第一一章 「混迷せる中枢」
日本国内基準表示時刻12月27日 午前7時57分 東京 内閣総理大臣官邸地下 官邸危機管理センター
「坂井内閣総理大臣、入室されました」
係官の報告がセンターの中枢たる会議室に達したとき、極限にまで張り詰めた緊張の弦が、不意に緩んだかのような雰囲気が拡がって行った。遊説先の北海道より急転、同行の補佐官を伴い入室した内閣総理大臣 坂井 謙二郎は、コートとマフラーを羽負ったまま円卓の上座へ歩を進める。彼が無言でコートを脱ぎ、補佐官がそれを受け取る様を、官房長官 蘭堂 寿一郎を始め内閣安全保障会議を構成する面々は、やはり沈黙と共に見守った。
「お疲れ様です……ご指示通りすでに始めております」
「話は専用機内で大体聞いたよ」
口調は平静だったが、その堅い表情から滲み出た苛立たしさは流石に隠せなかった。上座の中央席に痩身を預け、目配せで蘭堂に着席を促す。蘭堂に続きメンバーが一斉に着席したのを見計い、坂井は口を開いた。
「特殊作戦群の1個チームを乗せたヘリが行方不明……そしてベース‐ソロモンに所属不明の武装勢力が接近しているというところまでは私の耳に入っている……これ以外に新しい情報は?」
「つい20分前、ノドコール南部上空で偵察飛行中の空護『かつらぎ』搭載機に対し、地対空ミサイルが発射されました」
「何だと……?」
蘭堂の言葉を、坂井はその顔から表情を消して凝視するようにした。蘭堂は取り成すように続ける。
「幸い艦載機に被害は無く、既に安全空域に退避させております。しかし……」
「……武力介入の内容に、少なからぬ修正が必要なようだな」
「はっ……」
坂井は卓上に聞こえる様はっきりと言い、蘭堂は小声で頷いた。円卓の一角を占める防衛省制服組に向き直り、坂井は聞いた。
「統合幕僚長、防衛省は、対空ミサイルの所在を把握していたのかね?」
「それらしき資材の搬入は把握しておりましたが、実物が実戦配備段階に達していたことまでは確認しておりませんでした。申し訳ありません」
頭を下げる松岡統合幕僚長、坂井は畳み掛ける様に言った。
「それで、対策はあるのかね?」
「スロリア中部に展開中の空自作戦機を以て見付け次第これを破壊し、以後の制空任務を円滑ならしめます。但しある程度時間を見て頂けませんと……」
「どれくらいかかる?」
「一週間程は……」
回答を聞いた途端、坂井は不機嫌に黙り込んだ。表面上は平静を保っていたが、彼の片頬がひくひくと震えているのを傍らの蘭堂は見逃していない。残念ながら前任者に比して坂井が、激発の沸点に余裕のある人間とは言い難いことを、蘭堂は公人としても個人的にも知っている。それも彼の場合、前任たる神宮寺の様な一過性の前向きな怒りでは無い、他者を委縮させ、あるいは反感を抱かせる種類の、言わば陰性の怒りである。場を取り繕おうと口を開き掛けた蘭堂に先んじ、坂井は苛立たしげに言った。
「その一週間の内にノドコールのローリダ化は一層進行し、現地連絡所やベース‐ソロモンは血気に逸ったローリダ人の狂気に晒され続けるというわけかね?……差し詰め素晴らしき未来図と言うべきだろうな」
「…………!」
敵を目前にした場合と違う種類の戦慄が、会議室を一閃した。内閣総理大臣の怒りを収める術を誰もが忘れ去ったかのように沈黙し、指弾の矢面に立たされた統幕サイドに至っては、彼らの最高指揮官に合わせる顔も無いと言いたげに俯いたまま微動だにしない。そこで敢えて発言した者がいる。蘭堂だった。
「鎌田外相、ノドコール連絡所の状況を把握している限りでいいので教えて頂けますか?」
「…………」
声を掛けられた瞬間、この場における自らの存在意義を今更思い出したかのように堅い表情を崩し、外務大臣 鎌田 義臣は上座に向き直る。蘭堂に話しを振られたことにより、当の鎌田当人のみならず、むしろその場全体に安堵が戻ったかのようにこの場の少なからぬ人間には感じられた。
「外務省が把握している限りで申し上げます。現在現地連絡所の所在する首都キビル自体が、極めて危険な状況に陥っております。ノドコール人による入植地への襲撃事件以来、ローリダ人入植者はローリダ本国からの独立と自衛の名の下、各自武装し街区の要所を制圧し、我々の同意も無いまま市の内外に検問を敷いております。我が国現地連絡所は今のところ無事ですが、日系NGOに対する暴力事件とサボタージュが頻発した結果、NGOは組織個々の判断でキビル市内の事務所を撤収し連絡所敷地内に避難している程です。事態の収拾はまことに悲観的と言わざるを得ません」
「総督府は? ローリダの総督府は何をしているのだ?」と別のメンバーが聞いた。彼を一瞥し鎌田は続ける。
「先程申し上げた通り、彼らはローリダ本国からの分離独立を主張しております。現時点に至るまでにすでに三度、ローリダ総督府及び本国政府に早期の事態収拾と協議を打診しておりますが、未だに解答は得られておりません。総督に至ってはたとえ反乱であれ本国からの訓令無しには具体的な行動は何もできない。今はただ事態の推移を静観するとの一点張りで御座いまして……」
「何だそれは……」
蘭堂は唖然として傍らの坂井を見遣った。坂井は舌打ちし、再び鎌田外相と幕僚連を見遣る。
「兎に角……今は出来ることを考えよう。先ず解決すべきことは現地連絡所及びベース‐ソロモンの安全確保だと思うが、それについて意見があれば言ってみたまえ」
鎌田外相が頷いた。
「私の意見と致しましては、現地連絡所に対する物理的な危害は回避できるものと考えております。独立が成功するにしろ挫折するにしろ、交渉相手となり得る異国の代表に危害を加えるが如き行為は、さすがに自重するのではないかと思われるからです……あるとしても精々通信及びインフラ供給を遮断するぐらいではないかと……もちろん、連絡所にもその際の備えはできております」
「そううまく行くかな……」
不安を隠すまでも無いかのように、坂井と蘭堂は互いに顔を見合わせた。彼ら自身、直にローリダ人と言う「異種族」に向き合った経験から、彼らとの思考の差異を嫌という程思い知らされている。今となってはこれまでの交渉自体、無駄なものではなかったかと本気で考える程、いわば「不信」を募らせている坂井と蘭堂であった。より具体的に言えば、三年前にあれ程の竹箆返しを受けてもなお、彼らローリダ人がこちらを対等な交渉相手と見ているかどうか、確証が持ててはいない二人であった――坂井は幕僚たちに向き直り、眼を凝らして聞く。
「ベース‐ソロモン……ベース‐ソロモンの状況はどうか? あそこは軍事拠点とは名ばかりの無防備も同じ状況では無かったかね?」
松岡統幕長が頷いた。
「総理の仰るとおりです。現在ベース‐ソロモンに展開中のスロリア特別援助群の総数は陸上自衛官625名。自衛用の小火器こそ充足しておりますがその多くが施設科及び航空科要員であり、戦闘に堪え得る要員は200にも達しません。さらには現地連絡所と同じく、敷地内に活動地域から退避して来た政府及び民間支援機関の職員、そして多数の現地人避難民を抱えております。本格的な攻勢の前には一溜りも無いでしょう」
「敵対空ミサイルの制圧、そしてロギノール上陸が順調に進行したとして、ベース‐ソロモンの救援を可能にするのに、最低でもどれ位の時間がかかるか?」
「……現在進行中の介入用兵力の集中及び空自による防空網制圧に一週間、その後の作戦にさらに一週間……最低でも二週間見てもらえませんと……何とも申し上げられません」
「では空自機を増強し、かつ海自機の投入を繰り上げた上で、これらの航空戦力をベース‐ソロモンの防衛線維持に振り向けるというのは?」
「総理、空自機の増強は兎も角、機動性に劣る海自哨戒機の早期投入は得策とは申せません。地対空ミサイルの脅威が存在するのでしたならば尚更です」
松岡の回答に、坂井は溜めていた息を吐き出した。その内心では、隣席の蘭堂も同じであったろう。武器押収と武器集積所破壊を好機としてノドコールの非武装化を推進する傍らで、ローリダに対する牽制の意味も込めて兵力の展開と集中に時間を掛ける筈が、機先を制するかのようなローリダ人居留民襲撃、その後の紛争への発展と、それに続く地対空ミサイルという想定外の脅威の出現を前に、制服組は慎重になっているのだ。
沈黙の中で坂井は掌を組み、祈る様な、あるいは一考に浸る仕草をした。次に顔を上げた時、銀縁の眼鏡が光り、坂井は誰もが思ってもみなかったことを言った。
「最悪……ベース‐ソロモンの武装解除、あるいはその周辺の非武装地帯化も考慮に入れる必要があると思うがどうか?」
「それは……場合によってはベース‐ソロモンの指揮官に降伏を認める、という事で宜しいのでしょうか?」
「そうだ」
間髪入れず、感情を見せずに坂井が言った直後、無形の重石が会議室の上に圧し掛かったかのような空気が漂い始める。それを払拭せんとするかのように、坂井は続けた。
「最高指揮官の私の命令で武装解除するのだ。降伏によって不名誉を被るとすれば現場の自衛隊員では無くこの私だろう。そのための最高指揮官ではないのかね?」
坂井の言葉は、今日に至るまで内閣安全保障会議内で延々と分析され、討議されてきたスロリア亜大陸の平穏化政策の放棄……あるいは挫折を意味していた。だがベース‐ソロモンという一大拠点に封じ込められた自衛官及び民間人を救い出すには、これ以外の方法が無いこともまた事実だ。
すかさず、蘭堂が鎌田外相を呼んだ。
「鎌田外務大臣」
「はっ?」
「ノドコール連絡所と本省、そしてローリダ共和国……これら全外交ルートを使い、独立派勢力に対しベース‐ソロモン周辺の非武装地帯化、難民保護区化設定の打診はできないか?」
「やれないことは無いと思います」
僅かながらに声を弾ませた鎌田に、坂井は満足げに頷いて応じ、言った。
「まず私から世界へ向けて声明を発するべきだろうな。ベース‐ソロモンを非武装地帯に設定し、武力衝突に起因する避難民を当面そこに収容する。ローリダ人及び現地人、いずれの武装勢力にも非武装地帯への侵入はこれに自制を求める……と」
「いいお考えだと思います」
蘭堂が言ったが、その表情からは困惑を拭いきれないでいる。官房長官の困惑を察した坂井が、蘭堂に発言を促した。
「どうしたね?」
「総理、事態の打開策としては基地の放棄はいい案だとは思うのですが、独立派勢力は果たして我々の打診に乗って来るでしょうか?」
「何が言いたい? 官房長官」
「独立派勢力が、我々を正当な交渉相手と見做すかどうか……ということです」
「というと?」
「表面上、彼らはローリダ本国からの独立を謳っています。我々からの独立では無い。今回蜂起した独立派とローリダ本国が通じている事は、彼らがローリダからの武器支援を受けていたことからも明らかです。従って彼らは交渉の相手をローリダ本国に絞る可能性があります。そうでなければ独立派とローリダ本国は共通の目標を達成し得ません」
「その共通の目標とは、何かね?」
「独立……すなはちノドコールにローリダ人の国家を樹立後、同盟なり友好条約なりを結び速やかにローリダ本国の保護下に入るという事でしょう。彼らからすれば、それで全ては元の鞘という事です」
「そのときは遠慮なく叩き潰してしまえばいい! 我が方にはノイテラーネ条約という大義名分もあります」
上座を見据えて声を荒げたのは松岡統幕長だった。
「ローリダ人を襲っているというノドコール人武装勢力の正体も掴めない内にそのようなことは出来ない」
「つまり、長官は情報が集まるまであくまで時間を稼ぐと仰られるのですか? その間幾人もの同胞がノドコールで生命の危機に晒されようとも」
「我々はアメリカでは無いのだ。敵と戦端を開いてから我が方の不正義が明るみに出る様なことは、我が国には決してあってはならない」
「…………!」
「…………」
対峙――眼を剥き、肩を怒らせた武官と、その熱い眼差しを冷厳に見据えて受け止める文官。それは日本にNSCというものが作られて以来、初めて生じた局面であった。もっとも、文官と武官の対立はその性質から生起そのものは予想されていたものであったが、ここまでの烈しさを伴うことになると予想した者はこの場にはいなかったのである。
「二人とも鎮まれ。介入用の兵力の集積はこれを継続する。その上で私は先程の声明を発し、独立派の反応を待つ。当面はこれで行く」
坂井の言葉は、瓦解しかけたNSCの秩序を明らかに救った。誰もがこの場における自身の存在意義に気付いたかのように表情に血色を取り戻し、彼らの首班に向き直った。それを見届けて軽く頷き、坂井は末席の特殊作戦幕僚長 槇村 享 空将補を見遣った。
「槇村空将補、ノドコールで消息を絶った特殊部隊について続報はないかね?」
「残念ながら……ありません。ただ、御子柴一佐の見解は少し違うようです」
「ほう?……聞こうか」
槇村空将補が傍らの御子柴一佐に発言を促した。空虚の中に炎の揺らぎを封じ込めたかのような眼差しが、内閣総理大臣に向いた。
「撃墜されたヘリに搭乗していたのは、先月ノドコール南部海上に於いて船舶制圧を実施したのと同じメンバーであります。それ以前にも彼らは数多の修羅場より生還しており、喩え逃げ場のない状況であろうとむざむざと死ぬような連中ではありません。その事は小官が保証致します」
「優秀な特殊部隊員かね?」
御子柴は頷いた。
「恐らくはこの世界で最も悪運の強い男達です」
「では彼らの悪運が健在である事を、彼らの最高指揮官として祈らせてもらおう。それとこの際であるからノドコールに存在するもうひとつの『独立派』について、この場の君たちと見解を共有しておきたい……」
そこまで言って、坂井は傍らの蘭堂と鎌田外相に向き直る。一瞬驚愕の表情を浮かべた両者から同意の黙礼を受け取り、坂井は蘭堂に説明を促した。
蘭堂が口を開いた。
「現在、ノドコールには、ノドコール共和国を自称するローリダ人植民者の他、ローリダの植民地支配に抵抗するノドコール人からなる独立勢力が存在します。我が国は『スロリア紛争』の前年より防衛省主導の情報収集活動の一環として彼らと接触し、スロリアに存在する脅威の所在とその内情の把握に務めて参りました。然しながらロメオの脅威が当時の政権に共有されることなく、結果として一連の悲劇の招来を未然に防止できなかったことは現在に至るまでも痛恨の極みであります」
そこまで言ったところで、蘭堂は槇村空将補に目配せする。三年前の彼は現地情報隊の司令職にあって、スロリアにおける危機が顕在化する前より現地における情報収集活動を取り仕切っている。その槇村が微かに頷くのを見てとり、蘭堂は続けた。
「そこで政府は以後ごく秘密裏にノドコール人独立派と接触、現在に至るまで彼らを物心両面に亘り支援しております……予定としては三年後に実施予定の総選挙で独立が決した後、我々の支援の下彼らに新政府の政治経済を掌握させ、全ての脅威が排除された上でノドコールの再興を成し遂げてもらう……少なくとも今回までは政府はその積りでありました。勿論、不測の事態も想定しないわけではない。それへの対応も含めて今月の初旬、坂井総理と私は東京に独立派の代表を秘かに招き、彼らの現状と今後のスロリア情勢の推移について、意見の交換及び協議を行ったことを、ここに申し上げて置きます」
一座がどよめき、広がった疑念と困惑を代表するように松岡が口を開いた。
「軌道修正……ということでありますか?」
「そうとも言える」
蘭堂が頷いた。坂井が自ら補足するようにそこに続けた。
「脅威……つまりノドコールを現在支配していているロメオの脅威を排除するのは我々の役割だ。それが我々日本政府のこれまでの筋書きだった。だが敢えて言おう。今となってはノドコール独立派、つまり現地人勢力の側からも独立宣言を出させ、ローリダ人に対抗させることを考えねばなるまい」
「成程……相互の独立勢力が内戦を始めれば、停戦監視部隊を置いている我々としても十分な介入の名分となり得ますな」
防衛担当補佐官の元海将 島村 速人が応じる。その島村に鎌田外務大臣が聞いた。
「しかしだ……現状ではノドコール人独立派は、実戦能力の面でローリダ人に抗すべくも無いと思うが島村海将はどう思われますか?」
「何も正面から衝突する必要は無いと私は思います。彼らに独立宣言を発してもらい、対決しているという体面を繕うだけでも十分かと。内戦勃発に伴う治安の回復を名分に作戦許可を出して頂ければ、自衛隊としても十分に作戦行動が可能です。それに独立派には特戦と現地情報隊が付いておりますので、彼らに対する統制も問題はないでしょう」
そこまで言って、島村は松岡に目配せした。同意と補足を求めた視線に、統合幕僚長はただ同意の黙礼のみを以て応じる。それ以外に彼らふたりが共に秘めた打算を察することの出来た者は、この場にはさすがにいなかった。鎌田が坂井に向き直り、言った。
「では総理、ベース‐ソロモンの放棄はこれを容認するとして、その後に速やかにノドコール人勢力に独立宣言を行わせるということで宜しいでしょうか?」
「……そうだな。但し蘭堂君が言うように、所属不明の武装勢力の正体も確認した上で介入の是非を判断したい」
緊張の中に在ってもやや和らぎ始めたNSCの空気を再び一変させる急報が、血相を欠いた秘書官という形で舞い込んで来たのはそのときであった。彼の差し出すメモを一読した直後、只でさえ感情の薄い坂井首相の顔色が土色に一変し、噛締めた薄い唇が憤怒とも悲嘆とも付かぬ震えを醸し出した。ほぼ同時に入室して来た制服幹部が松岡統幕長に耳打ち――「それは本当か!?」と幹部を睨み返す統幕長の表情からも、完全に余裕が消えていた。
「むぅ……!」
「どうかなさいましたか? 総理」と、蘭堂が坂井の顔を伺う様に身を乗り出す。蘭堂を見返す坂井は平静を取り戻したかのように見えたが、次の彼の言葉は、病人のそれのように震えた。
「……『あしがら』が攻撃された」
「――――!!?」
あんぐりと口を開ける者がいた。反射的に身を乗り出し上座を凝視する者もいる。その何れにも言葉は無い。直後、外壁に配された情報表示端末の一端が切替り、海外ニュースのライブ中継を映し出した――港湾の入口近く、その艦腹から黒煙を吐き出しつつ傾斜を深めつつある護衛艦の灰色の巨体。艦首に刻まれた艦番号と城郭の如き艦橋を一瞥するだけで、瀕死のその艦がこの世界でも最強を謳われたイージス護衛艦であることに気付かない者は、流石にこの場にはいなかった。
「そんな馬鹿な……!」
身を乗り出して中継を凝視しつつ呻いたのは島村 速人であった。彼の狼狽の理由は、強大な防御力と攻撃力とを併せ持ったイージス艦の、「陥落」にも等しい光景のせいだけでは無い。砲雷長、そして艦長と、かつて二度に亘り「あしがら」と現役自衛官としての人生を交差させてきたが故の感傷が、予想だにしなかった事態を前に彼の感情を突き動かしていた。
「何が起こったというんだ……」
血色を失った顔をそのままに、蘭堂は呟いた。その彼の眼前で横っ腹を破られた「あしがら」の傾斜はますます深まり、やがては見る者に横転の危機すら感じさせた。顔を隠す様に手を組み、坂井首相は鎌田外相に言った。
「鎌田外相、現地大使館に情報収集を」
「はっ!」
一礼し、外務省と連絡を取るべく席を立つ鎌田外相をただ坂井のみが無感動に見送った。彼の姿が会議室から消えた後、坂井は再び口を開いた。
「防衛省と回線を繋いでくれ」
専用端末に桃井 仄 防衛大臣の姿が現れるのに優に3分の時間が必要であった。端末に映る彼女の背後を足早に行き交う自衛官の姿に、坂井ならずとも防衛省中央指揮所の慌しきを察する。回線が開かれるのとほぼ同時に、坂井は言った。
「第一報はすでに聞いた。『あしがら』は本当に攻撃されたのかね? それとも事故か?」
「その点については情報を収集中です」
「退艦は? 艦長は乗員に退艦を命じたのか?」
坂井と桃井の会話に割って入るように声を荒げたのは島村だった。その島村に対する桃井の口調は平静そのものだ。
「『あしがら』は目下死傷者の収容及び復旧作業中です。艦からは復旧に全力を尽くすとのみ報告が入っています。それ以後の報告は現段階では入っていません」
「死傷者……だと?」
坂井と蘭堂はほぼ同時に互いの顔を見合わせた。そこに桃井のさらなる報告が続いた。
「正確な数は未だ不明ですが、確認が取れているだけで死者8名、重軽症者23名……あと、行方不明の者が30名程いるとのことです」
「…………」
脱力し、坂井はシートに凭れかかった。口元が不機嫌に歪んでいる。だがそれは決して困惑の表情であっても狼狽の表情では無かった。勢いを付けてシートから身を起こし、坂井は言った。
「声明は予定通り!……今日中に出すぞ」
これ以上連中に好き勝手されてたまるか、という怒気を、坂井は流石に口には出さなかった。