第一二章 「混迷、そのあとに……」 (2)
――再び、天幕の下。
「……計画通りだ」
熱い茶を満たしたコップを抱くように持ちつつ、もう一度声にならない声で呟き、ロートは微かに笑った。アリファにおける包囲網の布陣も計画通り。そして此処にいる間に、ノドコール共和国政府の言う「独立」計画の首謀者の正体も判った。先刻に接触を図って来た内務省の青年士官の告げた名――
「ニホンで言えば、差し詰めサカモト‐リョーマみたいなものかな……」
ロートの独白には、戸惑いがあった。独りで大計を企て、他者をして自ずとその実行に協力せしむる程の人的魅力を有する人間……ルーガ‐ラ‐ナードラは、その種の人間とは少し違う人間なのではないかとロートはこれまで思っていた。その観念は変える必要があるのだろうか?
現地人とローリダ人入植者間の対立を煽り、現地人側を挑発して戦端を開かせることにより、ローリダ人国家建国の正統性を得る――それがセンカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートの把握している「独立」計画の全容であり、その実相は「転移」以来共和国ローリダが幾度となく繰り返して来た対外戦争の手順の応用ではあったが、成功すれば芸術とさえ評され得るであろう。だがこの大計において共和国ローリダの敵は、装備と戦術に数段劣る現地人ではなく、当のロートにしてからか、此処までの経緯に釈然としないものを覚えている。独立国樹立にしても、「野蛮なる」現地人の襲撃が決起の直接的な理由となったと老アイブリオスたちは言っていたが、此処まで来るのに数え切れぬ小競り合いこそあったとはいえ、こうもすんなりと、しかも同時多発的に現地人を襲撃へと駆り立てることができるのだろうか?……コップの中、温かみとともに湯気の消えつつある茶を凝視し沈思を続ける内、ロートの眼の奥でゆっくりと光が点滅し、次には生まれる――
「――装ったな……誰かが」
無感動な呟きが天幕の下で渦巻く暖かい空気に乗り、入口に立った人影が怪訝な顔をした。
「将軍?……何か?」
「…………」
ゆっくりと顔を上げた先で、濃緑の縁に赤を配した野戦服が老境に差し掛かった中背の男に着られて立っていた。襟や袖に綻びと繕いの痕が見える旧い軍服だった。昔の意匠、共和国国防軍の野戦服が現在の意匠に替わったのが、確か自分が軍籍に入る7年前のことだったかな……と不明瞭な記憶を頼りにロートは暫し考える。その胸に付けられた徽章は工兵のものであった。階級は少佐。
「いや……何でもないですよ」
と、ロートは丁寧な口調で軍服の男に言った。その後でロートはぎこちなく笑い、老士官にストーヴに中る様勧めた。
「お茶を飲んで行きませんか」
「いえ……榴弾砲の据え付けが終わったことをご報告申し上げようと参上しただけですから」
「……そうですか。では尚更このまま帰すわけには行きませんね」
ロートはストーヴに近い椅子を指差した。老士官の戸惑い気味な顔が融ける様に笑顔に転じ、老士官は彼の重ねて来た齢を感じさせる緩慢な挙作で椅子に座る。ロートの手でもう一個のコップになみなみと注がれた熱い茶を、手袋をしたままの両手で受け取ったところで老士官は言った。
「御指示通り、榴弾砲は西山の頂上に据え付けましたが、一門で宜しかったのですか?」
「問題ありません。ただ、一晩かけてあの重い砲を頂上まで引き上げてくれた皆には、ロートが感謝していたと伝えておいて頂きたい」
「それは必ず……」
老士官は頷いた。
「幸いにも搬馬には不自由しなかったもので、それ故搬送そのものは容易でしたが、手持ちの砲弾が30発しかありません。これだけで本当にニホン人の陣地を攻略できるのでしょうか? 他の者も心配しております」
「それは問題無い」
さらりと言ってのけ、老士官が呆気に取られたのをこれ幸いとばかりにロートは話題を変えた。
「ガリス少佐は、何時軍を退かれたのですか?」
「六年前ですな。丁度スロリア戦役の四年前になります。その後でノドコールに土地を買い移り住みました」
「それは何故です? 本国の方が何かと便利が良かったでしょうに」
「死んだ息子となるべく、同じ場所の空気を吸いたかったからでしょうなあ……此処で死んだわけではありませんが、どちらも本国の外であることには変わりが無いのだから」
「それは……」
ガリスという名の老士官は遠い眼をし、さすがのロートも言葉を失う。
「息子は私が軍を退く前年、アグラン人との戦で死にました。確かルップラントという名の土地を巡る戦闘でしたが……」
「ルップラント?……ああ、あそこか」
脳裏で記憶の糸を手繰り寄せたロートを、老士官は見上げるようにした。
「将軍は御存じで?」
「七年前、私はルップラント派遣軍の司令部に勤務しておりました。三ヶ月という僅かな間ですが。御子息とは陣地の何処かで顔を合わせたことぐらいはあるかもしれませんね。あそこは司令部と言うのも名ばかりの小所帯だったから、部隊名を教えて下されば判るかもしれない」
「詳細は機密事項だったらしく、カーティファロス部隊……とだけ言っておりました。急ごしらえの特務部隊のようでね。とにかく自由で、働きがいのある部隊だと……家族が揃った最後の食事のとき、息子がそう言っていたことを今でも覚えていますよ」
「カーティファロス……?」
ルップラントに関わる記憶の引き出しの何処にも、そのような名称の部隊が存在しないことに対するのと同様、「カーティファロス」という固有名詞に対して湧いた疑念に、ロートは眉を顰めた。
「カーティファロス……というのは、ひょっとしてサドレアス‐コート‐カーティファロス少将のことですか?」
「正確な名までは存じませんが、息子の上官が、由緒ある貴族の家の出だったということまでは聞いております」
やや困惑気味な少佐の口調が、彼がロートにそう問われたのを意外に感じていることがありありと察せられた。何度か躊躇いがちに口を動かし、老士官は言った。
「あの……息子はほんとうに、ルップラントの戦線にいたのでしょうか? 今まで気になっていたもので」
「戦死公報にそう書いてあれば、そうなのかもしれませんが……」
戦線を預かる現地司令部の関知しないところで、中央の意を受けた特務部隊が活動するケースをロート自身は知っているし、彼自身過去にそうした部隊を指揮したことがある。ロートの記憶が正しければ、当時は国防軍大佐であったサドレアス‐コート‐カーティファロスという青年の死は全軍に布告され、彼の共和国に対する献身は少将への二階級特進と元老院名誉勲章とを以て報われることとなった筈であった。但し公報に記された彼の軍人としての終焉の地はラップラントとは全く別方向の、しかもノルラントと係争中のロークランド地方。そして当時彼には年若い妻がいて、彼女は――
「――そうだ……宜しければ、御子息のお名前を教えて頂けますか?」
「ガリス‐ノストラムです。戦死した時の階級は軍曹でした」
徐に懐から取り出したメモ帳にロートはペンを走らせ、そして千切った紙片を老士官に握らせた。唐突な展開を前に半ば呆然としてロートを見返す老士官に、彼は微笑みかけた。
「私はそろそろ会議に出なければなりません。任務明けでお疲れでしょうが少佐にはこれより至急キビルに赴き、この文面で本国に電報を打って頂きたい。命令書はすぐに作ります」
「将軍……?」
「大丈夫、少佐の損になるようなことにはなりませんよ」
眼を笑わせて、ロートは老士官に応じる。同時に天幕の戸口に新たな人影が立ち、作戦会議の時間を告げた――
北方包囲軍指揮官ロイデル‐アル‐ザルキス。西方包囲軍指揮官スロデン‐レムラ。東方包囲軍指揮官アブカス‐デ‐ロイク。そして従軍司祭のランデナス‐ガ‐ルイト……彼らをはじめとする包囲軍の幹部は十名もいない。その彼らがこの日、独立軍アリファ方面軍団「新」司令官センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートの召集に応じ、会議室を為す半地下式の物資貯蔵用シェルターに集まった面々であった。そこに今回は、友好国レオミラの新聞記者イスターク‐エゼルが、彼女の助手という金髪の少女を伴って臨席している。ロートが前線における彼女の取材行為に自由を与えたのは、ノドコール独立軍の「開放性」を外に強調すると同時に、内に対しては統制の盤石とは言えない寄せ集めの民兵隊に、「外からの眼」という意味で兵士としてのその振る舞いに自制を促す意味合いもあった。
「……ロート新司令官には先ず、今時攻略作戦直前にジョルフス将軍より司令官権限を継承した経緯について、納得のいく説明を求めたい」
開口一番、ザルキスが高圧的な口調で言った。ザルキスのことをロートは知っている……というよりこのような男が独立軍に籍を置いているということ自体、全軍の統制にとっての不安要素となり得た。正直、この男に関してはいい噂を聞かない。
独立軍に身を投じる前は国防軍少将で、ノドコール駐留軍の参謀長であったロイデル‐アル‐ザルキスは当然「前」司令官エイギル‐ルカ‐ジョルフスの部下であり、「植民地ノドコール」における彼の立ち位置はジョルフスの忠実な腹心と言っても過言ではない。それはザルキス自身がジョルフスに従って積極的に独立軍に身を投じたことからも明らかであり、従って、前線にやってきたのがジョルフスでは無くロートであること自体がザルキス自身の目算を狂わせたと同時に、ジョルフスを指し置く形で方面軍団司令官となったロートに対する彼個人の悪感情を喚起した事は明白であろう……かと言ってロートとしては彼に配慮する必要を認めていない。配慮を見せる価値のある人物とは到底思えなかった。ノドコールに着任する前から、彼が足跡を標した様々な戦線や基地で累積されてきた捕虜及び民間人殺害、自軍兵士に対する暴行虐待という前科と嫌疑が、ロート自身の心中にも彼に対する悪感情を培養するに十分な土壌となっていたからである。それだけの罪を重ねた男が、何ら正当な裁きを受けずにここまで来ているという事実こそが、共和国国防軍という組織の宿疴とは言えまいか?
「説明が欲しいのならば君自身がキビルに行って、直にセルベナス国防長官に話を聞いてくればいいだろう。前線を離れる許可証はすぐにでも書いてやるぞ」
「では本官の後任はどうするつもりか!?」
頬髭と顎髭を蓄えたその丸顔に赤い怒気を充満させてザルキスは言った。それに加えて焦点を失い掛けた眼が、ザルキスという人間が軍人たるに必須の自制心の最低量も有していないことを雄弁に物語っていた。
「私の直接指揮下に置く。むしろそちらの方が私の統制を全軍に徹底させるという意味ではやる価値があると思うのだがね」
間髪入れずロートは言い、ザルキスは血管に固化剤でも注入されたかのように言葉を失う。軍人として他者を圧迫し委縮させることに慣れていても、自分が他者にそう遇されることに馴れていない者の挙動であった。シェルターの会議室にはザルキスと同じくジョルフスに付き従う形で独立軍に身を投じた国防軍士官らもいたが、彼らとてさすがに戸惑いの表情を隠すことが出来ていない。憤怒とともに辛うじて反駁を抑え込んで沈黙したザルキスを前にロートは思う……これは論争では無い、喧嘩だ。意に沿わない相手の鼻柱にまず一撃を食らわせ、相手の戦意を削ぐことに彼の目算がある。
「司令官、ロート司令官閣下……ちょっと宜しいでしょうか?」
「何かな?」
一転し丁寧な口調で発言を求めたのは、農民服姿の若い男であった。一見して現役予備役を問わず正規の軍人では無いことはその締りのない、冴えない風采からもロートにはすぐに察せられた。やや小太り、日焼けした肌の艶は不健康なまでに悪く、石臼の様な形の頭をふさふさとした白髪が覆っている。西方包囲軍指揮官スロデン‐レムラ。彼にとっての軍歴とは、高等土木技術学校在学時代、二十歳を出た頃に短期志願工兵として入営した二年余りでしかないことをロートは知っている。植民者では無く、本国からノドコールに派遣された土木技術者として用水路建設の指揮を執っていたところで例の独立騒ぎが始まり、それまでの指導力を買われて一応ではあるが元建設労働者と植民者からなる総数4000名余の義勇兵部隊――というより単なる烏合の衆――を掌握している。成り行きで就任した司令官と成り行きで取り込まれた兵士たち。裏を返せばそれが西方包囲軍の実態であった。階級は独立軍大佐。
そのレムラが言った。
「我が西方方面軍の布陣地域に据え付けた榴弾砲ですが、わたし……いや小官は一門、その上に保有する弾数が30発程度では砲撃としての効果は期待できないと思うのです」
「うん、そうだね」
ロートは頷き、レムラに続けるよう促した。
「そこでどうでしょう? 小官が愚行するに、数発でもいいのでアリファの飛行場に落とし、それを以て総攻撃への威嚇と装えば、余計な犠牲も出さずに済みますし宜しいのではないかと……」
「技術屋風情が差しでがましい口を聞くな!」
拳で卓を叩き、怒声を張り上げた男にその場の全員の視線が集中した。同じく農民服姿の男。だがその筋骨はレムラやザルキスよりも遥かに逞しい。後ろに束ねられた長い黒髪に彫りの深い顔立ち、落ち窪んだ眼窩からは蒼い瞳が空虚だが精力的な光を放ち続けている。
東方包囲軍指揮官 独立軍少将アブカス‐デ‐ロイク。ザルキスのような軍人とは異なるベクトルで危険な男、という印象をロートは受けている。実はあのドディー‐セルベナスと同じくギルボ‐アイブリオスの弟子格なのだが、原住民に対し比較的穏健な思想のセルベナスと違い、「神より与えられた開拓地にローリダ人以外の人種は必要ない」と、常々公言して憚らない男であり、セルベナスと同じく植民地獲得戦争において義勇兵として赴いた先々でその信条を実行しては、大量の原住民の死体と奴隷を生産していたものであった。その行き過ぎとも言える行状を咎めたセルベナスに、「名誉を汚した」という理由で決闘を申し込んだことまである。これはさすがに周囲が止めたため、両者が衆人環視の下で互いに拳銃を向け合う様な事態は生起しなかった。同じ弟子格でありながら、彼がアイブリオスやセルベナスと同じ場所にいないのは、やはりこれまでの言行が多分に影響している様に思われる。
ロイクは三年前のスロリア東進で、進攻軍の先鋒を務めた民族防衛隊とも浅からぬ繋がりがあり、幾下の東方包囲軍幹部の半分を民族防衛隊の同志で固めているという事実からもそれは明らかであった。そのロイクの「伝手と人脈」でローリダ本土の国防軍武器庫からノドコールに運び込まれた武器や装備は決して少なくは無く、それ故に自身が独立戦争において相応の処遇で迎えられるべきという自負……否、憤懣を隠すまでも無いと言いたげに横柄な表情を崩してはいない。ロートが見るところ――粗野な人間性に敢えて目をつぶれば――前線指揮官としての手腕に問題はないが、我が身のみを恃んでキビルの統制を嫌い暴走する恐れがあるかもしれない。ロイクもまた軍籍に在った経験を持つ身ではあるが、厳密に言えば国防軍士官学校に二年在籍した後、素行不良で退学処分になっただけで、軍事指揮官としての素養は、文字通りの独学と義勇兵としての戦場経験で培ったというのが実相である。
そのロイク少将がロートに向き直った
「ロート司令官、我ら東方包囲軍が望んでいるのはただ攻略開始それのみである。包囲など回りくどい方法を取らずとも数の優位を恃めばアリファはすぐに奪回できるだろう」
「いや、レムラ大佐はよく見た。私の作戦は彼の察した通りだ」
「え……?」
ロイクの顔から威圧する様な怒気が消え、次には呆気に取られた表情をロートに向ける。そこに口を挟んだのはザルキスだった。頭髪の後退した頭が怒気で再び赤くなっていた。
「司令官! あなたには我らの独立運動の意味がわかっていない。独立への確固たる決意を内外に示し、独立戦争に臨む我らの意思統一を為さしめるためにも、我々はまず勝利する必要があるのだ。勝つには先ず戦わなければならないではないか?」
「その結果一個大隊にも満たないニホン軍を前に少なからぬ数の犠牲が出るというわけか……今後の独立闘争の展開次第では、他に死に場所を得るべきであろう民兵たちの犠牲が」
「犠牲など出るわけが無い。出るとしても大勢に影響を及ぼす程の数ではない。アリファに居るニホン軍の主体は工兵だというではないか。しかも周辺より逃げ込んで来た多数の原住民を抱えて容易に身動きが取れないとあってはまともな抵抗など殆ど望めまい……もっとも、彼らの方から投降を申し出てくればその限りではないがな」
「投降」――――ロイクの言の最後に、ロートは頷いた。
「私としてもニホンの指揮官にはそれを期待している。むしろ彼のさらに上のニホン政府がどう出るか……だが」
「閣下はどう出るとお思いで?」とレムラが聞く。
「正直わからないが、降伏へと彼らの背を押すことはできる。そのための手配は既に済んでいるし、此処の状況を外へ広く報せてくれる手段にも事欠かないわけだしね」
と、ロートは会議室の末席、卓上で唯一の女性を見遣った。エスターク‐エゼルは灰色の瞳で上座の包囲軍司令官に会釈した。そこにロイクが再び口を開く。
「しかしニホンの政府が降伏勧告を容れるだろうか? むしろ増援の到着まで徹底抗戦を命じるのではないか?」
「ニホンの政府はそのような命令は出さないと思うよ。ロイク少将」
「その根拠は?」
「ニホンはいち兵士と雖も、その生命を容易に切り捨てるような観念を有する国では無い。私は虜囚としてニホンで暮らした経験からその事を知った。いい機会であるからこの場を借り前線指揮官たる諸君には銘記しておいてもらいたい……」
一瞬口を噤み、ロートの言葉は続いた。
「……我々が現在相手にしているのは最も偉大なる敵である。前線指揮官たる諸君らには、偉大なる敵に対するに相応しい戦いを私は望む。それが今次独立戦争における我々の至上命題である。それが為されなかった場合、今次独立戦争は共和国にとり自由のための戦ではなく、未曾有の悲劇として史書に記されることとなるだろう」
会議を締め括るロートの言葉を同意と困惑、そして反感……会議に席を占めた様々な顔が聞く。但し、それらの表情の主が会議で披歴されたロートの意向に従う意思を固めたのは、この場を流れる空気が雄弁に物語っていた。
ノドコール共和国独立軍 アリファ方面軍隷下北方包囲軍指揮官 ロイデル‐アル‐ザルキスにとって、最初の作戦会議は不毛たるに終始した。
「……あの男、預言者気取りか」
尤も、前線に来たのが彼の上司であるエイギル‐ルカ‐ジョルフスでは無く、センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートであるという時点で彼の目論見は潰えたと言ってもよい。アリファ包囲軍全軍の指揮を執るのが同じ正規の軍人として気心の知れたジョルフスであったならば、彼は即座に攻勢を決断し、今頃アリファの飛行場は防衛線を破って殺到する民兵たちの足で踏み荒らされているところであったろう。そしてこれまで共和国ローリダが繰り返して来た植民地獲得戦争の常として、彼らが得るのは緒戦の勝利。そして――
「…………?」
憤懣をそのままにシェルターを出、自身の司令部まで戻る途上、背後に付き従う気配を感じザルキスは肩越しに気配の主を顧みた。あの会議の席上、一言も発せずに作戦決定の一部始終を観察していた法服姿の男。間近にいる彼の姿を認めた時、ザルキスは会議以来の険しい表情を和らげ、むしろ怪訝な顔をした。ずんぐりとした中背が、首元から爪先までを覆う法服の下にあっても輪郭としてはっきりと見て取ることができた。歳の頃はザルキスと同じ。栗色の頭髪にやはり同じ栗色の髭が、顔の下半分を覆っていた。実年齢に不相応とも思える澄んだ瞳、言い換えれば無垢な子供のそれを思わせる眼で、その聖職者はザルキスを伺う様にしている……まるで聖堂の祭壇の前に在って、キズラサの神に対する、切実なまでの願いにも似た何かを切り出さんかとするかのように。
「ルイト師……何か?」
聖職者に対するにそれまでの憤懣を向けないのは敬虔なキズラサ者としての節度故か、会議の時の高圧的な態度を何処かに置き捨てて来たかのような丁重な口調で、ザルキスはルイト従軍司祭に向き直った。ルイト師は恭しくザルキスに低頭し、そして語りかける様に言った。
「ザルキス将軍は、『聖典』第34章ロナ伝を御存じで?」
「もちろん……個人的には一番印象深い話ですからな」
「では話は早い。聖ロナはアリザイ人の王を宴席に誘き寄せ、散々歓待して帰路に付かせた後、300名の一族郎党を以てその背後を討ちアリザイの土地、宝、家畜、そして奴隷の全てを我が物となさいました。神はロナの叡智と異教徒に対する戦いをお誉めになり、終には彼に祝福とアリザイの地を子々孫々に伝える権利を与えたので御座います」
「何が言いたい?……ルイト師」
聖職者は顔を伏せるようにした。しかし剛直さを思わせる彼の顔に浮んでいたのは陰謀を相談するような表情ではなく、むしろ神の意思を眼前の包囲軍幹部に伝えんとする静かな、だが真摯なまでの熱気であった。
「改めて申し上げます。このまま行けば、包囲されたニホン人は一戦も交えずに我らに降伏し、アルヴァク‐デ‐ロート将軍もこれを容れるでしょう。異教徒に甘いロートのことです。かの不信心者はニホンの異教徒どもとそれに従う原住民どもを赦し、最悪逃亡の便宜を図るやもしれませぬ」
「ノドコール領内を自由に通行し、スロリアへ逃れるとでも師は仰るのか?」
ルイト師は頷いた。
「彼らは逃れた先でニホンの侵略者どもと合流し、捲土重来を図るやもしれませぬ」
「むう……」
忌々しげにザルキスはその厳めしい顔を曇らせた。聖職者の言うことは尤もであるように彼には思われた。それに、「ニホンの虜囚」というセンカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートにまつわる事実が、今になってザルキスの脳裏に設けられた打算の部屋に急ぎ足で迫って来ているようにも思われた。従来の軍法……否、共和国軍人としての道徳観で判断するならば蛮族の虜囚になり、その上おめおめと現役復帰を果たすことなど許されるべきことではない。翻って現在、自分のすぐ上に居座っているのは、それを平然と為している卑劣漢なのだ!――軍人としての使命感と上官に対する拭い難い反感の綯い交ぜとなった言いようのない怒りが、ザルキスの胸奥と背筋とを震わせる。
「ルイト師、この話は本官以外にはしていないのでしょうな?」
「私は神の僕です。真のキズラサ者と見込んだ貴方様以外の何者に、僕として神の御意志をお伝えせねばならないのでありましょうか」
「……ならばいい」
周囲から発散される怒気を前に恐縮するルイト師を下がらせ、ザルキスはすっかりと蒼みを増した空を仰ぐようにした。陽光の下、厳めしい顔の肉に囲まれた眼光が油膜を浮かべた様にぎらついていた。かつての植民地獲得戦争の場で、偉大なるローリダの圧倒的な武力を前に為す術なく逃げ惑う異種族の民衆を前にした弑虐の癒悦に満ちた光――ザルキスはこれを武人として、強大なる敵の待つ戦場に立った時特有の高揚感であると思っていた。
「ユウシナ?」
会議に使われていたシェルターから一歩を出たところで声を掛けられた瞬間、無形の氷塊が少女の背筋を滑り落ちる。あの冷たい声を聞いた時に、ユウシナ‐レミ‐スラータが覚えたのはそういう感触だった。
「ユウシナか?」
「――――!」
怯えていると受け取られまいとゆっくりと、かつ慎重に振り返った先、従姉の夫である青年が、ただ独つの眼差しを自分に対し無感動に向けていた。初めて会った時には国防軍士官の赤い礼装に身を包んでいたオイシール‐ネスラス‐ハズラントスは、今では内務省制式の灰色の制服に身を包み、冷厳に彼の遠戚たる少女を凝視している。国防軍士官であった時分に持ち合わせていた華麗な雰囲気は完全に消え、何処で身に付けたのか武人という枠では捉えきれない懐の深さ――言い換えれば、得体の知れなさ――を、その青年士官は年端の行かない少女にすら感じさせるのであった。
「くだらない意地を張るのは止めたらどうだ。タナは家庭に入った。君もかつてはタナに倣おうとしていた身だろう。今からでも遅くは無い」
「勝手なことを言わないで!……タナお姉様を放っておいて貴方はいつも……!」
「タナもまた、あれなりに共和国に貢献している。翻って君はただ――」
「やめて!……聞きたくない!」
ユウシナは口を開き掛けて、そこで彼女の反駁は中断した。遠巻きに……否、ごく近くで自分たちの遣り取りを伺っている気配の存在に気が付いたからである。むしろネスラスの方が先にそれを知りつつ、敢えてユウシナの激情を受け止めているようにユウシナ自身には思われ、それが少女には一層不快に感じられた。気配の居所を顧み、ユウシナの瞳はそこで固まる。
「ロート……司令官」
センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートは怪訝な顔を隠さない。しかしそれはユウシナに対してではなく、彼女の対峙するネスラスに向けられたものであった。そのロートの顔に浮んだ疑念が霧の晴れる様に消えて行くのをユウシナは見る。次の瞬間にはロートは微笑み、ネスラスに呼び掛ける様に言った。
「何だ。君の知り合いか?」
「ハッ」
ロートから眼を離さぬまま畏まって見せるネスラス。彼とユウシナを交互に見遣り、ロートの相好が緩むのをユウシナは見る。
「そう言えば、従兵が欲しいと思っていたところだ」
「ロート将軍……!」
「え……?」
「君が良ければ」
何時の間にか、ロートの眼差しはユウシナの方に注がれている。ネスラスでは無く自分自身の意思を求めていることに。ユウシナは少なからぬ感銘を受けた。「勝手にすればいい」……それが、連絡機の待つ簡易飛行場へと踵を返したネスラスの、別れ際の言葉であった。ネスラスの姿が完全に見えなくなったところで、ロートは踵を返し敵陣の方向へと歩き出した。彼個人のテントがある方向である事をユウシナは知っていた。半ば呆然と立ち尽くすユウシナとの距離が開き、気を取り直したユウシナは、銃を担ぎ直して早足でロートの背中を追う。追い付き、並んだところでロートは前を向いたまま言った。
「名前は?」
「ユウシナ。ユウシナ‐レミ‐スラータといいます司令官」
「ではユウシナ嬢、此処で武勲を立てようとか、冒険しようとでも思っていたのなら、もう諦めることだな」
「…………」
素っ気ない口調に、ユウシナは形の良い顔を曇らせる――司令官の言葉が、彼女自身では無く実はあのネスラスに対する気遣いであることに気付かない程、ユウシナは自分勝手な性格では無かった。