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第四章  「トトとミミ  前編」

都市国家イリジア国内基準表示時刻11月4日 午後14時12分 イリジア根幹市歓楽街  娼館「アモール」


 港街の最も奥まった山肌に立つ巨大な尖塔、その先端に太陽の下弦が触れた時が、港街にとっての黄昏の時間の始まりであった。

 尖塔に触れた太陽が赤みを増し、街の建物に注ぐ光が燈色に染まり始める。燈色の光はそれが照らし出す影の所在を一層に惹き立て、広大な港町に目を見張らんばかりのメリハリを与え、広げていった。現実と幻想の境目が希薄になる時間が暫く流れ、その後には夜が訪れる――――淡いイリジアン・ランプが界隈を彩る、喧騒に満ちた夜。


 ――――夜は、まだ来ない。

 トトが住まう部屋は娼館の最上階にあって、尖塔に重なる夕日の沈みゆく様を手に取る様に見送ることが出来た。

 遅い午睡からの目覚めであった。床の上で惰眠を貪った少年は、寝床から覚醒し掛けた眼を薄く開け、開けっ放しの窓一杯に広がる尖塔を眩しげに凝視していた。少年は眼を奪われていた。尖塔に掛かる夕日の神々しさに――――


「…………」

 窓を開けているのに、香の匂いが一向に消えていないのに気付く。少年は香の匂いが嫌いだった。さらに言えば、思考すら蕩かすような、甘ったるい匂いの色濃く支配するこの小さな世界を少年は嫌った。

 薄手のシャツと短パン一枚が少年の初々しく引き締まった、細身の躯を包んでいる。華奢な躯であった。少年から青年への段階を踏み出そうとして躊躇っているような、未成熟な体躯。そこに妙齢の女子のそれを思わせるあどけない美形が加われば、少年の住む世界では文字通りの金の卵と見做され、そして少年は彼なりの努力と才能の結果として事実そうなっていた。


 ゆっくりと半身を擡げて見回した少年の部屋、ニホン製の高級マットレスに毛布、ニホン製の平面動画放送受像機にゲーム機、袋を開けたままのスナック菓子にジュースの空き缶――――専用の部屋もそうだが、娼館でありながら、少年ひとりのために整えられた住環境の充実ぶりは尋常なものではなかった。しかしそれらがまるで塵芥のように散らかっている様は、少年に用意された世界に対する彼自身の姿勢を、そのまま表しているかのようであった。まどろみを弄ぶうち、少年の鼻は香に馴れた。少年は現実の世界に引き戻された。


「――――トト? トト!」

 男の呼ぶ声が聞こえる。引き戸がノックされ、次には遠慮なく開けられる。髭面の男が少年の部屋に顔を覗かせた。部屋の散らかりぶりに髭面を険しくしたのも一瞬、男は作り笑いをし、顔に似合わぬ猫撫で声で話し掛ける。

「劇場に行くぞ。支度をしろ」

「……うん」

「…………」

 生返事をした少年を、髭面の男は苦笑気味に見詰めた。少年は相変わらず柔らかいマットレスに身を預け、蕩けた眼を窓へと向けている。躾の悪い猫の様な少年の態度に、男はとうの昔に馴れていた。娼館の稼ぎ頭である以上、娼館の主人たる男は、トトという名のこの少年の私生活にこれ以上の掣肘(せいちゅう)を加えることはできないでいる。




 トトは「踊り子」であった。

 イリジアは、この地では「大異変」と称される「転移」以前より一千五百年に亘る長い伝統を有する都市国家であり、それ故に培われてきた文化もまた存在する。イリジアの言葉で「舞踊(シャナン)」と称する舞台芸もその一つであって、イリジアに伝わる神話や宗教説話を、演技をも含んだ舞により表現する一種の舞踏劇とでも言うべきそれは、容姿端麗な男子に年端も行かぬ頃から舞踊に必要な技巧を仕込み、十代の前半までに一端の踊り子にまで育て上げることにより成立する。ただしイリジアの市井において踊り子の実際の地位は、市井にあって春を売る男女のそれよりやや上……と言ったところであった。


 売春婦との境目が曖昧な「踊り子」の立ち位置――――それ故にイリジアの歓楽街でも大きな娼館は、大抵四~五名程の「踊り子」を抱えているのが常であった。むしろ教養のあり、踊り芸を有する者を囲っていることが、イリジアに於いては娼館の「格」を決している様なところがあった。その踊り子が、特に人気の高い者であるのならば尚更だ。


 トトは九歳で踊り子の元締めに買われ、十一歳で初舞台を踏んだ。九歳という年齢はシャナンの練習を始めるにはやや遅きに失したものであったが、人買いを唸らせる程の美貌と印象の無垢さが、彼を元締めをしてシャナンの世界へと導くに至った。血の滲むような稽古の日々の中で、少年はシャナンの才能が出色のものであることを舞台の上で証明して見せ、それからは、まるでニホン製ゲームの主人公が一戦ごとに成長していくように観衆の人気を集め、それ故にトトは娼館の中に自分の居場所を得たというわけだ。



 出発の時間が迫っていた。

 マットレスの柔らかさを、好色な男が女体を貪る様に十分に堪能した後、トトはぼさぼさの赤い頭髪を掻き毟りつつマットレスから立ち上がった。夕日の下弦が、すでに西の山々の稜線に没し去っていた。部屋の中でも一つしかない窓。そこからは例の尖塔の他、娼館「アモール」も含む歓楽街に隣接する「神民街」の全容をも見下ろすことが出来た。

 トタン張りの屋根や壁の目立つ木製の楼塔の連なりが生む、この世の終わりを思わせる住居の(もり)たる「神民街」――――言い換えれば慈しむべき神の子の街、その実止め処なくイリジアの周辺からこの国に流れ着く人々の押込められた貧民街だ。


「…………?」

 神民街に面する路地を歩く荷車が見えた。それは有り触れた光景ではあった。生まれ育った土地を捨てて来た人々、荷車一つに家財全てを積んで運び、イリジアの周辺から流れ込む人々は、大抵その小路を通り神民街の奥へと向かう。

 イリジアにおいて招かれざる余所者たる彼らが住むことのできる場所は、イリジアの北に広がる山々の斜面に栄える官庁街、商業街を構成する高層尖塔の投げ掛けてくる巨大な影に晒され、それ故に水捌けの悪い神民街を構成する一区画でしかない。従って狭い神民街の敷地には、そこに流れ着いた者の増加に比例し、違法に立て増された集合住宅の楼塔が増えることになる。


 汚らしい身形の子供たちが、荷車の周りを掛け巡りつつ嬌声を上げている。神民街の周囲に広がる庶民区の子供たちだ。流民の到来を歓迎しているのではなく、彼らはむしろ嘲って遊んでいる。それに何の反駁もできない程、この街では流民の立場は弱い。現にこの繁栄した港街まで来たところで彼らがあり付くことのできる仕事と言えば、苛酷な港湾の荷役とこの色街での下働きぐらいなものであった――――娼館によっては、その下働きですら客を取らされる。



「…………?」

 トトの眼が怪訝に曇った。荷車を押す影が三つ。その中の一人にトトは眼を奪われた。

 頭にヴェールを被った少女が独り、恐らくは彼女の母親、兄弟と共に荷車を押していた。街の子供たちに囃し立てられてもそれに応じず、少女は一心不乱に荷車を押し続けていた。揺れるヴェールに時折現れる端正な顔立ちと黒い髪、白い頬が赤く上気しているのさえ見て取れる――――何時しか彼女に見とれ、荷車が進む様を目で追うトトの背中に、苛立たしげな声が突き刺さって来た。

『――――トト! 車の用意が出来てるぞ!』

「……いま行く!」

 その目から一切の気だるさが消え、トトは精悍な美少年に戻っている。

 荷車が、神民街の入り口を潜った。




 普段は色街の外縁に位置する演芸場で披露するシャナンではあるが、ここ二十日程は別の場所での興業が続いていた。

 その開闢(かいびゃく)以来、「転移」という大異変を経てもなお交易都市としての性格を変貌させることが無かったイリジアではあるが、その上に加わったまた別の性格が、イリジアには災いでは無くむしろ繁栄の種をもたらそうとしていた。

 それはつまり、イリジアの併せ持つ古都としての美観と自然に惹かれて国外から渡って来る旅行客を対象とした観光都市としての性格である。十二年前の「転移」以前にもその手の来航者がいなかったわけでは無かったが、「転移」とそれに伴う混乱を経た後には、より高度な生活様式を誇る文明圏が近隣に続々と出現した以上、来航者の数は増え、彼らの落とすカネによりイリジアの国庫にも多くの歳入が生まれた。


 財政面での余裕と都市としての性格の変化は、港湾の再開発という形でイリジアに変貌を生み始め、その成果の一つに茶店と料理店をも備えた壮麗な海上公園がある。その海上公園に隣接するように屋外公演用の舞台が設けられ、トトは他の踊り子と共に観光客を対象にしたシャナンを演じていた。ここでの公演の方が色街で舞台を踏むよりも身入りがよく、それに観光客個人も気前がいい。要するに観劇料の他に多額のチップをくれるのだ――――自然、色街での公演は等閑となった。



 躯のラインを彩る様に密着する衣装と、顔から首に掛けてを覆う様に塗られた専用の化粧――――それらを纏った少年二人が、照明の抑制された舞台の真中で縺れる様に舞う。二人の舞を彩る様に、耳を蕩かす琴と笛、そして鐘の音が重なる。

 神々の戯れを思わせる美しくも艶めかしい動き――――観客は当初は好奇心の赴くままにシャナンの始まりを見、その最後には、彼ら自身が幻想の世界に身を置いている様な陶酔感の下でシャナンの終わりを見送る。それ故にシャナンに魅了され、幾度とイリジアを訪れる観光客は多い。新設のイリジア政府観光局もそれを当て込んでか、積極的にシャナンの講演を設定しているようであった。


 舞を続ける踊り子の片方――――演技の傍らで、トトは観客の有無を目を流しつつ計る。客入りは相変わらず良かった。内心で満足し身を翻すトトの眼前で、幾つかの光が激しい瞬きを見せる。観光客の構える撮影機からの発光だった。正直、好きな光では無かった。何と言っていいか……あの光を浴びせられては調子が狂うのだ――――舞が続き、やがてトトが演じる善神が片割れの演じる悪神を討ち果たし、舞は終わりを迎えた……公演もまた、この日で終わる。



「トト、今日は良かったぞ。ご苦労だったな」

 舞台袖まで退いたトトを、あの髭面の男がにやけ顔で迎える。名はアンジ、「アモール」の主であり、踊り子の修練を終えたばかりのトトを抱えて以来二年が経つ。近年の「アモール」の興隆振りは、単にトトの天性の美貌と「踊り子」としての技量に拠って立つものが大きい。アンジ自身そのことを理解しているから、トトに対する目も甘くなろうというものであった。

「今日も……だろ? アンジさん」

「……こいつ」

 アンジは苦笑した。そのついでにトトの頭を撫でる。新たな演目が始まった舞台の一方、演者用の大部屋で化粧と衣装を拭う傍らで、湯に浸した手拭いを渡しつつアンジが囁いた。

「――――国老様から慰労の品を頂いている。お礼を申し上げに行くからな」

「……今から?」

「ああ……そうだ」

「…………」

 笑顔が、仮面のような無表情に席を譲る。揺らぐトトの内面を悟ってか、アンジの顔からも浮色が消えた。

「仕方が無いさ……一晩明けたら迎えに行くから」

「……ああ、弟たちのこともあるしね」

 故郷の事を、トトは呟いた。イリジアの外に父と母、そして三人の弟がいて、羊飼いがトトの一家の先祖代々からの生業であった。トトの身柄をシャナンの元締めに売り、トトの仕送りを経てもなお家計は苦しかった。気候の急変により、羊を養うに足る牧草地が年々狭くなっているのだと、父からの手紙は教えていた。

「トト、車を回しておくからな」

 アンジは言い、トトの肩を叩いた。外は夜だが、まだ深くは無かった。



 アンジが「国老様」と呼ぶその老人の事を、トトは「パパ」と呼んでいた。

 「パパ」とはイリジアにおいても「父親」の事を指す。無論、実の父親では無かった。「パパ」がイリジアでも最も偉い人間の一人であることは、トトも漠然とではあるが知っていた。トト個人に対する贈り物の量と質において尋常では無く、援助もまた「アモール」全体にその恩恵が及ぶほどに凄まじい。そこに来て「パパ」個人の身の回りも、まだ彼と出会って間もない頃のトトを、思わず身じろがせた程の厳重さを誇っている。国営の動画ニュース放送の政府動静にはその顔も名も出ないが、財力と権力においてイリジアでは誰も並ぶものの無い人間であることは、トトの様な子供でもすぐに判った。



 初舞台が市中で話題となり、それから幾度かを重ねた舞台も喝采の内に終わったトトに贈られてきた金品と菓子の数々――――それが、トトと「パパ」との出会いであり、関係の始まりであった。シャナンはイリジアの庶民に人気のある芸術である一方で、イリジアの上流階層にも愛好者が多く、「パパ」が演者たる少年の庇護者となる例は古来より枚挙に暇が無い……往々にしてそれは、愛欲をも交えた関係にまで至ることもある。



 「パパ」がイリジアの北西に有する山林に営んだ別邸は、まさにそのための場所であった。


 露天式の浴室で、乳白色の湯にその華奢な、だが引き締まった躯を預け、トトはその意識を蕩けるに任せた。虚ろな目、半開きの唇が男とは思えぬ程に艶めかしく、ともすればこのまま魂を天界へと誘われはしまいかと恐れる程に湯は心地良い――――肩まで湯を浸かったトトの背後、枯れ木のように細く長い、ささくれ立った手が延び、そしてトトの肩を抱いた。老いた腕が少年の背中を抱き寄せ、少年はしな垂れたまま彼の庇護者に身を任せた。香を焚きしめた風呂の中であっても、加齢臭はごまかせなかった。


「トトは天使じゃ……神様の贈り物じゃあ……」

「…………」

 猫撫で声とともに延びた老人の長い舌がトトの項を嘗める。こと(・・)は一方的に始まる――――今年74歳という高齢の「パパ」に未成熟な肉体を委ね、これを愉しませる間、トトは薬湯とイリジア香の織り成す恍惚の中に意識を委ね、苦痛に満ちた短い時間をやり過ごすのが常であった。こと(・・)特有の、あの背中から芯を貫く様な苦痛を和らげるためでもあるが、何も考えない方が傷付かずに済むし、過去の恥ずべき自分を責めずに済むのだ――――こと(・・)が一方的な悦楽の果てに終わった後には、トトはただ美少年の形をした抜け殻となって湯船に浮かんでいた。それでも生気を吸い取られた少年の傍ら、名残惜しいように、まるで少女が人形を愛でる様にそれを抱きつつ、「パパ」は少年に愛を囁くのを止めなかった。


「……トトや、車を買ってやろうか?」

「――――車?」

「……そうじゃ。運転手もつけてやるぞ」

「――――それでパパと一緒にお出かけするの?」

 「パパ」は頷いた。

「……いろいろなところに連れて行ってやるぞ。一緒にお茶を呑んだり、ご飯を食べたり……あと一緒に服も見てやれるな」

「――――うれしい……」

 しな垂れつつ、トトはパパの貧相な胸に縋るようにした。孫ほどに年齢の離れた愛人の頭を慈しむように撫でる老人。その染だらけの胸の上で、トトは心の中で過ぎる時間を数えている。



 朝――――来るかと思った「アモール」からの迎えの車は来なかった。

 もっとも、「パパ」は同衾した寝台に全裸のトトひとりを残して別邸を出、彼の在るべき本邸へといち早く戻っていた。70という高齢を過ぎてもなお彼が多忙で、イリジアの政府の深奥に関わる身であることをそれは示していた。残されたトトひとりのために、別邸の召使が用意した朝食は味気ない。市井のそれと比べたら豪華な献立なのであろうが、今のトトには何故か味を感じられなかった。


 ――――そのままトトは、昼近くまで迎えを待った。望んだ迎えは、警備のニホン人傭兵により別邸の裏口に導かれたニホン製中古バンの姿を借りてトトの前に現れた。サングラスで表情を消した大男たち。片耳に嵌めたイヤホンと鎧の様な上着、常に構えている短機関銃が印象的な「背の高いニホン人」の一団を、「パパ」は常にその身辺に置いている。


「……迎え、遅かったね」

 と、山道から街に向かい走りだしたバンの車上でトトは言った。運転手はアンジの息子で、名はソデル。トトが「アモール」を出て十年経っても未だ運転手をしているかもしれない……それくらい、将来の娼館の主としてのソデルの器量は心許ない。「アモール」に囲ったばかりの娼婦の一人に入れ上げ、家の金を持ち出してまで落藉し妻に迎えてしまうという軽率ぶりを目の当たりにすれば、子供心にもそれがよくわかる。


「ああ……新人が一人入ったからな……」

 と、咥えた紙巻煙草にシガーソケットで火を点けつつ、ソデルは言った。受け入れの準備に手間が掛かったのだと言いたいのであるらしい。

「……新人? 娼婦?」

「……トトの世話係だって」

「…………?」

 唖然として、トトは前席のソデルを見返した。今更何を……という呆れが、少年の心中には芽生えている。

「……ルントのおばちゃん、里に帰っちゃっただろ。娼婦と踊り子の飯は兎も角、お前は売れっ子だし国老様の手前もあるだろうしさ、この際だからお前専用の料理人ぐらいは付けてやろうって親父がさ……」

「いいよ……みんなと同じもの食いたい」

 悄然と、トトは言った。ルントという名の賄い係は今年六十の半ばを過ぎた老婆で、故郷はトトのそれと同じ方角にある。それ故に個人的にもトトとは仲が良かった。先月にその故郷に残して来た夫が病を得て倒れたことが、ルントをして故郷に帰る名分となったのだった。それ以来、トトの身辺は寂しくなっている。


「そんなわけにはいかねえよ」とだけ、ソデルは言った。

「働きに応じて待遇を変えないと、みんな倦んじまう……娼婦や踊り子はそういう職業だ」

「じゃあ、働けない人間は……?」

「……そいつには、そいつに相応しい働き場所があるさ」

 言葉を躊躇わせ、ソデルは応じた。彼が花街で最も安価に遊べる、家畜小屋も同然の売春窟を指して言っていることぐらい、トトにはすぐに判った。そこまで行きついたが最後、娼婦は死ぬまでそこを出られないだろう……揺れつつ走るバンが大路を走る。そこで朝の時間帯恒例の渋滞に行き当たり、バンは路地裏に回りつつ花街を目指し続ける。経営手腕は兎も角、ソデルの運転技量の高さだけはトトも認めざるを得ない。


「走る度に殺風景になりやがる……お上は何やってるのかねぇ……」

 路地の角に向かいハンドルを回しつつ、ソデルはぼやいた。確かに、ここ数年は人の住まなくなった建物が放置されているのが目立つようになった気がする。何か別の目的に使うわけでも無く、土地を買い占めて元から住んでいた者を追い立て、単にまっさらになった土地を資産として確保しているのである。または異邦人向けに集合住宅なり商業用の高層建築物なりを建て、土地に「箔を点ける」という行為も行われている。当然、イリジアの小金持ちたちの間で流行っていることだ。


「親父も土地転がしなんぞ止めちまえばいいのに……」と、建設現場を過ぎりつつソデルは言った。イリジアでも五年ほど前から建てられる様になったニホン式集合住宅の建設現場だ。投機用の土地所有ブームはアンジのような社会の中流層にも訪れ、彼らは市中の貸金業者から資金を借りて個人で、あるいは複数人でカネを出し合い決して広くは無いイリジアで土地購入に精を出している。そうして確保した土地を他の誰かがより高値で買い、その連鎖が果てしなく続いて行くというわけだ。「アモール」の主たるアンジもまた土地を買っては他人に流し、その際に生まれる利で娼館の月の売上に匹敵する利益を上げていた。今のところは――――行く先も定かならぬ副業を、アンジの息子は嫌っていた。



 バンが花街の入り口を潜り、懐かしき「アムール」の前まで差し掛かったところで止まる。すでに「アモール」の営業が始まっている時間帯であった。

 「転移」前は花街の娼館の多くが夕刻辺りから営業を始めていたものだが、国外より流入する異邦人の姿を借りて生まれたニーズが、これらの娼館をして営業時間の繰り上げと拡張という対応を取らしめている。女目当てに花街の門を潜る異国の男たちを前に当然営業時間は増え、娼館の抱える女の数もまた増えた……トトにとっては案の定、「アモール」の外から見ても店正面の待合室は女に飢えた男たちの姿でごった返している――――トトの足が裏口に向かい、そこでは少女がひとり、山と盛られたイリジア芋を前に黙々と皮剥きのナイフを動かしていた。



「あ……」

「…………?」

 薄手のヴェールの下で長い黒髪が揺れた。と同時にあどけない少女の顔が驚くのが見えた。やや褐色気味の肌に茶色い瞳、筋の通った鼻とやや開いた薄い唇が、唐突な少年の出現を前に戸惑いを隠していない……むしろそれ以前に、彼女を前にして呆然と佇む少年の方こそが、少女の姿に驚きを覚えていた筈であった。

「トト、その子だよ」

 と、車を停めて追って来たソデルが言った。「ミミ、トトに挨拶しな」

「ミミといいます。宜しくお願いします」

「ああ……うん」

 立ち上がり、ちょこんと頭を下げた少女を前に、トトは辛うじて声を絞り出す。いわば生返事であった。

「朝ご飯出来てますから……いま支度しますね」

「食べて来たからいい」

 と言うが早いが、トトはミミを押し退ける様に娼館に上がり込んだ。そのまま狭く急な階段を自分の部屋まで駆け昇る――――あの娘だ。とトトは胸を高鳴らせつつ部屋に駆け込んだ。先日「神民街」に向かい、荷車を押していたあの娘だ……!

高鳴る胸のやり場に困り、身を投げ出したマットレスの上で毛布を掻き抱きつつ、トトは悶え続けた。






 海上公園での興業が終わり、以後暫くは市内各所の演芸場に公演の比重は移ることになった。踊り子たちは娼館の自動車、あるいは市中を走るリキシャと呼ばれる個人営業の原動機付き三輪車の客となり、日程に合わせて市内を巡る。


 もっとも、トトの様な踊り子にとっては、「パパ」のような後援者との私的な関わり以外にはそれが日常であった。平日の公演で出番が回って来るのは大抵二、三日に一度、それだけでも一端の踊り子ならば寄宿する娼館に宿代を払い、その上に彼の家族に仕送りをしても尚十分に恵まれた暮らしを営むことができる。出番の無い日の大半をシャナンの練習に充てる者も多く、トトもまたそのひとりであった。トトの様な人気者の場合、十日の内六、七日は市中での興業に費やされる。齢十四で踊り子としての盛りを過ぎ、十七で引退という踊り子の世界では無理にでも興業の日程を入れて日銭を稼ぎ、引退後の人生に備える必要があった。


 昼食は、演芸場で出される仕出し弁当を取る者もいれば、娼館で作ってもらった弁当を持ってくる者もいる。後者は特に体調と体格の管理という面でそうしている者が多かった。トトは仕出し弁当派であった。生来、幾ら食べても太りにくい体質の持主であったこともそうだが、故郷の貧相なそれとは全くに赴きの異なる、イリジア市中央の華やかな食文化に心から染まり切っていたこともある。つまりトトは美食に嵌っていた。食べた分をそのまま人一倍激しいシャナンの練習で消費する日常であるわけだから、それが許されているという面もある。

 

 ――――その日は、半日までを元締めの邸にあって練習に費やす積りであった。興業の予定は無かった。

 朝と言い切るには未だ早い時分であった。その当初は、風呂場まで行き湯を浴びようという軽い気紛れの積りであった。自室から起き出したトトは狭い階段を下りた先、裏口に面する厨房の前で立ち止った。

 半開きの扉の隙間からは、汁物の煮える匂いが漂っていた。そこから漏れる明かりもまた、儚げに見えた。自分の年の違わないミミが娼館の下働きとなって、すでに半月程が過ぎていることを今更ながらにトトは思い出していた。ミミはトトの世話係にして炊事の補助という、「アモール」における彼女の役割を大過無くこなしていたが、その間トトとの会話は不思議と存在していなかった。何より、トトが敢えてそれを求めなかったからでもある。


 何故かというに、ミミのあどけない表情の中に垣間見える、名状し難い何かに対する真摯さが、トトにミミとの会話を躊躇わせたからであった。トトのように、ミミと同年代でありながら苦界に落ち、我が身を切り売りすることで生を繋がねばならぬ身の上の人間にとって、ミミは踏み込み難い「光」の具現であるように映ったのだ。かつてのトトもまたその下で生きていた筈の光であるのに――――


「――――どなた?」

 炊事場に通じる薄い戸越しに呼び掛けられ、トトは心臓をジャンプさせる程に驚いた。少しの沈黙の後、意を決して戸を開ける。覗く様にして窺うその先で、ミミという名の少女は小気味よく包丁を動かしていた。子供とは思えない包丁裁きだと思った――――恐る恐る伸ばした足が炊事場の床を踏み、一個で炊事場全体を照らし出す白熱灯の眩しさに、トトは一時立ち竦んだ。


「御免なさい。朝ご飯、もうすぐ出来ますから」

 息を弾ませ、ミミは汁物の出来具合を見ている。切り捨てられた根菜の葉や茎の滓が、炊事場のテーブルには未だ残って散らばっていた。乱雑――――だが、何故か微笑ましく感じられる炊事場の風景に目を細めつつ、トトはミミにゆっくりと歩み寄った。

「ミミ……ちゃん」

「…………?」

 汁物の鍋を覗くミミの顔が、上がった。

 交差する二対の瞳。薄茶色という瞳の色も、瞳そのものの円らさも、二人は互いに唖然とする程に似通っていた。

「……お弁当を……作ってくれよ。今日は『九つの時』に出るから……」

 感情を殺しつつそこまで言って、トトは俯いた。耳朶が熱くなる。言った後で覚えたのは、何故か後悔であった。立場的に無理を申しつけてもよい側なのだが、ミミという存在そのものに対する戸惑いが、トトをして彼の言葉を詰まらせた……暫しの静寂の後にミミはくすりと笑い、次には弾んだ少女の声が耳を擽る。


「『九つの時』までには用意して差上げますね? 余り物で宜しいのでしたら」

「うん……!」

 頷くのに、自然と力が入った。その後には顔全体を朱に染め上げる程の羞恥が込み上げて来た。逃げる様に炊事場を出る間際、背中を追う少女の声がトトをして彼の脚を縺れさせた。

「あの……!」

「…………?」

「……夜の内にお申しつけ頂ければ、もっと美味しいお弁当を作って差し上げますから」

「わ……わかった」

 生返事――――しかもトトの声は小さかった。と同時に、トトは戸を背に改めて少女に向き直った。

「ミミ……だよね?」

「ん……?」

「ぼくの部屋……もう片付けなくていいから……多少散らかっていた方が……ぼくとしては落ちつくんだ」

「いけないわ。旦那様に叱られます」

「そうなんだ……じゃあ、いい」

「…………」

 それ以上は何も言わないまま、トトは足早に炊事場を出た。敵わない、とトトは思った。こういう大人びた少女というものが、今までのトトの身近にはいない……だからこそ、トトにはミミという名の少女に対して戸惑っていた。




 小魚の香辛料煮と炊いた白米――――それが、ミミがトトに作った弁当であり、以後外出する度にミミの作った弁当を持って行くのがトトの習慣となった……が、その後が、トトにとってはやはりもどかしかった。進展しないのだ。

 休日、あるいは興業を終えたトトが部屋で過ごしている間、ミミはよくトトの部屋に入って来る。用向きは日常の衣類の入替えに掃除、そしてトト専用の冷蔵庫へのジュースや氷菓の補充であり、その点、ミミの前にトトの身の回りを受け持っていたルント婆と変わらず、ミミもまた彼女に負けず勤勉であった。


 ミミに弁当を作ってもらう前から、トトはミミに対し無関心を装った。それでもミミが部屋に入って用を済ませる間、漫画を読んでこれ見よがしに笑ってみせたり、あるいはテレビゲームを始めたりと、トトは彼なりにミミから自分に興味を持つよう仕向けたものだ。自分から女の子に声を掛ける勇気が、それが初めての経験であるが故にトトには無かった――――というより、自分からそれを為すことに、彼は思い当たらなかったのだ。そういう途があるということを、トトの周りの大人は誰も教えてくれなかった。


 一方、そのようなトトの思惑から超然として、ミミは「アモール」における彼女の仕事を、黙々とこなしている。

 ミミは十日の内九日程を「アモール」の狭い、窓ひとつない物置で寝起きして働き、あと一日を家族に会うために「神民街」に戻る……「アモール」と「神民街」にある彼女の家が近いが故に成り立つ職場環境と言えた。

 「アモール」にいる限り、何時しかトトは半ば積極的にミミの後を目で追うようになっている。そしてミミが、何時しか娼婦たちから駄賃を貰い彼女たちの食べる菓子を買いに行ったり、あるいは花街に古くから伝わる避妊薬――――良く効くそうだが、それでも失敗して「その手の産婆」の世話になる者はいた――――の材料を買い出しに外へ出るようになったこともトトは知った。それだけ、あの田舎者の少女は信用され、重用されるようになってきている。


 ミミの身辺に関し奇妙な変化にトトが気付き始めたのは、トトが女としてのミミを攻めあぐねている丁度その頃であった。ミミが「アモール」を出るのと機を同じくして、ソデルの姿もまた何処かに消える。理由は程無くして分かった。その日の夕暮れ、アンジに連れられて興業に出る準備をしていたトトは、何気なく窓を顧みた。ミミの姿を初めて目にした頃よりも更に、高さと幅共に脹らんだ様に見える「神民街」に目を転じたところで、トトの眼は動きを停めた。


「ソデル……?」

 暇を貰い「神民街」に向かって歩くミミ、その彼女に付き添う様に歩く男の、頼りなげな後姿には見覚えがあった。二人はまるで恋人同士の様に連れたって歩き「神民街」の門に差し掛かる。その入口の向こうに二人が消えた後、門前にも彼の心中にも埋めがたい穴が開いた様にトトには思われた。


 その夜の興業を、トトは糸の切れた人形のようにして踊り通した。

「――――どうしたトト、今日はできてなかったじゃないか?」

 と、舞台袖で見ていたアンジの目も険しい。彼とて娼館の主として芸事には常人以上に目が肥えている。トトの態度は誤魔化せなかった。

「…………」

 アンジの毛むくじゃらの手がトトの頭に延びる。トトのおでこにアンジの掌が触れ、アンジはその厳めしい顔を傾けた。

「熱は無い様だな……」

「……かったるいだけだよ」

 アンジから目を逸らし、トトは小さな声で言った。アンジは嘆息して言った。

「国老様のとこ、今日は休むか? 病気ってことにして」

「いいよ……行く」

 ミミのことは忘れたかった。その忘れる為の方法を、トトはひとつしか知らなかった。




 そのひとつが閨の中で一方的始まり――――そして一方的に終わった。

 乱れた寝台の上にうつ伏せたまま、トトは呆然と空虚の内に時間を過ごしていた。朦朧として、あるいは時として人心地を取り戻し、トトは電灯ひとつだけが光を雪ぐ空間の中でたゆたう濃い煙の行く先を見送っていた。外では吸わないが、「パパ」は煙草が好きだった。それも臭いの濃い煙草を、銀細工を施された長煙管で美味そうに吸う。

「ミミ……!」

 小さな呟き、その直後に溢れ出た涙が一筋トトの頬を伝って流れた。「パパ」に抱かれてもなおミミの姿がトトの瞼の裏に浮かび、それを振り払えぬうちに全ては終わる――――快楽のひとときが、今となっては苦痛に満ちた時間と化し、少年は薄暗い閨でそれに耐えた。

「トトや……」

 長煙管を燻らせつつ、「パパ」は言った。

「……今日はよかったぞ。苦しんでいる顔がよかった。わしも久しぶりに燃えたわえ」

「そう……」

 うつ伏せから寝返りを打ち、トトは「パパ」に背を向ける。蜘蛛の脚を思わせる細く長い指がトトの背中をなぞる……老人の戯れを前にじゃれる気力も、あるいは背筋を震わせる気力も今のトトには無かった。「パパ」から距離を置こうとしたトトににじり寄り、煙草に濁った臭い吐息がトトの項を撫でた。

「トトは天使じゃ……美神がわしに賜った贈り物じゃあ……」

「いやだ……」

 トトの拒絶など聞かぬという風に節くれだった手が伸び、トトのか細い肩を抱いた。トトの拒絶をも、「パパ」は戯れと見做したかのようであった――――喩え真に受けたところで、彼は意に介しなかったかもしれない。鷲が組み伏せた獲物を弄ぶのに、それは似ていた。

「トト……」

「――――!」

 「パパ」はトトの躯を背後から抱く。「パパ」は再び、やや強引にトトと繋がらんと欲する――――煙草にその種の「奮い立つ」効果があることを、トトは幾度かの逢瀬を経た末に何となく知っていた。

 背筋にあの痛みが走り、それは後には躯中を蕩かす程の快感となってトトを支配する――――抗おうとしても無駄であった。トトの意識は溺れる様にして押し流され、快楽の奔流の中で磨り潰されていくのだ。


 半ば自棄を起こしたように没頭した悦楽の翌日には、尚も白濁とした意識の内に休日が過ぎていった。トトの憔悴振りに驚いたアンジが彼を休ませたのであった。「医者を呼ぼうか?」と言ったアンジに頭を振り、トトはそれからずっと彼の部屋に籠っていた。食事はおろか、水すら、口に入れることすら考えられなかった。

 温い風に乗り、虫の啼く音が開けっ放しの部屋に入って来る。トトはマットレスの上にあって、締りのない空気に身を委ね続けている。永遠に続くかと思われる程の生温い静寂が続く。山間の尖塔に触れた赤い夕陽が、徐々に沈んでいく――――部屋から臨むことのできる最も美しい景色。それすら、今のトトにはどうでもよくなっていた。

「トト……?」

「…………」

 薄い戸越しに話しかける声が、聞き覚えがあるのに気付くのと、それが誰かを考えるのには時差が生じた。それだけ今のトトの感性には磨滅が生まれていた。次に戸を軽く叩く音がした。声を上げてそれに応えるよりも、目を動かして戸を眺める方をトトは択んだ。目を向けられるのと同時に、まるで魔法でもかけたかのように戸が開いた。


「トト?」

 ミミが頭を擡げ、半開きの戸からトトを窺っている。その瞬間、トトは寝返りを打ちミミから目を逸らした。ミミに、今の自分を見られたくは無かった。

「ご飯……持って来ましたよ?」

「いらない」

「食べていないわ……朝も……お昼も」

「食べたくないんだ」

 ミミは、マットレスの傍に進み出た。

「お弁当作ったの……食べて」

「いらないってば……!」

 無言――――少女の醸し出す憂いが空気となり、トトの憂いと重なった。トトの眼から次第に気だるさが消え、次には興業に臨む前の精悍さに瞳が染まる。

「ミミ」

「ん?」

「ソデルとは、仲がいいの?」

「どうして?」

「よくソデルと『神民街』に行ってるみたいだから」

「……ソデルは、敬う神様がわたしと同じだから」

「え……?」

 聖堂が『神民街』にあるのだと、ミミは言った。




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