第五章 「トトとミミ 中編」
遊牧民出身のミミにとって神とは、何も無い平原に生贄の羊を置いた台を挟んで空に向かい一族の繁栄と無病息災を祈るもの、という位の対象でしかなかった。祈る場所も祈る方法も設えは簡潔に、しかしそれだけでイリジアの外縁に住まう遊牧民にとっては、彼らの信ずる神に対する誠意を示すことが出来ていたのである。
しかし、ミミに連れられて足を踏み入れた「神民街」の奥に広がる、荒廃した集合住宅の蝟集する外見に不似合いな、それが存在する時空すら異なるかのような荘厳な空間を目の当たりにした時、トトは夜道で異形の怪物に遭遇したかのような驚愕を隠し通すことはできなかった。
照明は深奥の祭壇の両脇を彩る油灯以外には無く、それが却ってトトをして胸を高鳴らせる程の興奮をもたらしていた。ミミに導かれるまで重々しい両開きの扉に塞がれていた入口、そのすぐ傍に立ち止り、トトは半ば呆然として祭壇のさらに奥に目を凝らす。彫刻の天使と瑞鳥に囲まれた、貧相な身形の男の塑像がひとつ。あるいは、哀しげな顔で天井に隔てられた天を仰ぎ、両手を掲げた男の塑像がひとつ――――
「――――あれが、ミミの神様?」
「聖ノーディニア様だよ」
そう答え、ミミは薄暗い中で微かに笑った……と同時に、聞いた事の無い音色が場内を揺るがし始めるのをトトは聞く。大きい音色だが決して不快ではなく、むしろ心地良い。音色はひとつの音階を追う様に別の音階が重なり、そのままミミを蕩かせる程に心地良いひとつの曲となった。甘い蜜の蕩け具合を音楽で表現すれば、こういう感じなのだなとトトには漠然と思われた。
「どうぞ」
ミミが言い、トトの袖を引く様にした。ミミに手を取らトトは意思の無い人形のような足取りで席へと向かう。整然と乱雑の間を演出するような程度に並んだ拝礼者の席は、その過半が既に埋まっていた。薄暗い中であっても、此処に集う人々の身形は例外無く貧しいのがトトにはわかった。イリジアの街を問題無く闊歩し得る小奇麗さとは、全くに無縁であるようにトトには見えた。イリジアにはいないことになっている人々……ではあっても、今や彼らの提供する労働力無しでは都市国家としてのイリジアは機能し得ない。
夢の世界を歩く様な感覚を持て余しつつ拝礼席の最後列まで来た所で、ある者の姿に気付きトトは思わず足を停めた。
「ソデル……?」
「…………?」
黒い影が微かに動き、それは名前を口走ったトトを顧みる男の姿となった。
「トトじゃないか? お前何でこんな処に……」
言い掛け、ソデルは口を噤む。トトに寄り添う様に佇むミミの姿が、ソデルをして全てを把握させたようにトトには見えた。それ以上は何も言わず、ソデルは隣の席を指し、顎を杓って見せた。促されるがままミミはトトの手を引き、ソデルの隣に座った。
彼ら二人に遅れて聖堂に足を踏み入れ、席を探す人々が暗い空間の中に喧騒を生み、それは時間にして五分間は続いた。聖堂が足を踏み入れた時の印象より、その実狭いことにトトは気付き始めていた。その一方、聖堂に生まれた喧騒に気を取られる中で、また別の人影が祭壇の方向から現れたことにトトは気付かなかった。
「あ……」
凡そ普通に日常生活を送るのには窮屈ではないかと思われる程に没個性的な黒衣――――それが若い女性の躯に着られていた。女性であることはわかったが、それは黒衣より浮き上がった女性らしい腰と胸の輪郭、長い金髪からトトが導き出した感触であった。
ただし肝心の顔が判らない――――彼女の顔全体を覆う白い仮面が、彼女に接する者をしてその素顔を推し量ることすら不可能にしているためだ。同時にトトが驚いたのには、黒衣の彼女が現れた途端、聖堂に集った群衆が一気に沈黙へと傾いたことだ。まるで生を奪われたかのように一言も発せず静まり返った群衆を前に、黒衣の女は演台に立ち、そして群衆に向き直る。
「――――神は見守っておられます。迷える人、泣ける人、悩める人を常に慈しみ、必ずや人々の苦しみに平安を以て報いることでしょう。未来への絶望は無用です。神は神を信じる者により善き未来を与え、あなた方を苛む障害よりあなた方を解放することでしょう……」
静謐な、だが心地良い響きを持つ声が聖堂に浸み亘るのをトトは聞いた。さらにはその一言で群衆の関心が演台の女に集中するのにトトは驚く。その後の言葉の意味は判らなかった。ただ、彼女は「聖典」とかいう書物から幾つか話を引用して群衆に生きる為の指針を解き、ミミを始めとする誰もが彼女の話に聞き入っている……ということだけはトトには判った。傍らのミミに至っては何度か鼻を啜っているのが聞こえる――――仮面の女の話に感極まり、泣き掛けているのだとトトは思った。
「――――イリジアの政府はあなた方をいないものとして扱い、それ故にあなた方に対する搾取は益々強まっていることを自覚しなくてはなりません。神は全てを見ておいでです。神はそれを信じる者を決して見捨てず、神を信じる者に仇為す異教徒を決してお許しにはならないでしょう。イリジアの社会は偽りの神に囚われているが故に、尚も腐敗と堕落を続けています。聖典第九章信書集に曰く、『其は背徳の街なり。神に仕えるに足る者ひとりとして無し。神の王国に導くに足る者ひとりとして無し』――――イリジアもまた同じ。貴方がたは神のお導きの下、イリジアの頽廃を掃い、神の王国を打ち立てねばなりません」
「…………!」
トトは、震えた。聞く言葉に感情こそ籠ってはいないが、彼女の発する言葉の意味に、空恐ろしい意味を感じ取ったためであった。凡そ信じる神を問わないイリジアの空気とは違う聖堂のそれを、トトは受け入れられずにいた……というより、トトやその他の多くのイリジア人の場合、この街に普通に暮らしている限り、神だの信仰だのを真剣に考えなくとも済んでいたのだ。
しかし此処では――――唖然とし、次には戦慄する内に女の説教が終わり、次には市場のような賑やかさが場を包み始めた。席を立った人々が列を為し、その向かう先では食べ物の施しが始まっている。蒸したイリジア芋にパンというその内容は、ここ「神民街」では同じ大きさの金塊以上に聖堂に集う人々の要求に合致するものであったろう。
行列に見とれるトトの袖を、ミミの小さな手が再び引いた。聖堂の隅に在って、トトと同じく行列を窺う黒衣の女性の許へ行くべくミミは促した。トトは微かに頷き、ミミに従った。眼差しを覆う仮面が、近付いてくる少年と少女を冷たく迎えた。
「何か……?」
「司祭さま、外の者を連れて参りました」
「…………」
向けられる眼差しが、一切の感情も籠っていないことにトトは驚いた。だがそれは杞憂であることにトトはすぐに気付く。仮面越しの眼差しの奥に最初は興味が生まれ、次には目が笑うのをトトははっきりと見た。仮面の女が手を差し出し、トトもまた手を延ばして応じる。黒い手袋に覆われた手がトトの細い手を握り、ミミが司祭と呼ぶその女性はトトの手に顔を近付けた。
「『踊り子』ね……香料の匂いがする……」
「…………!」
驚き、思わず手を払おうとして踏み止まる。黒い手が色白なトトの手を包む……手袋越しではあったが、その感触が柔らかく、暖かい事にトトは更に驚くのだった。ゆっくりとトトから手を離し、黒衣の女はトトに微笑んだ。
「これから安息日には此処にいらっしゃいな。此処は神の家。悩める者を普く迎え入れる家です。洗礼についてはこれからゆっくりと学び、話し合うのがいいわね」
「安息日では無い日も?」
「勿論」と、女は頷いた。「悩みを抱えるのは皆等しく同じ時、というわけにはいかないでしょうから」
聖堂を出たところで、ミミは一度家に帰る旨をトトに告げた。外ではソデルが既に待っていて、トトに「アモール」まで共に戻るよう促したが、トトはそれを固辞し、ミミの家に寄る旨を告げた。ミミはそれを拒否しなかった。共にミミの家まで向かう道すがら、トトはミミに聞いた。
「ミミ……安息日って何?」
「七日の内に一日、神様にお祈りして、あとは何もせずゆっくりと過ごすの……神様が、そうお決めになったの」
「司祭って女の人、イリジアの人じゃないよね?」
ミミは頷いた。
「キズラサ教は他所の国の教えだけど……でも、素晴らしい教えよ」
「キズラサ教?」
「司祭さまとお付きの人たちはそう呼んでるわ」
歩く内に話すべき言葉を失い、二人は「神民街」の深奥をなおも歩く。歩くにつれて頬を伝う空気に湿り気が増していく。同時に汚水とガスの臭いが濃くなり、頭上を縦横に巡る配管の密度もまた増していく。得体の知れぬ小動物の動き回る様もまた、その空間に魔界の入口に佇んでいるかのような不気味な感触を与えていた。
ミミの住む家まで導かれ、少女の家族と食事をともにした時、トトはミミの身の上を知った。
ミミは海女であった。さらに言えば「神民街」の外で働いているが故に家にはいなかったミミの母もまた、海女であった。取っていたのは主に真珠貝で、一粒でも真珠貝を採ることが出来れば、その月は一家が何もせずに食べていける程の収入を得ることが出来ていたと、家にいたミミの父は語ったものだ。事実イリジアは「転移」前より豊富な真珠を産し、数少ない輸出産業としてのその恩恵が、南のいち漁師に過ぎぬミミの一家にも少なからず及んでいたというわけであった。
状況が、それもミミの一家にとって悪い方向に一変したのは五年前からのことであった。真珠の買値が下がったのである。それも、急激な下落であった。イリジアの外で安価で質も良い真珠が大量に流通し始め、イリジアの真珠採取業もその煽りを受けたのである。イリジア以上に大量に、それも良質な真珠を産する遠方の国、その名をニホンといった――――どうやって採取しているのかは知らないが、判で押したように均一な大きさ、色艶を発する真珠を大量に産する国……それが、ミミの父もまた属した真珠採取業者にとっての、ニホンの印象であった。
「――――それで、街に出て来たのか?」
と、自分にも言い聞かせる様に聞いたトトに、ミミは寂しげに頷いた。
「わたしたちだけではないわ。海の暮らしを捨てて街に来た人はたくさんいる……そして私たちが生きることの許される場所は、此処しかない」
そこまで言って、ミミは唇を噛み締めた。吐き出される悲しさの他に悔しさをトトはミミの口から聞いた。
「ひどいな……」
ニホンのことを、トトは考えた。
動画放送受像機やゲーム機、マットレスなど、自分の身の回りに在って、自分の生活を豊かにしているあらゆるものを作ってくれている国――――この日に至るまで、それ以外にニホンという国を意識する術が無かったし、真面目に考えたこともトトには無かった。
それ以外には、トトを演芸場や「パパ」の処にまで連れて行ってくれる車もニホン製であること、さらにはイリジアのあらゆる道路を走っている自動車の多くがニホンの車であること、ミミがニホンによって住む土地と生きる糧を奪われた一方で、自分はそのニホンの文物によって豊かな生活を享受しているという事実を前に、トトとしては気遅れに似た感情を抱かざるを得ない。それはトトがこの世界に生を享けて今に至るまで持ち得なかった、初めて抱く感情だけに、深刻なまでの衝撃を以てトトの少年の心を揺さぶったのだった。
翌日の朝、トトはミミと一緒に「アモール」への帰路に着いた。
話をする内に夜が更けたこともあるが、何より「神民街」そのものの治安が決して良好な状態とは言えなかったのだ。特にここ一月はそうであった。「アモール」からは夜昼の別なく、最低三度は「神民街」から銃声が生まれるのを聞くことが出来たのだから。その一方で、銃声の真偽と所在を探るべく、イリジアの司直の手が「神民街」に延びたことは一度として無かったのであった。
トトはといえば、ささやかな災難ながら「神民街」のミミの家に在って虫に刺された。床虱であった。かと言ってトトにとってそれは決して不快な経験では無かった。何故なら、イリジアに身売りされる以前の、羊飼いで生計を立てていた時分の記憶が、痛みと同時に鮮やかなまでに思い出されたものであったから―――――刺された痛みが、トトには懐かしく思われた。
それから、トトは聖堂に通い始めた。
勿論、ミミも一緒であった。初めはソデルも同道していたが、やがて彼は二人から距離を置く様になった。トトとミミの親密さを前に、ひとりの大人として配慮を与える必要を感じたのであろうが、何より彼の妻もまた、ソデルに「感化」される形で聖堂に通う様になったためだ。ソデル個人に相応しい同道する者を得たが故に、トトとミミに関心を注ぐ必要を認められなくなったのかもしれない。
ミミは折あればトトに聖典の一節を読んで聞かせた。ミミが進んでそうしたのではなく、トトが求めたのである。一人しかない神の前では、全ての人々が平等であること。その一人しかいない神の声を聞いた「聖人」とその従者たちが、まやかしの神々を信じる人々により如何に疎まれ、苦しめられたかということ。そのような苦境の中に在っても「聖人」たちが信仰を貫き、やがては神の救済を得、教団を広げていったこと――――「聖典」に書いてあるのは、平たく述べればそのような話ばかりだ。
神の言葉を語ったという「聖典」の神々しさより、文中で一つの大きな仕事の完成していく様が、トトには何か新しい物語に出会った様に新鮮で、それゆえにトトはミミに話を求めた。ミミは言ったものだ――――この調子だと、トトが洗礼を受けるに足る聖典の一章を諳んじることが出来るようになるまで、それほど長くは掛からないだろう……と。
一方で、ソデルと彼の妻が伝道しているせいか、トトが神民街に足を踏み入れて以降、花街の住人の中には信徒が増え始めていた。信徒はその首や手首に信仰の証たる「聖章」を巻いているから、見る者にはすぐにそうとわかるのだ。その「聖章」を付けた者が目立って増え始めている。その多くが、この花街に在って春を鬻ぐ人々であった。
さらには――――
『――――心ある者には聞こえている筈です。心ある者よ今一度神の御声を聞きなさい。迷える者も今一度神の御声を聞きなさい。神は嘆いておられます。神は行動を望んでおられます』
瑞々しい若人の声がイリジアの街角から往来に向かい投げ掛けられるのを、トトは興業に向かう車上から聞く。信徒は花街のみならずイリジアの街中にも数多くいて、彼らの中には街頭に出てイリジアの頽廃を糾弾し、あるいはキズラサ教による市民の救済を訴えている者もいる。いきなり出て来たのではなく、実際にキズラサ教の信仰の一端に触れるまで、トトが街中に彼らの存在を意識していなかっただけだったのだ。
車窓の風景に困惑、あるいは驚きに身も心も預けたままでいるトトに、バンの運転席を与るソデルは、その顔に無感動を浮かべたまま言った。
「イリジアは頽廃に支配されている……イリジアの旧き神々では、イリジアを蝕む頽廃を祓うことはできない」
「シャナンもその中に入るのかな……」
「シャナンは……違うだろう」
「本当にそう思う?」
「……やり方によっては、シャナンもキズラサの神の御心に沿うだろうさ」
「『アンダク』は踊れないだろうね」
トトの言葉に、ソデルは頷きつつも苦笑した。「アンダク」とはシャナンの演目の一つで、イリジアの聖地に集った神々が美酒と山海の珍味を味わう様、その後に続く乱痴気騒ぎを表現したシャナンだ。露骨な性的表現と喜劇的、言い換えれば無様とも言える神々の堕落しきった振舞いは、その手の文化には寛容なイリジアであっても見る者を択ぶところがある……それでも、シャナンの勃興期より存在する演目であるが故に、伝統の継承という意味では邪険には扱えない類のものではあった。
「少なくとも、イリジアのみんながキズラサの神を信じるようになれば、踊り子は皆身体を売る様な真似はせずに済むだろうな」
「…………」
演芸場に向かいハンドルを回しながらソデルは言い、トトははっとしてソデルを見遣った。ルームミラーの中で、ソデルの眼差しが険しいものになっている。
「そろそろ変わるべきなんだ……イリジアは」
イリジアの辺縁に生まれ、その市中で育ったのも同然のトトに、イリジアの外の世界について関心を持つ意欲があったと言えば嘘になる。そして関心を持つ機会は、トトがキズラサ教に関わり始めて程無くして訪れた。それは、市中のいち演芸場の楽屋に設えられたニホン製動画放送受像機の映し出すとある風景という形でトトの日常と交差したのである。
『――――現在、国営放送は予定を変更し中央空港より緊急実況放送をお送りしています。異邦の飛行機は今なお飛び立つ気配を見せません。グナドスとエルタニアとニホン、本来我が市とは何の関係も無い三国間の対立に、わが市は依然として巻き込まれています』
「…………」
楽屋の鏡台の前、半裸でミミが作ってくれた野菜の香辛料炒めを頬張りつつ、トトは動画放送に見入っていた。トトの周囲にはやはり舞台を終えた踊り子たちが集まっていて、中には衣装を解いた丸裸の者もいれば、衣装はおろか化粧すら落としていない顔をそのままにした者もいる。彼らの例外無く踊り子たちはその口を半開きにして画面の中の対峙に見入っている。
画面の中、それもイリジア市内を舞台に現在進行形で繰り広げられている国家間の対立という状況、それはイリジア市民たる彼らが生まれて初めて目の当たりにするイリジアの外の「現実」であった。
楽屋の外で慌ただしい足音が聞こえる。誰のものかはトトにはすでにわかっていた。公演を終え、衣装を解きながら楽屋に駆け込んできた踊り子たちが数名、彼らもまた衣装の繕いもそこそこに楽屋の床に座り込み、そして受像機の画面を注視する。
「――――事件、どうなった?」
「――――見ての通りだよ。全然動いてない」
「――――戦争になるのかな……」
「――――センソウ? センソウって何?」
「――――喧嘩だよ。国と国が喧嘩するってこと」
「――――喧嘩かよ。イリジアの外でやれよなぁ……」
踊り子たちの会話の輪には加わらず、トトは黙って焼き飯を掻き込んだ。それもまた、この日の興業にあたりミミが持たせてくれた弁当の品であった。人を殺した異国人が乗った飛行機をニホン人が捉え、これをイリジアに着陸させたところに、エルタニアというまた別の国の人間が待ち構えていてニホン人の行為を妨害しようとしている――――国営放送の番組からトト個人の少年としての知性が窺うことのできた事情は以上であったし、トト個人の道徳観ではその事情に善悪の判別を付けることは未だできていない。ただし、ミミの身の上からニホンという国の文物には自然、距離を置きつつあるトトであった。
トト達の眼前で画面が切り替わり、中央政庁の壮麗な会見室を映し出す。随員を従えて会見室内のマイクに向かう着飾った壮年の男には、見覚えがあった。
『――――間も無く元首の重要発表が始まります……市民の皆様にはお誘い合わせの上、御静聴をお願いします』
第四七代 イリジア元首 ランダルマン‐ダゼル‐ラーダ。一般的にはランダルマン元首という呼称でイリジア内外では通用している。首元で束ねられた銀灰色の頭髪と口髭、そして赤銅色の肌、腹こそ出ているが、金銀の刺繍と宝石による装飾を施された盛装からも判る頑健な体躯がトトの様な子供の眼からもはっきりと印象付けられた。
そのランダルマン元首の背後に着き従う、やはり着飾った男たち――――彼らの例外無く年老い、だが陰険なまでに厳しい眼差しを待ち構えている記者団に対して崩していない。
トトは知らなかったが、彼らはランダルマン元首に直属する枢密院の構成員、言い換えればイリジアの元老たちだ。イリジアの法では元首は政策や法の立案権こそあってもその認可権は元老院が一手に握っている。「独裁の防止」がその主な名分であった。イリジア市の紋章を刻まれた演台の前に立つ元首の背後を、彼ら元老が半ば雑然とした並びを為して固める。それはまるで、現実のイリジアの政治体制を極端なまでに単純化した構図であるようにも見える。
元老たちの中に一人の見慣れた顔を見出し、トトは思わず飯を食う手を止めた。
「パパ……」
普段はトトにそう呼ばせている老人が、元老たちの中でごく自然に佇んでいる。それも、よりランダルマン元首に近い位置であった。大人たちの会話を又聞きした記憶によれば、元首により近い席や立ち位置の人間程、この市では力がある証であるという――――ただしその力がどのようなものであるのか、今のトトには想像する基準を持たなかった。
その翌日、トトに「身請け」の話が来た。
同時にミミもまた、娼館に売られた。
「『アモール』を出ることになったの……」
その日、「アモール」の屋上、トウモロコシのパンを渡しつつ、ミミは切り出した。
「売られるのか?」
トウモロコシのパンを受け取りつつ、トトは聞いた。
「うん……此処とは別の娼館だよ」
頷き、ミミの顔から感情が消えた。ミミはトトから目を逸らし、トトもまた俯いた。
「身請けされるんだ……ぼくも」
「『パパ』って人に?」
「…………」
力無く、トトは頷いた。実は中央空港で事件が起こった前日には、「アモール」に前払い金が支払われていたことをトトはこの日に知らされた。しかも、「パパ」は故郷に残されたトトの家族にまで、「手切れ金」として優に三十年は一家が遊んで暮らせる程の金銭を支払っているという……「踊り子」にとっては自由を意味する身請けではあっても、トトは彼の家族より永遠に切り離され、ことによれば以後を「アモール」よりずっと窮屈な環境の下で「余生」を送ることになるかもしれない。
ミミに至っては、始めから選択の余地は無かった。娼館の賄い婦を務めたところで得られる給金は僅かなものであり、そこに母の怪我が重なった。街中で清掃婦の仕事に付いていたところを、ニホン製の高級乗用車に轢かれたのである。車の持ち主という、いかにも成金然とした男に至っては声高に母の不注意を主張し、おそらくは彼より賄賂を受け取った警士も持ち主の主張を入れた。
命こそ取り留めたものの、怪我の程度はその後一生に亘り、彼女が真っ直ぐ歩くことすらままならない状態で生きて行かねばならないことを示唆していた。少なくとも弟が働ける年齢に達するまで一家の生を繋ぐべく、ミミもまた、かつてのトトの様にひとつしかない我が身を売ったのだ――――いずれにしても、「アモール」を出るまでにふたりに残された時間は少なかった。
トトは呟いた。
「此処から……逃げられればいいのにね」
「駄目よ……もう、お金をもらってるから」
「君はそれでいいの?」
「うん……」
ミミは頷いた。明瞭な回答では無かったが、決意だけはしていることはトトにも察せられた。共に座り込み、俯いたままのトトの眼がミミの掌に向かう。そしてトトは躊躇いがちに、やがては意を決し、ミミのそれに掌を触れ、そして重ねた。
「トト……?」
「いやだ……ずっとこのままでいたい」
ミミの掌を、トトの手が握る。ミミが驚き、向き直った眼差しが自分の頬に注がれるのをトトは感じる。頬に熱が籠り、それが一層トトをして手に力を籠めさせた。
「トト……痛いわ」
「……大人はみんな身勝手だ」
ミミがやや強引にトトに身を寄せた。自然、しな垂れるミミをトトが受け止める形となり、トトは戸惑いつつも片手を回し、ミミを抱擁する。
「ごめんね……何もしてあげられなくて」
「『パパ』に頼んで、向こうでもぼくの身の回りをの世話をしてもらうよ」
「駄目よ……許されないわ。わたしは――――」
「ミミ?」
「――――トトとこれ以上一緒にいてはいけないのだから。住む世界が違うのだから」
「それは――――」
「――――ちがうよ」と言い掛けて、トトは失敗した。
敢えて口を噤んだのではない。物理的にそれが不可能になったのである。突発的に生じた揺れ、それも、地面の遥か底より突き上げられるような揺れは木造三階建ての「アモール」を半壊に追い込むのに十分な力を地上にもたらした。
屋上が激しく揺れ、外壁と砕け、そして屋上が傾くのをトトは恐慌を来たし掛ける意識の内に体感する。恐怖に漂白し掛ける意識を、必死で引き戻さんと内心でもがく。
「――――!」
地震だと、トトは直観した。揺れの程は決して大きなものでは無かったが、創建以来半世紀以上もの刻が過ぎた娼館が犇めく花街は、それ故に阿鼻叫喚の巷と化した。市中の都市化より取り残された旧い建物、あるいは辺縁の小市及び集落に与えた被害もまた、尋常なものではなかった。
「…………」
永遠に続くかと思われた揺れが収まり、完全に傾いた屋上でトトは我に返った。ミミを抱き締めていることを改めて自覚するや、トトはミミを急かす様に抱き起こす。
「トト……?」
「ミミ、行こう」
「何処へ?」
もはや何も言わず、トトはミミの手を引っ張った。傾いた屋上を滑る様にして駆け下りる。傾いた屋上の一角が、隣接する木賃宿の二階を抉り大きな穴を開けていた。木賃宿の二階に飛び降り、抜けた床を伝い地上にまで降りる。右往左往する人影、人々の悲鳴と怒声の渦巻く中を潜る様にふたりは路地裏を奔り、花街の隣、現在進行形で崩壊の続いている一角の前で二人の脚は止まる。
「神民街……?」
目を丸くしたミミに、トトはぎこちなく微笑み掛けた。
「逃げ込めば判らないだろ?」
「――――っ!」
今度はミミが、トトを置いて行くようにして駆け出した。と同時に、トトは神民街にミミの家族がいることに今更のように思い当たっている。思い当たるのと同時に、トトもまたミミの後を追って神民街の奥に向かい駆け出した。
頭上から降る瓦礫や木屑から頭を守りつつ、文字通り辿り着くようにして聖堂に足を踏み入れる。着の身着のままで住処を逃げ出した住民でごった返す中を、トトとミミは荒海を泳ぎ抜く魚の様に小走りに進む。足許の見えない程人間の密集する中で、きつい体臭とどぶ臭い吐息の他、血の臭いすら体温の醸し出す熱気に乗って、普段より生々しいまでに漂って来る。
怪我人がいるのか?――――という直観は、祭壇の前に積み上げられた死体の山を前に裏切られた形となった。それらを前に仮面の司祭が立ち、司祭用の聖章を手に小声で何かを口走っているのを見る。死者に向けた祈りの言葉だとトトは気付く。死者に向けられた祈りの後、男たちが心得た様に死体を聖堂の外へ運び去って行く。負傷者の治療もまた、聖堂に集う人々の手で始まっていた。
家族の事を思ったのか、色を為し聖堂の外に出ようとしたミミを、トトは手を握って押し止めた。
「トト……!?」
「ミミ、ここにいよう。迂闊に出歩いちゃ駄目だ」
「…………」
なおもトトの手を振り解かんとして、ミミは失敗した。今更のように、自分が逃亡者であることに気付いたのかもしれない。