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第八章  「The Long Dark Blue Line  SceneⅡ」

四年前――日本国内基準表示時刻7月27日 午前06時15分 神奈川県横須賀市 防衛大学校


 学生舎廊下に据え付けられた電光掲示板の時刻表が0615(マルロクヒトゴー)に達した瞬間、哀愁すら漂わせる起床ラッパが朝の静寂を破り、次には怒涛の如き動が学生舎を掛け巡る。創立以来七十年以上も変わらない、恐らくは日本という国が消滅するまで、毎朝続くかのように思われる防衛大学校の情景――


「―― 一分経過! モタモタするな!」

 下級生を叱咤する週番学生の怒声が廊下に響き渡る。学生舎の各部屋より起床した学生は、所定の方式通り速やかに寝台の毛布とシーツを整頓し、学生舎の外に出て整列せねばならない。

 日朝点呼が始まるのは五分後の0620、つまり学生は起床するや通常二、三分で整頓を終え、あとの二、三分で学生舎の外に出るという行動の正確さと機敏さを要求されることになる。これは四階建ての学生舎、一階から四階と住む場所こそ違っても同様である。学生が寝床としてどの階を宛がわれることになるのか、これはもう運の領域に属するわけで、進級及び入退学に伴う学生の増減に起因する大隊の再編の度に、どの階の部屋を宛がわれることになるのか、特に1、2学年生にとっては少なからぬ関心事ではあった。


 集合整列の後、防衛大学校学生にとって最初の日課たる日朝点呼が始まる。週番学生により小隊から中隊を経てまとめられ、報告として上げられて来た健在な者、病欠、事故も含めた在籍者数は、最終的には各週番学生を統括する大隊週番学生の把握するところになるという仕組みであった。大隊週番学生は合算した在籍者数を担当指導教官に報告し、大隊に解散を命じることになる。


「――第○小隊、総員△名、事故○名、現在員――」

 淡々と続く点呼――だがその最中、学生舎の窓から毛布が投げ捨てられ、あるいは烈しい物音が聞こえる。その度に学生たち、特に四月に入校を果たしたばかりの1学年生の表情に緊張の色が走るのが、点呼中の大隊を睥睨(へいげい)する正面玄関に通じる階段上からは手に取る様に判る。

 学生舎内に残って居室の点検を行っていた週番学生が、下級生の整頓不備を目敏く見出し、実力行使に乗り出しているのだった。具体的には、先刻のように毛布を投げ捨てたり、寝台をひっくり返したりという風に……最悪の場合、寝台を階段から落とされ、自室まで寝台を担いで階段を上ることを強いられる学生もいるが、そこまでの懲罰は、さすがに入校して一月が過ぎた五月までには鳴りを顰めることになる。つまりはそれだけ、新入の1学年生は防大の生活に順応してくるのだ。健太郎たち4学年生も、かつてはそうであった。


「――4大隊、解散!」

 正面玄関の階段上より居並ぶ学生たちに敬礼し、週番学生 蘭堂健太郎は大隊に解散を命じた。週番学生は4年生が一週間交代でこれを担当する。1学年生の場合、点呼の次は学生舎の清掃作業が待っている。掃除――日朝点呼から朝食に至る十五分の間、1学年生は学生舎を只管(ひたすら)掃い、磨き上げることに傾注する。共に掃除に取り掛かりつつも彼らの挙動を始終監視し、掃除の不備を鵜の目鷹の目で探っては絞り上げるのは、二、三学年生から成る週番学生付の仕事であった。

「――これで掃除した積りか? やり直せ!」

「――ここが汚れている。言われたことはちゃんとやれ!」

「廊下は戦場」――入校当初は全く意味を計りかねた張り紙の真意を噛みしめつつ、進級まで1学年生は毎朝廊下を磨き続けることになる。



 4大隊の場合、大隊週番学生は四階から一階、または逆ルートで廊下を巡り、週番学生付の指導に行き過ぎが無いか見張ることにしている。当の健太郎が始めたことで、何時しか大隊4学年の誰もがそれに倣う様になった。ただしその場で番付を咎めるようなことはせず、番付を物陰まで呼び過度の干渉を窘めるのと同時に、より最適な「叱り方」をやんわりと指導するといったものだ。学生舎における絶対者的な存在たる4学年生と(いえど)も、1学年の眼前で2、3学年の面目を潰す様なことはするべきではなかった。


 日課の清掃を終えて食堂へ向かう1学年生を送り出す様に見送ったところで、健太郎の足は玄関ロビーで止まった。

 今年の二月、学生舎で顕彰されている戦死者の列に新たに加わった者が一柱――眼が泳ぎ、最も新しい位置に在る額縁の中の写真に、健太郎は改めて眼を見張った。陸上自衛隊の戦闘服に身を包み、軽装甲機動車の天井から半身を覗かせて微笑む青年幹部がひとり。額縁のすぐ下に張られた紹介文には、こう書いてあった。


「――△□年卒業 第○○期 斎藤 世登 最終一等陸尉 (特進) 理工学専攻 応用化学科  クルジシタン アーミッド強襲作戦にて我部隊救出隊指揮官として参加 2月9日戦死 享年26」


「学生長……」

 と、健太郎は思わず呟いた。知っている顔であった。健太郎が入校した年の4大隊学生長。学生食堂での一斉喫食の際、不意に1学年生を指して「今日は何月何日だ?」と質問する以外は気前も良く、下級生への配慮も欠かさないいい先輩だった。ただし、指名された1学年生はその場で直立不動の上こう返さねばならないのだ。一例を挙げれば――


「――沢城学生、斎藤学生長に申し上げます! 今日は○月○日、斎藤学生長が卒業するまであと二百と五十三日。斎藤学生長の誕生日まであと二十七日。夏季休暇まであと二十一日。土曜日の特別外出まであと五日。防衛大アメフト部が東体大アメフト部を神宮競技場で叩き潰すまであと二日!……です!」

「――間違いだ。神宮の試合まであと三日。その場で腕立て三十回!」


 斎藤学生長は、防大アメフト部の部長であった。質問に答えられず腕立て伏せを喰らった沢城も、アメフト部の部員であった。沢城は高校までは陸上部にいたらしいが、入校して間もない頃に斎藤学生長直々に声を掛けられ、(沢城自身に言わせれば)未だ初心だった頃の沢城はそれに逆らえずにアメフト部に入部したという事情がある。

 ただし以後の学生舎生活、そして棒倒しでの活躍を鑑みれば、結果的にはこの選択は正解であったのかもしれなかった。アメフトの要領を飲み込んで以後、沢城はチームのランニングバックとして徐々に頭角を現し、その脚力と敏捷さに物を言わせて攻勢の主力を担うことになったのだから……


 健太郎の記憶では、斎藤学生長の質問に正確に答えることのできた同期は、当の健太郎も含めて五指も出ていない筈であった。答えられた者は二度と指名されることは無く、むしろそれが質問に答えた事に対する恩賞であった様にも思える。それ程に理不尽な行為だったが、彼がいない今とあっては、理不尽への戸惑いよりもむしろ落語の一幕でも見る様な微笑ましさが健太郎の胸中には残っていた。

 学生舎の位置が教場や学生食堂より最も遠く、それ故に万事他大隊より機敏な動作を要求されるが故に厳格な気風が強いと言われた4大隊であったが、斎藤学生長の目に見えぬ人徳が、むしろ4大隊に家族にも似た朗らかな一体感を作り上げていたようにも思える。と同時に転移後、混乱した世界の最中に在りながらも国防という面では十年近くに亘り平穏な時期が続いた後での彼の死は、健太郎が択んだ防衛大学校という学び舎が、戦場に於いて殺し殺される人間を育成する場所でもあることを改めて思い知らされた事件でもあった。


 健太郎は自問している――身内に戦争で死ぬ者が出るというのは、これ程までに割り切れない印象を残すものなのだろうか? 

 クルジシタン――この異世界の何処か、世界の果てのような場所で死ぬべき人間では、学生長は無かった筈なのに。


「ケンタッ!」

「――!」

 弾んだ声と共に、勢いよく延びた手が背後から健太郎の肩を叩く。沢城であることは振り向かなくとも判る。健太郎の肩に手を掛けつつ傍らに立ち、沢城もまた神妙な表情で、かつてのアメフト部部長の遺影に目を細めるのだった。

「斎藤部長か……名誉の戦死だって言う人もいるけど、あんな死に方をする人じゃなかったのに……」

 そこまで言って、沢城ですら声を曇らせている。

「ああ……つらいな」

 斎藤学生長は、遠く離れた異邦クルジシタンはアーミッドという街における治安維持任務の途上、上空を周回していた陸自ヘリが敵性武装勢力の放ったロケット弾を被弾し墜落、それを転機として修羅場と化したアーミッドから一度基地に帰還を果たしたものの、なおも街に取り残された部隊を救出するべく一隊を編成し再突入の後救出に成功、しかし再度の帰還の途上で敵性武装勢力の襲撃を受け致命傷を負ったのだという。

 防大卒業生の模範と言っても過言ではないその戦い振りは、残された後輩たちに深い感銘を与えた一方で、一抹の不安を喚起せしめてもいた。言い換えれば、自分は自衛官として斎藤生徒のような窮地に陥ったとき、従容として死出の旅路に就くことができるだろうか?――その類の自問である。


「ケンタ……おれらは逃げちゃ駄目だよ」

「タケちゃん……?」

「他の奴はどうかは知らないけど、おれたちだけは斎藤先輩の死を在るがままに受け止めないといけないと思う。隣の戦友が死んでも、どんな悲惨な目に遭っても、軍人は戦えと命ぜられれば戦わなきゃいけないんだ。嫌だとかおれだけは生き残りたいなんて、軍人を辞めるまで言っちゃ駄目だ」

「辞めるまで……か」

「そうさ、文句は生き残って娑婆に戻ってから言えばいい。言いたいことがあれば、そこはぐっと腹に溜めて、柵から解放された後でぶちまける。そして慌てふためくお偉方の顔を見て愉しむってわけさ」

「じゃあ、お偉方を慌てさせるぐらいには出世しないとな」

 沢城は片目を瞑って見せ、健太郎は笑った。




 年が変わり、最高学年たる4学年に進級した健太郎たちは、小原台における最後の夏を迎えている。3、4学年生の場合、通例では七月は部隊研修が始まる時期に当たった。部隊研修は、翌八月初頭から始まる夏季休暇を挟み、年の暮まで続く。

 学生たちは日本全国に所在する自衛隊基地に散り、隊付として現場の空気に触れる機会を与えられる。とはいっても校舎から一斉にごっそりとこれらの学生が抜けるというわけでは無く、陸海空と要員の所属も違えば割り振られた基地に派遣される時期も異なるため、学生舎から一斉に彼らの姿が消えるというわけではない。部隊研修で得た知識と印象を元に、防大を卒業した者は続く幹候校で志望職種を決定するというわけであった。


 現場に赴き実地で学ぶという点では、健太郎や沢城の様な陸上要員は海空の他の要員と違い、幸か不幸か充実した環境にあった。3年次に達した陸上要員は部隊研修の他、夏季、冬季と防大の外に出て実施部隊に派遣され、二週間に及ぶ集中訓練を受けることになっている。防大生だからといって決してお客様扱いでは無く、一般の普通科隊員に混じり戦闘訓練に参加するし、完全武装で二十~五十キロメートルに及ぶ行軍訓練も行う。

 近年、体力面で優秀と認められた学生を試験的に習志野の空挺教育隊に派遣し、落下傘降下訓練を施すことも行われる様になっていたが、多くの陸上要員にとって、派遣される部隊は大抵、北海道か九州の普通科連隊と相場は決まっていた。何故ならこれらの地域の陸自部隊は、「転移」前より国土防衛の最前線として装備と編成面でも惜しみない投資が続けられてきた部隊であったからだ。訓練は辛いが、早々と現場の空気に触れ、馴染むことができるという意味では、陸上要員はやはり他の海空要員よりも恵まれた立場にある。



 その最後の夏、健太郎と沢城は富士学校での研修を命ぜられた。開始時期が七月末だけに、夏季休暇の幾日かが潰れるという変則的な日程となったが、この命令は二人を狂喜させた。陸上自衛隊戦闘職種の総合大学的な観のある静岡県 陸上自衛隊富士学校には、最新の装備が優先的に配備される上に、やはり最新の戦術理論の実験場としての側面も持つ。軍事学がその名の通り学問であり、防大生がその学究の徒である以上、軍事学の最前線に身を置いて学ぶという貴重な機会の到来を、ふたりが喜ばない訳が無かった。


「まさか志望がすんなりと通るなんて、夢にも思わなかったな」

 と、朝の学生食堂で沢城は顔を綻ばせた。健太郎も頷き、沢城に聞いた。

「タケちゃんは、施設科狙いなんだろ? 施設学校はいいのか?」

「施設に行けたとしても、先ずは戦闘支援(戦闘工兵)に回される可能性大だからな。富士だと実地で学べると思ってさ。でもケンタは……」

「ん……?」

「……霞ヶ浦とか、明野じゃなくて良かったのか? 陸自で航空狙うとすれば先ずそこだろ? 折角の休暇も潰れちまうし……」

「タケちゃん、来月」

「……?」

 言われた沢城が怪訝な表情を浮かべ、次には全てを悟った様に満面の笑みが広がった。

「そうか! 総火演か!」

「だからヘリも見られる」

 我が意を得たりと健太郎は笑った。八月に富士演習場を舞台に行われる陸上自衛隊総合火力演習、略して総火演。今頃富士学校とその近辺は展示に参加する車両や装備、そして航空機で地も空もごった返している筈だ。

「オスプレイ、格好良かったよなぁ。二年目であれに乗せられた時、さすがのおれも揺らいじゃったもん。航空行こうかなって」

「確かにオスプレイはいいな。操縦は難しいって聞くけど、燃料を心配せずに日本中飛び回れるし、航空護衛艦(DDH)にも乗れる。訓練航海に参加できれば、世界を見る機会も増える」

「それは施設科だって同じだ。海外派遣で嫌って程国外に出られるしな」

「何だ、おれたちもう一端の幹部気取りか」

 健太郎の冗談に笑った沢城の眼が彼の外に向かい、途端に沢城の顔が苦々しさに歪んだ。

「あいつらは幹部どころか、提督気取りの様だぜ?」

「提督……?」

 と、他の卓を顧みた健太郎の眼が、学生食堂に入って来た一群を見出して止まる。作業服姿のふたりに対し、夏季常装を折り目正しく着こなした3大隊の学生――自然、その彼らの先頭に在る様に見える青年がひとり。健太郎と背丈は同じで美形、だがやや細面なのが傍目には頼りなげに見えた。

「ああ……士道って言ったっけか。学生舎じゃあまり顔見ないな」と、関心を失い、健太郎は食事に向き直った。

「あいつらも忙しいんだってよ。本省や幕廻って就活やらテレビ出演やらで」

「テレビ?」

「知らないのか? チャンネル大和を」

「…………?」

 健太郎は眼をぱちくりさせた。ここ最近、課業の傍らで学科の実験レポートや卒業研究が重なり身の周りが多忙であった事もあるが、テレビやそれ以外の媒体によって知ることのできる筈の外の情勢には、健太郎は不感症なまでに無頓着であった。苦笑し、沢城は言った。

「西洋文明の干渉と残滓から脱し、日本古来の伝統に立ち戻った社会を作ろうって趣旨のネットTV放送さ。彼らは国政に干渉する意図は無いって言ってるけど、資金源は共和党の外郭団体だってネットじゃ専らの噂だぜ?」

「共和党?……士道……武明?」

「その士道の息子だよ」

「あ……」

 ぽかあんと口を開け、健太郎は悟った様な表情を浮かべた。再び顧みたその先で、士道学生は生徒の一団と談笑しつつ、朝食に取り掛かっている。すぐに顔を戻したところで、沢城が皮肉っぽく口を歪めて見せた。

「同じ政治家の息子でも、ケンタより政治家向きなのは確かだな。でも……よりにもよって何で防大にいるのやら」

「おれの家には姉と弟がいるから……」

 と、健太郎はやや表情を曇らせた。父寿一郎の地盤を継いで政治家になる積りなど、防大に入る前から無かった。むしろその手の意欲は、彼を挟む姉や弟の方が旺盛であるのかもしれない。野菜ジュースを飲む沢城の手が止まり、沢城はやや不機嫌に声を(ひそ)めた。

「……ケンタ、あいつらお前のこと見てるぞ」

「有難う……」

 暗に振り向くなと、沢城が教えてくれたことに健太郎は感謝した。

「テレビに出演?……それが隊務なのか?」

「チャンネル大和は本省の人間と仲がいいらしくてさ、広報の目的もあって現役の自衛官とかOBとか結構出演するわけだけど、その広報枠のひとつに『次代日本青年の矜持』って番組があって、その番組を持っているのが士道たちってわけさ」

「本省公認なのか……」

 純粋な驚きのまま、健太郎は朝食のリンゴを齧った。同時に沢城が舌打ちし、言った。

「クソッ……未だじろじろ見てやがる」

「――――」

 嘆息――健太郎は黙って席を立つよう促し、沢城もそれに従った。彼らから距離を取りたかったこともあるが、何より課業の朝礼時間が近付いていることもある。



 二月に起こったひとつの波乱――「転移」後初の死傷者をも伴った武力衝突――を経てもなお、小原台は遠い世界で起こった有事からは超然として、機械時計の様にその日課を刻み続けていた。


 何より、健太郎たちの卒業まで一年を切っている。学科の日程はなお詰まっていたが、それでも前年と違って長閑とも思える程、肌を流れる刻は緩やかなものとなっていた。卒業すればまた、別な刻の流れが頬を撫でることになるのだろうが、それがなだらかな風の形を取るのか、はたまた冷たくも烈しい風であるのかは健太郎には未だ判らない。どのような風が吹こうと、耐えて前に歩いて行けるだけの心構えを作っておかねばならないと健太郎は思う。


 ただ、防大の教場では前日から気になる風聞が流れ始めていた。今の日本から海を跨いだ遥か西、最も近い隣国のひとつノイテラーネも連なるスロリア地域の海上、海上保安庁の巡視船と所属不明の軍用船舶との間で漂流船の処遇を巡り対峙が始まっていて、沖縄の海自航空部隊はこれらへの監視警戒に忙殺されている。「軍用船舶」という表現を使うだけあって、所属不明船は大砲の上にミサイルらしきものまで搭載し、盛んに運動しては巡視船を威嚇しているという――教場の指導教官、あるいは部活動の顧問教官の口からそのまま生徒を通じ学生舎に膾炙した風聞は、今のところ将来の日本の国防を担うことになる防大生二千名余りの人生設計に、不穏な影の尖端すら触れていないかのように思われた。



 だが……午前中の課業が終了し、昼食時間もその中程を過ぎた頃、先刻に抱いた感慨が全くの見当外れであったことを健太郎は思い知らされる形となった。


 この時点では、富士学校への派遣まであと二日を切っている。

「おれたちって、結構自由だよな」

 と、沢城は声を弾ませた。

「一般人が立ち入れない場所に入れて、色々と便宜を図ってもらえる」

「ああ……学科をちゃんとやってれば本当に自由だろうな」

 と健太郎に返され、沢城は危うく「うっ」と声を出し掛けた。最後の最後で留年こそ免れるだろうが、卒業に向けた学科における彼の立ち位置が少なからず逼迫を見ている、それは証であった。

「また論文漁りは嫌だからな。他人の論文書きの手伝いなんて……」

「他人じゃねえよ。親友だろうが」

「親友ぅ――?」

 自分が意地悪そうに笑っているのが、健太郎には嫌という程自覚できた。心からの悪意では無く、友人に対するが故の悪戯心の為せる業であった。

 そのとき健太郎は気付かなかったが、顔を蒼白にした学生が数名、慌ただしく学生食堂に駆け込むや、近くにいた学生に声を掛ける……それから二三分もせぬ内に、それまでの和やかさとは違う、深刻な動揺が食堂中には広がっていた。市井の大学のそれと変わらぬ和やかな食事時間の喧噪が、巨塔が崩れるかのような衝撃へと転じて行く。

『――巡視船が撃沈された!』

『日本の船が、海保の巡視船がミサイルで撃沈されたんだ!』

『戦闘機まで飛んできて、巡視船に銃撃を加えてるって話だ!』

『――はぁ? 何それ!?』

『――オイオイ、銃撃戦から半年も経たない内に今度は海空戦かよ!?』


「何? どうした?」

 先に反応したのは沢城だった。近くにいた同級生を捕まえ、同級生は沢城の耳元で話を伝える――話が終わるのと同時に、沢城は眼を剥いて健太郎に向き直り、同時に健太郎も事情の全てを、おぼろげながらも察した。顔が同時に、青褪めていた。

「ケンタ……!」

「タケちゃん……戦争か?」


 それから午後は、防大は混乱の極みの中に置かれた。

 特に現役の自衛隊幹部が教官を務める防衛学、軍事学の講義では、教官が指名するより早く学生の挙手が殺到し、スロリア情勢に関する質問を投げ掛けてくる程で、講義によってはもはや講義どころでは無くなってしまっている。

 本部の方でも情報開示の機会を与え、学生の不安を払拭する必要を痛感したらしく、教場の談話室及び学生舎の集会室を早々と解放し、ニュースに限りテレビ視聴を許可する方針を示していた。夜近くにはそこに、課業の部活動を早々と切り上げて来た学生が殺到する。そこに上級生も下級生も無い……一方、ボート部で部長の健太郎は、いつも通りフルに時間を使い練習することを所属の下級生に命じ、彼自身率先して見本を示した後、時間にして1900近くに学生舎に戻った。



「――おれたちは防大生だ。国防を背負って立たねばならない人間が、外の時勢に一々流される様な醜態を見せるな!」

 それは叱責であった。健太郎の一言でボート部に限っては平静を取り戻したものの、学生舎ではまた別の混乱が始まっていた。学生が日本の現在、そしてごく近い将来について議論を交わしていたのである。立錐の余地も無い程に生徒たちで埋まった娯楽室のテレビ放送は、通常のニュースからとっくに報道特別番組に切り替わっていた。十年前の「転移」以来のことだ。


 学生たちの誰かが言う。

「スロリアか……まさかあんなところで始まるとはな……」

「横須賀の護衛艦隊も全力出動かな。沖縄の部隊はもう動いているだろうし」

「話せば判る相手ってわけでもなさそうだし、このままだと現場の緊急避難から個別的自衛権行使まで一直線ってところかな」

「戦争と言っても、こっちの判断で勝手に始められるわけじゃないだろう。まずは有権者の意思を汲まんといかん」

「だいいち敵は何者だ? どんな兵器を持っていて、どんな戦略で動いている?」

「敵さん、人間の姿をしていればいいけどなぁ。緑の肌をしてるとか、手が四本あるとかかもしれねえなあ」

 とぼやき、周囲の失笑を誘った沢城の顔が見えた。その沢城の目が談話室の外に向かい、視線が遠巻きに談話室を見遣る健太郎のそれと重なった。健太郎は談話室に入らずそのまま自室を目指す。何よりも、課業の自習時間が近付いている。

 自習開始の喇叭が鳴った後、沢城はやや遅れて自室に入って来た。二人は暫く無言の内に自習に時を費やし、やがて沢城は静寂に耐えかねたと言わんばかりに口を開いた。

「ケンタ、お前はどう思う?」

「ただ命令に従い、黙々と任務に精励する所存であります」と応じる健太郎の言葉には、微量のおふざけが入っている。

「この野郎……この期に及んでテンプレ通りの回答とか」

「マスコミに聞かれたら、ここのみんなもこう返すわけだしな」

「マスコミかぁ……防大にも来るかもなぁ……で、有る事無い事書き立ててみんなの不安が更に増すと」

「そうだな……手を打っとくべきだろうな」

「手を……打つ?」

 気が付けば、同室の下級生がペンを動かす手、あるいはPCのキーを打つ手を止め最上級生たる二人の会話を窺っていることに気付く。健太郎は回転椅子を巡らせた。

「タケちゃん」

「ん……?」

 健太郎がいきなり何かを放り、沢城は反射的に手を開いてそれを受け取る。SDカード?……怪訝な表情を隠さない沢城の目と、健太郎の涼しい眼差しが交差する。

「土木系の論文、データベースから思い付く限り探して拾って来たけど、役に立つかな?」

「――!」

 合掌――文字通りに神に祈るような姿勢で、沢城は健太郎に頭を下げた。

「恩に着る!」

「ああ、毎度着てるよ」

 再び喇叭(らっぱ)が鳴る――自習時間の終了と、日夕点呼の始まりを告げる喇叭の音。同時に学生舎が慌ただしくなり、住人たちが玄関ロビーに整列を終える。防衛大学校学生舎の一日を締め括る日夕点呼の始まり。日朝と同じ点呼が完了するまで、二分も要さなかった。週番学生として健太郎は連絡事項、翌日の日程を伝達し、学生たちはメモでこれに応じる。伝達が終わった後、3学年生の週番学生付が不動の姿勢を取り、言った。

「蘭堂週番学生より、お言葉がある」

 学生付を目配せで下がらせ、健太郎は列の前に進み出た。本来ならば学生長が出るのが筋かもしれないが、当の4大隊学生長 柳原‐N‐アニは部隊研修で今は航空自衛隊 浜松基地にいる。


「姿勢はそのまま。すぐに終わる」

 そして、切り出した。

「何が理由かは、蘭堂はこの場では敢えて言わない。今日はみな少しならず混乱したと蘭堂は思う。それは仕方が無い事だとも蘭堂は思う。戦争で言えば奇襲を受けたのにも等しいが、何時までもその衝撃を引き摺る事無く、お前たちは整然と応戦しなければならない。

 防大生にとって応戦とは、この防大の外で何が起ころうとも、粛々と学業に励み、教練に精励することだと蘭堂は思う。お前たち学生にも、そのための平常心を取り戻して欲しい。おれたちが今為すべきは眼前の課題を片付け、一日も早く一人前の幹部候補生になることだ。課題から逃げることでもなければ課題を放り出し、銃を執ってスロリアに向かうことでもない」


 そこまで言い、健太郎は学生の列を見渡した。相変わらずの無表情の列――だが、彼らの中の幾人かの眼に輝きが宿り始めている。

「蘭堂は問う。お前たち学生の中で父母兄弟、あるいは近い親類が自衛官の者はいるか? いる者は挙手せよ」

「…………」

 唖然――不意に質問を振られたことに対する困惑もあるのかもしれないが、しかし少しの間の後、ぽつりぽつりと列から手が上がり始める。挙手は、その数が居並ぶ生徒たちの実に三分の一にまで達したところで漸く止まった。父母も自衛官という自衛官を指して「官品」という俗語も昔からあるくらいなのだから、これは当然の結果なのかもしれない。

「よし、手を下せ。挙手した者は、お前たちを生み育んでくれた父母、お前たちを見守ってくれていた親類が、如何に真摯な姿勢で国防の任に付いていたかを思い出せ。思い出し、お前たちもいま身を置いている自衛隊に思いを馳せろ。であれば、将来に対する不安など吹き飛ぶ筈だ。お前たちの父母を鍛え、お前たちの父母が血の滲むような努力で作り上げた陸海空自衛隊は、ぽっと出の侵略者に敗北を喫する程柔な存在では無い。

 その上で他の学生にも教えてやれ。お前たちの父母親類が、如何に偉大な自衛官であったかを。このことに上級生下級生の別は無い。大隊皆で先人の記憶を共有し、何者が来ても揺るがぬ平常心で明日からを迎えよう。以上、学生隊……解散!」


 瞳に光を宿し、学生たちが一斉に自室へと散る。気が付けば、最前列に在った沢城が黙って健太郎を見詰めていることに気付く。目が合うや、沢城は閑散とし始めたロビーの一隅に向かい目配せした。その先、腕を組んで佇む浅井三佐の姿。彼に向かい反射的に不動の姿勢を取る健太郎に、浅井三佐は笑い掛け、何度か頷いて見せた。笑顔の三佐が去り、沢城が健太郎の肩を叩いて言った。

「ケンタ、やっぱ政治家の血筋だな」

「それは言うな。タケちゃん」

 嘆息――肩の荷が、徐々に下りはじめるのを自覚する。潮の引く様に学生の自室に戻って行く中で、学生の人影がひとつ、健太郎の傍で表情を躊躇わせているのに彼は気付いた。1学年生? 少年?――という、健太郎が学生に抱いた最初の印象は、外れた。

「どうした?」

「じ、自分は1学年生 弓月 雪菜と申します!」

 女か――と、健太郎は内心で驚く。短い髪故に少年と見てしまったが、よく見れば少年と呼ぶには目元が柔和過ぎ、顔立ちが整い過ぎている。美少年と呼んでも美少女と呼んでも過不足の無い、珍しい顔立ちであるようにも思われた。

 背丈は健太郎より頭一つ低かった。勇気を振り絞って男子、それも最上級生の前に立ちながらも、彼女が気の毒な程に緊張しているのが健太郎には判った。


「弓月、何か?」

「……自分の父親は陸曹長で北海道の第2師団にいます。配置は衛生隊です!……」

 学生の言葉が詰まる。健太郎は彼女を促し、励ます必要を感じた。

「弓月、大丈夫だ。続けろ」

「……自分の父の様な職種でも、他の生徒に伝えるに足る職種なのでしょうか?……自分の父は、戦闘職種ではないので……」

「弓月、お前の父親は衛生か?」

「はい……!」

「戦闘とか後方とか、職種の間に区別なんてそんなものはない。弓月学生、お前は勘違いをしている。創設以来、自衛隊は戦闘と後方の全職種が一丸となって国難に当って来たじゃないか。もう少し勉強しろ」

 やや烈しい口調で健太郎は弓月学生に言う。明らかな叱責であった。その次の瞬間、蒼白な顔をした弓月学生を、健太郎は慈しむように見詰めている。

「弓月学生、返事は?」

「……はい! 勉強します! 下らぬ質問をして申し訳ありません!」

「わかったら弓月、他の生徒にはこう自慢してやれ。自分、弓月 雪菜の父は日本一の衛生だ。日本が有事に陥ったとき、最も多くの隊員と国民を救うのは、自分の父に決まっている。と」

「――!」

「弓月、お前の父上は日本一の衛生科隊員だ。この蘭堂4学年生徒が断言するんだ。そうに決まっている。この防大では、4学年生徒の言うことは絶対だ!……そうだな?」

「蘭堂さん……あ、有難うございます!」

 蘭堂を見上げつつ、弓月学生は不意に両手で口元を覆った。白い頬が紅潮し、眼からは涙が滲み始めている。

 微笑み、行けと弓月学生に目配せする蘭堂の背後で、沢城が苦笑を浮かべつつ目頭を抑えていた。




 健太郎と沢城は、他の学生と共に陸上自衛隊 富士学校に派遣され、そのまま月は八月に代わった。

 スロリア沿海における巡視船に対する襲撃、同時にスロリア西部への電撃的な侵犯とその結果として長期に亘る不法占有を引き起こした勢力の詳細は、ただ「武装勢力」の一言で括られ、これらの事件に対する国内の衝撃は、直後の日本側の緊急避難的な反撃により溜飲を下げる形でひとまず緩和されるに至った。


 しかし、八月も二日を過ぎた途端、より後世から見れば以後の展開も遥か未来の終局に通じる一連のひとつに括られるに足るものであることを、否定することのできる者はいなくなった。日本人にとって未踏の領域たるスロリア西端はノドコール。緊張緩和を企図し武装勢力の代表との直接対話を試みた内閣総理大臣 河 正道が襲撃され――

『――死亡です。死亡が確認されました。只今上杉官房長官の発表により、河 正道 内閣総理大臣の死亡が正式に確認されました。繰り返します――』


「――おいおい、冗談だろう」

「――この分だと随員も……」

「――よくも見境無しに殺しまくるものだ……!」

 富士学校の本部オフィス、一枚の大型テレビの前には、健太郎や沢城より戦歴も任務経験も豊富な幹部や曹士たちが、平坦画面の中で詳らかにされた破局を前に、土色の顔から脂汗を滲ませていた。彼らの中には機甲戦のエキスパートがおり、歴戦のレンジャー教官、熟練のヘリコプター操縦士もいる。その彼らにしてか、余りに唐突で凄惨に過ぎる現実を前に、武人然とした平常心の維持に腐心しているかのようであった。


「ケンタ……」

「ああ……」

 健太郎の傍には沢城がいた。ふたりは富士学校の幹部連を取り巻く位置にあって、テレビの中の凶事を注視している。沢城に思いの丈を聞いてもらいたくて、健太郎の声はやや昂ぶった。

「予想外だな……ここまでの野蛮さは」

「野蛮か……まったくその通りだな」


 凶報が広がったその日の内に、学生たちには防大への帰還命令が出た。本部では各地に散った3、4年生全員の帰着を待ち、学校長自らが状況説明の上、以後の指針を示す事に決したのだという。

 同じ頃、健太郎たちと入れ替わる様に防大に戻っていたアニの送って来た電子メールは、学生たちの間に凄まじいまでの感情の奔流が生まれ、食堂、学生舎、そして大隊の集会所のみならず生徒が集まるところであれば何処でも烈しい議論が生じていることを教えていた。

 その真意は恐怖では無く怒りであり、迷いであった。日本はいま、異世界に漸く構築したその生存圏の近傍に、突如外敵を抱えるに至った。その外敵には日本人が考えて来た戦争のルールが通用せず、政治体制の不備から日本は彼らに対し不利な戦いを強いられようとしているのではないのか? そのような政府の下で、我々は如何にして国防の任に当たればよいというのか?――


『――ケンの言葉は、4大隊の皆に希望と結束を与えています。ケンの言葉のお陰で、4大隊は揺るがぬ平常心を以て日々の課業に精励しています。特に先人の記憶の共有……これが4大隊の団結に大きな効果をもたらしたようです。

 私はと言えば優しかった叔父さんを思い出しました。空自の航空学生だった叔父さん、飛行訓練中の事故で死んでしまったけど、普段は大人しくて、幼い頃の私とよく遊んでくれた叔父さんを思い出し、私自身も叔父さんに恥じる事の無い、立派な航空自衛官として精進しようと思ったものでした。そう思ってしまえば、外の雑音など何とも無くなってしまいました。ケンはやっぱりスゴいよ。2大隊の飯田学生長も、ケンの示した方針に賛同してくれたことを、此処に書き添えておきます』

「……」

 そう言えば、飯田の親父さんは海自の基地司令だったな――静岡から首都圏に通じる高速道路を走る73式大型トラックの荷台上で、健太郎はアニのメールを読んでいる。近傍の駐屯地まで所用が生じた事もあるが、富士学校の厚意であった。


『――防大の中、正確に言えば4大隊の外では相変わらず白熱した議論と混乱が続いています。特に3大隊の一部学生が国防と外敵排除の名の下、校内にあって武装勢力への積極的な反撃を主張しています。それは流石に自衛官としての領分を逸脱した物言いではないかと私には思えます。子供の頃アイヌの昔話に聞いた、持ち主の意思に依らず鞘から抜け出、誰かれ構わず斬り付けようとする刀の様な危うさを、私は彼らの内に感じるのです。

 その一方で、防大の外に在っては出所の判らない左右の団体が現れ、デモを以て相互に戦争反対と自衛隊支持を主張し、警察も出動するほど険悪な空気が広がっています』


「アニ……」

 戻らないと――募る焦燥感の一方で、順調に帰路を刻んでいたトラックの行き足が落ちて行くのを体感する。何度かトラックが曲がるのを感じるのと同時に、トラックがPA(パーキングエリア)に入ったことに気付く。止まったトラックからディーゼルエンジンの鼓動がぷつんと消え、次には聞くことが絶えて久しい嬌声混じりの喧噪が聞こえて来た。市井の音だと思った。


「10分休憩だ。降りてよし」

 と、輸送隊の指揮官が声を掛けて来た。健太郎たちより六年上の防大卒幹部。後輩に僅かな一時でも娑婆の空気を味合わせてやろうという配慮であったのだろう。だが健太郎個人にとっては必要な配慮である様には思えなかった。

 沢城を始め息抜きを望んだ学生がいち早く荷台から飛び出し、喫煙所のある区画へと足早に向かっていく。最後に気が進まぬまま、健太郎がアスファルト敷きの駐車場に降り立ったそのとき――

「…………?」

 子供がいた。妹と思しき幼女を連れた男の子がぽかあんと口を開けてトラックを見上げている。

「おにいちゃん、あのくるまなあに?」

「あれは自衛隊の車だよ。図鑑で見たことある」

「じえいたいってなあに? なにするおしごと?」

「わるいやつをやっつけて、町や島を守るお仕事だよ」

「スロリアのわるいやつも、やっつけてくれる?」

「…………」

 男の子の目と、二人を伺う健太郎の眼が合った。野戦服姿の若者に見詰められ、思わず仰け反る子供がふたり。戸惑う健太郎の眼前で、指揮官が子供たちの傍に立ち、言った。

「スロリアまでは遠いな。でも、ボクたちを守るためなら、頑張って行くよ」

「ほんと!?」

「本当だ。自衛隊はそのためのお仕事だからね」

 幹部は子供たちを傍らの駐車場へと誘った。高機動車の停まる一角であった。高機動車の周りには大人、子供の別なく民間人が集まって、物珍しげに高機動車やトラックを眺めたり写真を撮ったりしている。ここまでは、自衛隊と市民との関わりとしては、平時でもごく有り触れた光景であった。

 幹部は子供たちを高機動車の運転席に案内し、平易な言葉で説明を加えている。そこに子供たちの親と思しき男女も加わり、家族の団欒を思わせる和やかさが空気として流れ始めた。

 親子への対応を部下に任せた幹部に、年配の男性が二名歩み寄ってきて、何やら深刻な顔で話しかけてくるのが見えた。スロリア情勢への不安を吐露しているのだと健太郎は察する。それでも、事態が悪化したとしても、自衛隊が実際にスロリアに赴いて軍事行動を行うなど、この時の健太郎には想像しかねたのも事実であった……人だかりへの対応が一段落したところで、幹部は蘭堂の許に歩み寄って来た。


「蘭堂君だったかな?」

「はい!」

「この通り、実施部隊に配属されれば、この手の対応も必要になる。よく見て、覚えておけ」

「はいっ! 勉強させていただきます!」

 予定の10分が過ぎ、幹部は全員に乗車を命じた。点呼と乗車の最中、先程の親子が黙って自衛隊の車列を注視しているのを健太郎は見る。幹部自身指揮車たる高機動車に乗り込む間際、二人の子供のうち幼女の方が胸を張り、幹部に拙い敬礼を送るのを見る。対して幹部は親子に向き直り、背を正して見事な敬礼を送った。子供たちが笑い、幹部も白い歯を見せて笑った。


「参ったぜ。一服するどころじゃなかったよ」

 と、動き出したトラックの車上で沢城は言った。

「煙草に火を付けた途端にさ、いきなり大の大人に取り囲まれるんだぜ? 最初は単に珍しいのかなって思ったよ」

「それで?」

「根掘り葉掘り聞いて来るんだよ。自衛隊は武装勢力に勝てるのか? どうやって戦うんだ? 戦う準備はしてるのか?……って。戦うかどうかなんて、おれらが決めるわけじゃないしなぁ……」

「でも……準備ぐらいはしているって言ったんだろ?」

「ああ、言うだけは言ったし、それに……最後は嬉しかった」

 しんみりとした表情もそのままに、沢城は俯いた。日頃感じることの無い照れ臭さを持て余している様でもあり、大事がっているようでもあった。

「嬉しい……?」

「戻る間際にさ、みんなおれたちに言ってくれるんだ。頑張れよ、期待しているぞって……おれ、泣きそうになっちゃったよ。やべ……思い出したらまた泣きそうになって来た……」

 そう言って、沢城は眼を抑えるようにした。その様に目を驚かせつつ、健太郎は以前、父寿一郎に聞いた話を思い出していた。父に面と向かい、防衛大に進学する旨を告げた時のことだ。



「――昔……とは言っても半世紀近くも昔の話だ。自衛隊の制服を着て街中を歩くだけで税金泥棒よ人殺しよと謗られ、爪弾きにされたものだった。それでも自衛隊は腐らず、僻まず、黙々として国防の任に就き、国民の負託に応えて来た。おれ個人としても自衛隊はこれまでよく耐えた。自衛隊は良くやっていると思う。それ故に健太郎、自衛官たらんというお前の決断は間違ってはいない。蘭堂家の人間としては聊か脇に逸れてはいるが、人の道としては真っ当なものだ。おれは蘭堂家の当主では無く、ひとりの人間として息子であるお前の決断を支持する。それでも……」

「……」

 正座の姿勢を崩すことなく、健太郎は内心で身構える。

「――おれはお前には、もう少しばかり違う途を歩いて欲しかった。考え直す気はないのか?」

「……ありません」

 小さな声で息子は応じ、父は寂しげな眼で息子を凝視する。首都圏の名門大学の、法学部なり政治学部なりに進み、行く行くは官界に人生の礎を築いた上で政界に進む。それが蘭堂家本流に連なる男子にとっての「真っ当な生き方」であったのだから――「真っ当では無い生き方」を択ぶ事を許した父を、息子である健太郎は現在に至るまで尊敬している。それ故に、息子は蘭堂家から距離を置かねばならなかった。健太郎なりに「筋」を通そうと思ったのである。

「――合わないと思ったら、何時でも帰って来い」――父、蘭堂寿一郎はこうも言った。しかし、自分のためにも、そして父のためにも、息子は父の言葉に甘えるわけにはいかなかった。




 健太郎たちを乗せたトラックが防衛大学校の正門前に停まった時には、すでに夜の十二時を回っていた。言うまでも無く門限を超過していたが、正門の警備員に学生証を提示しただけで、健太郎たちはすんなりと校内に通された。続々と帰着を果たして来るであろう学生に対し、本部から配慮が為されているのは明らかであった。健太郎たちは直に学生舎に向かわず、先ずは本部に向かい、様子を見ることにする。


「おー、お前ら帰って来たか」

 浅井三佐がいたのは意外であり、僥倖(ぎょうこう)でもあった。外出した生徒の所在把握のため浅井三佐が詰めていた本部オフィス、据え付けのテレビがなお、河首相遭難に関する報道特別番組を流していた。画面が報道局から永田町の議員会館前に切り替わり、待ち構えていた報道陣の焚くフラッシュの砲列の下、正面玄関に横付けした公用車から与党の有力議員が次々と降り立っては入って行くのを見る。父、蘭堂寿一郎の無表情をも議員たちの中に見出した時、健太郎は思わず声を上げかけ、踏み止まる。

 浅井三佐は言った。

「今日はさっさと戻って寝ろ。明日には全員が帰着する。話はそれからだ」

 ぶっきら棒な物言いだったが、その語尾には教え子の無事の帰着を喜ぶ安堵の響きがあった。辿り着いた学生舎は平時のように灯が落ちていたが、舎内に踏み入らない内から起きている人間の気配が少なからずした。懐中電灯を手にした不寝番の2学年生が、健太郎たちを見出すや驚いて敬礼する。消灯時間を越えての会話は明らかな違反行為であるのに、咎めることが出来ないだけの空気もまた、出来上がっていた。


「皆、眠れないようだな」

「申し訳ありません……自分も、不安なもので」

「わかってる……」

 と、健太郎は労う様に不審番の肩を叩いた。学生舎の中、夜が更に深まり、それでも通り過ぎる学生の居室からは話し込む人間の気配は絶えなかった。何より上級の3学年生が率先して違反を犯しているのだから止む筈が無い。

 先行する沢城が自室のドアを開けた時、自室の床、毛布を被った学生が車座になり、タブレットのワンセグ放送に見入っているのが目に入った。不意に帰着した最上級生の姿を見出した途端、ワンセグ端末の光を吸い込んだ学生の眼が一斉に、まるで獣の眼の様に部屋の最上級生を迎えた。

「沢城さん……!」

「どうだ? ニュースの様子は?」

 と、沢城は聞いた。声に怒りの響きは含まれていない。それどころか寝台にバッグを下ろすや彼はそのまま車座の中に割り入って、下級生の持つタブレット端末に目を細めている。その平然とした態度に、健太郎は思わず苦笑した。


「総理の死と、次期総理の選出と、あとは死んだ総理の来歴……ここ二時間くらい、ずっとこれの繰り返しです」

「有事の話は無しか……」

「自分たちが見ている限りでは、無いですね……何ていうか、どのテレビ局も意図的に目を背けているというか……気味が悪いです」

 健太郎はそのまま寝台に身を横たえて沢城と他の学生の様子を窺う。沢城はテレビ放送を他所に彼が派遣された富士学校の様子、そして帰路のPAでの経験を話し始めた。特にPAで出会った一般人との話を聞くうち、それまで幽鬼のような儚げに見えた下級生たちの表情が、血の通ったものに戻って行くのが、暗がりの中であっても健太郎には判った。話し終えるやその場で沢城は下級生に解散を命じ、彼もまた寝台に戻る。


「――ケンタ……おれはもう少し自衛官を続けることにするよ」と、沢城は言いつつ寝台に潜り込んだ。毛布を被り、健太郎は聞く。

「どういう風の吹き回しだよ」

「見届けたいんだ……おれが生きていられる限り。このままだと近い将来、絶対に有事が発生する。それは下手をすれば前世界の米ソ冷戦みたいに半世紀くらい続くかもしれない。その最中に身を置いているだけで、おれはおれと同じ時代に生きた他の人間にはできない、貴重な経験を積むことが出来る。個人的な打算でしかないけれども、そういう世界の中で、おれは生きて自分を試したい。それが国民の役に立つことにもなるのなら尚更だ」

「その冷戦に日本が負けるとか、日本が滅びる瀬戸際にあるとか、考えないのか?」

「考えないね。おれは国を信じているから」

「タケちゃん……実はおれもだよ」

 向こうの寝台から、沢城の笑う声が聞こえた。健太郎は微かに微笑み、眠りの女神に自我を委ねんと努めた。




 朝――普段通りに学生舎の一日が始まり、掃除まで終わったところで、健太郎のみならず4大隊の学生誰もが、表面上は平穏が戻りつつあることを確信する。平穏であるように努めること、あるいは外界からは超然としていることで維持されようとしている防大の秩序……それでも健太郎自身は気を抜くまいと努めつつ、他の生徒に混じり学生食堂に向かう。

 食堂の喧噪の中、盆を抱えたアニが立ち尽くし、健太郎を見詰めていた。手早く献立を盛った盆を手に、健太郎は共に席に就くようアニに促した。


「よかった……ケン、戻って来てたんだ」

「メール読んだよ。大変だったね」

「……」

 苦笑をそのままに、アニは頭を振った。健太郎とアニが席に付くのと同時に、食堂の喧噪が一層に身近に迫って来る……会話の内容がどうであれ、この辺りも、健太郎の知るごく平穏な防大の朝の風景と変わり映えしなかった。それが健太郎を安堵させた。

「富士はどうだった?」とアニ。

「着いてあまり見て回らない内に事件が起こったからね……触りまでしか学ぶことが出来無かったよ」

「わたしも似たようなものね。もっとも、航空要員なんて最後まで部隊見学に徹する様なものだから仕方が無いのだろうけど……でもわたし、思うの」

「思う? 何を?」

「卒業、早まればいいなって。不遜な考えだろうけど」

「早く操縦訓練を受けられるから?」

 と聞く健太郎の顔が、(ほころ)んでいる。アニは頷いた。

「昔……とは言っても大昔、わたしたちのひいお婆ちゃんやお爺ちゃんが私たちと同じぐらいの年頃のことだけど、士官学校には繰り上げ卒業というのがあったんだって」

「……」

 「繰り上げ卒業」――似たような意味の言葉を、戦史の講義で聞いた覚えが健太郎にはあった。平時ならば四年程度の修業年限であるところを、人材の不足や戦争の長期化といった理由で三年、極端な場合一、二年程度の修業年限で新品少尉に仕立て上げ、前線に送り出していた時代があったのだ。

 それは前線に於いて多くの若い才能を開花させた一方で、未熟な下級指揮官の増加と損耗率の上昇という悪循環をも生み出すことになった。特に戦役の敗戦国の場合、後者は戦争の惨禍と国家の無策の一例として甚だしく強調される運命にある。かの「太平洋戦争」時の日本など、まさにそうであった。


「私たちが繰り上げ卒業して、その分早く訓練を受ければ、日本は侵略者に対して万全の構えで臨むことが出来るのではないかしら。わたしたちだって早いうちに生き残る知恵をもらうこともできるだろうし」

「そして有事が終わったら、おれたちは不足分の単位を拾うためにまた防大を右往左往することになるわけだ」

 省庁管轄下の大学校という防大の性格からして、不意の卒業繰り上げに対し臨機応変な措置が取れよう筈も無く、健太郎の冗談に、アニは噴き出す様にして笑った……が、笑顔はすぐに消え、これまで健太郎の前で見せたことの無い憂色を、彼女の顔は彼の前に滲ませている。

「アニ……どうした?」

「ケン……これが、最後だよね?」

「最後……?」

「もうすぐ、夏季休暇だよ?」

「……」

 アニが口籠ったこともあるが、健太郎はアニの真意を察しかねた。それ故にアニの表情に宿る更なる逡巡――それでも彼女の言わんとすることを、健太郎は正面から受け止めようと試みる。

「ケン、夏季休暇に入ったら――」

 思い詰め、そこまで言い掛けたアニの顔が、次には一瞬の怪訝の次に真顔へと転じる。健太郎に歩み寄り、彼の傍らで歩を止めた人影がひとり、無機的に健太郎を見下ろしていた。


『女――?』

 アニよりは端正な顔立ちであったが、アニより美人と言い切るには、外面から感じ取ることのできる感情の量が圧倒的なまでに乏しかった。襟章が3学年生であることを示していた。あの鞆惣 沙霧から、軍人というより女王のような威厳をさっぱりと取り去れば、彼女に対するのと同じ印象を抱く様になるかもしれない。

「蘭堂 健太郎様でいらっしゃいますか?」と、女子学生は言った。丁寧な口調に抑揚は無く、しかも、上級生に対する敬意すら感じられなかった。健太郎は顔から表情を消し、頷いた。

「そうだ。蘭堂だ」

「私は3学年 情報工学科 景山 陽子と申します。士道 資明(もとあき)様のお言葉を伝えに参上致しました」

「士道?……3大隊だったかな?」

「はい、3大隊です」

 と、女子学生は言った。感情に乏しい、だが畳みかける様な口調が、相変わらず続いている。その様を前にして、アニの彼女に向ける目付きが険しいものに変わりつつあるのに、健太郎は気付かない。

「何故士道自ら話をしに来ない?」

「士道様はお忙しいのです」

「防大では禁制の政治活動にか?」

「――――ッ!」

 景山学生の薄い頬と目元が、瞬時に引き攣るのが判った。

「今は非常時です。士道様が為されておられるのは喩え候補生であれ、いち自衛官として当然の行動であるに過ぎません」

「非常時だとわれわれの上の誰が明言した? 校長か? 防衛大臣か? それとも内閣総理大臣とでも君は言うのか?」

「……」

 景山学生の、色素の薄い瞳が揺れた。返答に窮した相手を、弁舌を弄して追い詰めることに悦びを見出す趣向の持ち主では、健太郎はなかった。

「景山学生、士道にはこう伝えろ。言いたいことがあれば自分から来い。蘭堂は何時でも話を聞いてやると」

「しかし……!」

「景山学生、おれは君の口を通じた士道の言葉では無く、士道自身の言葉を聞きたい」

 突き放す様に、健太郎は断言した。景山が更に何かを言わんと口を開けたとき、新たな声が、思わぬ方向から降り掛かる。

「ケンタァ――っ!」

 沢城が足早に近付き、健太郎の肩を叩いた。何事かと驚く健太郎の耳元に顔を寄せ、沢城は声を弾ませた。

「今度の夏季休暇、勿論おれの実家に行くだろ?」

「あ、ああ……」

「よし! 決まりだな」

 我が意を得たりと頷き、沢城は景山学生を訝しげに見遣った。彼女に対する彼の疑念が、景山をしてこれ以上の健太郎への執着を諦めさせたらしく、整然と健太郎に一礼し、踵を返して食堂を出て行く女子学生の後姿を、沢城は笑顔の消えた真顔で見送る。

「士道の仲間か……何か言われたのか?」

「いや……何も」

 と応じ、健太郎は席を立った。

「ここんとこ急に慌ただしくなって忘れてたけど、今年の夏でもう最後なんだな」

「……そうだな」

「じゃあ、お互い思い残すことの無い様に楽しくやろうぜ。時勢が時勢だけど、一度くらいは合コンをさ……実を言うと、田舎に帰郷(かえ)ったら高校の同窓会やるんだ。ケンタも連れて行くからな」

「ああ……楽しみだ」

 作り笑いで応じつつ、健太郎はアニのいた席を何気なく見遣った。

 彼女は既に席を立って、足早に盆を返納に向かっている。



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