第一三章 「包囲の終わり」
ノドコール国内基準表示時刻12月28日 午前10時30分 ノドコール中部 アリファ飛行場
SAGS―――Special Assistance Group, Surrolia スロリア特別援助群司令部呼称「ベース-ソロモン」
着弾――――放たれた砲弾は放物線状の軌道の頂点を過ぎた後、重力の導く加速に任せるがまま大地を貫いた。
包囲されてから最初の一撃は、ごく自然の流れの様にローリダ側から発せられた。アスファルト敷きの複合滑走路のど真ん中に着弾した砲弾は、炸裂と同時に地面を揺るがし、その振動の烈しさはその場の誰よりも、滑走路の周辺に身を寄せ合う避難民たちを驚愕させた。振動はそれから逃れる術の無い群衆に精神的な動揺を生むに十分な烈しさを有していた。それから一分間に一発の間隔で砲撃が始まり、撃ち込まれた合計8発の砲弾は、それが大口径の榴弾砲の仕業である事、それが2000メートル級滑走路一本を10分程度の内に使用不可能にしてしまうのに十分な威力を有することを図らずも証明し、その後には嵐が過ぎ去ったかのような、気の抜けた静寂が訪れる。
「――――第一滑走路、使用不可能となりました!」
「…………」
部下からの報告を、スロリア特別援助群司令 二等陸佐 福島 正威は飛行場に隣接する司令部オフィスで聞いた。本来ならば、事あるに備えて半地下式に埋設された専用シェルターで報告を受けるところを敢えて常設の指揮所に居座ったのは、為す術なく敷地内に身を寄せた非難民に対する手前、基地の責任者としての我が身を、彼らの眼の届く範囲内に置く必要を感じたからでもあるし、この攻撃が所詮は派手な「ブラフ」であるという確信を、既に多方面よりもたらされた情報を元に有していたからであった。その一方で攻撃に晒された基地司令官として為すべきことも彼は既に為している。つまりは副司令の多賀 三等陸佐と幕僚の半分を専用シェルターに詰めさせ、一度に指揮系統を喪失する危険を分散させている。
「避難民の退避完了報告はまだか?」
と、飛行場の周辺を標した地図を睨みつつ福島二佐は聞いた。と同時に地図から顔を上げた彼の眼が飛行場に面した窓ガラスに向く。特注の防弾ガラスは着弾の度に烈しく振動していたが、今のところ罅一つ入った様子も無い。
「報告まだ」
「遅い」
にべも無く部下の報告を撥ねつける様なもの言いをし、福島二佐はその部下を見遣った。陸上自衛隊制式の野戦服姿、それがしっくり来ない彼の外見が痛々しく思われた。若い幹部は強張った表情もそのままに彼の上官を見返していた。階級は二等陸尉、幹部学校を出て未だ間も無いか――――強面から一転し白い歯を見せて笑い、福島二佐は言った。
「君、避難民の収容区画まで言って様子を見て来てくれないか?」
「はっ! これより収容区画まで向かいます!」
「緊張するな。敵はもう撃って来ん。車を使ってひとっ走り行って来い」
「はっ!」
断固とした司令の口調が、死地に向かう青年の青白い顔に生気をもたらしたのは誰の眼にも明らかだった。疑問を差し挟む余地も見せずに踵を返し外へ駆け出した若い幹部を見送りつつ、幕僚が怪訝な顔をした。
「司令、どうしてお判りなのですか? 敵がもう撃って来ないと……」
「まず状況を説明する。地図を見てくれ」
幕僚の注意を地図に集中させ、福島二佐はその一点を指し示す。「ベース‐ソロモン」の西方、それは小高い山だった――――
――――現在もノドコールの何処かで情報収集活動中の現地情報隊からの報告に基づく情報ではあるが、ローリダ人の分離主義者――――ノドコール独立軍――――は西方の山頂に榴弾砲を据え付け、そこから飛行場へ向け砲撃を行った。実体は民兵の寄せ集めで碌な砲兵戦力を有しない筈の民兵が、その練度に似合わない正確な射撃を成功させたのは、事前に飛行場の位置と砲までの距離の算定を終えていたからであろう。事実、避難民の中に紛れた内通者、あるいはローリダ人と思しき外部の人間が、飛行場周辺を徘徊し弾着修正用の座標を作成していた痕跡が部下から報告されている。
しかし、敵の目的は飛行場の完全なる破壊ではなく、そのために必要な弾薬をローリダ人は持ち合わせていない。今次の包囲戦における彼らの勝利条件は飛行場の占領と再使用にあり、弾薬もその集積所が先夜の事故で爆散してしまい、未だ健在な集積所は比較的遠方に存在している……つまり、包囲軍への武器弾薬の供給は一時的に途絶してしまっている。これらの事実から導き出される敵の意図は――――
「――――つまり、敵の意図は我々に圧力を掛け、我々が自ずと此処を明け渡す様に仕向けることにあるというわけですか?」
部下の言葉に、福島二佐は頷いた。
「その通りだ。厳密に言えば我々にではなく、此処から遠く離れた東京に対して……かもしれないがな」
「『ロメオ』のやつら、本当にそこまで見ているものなのでしょうか……」
「みなとは言わないが、見えているやつがいるんだろうな。現地情報隊でもそう言っている」
一人の幕僚が地図から顔を上げ、福島二佐に言った。
「しかし……友軍とはいえ信用できるのでしょうか?」
幕僚の口調には戸惑いがある。指揮官に対する異議を表すものではなかった。彼は福島二佐に伴われ過日の現地情勢検討会議に同席している。そこには会議の主催者たる西原外務省駐在連絡所所長の他、当の現地情報隊の指揮官もまた同席していて――――
「――――現地情報隊の隊長はおれの友人だ。口は悪いが仕事はできるし信用もできる」
「あのひとが……ですか?」
唖然とする部下を、福島二佐はわざと不機嫌な表情を作って咎めて見せた。しかし、その部下ですら今でも鮮烈なまでに思い浮かべることが出来る現地情報隊の隊長の異相に接する限りでは、信じろという方に無理があるのかもしれない……内心で苦笑する福島二佐が再び地図に向き直ったそのとき、シェルターに直結する内線電話が不快な着信音を発し、即座に送受話器を取った幕僚の顔から血の気がさっと引いた。
「管制レーダーより報告! 基地北西より所属不明機二機が接近、あと五分で基地上空に到達する模様!」
「何……!?」
報告を受ける福島二佐の顔に焦燥が浮かぶ。それは一連の緊張状態が始まってから初めてのことであった。
「―――――――!!?」
烈しい音が聞こえた。先刻と同じく空から聞こえて来たそれは、榴弾砲弾が落下する時特有のあの重々しい滑空音では無かった。絶対に地上には降りて来ない音だ。飛行機か? と直感するのと同時に、木佐 慎一郎はカメラを手に狭い退避壕の中を外へ向かって走り出した。
板敷きの床、その両端で身を寄せ合う避難民が木佐の順調な疾走を妨げる。不安定な足元に持てる均衡感覚の全てを発揮し、つんのめる様にして外へと駆け出す。冷たい外気に乗って、金属的なジェットエンジンの響きが雲間から轟いて来た。木佐の知る日本の飛行機では聞いたことのない、甲高いエキゾースト音だ。
顔を上げて雲海の広がる蒼穹へと視線を巡らせる。爆音は雲間を割り、木佐はその源を北の方向と目算を付けた。予測は雲間を抜けて此方に向かってくるひとつ……否、ふたつの黒点を見出したことにより木佐に報いた形となった。
黒点に向かいフルオートに設定したシャッターを切る。その間も黒点は避難区域の上空にまで迫り、それは太い胴体に分厚い直線翼を組み合わせた機影となって木佐の上空を舐めて再び上昇に転じた。それからワンテンポ遅れて避難所の向こうから火柱が立ち上る。振動が地面を揺るがし、その烈しさは無理な体勢から機影を追っていた木佐に尻餅を付かせた。
「イテッ!」
爆弾の着弾音に数知れぬ悲鳴と怒声が重なる。そこに秩序を持った騒がしさが加わる。基地の駐留部隊が被害確認に動き出したのだと木佐は直感する。今なお炎の揺らぎの収まらぬ着弾現場を見上げ、歩を速めようとした木佐の眼前で高機動車が急停止し、運転していた戦闘服姿が声を張り上げた。
「外に出るな! 早く退避壕に戻れ!」
若い幹部だった。木佐は咄嗟にプレスカードを掲げ、脱兎の如き素早さで高機動車の元へと駆け寄った。
「えっ?……日本人!?」
「着弾地点まで行くんでしょ? 乗せてって下さいよ」
そう言ったときには木佐はすでに助手席に腰を下している。不意に助手席に坐り込まれた幹部からしてみれば、怒声を上げて降ろすことはもはやできなかった。もっとも、昨日今日ここに赴任して来たという感じの若い幹部に、そのような貫禄などあろう筈が無かった。それを見越した木佐の態度に呑まれた幹部は、ハンドルを回しつつアクセルを踏み締める。サスペンションの威力か、高機動車は舗装の悪い交通路を滑らかに進み出し、一方で助手席の木佐の目は「ベース‐ソロモン」上空を航過した二機の行く先を賢明なまでに追っていた。その木佐の眼前で二機は同時に旋回し、再び基地上空に迫って来るのが見える。旅客機か?――――という木佐の第一印象は、実は当たっていた。
日本側は知る由も無かったが、攻勢の前年、アスター・バスチックという、ローリダとグナドスが共同開発した中型旅客/貨物機が、人道支援用という名目でノドコールに複数機が持ち込まれている。ノドコール総督府あるいは本国政府による調達ではなく、ローリダ本国の富裕な貴族、富豪の寄付という形で少なからぬ数が持ち込まれた航空機や車両のひとつであるそれには、開発計画時からある用途を企図した設計が為されている。つまりは機体下部に架台を装着し、即製の爆撃機とするための設計――――バスチックの基本構造は旅客輸送機のそれだが、安価な空軍力を欲する中小国が戦術爆撃機として使用するにも遜色ない拡張性を発揮するというわけであった。
そのエンジン音は本来経済性、快適性優先の旅客機のそれとは思えない程喧しい。経済性よりも整備性を重視し構造の単純な旧型の遠心圧縮式ジェットエンジンを搭載しているためだが、だがその爆音故に低空飛行時には外見以上の威圧感を地上の人間にもたらす。爆音を撒き散らしつつ再び基地に向首したバスチックの胴体下部に、なお爆弾が繋がっているのを木佐ははっきりと見た。機首は交通路の方に向いていた。
「道を出ろ! 左にハンドルを切るんだ!」
「え……!?」
躊躇った幹部の握るハンドルに木佐の手が延び、強引にハンドルを左に傾けた。急旋回した高機動車が交通路の外に飛び出し、減速する間もなく防爆用の土盛りに突っ込んだ。停止した瞬間、身体を弾き飛ばさんばかりの衝撃が腰から上を伝う。それが木佐の目に火花を散らせ、彼から呼吸を奪った。同時に全身を震わす着弾の衝撃と背後に感じる熱を伴った波!――――
「…………」
漂白した意識を引き摺りながら計器盤に突っ伏した半身を起こす。見遣った運転席で、ハンドルに突っ伏したまま動かない若い幹部の姿を見出し、木佐はその肩を揺すった。
「生きてるか? しっかりしろ!」
「うー……」
頭が上がり掛けて、幹部は再びハンドルに沈む。木佐は再び肩を揺すり、そこで幹部は漸く半身を起こした。顔を綻ばせ木佐はさらに聞いた。
「動けるか?」
「……ハイ」
いち早く助手席から降り、運転席に回る。半身を起こしたまま降りる様子を見せない幹部に肩を貸してやり着弾現場まで歩く傍ら、木佐はつい先刻まで走っていた交通路の変わり果てた姿を顧みることが出来た。交通路を寸断するように穿たれた孔がふたつ、隕石が衝突した後の様な醜さがそこには広がっていた。さらに見れば、隣接する停車場で巻き添えを食ったトラックが燃え上がりつつ傾いていた。自衛隊特有の濃緑色ではなく人道支援用途の真白い塗装の大型トラックだ。此処に爆弾を降らせた「彼ら」とてあのトラックが見えていた筈なのだが……疑念というより戦争の不条理を痛感しつつ徒歩で向かった先では、これまで想像もした事のない光景が広がっていた。半壊したかつての退避壕近辺。未だ幼い悲鳴や呻き声、そして救出活動に掛かる自衛隊員の怒声が一帯に響き渡る。そこに前後を見失った現地人たちの絶叫と怒声が加わり、凡そ自衛隊の基地とは思えぬ混沌が生まれ始めていた。投下された爆弾が臨時の退避壕を直撃して崩壊させ、運悪くそこに居合わせた避難民を生き埋めにしてしまったのだ。無差別の爆撃に充分な退避壕設営に必要な人員と機材の不足が重なった結果引き起こされた災厄――――
「――――報告します。避難民より死者5名。負傷者多数。基地施設隊より死者2名、負傷者7名。現時点で判明している人的損害は以上であります」
避難民、そして基地要員に死傷者が出たという報告を、福島二佐は無表情で聞いた。砲撃までは予想されたことであったがまさか空爆とは――――
――――それはまた。「ベース‐ソロモン」の西側に在って、包囲陣の推移を見守っていたセンカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートの受けた衝撃にしても実は同様であった。双眼鏡を以て爆撃の一部始終を目にするや、彼の頬から血の気が引くのを傍らのエゼルとユウシナは見た。
「あの爆撃についてキビルに至急照会しろ。キビルが関知していれば、以後停止させるように」
「止めさせるのですか? 将軍?」
「――――!」
唖然とした声で応じた幕僚をロートは睨みつけた。それは空気を読まない者に対する明らかな怒りを伴っていた。
「この作戦の一切の指揮権は私にある。こと『ベース‐ソロモン』とその周辺に於いて私の関知していない作戦行動は一切認めない。いい機会であるから以後これを徹底させる」
照会はロート直々の命令によることもあって早かった。さらには返信に関し「至急」という文言をロートは強いて付け加えさせている。これは再度の爆撃あるを予期してのことだ。但し希望した返信は、ロートにとって意外な形でもたらされた。
「司令官閣下、キビルより電話が入っております」
「なに……?」
彼自身、釈然としない表情で報告して来た部下を、ロートもまた怪訝な顔で見詰めた。長距離の音声通信は傍受あるを想定して当面伏せる手筈だったが……差し出された無線電話の、送受話器の向こうから聞こえてきた声が、さらにロートを困惑させる。
『――――いきなり電話して済まない。事は急を要するのだ』
アルギス‐ゼレン‐ラス外務長官の、あの実務家的な外見に似合わない慌てた口振りに、ロートは引き攣り掛けた頬を緩めようと試みつつ応じた。
「兎に角、爆撃は困る。ニホン軍と原住民の態度を硬化させる恐れがあります。即座に停止して頂きたい」
『――――航空部隊はジョルフス将軍の指揮下で動いている。我々にこれを停止させる権限は無い。それに……』
「…………?」
『――――ジョルフス将軍が言うには、これはドクグラム元帥の指示なのだそうだ。航空部隊は必ず軍幹部の指揮下で運用するようにと。君に理由は今更説明するまでも無いと思うが……』
「…………!」
「しまった」という表情をロートがしたのに、周囲の人間は流石に気付かない。だがそれは彼らにとってもそしてロート自身にとっても幸運なことであったのかも知れなかった。ノドコール独立軍において、航空部隊はその専門性から出資者たちの意向を最も色濃く反映している部隊と言える。未だ立ち上がったばかりのノドコール独立軍が、ごく短日時の内にその規模に比して過分なまでの作戦機を保有するに至ったのは出資者たちの「寄付」……否、「投資」あってのことであるし、機体を運用する操縦士やその他要員も彼らの息の掛かった本土人――――それも、退役あるいは予備役の空軍軍人――――が多い。そしてドクグラムと近しい南ランテア社、彼らの航空部門――――傭兵空軍――――もまた、独立宣言を機に「志願兵」という名目ですでにキビル近辺の航空拠点に集結を始めている。表面上は民間航空を装った彼ら、規模も装備も区々(まちまち)の彼らが、独立軍に直協する航空戦力として機能し始めるのは、もう少し時間を見る必要があるというのがロートの予想であったが……眼前の爆撃は彼の予測を悪い意味で裏切る形となった。それらを指揮統括する部門には、余程優秀な人間が充てられているのに違いない。あるいは――――
『――――「仮面の主席商館長」のお膳立てか……』
現役の国防軍士官時代、南ランテア社の頂点に君臨するその男の名は何度も聞いたし、直に会って話をしたこともある。あの男、相変わらずだな……という苦渋交じりの感慨は、冷静なロートを以てしても拭えなかった――――受話器に向き直り、ロートは外務長官に言った。
「では動かさぬようジョルフス将軍を説得して頂けませんか? 長官のお力で」
『――――説得しようにも将軍は今その爆撃機の機上だ』
「何ですって!?」
半ば唖然として会話を打ち切り、ロートは足早に指揮所を出た。包囲している飛行場を一望し得る高地、そこを蹂躙した編隊は既に離脱し、所在無げに高空で旋回を繰り返す機影がひとつ――――それを、ロートは彼らしくも無い焦燥を篭めた視線を見上げた。
「将軍はあれに乗って、爆撃を指揮されておられます。年齢に似合わず果敢な方だ」
「…………」
不意に横合いから掛けられた弾んだ声の主を、ロートは次には無感動な視線と共に見遣った。何時の間にか、ロイデル‐アル‐ザルキスが意味ありげなにやけ顔で空を見上げている。
「指揮?……単に遊覧飛行をしているだけではないのかね?」
「な……!?」
言葉を失ったザルキスを、ロートは軽蔑を篭めた眼差しで凝視した。
「君は知っていたのか? あの爆撃を」
「攻勢に転じる積りであるのならば、知らせるに足ることなのでしょうか?」
「成程、攻勢に出た我々の前進を予期せぬ空爆で援け、右も左もわからぬ義勇兵に本国とのありもしない連帯を強く印象付けさせる……か。君は大衆演劇の脚本家ぐらいなら勤まりそうだ」
「…………!」
ロートの皮肉に、ザルキスはあからさまな憤怒で頭髪の後退した頭を真っ赤にして彼の上官を睨んだ。到底部下の取るべき態度ではなかった。険悪な雰囲気を察した幕僚が、困惑した表情を隠さずにロートに聞いた。
「どうなさいますか?……将軍」
「少し予定を早めた方が良さそうだな。こちらとしても……」
これ以上双方に深い溝を生じぬために――――思いを胸の奥に仕舞い、ロートは高地の麓へと足を踏み出す。その向かう先に、黒煙に天を覆われ完全に死に瀕したニホンの飛行場の全容が広がっていた。
ノドコール国内基準表示時刻12月28日 午後1時40分 ノドコール中部 アリファ飛行場
SAGS―――Special Assistance Group, Surrolia スロリア特別援助群司令部呼称「ベース-ソロモン」
「包囲軍からの使者……だと?」
スロリア特別援助群司令 福島 正威 二等陸佐は、眼を何度も瞬き報告をもたらして来た情報科幹部を見遣った。当の幹部すら半信半疑である事は、その狐につままれた様な表情から判った。
増援が来るまで持ちこたえるという望みは、敵に地対空ミサイル配備の兆候があることと、その敵が自由に動かし得る航空戦力を有しているという事実が明らかになった時点で崖っぷちまで追い詰められる運命へと転じた。砲爆撃により軍民に被害が出たことを東京に報告した途端、頻繁に被害状況や現況の追加報告を要請して来るようになったのがその現れであるように思われた。
「東京からは未だ何も言って来ないか?」
福島二佐からの問いに、主席幕僚は頭を振って応じる。彼が求めていたのは「その時」が来た際、基地と部隊、彼らが預かっている民間人を守るために必要な決定を独断で下せる委任状であった。東京は明らかに戸惑っているのだ。基地を明け渡すのは勿論のこと、最悪我々の身柄を敵中に預けねばならないかもしれぬという空前の決断を下さねばならないことに……
ただ、東京が事態の打開に必要な手を打っていることは福島二佐らとて把握している。先日の夕刻に首相官邸で行われた記者会見の席で、坂井総理はノドコール独立勢力およびローリダに対しベース‐ソロモンとその周辺の非武装地帯化と避難民の収容を宣言し、武装勢力の侵入に自制を求める旨も発言している。それでも攻撃が行われたのは、宣言された側の一方たる独立派に日本の方針を尊重する意思が無いことの現れであると言えた。あるいは彼ら独立派の背後にいる何者かが未だ明確な回答を表明していないが故、このような攻撃がまかり通っているのだ。
「正面入り口で待たせてありますが、どうなさいますか?」
「ここまで通してくれ。話をしよう」
幾人かの幕僚に目配せをしつつ、福島二佐は席を立つ。最悪彼らがどんな要求をしてこようとも時間稼ぎぐらいには使えるだろう――――東京にこの旨報告を命じるのも忘れなかった。
センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートにとって、この日の選択は切実なものであった。爆撃機は再び出動し、ニホン人が屈服するまで空爆を続けるであろう。だが爆撃機の数は未だ少なく、完全な制空権を確保するには至っていない。ジョルフス達が制空権の維持を可能にする戦力を整えるまでに、ロートの「作戦」は完遂されるべきであった。
「――――しかし、このままでは爆撃に巻き込まれてしまいます」
「ニホン人の基地」へと走る軍用地上車で、ハンドルを握る兵士が顔を曇らせる。後席のロートはと言えば、静かな微笑でバックミラー越しに運転手に応じるのだった。
「――――私が向こうに行けばその心配は無くなる。ジョルフス将軍もいい機会とばかりに私を基地ごと吹き飛ばそうと考えるほど陰険ではないさ」
「そうでしょうか……?」
「…………」
……いや、陰険だろうな――――ロートはその内心で軍用車の運転手に応じる。流石に軽口として口に出すのは、ロートであっても憚られた。笑えない冗談を言うことを、かつて英雄と呼ばれた男は嫌った。
「しかし……大胆な試みですな。悪くないとも言えますが」
と、ロートと同じく後席に収まったスロデン‐レムラ西方包囲軍指揮官が苦笑もそのままにロートを見遣った。硬いシートに背中を預けつつ、ロートは軍用コートの襟に顔を埋める様にする。レムラには見えなかったが、襟の影でロートの口元は笑っていた。ロートの指示とは言え、午前中に行われた砲撃で主力を占めた榴弾砲は彼の管轄下にある。いわば午前の攻撃の最高責任者と言ってもいい。その彼は、その始めからロートの作戦を支持したが故にこれより臨む交渉に於いても、ロートと意図を同じくする腹心として振舞う必要に迫られている。
「君はそう思ってくれるか? 本官としても助かるね」
意思の共有は有難い……そう思いつつロートは何気なく前席を見遣る。気が付けば軍用地上車のバックミラー越しに、ローリダ人のそれではない金色の瞳が、何時しか神妙そうに彼女の取材対象の様子を伺っている。エスターク‐エゼル女史。包囲軍の幹部でもなければローリダ人ですらないこの異国人記者を伴って来たのには、ちゃんとした理由があった。両者の交渉を見届ける第三者、それも記者の介在は、ノドコールの内外に交渉の詳細を知らしめるのに都合がいい。
駐留軍払下げという使い古された軍用地上車。傍目にも補修の後が生々しいその車体、半分が醜くへこんだバンパーに挟まれた白旗と、ボンネットに貼られた白いテープの織り成す十字――――それらの相乗作用は、基地に籠るニホン人の警戒を解くのに十分な効果を発揮した。ニホンの兵士は驚愕しつつも車を通過させる。正門に対する闖入者の突入速度を減殺するために、意図的に直角のカーブを設けられた交通路を走る車の窓からは、巧妙に配された哨所や土盛りのせいもあって基地の全容を掴むことは出来なかったが、車を降り司令部まで向かう間、負傷者を満載したトラックが救護所へ向かう様子を認めたところでロートは思わず歩を止めたものだ。たとえ彼自身の意思が介在しない行為ではあっても、彼自身が作った流れの一幕としての破壊――――それに対する自責の念をロートは感じた。
「…………」
そしてロートは空を仰ぐ。時折陽光を遮りつつ、相変わらず基地上空で旋回を続けている銀翼の孤影――――戦果確認にしてはあまりに長すぎる滞空に、同じく空を見上げるレムラが言う。
「上空でお酒でも飲んでいるのかな……私としては羨ましくも思えますが」
「ニホンにはこういう言葉がある。『愚か者とサルは高い場所を好む』とね」
「辛辣ですな」
レムラが苦笑する。気が付けば、小銃を背負ったニホン兵が怪訝な顔つきで自分を伺っていることにロートは気付く。ローリダの言葉を解しないが故に、二人の遣り取りが怪しげなものに思えたのかもしれない。作り笑いでロートは彼に応じ、先導を続けるよう促した。
仮設の司令部施設の中、外観からは想像出来ぬ広さを有する会議室と思しき一室で、ロートはフクシマという名のニホン軍の司令官と対峙した。日焼けした肌に鋭い眼光が印象的な男、刈り上げた頭髪が軍人としての鍛錬と節制の末に備わった精悍さに一層の迫力を与えているようにロートには見えた。そのままロートの眼差しは司令官に従い彼に対峙する自衛隊幹部を廻り、末席の一人を見出したときに止まる。その先には基地警備指揮官 二階堂一尉がいた。
「君は……確か三年前イル‐アム戦線にいたな」
「はい」
「サッサ中佐はご壮健か?」
「佐々二佐でしたら、今は東京に」
二階堂一尉の言葉にロートは頷き、正面の福島二佐を顧みて口を開いた。
「私はサッサ中佐にはニホンでは色々と世話になった身でね。今日かくのごとき経緯を経てあなた方と対峙せねばならなくなったことを心から残念に思っている」
「交渉を望んでいると伺いましたが? ロート司令官」
硬い表情を崩さずに福島二佐は言い、ロートもまた硬い微笑を浮かべた。
「正確に申し上げれば、私はあなた方に『オネガイ』をするために此処に来ました」
「願い……と?」
「そう、ニホンの言葉で言う『オネガイ』ということです」
「奇妙なことを言うな。あなたは……」
「いえ、我々はあなた方のやり方に倣っただけですよフクシマ司令官。ニホンでは頭はこちらが優位な時に下げるもの、でしょう? だからあなた方に対し優位にある我々は、こうしてあなた方に頭を下げに来た」
「…………」
水を打ったようにニホン側の席が沈黙するのをロートは見る。ニホン人の中に困惑している者がいるのは自然として、一方で興味深げな眼差しでロートを観察しているように見える者もいる。敵方の感触が決して悪いものではないことを、ロートは感じつつあった。
「では、あなた方の『お願い』とやらを伺おうか」
「用件は簡単だフクシマ司令官、この基地を我々に明け渡し、此処から立ち去って頂きたい」
高圧的でもなければ、かといって嘲弄している訳でもない。まるで飲み会の誘いにでも来たかのような軽い口調でロートは言い、それが卓を隔ててロートと対峙する自衛官たちに、その内心で動揺を与えた。当のロートが見るところ、彼らの内で唯一の例外たりえた基地司令――――福島二佐はその当初からの超然とした無表情を崩すことなく、確かめる様に言った。
「降伏の要求ではないのか?」
ロートは笑い、頭を振る。
「我々には、あなた方を食べさせるだけの蓄えは残念ながら持ち合わせていない。むしろここからスロリアとの境界まで立ち退いてもらった方が我々としては助かる。我々はそれで勝ちが得られるし、双方無駄な損害も出さずに済みますしね」
「逃げても構わない……と?」
「そうだ。道中の安全はこれを保障する。撤退に必要な車両及び燃料、水と食料も好きなだけ持っていけばいい。我々が関心があるのはあなた方の身柄でもなければ装備でもない。此処アリファのすぐ傍に広がる平坦な大地だけだ」
福島二佐の目付きが険しくなり、彼は肘を付いて身を乗り出すようにした。同時にロートの顔からもまた柔和さが消える。
「拒否すれば攻撃する……ということか?」
「既にお分かりと思うが、我々はこの基地を取巻く全周囲に榴弾砲を配置している。砲の数こそは少ないが、砲弾は一会戦分を保有している。我々としてはこの交渉が破綻した際、突入する部隊の損害を抑えるためにも全弾を準備射撃に充てる方針だ」
「…………」
平然と嘘を言ってのけた指揮官を、レムラは見返すようにした。そして再び眼前のニホン人に向き直り、同調するように頷いて見せる。部下として指揮官のついた嘘を共有し、彼らの敵に対しもっともらしく補強して見せることが、この場でレムラに与えられた仕事であった。
「あの無差別爆撃もそうか?」
「我々が使用可能な爆撃機の数は、翌日になればさらに増える見込みであるとも付け加えておく」
「それでは我々だけではなく避難民が……!」
憎悪すら籠った眼差しでニホンの士官が言う。それに対し感情を消した顔で、それも欺瞞で応じることにロートは軽い焦燥を覚えた。
「我々は此処で為し得る最善の方策を提示した。だからあなた方もここ出来る最善の決断について、今直ぐに此処で考えて欲しい」
ニホン人の絶句を打ち消す様に、あるいは畳み掛ける様にロートは言った。この場に於いて彼の交渉相手は一人しかおらず、その唯一の人物たる福島二佐は太い腕を組み、ただ無言で対峙するロートを凝視している。静寂によって作られた均衡を破ったのは、唐突に入室し福島二佐に耳打ちしたニホンの幹部であった。耳打ちの瞬間、福島二佐の表情から一瞬感情が消えるのをロートは見た。
「ロート司令官……少し時間をくれないか?」
ロートは頷いた。
「何時までも待ちましょう。勿論この部屋でね」
ニホン人が全て退出した部屋で、レムラが言った。
「やつら、何を仕掛けてくるかわかりません。一旦指揮所に引き揚げた方が……」
「それは駄目だ。彼らのためにも……そして我々のためにも」
「…………?」
眉一つ動かさず、ロートは続けた。中部において継続している現地人の反ローリダ抵抗運動、そして外部からの情報を総合すれば、現在ニホン人がその強大な軍事力を以てノドコールへの介入の機会を伺っていることは明白である。この場合、武力に劣るローリダ人が取り得る戦略はひとつ。それは敵対勢力に対し出血を強いることなくローリダ人によるノドコール占有を既成事実化し、その過程で原住民の反抗を抑え込み、ニホン人に介入する機会を与えないことである。ベース‐ソロモンの攻防がどう進展するかによって、今後の独立闘争の様相が全面的な軍事衝突を招来するか、あるいはノドコール国内あるいは第三国に舞台を移した外交担当者同士の交渉の間「占有状態」が継続されるかに二分されるであろう。
前者は絶対に回避されるべきである。ニホンの軍事力は三年前よりも格段に増強されており、それは本国の梃入れを以てしても覆すことは難しい。その一方で後者には希望がある。小康状態を継続しつつニホン人に介入の口実を与えず、交渉の合間に独立政府の基盤は強化され、入植活動の継続により土地の占有も既成事実となる。交渉の長期化の副産物として、事態が解決しないという状況の継続もまた、ノドコールのローリダ人にとっては勝利の一形態となり得るのだ……だから、ニホン人と戦闘状態に入ることは何としても避けるべきである――――ロートの説明に、レムラはさすがに怪訝な顔を隠さなかった。
「全てが閣下の思惑通りに行くとして、本当にニホンは軍を動かさないのでしょうか?」
「私はさる事情で、ニホンで一年近く暮らした。その時の経験から言えることだが、彼らは彼ら自身に危険が及ばないと判断すれば敢えて矛を構えるようなことはしない。見極めこそ難しいが、私はノドコールにそのような空気を作りたいのだ。彼らも我々も互いに手を出せなくなるような空気をね。そのためには彼らに損害を与えずに屈服させる……いや、懐柔する必要がある」
「しかしキビルやジョルフス将軍が納得するでしょうか?」
「納得してもらわねば、ノドコール共和国は三月も経ぬ内に瓦解するだろうね」
「――――!」
断言を前に絶句するレムラに、ロートは微笑と共に片眼を瞑って見せた。そこに、再びニホン軍の幹部たちが入室し――――
日本国内基準表示時刻12月28日 午後5時20分 東京 内閣総理大臣官邸一階 記者会見室
その日、スロリア亜大陸から約3000キロメートルに跨る海陸を隔てた日本の首都東京、内閣総理大臣官邸一階では張り詰めた空気が漂っていた。それは年の替わりを目前にした厳粛さゆえではない。まるで人生の終わるかのような陰鬱さの宿った、その中に在る第三者に戸惑いすら覚えさせる種類の空気である。
官邸の住人たる官僚や秘書官たちですらそう感じられるのだから、この日、それもこの時間帯に急遽開かれる運びとなった記者会見に備え、官邸一階の記者会見室に集まった報道各紙の記者たちの困惑ぶりは想像に余りある。但し、彼らの例外なく午後5時30分を期して開かれる会見の内容についてはおおよそ予測が付いているところであった。
「――――自衛隊に死者が出たらしい」
「――――自衛隊機がミサイルで狙われたそうだ」
「――――すでに連絡の取れなくなっている民間人や自衛隊員がいるとか」
最前列から思い思いの席に腰を下した記者たちの間から、記者会見の内容に関わるであろう話題が飛び出しては空気に乗って会見場に蔓延する。決して景気のいい話では無かった。三年前の「戦争」の一つの帰結として、遠く離れたノドコールで今なお繰り広げられている混乱と惨劇は、それを多くの情報媒体を通じて目の当たりにする日本人に対しては、その主体たる実体の見えぬ敵に対する怒りというよりむしろ困惑をもたらし続けている。
彼らは訝っている――――三年前の戦争で、「あの島」には平和が戻った筈なのに。
「――――いったい、どうなっているんだ?」
「――――やっぱり『あしがら』の件も出るかな?」
「――――出るに決まってんだろ……あれだけの大事なのに」
記者たちの動揺は続く。スロリアに隣接するノドコールの地に突如……否、再び出現した武装勢力は瞬く間にその全土を制圧し、現地駐在の関係各省庁及び自衛隊、そして民間人は荒波に揺られる小舟の如くに現地の情勢に翻弄されている。特にその有力な拠点のひとつ――――ベース‐ソロモンと称されるノドコール中部の拠点に至っては、ローリダ人の民兵と彼らの本土からの義勇兵から成る大規模な軍勢に包囲されているという。包囲軍の数は2万人から4万人と幅が広く、最小の数値を取って見ても尋常な騒乱やゲリラ活動の類とは到底呼べなかった。まるでひとつの統一された指揮系統を有する「軍隊」が、何の兆候もなくいきなりノドコールの地上に出現したようなものだ。まるで3年前の、「あの戦争」に至る過程が再現されたかのような混乱―――――
「――――坂井内閣総理大臣入室されます」
「――――!?」
潮が引く様にどよめきが静んでいく。記者会見のセッティングを与る官僚と係官の会話の中に、国政の最高責任者と彼に付随する閣僚の肩書が混じる頻度が高まり、やがては秘書官に先導された当人の姿が記者会見室に現れる。入室から壇上の日の丸に一礼するまでに瞬いた写真撮影のフラッシュが、怒涛の如くに坂井総理を打ち据えた。壇上ではすでにプロンプターが起動していたが、そこへ足を向ける彼の手には皺くちゃの原稿が握られている。あまりに急激な情勢の変化を前に、会見の要旨をまとめる時間的余裕が無かったのか?……と勘繰った記者もいた。坂井は記者たちには目も呉れずに早足で登壇し、原稿を演壇に置く。頭を上げた彼が、近来にない険しい目付きで記者たちを一巡するのと同時に、会見場という名の広範な空間からは一切の会話もそれ以外の物音も消えた。
『――――本日、私内閣総理大臣 坂井 謙二郎は、現在進行中のノドコール情勢に関し、総理大臣の権限に基づき重大な決定を下したことをこの場を借り国民の皆様に対し申し上げます。現在、ノドコール中部におけるスロリア特別援助群の拠点ベース‐ソロモンは、ノドコール独立派を自称する所属不明の武装勢力の包囲下に在り、その規模及び武装は自衛隊現地派遣部隊の対処能力を遥かに越えたものであります。従いまして私、内閣総理大臣 坂井 謙二郎は松岡統合幕僚長を通じ、現地の武装勢力指揮官との合議の上で、現地展開部隊指揮官に基地の放棄とスロリア方面への離脱を命令致しました』
「――――!!?」
驚愕が漣となって熱気を伴った空虚に広がる。それをあえて無視するかのように、坂井の発言は続く。
『――――現在、ベース‐ソロモン展開の陸空自衛隊展開部隊は620余名、これに加えて各省庁及び民間支援団体所属の民間人152名、彼らの保護下にある現地人避難民3000余名を基地内に収容しており、基地は予想される武装勢力の全面攻勢に対し極めて脆弱な状態にあります。私はノドコールに在る全ての邦人の安全に責任を持つ者として、そして陸海空自衛隊の最高指揮官として、予測される最悪の事態を回避するためにも必要な手段を総合的かつ大局的な観点より判断し、ベース‐ソロモンの放棄を命令いたしました。現在、ベース‐ソロモン展開部隊は私の命令を以て撤収作業に入っており、明朝午前8時00分を以て基地を放棄しスロリアまで撤退する運びであります』
秘書官が質疑応答に入る旨を告げ、それを待ち兼ねていたかのように複数の手が上がる。坂井は一人を選び、血色を失った記者が一人、腰を上げるや口を開いた。
『――――日本財経新聞の青木です。今回の撤収は、キビルを占拠したノドコール独立政府も容認済みのことでしょうか?』
『――――ノドコール独立政府を僭称する反乱勢力との、ベース・ソロモンも含めノドコールの行政権を巡る交渉は改めて行う所存であります。但し、現地展開部隊及び在留邦人、その保護下にある現地住民に明確な危害が加えられた場合はその限りではありません。今後の交渉は、あくまで彼らの撤収が安全の内に行われた場合にのみ確約され得るものであります』
「――――おい、どういうことだよ?」
「――――脅しさ。自衛隊に手を出したら後は知らねえぞってことだよ」
「――――そんな脅しが効く相手かねえ」
記者たちがざわめく中を、畳み掛ける様に新たな手が挙がった。
『――――毎売新聞の桂です。イリジアで依然炎上中の「あしがら」の件に関し一言お願いします』
『――――防衛省 海上幕僚監部からの報告によれば現在「あしがら」の火災はほぼ鎮火しており、負傷者の救助及び復旧作業が進行しております。ノドコール情勢との関連性についてはなお調査中であります』
新たな手が上がる。鱗に覆われた黄土色の四本指、それは異邦人――――蜥蜴民――――の記者であった。
『――――東京異種族記者協会のロセットでス。ベース‐ソロモンを巡る一連の情勢ガ、現在スロリア中部及びノドコール南部海上に展開中のニホン軍の作戦行動に与える影響にツイテご説明をお願いしマス』
『――――政府の方針として我が国自衛隊によるノドコールに対する介入はこれを行うものではありませんが、「ノイテラーネ条約」に基づき現在に至るまで継続している海空自衛隊による警戒態勢は、これを維持する方針であります』
『――――ヌコヌコ動画の山際です。先程ノドコール独立政府と交渉を持つと仰いましたが、これは現時点で政府がローリダ人独立派に、独立国ノドコール政府としての代表権があることを認めた、ということで宜しいのでしょうか?』
「――――!?」
発言の主に眼を剥いたのは当の坂井だけでは無かった。驚愕を押し出した集団の眼差しがたったひとり、それも平凡な外見、黒縁眼鏡を掛けたノーネクタイの青年に槍衾のように集中する。山際と名乗ったその青年は、それまでの無関心から一変した彼自身に対する感情の発露に、眉一つすら動かすことなく超然としていた。距離を置いて彼に正対する坂井の苦渋に歪んだ顔に、徐々に最初の余裕が戻り始める……
『――――政府が現在問題にしているのはローリダ人のノドコールにおける代表権の有無ではなく、いかなる理由があれ暴力を背景にした強引な分離独立は容認できない、ということであります。彼らに代表権を認めるか否かについては、今後新たな話し合いを持つ必要があろうかと考えております』
「――――……とは言うものの、首相がああ言った時点で独立派にノドコール政府としての代表権を認めたことになる。譲歩だよ」
「――――お前もそう思うか?」
記者たちは小声で語り合った。つまり、それまでの対決の相手が交渉相手になったのだ。戦争の危機もある意味――――日本の譲歩という形で――――遠のいた……この場の多くの人々にはそう思われた。その始まりとは一転して、通夜の席の様に水を打ったように静まりかえった記者会見室の壇上、坂井は原稿を整え直して眼下の記者たちに一礼する。記者会見を打ち切ることへの、それが彼なりの意思表示であった。黙々と降壇し会見室を出る彼らの総理大臣を、記者たちはやはり沈黙と共に見送る。沈黙こそがこの時、彼らが為し得る唯一の反応であった。
日本全土のみならず、世界全域に向けて意思表明を行った坂井の足は地下へと向かず、その途上に位置する休憩室へと向かう。そこでは彼の忠実な官房長官が秘書官と官僚を伴い、彼らの内閣総理大臣の帰りを待っていた。
「総理、お疲れ様でした」
休憩室のソファーから腰を上げて一礼した蘭堂 寿一郎を、坂井は無言で手を上げて制するようにする。彼が対面するソファーに腰を下すのを見計らったかのように、蘭堂の報告が始まった。
「ローリダの軍使は自陣に戻ったようです」
「どんな人物かね? 包囲軍の総司令官にして今回の軍使というのは」
「その点については防衛省から幾つか情報を得ております。結論から申し上げれば信ずるに足る人物です」
「信ずるに足る…………?」
怪訝な表情を隠さない坂井に、蘭堂は調査資料の束を差し出した。資料を黙読しつつ捲る内、特徴的な銀縁眼鏡越しに坂井の愁眉が開いていくのを蘭堂は見る。それは静かな驚嘆の顕れであった。驚くのも無理は無い。特に資料に添付されたローリダの青年将校の姿を目にしたときには――――
「若いな」
「センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロート。元ローリダ共和国国防軍少将。三年前のスロリア紛争において、PKFに対し最後に投降した指揮官です」
「優秀な指揮官か?」
蘭堂は頷いた。
「大阪で捕虜生活を一年余り送った後、捕虜送還船の最終便で彼の祖国に帰還しております。我が国に対しある程度の理解はあるものと」
「信用は出来ないな……それだけでは」
嘆息しつつ、尚も資料から目を離さない坂井に、蘭堂が声を顰めるようにした。
「実は防衛省内局に当時、普通科連隊長として従軍し彼を捕虜にした幹部がおりまして、その幹部から誠実かつ理性的な人物という評価を聞いております。一方的な協定の破棄及び騙し討ち、それらの何れにも手を染める様な人物では無いと」
「そうか……」
坂井は資料から顔を上げた。表情に僅かではあるが柔和さが戻っていた。
「……ベース‐ソロモンとの連絡はこれを絶やすことのないように。それと、『あしがら』の件はどうなった?」
「火災は鎮火し転覆及び着底のいずれも免れましたが、艦の傾斜が激しく自力航行は不可能という報告を受けております。海上幕僚幹部としては至急曳船を急行させ、応急処置の後曳航により本土に戻す方針です。負傷者も現地で治療の後、急派した空自機で早急に本土へと帰還させます」
「宜しい。それで『あしがら』大破の原因は?」
「詳細は今なお調査中でありますが、現地からの報告では出港作業中の『あしがら』の側面に、全速で向かって行くボートを見た者が複数いると」
「何だと!?」
ソファーから腰を浮かしかけたところで坂井は踏みとどまる。荒い口調は、さすがに隠せなかった。
「今のところあくまで確証の無い目撃証言のひとつですが、事実とすれば事故、あるいは……」
「……『前世界』で言う自爆テロか」
「…………」
蘭堂は無言で頷いた。『前世界』に遺して来た筈の不快な歴史のいち事象が、今更になって背後から追い縋り肩を叩いて来たかのような感覚を、二人の胸中に運んで来た。
「……『あしがら』の空いた穴を埋める必要があるな」
苦々しい感慨を打ち捨てるように坂井は言い、蘭堂は表情を変えることなく応じる。
「……代わりについては会見の間防衛省と検討いたしました。先週定期点検の完了した『きりしま』が良いかと思われますが……如何なされます?」
「それでいい」
坂井は頷いた。
「防衛省を通じ海上幕僚監部にその旨通知してくれ。それと……」
「は……?」
「NSCの各位には交替で休息を取る様に君から言って欲しい……私も此処で少し休む」
「わかりました」
蘭堂は微かに笑った。命を受けた蘭堂と彼の随員が部屋から去り、残された坂井は脱力したようにソファーに背を預ける――――脱力が始まるや昂った精神の芯が、融ける様に解されていくのを坂井は覚えた。官房長官はよくやってくれている……翻って昔、自分が彼の位置に在ったときはどうだったろうか?
「――――」
緩慢に息を吐きつつ、坂井はこれまでのことを考えた。あの頃――――三年前――――の自分には上司がいた。内閣総理大臣という名の上司だ。自分のしていることが正しい事か否かは彼の表情を見れば判った。だが今の自分にはその顔色を伺うだけで自分の立ち位置、在るべき位置を教えてくれる上司はいない。むしろ自分の存在こそが配下の閣僚や官僚にとっての指標となってしまっている。いや……今この官邸にいる彼らだけでは無く、官邸の外ひいてはこの国の外に在って職務に精励する日本国籍を有する全ての人々にとっての――――
「…………」
やめだ――――坂井は思った――――いまは、眠ろう。
未だ何も終わらせてはいないのに、感傷に浸るのが彼には嫌だった。それはリーダーのすることではない。
次回掲載は5/3(土)を予定しています。宜しくお願いします。
「Banished」買ったったw