第二章 「イズルド・セルミ PhaseⅡ」
「狐狩り」から、二週間が過ぎた。
あの「狐狩り」で、森に追い立てられた囚人の半分が死んだ。即死とはいかぬまでも再起不能なまでに傷付いた者もその場で止めを刺されて死者の後を追った。その後に訓練所で起こったことを思えば、彼らの死は実のところ幸運であったのかもしれない。
「狐狩り」の翌日から、囚人たちを屈強な破壊工作員に作り変えるための訓練が始まった。具体的には様々な体力練成運動を課し、耐えられない者を「処分」するための拷問――――筋肉に負荷を掛けるために、徹底的に繰り返される練成運動と長距離走が早朝から日が沈むまで繰り返されることとなったのである。訓練に付いて来られない者、体力に不備を晒した者はその場で殺され、それ程日数を置かずに、「狐狩り」を生き残った者のほぼ半数が、「狐狩り」で死んだ者の後を追う事になった。従って訓練場では始終脱落者に止めを叩き込む拳銃の発砲音が連続し、それは体力面で訓練に付いて行くことのできる者が揃い始める二、三日後まで続いた。
あまりにも野蛮で、残酷な行い――――これが、高等文明の担い手たるを謳う共和国ローリダの、それも足許でいとも容易く行われている?――――その三日の間ネスラスは混乱し、内心で恐怖した。国防軍士官学校でも、それに続く実戦部隊でも経験したことのない烈しく、非人間的な訓練の日々に直面し、これでは潜入調査どころではないとさえ彼は思ったものだ。
恐怖と戦いつつ訓練に耐える内に二週間が過ぎ、その後には束の間の静穏が訪れた。それは新しく、より専門的な訓練が始まる予兆であり、「狐狩り」から始まる二週間が、所謂「雑草抜き」にして「あぶり出し」の儀式であることに、ネスラスはその瞬間に気付く。特殊任務班から脆弱な要素と外敵との内通者を排除し、部隊の結束を高めるという意味が、それまでの訓練にはあったわけである。ただ単に、候補生となった凶悪犯を御するに、これ以外の手法が考え付かなかっただけなのかもしれないが……
セルミ島に入り最初に訪れた休日、ネスラスは初日の「狐狩り」において彼を追い詰めた隊員の素性を知る機会を得た。取り立ててネスラスから接触を求めたのではなく、彼の方からネスラスに話しかけて来たのである。その口振りから彼は、練成訓練の初日からずっとネスラスの様子を窺っていたことが察せられた。セルメタス‐ル‐ハークと名乗るその男は、まずネスラスに煙草を勧め、一服させたところで聞いてきた。
「おまえ、ひょっとして軍にいたか?」
「ああ……兵役でな。事故を起こして不名誉除隊しちまったが」と、事前に想定した通りにネスラスは応じた。
「何故、それを聞く?」
「何となく……お前の動きだけ皆から浮いていたものでな」
「…………」
目を付けられたか――――無音の警報音が脳裏を満たし始めるのをネスラスは焦燥と共に感じる。困惑すら覚え始めた彼に、セルメタスと名乗る先達は笑い掛けて言った。
「おれも軍にいたんだ。お前と違って満期まで勤めたが……」
「…………」
「傍目には他の囚人よりまともそうに見えたから話してみたんだが、実際おまえがまともなやつで良かった。この島にまともな人間は少ない。俺達以外には務所暮らしでイカれた連中とろくにローリダ語も話せない下等種族しかいない。これからもこうやって話そう」
「話せればいいがな……」
と、わざとらしく眼を逸らして言ったネスラスに、セルメタスは言った。
「話せるさ。お前、身体検査に合格したようだしな」
「身体検査だと……?」
言葉に顔を曇らせるのと同時に、その前日に行われた検査がネスラスには思い出された。ありきたりな身長、体重の測定から始まり、最後には血圧、反射神経から平衡感覚の把握に至る、まるで空軍の航空士選抜検査を思わせる厳重なまでの身体検査――――あの時感じた、何のためかという疑念が再びネスラスには生じ、それを彼の表情から察したのか、セルメタスはネスラスの肩を叩き言った。
「喜んでいいぞグスカロス。身体検査さえ通ってしまえば、滅多な事じゃ殺されることは無い。待遇も若干良くなるしな。この俺がいい例だ」
「何のための検査だ?」
「まあ、今にわかる」
セルメタスは意味有りげに笑い、ネスラスは戸惑いを隠せない。
その三週間後――――
落下傘降下訓練――――ネスラスがセルメタスの言葉の真意に気付いた頃には、彼は既に地上における専門の基礎訓練をも修了し、南ランテア社所有の小型輸送機の機上に在った。落下傘降下資格を得るために三週間に亘り続いた訓練、その最終段階と言うべき自動開傘装置による普通降下訓練に臨む輸送機の機上だ。
およそ「スロリア戦役」の洗礼を受けるまで、共和国ローリダにおいて落下傘降下は航空機事故時の非常救命手段とか、単なる余暇に行う冒険的な行為の一環としか捉えられてはいなかった。「転移」後の植民地獲得戦争と、勢力圏を伯仲させる列国との抗争において、諜報員を敵の領域内に浸透させる手段として用いられた記録こそはあるものの、そこに純軍事的な面で価値を見出した者は皆無とは言わぬまでも極少数であって、当時の大多数の関心は、むしろ航空機で大量の物資や人員を牽引し得る大型滑空翼機の開発に傾注していたと言ってもよい。
セルミ島に話を戻す。
専用飛行場を離陸した機は、既に二千高度単位以上の高度にまで達していた。輸送機は旋回を繰り返しつつ所定の高度にまで上り、そして機首をセルミ島の南端たる森を切り開いた平地へと向ける……それら一連の運動を機体の揺れで体感しつつ、ネスラスは薄暗い機内を見回している。
ネスラスと同じく狭い機内に詰め込まれ、重い落下傘を背負った囚人たち。彼らの例外無くこれから起こることを前に顔を引き攣らせ、中には明らかに震えている者もいる。向かい合う席にネスラスは眼を移す。ネスラスと同じく落下傘を背負った白鷲の隗偉な体躯が、光量を抑えた機内灯の下で不気味に佇んでいた。その彼が、輸送機が離陸した時からずっと自分を凝視していることに、ネスラスは今更のように気付く。
身体検査では、異論の挟みようが無い程の頑健さを誇示するかのように基準以上の数値を叩きだした白鷲であったが、実施訓練を前にして彼は訓練資格を一度取り消されていた。「劣等なる先住民」だから、というのが白鷲から訓練資格を剥奪した南ランテア社の教官の言い分であった。白鷲自身がそうするより早く、ネスラスは教官に抗弁した。自分でも驚くほどの熱意で、ネスラスは教官を説得したのである。何故か、この男を其の儘にはしておけなかった。
「ニホンでは、落下傘操作は最も勇敢で強き兵が受けるものと聞く。喩えディギヴィアンであろうと彼が受けないのではこの訓練自体に意味が無くなる。それでもいいのか?」
凡そ麻薬の密売人が語るべきではない語彙を駆使して、ネスラスは教官に直訴した。ややもすればネスラスは、白鷲という名の先住民の名誉を守るために、咎人という仮初の素性を守ることすら怪しくなる程の危機を冒したと言っても良い。ネスラスの熱意に折れたのか、あるいは人種の違う彼の熱意を気味が悪いものに感じたのか、最終的には教官は白鷲の教程復帰を許し、ネスラスと同様に機上の荷物と化したわけであった。
一度海上に出たところで旋回しつつ訓練用の降着地点に機首を向け、直線飛行を取り始めた輸送機の機上、不意に白鷲が言った。
「……グスカロスと言ったな」
「…………」
「実は俺、高所恐怖症なんだ」
「でも、基礎訓練はやり遂げたろ?」
「実際に飛び降りるわけではなかったからな……」
「迷惑だったか?」
「いや……お前はおかしな奴だ。この先住民の俺を庇うのだからな」
「お前に憐みをかけたわけじゃない。ただ……丁度いい弾避けが欲しかっただけだ」
「…………」
二人は睨み合ったまま押し黙った。ネスラスとて眼前の先住民に対する蛮人との見方は拭えず、白鷲とて眼前のローリダ人に対する警戒心を拭っていない。その二人の間を割る様に機上整備士が席から立ち上がり機内を歩く。勢いを付けて貨物室のドアが開け放たれ、気流が機体を切る音の充満し始める中で南ランテア社の降下指揮官が声を張り上げた。先ずは立つことを彼は命じ、次に機内貨物室の天井に渡された自動開傘索に落下傘展開索のフックを掛けるよう命じる。人員の確認と装具の点検が終了するのと、機内に据え付けられたブザーが唸り、各員に降下を命じるのとほぼ同時であった。
「――――!?」
瞬間的に立つべき地面を失い落下する感覚、降下と同時に展張した落下傘が気流を捉え上に引き戻される様な感覚、緩慢に降下しつつも空を支配する気流に翻弄され、身を振り回される様な感覚――――機体から飛び出すのと同時に一度に感じるそれらを、身一つで持て余す内に落下速度が落ちる。次には捉え処のない浮遊感に包まれていることにネスラスは気付く……と同時に、周囲を見回す余裕が自身に生まれていることにもネスラスは気付く。空に浮いた真白い花の如く、見渡す限りの空を覆う落下傘の群、自身もその一部であることを今更のように自覚し、同時にネスラスは自身が何の齟齬も無く降着を果たそうとしていることに安堵した。
そのとき――――
「…………!?」
開かない落下傘、それを引き摺りつつ重力に引かれて地へと落ちる人影がひとつ――――眼前に飛び込んで来たそれを見送るネスラスの眼が凍り付きつつも追い、人影が地に落ちる寸前で彼は思わず目を逸らす。落下傘自体の整備不良が、開傘不能とそれに伴う要員の激突死を引き起こしたことを、ネスラスは後に知った。
事故とそれに伴う死者こそはあったが、資格を得るための落下傘降下演習自体は滞り無く終わり、以後は週一回の頻度でそれは行われることとなった。一方では降下訓練以外の日々を、ネスラス達は特殊任務班の一員としてより専門的な戦闘技術の習得に費やすことを強いられることになる。具体的には実弾を用いた銃器操作訓練、爆発物の取り扱い、地形判読、通信機器の取扱いといったものだ。それも戦慄を覚える程に実践的な訓練。使用する銃器もグナドス製及びニホン製の最新の小銃から、正規軍でも配備が進んでいない最新モデルの国産小銃を使い、重火器もピアッティス対戦車噴進弾を改造した誘導式噴進弾を使う。
「狐狩り」の際に、「狩人」が身に着けていた防護服すらネスラス達は与えられた。外目からすれば、無線機のイヤホンを収めたイヤーマフと一体化した、独特の形状を有する専用鉄兜以外にはあのニホン兵と変わり映えしない、手足の生えた甲虫の様な姿――――
この段階まで来れば囚人たちはほぼ特殊任務班の正隊員と同様に扱われ、待遇もまた一変した。ネスラス達は正隊員と同じ清潔な宿舎で起居し、そこには囚人たちを怒鳴り付け、獣にでも接するかのようにいたぶる訓練教官の姿もいない。特にネスラスや白鷲といった落下傘降下資格の所有者は専用の二人部屋を宛がわれ、体力維持の名の下で食事の献立も一、二品程増やされるのが常であった。
「言った通りだったろ? グスカロス」と、専用宿舎に移動して来た早々、ネスラスを迎えたセルメタスは言ったものだ。
「この通り、降下小隊は全員下士官待遇だ。ゆくゆくは国防軍で新編される特務部隊の中核を担うことになるかも知れんな」
「中核? 咎人のおれたちが?」
「いまにそうなるさ。国のために幾度か武勲を立てて生き残ればな」
部屋を宛がわれるに当たり、ネスラスは白鷲と同じ部屋に起居することを択んだ。択ばなければならない理由があった。一端の戦闘要員ともなれば、一日の内である程度の自由時間を与えられる。他の者が雑談や休息にそれを割く一方で、その間ひとりで白鷲がしていることに、ネスラスは個人的に興味を惹かれたのだ。まるで見えない何かと戦っているかのように両手を巡らせ、あるいは舞う様に身を翻す。それも一度では終わらず、白鷲は呼吸を整え、あるいは荒げつつ時間の許す限りその動作を続けている……他の者は気が触れた先住民が何やらわけのわからないことをやっているとその様を笑っていたが、ネスラスは敢えて理由を聞き、答えを聞いて納得した。
「ヴァルナギルターの形だ」と、白鷲は言った。
ヴァルナギルター――――「力神の手」と白鷲が呼ぶ先住民の格闘術には、あらゆる局面を想定した防御と攻撃の定石の様なものがあって、定石の動作を繰り返すことでそれを身体に染み込ませることが出来るのだという。ネスラスは習得を望み、白鷲は渋りながらもそれを許した。落下傘訓練の件が、この先住民をして眼前の若きローリダ人に借りを返す必要を感じさせたのかもしれない。それからの自由時間はもとより、就寝時間に至るまで訓練時間以外の全ての時間をネスラスは形の習得に傾注した。傍目にはふたりの気が触れた人間が、何やら妙な舞を踊っているようにしか見えなかった。
しかし当のネスラスが驚いたことには、傍目には緩慢かつ単純に見えたこれら定石の動作が、その実極めて体力を削ぐ程激しい動作、または卓越した平衡感覚を要する動作でもあったことだ。
「――――じきに馴れる。馴れてくれば習得が近い証拠だ」と白鷲は言い、それは事実であった。白鷲の言によれば、ローリダ群島に巡礼始祖が一歩を標すより何百年も昔には、小指一本で大の大人を持ち上げたり、相手の身体に触れることなく相手を投げ飛ばすなどの人間離れした技の使い手がいたそうだが、それらの奥儀は巡礼始祖の到達の時点ですでに失われてしまっていたという。その話の過程で、ネスラスは白鷲が獄に繋がれるに至った理由を知った。ローリダ本島の中西部、商業用地拡大の意図を以て白鷲の属する部族の聖地を破壊しようとした建設業者とその用心棒十人を、白鷲は「力神の手」で殺害したのである。
「……奴らは聖地を穢すに飽き足らず、無断で俺達の居住区に押し入り、長老のみならず俺の妹をも殺した。おれは運命の神に代わってローリダ人に罰を与えたまでだ」
「…………」
唖然……次には愕然としてネスラスは白鷲の生い立ちを聞く。白鷲の身の上に対し同情を覚える一方で、政府の眷属としての自己とは相容れない白鷲の行状に困惑を覚えたネスラスがいたことも確かだ。それ故に彼としては、白鷲を見る目も苦々しくならざるを得ない。だが、白鷲に師事し、ヴァルナギルターの技の数々に感銘を覚える今となっては、それは表に出すべき感情では無かった。
白鷲に従い修練を積むうちに、ネスラスは最初は漠然と悟り、やがて確信する――――これは白鷲の言うような信仰とか、先住民の神の賜物といった生易しいものではない。長い年月の内に培われた人間の構造に関する知識に基づき、人間を制圧し破壊する「技術」のようなものだ。あのニホン人もこの種の格闘に秀でているというが、白鷲たち程に徹底はしていないだろう。
戦闘訓練に従事し、または黙々としてヴァルナギルターの修練に励む内に、ネスラスに判ったことがもうひとつある。彼が放り込まれた兵舎もまた、安住の地では無かったということだ。
落下傘降下資格者の住まう兵舎には、ローリダ人と非ローリダ人――――言い換えれば異種族――――が「平等」に詰め込まれていて、同じ部隊の一員である筈の彼らは明らかに対立していた。異種族の多くが元は南ランテア社の傭兵から特殊任務班にスライドして来た者たちであり、従ってセルミ島に来る前から彼らなりに戦闘経験を積み、銃器の扱いに長じた者が多い。それ故に後塵を拝する形となったセルメタスたちローリダ人としては面白くない、というわけだ。ネスラスはスロリアで既にそのような経験をしているから、戦闘訓練の端々で示される異種族の優越ぶりにはそれ程劣等感を覚えなかった。むしろ兵役経験者かつ同年代でありながら、スロリアでの従軍経験が無いというセルメタスの履歴に、ネスラスは不審なものを抱き始めている。「本土の司令部勤務だったからな……スロリアには行かなかったんだ」とセルメタスは言葉を濁す様に言い、それがネスラスにはさらに奇妙なものに聞こえた。そして――――
「――――あの二人は強い。俺一人では殺されるかもしれない。グスカロスと組んで辛うじて対等だ」
と、白鷲は異種族の中でとある二人を指して言った。格闘術の達人としての勘、あるいは彼特有の動物的な勘が、そのような発言を可能にしたのだろう。長身、漆黒の肌を持つ、編み上げられた長い黒髪の若い男と、白い肌に蒼い髪、尖端の尖った耳が不可思議なまでに強い印象を与える少女という組み合わせの二人。女の顔には見覚えがあった。「狐狩り」の際、ナイフの一閃で三人の囚人を斃した女だ。男の姿も見たことがある。「狐狩り」に続く脱落即、死の体力練成訓練の最中、訓練場を一望できる山上に在って囚人たちの訓練と運命をずっと見ていた男……南ランテア社のローリダ人要員は明らかにこの男を恐れていた。「首席商館長代理」と……だからこそ、セルメタス達も異種族とは表立って対立ができないという事情がある。ローリダ国内と言わず、この世界で首席商館長の肩書を持つ人間は一人しかいない。それも、「第一執政官の次に偉い」と冗談半分で称されるほどの圧倒的な権力の持主だ。その首席商館長から、この監獄の管理一切を任されている……と言われては、ネスラスとて戦慄を覚えざるを得ない。
ネスラスがセミル島に入り、訓練に明け暮れる内に半年が経とうとする頃、ネスラスはルガル本部からの接触を受けた。それも、島の施設内に出入りする島民の配食係を通しての形で、である。事前の計画では情報を授受するための接触が始まるのは島に入って三ヶ月後のこと、それも同じく囚人を装った同僚が来る筈が、それまでに送り込まれた三名の要員が悉く「狐狩り」で死に、最後にはセミル島出身の彼に白羽の矢が立ったのだと配食係は教えてくれた。ネスラスは運が良かった。それを自覚した途端、止め処の無い悪寒が彼の背筋を走ったものだ。
「――――本部は状況を極めて深刻に受け止めています」と、配食係は言った。
「それでどうする? ルガル単体の実力で制圧するには手に余り、懐柔するにも政治的なリスクが大き過ぎる。この島そのものが共和国ローリダから分離した独立国のようなものだ」
配食係は頷いた。
「本部としては中尉の情報を元に報告書を作成し、これを公安委員会に提出する方針です。再度の間諜の潜入は、これを諦めているようで……」
「万事休すだな。私は何処かの戦場で死ぬまで引き上げて貰えないまま傭兵ごっこというわけか」
皮肉すら交じったネスラスの言葉に、配食係は何度か表情を躊躇わせて言う。
「あくまで風聞の範疇を出ていませんが、実は国防軍も此処の存在を既に関知し、間諜を送り込んでいるようなのです。折を見て本土より歩兵連隊を投入し、実力で制圧するとか……」
「連隊では足りないな……旅団、それも増強を得た旅団が必要だろう」
ネスラスが期を見て紙片に書き溜めた情報を配食係に握らせ、ひとまず宿舎に戻るのと、急に雲が犇めき始めた鉛色の空が、瀑布の如き雨を打ち下ろし始めるのとほぼ同時であった。
……その雨の夜、ひとつの事件が起こった。
事件を起こしたのは、「串刺し」ストークである。
彼も「狐狩り」を生き残ったひとりであった。身体検査の結果、落下傘降下の適正なしと判断された彼は一般の警備部隊兵舎に移されて訓練を受ける身となったが、その後二度に亘り狩る側として参加した「狐狩り」で、すでに二桁に上る「志願者」を殺していたのにも関わらず、それで弑虐癖を満足させるどころか、彼の内包する可虐癖はさらに膨張を遂げていたようであった。それも、抵抗の叶わぬ女子供に対する可虐心である。
視界を塞ぐ程の烈しい雨と、囚人を隔離する装置のひとつとしての警報装置の故障は、獲物に飢えていた串刺しストークを村落への徘徊に誘うのに、格好の契機となった。南ランテア社の警備兵が不遜かつ危険な脱走者の存在に気付いた時には、すでに最初の殺戮が始まっていた。村外れに棲んでいた老夫婦を手始めとして住民の被害は一軒、さらに一軒と増え、捜索部隊の手が村に及んだ時には、村人の凡そ半数を殺し尽くしたストークはすでに村に接する山中に逃げ込んでいた――――
「――――非常呼集!」
悲鳴に近い警備兵の怒声が飛び、装備の着用を促すベルが耳を苛む。戦闘用の装備を纏い寝床から一転し営庭に集合したネスラス達を前に、あの黒い肌をした異邦人の男が進み出た。発音に粗の目立つローリダ語、だが言わんとすることは烈しい雨中に在っても聞き取ることが出来た。
「お前たちは模範囚だ。だからこれより外出許可を与える。脱走者を捕えるか殺せ! 判断はお前たちに任せる!」
「とんだ外出許可だぜ」と、ネスラスの背後で誰かがぼやく。異邦人の命令はなおも続いた。
「各員小隊二十名毎に乗車、村落付近まで機動し日昇と同時に脱走者の捜索を開始する!」
驚いたことには、ネスラスは小隊長に指名された。いきなり指名され呆気に取られたネスラスに、異邦人は感情を見せることもせず言ってのけた。
「戦闘に投入されるわけじゃないからな。遠足の引率ぐらい馬鹿でもできるだろう? それにお前は見栄えがいい。ただそれだけだ」
抗弁は許されなかった。解散命令に続き、なお降りしきる雨の下を、武装した囚人たちがトラックの荷台に向かい走る。その途上、一隊の先頭に立って走るネスラスに白鷲が並び、囁く様に言った。
「似合ってるぜ。小隊長殿」
「フン……!」
小走りに走る途上、セルメタスたちの姿を見る。彼らは武装こそしているが、トラックへの乗車を急ぐ風でも無い。彼らはストークの捜索には加わらず、収容所にあって警備を担当するようであった。我が物顔で振舞う異邦人と不仲であるが故に、連中は今回の捜索からは外されたのだと皆が言っているのを、ネスラスは走りだした車上で聞いた。
「みんな眠れ、日が昇るまでは着かない」
配下にかけた言葉は、それだけである。事実その通りになった。日が昇るのと同時にトラックは目的地に着き、山の麓で止まる。小隊を下ろしたネスラスは間隔を開けた横一列で山肌を登らせ、捜索に専念させることにする。捜索に必要な時間を短縮するための工夫の様なものであった。
「山道を使わねえのか?」と配下の一人が聞く。
「遠足じゃあるまいし、さっさと基地に帰って熱い茶を飲みたいなら俺の言うことを聞け」
と、ネスラスは素っ気ない。そのネスラスの背後を、白鷲が分隊支援機関銃を抱えて続く。小隊はそのまま山を一つ登り、その麓にひとつの集落を見出した。家の数にして五……否、七軒程の小さな集落――――
「グスカロス、見ろ」
と、白鷲が集落を指差した。
「朝だというのに煙突から煙が昇っていない。妙なものだ」
「成程……」
白鷲の言葉に納得を覚えるのと同時に、背筋が震えた。住民は起き出して朝食の準備をするまでもなく既に皆殺され、ことによってはあの家々の何処かに――――
ネスラスは集落への前進を命じた。麓に達した処で隊に一時集合を命じ、以後は三名一組で各家の捜索に当たらせる。ネスラスは白鷲ひとりと組んだ。彼と共に山から最も遠い家を目指す進路を辿るというわけだ。事実その途上、小路の端に横たわる女の骸を見出したことが、ネスラスに確信を与えた。顔面と喉を尖った何かで滅多刺しにされた、もはや元の顔すら判然としない女の骸――――
「――――奴め、只では置かんぞ」
白鷲が怒るネスラスの肩を叩き、無言で先行する意を伝えた。七十発入り弾倉を繋いだデグウス2分隊支援機関銃を軽々と構えて進むだけ、先行する白鷲が相当な膂力の持主であることが嫌でも判る。その彼に付き従う様に進むにつれ、周囲からドアを蹴破る音、窓ガラスを割る音が聞こえて来た。幾らノックしても屋内からの反応が無い事に業を煮やした小隊員たちが、屋内突入を強行突入に切り替えたのだ……と同時に、通信回線を伝い隊員の呻き声と罵声が次々と重複してネスラスの耳に入って来る。これだけでも、部下たちの突入が最悪の結果に終わったことを把握することが出来た。
『――――こちらレフス、親子の死体を発見!』
『――――こちらロガス、死んでる……みんな死んでる……何て様だ!』
報告する者もまた、かつては罪も無い誰かを傷付け、あるいは生命を奪った経験を有する者たちであった。その彼らにしても串刺しストークの行状の酷さは想定外であったのだろう。無線越しには啜り泣く声、止め処なく悪態を付く声が入って来る。ネスラスにしても、居ても経ってもいられなくなった。
「各員へ、策敵を継続しろ。奴は――――」
躊躇い、続ける。
「――――必ず捕えろ。捕えて俺の前に連れて来い……!」
ネスラスの語気に気圧されたのか、白鷲が先行しつつネスラスを顧みる。事実、不条理に命を奪われた人々の姿と、本土に在って事情も知らぬまま夫の帰りを待つ妻タナの面影が、ネスラスの脳裏では重なっていた。家庭人の端くれとして、このような蛮行に心からの嫌悪感が彼には芽生えていた。
目指すべき家が間近にまで迫り、玄関から指呼の間にまで迫る。ドアが乱暴に開け放たれ、血塗れの少女が寝間着を振り乱して雨中に転げ落ちた。抱き留めた白鷲の胸にしがみ付き、泣き喚く少女――――
「お母さんが!……お父さんが……化け物に……!」
「白鷲」
「…………?」
「その子を守っていろ。それと応援を呼べ」
「グスカロス」
「俺が教えた通りにやれ。死ぬなよ」
ネスラスは黙って頷き、家の敷居を跨ぐ。家の中は思いの外薄暗く、ひんやりとした空気の流れにネスラスは内心で気圧された。それらの感触の他には、血の臭いが足を踏み入れる廊下に満ち満ちている……小銃を振り回すには室内は余りに狭く、そのままで屋内に踏み入ったことをネスラスは心から後悔した。
暗がりに馴れ始めた眼で、開け放たれたままの戸から居間を覗く。ストークと思しき人影は見えなかったが、倒れたまま動かない人影が戸の隙間から見えた。
構えた小銃の銃身で戸を開き、足先で腫れものに触れる様な、慎重な足捌きで居間を跨ぐ。居間にストークの姿が見えないことを確かめ、ネスラスは小銃を背中に廻し拳銃を引き抜いた。床に倒れていたのは女性、寝間着姿の下で、どす黒い血が池を作っているのがおぼろげながら見えた……と同時に、名状し難い烈しい感情がこみ上げて来た。その女性の姿が、首都アダロネスに在って自分の帰りを待つ妻のそれに重なったのだ……そうなった以上、ストークを生かして外に引きずり出す自信は、ネスラスには既に無かった。
居間から台所、浴室、寝室――――拳銃を翳しつつ屋内を巡り、ストークの影すら捉えられない自分に対するもどかしさが募る一方で、対峙するストークに対する怖れが胸中で徐々に膨らみ始めているのをネスラスは自覚する。手が付けられないくらいに怖れが膨張するまでに、ネスラスは勝負を付けなければならなかった。
上か――――狭い階段が繋ぐ二階の入り口をネスラスは睨む。躊躇いつつも階段を踏みしめて上る。階段の軋む音は思いの外大きく。見えぬ敵に対する恐怖を増幅させる。突き出した拳銃を上階に向けつつ階段を上り、夫婦のそれと思しき寝室へと、閉じられていないドアを開く――――ベッドを朱に染めて倒れる男の姿に目を見張り、寝室の外で何かが蠢くのを察する。
「――――ッ!」
反射的に向けた銃口――――その先にストークの姿は無かった。二階にはふた部屋しかなく、そのうち一つは既に調べた。
「子供部屋か……」呟きつつ、ネスラスは狭い廊下を踏みしめる。ふと見れば、半開きになった子供部屋のドアノブにべっとりと血が付いているのが見える。やつは最初に二階の父母を襲い、次に娘を殺しに掛かった。だが子供部屋には娘がおらず、娘は間一髪で難を逃れたということだろうか?
「――――!」
絶句――――前方の子供部屋に気を取られる余り、廊下の天井に穿たれた屋根裏部屋に続く出入り口の存在に気付くのが遅れ、ネスラスが気付くのと同時に黒い質量がネスラスの背後から躍りかかった。
「死ねこの野郎っ!」
甲高い叫び声がネスラスの鼓膜を直に打つ。背後から圧し掛かられ、肩越しに振り下ろされる錐の尖端がネスラスの首と頭を貫こうとして床板を抉る。腰に跨ったストークを跳ね退けようとして、満身の力を込めて身体を捩る。ネスラスの喉元を狙い、両手で振り下ろされた錐を、伸ばした腕で受け止める――――否、錐がネスラスの腕を貫き、ネスラスはもう一方の手でストークの手首を掴み、捩り上げた。
「ヒ――――!」
骨格の構造上耐えられない、歪な方向から加えられた力が、ストークの手首に骨をも砕く程の激痛を生む。そこにネスラスが体勢を逆転する好機が生まれた。激痛に耐えかねたストークの手から血塗れの錐が離れ、ネスラスはストークに馬乗りになるのと同時に腕に刺さったそれを引き抜いて遠くに投げる。ネスラスを罵る積りか、焦点の揺れる眼を剥いたストークの側頭を捕えるネスラスの拳――――否、ハンマーのように叩き付けられた掌底。拳の面では無く底を叩きつける様にして打つ。それがヴァルナギルターの基本的な打撃だった。最初の一撃でストークの意識が飛び、次には豪雨のごとく叩き落とされる拳がストークの側頭、眼、鼻、頬と顔面の全面に亘り降り注ぐ。それを止めるという選択肢は、今のネスラスには無かった。ストークが抵抗を止め、その全身から力が抜けても拳打は続いた。ついには拳で打つ度に血が飛び散り、ネスラスの服と頬をも汚す。それでもなお、ネスラスは無表情に拳を揮い続けた。
「グスカロス止めろ! もういい、止めるんだ!」
怒声――――不意に強い力で背後から抱かれ、ネスラスはストークから引き摺り下ろされた。なおも拳を揮おうとするネスラスの耳元で白鷲が声を荒げる。それがネスラスをして、僅かな間に封印した理性を顧みる余裕を与えた。白鷲に抱かれつつ理性が戻るのと同時に、視線の先の廊下には、仰向けに突っ伏したまま動かない男の姿が広がっていた。殺人嗜好癖を有する男の変わり果てた姿――――息を整えつつ、ネスラスは内壁に縋って立ち上がる。
「グスカロス、怪我をしている」
気が付けば、錐に貫かれた腕から出血が増していた。拳を開こうとして手が痛む。ふと見れば、無慈悲な連打の内に拳を切り、切った個所からも出血が始まっていることにネスラスは気付く。おれは何発、あの屑に拳を揮ったのだろう、とネスラスは今更のように考え始めていた。かと言って、脳内の何処を探したところで怒りに任せて只管――――それ以外の記憶しか見つからなそうに思えた。
「兵舎に帰ろう。手当てを受けるんだ」
白鷲が言った。いつの間にか、階下が騒がしくなっていた。階下にいた隊員が悄然として階段を下りるネスラスの姿を認めた瞬間、顔を引き攣らせて道を空ける。
「ストークは上だ。もう死んでいるかも知れんな」
言ったのは白鷲、その後は知らせを受けて怒涛の如く階段を駆け昇る隊員と打って変わり、地階にはネスラスと白鷲ふたりが残される。それに妙な気分を抱くよりも、外が騒がしいのがネスラスには気掛かりであった。玄関を出た先、待ち構えていた人影を、ネスラスは思わず足を止めて凝視する。
「派手にやり合ったみたいだな」
家の前に横付けした戦闘用地上車の傍で、肌の黒い異邦人が笑っていた。ネスラスは鼻で笑い、兵舎の方向を指差した。
「報告書は後で出すよ」
「もと罪人とは思えない言い草だ」
「よく言われる」
「グスカロス、行くぞ」
白鷲が苦笑し、トラックへの道を促した。もはや生きている住民のいなくなった集落を行き交う隊員の影が増え、同時にそれまで鳴りを潜めていた雨が最初は一粒、二粒……それは断崖の様な雲行きが更に険しくなるのと期を同じくして、一帯を圧する激しい雨の連なりと化す。トラックの荷台に足を急がせるふたりの前に、落雷と思しき激しい轟音が遠方、収容所の方向から響いて来た。
「雷か?」
「違うな……」
白鷲の問いに、ネスラスは素っ気なく応じた。表面上は平静を装ったものの、胸中に満ちる動揺は抑えられなかった。
「白鷲、無線機だ。無線の周波数を動かしてみてくれないか? 収容所の様子が判るかもしれない」
「ああ……わかった」
ネスラスに乞われるまま、白鷲が防護服から外したニホン製無線機のダイヤルを弄くるうち、彼の赤銅色の肌から血色が退いて行くのがネスラスには見えた。訝しむネスラスに気付き、白鷲は無線機からイヤホンコードを抜く。通信の内容がスピーカーから直にネスラスの耳に入って来た。
『――――こちらセルメタス。通信塔を破壊した。郵便局、打電を開始せよ』
『――――こちら郵便局。そこかしこを囚人どもが武装してうろついている。やつらを何とかしてくれ……!』
『――――こちらセルメタス。問題無い。奴らは凶悪犯を追って外に出た連中だ。収容所制圧には未だ気付いていない』
『――――郵便局、了解した。計画通り打電を開始する』
「…………」
白鷲が蒼白な顔をネスラスに向け、それを受け止めつつネスラスは言った。
「白鷲、家に戻ろう」
「グスカロス……」
「手当てをして、収容所にこのまま戻るかどうか改めて決めよう」
「そうだな……どういうわけか敵と味方の区別もつかないことだし」
惨劇の舞台となった集落では、捜索隊の集結が始まっていた。おそらくはあの黒い肌の異邦人が、隊に集結を命じたのに違いなかった。
串刺しストークは捜索隊によって収容された時点では未だ生きていたが、それも僅かな間のことでしかなかった。捜索隊を仕切るあの黒い肌の異邦人は、眼前に引き出された半死半生の状態の凶悪犯を見出すや、有無も言わせず自らの手で串刺しストークに引導を渡したのだ――――脳天に拳銃弾を立て続けに三発……というかたちで。俺は捕虜を取らない性分でな……とだけ、その異邦人は言った。間違った行動には思えなかった。これから起こることを考えれば、ストークの様な危険人物を隊内に抱え込むのは得策では無かった。
「――――聞け!」
捜索隊を前にして、ダキという名の異邦人の声が雨天下に響き渡る。小隊指揮用の無線機を持っている分、捜索隊本部の方が状況の把握は早い。
「収容所で反乱が発生した。現在、反乱部隊は制圧部隊となお抗戦中。反乱部隊は街の郵便局に通信施設を設置し、外部との連絡を取ろうとしている。我々は収容所の秩序回復を行うのと並行し、郵便局を制圧する必要がある」
ネスラスは間髪入れず進み出た。
「郵便局の制圧はおれにやらせろ。おれ以外にあと一人いれば十分だ」
ダキは眼を細め、ニヤリと笑った。
「お前、名前は?」
「グスカロス。グスカロス‐ロイ‐カンベル」
「ほう……凶悪犯の制圧の次には郵便局の制圧が望みかグスカロス」
「駄目か?」
「よかろう。ただし事は急を要する。地上車を持って行け。地図も入っている」
ネスラスはダキの乗って来た軍用地上車を宛がわれた。白鷲を助手席に自らハンドルを取って車を畦道に乗り出す。街までは指呼の距離であった。揺れる車上、吊り輪でその巨体を支えつつ白鷲が聞いた。
「どういう風の吹きまわしだ? グスカロス」
「これからおれがやることを手伝ってくれれば、この囚人部隊で命を削らなくとも減刑は叶うぞ」
「…………?」
無言、だが横目で白鷲はネスラスを睨む。一瞬躊躇い、ネスラスはハンドルを操りつつ切り出した。
「未だ詳しい事は言えないが。おれは囚人じゃない」
「セルメタスの同類か?」
「……まあ、そんなところだな」
街の入り口に達したところで、ネスラスは車を停めた。
セルメタスが郵便局を手中に収めているということは、彼が街中にも同志を潜ませている可能性が考えられた。立地相応に狭い本通りを、両端の家屋や商店に身を潜めつつ二人は郵便局を目指す。その小さな街中は全てが戸と窓を閉め切り、平日とは思えぬ程静まり返っていた。
「郵便局だ」
と、ネスラスは目指す場所の方向を指差した。恐らくはこの街で唯一の交差点に面した郵便局は聖堂に隣接しており、聖堂から聳える鐘楼はこの街で最も高い建物であることが察せられた。自分達以外の人間が、その存在自体掻き消えたように静まり返った中を、ふたりは銃を構えて走る。
「……あとは道を跨ぐだけだ」と、家屋の陰に潜み、郵便局の入り口を睨みつつ白鷲が言った。郵便局そのものの間取りは普通の平屋かと思われる程狭く、実家たるハズラントス家の別荘の所在する旧い田舎町のそれをネスラスに連想させた。
「おれが先に行く。援護してくれ」
ネスラスは言い、白鷲は頷いて応じる。鐘楼を始め、教会にも郵便局にも人間の気配は見られない様に思えたが、目標を目前にして注意を払って置きたかった。駆け出し、通りの中程にまで達した時、ネスラスは銃声を聞いた。鐘楼か!? と察するのと同時に転がる様に身を屈め、郵便局の軒下に文字通りに滑り込む。泥濘んだ道故に戦闘服が汚れた。顧みた向こう側では、家屋の陰に潜んだ白鷲がネスラスに手信号を送って来る――――「鐘楼にひとり。狙撃兵」と。
「了解、これより突入」とネスラスが手信号を送った直後、周囲の空気が変わり始めるのをネスラスは肌で感じた。その理由は再度送られてきた白鷲の手信号からわかった。
「見つかった! このまま進め!」
手信号で白鷲が急かす。雨音に混じり隣からの物音が烈しくなる。不遜な侵入者を察知したセルメタスの同志が聖堂から現れ、白鷲は色を為して前進を促してくる。ネスラスは舌打ちし、身を翻して郵便局のドアを蹴破る。
「――――ッ!」
受付から身を乗り出して銃を構えた影に向かい、小銃の引き金を引く。殆ど反射的な対処であった上に、受付に潜んでネスラスを待ち構えていた者は一人では無かった。カウンターの隅に伏せるのと同時に、室内を荒れ狂う銃声と誰かの呻き声を聞く……一人は斃したことを、ネスラスはこの瞬間に悟った。カウンターに伏せつつその向こう側に潜む敵の所在を探る。
「――――応援を! 敵が入って来た!」
カウンターの奥から裏返った声が聞こえて来る。向こうか!……と、カウンター越しに目を凝らした先で、二名程の人影が蠢くのをネスラスは見る。奥に続くドアを蹴破り、煙幕弾を放り込む。郵便局への出発に当たり、ダキが持たせてくれたものであった。ドアの向こうで激しく咳き込む声が聞こえて来る。火器を拳銃に持ち替え、心中で三つ数えて煙幕に満ちた部屋に踏み入る――――
「――――!」
眼前に飛び出して来た影に、拳銃弾を二発続けて撃ち込む。更に至近、咳き込みつつ銃床を振り上げて迫って来た相手を、銃床を回避し拳銃の把柄でその頭部を殴りつけて倒す。止めの二発も忘れなかった。部屋の奥に続くドアの先、増援を求める声が一層切迫さを増している。再度蹴破ったドアの先では、郵便局員の腕章を付けた男が連隊指揮所級の軍用無線機に取り付いていた。
「誰だお前っ!」
「退けっ!」
男を睨み、ネスラスはそれ以上何も言わせないかのように拳銃の銃口を向けた。戦慄を覚えたが故かその場から一歩も動かず、何度か口をぱくぱくさせた彼に銃を突き付けつつ迫り、拳銃で頭を殴りつけて倒す。回線を開いた無線機のスピーカーからは、雑音混じりのだみ声が聞こえ始めていた。
『――――応答しろ! 何があった!? 制圧部隊は既に向かっている!……答えろ!』
ネスラスは無言で通信を切り、そして通信機に付属する符号打信機に向き直る。それがこの島に来る前に取り決められた、ネスラスと彼の属する組織との直接の交信法であった。
『――――ワレ ネスル01 アテ ナイムショウホアンキョク04ブキョク アラワシハスヲデタ……』
仕上げに無線機を破壊し、郵便局を出たところで、雨がすっかり止んでいることに気付く。その代わりに立ち込める煙幕と硝煙が、ネスラスをして郵便局の外で戦場にも似た火と鉄の応酬が続いていたことを感じさせた。退き始めた煙幕の向こうに広がる骸の数々が、そのことを一層確信させた。
「…………」
教会のすぐ前、歪な体勢でその場に倒れ込み、こと切れている男の姿が目に入った。手に握られたままの照準鏡付きの小銃に、その場で斃されたのではなく、聖堂の鐘楼から落ちた……否、突き落とされたのだとネスラスは察する。
狐につままれたような顔を、ネスラスは隣り合った聖堂に向けた……と同時に、突き動かされるようにして小銃を構え直し、完全に灯りの落ちた聖堂の中に踏み入る。銃口を巡らせつつ、ネスラスは我が目を疑う。聖堂に入ってすぐに広がる礼拝所のそこかしこに動かない人間が倒れ、内壁や聖像には激しく散った血痕すら垣間見えた。聖なる場所で繰り広げられた最も凄惨な方法から成る殺戮、それがたった一人の人間によって引き起こされたことをネスラスは戦慄と共に察する。
「…………」
足許に注意しつつ、ネスラスは上階に通じる階段の麓まで歩く。そこに出来た血溜まりから上階に向かい、時折階段に斃れる死体に遮られつつ、延々と血痕が続いているのが見える。上階にも散る死体を乗り越え、あるいは避けて進みそのまま進んだ先、鐘楼に通じる螺旋階段の下にもまた大きな血溜まりが出来ていて、それは鐘楼から滴り落ちている血により未だに潤っていた。
意を決し、階段を上った先――――階段の途上にまた数体の死体が転がっていた。いずれも首を捩じられ、あるいは目を潰された顔を恐怖に歪ませた骸だ。
「白鷲か……!」
「…………」
その先住民は、全身を撃たれて朱に染めつつも、笑って彼の仲間を迎えた。
腕と言わず脚と言わず彼は均しく、かつ烈しく撃たれていたが、最終的には防護服に守られた腹部を破った数発が致命傷を与えるに足る激しい出血を引き起こしていた。防護服はその防御力故に彼に無限の苦痛を与えた一方で、彼に報復の拳を震わせるのに必要な体力を維持させ、聖堂を守っていた男たちにとって、それは彼らの死命を制する誤算となったのである。止まらない出血が、階段を伝い鐘楼の下階にまで達していた。その状態で白鷲は階段を上り、狙撃手を鐘楼から叩き落としたというわけである。
「遅かったじゃないか……グスカロス」
震える声で詰りながらも、白鷲の血走った眼が笑っていた。
「……任務は果たしたのか?」
「ああ……お前のお陰だ」
「そうか……おれはこの通り、無茶をしちまった……もう長くは……!」
言い掛けたところで痙攣が始まっている。ネスラスの顔から余裕が消え、彼は白鷲の巨体を抱くようにした。
「待ってろ。医者を呼んでやる。こんな島にも一人ぐらいはいるだろう」
「……ディギヴィアンを診るような医者なんて……いるかな?」
「そんな医者、反逆罪でルガルの収容所にぶち込んでやるさ」
「そうか……お前、内務省だったんだな……」
声にならない低い声で、白鷲は心許なく笑った。その巨体から、急に温もりが退いて行くように感じられた。それを逃がしたくなくて、ネスラスの白鷲を抱く腕に力が籠る。
震える声で、白鷲は聞いた。
「……教えてくれないか……本当のお前の名前を……」
「…………?」
「……天国に行くのに、証人の名を聞いておきたい」
「ネスラス……オイシール‐ネスラス‐ハズラントスだ」
「……ネスラ……ス」
「そう……ネスラス……ネスラスだ」
何故か口に出す度にネスラスの胸が詰まった。子供の頃に聞いた昔話に、死んであの世の審判の場に引き出された先住民が、天国に行くに足る善行を積んだことを証明するのに、幽霊として地上に降りてまで証人を探す話があったことをネスラスは思い出していた。白鷲の巨体から力が徐々に抜け、やがて呼吸すら掻き消える様に完全な静止へと向かっていく。抗うことはできなかった。それを見守る内、白鷲という名の男は鐘楼の天井を呆然と見遣りつつ、完全に呼吸を止めた。
白鷲を抱きつつ、ネスラスは鐘楼から頭上の空を臨む。
「飛行機……?」
分厚い、どんよりと広がる雲の支配するところではあっても、航空機の発する爆音の広がりまでは隠し通すことが出来ない。しかもそれは、時を追う毎に街の上空にまで近付いてきた。
雲海の隙間から姿を現す機影がひとつ、またひとつ……航過する機体が例外無く巨大な滑空機を引き摺っているという光景を前に、ネスラスの表情から次第に感情が失われていく――――
「――――即応空輸旅団か……!」
ネスラスの驚愕は、すでに上空を埋め尽くしている輸送機群の爆音の只中に取り込まれ、本人も含め誰もそれを聞く者はいなかった。