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第七章  「The Long Dark Blue Line  SceneⅠ」

ノドコール国内基準表示時刻1月3日 午後20時15分 ノドコール南部洋上 海上自衛隊揚陸輸送艦 LST‐4101「じゅんよう」


 巨艦は波間を割り、漆黒に染まった航路を拓き続けていた。基準排水量二万五千トン、全長二百五十メートルに達する鋼鉄の浮かぶ飛行場。破格の巨体は、寄る辺ない海上に在っても大地の上に在る様な盤石さを、其処に身を預ける者に感じさせていた。


 日本国 海上自衛隊揚陸輸送艦 LST‐4101「じゅんよう」という名を関するこの艦の場合、二週間前に日本本土は神奈川県横須賀の港を出、その目指すスロリア近海に至るまで、巨艦に身を委ねる者は千七百名余りに上る。艦そのものの運用に関わる、所謂(いわゆる)乗員はうち五百名程度であるが、搭載する作戦機を機上、艦上に在って運用する者と、完全装備の上でスロリアの地に上陸を果たす者については千二百名の大台に達していた。

 ネット上の掲示板で、この異世界に無数に点在する小国のひとつならば、この艦一隻で制圧可能と放言する者が出るのも無理からぬ程の兵員と装備。さらに重要な事には、この「じゅんよう」から二十海里程の距離を置いた先で、「じゅんよう」の姉妹艦たるLST‐4102「ひよう」が、やはり彼女と同規模の兵員と装備を積載し並走している。それは日本側では「新世界」とも呼ぶ、この異世界に有り触れた一小国を討つには、これらだけでも余りに過剰な陣容であった。


 時間にして1700を期して「じゅんよう」は灯火管制に入り、「じゅんよう」の広範な格納庫もまた赤い夜間照明の支配するところとなった。それも「じゅんよう」が有する一基のデッキサイド式エレベーターと格納庫とを隔てるシャッターまで完全に閉ざすという徹底ぶりであった。やはり薄暗い幹部居住区を抜け、格納庫の第一層に一歩を標した二等陸尉 蘭堂健太郎は、眼前に出現したただ朱く広範な空間を前に、しばし佇んだ。


 鼻を擽る金属とオイル、電子機器そのものの発する臭気、その上に工具が触れ合う響きに格納庫にいる誰かの交わす会話の入り混じった音が重なり、まるで街中にでもいるかのような猥雑さを海上に現出させていた。主翼を折り畳んだJV‐22オスプレイとメインローターを折り畳み、あるいは取り外したUH-60J汎用ヘリコプター、UH‐1Y汎用ヘリコプター――それらが規則正しく、あるいはやや雑然と詰め込まれた第一層格納庫。搭載機が形作る金属と複合材の(もり)の中に足を向け、そして健太郎は歩き出した。


 「じゅんよう」の格納庫は広い。比較対象を挙げれば、要員内示の前に行われた乗艦実習の際に乗艦したこともあるDDH‐181「ひゅうが」の格納庫よりも、「じゅんよう」の格納庫は広く、しかも二層に亘る。それに加え艦尾に設けられた上陸用舟艇収容用ウェルドッグのお陰で、「じゅんよう」型はその建造に当たりモデルとなった「あかぎ」型航空護衛艦を腰高にしたかのような奇観を有することとなった。

 具体的には「あかぎ」型の有する電子/策敵装備はそのままに、積載量と経済性に優れた商船規格に準じて艦体の設計が行われたという事実からして、「じゅんよう」の用途が洋上の脅威への対処ではなく純粋な揚陸輸送作戦の遂行、その際の指揮統制にあることはもはや他言を要するまでもないことであった。


 蘭堂健太郎は先年の初めに陸上自衛隊の幹部航空操縦課程を修了し、ヘリコプター操縦士として実施部隊に配属された。それよりさらに遡ること三年前には横須賀の防衛大学校の生徒として「スロリア紛争」の開戦を迎えている。その点では今次の作戦への参加は望む処でもあり、同時に未だ(まみ)えぬ戦場に対する不安もまたその胸中に同居させていた。ただし戸惑いも躊躇いすらも面には見せず、健太郎は搭載機の間を縫う様に歩き、そして格納庫の奥に並ぶ数機の前で歩を止める。UH-60やUH-1Yとは明らかに趣の異なる、タンデム複座の精悍な機影――


「――」

 こいつを初めて目の当たりにしたのは三年前、三重県明野の陸上自衛隊航空学校の格納庫であった。すぐ隣に駐機していたOH-1観測ヘリコプターが、まるで無垢な女子と思える程に筋肉質で刺々しい外観。こいつの威容を前に、未だ防衛大学校を卒業したての陸曹長でしかなかった健太郎は愕然としたものであった。何度見返し、眼を見張ったところで、傍らのOH-1を原型として完成された攻撃ヘリコプターであるという教官の説明が当時の健太郎には信じられなかった――それが現在に至る乗機 AOH‐01攻撃ヘリコプター、部内名称「グリフォン」と健太郎の最初の出遭い。


 双発エンジンであることは原型のOH‐1と同じ。ただし空気取入れ口はOH-1のそれよりも大きく、より分厚いものとなっていた。緊急最大出力1500shpのTS2ターボシャフトエンジン二基を内包したエンジンカバーは妊婦の胎の様に膨らみ、かつステルス性を意識した鋭角もまた所々に備わっていた。兵装を吊るすスタブウイングはOH-1のものよりも広く、兵装を繋ぐハードポイントもまた数が増やされている。ただし健太郎にはそれがコウモリの翅を連想させていた。


 OH‐1から一切の可愛げを取り去り、代わりに悪の道に堕ちたかのような禍々しさを加えた様な異形――その最たるものがOH‐1に比して延長された機首、そこに繋がれた可動式の単装機関砲であるのかもしれない。下方監視赤外線装置(DLIR)と一体化した25ミリ口径の機関砲、銃手のヘルメット照準装置と連動し稼働する固有武装は、先達のAH‐64D「ロングボウ‐アパッチ」のそれよりも遠距離の目標を、精緻なまでに狙うことができるとメーカーの技術陣は胸を張ったものだ。


 折り畳まれたメインローターの天辺に繋がる円筒形のミリ波レーダーを一瞥しつつ、健太郎は操縦席まで機体を上った。原型たるOH‐1はタンデム複座の前席に操縦席があるが、「グリフォン」では逆に後席が操縦を担当する様になっている。前席も操縦機能を備えているが、そこは専ら兵装の操作と管制、そして策敵用の席であり、緊急時以外は操縦装置を起動させる様にはなっていなかった。

 エンジンオイルと電子機器の発する臭いが交互に、あるいは重複して、後席に潜り込むようにして腰を下ろした健太郎を迎えた。前方計器盤の過半を占める二面の多機能表示端末。グリフォンの操縦士にこいつを飛ばす上で必要な情報を示し導いてくれる技術大国日本の利器。


 操縦席から臨む左右のサイドパネルの一隅には、操縦桿とコレクティブ/ピッチレバーが各一基ずつ配されている。各レバーに内蔵されたボタンやスイッチにより、操縦士は飛行中、基本的にはこれらのレバーから手を離すことなく、あらゆる飛行が可能であった。幹部航空操縦課程において、健太郎が操縦訓練を受けたTH‐480B、OH‐6といった各旧型ヘリコプターでは、フットバーを踏み締める両足の間に配されていた操縦桿が、新型機たるAOH‐01の場合右脇に追い遣られている。各レバー、スイッチの特性こそ違え、操縦席の配置は航空自衛隊のF‐2、F‐35といった主力戦闘機のそれによく似ていた。


「…………」

 操縦教本、あるいは実地の操縦訓練で覚えた手順を呟くように(そら)んじつつ、健太郎はサイドパネルのエンジン管制盤に指を這わせた。訓練を受けた軍人というよりも、気分に乗って鍵盤に指を走らせるピアニストのそれを、健太郎の手付きは思わせた。実地ですら何百回となく繰り返している筈なのに、健太郎はこの種の練習が未だに止められなかった。

「…………?」

 始動操作を三巡させたところで、健太郎は機体の外に在って彼を注視する気配に気付いた。顔から完全に表情を消し見遣った先で、戦闘服を着た人影がひとり、微笑と共に佇んでいた。健太郎と同年だが彼よりも小柄、だが丸刈りにした頭髪、やや険しめの眼差しも相まって聞かん気の強い少年っぽさが、機上にあっても健太郎の微笑を誘う。階級章は、健太郎と同じ二等陸尉。


「コーラしかなかったけど、いいかな?」

 と、戦闘服姿の幹部は褐色のペットボトルを示して見せた。「いいよ」と健太郎は操縦席から手を延ばし、幹部はペットボトルを投げた。片手でそれを受け取った健太郎が席から離れ、幹部は微笑を其の儘に健太郎に付いて来るよう促す。ペットボトルは冷たく、水滴すら滲み出していた。

 健太郎の飛行服の胸を飾る航空徽章ひとつに比して、毬栗頭の戦闘服の胸を飾る徽章は三つ、陸上自衛隊戦闘要員中の精鋭たるを示すレンジャー徽章と降下徽章、その二つに挟まれるように配された徽章――荒波に包まれたボートと交差するオールという意匠のそれに、健太郎は僅かに目を細めた――水陸両用徽章。


「まだ寝てないの?」

「眠れなくてさ……察してくれよ」

 と、幹部は言った。「……そうそう、さっき、おれの部下に面白い演説をやったやつがいてさ――」

 声を潜めて彼が教えてくれた一部始終を聞いた健太郎の相好が緩み、次には呆れるとも感服するとも知れぬ笑みが健太郎の口元から漏れた。

「はははは……そいつは傑作だな」

 と言い掛け、健太郎は表情を消した。

「彼の言う通り、ほんとにカスだといいな」

「そうか? 張り合いが無いと思うんだけど……」

「タケちゃんと部下たちが傷付かずに済む」

「…………」


 「タケちゃん」と言われた幹部は、ばつ悪そうに俯いた。海上自衛隊の用語でラッタルと呼ぶ傾斜の急な階段をふたりは上り、先導する形となった健太郎が扉を押し開く。喩え夜間照明ではあってもなるべく光を漏らさぬよう、最小限に開いたところで二人は身を捻じ込むようにして扉の向こうへと抜けた。冷たい光を投げかけてくる星空の下、やはり冷たい潮風が乱舞する「じゅんよう」の舷側――

「――冷たいな……相変わらず」

「こっちがいい。風が来ない」

 と、健太郎は幹部を陰に誘った。場所を移すのと同時に延び上がってきた星々の光が、二人の若者の顔を青白く照らし出す。これから二人が交わす会話を聞きのがさまいとするかのように――水平線の輪郭まではっきりと判る程に、海原は眩くぎらついていた。その一隅、ふたりが乗る「じゅんよう」と並走する黒い船影がひとつ――


「――『ひよう』だな。灯火管制は徹底しているようだけど、この星明りではな……」

「潜水艦か……」

 健太郎はぽつりと呟き、若い幹部は神妙そうな表情をそのままに健太郎の横顔を見遣った。彼にとって入隊以来苦楽を共にしてきた親友である蘭堂健太郎は、時折些細な事を真面目に受け取り過ぎることがままある。その際の無表情、だが思い詰めたが故に生まれた気迫のようなものを隠せずにいるのは、沈思する彼の横顔を彩るくせのようなものであった。

 それが彼の生来からの形質であるのか、あるいは入隊するまでに彼が育まれた環境の為せる業であるのか、沢城丈一というこの幹部には、未だ判然としなかった。ただし沢城と健太郎の育ちという点では、天地程の相違があることを沢城は既に知っている。その上で、ふたりはずっと友であり続けている。


「同じ潜水艦でも、友軍の方かもしれないぜ。敵さんの方がいてもおいそれと近付けないさ」

「そうだな。護衛艦もいることだし」

 と応じた健太郎の聴覚を、低いローター音が掠めた。「じゅんよう」の遥か上空、夜を徹し前方警戒に当たる海上自衛隊の哨戒ヘリの蠢く音だ。「じゅんよう」とその他艦船から薄い雲一つ隔てた上空で周回を繰り返すそれに、気配を探りつつ耳を欹てる内、健太郎の場合、遠いローター音が何時しか今より遡ること五年前、やはり頭上に聞いたローター音と重なる。


「あの時の事、思い出すな……あの雨が降り出したばかりのグラウンド」

「ああ……あれか。でも、そんな雰囲気でも無いと思うけどな」

 と応じる沢城の顔が、苦笑に歪んでいる。苦笑交じりの、しかしそれは同意であった。

記憶の切り拓く心の原野の遥か先、ある日のグラウンドの情景が広がる。ローター音と共に過ぎた学び舎の鮮烈な記憶が、健太郎の脳裏を薙ぐ様に廻った。





五年前――日本国内基準表示時刻11月18日 午後14時17分 神奈川県横須賀市 防衛大学校


 朝の曇天は、昼間の盛りを過ぎた今となっては涙の零れるが如くに雨を降らせ始め、グラウンドの固い地面を泥濘の海に変えていた。


 防衛大学校3学年生 蘭堂健太郎は、整然と列を作る一群の最前列に在って、ただ屹然として距離を置き対面する別の一群を睨んでいた。燈色の上衣は破れてこそいないものの泥濘に塗れ、この日彼が経験した激闘の烈しさを、緊張の生む静寂の内に物語っていた。ただし着衣に関し健太郎はまだマシな方で、彼と同じ群に属する者の中には、その着衣に甚だしいまでの毀損が目立つ者もいる。


 傍らの沢城丈一もそうだ。張り切り者の彼は決勝に至る二度の他大隊との激突で、本陣を固める防御部隊、それも背丈と体躯の頑健さだけなら優に彼を越える4学年生たちと、本陣の攻略をそっちのけに真っ向からぶつかり合い、一歩も退かなかった結果として、まるで敗残兵かと思われる程に着衣を乱れさせていた。沢城自身の口を借りれば、横暴な上級生に対する日頃の鬱憤を晴らす、今日はいい機会だというわけだ……結果として、健太郎の属する防衛大学校学生隊第4大隊のカラーたる燈色、傍目から見ればそれは敗北の色に準えられようとしていた。


 一方、正面から対峙する群の上衣の色は青。戦い方が巧いのか、あるいはこれまで彼らが戦ってきた大隊が弱かったのか、彼の着衣に表立って乱れを認めることはできなかった。

 青は第2大隊のカラーだった。防衛省管轄下にある陸海空の幹部自衛官養成学校たる防衛大学校、総勢二千名に及ぶその生徒から成る学生隊は四個大隊から成る。開校祭たる今日、雨の降り頻る今に至るまで学生たちは己が所属する大隊の名誉を賭して競い合い、闘争はこの時点で終末を迎えようとしていた。

 闘争――言い換えれば、開校以来の七十年以上の伝統を誇る大隊対抗の「棒倒し」。


「注目ぉーく!!」

 精悍な怒声が正面のごく近くに生まれ、それは「棒倒し責任者」とも称される遊撃指揮官の4学年生の姿を借りて健太郎の目に映る。防衛大学校の最上級生にして健太郎の一年先輩たる学生。防衛大学校という外界より隔てられたもうひとつの異世界において、防衛省の長たる防衛大臣よりも偉いと称される4学年生の姿が、群の最前列に在って彼と対峙する健太郎には眩しく映えた。

 入校したての1学年当時、肩で風を切って学生舎を闊歩する4学年生に感じた畏怖が、今更ながら幻の様に思い出された。棒倒しの予選では、彼もまた健太郎と同じ群にあって、しかも先頭切って敵陣に吶喊していた筈が、少し襟が破れている以外には目立った着衣の乱れは無い。勇敢な上に、要領も良いのだと思う。


 対抗大隊との衝突から頭部を守るヘッドギアを高々と振り上げ、遊撃指揮官が叫ぶ。半ば統制された喧嘩も同様の棒倒しにおいて、それが参加者に着用が許された唯一の防具であった。ヘッドギア以外には薄手の上衣とズボン、あとは全くの素手と裸足で、若き防大生たちは人為的に作られた煉獄に臨むことになるのだった。

「貴様らぁ! 予選なんぞ屁でも無かったろ!! 楽勝だったよな!!?」

『ウオオオオ!!』裂帛の気合で健太郎たち遊撃隊、そして大隊の本陣を守る防御部隊の生徒が応じる。各大隊より身体能力の高さを買われて選抜された棒倒し要員たる彼ら、開校祭のトリを飾る棒倒し競技に於いて彼らは所属大隊の名誉を担い、防衛大学校グラウンドを戦場と決めて疾駆し、太い棒を立て懸けた敵陣に向かい吶喊するというわけであった。遡ること二年前、4大隊はこの棒倒し優勝大隊という名誉を対峙する第2大隊に奪われ、以後二年間棒倒し競技の決勝から遠ざかっている。4大隊の名誉、そして2大隊への復仇のためにも、敗北は許されなかった。


 隊列の前を左右に歩いて廻りつつ、4学年生の言葉は続いた。

「予選なんぞもう忘れろ! これからが本当の棒倒しだ!! 本当の戦争だ!! 貴様らわかってるな!!」

『ウオオオオ!!』

「勝負は一度きり! 五分で終わらせるぞ! 貴様ら五分間全力を出せ! 死ぬ気でやれ!」

『ウオオオオ!!』

「持てる力を振り絞れ! 投げられたら投げ返せ! 投げられても立ち上がれ! 貴様らならできる!」

『ウオオオオ!!』


「絶対!」『勝つぞ!』

「みんなで!」『勝つぞ!』

「栄光!」『奪回!』

「名誉を!」『この手に!』

「活路を!」『開け!』

「4大隊!」『無敵!』

「4大隊!」『勝利!』

「終わったら宴会じゃぁぁぁぁぁ!!」

『ウオオオオオオ――――!!』

 拳を天に突き出し、健太郎たちは叫ぶ。本陣では棒の守りを担う上乗りが棒の天辺に取り付き始めていた。大隊全員の意識が相手の打倒と栄光の奪取へと集中し掛けるその最中、甲高いローター音に気を惹かれ、健太郎は何気なく空を仰いだ。健太郎の頭上、小振りな回転翼を健気なまでに回し、学生たちを睥睨する小型無人機(ドローン)が一機――



『――!!』

 突進を促す審判の笛の音――――日頃顕わにすることの無い闘争本能を剥き出しに、生徒たちは互いの敵陣に向かい走り出す。

 舗装こそされてはいるものの、テーピングを施した裸足にぬかるんだ地面は余りに柔らかく、それ故に疾駆は望んだ通りには進まない。かと言って仕切り直しはもはや叶わなかった。対抗大隊の攻撃部隊もまた、やはり裸足でこちらの本陣に迫ろうとしているのだから――


 対抗する2大隊の本陣が眼前にまで迫ったとき、すぐ横を走る沢城が蘭堂に目配せした。と同時に沢城は十数名を率いて攻撃部隊から離れて走る。彼に付き従う学生の何れもが、健太郎や沢城より下級の2、1学年生であった。本隊よりペースを上げて先行する沢城達が本陣の周囲を固める遊撃隊の迎撃を吸収し、その際に生じた間隙に食い込む様に健太郎たちは本陣に吶喊する――

「――――っ!」

 眼前に現れ、組み付こうとした2大隊学生を、健太郎は寡潜る様にして走りやり過ごした。防御部隊により棒の周囲に形成されたサークルに殺到した4大隊の学生が2大隊の学生と揉み合い、サークルを突破し棒の根元に齧り付いた4大隊学生が、棒の先端を占める2大隊の上乗りに蹴落とされる。その上乗りの上衣を4大隊学生が引っ掴み、上乗りは棒に齧り付き必死に耐える。防御部隊の作る人間の壁を飛び越え、あるいはその頭上に飛び付き、身を乗り出して4大隊の攻勢は続く。


 サークルの周辺では、沢城達4大隊別働隊と2大隊の迎撃隊の間で、文字通りの取っ組み合いが始まっていた。危険であるが故に打撃技が禁止されている以上、まるで柔道かレスリングの様に相手の脚を払い、地面に叩きつけ、相手に組み付き動きを止めるしかない。従って、雨天の下では着衣と手足は冷たい泥濘に塗れ、競技開始から数分で彼我の区別すら容易なことでは無くなっていた。膠着が生じ始めていた。

 健太郎もまた、人為的に形成された混迷の中に身を置き、あるいは翻弄されていた。サークルに入っては突き飛ばされ、遊撃隊による拘束を回避してはサークルに喰らい付く。それを三度繰り返し、やはり弾き飛ばされたとき、泥濘に塗れつつ見遣ったサークルの只中に何かを見出し、健太郎は思わず目を細めた――いち早くサークル周囲の混戦から脱した沢城が、サークルを仕切る4大隊学生の背後に組み付き、サークルの結束が僅かに乱れるのを健太郎は察した。

傾きかける棒――


 上乗りが姿勢を変え、棒を垂直に戻さんと足掻くのを健太郎は見る――

「――!」

 身を擡げ、健太郎は駆け出した。彼の他、戦況を察した数名もまた健太郎に続く。疾駆――次の瞬間には、サークルを抑え込んだ4大隊学生の背中を踏み台に、健太郎は柱に飛び掛かっていた。想定外の方向からの想定外の急襲、健太郎はといえば上乗りの2大隊生徒にしがみ付き、そしてそのまま生徒の犇めく下界へと落ちる。身体への衝撃こそ下の学生に吸収される形で耐えられたが、何かに頭をぶつけ鈍痛と同時に意識が白濁する。そこに笛の音と歓声が聞こえた――


「――ケンタ? ケンタ!」

「――?」

 呼び掛けに応えんと、眼を開けようと試みる。尚も引き摺る疼痛がそれを妨げる。寄り添う誰かの手が健太郎の頬を二三度軽く叩き、次には怒声が聞こえた。

「担架を! 早く!」

「いや……いい」

 波の様に寄せてくる疼痛を押して、健太郎は眼を開けた。ヘッドギアにいたるまで泥に塗れさせた沢城丈一の少年のような顔が、健太郎の視界一杯を塞いでいた。

「タケちゃん、すまん」

「ケンタ、勝ったよ! おれたちの勝ちだ。4大隊の勝利だ!」

「――!」

 絶句し、次には笑う。更に声量を増す周囲の歓声の中、健太郎は思わず伸ばした腕で沢城を抱き寄せ、二人は心から声を上げて笑った。澄み渡り始めた意識の赴くままに泳がせた先、空中に浮かぶドローンを見出したところで健太郎は目の焦点を止める。そのまま視線を移したグラウンドの外縁――

「――アニ……?」

 女子生徒がひとり――恐らくはドローンの操縦用であろう、タブレットを抱いた濃紺(ダークブルー)の冬季常装が微笑んでいた。


 



 冬季故に日が落ちるのが早く、従って学生舎の上空を覆う空は漆黒に染まりつつあったが、開校祭という宴が終わってもなお、防衛大学校学生隊第4大隊学生舎は、まるで日本という国そのものが何処かの国との戦争に勝ったか後であるかのような活気に満ち溢れていた。


 その理由が学生舎正面玄関を飾る「棒倒し優勝大隊」という、風雨に晒された痕が生々しくも、見る者にまるで霊域の神体であるかのような厳かさを感じさせる木製の表札にあることは、防衛大学校という世界に生きる者の間には今更他言を要するものでは無かった。棒倒し競技において優勝を勝ち取った大隊にもたらされる、それは栄光の証であった。そして証は翌年、再度行われる棒倒し競技の日までまる一年間学生舎の正面玄関を飾り続けることになる。

 2150の日夕点呼までには十分過ぎる程の時間が残されていた。ただし事の当事者たちにとって、それが本当に愉しむに十分な時間であるのかは、傍目にはわからなかった。ただ教官側が大目に見てくれることを半ば勝手に当て込み、学生たちの手で新たな宴がなし崩し的に始まってしまっている。


「――4大隊勇士の表札奪回を祝し、乾杯!!」

『かんぱぁーい!!』

 学生舎中庭の演台に立ち、ソフトドリンクの缶を掲げて乾杯の音頭を取るのが当の4大隊首席指導教官 浅井三等空佐であること自体、ある意味「籠絡」が成功した証明であった。当の浅井三佐自身、かつては防衛大学校学生隊4大隊にあって、最終年次に参加した棒倒し競技でそれまで守っていた表札を他大隊に攫われるという苦汁を嘗めている。それ故に刻を跨ぎ後輩たちが果たした雪辱を前に、感慨も一入(ひとしお)であるのかもしれない。


 1、2学年生の手で学生舎中庭に大量に運び込まれたクーラーボックスが開かれ、氷水の只中に詰められたソフトドリンク、あるいはそれらの中に申し訳では済まない程度に混ぜられた発泡酒の類が次々と持ち出され、学生たちの喉を潤し、あるいは勝利の余韻に自ずと興を添えて行く。明日は休日であることもそうだが、棒倒し競技の優勝大隊はそれ以後を四学年生卒業まで、窮屈な学生舎の日常生活にある程度の「手心」を加えられることが認められている。それ故に学生を結束させる箍も緩もうというものであった……が、今は純粋に勝利を祝い愉しむべきであろう。


 防衛大学校。更に短く防大、防衛大。その英語名たるNational Defense Academyを捩ってNDA。はたまたあるいは「小原台刑務所」――防衛大学校はこれらの呼び名に相応しい多数の側面を持ち、学生たる若者たちは四年間の学生生活の中でこれらの側面の何れにも触れる機会を与えられている。ただし入校して最初に触れる側面が、俗称たる小原台刑務所としてのそれであることは、蘭堂健太郎自身も、または沢城丈一をはじめ彼と面識のある学生たちの間にも一致した見解であった。


 四月一日の着校、それに続く四月五日の入校式、宣誓文提出を境に、新入生たる健太郎たちは防衛大学校における最下級の「隊員」となり、同時に市井の大学生活では考えられない様な繁忙と殺伐の中に身を置くこととなった。

 時間にして0615から2215に至るまで厳密なまでに詰め込まれた学科と教練、そこに1学年生の場合、2学年から4学年に至る上級生の容赦無い指導と理不尽なまでの干渉が加わる。これは防衛大の創設以来、学生舎が学生による自治に委ねられているが故の光景であり、「一年違えばゴミ同然」とも呼ばれた程の旧時代の苛烈さは、開校より七〇年以上に亘る保守と改革の相克と妥協の蓄積により、時流に順応する形で徐々に解消されていったが、それでも自衛隊幹部養成機関の本流と称するに相応しい、厳格な校風は未だ健在であった。


 健太郎と同年に入校した六百名余りの内、入校者の娑婆っ気を抜くかのように四月一杯を使い行われる春季定期訓練の間に五十名が防衛大を去り、それから健太郎が二年次に進級する間に、さらに五十名が続いた。二年次に進級した四月の終わり、やはり伝統の漕艇(カッター)訓練が終わるまでその傾向は続いた。




 防大における一日の終わりを告げる日夕点呼の刻限まで、一時間を切った。

 勝利の宴はなおも続いていた。健太郎の足は何時しか喧騒の環から離れ、学生舎玄関ロビーの一角、複数の写真が並ぶ壁の前で止まる。

「…………」

 陸海空各々の幹部盛装、あるいは戦闘服を纏い写真に収まる青年、あるいは壮年の幹部の姿。彼らの何れもが健太郎と同じ学生舎で寝起きし、同じ釜の飯を食った卒業生であった。

 彼らに共通しているのは、彼ら全員が自身の死を以てその自衛官としての在任期間を終えた者であるということ。あの「転移」前後の日本を取り巻く国際情勢の変動は、紛争と紛争とは言い切れぬ程度の小規模な衝突を数多生み、平和国家を標榜する日本もまた傍観者たりえなくなった。

 国際連合の合意に基づく紛争への介入は、日本の領域内、あるいは日本では無い何処かで敵対者と銃火を交える自衛官という光景を生み、同時に不幸にして銃火に斃れる自衛官という事象をも生み出した。その斃れた自衛官の列に、健太郎の先輩筋に当たる者も連なった……というわけだ。



 そのとき――

 グラウンドに在ったときにも聞いた不穏なローター音が、健太郎の聴覚を再び掠めた。写真から離した視線の先、やはりグラウンド上空で目にした球形のドローンが、何時の間にか健太郎の頭ひとつ上空に在って、その無機的な機械の眼で健太郎を睥睨している。

『――かくて棒倒しの英雄 蘭堂健太郎は、大隊の皆が勝利に浮かれ騒ぐ中を離れてひとり、学び舎を巣立った英霊たちに思いを馳せるのであった……』

「…………」

 ドローンにスピーカーまで搭載されていたのは、健太郎には想定外であった。鼻先にまで近付いてきたドローンを両手で軽く、次には抱く様に捕えるのと同時に、ドローンは完全にその動きを止めた。


 下駄箱の陰から健太郎の前に進み出たパーカー姿の女性は、健太郎が棒倒し競技の只中に在ったときには濃紺の冬季常装を着こなし、ドローンによる空からの撮影を一手に担っていた筈であった。後に開校祭が正式に動画化される際には、彼女の撮影した画像が多用されることになるだろう……ドローン操作用の自作アプリを内蔵したB5サイズタブレットをバックに収め、彼女は健太郎に白い歯を見せて笑った。

 やや分厚い唇、はっきりと通った鼻筋と、それに負けぬ程輪郭のぱっちりとした目元、瞳の色は時折金色かと思われる程の薄茶色がかっているのが判る。後頭部で留められた髪の毛もまた、隠し様がない程茶色がかっていた……着色か?――人為的な成りであるとすれば、防衛大の学生としてそれはあまりに不穏当な行為であることは健太郎にも判る。しかしそうではないことを健太郎は知っている。


「しっかり撮れたみたいだね。アニ」

 と、健太郎はドローンをアニと呼ぶ女性に託すようにした。ドローンを受け取り、その胸に抱く様にしつつ、アニと呼ばれた女性は満更でも無いと言いたげに笑う。

「あとで見てみる?」

「ああ……明日ね」

「二人でいま行かない? 砲台が見えるところ」

「…………」

 健太郎は思わず噴き出した。アニが明らかな門限破りを平然と誘っていることに、健太郎は即座に気付いたからだ。一方で当のアニは、彼女よりやや長身の健太郎を見上げ、ブラウンの瞳を無邪気なまでに輝かせていた。柳原‐N(ニーソン)‐アニという名前からも察せられる通り、カナダ人の父と日本人の母との間に生まれたアニは、「転移」という破局を目前にしても両親が日本への残留という途を択んだ結果として、健太郎と同じ防衛大学校にいた。

 当然健太郎とは同期であり、しかも所属する大隊も同じ4大隊。ただし陸上要員、漠然と電気電子工学科に籍を置き全体の成績も辛うじて中の上という健太郎に対し、宇宙飛行士になりたいという大志を抱き防衛大に入校したアニは航空要員で、かつ防大理工系でも俊英の集まる航空宇宙工学科に籍を置き、成績に至っては学年首席を狙える程の位置にいる。


 そのアニが、事ある度にこうして健太郎を気に掛け、絡んで来るというのは、傍目から見れば人生の奇異に属する事柄であったかもしれない。アニが撮影用のドローンを制作するに当たり、健太郎は彼女に乞われるがまま休日を利用して東京中を回っての部品調達に付き合わされたのに加え、制御用ソフトウェア作成の手伝いまでさせられたのは、まさにその好例と言うべきであろう。

 辟易し、苦笑しつつも健太郎はアニに従うものの、健太郎は男女の交友に関しては防大生という自覚も加わりどちらかと言えば保守的な傾向の持ち主であったから、女性としてのアニのより深奥には踏み込むことをせず、結果として「友人以上恋人未満」という関係がだらだらと続いてしまっているというわけであった。先年に健太郎が経験した「失恋」もまた、実のところそのような関係の完成に一役買っている。


「鞆惣先輩……」

「ん……?」

 不意に表情を消したアニが切り出した人名に、健太郎はぎょっとしてアニを見返した。

「……来年の十二月に結婚するんだって。婚約者の人、今は外国にいるけど、来年の六月に富士学校に戻って幹部上級課程(AOC)行くのが内定しているから、当分甘い生活はお預けってことみたい」

「そうか……」

 応じつつ、健太郎は考えた。部隊勤務を始めてから五~六年を経た幹部を対象に、各種学校で半年に亘り行われる幹部上級課程は、その修了を以て部隊の主力たる中堅幹部の完成と見做すことが出来る。健太郎に先だって入校し、健太郎の入校の前年に防衛大を首席卒業した鞆惣 沙霧の婚約者の場合、行く行くは陸上幕僚長の重責も担える逸材であると、防衛大学校の教授連の間でも専らの噂となっていた。

「…………」

 鞆惣 沙霧(ともふさ さぎり)の、結婚までの日数を考えつつ、健太郎は遠い眼をした。

 健太郎が入校を果たしたとき、鞆惣 沙霧はすでに3学年生であって、健太郎のような1学年生はおろか、同級の3学年、上級の4学年生の間ですらも彼女は高嶺の花であり、防衛大の生ける伝説であった。優秀な学業成績と、教練や運動競技で垣間見せる抜群の体躯と身体能力。その上に学生舎における生活態度も判で押した様に良好且つ模範的……それら以上に何よりも鞆惣学生は美貌――それも、男共に迂闊な接近を許さない程の烈しい光を伴う程の美貌の持ち主であった。


 確かに彼女には戦場がお似合いであろう。ただし軍人としてではなく、戦場に於いて将兵を鼓舞し、戦場に斃れた者の魂を天国へと誘う女神、あるいは天使としての役処が似合う様に、あの頃の健太郎には思われたのだった。つまりは軍人と同じ次元に置くことすら躊躇われる程に鞆惣学生は武人然としていた。

 それは何も健太郎だけが抱いた感慨では無く、後年、自衛隊観閲式に学生隊指揮官として臨んだ際、指揮刀を揮って隊列を従える冬季常装姿の鞆惣生徒を前に観覧の群衆はどよめき、防衛大の外、同好の士が集まるネット掲示板上でも一時期話題を攫った程である。「観閲式の防大生が美人過ぎる件」、「いち防大生でありながら、統合幕僚長よりも偉く見えた」というレスすら付けられた程だ。


 その鞆惣先輩に、健太郎は恋をした。もっとも、彼女に恋心を抱く上級生たちと同じく、全く彼女の間合いに踏み込めないまま、その鞆惣先輩にすでに将来を約束した婚約者がいるという事実が、健太郎をして無謀な試みを完全に霧散させるという結果をもたらすこととなった。あっさりと諦めたという点では、健太郎が真の意味で恋に身を焦がしたと言い切るのは不適当であるのかもしれない。ただし破局の前後に健太郎が少なからず気分を落ち込ませたのは事実である……これまでの経緯を脳裏で走馬灯のように巡らせ、横顔に暗色を滲ませる健太郎を、アニは神妙そうに眺めるのみであった。


「コラァーケンタァ――――ッ!!」

「――!?」

 玄関扉が勢いよく開かれ、濡れた着衣も生々しい沢城丈一が、健太郎に目を怒らせていた。健太郎とアニの姿を認めるや、全速力でダッシュして健太郎に迫り、そして猿の様に健太郎の長身に齧り付く。

「オマエ、おれらが騒いでる隙に何内恋(内部恋愛)しちゃってんだ! ああ!?」

 沢城を抱き留めつつ、濃いアルコール臭に、健太郎はその端正な顔を歪めた。チューハイとビールの交ぜ合わさった甘ったるくも苦い臭い。濡れた薄手のシャツが羽目を外し過ぎた結果であることに、健太郎は今更ながらに気付く。沢城はポケットからコーラの瓶を取り出し、健太郎に突き出した。

「ホラ飲め。飲み直しだ」

「…………」

 アニに苦笑して見せ、健太郎はコーラを一口呷った。薄黒い液体が喉奥を伝うのと同時に健太郎は目を白黒させ、沢城の童顔が意地悪な笑みに歪む。

「なっ何だこれ!?」

「引っ掛かったな。ウイスキーのコーラ割りだ」

「ウイスキーって……タケちゃんお前!」

「内恋禁止の掟を破った者には制裁だ」

 舌を出し、沢城は笑った。悪戯に成功した子供の笑い方であった。沢城丈一は健太郎と同じく陸上要員、専修は建設環境工学科で、入校時、学生舎で同じ居室を宛がわれた時以来の友人であった。出身は岡山県で実家は豆腐屋。無料で勉強が出来る学校を探していて防大に行き着いたのだと彼自身では言っていた。

 任官し所定の任期が過ぎればさっさと退官して「人間の世界」に戻るのだと公言して憚らず――というより任官拒否でもしない限り、任官後更に四年の任期を務めねばならないという規則があることを、沢城は入校するまで知らなかった――当然上級生の反感を買った。負けん気の強い沢城は、それ故の理不尽な圧力をバネにして防大でここまで生きて来ているようなものなのかもしれない。

 彼自身は要領を呑みこみ、自分のものにするのが他者に比べて極めて早く、1学年時の健太郎もそれで学生舎生活を助けてもらった事が一度や二度では無かった。ただし学業の方は「できる」方では無く、その点、同室の健太郎が補ってやる形となっている。彼ら自身はそれを強く自覚したことは無いが、実際4大隊における下級生の信望は、健太郎と沢城のふたりに集中している。棒倒し競技の際、別働隊を組織し敵陣の遊撃隊を吸収する案を健太郎が立案し、沢城はその別働隊指揮官たるを買って出た。その際に別働隊に志願した下級生が棒倒し要員を構成する下級生の過半に至ったことなど、その事実の証明のようなものであった。


「アニ」と、沢城に引き摺られるように外に出る間際、健太郎は呼んだ。

「ケン?」

「タブレット……おれに貸しておいてくれてもいいかな?」

「え?……うん」

 と、タブレットを差し出しつつも、アニの手は戸惑っている。

「明日、返しに行くよ」

「…………」

 アニは微笑んだ。アニの後輩格に当たる女子学生たちが彼女を誘い、健太郎は眼を笑わせてそちらに行くよう促した。

「ケンタ、いいのか?」

「タケちゃん」

 目で、共に行くよう健太郎は沢城に促した。タブレットを翳し、健太郎は言った。

「棒倒しの動画が入ってる」

「本当か?」

「二人でいま行かないか? 砲台が見えるところ」

「……ケンタ、わかって来たな」

 健太郎の微笑――対する沢城の口元が再び歪み、それは満面の笑みとなった。門限破りは、彼の最も望むところである。



 「転移」前より、夜の天界を占める星々はずっとその数を増した。

 これは何も観念的な印象に基づく見方ではなく、専門の知識を有する学識者も認める事実であった。

 その余禄と言っては語弊があるのかもしれないが、学生舎によっては、その配置上、真夜中であってもその屋上からは浦賀水道の潮騒の犇めく様、その更に先、房総半島の輪郭を見出すことができた。夜空をたゆたう雲に至っては、銀灰色に輝いている。

 屋上から足許に目を転じれば、漕艇訓練場(ポンド)の面する海上、江戸時代に建設された砲台跡が、ぎらつく海面を背景に直線的な輪郭を投げ掛けている。直に座り込み、幻想的にも見えるその様に見入っている健太郎の傍では、沢城がタブレットの中で繰り広げられる棒倒し競技の躍動に一心に見入っていた。


「アニ撮り方上手いよなぁ……TV業界にでも行けば良かったのに」

 と言う沢城の口振りは、何もからかい半分のそれではない。

「プロデューサー柳原‐N‐アニか……いい響きかもな」

「……でも、時折ケンタばっかりアップで撮ってるな」

「そうか……?」と聞き返しつつも、思い当たる記憶は、健太郎には十分過ぎる程あった。


 タブレットから顔を離し、沢城が真顔で言った。

「ケンタ……お前どうするんだよ?」

「どうする?……何が?」

「これから」と、沢城は言った。

「おれは任拒 (任官拒否)なんてしないよ」

「ばか、卒業してからその後だよ」

「職種のことか?」

「そうだ」

 と、沢城は頷いた。再来年、順当に防衛大学校を卒業した後に入校することになる陸上自衛隊幹部候補生学校、略して幹候校での半年間に亘る一般幹部候補生課程の最後に、健太郎たちは陸自における職種――つまり専門職を決めることになる。基本的には当人の希望を尊重してくれることになっている筈が、実際は防大及び幹候校における成績が職種決定において大きな比重を占めていることは、今更言明するべくもない現実であった。


「タケちゃんは、希望は施設科だっけ?」

「ああ、普通科とか特科じゃ、娑婆に戻っても飯は食えないからな」

 沢城は言った。不遜な言い方だが、普通の任官拒否では無く、ちゃんと育てて貰った分を働いて返した後で自衛隊を抜けようと考えている辺り、沢城の考え方は殊勝であるのかもしれないと、健太郎は思う。

「施設科はむしろ出世に好都合かもな。戦史の講義で教官が言ってたっけ。あのダグラス‐マッカーサーも工兵科だったって……」

「ケンタは鈍いなぁ。十年前ならいざ知らず、この世界の何処で武勲を立てるっていうんだよ」

「そうか? 日本の外は何だかんだ言って結構物騒だって聞くし」

「この世界で国と国とのぶつかり合いなんて、おれが退官してから十年たっても起こらないって断言できるね。賭けてもいい。だいいち……」

「だいいち?」

「武力で日本と釣り合う国が、この世界には無い。ここからずっと南にあるアンドナって王国、未だ火打石銃や前装砲が主武装だって聞くぞ? 陸自どころか防大(うち)の学生隊だけでも征服できるよ」

「いずれ出てくるかもしれないだろ? この世界は……」

 一息つき、健太郎は続ける。

「……わからないことだらけなんだ。何処にどんな国があって、どんな人間が住んでいて……いや、住んでいるのは人間とは限らない。熊の様な姿をした種族もいれば、猿人同然の種族の国だってあるって聞く……でも、日本に入ってきているのは伝聞だけで、おれたちはそいつらの実物を見たことが無いんだ。友好的とも限らないし……」

 沢城は押し黙った。彼自身その必要を感じたのか、沢城は話題を変えた。それは健太郎にとっても有難かった。

「ケンタは何処に行く? やっぱ推薦貰って他大学(よそ)の大学院に進むか? 成績もいいし、コネもあるんだろ? 親父さんの」

「それは言うなって」

 沢城の言葉に悪意が無いのは判っているが、それでもわざと不機嫌を装い健太郎は応じた。現職の国会議員、それも与党自由民権党の期待の若手と称される蘭堂 寿一郎の息子。だが健太郎の隠された肩書を知っている者は、彼自身の知る限りでは、この広い防衛大学校においては沢城ひとりしかいないはずである。

 健太郎は自分の出自については強いてひけらかす様な事はせず、その必要も認めていなかったから、入校から3学年の今に至るまで、彼自身の存在が学生舎内の力関係に影響を及ぼす様な事は起こらなかった。実際にそのようなことが無い様、健太郎は入校してからこの方ずっと気を使ってもいる。沢城もまた、健太郎の真意を理解してくれている。


「おれは……航空科かな」と、健太郎は言った。

「じゃあ何で航空要員にならなかったんだ? 択べたんだろ? おれと違って」

「…………」

「陸上って……まさか……」

「鞆惣さんと、同じところに行ければなあって……今思えば、馬鹿だったかな」

 しんみりとした健太郎の声に、沢城は笑った。釣られるようにして健太郎も笑った。

「ケンタ、護衛艦乗りとか似合うと思ってたのになぁ」

「そうだな……失敗したかもなぁ」

「でも……おれは嬉しいよ。あと二年位はケンタと一緒にいられるんだから。四学年と、幹候校と……」

「よせよ。気持ち悪い」

「おれのカアチャンがさ、メールで聞いて来るんだ。健太郎君はどうなの ちゃんとご飯食べてるのって、息子のこともっと心配しろっての」

「タケちゃんちのおからコロッケ、食べたくなってきたな」

「じゃあ来月来るか?」

 夏季、冬季とまとまった休暇がある度に、健太郎は休みの大半を旅行で費やすのが常であった。政財界の名門たる蘭堂家を流れる、政治的な空気に馴染めなかったが故に、防衛大という「避難先」を求めた健太郎にとって、都内に在る実家は今となっては一種の「鬼門」でしかなくなっていた。蘭堂家に滞在する期間を防大に戻る直前の二三日に抑え、後は旅行先をぶらつくことで休暇を潰していたようなものである。岡山市に在る沢城の実家もまた、その旅行先のひとつであった。


「カアチャンこうも言ってたぜ。また来て店番やって欲しいって」

「…………」

 健太郎は笑った。沢城の実家の豆腐屋で、店先に立っておからコロッケを揚げた記憶が鮮やかなまでに思い出された。

 城下町の一角にある豆腐屋は、近くに複数の中学高校が控えているが故に、下校途中の中高生がよくその前を通りかかる。これら学生の需要を当て込み、沢城の実家は副産物のおからを流用したコロッケの店頭販売も始めたわけだが、健太郎が一宿一飯の恩義を返すとばかりに店頭に立った時、店は空前の盛況を呈することになった。部活帰りの女子中高生は許より近所の主婦に至るまで、「ぽっと出の美男子バイト店員」目当てに普段あり得ない数の女子が沢城豆腐店に殺到することになったのである。「タケ坊の出来過ぎたお友達」――後にそれが、豆腐店の在る城下町における、蘭堂健太郎の通り名となった。


 ラッパの響きが一帯を漂う様に広がった。防衛大学校における一日の終わりを告げる消灯ラッパの音色だった。沢城がニヤリと笑い、言った。

「よかった……下級生たち上手く繕ってくれたようだ」

「持つべきものは、いい後輩か」

 引き上げるのには、いい潮時であった。部屋に戻るべく立ち上がる間際、星明かりの下で一層に輝きとさざめきを増す海原に目を細め、健太郎は呟いた。

「……ずっと、みんなと一緒にいられればいいな」




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