第六章 「トトとミミ 後編」
それからどれくらいの刻を、薄暗い聖堂の隅で座って待ったのか、トトには判らない。
傍目から見ればトトとミミもまた、家を焼け出されて此処に行きついた神民街の住民の一人にしか見えなかった。聖堂を出入りする人々の数だけ、真実とも流言とも区別のつかない話が聖堂の中に持ち込まれては、聖堂にいるまた別の人間を行動に駆り立てているのがトトには判った。
市中の建物にはそれ程被害は無かったこと、再度の地震を恐れた住民の一部が市を脱出し始めたこと、市中で混乱に乗じた掠奪が起こったが、速やかに治安部隊に鎮圧されたこと……ただし、地震が最も激しかったのはイリジアの辺縁で、衛星市や村落には重大な被害が出ていること――――その報に接したとき、トトは故郷の家族の顔を脳裏に過ぎらせざるを得なかった。縁を切ったとは言ってもそれはトトの周囲にいる大人たちの都合であって、トト個人の都合では無い。それはまた、ミミとて同じ筈であった。
「……ミミ、大丈夫だ。お父さんとお母さんにはきっと会えるよ」
「有難う……」
か細い声で応じ、ミミはトトの手を握り返した。刻を追う毎に少年と少女を苛む空腹と渇き――――しかしトトからすればミミと一緒にいる限りでは、さして問題にはならなかった。半ば夢現の内に刻が過ぎ、刻は新たな人影をトトの前に運んで来た。真正面に影が差し、その持ち主を見上げたトトの眼差しが、隔意に傾き掛ける。
「ソデル……」
土に塗れたのか、頬がどす黒い。その上に頭の半分を包帯で覆っていた。それででもなお、ソデルはその目に平静を宿していた。それが、「アモール」から抜け出した今のトトには怖い。
「こんなところにいたのか?」
「おれ、帰らないよ」と、トトはソデルから眼を逸らして見せた。その直後に腹が鳴った。自分が今、空腹に囚われていることをトトは今更のように自覚し、ミミもまた同じ状態にあることに思い当る。吐息――――苦々しげにそれを為しつつも、ソデルの平静ぶりは変わらなかった。
「食い物、持って来てやるよ」
「…………」
思わず、トトはソデルの顔を見返した。てっきり「アモール」から抜け出したことを咎められるのかと思っていたが故だが、その意図に反しソデルはただ、無感動に応じ、踵を返すことで報いた。聖堂に生じた混雑の中に遠ざかりゆくソデル、思わずトトは声を上げ、ソデルの歩みを止めた。
「ソデル……!」
「ん……?」
「お嫁さんは?」
ソデルはただ笑った。大事ないという、それは彼なりの無言の返答であった。安堵し、更に畳みかける様にトトは声を上げた。
「ミミの家族、見なかった?」
「探して来てやるよ。そんな余裕があれば……な」
そう言い、完全にソデルはトトたちに背を向けた。取り残されたと思ったトトの眼差しの先、祭壇の傍に佇む司祭にソデルが歩み寄り、そして恭しいまでの低頭の後に、彼は司祭に何事かを切り出している。時折自分たちに注ぐソデルの眼光が、トトには何故か冷たく見えた。
ミミはただ、トトの胸に頭を預けつつ、祈りの詞を唱え続けている。
聖堂を仮の寝床と定め、それからさらに一昼夜を経た後、トトとミミは神民街の外に在って、積み上げられた屍を呆然と眺めていた。脆弱な構造の高層住居の密集から成る神民街の在り方そのものが、たった一度の地震で百単位の住民たちを骸に変えた。
骸の山の中に、ミミの家族全員も含まれていることを、ミミはその日の内に知らされることとなった。ソデルが教えてくれたことであった。父と母と弟――――倒壊した住居に圧し潰され、変わり果てた家族と暫し対峙した後、神民街の住民たちが彼らの骸を持ち上げ骸の山に積み上げる。漂い始めた死臭を打ち消すべく焚かれた香の匂いが、子供たちの嗅覚を少なからず苛むのだった。
「――――天におわしますキズラサの神よ、この者をあなたの御許に委ねます。願わくば、永遠の安息と栄光を彼の行く先に与え給え。この者をして、地上に在る一切の苦界より解き放たせ給え」
仮面の司祭は、住民誰もが気圧される骸の山の前で、半ば超然として祈りの詞を唱え続けている。祈りの言葉が終われば、今度は市より差し向けられたトラックが着て骸を収容して運び、市の外れに埋める……不慮の死を遂げた人々だけに限らない、神民街で一生を終えた人間の人生の、それが終焉であった。
「ミミ……」骸の山の前で肩を震わせるミミを抱きつつ、トトは囁くように言った。
「ぼくと一緒に行こう……何とかなるよ。きっと……」
「…………」
ミミは何も言わない。相次ぐ不幸の末に訪れたひとつの破局が、少女の心を外部に対し閉ざそうとしていることにトトは気付く。それがトトには恐ろしく感じられた。
「…………?」
頭上が騒がしくて、思わず頭を上げる。ここ数年に入ってイリジアの上空でも見る様になった回転翼機であった。しかしトトの知るそれよりは頭上を飛ぶ回転翼機は大きく、その爆音も力強い。
その灰色の回転翼機は機体を巡らせつつイリジアの北に向かい、緩慢な速度で飛び去って行った。北といえば、トトの故郷もまた北に存在する。そのことに改めてトトは思い当たり、顔に寂寥を滲ませた。
「――――北の村だが、全滅も同然らしいな」
「――――遊牧民しかいないのに、地震の他に何か起こったのか?」
「――――山が崩れたんだとさ……ナビル山といったか」
「――――!」
トトは思わず会話の方向を顧みた。故郷を出た時、遊牧民たるトトの家族はナビル山の麓に住んでいた。遊牧という生業故に、トトの家族は幾度か住む場所を変えるのが常であるが、近年の牧草不足が、遊牧民たちをして自然と豊富な植生を有するナビル山とその近辺への集住を促していたようにも思える――――切り離された家族の消息に関する一抹の不安が生じたのは、拭い様も無かった。そして不安は、戻った聖堂で聞いたラジオ放送により忽ち頂点に達してしまう。
『――――アミドラ内務長官は市北方に非常事態宣言を発し、北部への治安部隊の増援及び救援部隊の展開を命令しました。一方、イリジアを訪問中のニホンのカマダ外相は、アミドラ内務長官との会談の場でイリジアへの支援を伝え、アミドラ内務長官はこれに感謝の意を述べました。現地には既にニホン海軍の回転翼航空機が展開し、救援物資及び避難民の輸送を行っているとのことです』
「…………」
聖堂の一隅、古ぼけたラジオ放送受信機の前で息を呑む老若男女の端に在って、トトもまた新たな放送を待ち焦がれている。イリジア本市を酷く苛むことの無かった地震から二日を経ても尚、地震を意識した番組編成は続いていたが、死傷者に関する発表は変動が著しく、その点、トトには気を持たせるものであった。
「――――ナビル山の形が変わっちまったって聞いたぞ」
「――――麓に住んでいた連中はみんな土の下らしいな」
「――――ニホンが助けてくれるんだろう? 医者とか、飛行機とか送ってくれるって……」
「――――ニホンが助けるだと!? 馬鹿を言え!」
「――――!?」
大人たちの会話の最後に、怒気以上に憎悪を籠めた反駁が重なる。血相を描いた男がひとり、会話の輪ににじり寄り更に声を荒げた。
「――――おれたちから食い扶持を奪った異邦人に、何を期待しようっていうんだ? やつらはおれたちから職だけじゃなく、土地までも奪う積りなんだ!」
「あの人……隣の村の人……真珠採りの元締だった……」
と、震える声でミミが囁いた。
「……あの人、娘がいたの……あたしより一つ下。寄り合いで会う度によく一緒に遊んでた。あたしのことをお姉ちゃん、お姉ちゃん……って……でも、真珠が売れなくなってから食べ物を買うお金も無くなって……とうとうお腹を空かせて死んでしまった……わかっていても……あたしたちには何もできなかった……!」
ミミは肩を震わせ、しまいには溢れ出す涙が彼女の頬を汚すのをトトは見た。ミミの手を握り、トトもまた溢れ出した涙を見せまいと聖堂の天井を仰ぐ。その間もミミの独白は続いた。
「みんな死んでしまった……真珠が売れないから、食べるものが何も無くなってしまったの……だから村を出る前にたくさんの人が死んでいった……真珠を採る以外に、生きていく方法を知らなかったから……あたしたちも司祭様に逢わなかったら今頃は――――」
そこまで言い、ミミは息を呑む様に涙を啜る。ミミに寄り添いつつ、トトは聞いた。
「司祭様が、助けてくれたの?」
ミミは頷いた。
「司祭様はあたしたちに食べ物をくれて、それから此処に来るよう言ったの……この街は背徳の街だけど、私たちの力で神様の祝福を受けるに足る素晴らしい街にしよう、悪魔を滅ぼして、キズラサの神の都にしようって……」
「悪魔……って?」
「イリジアにあらゆる堕落を引き込んで、真面目な人を苦しめている人たちのこと……」
「…………」
トトにとってはその後は何も問えず、そして何も言えなかった。涙に目を腫らしたミミがトトを顧み、そしてトトに縋る様に抱き付いた。
「トト……あなたは違う。あなたもまた、悪魔に虐げられてきた人間のひとりだもの。だから……あたしたちと同じ世界に生きることを神様もお許しになるわ」
「ミミ……ありがとう」
ふと顧みた祭壇、設えられた講壇に立つ司祭の姿を目にする。トトは彼女に向かい更に目を凝らした。灯の連なる燭台に淡く照らし出された顔の上半分を覆い隠す仮面の下、ただひとつ剥き出しの口が開くのを見る。
『――――偉大なるキズラサの神の、祝福されし忠実なる僕たる皆様、お聞きください。審判の刻が始まろうとしています』
「…………」
聖堂を満たしていた大人たちの話し声が、潮が引く様に消えていく。静寂というより空虚が辺りを満たし始める中で、ただ感情の見えない司祭の言葉のみが響き渡る。
『――――悪魔に籠絡された市政府は、地震をこれ幸いと神民街の破壊を企図しています。神民街はキズラサの神が我らに賜りし聖なる砦。その砦に、悪鬼の軍勢が押し寄せようとしているのです』
「…………」
薄暗い中で、聴衆の沈黙は尚も続いていた。無関心故では無く、その逆故であった。その上さらにじんわりとして皆に広がる感情を、トトはその背筋に感じ取り震えた。最初は何かも判別し難い程漠然としたそれが、恐怖であることに気付くのに、世情に疎い子供心では少なからぬ刻を要した。
『――――悪魔はあなた方を更に弾圧し、その上で地獄へと誘うために竜を呼び寄せました。毒の息吹を吐く竜……その名は「アシガラ」――――あなた方をかくの如き苦界に追い遣ったニホンの船です。援助と称し、友好親善と称し、更なる悪魔がイリジアに近付こうとしているのです』
「――――!」
女の絶叫が聞こえた。それは絶望の慟哭であった。ひとりだけでは無い、絶叫とは言わぬまでも、恐怖に直面した泣き声が聖堂の各所から生じるのが聞こえる。信徒たちに広がる動揺を無感動に見下ろしている女司祭の姿が、大人たちを遠巻きにする様にその説教の様子を見守るトトには、得体の知れない、人ならざるものの様に映った。沈黙を以て、まるで動揺が広がるのを見届けたかのように、司祭は再び言葉を紡ぎ出す――――
『――――いえ、ニホンの魔手はすでにイリジアの辺縁に及んでいます。彼らは辺境の被災地に毒の入った食べ物をばら撒き、震災を生き残った民を籠絡し、病の素を植え付けようとしています。辺境の民はニホン人に唆されるがまま毒を呑み、ニホン人の奴隷と化しつつあるのです。イリジアの市政府もニホン人の企みに加担し、共にイリジアのキズラサ者を滅ぼさんとしています。信仰の危機が訪れようとしています』
「…………」
辺縁にまで及んだ話を前に、トトが蒼白になった自身の顔に気付いたのは遅きに失した感があった。トトの変化を察したのはミミの方が早く。彼女はトトの手を強く握り、トトを正気に引き戻さんと試みているかのようであった。
「――――司祭様! 地震はひょっとして、ニホンの仕業ではないのですか?」
祭壇の端から若い声が飛んだ。と同時に言語に尽くせぬ悪態と呪詛の声が重なる様に響く。その何れも彼らがその正体を知らぬニホンに対する憎悪の発露であった。
「――――みんな奴らのせいだ!」と、叫ぶ声がした。それがこの狭く、薄暗い空間に醸成されてきた感情の箍に穴を開け、そして突き崩していくのをトトは肌で察する。
「――――そうだ! ニホンが持ち込んだ害悪のせいだ。やつらがイリジアを狂わせているのだ!」
「――――イリジアからニホンを追い出そう! イリジア市をキズラサ教の都にしよう! おれたち本来の生き方を取り戻そう!」
怒声は秩序を伴った檄へと転じる。拳を振り上げニホンの打倒と信仰の弥栄を叫び、唱える人々――――憎悪と敵意以外の感情の所在を求め、トトは戸惑うしかなかった。
『――――悪魔は倒されねばなりません。悪魔の軍勢より聖なる砦たる神民街を守り、ひいては信仰の灯を守るために、イリジアのキズラサ者は起たねばなりません。悪魔の船アシガラを斃す聖剣はすでに用意してあります。しかし、剣を執る勇者はいません。わたしたちは、勇者を見出さねばなりません。身を呈して魔竜を殺す勇者を――――』
「トト?」
「ん……?」
「ごめんね」
と言い、ミミはトトから手を離した。呆気にとられたトトを尻目に、ミミは祭壇の方向へ歩く。トトが彼女の真意を察し、同時に再び顔を蒼白に染めたときには、少女は司祭の前に在って、凛とした声で告げていた。
「司祭様」
『――――』
「わたしが、剣を執ります」
「――――!」
愕然として、トトはその場に座り込んだ。
浮遊感――――衝撃故に生じたそれはトトをして足許を崩し、トトは腰を衝いた姿勢のまま、ミミの後姿を凝視し続けた。彼女を引き止めなかったことを、トトは今更ながら心から後悔した。
「隠れ家」は、司祭がアシガラと呼ぶ船が一望できる海辺にあった。つまりはイリジアの主要港たる中央港のほぼど真ん中に、尖塔を有するその家は佇んでいた。
本来は、そこに聖堂を設ける積りであったという。その証拠に屋内の仕切りが可能な限り取り払われ、奥には祭壇と思しき台が設けられていた。ただし聖人の像や装飾品は一切なく、それ故に何か穴が開いた様な空虚さのみがその空間の中に生じていた。まるで神と交信する大切な儀式を途中で取りやめた様な――――それがトトには恐ろしいものの様に思われた。何であるかはっきりとは説明できないが、トトには怖かったのだ。
司祭がニホン人に対する敵意を顕わにし、ミミがニホン人を殺すための行動に志願した日の内に、トトは自由の身となった。どういうわけかそうなったがこの場合、自由という言葉の定義には多少の説明が必要であったかもしれない。それは、トトがイリジアの社会から完全に切り離されたという意味が多分に強い「自由」であった。
「もう『アモール』には近付くな」と、真夜中に神民街を抜け出し、「隠れ家」に連れていく車上、ソデルはトトに言った。
「お前はもう『アモール』にも故郷にも戻れない。もういない人間なのだから。この俺だって――――」
地震で娼館そのものが傾いて営業すらままならないこともあるが、ソデル自身の口によって、どうやら自分が地震で死んだことにされたことにトトが気付いたときには、とっくにトトはソデルの「助手」として、キズラサ教の活動に関わる身となってしまっている。真夜中、車が神民街から「隠れ家」に着いた時にこうも言われたものだ……「当分此処から出るな。まだ国老の配下が街中をうろついている」と――――選択の余地は既に無かった。「アモール」と同様、此処でも足抜けは許されなかった。
朝、食事の盆を抱えて、トトは尖塔の階段を上っている。
種なしの堅いパン、果物と甘く味付けした乳酪、そして小魚の干物という、簡素に過ぎた昼食の献立は、尖塔の主となった少女の希望であった。尖塔の頂上へと通じる戸をトトは叩き、同時に戸の向こうからミミの声がした。
「――――どうぞ?」
「ミミ、入るよ」
戸を開け、トトはミミの部屋に踏み入った。大の大人ふたりが漸く立つことのできる程に狭い部屋、だがそこが、人生の終焉を過ごすに彼女が択んだ最後の場所であった。港を一望し得る窓辺に拠り、聖典を読みふけるミミの姿は、トトにはひどく大人びて見えた……あるいは、トトにはミミが眩しかった。
「ご飯……此処に置くよ」
聖典から顔を上げたミミが頷き、トトは盆を卓上に置いた。その卓上、インクの痕が痛々しく見えた。遺書を書いている、而して文面を纏めるのに難渋している……そのような様がありありと伺うことが出来た。
「手紙を……書いてるの?」
戸惑いがちにトトが投げ掛けた質問を、ミミはくすりと笑う。
「何を書いていいのか、わからなくて……」
「そうだね……」
応じるのと同時に、トトは問うたことを後悔する。トトの顔に出た後悔を、ミミは見逃さなかった。
「トト」
「ん?」
さり気無く、ミミは窓の外を指差した。港の方向、青々とした海原の凪ぐ一角、港で最も立派な埠頭に横付けしている灰色の船体を、トトは知らず眼を険しくして睨む。
「アシガラか……」
「船の上で宴会をしているんですって……市の偉い人を呼んで」
「いい気なものだ……家を失くして苦しんでいる人もいるのにね」
「ソデルが教えてくれたの。ニホンの船長は元首から勲章を貰ったんですって。イリジアを助けてくれたお礼だって……」
「酷いな……」
「そうね……だからこそ、神様はわたしを択んだのだと思う」
「択んだ?」
「あのとき……司祭様が志願者を募ったとき、わたしの心の中で何かが光ったの。烈しいけど、とても暖かい光だった……その光に従えば、喩えこの身を捨てることになっても苦しまずに神様の御許に行けるんだって思った……だから迷い無く志願できた」
「……ぼくにも、その光が見えるかな?」
トトの問いに、ミミは躊躇いがちに微笑んで答えた。
「トトは未だかもね。洗礼も受けていないし」
「そんな……ぼくは、君とずっと一緒にいたいのに」
「トトはキズラサの教えをしっかりと勉強して、神様の御許には後からゆっくりと来ればいいわ。なるんでしょう? 司祭に」
「う……うん」
トトは頷いた。信仰をイリジアとその周辺に拡げるための方策として、教団は現地人の司祭を養成する策を採ることになっている。トトもまた、その神学生のひとりに択ばれたことをソデルの口から既に伝えられていた。当面はトトは司祭の傍に在って助手の傍ら、キズラサ教会の儀礼を学ぶことになっている……経験を積み、彼はいずれ、キズラサ教の本山があるというローリダという国に旅発つことになる。
「トト……わたし、あなたと出会えて本当に良かったと思ってる」
「ミミ、ぼくもそうだ」
そこまで言い、トトは不意に言葉を震えさせた。
「でも……ぼくは怖い」
「怖い?……どうして?」
「ぼくは君をひとりで行かせるのが、怖いんだ」
ミミの目付きが変わった。トトに近く寄るよう、ミミはその目で言っていた。誘われるがままにトトは顔をミミに寄せ、ミミはトトの頭をその胸で抱き留める。少女の芳香を感じ取るトトの耳元に、少女の吐息が触れた。
「トト……大丈夫……わたしはやり遂げるから」
朝焼けの投げ掛ける橙色の光が天井に嵌められた細工入りガラスを透る。光は当初は空虚のみと思われたその空間に、何時しか身を震わせる程の神々しさを現出させていた。朝の光は刻が経つにつれて隠れ家の礼拝所を、その足許から淡く、やがて広く照らし出し、そこに聖典に記された神の言葉が響き渡る様にして重なる。
「――――キズラサの神は言われた。汝ルフェルス、この世に在る邪なる全てを平らげし者。汝ルフェルス、この世に在る我が意に背きしをなべて戮せし者。汝ルフェルス、この世に在る我が僕を守るを全うせし者……我、汝に無限の祝福と永久の安息を以てこれに報いん――――」
祭壇の前に在って聖典の一節を唱える仮面の司祭、その前にミミが跪き、聖典の詠唱に聞き入っている。聖典を唱える司祭の顔にも感情は無かったし、跪くミミの顔にも感情は無かった。
トトはただ、ふたりを取り巻く一群の男たちの中に在って、二人の様子を沈黙のうちに伺っている。永遠の別れの筈が、何故か悲しみを感じない自分に、トトは内心で戸惑っている。戸惑いが、彼の場合迷いを誘っていた。このままでいいのだろうかという、ミミの人生の終焉についての迷いだ。
「――――我、神の第一の僕にして、神より悪魔の掃滅を委ねられし者なり。我神の目となりて地上に悪魔を見、我神の刃となりて悪魔の胸に其を突き立てん――――」
司祭は、悪魔を倒した勇者の話を唱えていた。正確な筋はまだ判らないが、神の意に従いこの世のあらゆる邪悪を滅ぼして回った偉人の話であることが、トトには何となくではあるが察せられた。キズラサ教の聖典はその全てがイリジアの言葉に翻訳されているわけではなかった。司祭たち異邦人が後生大事に抱えている信仰の拠所たる聖典、しかしトトやミミ、さらにはソデルたち他のイリジア人が触れることのできる箇所は、イリジアの言葉に翻訳された――――それも、大まかに意訳された――――僅かな箇所でしかなかった。
その僅かな箇所にイリジアの弱き者たちは希望を見出し、そして未来を賭して縋っている――――トトにはそれが、子供心に奇妙なものの様に思われたが、ミミのためにも口には出さなかった。
「――――聖女アンナマリ‐レ‐ユナ」
「――――はい、司祭様」
と、ミミは応じる。この時点で生まれ持った名ではなく、キズラサ教徒としての洗礼名で呼ばれていることからして、隠れ家に集う人々の間ではミミは既に死んだも同然なのであった。
「――――あなたはすでに死者であり、神の御許に席を与えられている者です。この上はそれを確かなものとせねばなりません」
「――――はい、司祭様」
ミミは頷いた。黒い手袋に包まれた司祭の長い腕がミミの頬に延びる。当人の有する全ての感情を抑圧するかのように嵌められた仮面の下で、司祭が微かに笑うのをトトは見た。
「壮途に赴くに当たり、言い残すことはありますか?」
「ありません。司祭様」
結局ミミは、遺書を書くことは無かった。
隠れ家の外――――隠れ家の面する桟橋、その陰から大人たちの手で引き出されてきた小舟を目の当たりにした時、トトは後退りした。
発動機付きのその船体には、立錐の余地の無い程に煉瓦状の物体が詰め込まれていたからだ。それが爆薬であることは、いざ出発の段になって物体に起爆装置を繋ぎ始めた男たちの、緊張しきった表情から容易に察せられた。改造された発動機は船に駿足を与えたが、その代償として後退と停止の機能は完全に取払われてしまっている。つまりは一度スロットルを開いたが最後、船は信仰の敵にぶつかるまで止まることなく海原を驀進し続けるというわけであった。
「――――船の速度を上げて、尖端をアシガラにぶつけるんだ。発動機の扱い方は……わかってるね?」
準備の指揮を取っていた若い男がミミに聞いた。ミミは頷き、そしてトトを顧みた。
「トト」
「?」
「これ……食べて欲しいの」
「…………」
ミミが差し出した、丁重に包まれた箱には、見覚えがあった。今日死ぬというときに、ミミはわざわざ早起きして弁当を作っていたことをトトはこの時になって知った。落涙しか、ミミに報いる途をトトは知らなかった。躊躇う様な手付きでトトは箱に触れ、そして抱く様に弁当を受け取る。それを見届けたかのように、ミミは皆に告げた。
「清浄なる信仰を守り続ける皆様に、神の御加護あらんことを」
直後、大人たちの手により始動された発動機が白煙を噴き、桟橋から跳んで乗船を果たしたミミはハンドルを引き継いだ。ソデルが叫ぶように言った。
「舫い綱を外せ! 警備隊に勘付かれる」
まるで現世からミミひとりを切り離そうとしているかのように、大人たちは船を留める綱を解き始める。トトは桟橋の端にまで進み出、壮途に臨むミミの横顔に目を奪われている。最後の舫い綱が解かれ、船がミミの手で港湾に乗り出そうとしたそのとき――――
「――――!」
トトは跳び、その足は辛うじて進み始めた船上を捉えた。乗船と同時に崩し掛けた体勢を、トトは辛うじて支える。
「トト!?」
速度を得始め、上下に揺れ始めた船上で、トトはミミに硬い笑顔を見せた。ミミの頬が紅潮し、その黒い瞳に涙が溢れ出していることに気付く。
「駄目よトト! 今からでも遅くないわ」
此処から飛び降りて!――――言い掛けたミミを、トトは眼で拒否した。
「ぼくも一緒に行く」
「でも……!」
「ミミ……ぼくだけでは食べ切れないよ」
と、トトは弁当を差し出した。イリジア中央港は広く、トト達が発した桟橋は中央から縁遠い南の外れに位置する。アシガラをその舳先に捉えるには、幾分かの時間が必要であった。トトは弁当箱を開け、微笑と共にその中身をミミに見せる。魚と野菜の香辛料煮と米、おやつの甘いパンケーキという献立は、確かに踊り子であった頃のトトの最も好んだ取り合わせであった。
「人生で最後の食事だ。一緒に食べよう」
「トトの馬鹿……!」
アシガラに近付き得る立場に在る同志のもたらした情報では、今がアシガラ港を出る頃合いであった。あの灰色の浮かぶ城はイリジアを出、彼らが現在侵略を続けている遠い島に向かうのだという。イリジアを守るためのみならずニホン人の悪行を止める為にも、ミミの献身は必要だったというわけだ。
緩慢だが、着実に船は海面を割り、港の奥へと進んで行った。
途上、幾隻かの木造商船や交通船と行き合ったが、船上で食事に興じるトトとミミを前にしては、海路に在って雑事を担う小舟乗りとその親類程度にしか見做されなかった。何よりも出発に際し、積荷に見立てて巧妙に隠蔽された爆薬が、海上にまで張り巡らされた司直の目を晦ませるのに役立っていたのかもしれない。
港内にはそれら警備部隊の駆る小艇が走り、あるいはブイを流用した海上哨所に配された武装兵が険しい眼を港内に注いでいたが、ふたりの乗った船がその至近を掠めたところで、注意を喚起された者は皆無であった……つまりは、警戒は弛んでいた。
「トト、アシガラよ」
「うん」
ミミが指さし、トトが頷いた先、曳船に伴われた。灰色の船体が港口に向かっている。海上に現出した街を思わせる、巨大な船であった。
船上に聳える城郭のような船橋、同じく城郭の様に立つ巨大な煙突がふたつ――――ふたりはアシガラの全容をそれまで遠巻きにしか見ていなかったから、今こうして距離を詰めてその巨体に接する彼らの驚愕は、胸を震わせる程の新鮮さをも伴っていた。少なくとも死ぬ前に抱くべき感慨では無かったのかもしれない。アシガラの周囲を走り回っていた警備船が、アシガラから距離を置き始めるのが見えた。
「トト、このまますれ違うわ」
「わかった」
距離を置き、ふたりの船はアシガラと反航する。灰色の船上で作業をしている人影が見えた。その人影と比べてもアシガラはやはり大きく、アシガラを作ったニホン人という種族の底知れなさに、ふたりとしては子供心に戦慄を禁じ得ない。
完全にすれ違ったところで、ミミは船を舵を転じた。大回りに旋回しつつ、船はアシガラの後を追う体勢を取った。追い風を受け、アシガラの船尾ではためく旗の紋様に、トトは暫し目を奪われた。赤と白の対比が見事なまでに映えた、単調だが鮮やかなニホンの旗――――
「…………」
ミミが速度を上げ、そしてトトはアシガラの船尾に在って作業を続けるひとりと思わず目を合わせた。帽子を被り、分厚い胴衣に上半身を包んだニホンの水兵――――目が合うや、トトは思わず手を振ってしまう。水兵はトトを見遣りつつ、明らかに微笑みかけていた。一瞥だけでは、イリジアを侵略しようとやってきた異種族とは到底思えなかった。
「いいわトト、向こうは油断してる」
ミミが言い、さらに舳先が廻る。片舷を海面に接せん程の勢いで小舟が旋回を終える頃には、発火装置を取り付けた舳先は港口へ向かうアシガラの横腹を捉えていた。
「ミミ! もう大丈夫だ! このまま真っ直ぐ!」
「トト! 戻って!」
這う様にトトはミミの傍に付く。ミミはトトに舵取り棒を握る様促し、彼女もまたトトの手を包む様に舵取り棒を握った。
「トト、わたし、あなたと会えて良かった」
「ぼくもだよ。ミミ」
アシガラの船腹が迫る。
船上の人影が、慌ただしさを増した。
急旋回し小舟を追う警備船。
終焉は、舳先に迫り来る壁の如き船腹という形で少年と少女の前に訪れる。
蒼天と蒼茫、二つの世界に生じた紅蓮――――烈しい炎の奔流は、ふたりの殉教者の心と躯をその懐に取り込んで消滅させ、巨艦を破滅の巷へと変えた。
「トトとミミ」終