた。彼らが入校した時と違い、今の日本には明確な「敵国」が存在し、以後長期に亘り日本は彼らとの対峙を強いられるであろう。そして彼らこそが、来るべき再度の衝突に際し実施部隊の下級幹部として「敵国」の将兵と直に顔を突き合わせ、銃火を交えることになるのかもしれなかった。それ故に健太郎の属する期は、従来の防大卒業者に無い特異性、あるいは団結力を備えることになるのかもしれないと指摘する者もまた、多かった。


――残ったウイスキーコークを飲み干す健太郎に、沢城は苦笑する。

「そんなに飲んで大丈夫か? 明日出撃だろうに」

「大丈夫、ここは日本のずっと外、航空法の適用範囲外さ」

「そんな馬鹿な……」

 と、沢城はぼやくように言った。沢城自身、航空科の人間ではないが、当の航空科である健太郎の発言が支離滅裂であることぐらい、すぐにわかった。共に未来を託した陸自において、健太郎と沢城ふたりの道は幹候校における僅か四ヶ月間の基礎教育を経て完全に分岐した。言い換えれば健太郎は志望通りの航空科、それも明野の航空学校における幹部操縦課程に進み、沢城は普通科、それも富士学校における幹部レンジャー課程の履修を命じられたのである。施設科という学生時代から抱いていた当初の希望は完全に霧散した上に、沢城は以後を戦闘要員としてわずか二年の内に中央即応連隊、第一空挺団、そして水陸機動団と所属部隊を目まぐるしく転々とした。

 その何れも将来の衝突に際しPKFの先鋒を担う可能性の高い部隊、しかも沢城は中央即応連隊在籍時に治安維持部隊の一員としてスロリア派遣を短期間経験している。同期では前線勤務第一号であった。丸刈りの頭髪は防大以来相変わらずだが、それを耳まで覆う濃緑のニットキャップが、この沢城の戦闘服姿に精悍さをかさ増しさせている。スロリア紛争の前後を経て増大した特殊部隊指揮官の需要に応じた人材確保策の余波を、沢城はもろに被ったかたちだった。


「……?」

 健太郎が気付いた時には、沢城 丈一は、外壁に凭れ掛ったまま寝息を立てていた。彼が今に至るまで所属する部隊の編成や訓練に忙殺されていたことを、健太郎は長くない航海の間に知っていた。出撃――彼らが死地に身を置くまでにあと五時間も残されてはいなかった。健太郎は沢城に身を寄せ、外壁にしな垂れる様に目を瞑る。恐らくは機関部から達して来るのであろう僅かな振動が、友人と同じくアルコールの回った躯には心地良かった。


 薄れゆく意識――外洋のざわめきに、静寂が重なり始めている。

ただしそれは、嵐の前の静けさであった。




EpisodeⅡ‐Ⅴ 「act-tune」終

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― 新着の感想 ―
[良い点] 2週間かけてここまで読み進めてきました。素晴らしい作品をありがとうございます。 防大で飲まされたウイスキーコークがここで登場,良いですね……
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