第一四章 「ベース‐ソロモンの虐殺」
ノドコール国内基準表示時刻12月29日 午前7時40分 ノドコール中部 アリファ飛行場
SAGS――Special Assistance Group, Surrolia スロリア特別援助群司令部呼称「ベース-ソロモン」
包囲は今なお続いていたが、それが今では形だけであることは一帯を流れる空気の軽さから感じられた。夜を徹した打ち合わせの会議と陣頭指揮の末に得た、僅か二時間の睡眠の結果にしては、やけに意識が冴え渡っていると二等陸佐 福島 正威には思われた。
先日の夕方から始まった撤収準備は未だ完了する気配を見せなかったが、それでも急きょ組み上げた行程表通りに全ては進行している。不本意な終わりではあったが、納得のできる終わりでもあるように福島二佐には感じられた――我々は敗れたが、多くの部下と民間人の生命は守られた。
基地内の高台から望む「ベース‐ソロモン」の全容、その一隅が爆発音と同時に黄色く輝き、次の瞬間には高々と黒煙を噴き上げる。黒煙の麓で炎が生まれ、それは勢いを持って天を焦がし始める。それは通信機器と機密書類だった。ローリダ人の指揮官はそれらの処分を自分たちに任せると言ってくれたが、それらを持ち出す時間的、物理的余裕はもはや与えられてはいなかったのだ。
視線を巡らせた一方――基地の主軸を成す二本の交差滑走路の近くでは車両の終結が始まっていた。濃緑と白色……その用途ごとに塗装の違う大小のトラック群、その数的な主力は73式中型トラックだが、それよりも一回り大きい10トントラックの威容がやけに目立っていた。それらトラック群の周囲に群がり、隊員の誘導に従って荷台に向かう避難民の列。着の身着のままでベース‐ソロモンまで逃れ、そして今日さらに東への流転を強いられることとなった人々の列だ。全員を乗せることは不可能だが、女子供を優先して乗せられるだけ乗せて行く。それが福島二佐の決心であり、部隊の総意であった。
「二階堂一尉、報告しまぁす!」
背後から掛けられた声は、未だ息を弾ませていた。顧みた先で、二階堂一尉が駆け昇って来たのか肩で息をしていた。敬礼し、そこで息を整える部下を、福島二佐は苦笑交じりの微笑で迎えた。
「司令、全ての通信装備の破壊及び、書類の焼却を完了しました!」
「御苦労、では時間通りに撤収できるな」
「はっ……!」
「しかし、想像もできんよ……」
そう言いつつ、福島二佐は高台の麓へ向き直った。上官の真意を図りかね表情を曇らせる二階堂一尉に向き直ることなく、福島二佐は続けた。
「まさか敵さんから戦を止めようと言って来るとはな」
「同感であります。ただ……」
「ただ……何だ?」
「敵の指揮官、センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートの事は、小官の前の上官が手放しで褒めておりました。自衛隊の中にも滅多にいない、高潔な人格と高い識見の持主であると……」
「そうか……確か君はイル‐アムで一度あの指揮官と戦っているのだったな」
「はい……!」
「我々は助かったが、東京の政府はさぞ困っていることだろう。此処の戦いが何の出血も無く終息してしまえば、完全に介入のタイミングを失することになるのだから――」
住民と部下の生命が救われることに安堵する一方で、福島二佐にとって一連の推移は複雑な感慨を抱かせている。もしローリダの指揮官が血気に逸るがまま「ベース‐ソロモン」への攻勢を命じていれば、彼我の兵力差からそれは烈しい戦闘では無く、一方的な殺戮となって日本本土の耳目を惹くことであろう。当然世論は沸騰し、それはひいてはノドコール方面に展開を続ける自衛隊緒部隊に、何の法的束縛も無く武力を揮うことに免罪符を与えるという展開へと繋がる――しかし、福島二佐らの眼前で展開されているのは、センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートいち個人の機転で、それが回避されようとしている光景であった。このまま行けばベース‐ソロモンを巡る戦闘に負けるのみならず、ノドコールを巡る戦争にも我が国は負けることになるだろう。
「我々は……人質に捕られたのですね」
「…………」
感慨にも似た二階堂一尉の言には応じず、福島二佐は彼の拠って立つ高台の麓を凝視し続ける。滑走路の傍ら、避難民を搭乗させる手筈だった車両群は完全にその収容限界に達し、次には徒歩でスロリア方面に向かわせる人々の掌握と整列が始まっていた。
「君は先頭を指揮してくれ。避難民の体調に気を配る様に」
「司令はどうなさいます?」
「私は殿だよ」
「司令は列の中央にあって、全体の統制に当たって頂かねば困ります」
色を為して言う二階堂一尉を、福島二佐は諭す様に言った。
「ここは私の基地だ。いかなる理由があれ、此処を最後に出るのは基地司令官である私と決まっている。それに……」
防護服を捲り上げてベルトを締め直し、福島二佐は続けた。
「……此処にいる避難民全てが私を頼って此処に来たのだ。私は最後まで彼らの面倒を見たい」
もはや抗弁する余地は無いと、二階堂一尉には思われた。
「一人の脱落者も出ぬよう、我々は撤収を完遂する」
「車両、動き出しました!」
双眼鏡を構える民兵が叫ぶ。ニホン人が「ベース‐ソロモン」と呼ぶ広範な空間の終焉の始まり。その一部始終を見届けるに当たって、最も見晴らしのいい位置にセンカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートの在所はあった。双眼鏡の向けられた遥か先で、前進を始めた車両からは砂埃が舞い始めていた。あるいはその路肩にあって歩き始めた原住民によるものか?
「八時三十分きっかりか、律儀なものだ」
と、アルギス‐ゼレン‐ラス ノドコール共和国独立政府外務長官が、手にした懐中時計を覗きつつ言う。彼には無理を言って連絡機で此処まで来てもらった。当然、「ベース‐ソロモン」ことアリファ飛行場の引渡しに政権関係者、つまりノドコール共和国の代表者として立ち合ってもらうためだ。完全にニホン人が去り、アリファがローリダ人のものとなった時に彼にはあの飛行場に立ち、世界へ向けて「勝利宣言」を発してもらうことになっている。無論ロートの発案であった。その始まりに多少のいざこざこそはあっても、最終的にごく平和裏に全てが終わったならば、ニホン人はひとまず矛を収めざるをえまい――ロートはそう考えており、ラスもロートの意図に賛同した。
何故かというに、現状ノドコールはあくまで(一部の)ローリダ人にとっての生命線ではあるが、ニホン人にとっては取るに足らない異邦の地であるに過ぎないからだ。分別のある国ならばそのようなところに、何の見返りも期待できないような場所にわざわざ軍を送って血を流させる様な真似はしないだろう。三年前、捕虜として直にニホンという国の風土に触れた経験を有するロートは、ニホンを「そういう国」だと結論付けている。ニホン人と話し合いはするが、それが始まるまでにノドコールの占有という「既成事実化」を進めておく。それが今回の「戦役」にあたりロートが見出した「勝機」であった。
「東進中のニホン軍及び、その保護下にある原住民に攻撃を加えぬよう周知はしてあるな?」
ロートの問いに、一人の幕僚が背を正した。
「はい!……ただ、彼らの撤退ルート上に我が軍の部隊は存在しないのでその点は安心できるかと思いますが」
「そうかな……」
当初、ロート自身もニホン軍の列に付き添って、スロリアとの境界まで彼らの撤退を見届ける積りだったが、部下と、何よりもラスに止められた。部下はニホン人が翻意し同行者たるロートを人質に捕ること、あるいは彼らの指揮官が敵に肩入れしている様に同胞たる入植者たちに見られることを恐れたし、ラス自身は「ニホンの捕虜」というロートの経歴故、ニホンに対する彼の過度の配慮が、ニホンへの復讐心に突き動かされた本国の「出資者たち」の猜疑心を掻き立てるのを警戒――というより心配――したのであった。
「私の関知しない部隊が潜んでいるかもしれない。南ランテア社の傭兵やジョルフス閣下幾下の部隊とか」
ロートは傍らのラス外務長官を見遣った。政権中枢に属する彼を此処に呼んだのは、それらの部隊に対し睨みを利かせる存在としても期待し得るからである。如何に出来合いの新政権とて、統制の取れない政府をまともに相手にする異国が、この世界の何処にあるだろうか?――ジョルフス将軍、そしてあのガーライルとてそれぐらいは理解している筈だ。いや……ガーライル、あの並のローリダ人の枠を超えた様な所がある、あの空恐ろしい男ならばそれを判った上で――
『――いや、ないだろうな』――自分に言い聞かせるように、ロートは胸中に湧き始めた不安の泉を塞ごうと試みる。そのロートが眼差しを巡らせた先、撤退を始めたニホン軍により近い位置にあって彼らの列を見送るようにする人影がふたつ――
家庭用の携帯動画撮影機から広がる白黒の像は、カメラの映し出している世界をそのまま機材を構えるユウシナの瞳に映し出していた。小路を東へ向かう白色の巨大なトラック、それから少しの間隔を開けて路肩を歩き出す原住民の列、その彼らにさらに寄り添うように、背中に小銃を提げた兵士が原住民に歩調を合わせて歩き出している。いち民族の大移動を思わせる撤収の光景。それが始まった瞬間から、ユウシナはニホン人の動きに目を奪われて続けていた。撮影姿勢の関係から機材に密着しているが故に、フィルムを回す発条の音が耳触りだったが、それを無視できるほど少女は即製のカメラマンたるに徹し続けていた。
「――現在、ニホン軍の撤退が始まっています。整然とした移動です。この放送をお聞きの皆様には重々しい自動車のエンジン音が聞こえるでしょうか?……いま私の眼前をニホン軍の大型トラックが通過しています。ニホン軍のトラック……その荷台には原住民の女性や子供、そして老人が乗せられています。ニホン軍はその最後まで基地に逃げ込んできた原住民を保護することに決しました。これは一面では理解に苦しむ行為かもしれません。私たちの属する高等文明社会では、低文明圏の住民をここまで丁重に遇するのは考えられないことです……」
「…………」
イスターク‐エゼルの声には、情勢の転機を告げるに相応しい切実さこそ籠ってはいても、どこか空虚なその響きはさすがに隠せてはいなかった。少なくともユウシナにはそう聞こえた。しかしそれも無理のないことだ。エゼルは肩から提げた音声記録機に集音マイクを繋ぎ、それに向かい無感動と切迫感の入り混じった口調で独白を続けている。つまりは実況である。
しかし当のエゼル自身は隠し通せている積りであっただろうが、取材の対象たるニホン人に対する拭い難い警戒心――否、隔意をユウシナはこの異邦人の記者から感じ取っていた。エゼルには婚約者がいて、レオミラ王国軍の士官であったという彼は、観戦武官として赴いたスロリアでニホン軍の空爆の巻き添えに遭って死んだのだという……立ち聞きした民兵幹部たちの世間話から知った事実が、エゼルのニホン人に対する態度に抱いた疑念をユウシナから払拭させた。思えば自分もまた、そうしたニホン軍の間接的な被害者なのだ。
「――ニホン軍の移動が続いています。トラックだけでは無く、軽車両にも原住民を載せているようです。彼らはこれより如何なる運命を辿るのでしょうか? 果たしてニホン人は、彼らを如何に導く積りなのでしょうか……」
「…………」
映写機から顔を上げ、ユウシナは実況を続けるエゼルの横顔を見上げる。やっぱりこのひとはニホン人というものをわかっていない――ユウシナにはそう思われた。僅かな間ではあったが、ユウシナは此処ノドコールに来る前、とある成り行きからニホンの人々と行動を共にしたことがある。自分たちより文明の程度の遅れた異種族を、従属させるとか上から教え導くとかいう観念を彼らは持ち合わせていない。喩え育った文明圏の違う種族であっても、行動を共にする以上ニホン人にとって彼らは同志であり、対等な人間であるのだ。
「トモダチ」――あのとき、ニホン人の若い女医が教えてくれたニホンの言葉であり思想、当初は奇異に思えたそれが、実は共にこの世界に生きる者として必然の思考であることに、未だ幼かったユウシナが気付くのにそれ程時間は掛からなかった。だが、ユウシナ以外のローリダ人、そしていま行動を共にしているエゼルはどうだろうか?
「…………!」
映写機を構えながらも、背筋を撫でる空恐ろしい感覚にユウシナは身震いした。ローリダ人、そしてローリダと主義を共にする「高等文明圏」の人々の、ニホンに対する感情は決して良好なものではない。彼らは彼らの最良と信じる世界が破壊されること、あるいは彼らの最良と信じる世界の拡大が頓挫することを恐れている。あたかも泳ぐことを止めれば死んでしまう一種の魚のように脇目も振らず成長すること、競争すること、競争に敗れた者を支配し管理することがこの世界に舞い降りた彼らにとっての至上命題であり、そこへぽっと現れ忽ち彼らのパワーゲームの盤を引っ繰り返してしまったニホンという種族など、実のところ恐怖の対象以外の何者でもないのであった。今は秘めたままの彼らの恐怖。それが何時の日にか具現化し、あの優しいニホンの人々の前に立ちはだかる日が来るのだろうか? そしてその日が実際に来た時、如何なる混乱がこの「新世界」に繰り広げられることになるのであろうか?――
「――これにて実況を終わります……以上、レオミラ王立通信社のイスターク‐エゼルがお伝えしました」
その後に実況の場所日時を語るエゼルの声が続き、音声記録機のテープが止まる音が続いた。完全に基地の敷地を脱したかつての守備隊の列、その最後尾にあって自分たちを凝視している……否、自分たちに向かいカメラを向けている人影にユウシナは気付く。服装からして軍人では無い、カメラマンだ。旅を共にする原住民の子供たちを引き連れたその長身のニホンの青年は、微笑みつつ此方に向かい、恐らくは映像記録機と思しきカメラのレンズを向け続けていた。それに撮影機を向けつつ、ユウシナは手を振り会釈する……
「ユウシナ、止めなさい」
エゼルの声は小さかったが、少女としてのユウシナの感性に委縮を与える響きを有していた。撮影機を止めてユウシナはエゼルの許を見遣る。何も語らない背中が、彼女の天幕へ向かいユウシナから遠ざかろうとしていた。
朝まで滑走路の傍に在った車列が一斉に動き出し、それは双眼鏡越しの眼前でアリファ飛行場を構成する一角から離れて行く。基地明け渡しの様は、アリファ飛行場の北に在ってそれを眺める北方包囲軍指揮官 ロイデル‐アル‐ザルキスの目からしても余りに淡々とし、包囲の始まりからその終わりまで上手く行き過ぎているように見えた。もし彼らの指揮官にローリダ人たるに相応しい積極的な意思があれば、容易に追撃を掛け、彼らにとっての敵を殲滅し得る状況――覗いていた双眼鏡を下し、ザルキスは背後に控える彼の部下を顧みる。
「準備は出来ているか?」
「はい、すでに一個大隊を先行させてあります」
部下の顔に表情は無い。そこに軍用地上車で走り寄って来た部下がもう一人、停止させた車から飛び降りてザルキスの許に駆け寄ってきた。
「司令官閣下、キビルより閣下宛に電文です」
「…………」
差し出された紙片を、ザルキスは目付きも表情も変えずに黙読する。指揮官の様子に、先刻の無表情を怪訝さに転じた副官を再び顧みた時には、ザルキスは普段は堅く閉じたままの口元に薄らとした笑みを浮かべていた。
「ルイト司祭は何処だ?」
「司祭の支持者と共に、我が陣後方に待機させております」
部下に向かい顎をしゃくり同道を促す。地上車ではすぐの距離であった。ザルキス指揮下の北方包囲軍の後背、ロートの位置する本部からは丘陵に阻まれて見えないその場所に、彼らは予め集合させてある。武装した植民者、そして「旅行」や「就労」を名目に本国から続々と入国して来た義勇兵から為る陰性の覇気漂う一団――ザルキスを乗せた軍用地上車は彼らの群を割り、台上に在って説教を続けるランデナス‐ガ‐ルイト従軍司祭と彼の足許、司祭の支援者の控える一角で止まった。その軍用地上車に続いて止まる、軍用トラックがさらに一台。トラックの荷台に貼られた旗、その中心を彩る紅い蠍の紋様が、ザルキスの眼にやけに印象付けられた。
『――もはや議論の余地は無い! 神は行動を望んでおられる!』
声を普く伝える一方で、発言者から発音の奥行きを奪う拡声器を通してでも、ルイト司祭の説教に込められた情熱を奪うことは出来なかった。群衆はただ沈黙と眼差しを台上の聖職者に向け、聖職者は群衆の耳目を受ける彼自身に酔っていた。
『――不照の世以来、キズラサの神が創り賜いし大地は神を信じ、神に無限の忠誠を尽くす者たちによって耕されるのが世の習いであった。従って大地の恵みもまた、信仰篤きキズラサ者の有する処となるのだ。否、そうでなければならない。
原始、キズラサの神は人に地上の恩寵と支配を約束されたのと同様、人が信仰を忘れることの無きよう試練の到来も約束された。我らキズラサ者は今まさにその試練に直面している。地上における神の代理人として私ランデナス‐ガ‐ルイトは訴える。今この地ノドコールに在って信仰を持たぬ異邦人は、喩え彼らが人の形をしていようが全てが障壁である。麦の穂を食む蝗のごとき、山羊を盗む虎狼のごとき障害であるのだ。
我らの信仰のために、我らの孫子の信仰のために、全ての試練は克服されねばならぬ。全ての障害は掃滅されねばならぬ。あなた方には思い返してもらいたい。かつて三百余年前、ローリダ群島に導かれし巡礼始祖たちが長じて信仰無き原住民を逐い、神の土地を取り戻したことを。あれもまた試練であった。あの時の様に三百余年後の我らも試練に打ち克たねばならない。
キズラサの神は、我らが神に対する信仰を貫き、天与の地を守る意思があるか否かを試しておられるのだ。試練は我らの魂が神の王国に召される秋まで続く。全てのキズラサ者は試練に打ち克ち、悪魔を滅ぼさねばならない! 神は我らが信仰を試さんとしておられる。即ち信仰無き獣より神の土地を取り戻し、信仰無き者共が再び大地を踏み躙ることの無いようにせねばならない! 今こそまさに起つべき秋である。角笛は今まさに鳴らされん。キズラサ者は軍民の別なく並べて戦に臨むべし。いずくんぞ神の導きに従いて蛮族を討たざらんや!』
「原住民を殺せ! ニホン人を殺せ!」
拳を振り上げ、入植者の青年が怒声を張り上げる。「約束の地」を侵犯された怒りと、それを奪われることに対する恐怖――それらは忽ち群衆に拡がり、武器を手に集った人々に向かいどころのない闘志を喚起するのであった。
「蛮族に死を! 異教徒に神の業罰を!」
「キズラサ者よ、銃を執れ!」
気分の高揚に任せて拳や銃を振り上げるまでならまだいい方で、天に向けて引鉄を引く者までいる。単発の猟銃、連発式の軍用銃の発砲音が一帯に重複し、本来ならば民間人の保有には制限が科される筈の短機関銃の連射音までが群衆の各所から聞こえ始めた。植民者にとって銃は、ローリダの開拓者精神の象徴であり、彼らの生きる正統性を、武器を持たない他者に対し声高に主張するための方法なのであった。決起の切欠は与えた。あとは彼らに銃を向ける先を示してやればよいのだ。
『鎮まれ! 私は独立軍北方軍指揮官のザルキスである!』
拡声器に乗って、ザルキスの声が響き渡る。それは司祭の傍らに現れた軍服姿の男達に、群衆の関心を転じるのに十分な声量と意思の響きだった。
『慈悲深きキズラサの神の御名において、これより君たちに餞別を与える。これは我らが臆病なる総司令官の浅慮により一切の戦闘を封じられた我ら軍人の、神の僕たる義士に対する精一杯の厚意である。どうか君たちには、清浄なる植民地建設のために、我々の分も神の事業に精励してもらいたい!』
拡声器を構えるザルキスの傍らで、兵士がトラックから下された木箱を開ける。中から取り出され、天高く掲げられた物体を前にどよめかない群衆はいない。装備に関しては自弁同然の植民者には全く行き渡っていない対戦車ロケット砲だ。それを掲げる副官の傍らにもう一人の士官が立ち、声を張り上げた。
『こちらに分隊用機関銃、無反動砲も用意してある! 供与は従軍経験のある者、使い方を知っている者を優先する! なお、希望する者には軍用の小銃も与える!』
「――――!」
感情の雪崩が生じ、次には眼を血走らせた男達がトラックの前に殺到する。これでいい――配布される軍用火器を、嬉々として両手に受け取る植民者たちを見遣りつつ、ザルキスは自分の口元に残忍な笑みが生じるを抑えられずにいた。
ノドコール国内基準表示時刻12月29日 午後1時34分 ノドコール中部
傾斜の緩い坂の頂点に達したところで、木佐 慎一郎は彼がこれまでに歩いた道を顧みた。道、と呼ぶには彼らがこれまで通って来た道と、路外の両側に広がる平原と丘陵の連続との境目は明確では無く、これまでの時間を、ただ車が通ることのできる、という根拠に従い避難民の列は東へと進んでいる。
「おじさん、どうかしたの?」
家財道具を収めた篭を頭に抱えた少年が、怪訝な眼で木佐を仰いだ。彼の周りに付き従う、先祖伝来の衣装もまちまちなノドコールの子供たち。その数は多く、彼らが取巻く異邦人が子供たちの人望を集めていることを傍目にも伺わせることができた。あるいはニホン人というものが、単に珍しく見えたのかもしれない。
「いや……」
微かに口を開いて応じ、木佐はおもむろにカメラを取り上げた。起動させたそれをこれまで辿って来た道に向ける。途端に周りが騒がしくなり、撮影を求める子供たちがレンズの方向に群れては笑顔で手を振る……その様は、木佐がこれまで足跡を標した異世界のどの土地でも変わることのない風景であった。この世界、子供たちは彼らの属する国、種族の別なく珍しく、そして新しいものが好きだ。
通り過ぎた風景から子供たちにレンズを向ける。彼らの多くが親兄弟に伴われてベース‐ソロモンに逃れてきたが、中にはやはりそれらを失って来た者、家族で基地に辿り着いてもやはり事故や爆撃でそれらと死に別れた者もいる。三年前のスロリアでも繰り返された光景。此処にはいない大人たちの都合で起こった戦争。だがカメラの前で笑う子供たちは、それに怒りも悲しみも見せず、レンズの狭い世界の中で気丈に彼らの未来を見据え続けている。
カメラが廻り、車列の最後尾を守る自衛隊の重装輪トラック、それに続く高機動車の後部を捉える。脱落者が出ないよう避難民の移動を見守り、歩けなくなった者を保護するのが彼らの役割だった。高機動車の開放された荷台には無線機に取付いた隊員がいて、遥か前方にあって列の掌握に当たっている本部と緊密に連絡を取り合っている。スロリアとの境界を越えるまで、このような風景があと一週間あまり続くことになる。列の移動速度は遅く、そしてこれからの道のりは険しい。だが一筋の光明はある。既に司令部はスロリアの部隊と連絡を取り、スロリアの部隊もまた支援に動き始めている。その一環としてスロリアに展開する第三国の平和維持部隊が独立派の同意を得次第境界を越え、支援に取り掛かる準備を始めているという情報も入っていた。ローリダ人独立派も、スロリア情勢に無関係の他国の、それも非武装の部隊を襲う様な暴挙には出ないだろう……徒歩で東に向かう列が完全に前へ行き過ぎたのを見届け、それまで前進を止めていた高機動車がゆっくりと動き出した。
「……さあ、行こうか」
カメラを収めて、木佐は子供たちに進む様促した。小学校の遠足宜しく談笑しながら歩き出す子供たちの一団。同じく徒歩で進む自衛隊員もまた、彼らの様子を見守っているのに木佐は気付く。道を進む車両。その両端を歩く雑多な人々の列……昔、先輩格のカメラマンに聞かされた「前世界」の紛争地帯の様子を、木佐は脳裏でそれに重ね合わせた。日本人は新たに与えられたこの世界に、不安と同じく希望をもそこに託した筈だが、希望はいまや消滅の危機に瀕している。
しかし今は歩こう。歴史の大きな流れから見れば僅かな一歩だが、それでも動いている限り希望はあると木佐は信じたかった――
「――――!」
高機動車の自衛隊員が、無線機を取り落とし荷台の床に倒れ込むのを木佐は見た。まるで見えない力で押し倒されたかのように――倒れた自衛隊員の表情からは感情が消え、直後に荷台を滑る様に流れ出す血。運転席の隊員の顔が驚愕に歪み、直後に彼もまた計器盤に叩き付けられるようにして動きを止めた。噴き出した鮮血がフロントガラスを朱に染めた。
「道から出ろ! 森に隠れるんだ!」
木佐は子供たちに叫び、腕を振り上げた。コントロールを失った高機動車が道を外れ、烈しく岩場に乗り上げて止まる。その時には混乱は一気に避難民に伝播し、列を守っていた秩序はその足元から崩壊を始めていた。自衛官の制止を振り切りまちまちの方向へ走り出す人々、何時しか弾丸が空を切る音が聞こえ、それにあからさまな銃声の重なりが続いた。さらには――
「――――!?」
高機動車の前を進んでいた重装輪トラックが跳ね上がり、それは直後に炎の塊と化した。火の手が回る前に運転席から飛び降りた隊員が二人、だが直後に彼らはほぼ同時に被弾し倒された。避難民を誘導しつつ手近な木陰に駆け込み、木佐はカメラを回す。カメラレンズの前で銃声の連なりと同時に避難民の死傷が加速度的に増え、やがては烈しい着弾の衝撃が周辺を揺るがし始めた。迫撃砲だと木佐は直感した。重く空を切る弾丸の響きは木佐の眼前で次々と火の柱を噴き上げ、衝撃でなお生き残っていた避難民、そして自衛隊員を弾き飛ばした。逃げ惑う避難民を掌握する一方で、僅かな数の自衛隊員の応戦が始まる。しかし彼らの置かれた状況と地形は、彼らには正当防衛を展開する上で明らかに障害となっていた。一人、また一人と撃ち斃され、あるいは着弾の衝撃で倒れ込む自衛隊員――突き動かされるようにカメラを転じた森の方角で、木佐の表情は強張った。
「敵……!?」
高地の優位を生かして射撃を続けつつ森の隙間を縫い、此方に迫って来る影を木佐は見出す。現地人の服装をした者がいる。それに混じり――否、彼らと同じ数だけの……あれはローリダ人の服だ。
「もう隠すまでもないってことかよ……!」
毒付きつつ、木佐はカメラを回し続けた。カメラを回し続ければ回し続ける程、破壊と殺戮が加速して行くように彼には感じられた。夢なら醒めて欲しいと本気で思った。
「――逃げて! 早く逃げろ!」
「――衛生兵! 来てくれ!」
「――二時方向より敵兵多数!」
「――装填ッ!」
日本語の怒声が聞こえる。避難民に退避を促す自衛隊員の、それは心からの声であった。それを嘲笑うかのように連続する砲撃の着弾に号令と統率は掻き消され、決して広くない道は、硝煙と炎、そして混迷の支配する巷と化していく。それに比例するように周囲から生きている人間の気配が消えていくのを木佐は感じた。何処かから、子供の泣く声がした。
「…………」
思い詰めたような表情で、木佐はカメラを岩場の陰に置く。草木で巧妙に隠蔽したそれが、襲撃の光景を余すところなく俯瞰しているか否かを手早く確認し、木佐は元来た途へ駆け出した。死体に埋まった道、その中には男女の判別すら付かない状態のものまである。それに混じって倒れたまま動かない自衛隊員の姿。守るべき避難民に比して彼らの数は圧倒的に少なく、そして迫り来る敵に対しても圧倒的に劣勢であったが故の、それは末路であった。派手に横転した高機動車の傍らを通り過ぎた先で、やはり被弾し大破したトラックの陰で逃げ遅れた子供たちが蹲っているのを木佐は見出す。その彼らに取巻かれるようにして、倒れたまま動かない自衛官には見覚えがあった。
「二階堂さん!!」
「お兄ちゃん……お兄ちゃん!」
ノドコールの少女が、動かない二階堂一尉の身体を揺する。ズタズタになったボディーアーマーと破れ目から大量に滲み出る血から、木佐は衝撃と共に全てを察した。
「二階堂さんまさか……!」
「くそっ!……いいとこ見せようとしてこのザマだ」
手榴弾による負傷であった。投げ込まれた手榴弾から身を呈して子供たちを守った代償として彼は傷付き、そして混乱の内に生を終えようとしている――
「ばかやろう……!」
呻くように叫び、木佐はアーマーを剥がそうとして愕然とする。ボディアーマーという抑えが消えたことで出血が激しくなっている。さらには傷の中身が、たとえ此処を脱しても助け様が無い事を木佐に示していた。反射的に傷口を抑える木佐の手を握り、二階堂一尉は叫んだ。
「早く行け!……この子たちを連れて此処から離れるんだ!」
「…………」
困惑と逡巡を隠し切れない木佐のすぐ傍を複数の弾幕が交差し地肌と小枝を抉る。狭まりゆく包囲網の中で凍りつく子供たちを見遣り、木佐は意を決した。
「此処から離れるぞ! ついて来い!」
南からは襲撃者は来ていないと木佐は思った。しかし生残りの現地人を連れて道を跨ぎ、森に分け入る途上でも北と西から迫り来る気配を感じることができた。それは日本人ともノドコール人のそれとも異なる重い気配だった。その気配に自分たちの現在と未来は明らかに包囲され、まるで狩りの獲物のように追い込まれつつある――低木の茂る山間を逃げる人々を先導し暫く進んだ後、木佐は付き従う人々を顧みた。
「君たちは先に逃げるんだ。南へ行け。じきに助けが来る」
「おじさんは?」
涙に目を腫らしたノドコールの少女に、木佐は白い歯を覗かせて笑い掛けた。もう言葉は掛けなかった。
「早く行け! 早く!!」
声をからして前進を促す。人々から離れて元来た途を辿り、ひとり木々の茂みを抜けた先――
「――――」
灰色の雲が蒼空を覆い始める。雨すら降り出していた。為すべきことも、発すべき言葉も、木佐 慎一郎には既に見つからなかった。炎とかつては車であった鉄屑……希望へと通じる筈であった旅路が、未来を失った人々の支配する沃野と化したことを青年は知る。そして今や骸と化した人々から永遠に未来を奪った所属不明の敵――
「――動くな」
再び茂みを抜け、道へ出た木佐はそこで歩を止めた。ローリダ語の発音と同時に向けられた銃口の数は多かった、とっくに一帯が自衛官でもなければ現地人でもない異形の集団の占める処となっていることを、木佐は今更ながらに実感する。脱ぎ捨てられたノドコールの民族衣装が、現地民を装った彼らにもはや自分たちの素性を隠す必要を感じさせていないことを、木佐は察した。
「…………」
ローリダ人と思しき人種の男が向ける銃を、木佐はまじまじと凝視する。自分の知る限りではローリダ軍制式の銃では無かった。否。それどころか自衛隊の保有する小銃にもこのようなものはない。長方形の箱にホロサイトとグリップを付けただけの平坦な外見。但し銃のデザインには見覚えがあった。
「リゲリオン自動小銃……!」
木佐の脳裏で先年、異国の兵器博覧会を取材した時の記憶と眼前の銃の外見が重なるのと、それが信じられないという衝撃が突風のように襲い来るのと同時だった。向けられた小銃の一角から発する赤い光線が木佐の網膜を掠め、木佐は眼を灼かれまいと反射的に顔を逸らす……レーザー照準器だ。ローリダ軍にこんな「高級」な装備なんてある筈が無いのに――背後に回った兵士が銃床を振り下し、木佐は身構える間もなく心身の衝撃から姿勢を崩して膝を付いた。
「――――!!」
跪いた木佐の腕を、抗い難い力が強引に捻じり上げて背後に回す。次には引き摺り上げる様に立たされ、木佐は前進を促された。ローリダ人があれを持っているなんて……あれは、リゲリオン銃は、確か開発元のグナドス王国でも未だ軍への配備が始まったばかりの最新型小銃の筈だ。薬莢の無い専用弾を使うそいつは、構造上射撃後の排莢という手順の省略を狙ったものであり、結果として短機関銃並みの発射速度と小銃並みの有効射程を両立させている……そのリゲリオン小銃を、ローリダの民兵が持っている?
「二階堂さん……!」
引き摺られていく途上、手榴弾から避難民を庇い死に瀕した二階堂一尉の変わり果てた姿を木佐は見出した。完全にこと切れた彼の周囲に民兵が集り、二階堂一尉の死体から装備を引き剥がしに掛かっていたのだ。それは二階堂一尉一人だけでは無かった。斃れた自衛隊員や現地人を囲み、戦闘では無く遠足にでも赴いたかのような騒ぎが各所で始まっていた。取材で赴いた様々な紛争地帯にお決まりの光景。統制の無い武装集団に付きものの、「戦利品漁り」の光景そのままだ。
「見ろよ」
一人の民兵が二階堂一尉から剥ぎ取った装備を見せびらかすようにした。銃剣だと言う直感は当たった。無邪気に笑う民兵の顔は醜いがあどけない。まだ18歳にも達していないかもしれない。
「ニホン人のナイフだ。こいつでニホンのパンを切ろう」
「何て事を!――」
頭に上った血の促すまま、二階堂一尉の方に一歩を踏み出そうとした木佐の背に銃床が再び振り下される。苦痛に耐えるあまり動きの鈍った木佐を、民兵たちは後ろから殴り付けさらに先へと引き立てて行くのだった。その引き立てられた先で、木佐は彼自身の精神の均衡を揺るがさんばかりに愕然とする。生き残りのノドコールの避難民たち。逃げ遅れ、あるいは傷付いた身を数珠繋ぎに縛られて元来た西へと引き立てられていく人々の列――
「原住民は殺すな!……貴重な商品だ。競りはアリファで行うからな」
「…………!?」
民兵指揮官の声が飛ぶ。その傍では受傷し歩けないノドコール人に対する銃撃が始まっている。黙々として、あるいは嬉々として殺害に参加するローリダの民兵たち、中には貴重な弾薬を使うまでもないという風に急所に銃剣やナイフを突き立てる者もいる。ローリダ人にとって「戦闘」という名の殺戮は終わったが、「選別」という名の殺戮は未だに続いていた。「捕虜」ではなく「家畜」を得るための選別――それらを目にするうち、怒りとも絶望とも区別の付かぬ混乱を木佐は覚えた。さらに挽かれて進んだ先で、木佐は傷付きながらも未だに生を繋いでいる同胞の姿を見る。戦闘を生き残った自衛官の数は木佐が想像したよりも多かったが、それでも十名を出ていなかった。しかもその半分が、既に自分の意思では動けない身体になっている。
「司令官は? 福島司令官は?」
「戦死されたよ……酷いものさ」
彼自身、頭に深い傷を負った幹部は苦り切った顔で木佐に応じた。隊列の中央に在った福島司令は、彼自身銃を執って避難民の退避を援護したものの、その勇気ある行為自体が、軍人としてもいち個人としても彼自身の命脈を著しく縮める結果に繋がった。前面に出て部隊に指示を飛ばす彼の振る舞いは、当然のように民兵に紛れていた狙撃兵の注意を惹き、その一発目で彼は身体の自由を奪われ、二発目で止めを刺されるに至ったのだ……協定に安心しきっていたこともそうだが、避難民の列が広範囲に広がり、それを守る自衛隊の隊列も避難民の脱落を防ぐために小部隊ごとに分散していたことが、彼らから行動と戦闘の自由を奪う結果をもたらした。襲撃者たちは数の優位と地の利を生かしてその小部隊を個々に包囲し、抑えた敵に対し集中砲火を浴びせるだけで全てを終わらせることができたのである。一様に首を垂れる生存者の中でただ一人呆然と顔を上げていた木佐の眼前に、想像だにできない種類の人影が現れたのは、まさにそのときであった。幹部と思しき軍服姿を引き攣れた髭面の大男。その服装もまた、紛うこと無きローリダ共和国国防軍の軍装であった。男は木佐たちを一瞥し、部下を顧みることなく口を開いた。
「ニホン人の生き残りはこれだけか?」
「そのようです」
大男の目付きが変わるのを木佐は察した。勝利の自覚、あるいは虐げるべき獣を見出した純粋なる癒悦の眼差し、傍らの幹部が立ち上がれぬままにそのローリダ人を見上げ、そして睨んだ。
「何故こんなことをする!?……協定違反じゃないか!」
「我がローリダでは、協定やら契約やらとは、信仰を同じくする者同士で交わすものだ。異教徒のお前たちは違う」
「キビルにいるお前の上役を呼んで来い。お前ごときじゃ話にならん」
「――――!?」
大男の表情が一変した。瞬間湯沸かし器を思わせる豹変ぶりであった。短剣の一閃が幹部の喉を横断し、直後には鮮血の奔流と苦悶の内に息絶えた自衛官の骸が大地へと投げ出される。
「お前……!」
驚愕と怒りを絶句に変え、木佐はローリダの指揮官を見上げた。軍服で短剣の血を拭いつつ、男は言い放った。
「ここは我々の土地だ。お前たちに分け与えるべき何物もここには存在しない」
「日本人は黙っていないぞ……!」
「これは神の御意志だ。正義は我らにある。その事をいま此処で我らは証明する!」
男は部下に目配せした。背後に回った民兵がロープで木佐の首を締め上げて強引に引き摺る。呻き声を上げてそれに抗う木佐は、自分がこれから先、二度とそこから戻れない場所へと送られるのだと悟りつつあった。息を継ぐ途を断たれ意識と共に薄れゆく木佐の聴覚に、指揮官の傍に立った民兵が報告する声、そして上機嫌に部下に応じる指揮官の声が聞こえて来た。死処へ引き摺られる身では、それらもいずれは永遠に耳に届かなくなるだろう――
――もう戻れない道、生きている者の影が完全に消え去った道。
――それはまた、より先に向かうべき道が絞られた瞬間。
――道の在った場所。その所々から立ち上る黒煙の下から、人間の気配が消えつつあるのをダミアは感じた。ローリダ人と傭兵が、彼らの仕事を終えつつあることを彼女は悟った。一部始終を伺って――否、見届けていた森の高台から腰を上げ、ダミアは森の切り開かれた先へと降りる。彼女に付き添っていた護衛の戦闘員が、慌てて彼女の後を追う。
ダミアは美しく、若い女であった。あるいは少女と形容してもいいのかもしれない。長く青い髪に白い肌、先端の尖った耳を有する亜人種の女、細く締った体躯は、弾倉の収まった装帯以外にはその首から爪先に至るまでを黒い繋ぎで覆っていて、服は引き締まった腹筋と括れた腰、丸く張った胸、そして豹のそれを思わせる長く流麗な脚線美すら輪郭として鮮烈なまでに浮かび上がらせていた。顔立ちに個性は無く、むしろそれ故に形のいい頬や顎、そして円らな眼、高い鼻筋が造形するダミアの美貌を、他者に強く印象付けさせる効果をもたらしているとも言える。但しその横顔に一変の柔和さもなかった。瞳の色はそれ一色を塗り付けたかのように蒼く、中心に収まった黒い瞳孔は、生者のそれと思えぬほど小さく、その意味では見る者に息を呑ませた。
高台の麓で待っていた武装兵、通信機の様な機械を背負った男をダミアは口笛で呼んだ。駆け寄ってきた彼から送受話器を受け取り、繋げるべき回線コードを告げる。グナドス製の携帯衛星電話だ。一定のパルス音が受話器の向こうで連続し、次には静寂と人間の気配をダミアは耳に感じ取る。無言は、ダミアに発言を促していた。
「武器は全て引き渡しました……もう終わっている頃合いでしょう」
『――これでニホン人はノドコールに正面から、それも全力で向き合わざるを得なくなる。そこにまた、新たな隙が生じる』
「……ご指示通り一個小隊をヴァミルカルの防備に残しましたが、宜しかったのでしょうか?」
『――それでよい。ニホンの鼠狩りには十分な人数だ』
「…………」
沈黙からダミアが納得していないことを、相手は明らかに察していた。
『――ダミアはひとまずサン‐グレスへ戻れ。おまえにはルタス総督と協議の後、追って新たな指示を与える』
「ハイ」
了解の意を示すのと同時に、ダミアは手を上げた。直後、静寂の支配していた一帯は、指揮官たる彼女の合図に従い起動したレシプロエンジンの爆音の支配する巷と化す。飛翔に備えて回転を刻み始めた回転翼機の翼。迷彩された軍仕様のそれと明らかに異なる、銀色のジュラルミン地肌の胴体に刻まれた南ランテア社の社章、その上に重なる蠍の紋章は、回転翼機が「国営商社」南ランテア社の傭兵部隊に所属していることを示していた。
『――ダミア……わかるか? 世界が私に囁くのだ……』
「…………」
『――……壊せ……壊してくれ、と』
「わかります……主席商館長」
彼女のために解放された回転翼機のキャビンに向かい、通話を打ち切りながらにダミアは歩く。何時の間にか彼女の後には、その出所すら定かではない武装兵が群を為して付き従っていた。彼らの武装はローリダのそれでは無く、個々人の装具もローリダのものより重厚で、機能的な出で立ちを誇っている。
「フフ……」
自身の口元に宿りつつある打算めいた笑みを、ダミアは自制する必要を認めなかった。
あと二回を以て、EpisodeⅡの連載を終了します。