第一〇章 「Enemy Lines」 (2)
ノドコール国内基準表示時刻12月27日 午前4時34分 ノドコール中部
夜が明けるのに未だ時間があったが、そんなことは大木の犇めく森林では関係の無いことだ。森では時間は、その外で流れる時間から二三時間の遅れを以て過ぎていく。
昨日から森一帯に散り、南へ向けて浸透を始めていた武装せる「群」が、密雲を透過し上空から近付いてくる気配に対し身を潜める様になって、同じく10分の時間が過ぎていた。森を支配していたのは未だ闇であった。空間はおろか時間すらその懐の中に呑み込んでしまう程の闇、群各員の着用する衣装の背中、そこに乱雑に塗られた夜光塗料は群の各員に個々の所在を沈黙の内に教える効果を持っていたが、それは今更のようにその神通力を失い始め、代わりに僅かな星明りの下、闇に馴れた眼が同志を判別する唯一の術になりつつあった。空からの気配――それは、規則正しく回転の刻む回転翼機のローターの響きであった。
『――来い』
「群」の一端、それを率いる人影が指を動かして傍らの配下に接近を命じる。配下は早足で彼の上官に迫る。それは特技兵であった。ノドコールの民族衣装に身を包んだ、長大な円筒形の物体を背負った特技兵。ふと夜空を見上げれば、頭上遥か上に在って雲海を越えつつある機影が、各所で点滅する識別灯に取巻かれつつ南へと向かっているのが見えた。その先端に光を帯びた回転翼が前後にふたつ、その動きは緩慢で、下界の蠢動など想像の外であるかのようだ。下界に迫る「脅威」の蠢動に――
『――あいつだ。外すな』
囁く様に命じ、指揮官は勢いを付けて特技兵の尻を叩いた。長大な得物を肩に構え直し、特技兵は小走りに前へと進み出る。森の啓けた場所、そこに彼が彼の得物を使うに足る空間があった。円筒形の物体を抱え、その横に配された照準鏡を特技兵は覗く――筒先の臨む方角に、回転翼機の巨影が遠ざかろうとしていた。
「――――!」
筒先から噴き出す炎が一閃。それはガス圧により一本の矢を虚空へと打ち出す。十分な高度まで延び上がったそれは、その尾部に点火し禍々しい噴煙を吐きつつ回転翼機の背後へと突っ込んで行った――――姿勢制御のために生じた歪な軌道。しかし鋼の火矢は目標との接触と同時に炎を生み、遅れて生じた爆発音と共に夜の深まりをオレンジ色に照らし出す。
「当たった……!」
巨影の一隅から禍々しい炎を吐きつつ自転し、そして急降下する回転翼機の機影――それは未だ下界を支配する闇の彼方に取り込まれ、烈しい衝突音と共に気配を消した。それを目にした男がひとり、銃を振り上げて叫んだ。
「キズラサの神は偉大なり! 神は永遠の業罰を異教徒に与え給う!」
自ずと発生した唱和は、即ち勝利の歓呼となって森の静寂を圧した。
「…………」
耳障りな電子音が鼓膜を打つ。乗機が地対空誘導弾に捉われたことを教える警報音だ。それが聞こえて来た後に全ては終わった。絶叫と衝撃、その後には暫くの静寂――
覚醒しつつある意識が、薄らとした視界をも昏倒した身に伝えてくれる。次には手を動かしてみようかという気になる。最初に指先が震え、次には手に力が入るのを確認する。そして俊二は身を起こそうと腕に力を入れる――
「――――!」
半身を起こしたところで、俊二はやや離れて横たわる骸と眼を合わせる。不時着――否、墜落激突したチヌークの傾いた機内で、内壁に張り付いた様に逆さまの躯を横たえるノドコール人の男。但しその首は根元から直角に曲がっている。人体構造学的に有り得ない曲がり方であった。見開かれたままの空虚な眼が、男の意識が完全に此処より遠く離れた世界へと赴いたことを示していた。狭い機内で彼と同じ運命を辿った者は、決して少なくなかった。
「…………」
何かが焼ける匂いがする。それが俊二に機内からの離脱を促す。しかし俊二の足は前方へと向いた。隔壁ひとつを隔ててキャビンと繋がるチヌークの操縦席。意を決して向かったそこにも、生は無かった。同じ自衛官たる操縦士は、正副共に計器盤に突っ伏したまま動かない。首筋に手を充て、ふたりとも既にこと切れていることを知る。
無言のまま、その離陸から開け放たれたままの後部扉へと向かう俊二を、此処に至る記憶が怒涛のように苛んだ――
「――――!」
何気なく視線を巡らせたランプドアの外、暗灰色の雲海を背景に下界から延び上がる光を見出したときには、それは灰色の噴煙を縦横にくねらせ、獲物に飛び掛からんとする蛇のようにヘリに距離を詰めて来た。不意にキャビンを満ちた警報音、乗員の怒声、回避運動に入り上下左右に揺れるヘリの巨体……それが、俊二が最後に感じた全てであった。一瞬の静寂の後に足元から機内を揺るがす振動が生じ、姿勢を崩した俊二は烈しく床に叩き付けられる。そこで俊二の意識は飛んだ。
「…………」
ランプドアの傍、見慣れた姿がうつ伏せのまま動かないのを俊二は見た。床に突っ伏したまま動かないケンシンの横顔を、俊二は片膝を付き凝視する。首筋に延ばした指が、彼に未だ息があることを俊二に教えてくれた。半身を抱え起こし、背後から胸郭を刺激し覚醒を促すことにする。
「――――!?」
人心地を取り戻したばかりのケンシンには構っていられなかった。身体を引き摺るように動かし、俊二はキャビンの外へと進み出る。何より機内にケンシン以外のD分隊の同僚の姿を認めなかったことが、俊二を内心で不安にさせていた。但し不安は冷気漂う外界に飛び出した途端、一気に氷解してしまう。
「あ……?」
地べたに座り込み、頭を抱え込むトウジの姿を見出した時、俊二は思わず表情を綻ばせた。トウジもまた俊二の姿を認めるや、手を上げて会釈する。
「よかった。生きていたか」
俊二は歩を速め、トウジの傍に屈んだ。同時に俊二は、不時着地点の四隅に散った生残りの姿を把握することができた。ヤクローにブレイド、そしてハットリくん……そして鷲津隊長と壹岐三佐は、残骸の傍で再会を喜ぶ二人を、無感動に見詰めていた。それが、俊二がこの夜に見出すことの出来た生きている人間であった。そこに漸く起き出し、機外へ出たケンシンの気配が入り込む。
「シュンジ!」
「…………?」
唐突に名を呼ばれ、再び鷲津へ向き直り掛けた俊二に、鷲津は手にした小銃を放った。訓練でも扱ったことのある、ローリダ軍制式のザミアー半自動小銃だった。同乗していた解放戦線の戦闘員の中に、これを持っていた者がいたことを俊二は思い出す。ずしりと重い小銃を両腕と胸の力で受け止めた俊二は、慣れた手付きで薬室を開け弾丸が装填されているか否かを確認する。そこにすかさず鷲津の指示が飛んだ。
「マスターと組んで隊を先導しろ。ここから真っ直ぐ西へ向かう」
「了解」
俊二を見詰めたまま、「導師」壹岐が軽く頷いた。その手にはザミアーよりさらに小振りな銃が握られている。先導の準備に取り掛かる壹岐に迫りつつ銃の詳細を凝視するうち、俊二はその銃に見覚えがあることに気付く。だがそれは、一面では有り得ない……否、あってはならないことである筈だった。
「M1カービン……!」
「これかい?……実を言えば少し弄ってあるんだ。フルオートで撃てるようにね」
驚愕を隠さない俊二の背後では、後続する隊の掌握にかかった鷲津隊長と、ヤクローの会話が始まっていた。
「駄目です。無線機は完全に壊れています」
「よし、壊れたものも含め通信機及び機内の航法機器は全て破壊しろ。完全にだ」
「了解……それで、外部との連絡はどうしますか?」
「そうだな……ローリダにも公衆電話があることを祈るしかないな。やつら携帯持ってないだろ」
「…………」
俊二と壹岐は互いに顔を見合わせて苦笑した。順調な移動からの暗転、それにも拘らずただ良い未来を目指そうという陽性の活気が隊の中に醸成されようとしている。それこそが他の隊に無い特殊作戦群の気風であることに俊二が気付くのに、それほど時間は要しなかった。
もうすぐ夜が明ける。周囲は未だ闇だが、先刻と比べ東から流れてくる空気が暖かくなっている……それ故に俊二はそう直感する。出発準備を終えた壹岐が、歩き出しながらに指示を発し始めた。
「マスターより各員へ、これより森に入る。間もなく夜が明ける。視認される危険をなるべく避ける必要がある。このまま西へ進み、通信手段を確保した後ビーコンを起動させよう。では出発」
自然に隊列は複数の群からなる横隊になり、そのまま森の深奥へと融け込んで行った。
ノドコール国内基準表示時刻12月27日 午前5時25分 ノドコール南部洋上 海上自衛隊航空護衛艦 DCV‐102「かつらぎ」
赤い光が放射線状の触手を投掛け、そして海原を支配していた闇を溶かしていく。光はその円い本体をヘイゼルに染まった空の上に浮遊させ、やがては暖かさを伴った赤い実体が白色に生れ変わった綿雲の連なりと共に空を支配するに至る――まるで旭日旗だと、航空自衛隊 准空尉 諏訪内 航はその様を見ていて思った。
その旭日旗の下を、艦隊は驀進している。正義を守り切れなくなった場合、八方に正義を貫く力の迸り出た形が旭日旗であると故人は言った。生まれ出た旭日の下で洋上を征く艦隊はまさにその力の発露と言えるのかもしれない。航空護衛艦 DCV‐102「かつらぎ」の艦尾キャットウォークから臨む、艦の喫水から水平線に至る各所を占める艦影は決して少なくなく、蹴り立てる白波の大きさから艦の速力を容易に量ることができた。現在「かつらぎ」は、侍従に傅かれる女王の如くに輪形陣の中央に在る。それら護衛艦の中で、「かつらぎ」に最も近い位置に居る直援の護衛艦 DD-115「あきづき」の艦番号まで読み取ることが出来る程、空は白み始めていた。但し頬を打つ風は相変わらず冷たかった。
「かつらぎ」に距離を置き、輪形陣の中心を併走する平坦な艦影から銀翼が一機、飛行甲板を駆けて朝空を飛び上がるのを航は見た。同型のDCV-101「あかぎ」から、新型のジャリアーMkⅡ攻撃機が発進する一部始終。だがその翼の煌めきは慌しく、高度を稼ごうとするその挙動にも余裕が感じられなかった。発艦したジャリアーは二機、それらは編隊を組むこともせず、やがては朝焼けにぎらつく雲の中へと消えていった。
『――CICより達する。艦隊より方位2-3-0に、艦隊へ向かい北上する国籍不明機を探知。速力400nm。高度66000フィート……国籍不明機、今なお接近中』
「…………」
艦隊を取巻く状況を告げる艦内放送の内容に引っかかるものを覚え、そして航は放送の一字一句を脳裏で反芻し愕然とする。高度66000フィートなんて……そんな高々度を飛ぶ航空機を迎撃できる戦闘機なんて、この艦隊はおろか航空自衛隊のどの部隊にも存在しない筈だ。そしてメートルに換算して20000以上の蒼空を飛ぶ航空機自体、その用途が限られて来るであろう――
「――ロメオの長距離偵察機だそうだ。司令部の情報幹部が教えてくれたよ」
背後から声を掛けられ、航は怪訝な目付きもそのままに背後を顧みる。同じ准尉でも所属は海上自衛隊、しかし今となっては同じ戦闘機で生命を預け合う掛け替えのないペア……准海尉 菅生 裕が、微笑を浮かべてキャットウォークに踏み入ろうとしていた。
「何でも存在が確認されたのが去年の今頃で、どうやらその前から自衛隊らの近辺を嗅ぎ回っていたんだと」
「どうしてもっと前から判らなかったんだろうな……」
「あえて関知した素振りも見せずに泳がせていたのもあったみたいだけど、どうも向こうの軍とは別の指揮系統で動いているみたいだ……だから確認作業が遅れたってことらしい」
そこまで言って、菅生は手にした紙コップ入りのコーヒーを啜る。
「ふうーん……」
漠然と頷きつつ、航は東方から赤銅色に染まり掛けた朝空を見遣る。「かつらぎ」の左舷遥か後方、その遥か頭上を占める天球に一文字に曳かれつつある飛行機雲に、航は思わず円らな両目を見開いた。雲は薄いが、何者かが天の一角に存在しているのが明らかに判った。
「気持ちいいだろうな……あんな誰もいない空の高みを独りで飛ぶのは」
「でも覗かれるこちらとしては、いい気分しないな。しかもあいつが現れてから付近の海が騒がしい。情報部では潜水艦を呼び寄せたんじゃないかって言ってる」
「そんな……」
遥か遠方、水平線の位置で並走している「あかぎ」を見遣り、菅生は言った。
「あいつらも可哀そうに……何も起きなきゃ、クリスマスまでには内地に還れたんだぜ?」
「…………」
航も無言で、水平線の彼方で白波を蹴立てる「あかぎ」を見詰めた。本来ならばこの海域に所在する母艦機能を有する護衛艦はこの「かつらぎ」一隻である筈だった。状況の逼迫が祖国帰還に湧く「あかぎ」乗組員をこの海域に引き留め、しかも終わりは未だ見えなかった。不意に警報が鳴り始めた。260メートルに喃々とする巨体を震わす程に喧しい電子の悲鳴、その後に新たな艦内放送が続く。
『――対空戦闘用ー意!……総員、国籍不明機の異常接近に備えよ』
「攻撃して来るのか?」
「まさか……」
菅生の口調には、巡航経験者らしき余裕があった。彼が伊達に「スロリア紛争」前から護衛艦に乗っている訳ではないことは、その落ち着き払った素振りからも察せられた。飛行甲板の方向からジェットエンジンの全開される時特有の金属音が迫って来た。金属音の高まりが頂点に達した時、一切の拘束から解き放たれたジャリアーが飛行甲板を駆け、そして小振りな機影が「かつらぎ」の艦首傾斜構造から朝空へと飛び上がる。航の肩袖を軽く引き、菅生は言った。
「待機室に戻ろう、搭乗割に変更があるかもしれない」
「うん……」
航にとって、待機室は好きな場所では無かった。厳密に言えばここ数日の待機室に滞留している、濁ったスープの様な暖気が好きでは無かった。貴重なパイロットに風邪を惹かせまいとする配慮故かもしれないが、暖房も度が過ぎればそこに居る人間の思考を鈍らせ、時としては集中力すら摩耗させてしまう。その度に艦外に出ては冷気に意識を晒し、気を引き締めるという事を航は繰り返している。結果を言えば、「搭乗割に変更があるかもしれない」という菅生准尉の予想は、当たっていた。国籍不明機への対処に「かつらぎ」からも二機が発進した結果、先行した二機の内一機が担う筈だった「特殊任務」を、航と菅生が担当することになったのである。そうなるであろうことは、待機に入る前に知らされていた。
「――状況を説明する」
最終ブリーフィングの場となった待機室隣の小部屋で、長浜 智章一尉の精悍なマスクを占める眼鏡が広角多機能表示端末の光を受けて輝いていた。その彼の前に並んで座り、航と菅生は広角端末の映し出す各種情報に眼を凝らす。ブリーフィングに入る前、「おれが行こうか?」と長浜一尉は航に聞いたものだ。単なる好意の為せる業では無く、「特殊任務」の作戦全体に占める重要度……否、危険度の高さ故に航の上官としての義務感を喚起された彼が、飛行に臨む航たちへの配慮を示したことは航自身にはすぐに判った。もちろん航は長浜の申し出を固辞し、それを受けて長浜は小部屋に航たちを招じ入れた。
「――ヴァルキリー204は発艦後、北東へ向かいスロリア方面へ一度離脱。指定空域『F』で給油機と会合し、高度30を維持しつつ西方向よりロギノール上空に侵入する」
ヴァルキリー204こと、航と菅生に与えられた「特殊任務」とは偵察飛行であった。主な偵察目標はノドコール南部の要港ロギノールとその周辺。偵察飛行にスロリア方面に展開する空自作戦機を投入しないのは、ノドコール全土に衝突が拡大している現状であっても、全面的な介入を図ることに対し東京が未だ慎重な姿勢を崩してはいないことの現れでもあった。
飛行に際しヴァルキリー204は武装せず、偵察用の機材を胴体下に積み、主にノドコール南部の脅威の所在を捜索し、続けて脅威の移動状況及び規模を把握することを期待されている……つまり、近い将来に発動されるPKFによるロギノール強襲占領に備えた戦術偵察飛行であった。武装を施さないのは交戦の意図を持たない意思表示であり、あるいはこの飛行自体が問題とされた際、任務自体を単なる「訓練空域からの逸脱」に矮小化するための方便でもある。しかしレクチャーを受ける航と菅生としては、敵地上空も同然の場所で非武装の機体を飛ばさねばならないが故に、首筋に怖気を覚えること甚だしい。
「――現在ノドコールでは、すでにスロリア中部を根拠とする無人偵察機が情報収集活動を開始しているが、これらは絶対数と機体性能の関係で中部以南までは手が回らない。そこで我々水陸両用部隊としては、独自に情報収集活動を行う必要が生じた」
今より遡ること一時間以上前、スロリアPKO所属のCH‐47J輸送ヘリコプターが一機、任務飛行中に消息を絶っていることを航と菅生はこの時に知らされた。長浜一尉によれば、スロリアを根拠地とする無人偵察機部隊はその捜索にも傾注されていて、結果として水陸両用部隊はUAVによる支援を受けられず、そのしわ寄せが両用戦部隊固有の航空戦力に巡ってきた形となっている。前線展開を身上とするジャリアー乗りの常として、航たちもまた戦術偵察飛行の訓練を受けていたが、新たな任務の付与の結果、最も期待されている任務である筈の近接航空支援のローテーションに齟齬が生じるのは、やはり苦々しく思われた。
「やはり作戦開始は遅れるのでしょうか?」
と、菅生が長浜に聞く。長浜は少し考える素振りを見せ、口を開いた。
「ここだけの話だが、政府はいま真剣に介入の名分を探っている。つまり……単にノドコールが混乱状態にあるというだけでは国際社会を納得させられないというのが東京の考えなんだ。一連の混乱にロメオが関与しているという明確な証拠が欲しいってところなんだよ。それが手に入るかどうかを見極めているのが現状って感じだな」
「……ということは、もうノドコール国内で動いている部隊があるってことですか? あの特殊作戦群とか」と航。
「かもしれないな……」
……かくしてブリーフィングは終わり、装具の着用を済ませた二人は再び飛行甲板へと舞い戻る。
二人が再び飛行甲板に立った時には、DCV‐102「かつらぎ」は右に向け回頭を始めていた。それ故か右舷から吹き付ける向かい風が冷たく感じられた。先刻緊急発進したジャリアーを受け入れる準備ではないかという航の予感は、すぐに的中した。フラップとギアを全て下したジャリアーが速度を殺しつつ艦尾に向かって来るのを航と菅生は見る。そのジャリアーが脚を接するべき飛行甲板の中程に、二人がこれから乗込む「ヴァルキリー204」が銀翼を休めていた。
ノドコール国内基準表示時刻12月27日 午前6時42分 ノドコール中部
夜は完全に明けた。山間を縫う隊列はその間隔を開きつつも、相互の位置と進むべき道を見失ってはいなかった。
平坦な、鬱蒼とした森は、すでに岩肌の目立つ曲がりくねった山道へと転じている。進むにつれ傾斜を増す道は狭く、時として道そのものの所在すら量れなくなる場合がある。しかしそのようなことは隊列を成す陸上自衛隊 特殊作戦群の面々にとってはどうでもいいことであった。彼らの思考はこうだ。歩くことができればいい。歩く場所があれば、それが我々にとって道となるのだから……それは特戦においては新参者の二等陸曹 高良 俊二にとっても多少の相違こそあれ例外では無かった。
「…………」
懐かしいな――と、俊二は思い始めている。三等陸佐 壹岐 護と共に先頭を切って歩いている山道が、である。
三年前、やはり大陸を同じくするスロリアにおいて俊二は、此処と同じような道を踏み啓いたことがあった。ただし当時の状況は若干ならず違う。三年前の彼は棒にも端にも掛からない様な、吹けば飛ぶような予備自衛官の二等陸士であった。運命は俊二から、西方からの征服者の侵入という形で同僚の生命を取り上げ、外見こそは軍人でも戦闘のせの字すら知らぬような若者を、旧型銃一丁に儚い身命を預けてスロリアを放浪する身に転落させるに至った。さらにはご丁寧にも人を人とも思わぬ敵戦闘員の追手まで設えてくれた。
その追手から逃れるために俊二は森を抜け、叢に潜み、山を縫った。但し今回のような大人数ではなく、また独りでもなかった。あの逃避行において心身共に俊二の支えになった女性のか細い影――歩きながらにそれを、俊二は脳裏で味わうように反芻する。
「…………」
あの終わりの見えない山道を共に並び、または前後になって奔り続けた記憶を俊二は持っている。金髪と白皙の頬を持つ運命の女神のような横顔があの時の俊二の傍には常にあったように思える。同時に彼女が纏っていた濃緑のコートと分厚い雑嚢という野暮ったい出で立ちが、性根の据わらなかったあの頃の自分に、却って縋り付きたい程の凛々しさを与えていたように思い出された。彼女と出会えたからこそ自分はあの地獄を生き抜き、こうして強くなろうと思えたのではないかと俊二には感じられる……彼女がいまの自分を見たら、どう声を掛けてくれるだろうか? そして、「スロリア紛争」後に遭遇した山岳戦の記憶――
特殊作戦群に入る前年、ウォルデニスという、肌色の荒地と鬱蒼とした森の交互に入り混じった異国の地で俊二は戦ったことがある。その頃の俊二は第一空挺団隷下の降下誘導小隊に在って、他の第一階層特殊部隊の補助任務に従事していた。具体的には海上自衛隊特殊部隊との協同作戦であったが、異郷に迷い込んだ邦人技術者の救助という当初の目的は、些細な行き違いから岩山に籠りその地を支配する鳥人との凄惨な接近戦へと変貌してしまった。頭全体を包むターバン、感情の無い黒目に嘴から覗いた鋸の様な牙、独特の排他的な信仰を持ち、異種族を悪魔と見做す彼らの襲撃により少なからぬ数の人間が斃れ、俊二たちもまた任務を完遂するべく多くの鳥人を斃した。その途上で再び――
「…………」
タナ……そしてウォルデニスのあの深い森で出会った人々はいま、何処で何をしているのだろう?――壹岐三佐のすぐ後を追いつつ、俊二は朝の白から刻を経てうっすらと蒼みがかりつつある天を仰いだ。天の全景は、天に刃向かわんばかりに延びた灌木の襖に阻まれ、じっくりと推し量ることはできなかった……そのとき、何気なく流れる山間の冷気のまだ先に違和感を捉え、俊二は意識を現実へと傾注させる。「止まれ」と、壹岐三佐が告げるのと同時だった……山道の傾斜の頂点。
直接の上官たる鷲津二尉、そのまたさらに上の指揮官たる御子柴群長もそうだが、風聞等から僅かに知るに至った眼前の壹岐三佐の辿って来た人生の軌跡もまた驚異に満ちている。入隊前は仏教系の大学で考古学を修めたという壹岐三佐は、その胸中に秘めた動機も判然とせぬまま一般幹部候補生として陸上自衛隊に入隊し、長じて特殊作戦群の正隊員となった。当然「転移」前の話だ。あの「環アジア戦争」時、国家防衛の最前線に身を投じ超人的な活躍をしたことで知られる伝説の戦闘集団、その全容はおろか実在すら判然としない伝説の秘密部隊「影の戦線」のメンバーに、彼もまた名を連ねていたそうだが、今となっては敢えて彼の過去を探ろうとする者は身内の特殊作戦群の中にすらいない……
「身を伏せろ」と、ハンドサインで壹岐は俊二に示した。命ぜられたまま身を伏せ、匍匐を駆使して壹岐の傍に寄る。壹岐は俊二に双眼鏡を覗きつつ方向を示し、見るように促した。
「村落だ……現地人がいる」
「…………」
ノドコールに多く見られる背の低い、半地下式の藁葺きの平屋の連なり。その西の外れを占める三棟の内一棟から現地人と思しき服装の一団……否、家族が引き出される。銃を突き付け、あるいは乱暴に彼らの襟首を引っ張って移動を促している人影は、一人の例外なく「開拓服」と呼ばれるローリダの衣装を着ていた。ちょうど「前世界」の西部劇に出てくるカウボーイの衣装に似ている――それらを俊二は、双眼鏡での一瞥で感じ取った。
「偽装していない……あれは正真正銘のローリダ人だな」
「憎悪の連鎖ってやつですか」
「そういうことだ」
苦々しげに壹岐が応じる。これまでの集落襲撃がローリダの謀略によるものが公になっていようがいまいが、現地人「らしきもの」による襲撃を現地のローリダ人が受けていることは事実であり、ローリダ人の中には自衛の観点から「武器を執って起つ」ことを選んだ者もいるのであろう。だが彼らが真に銃口を向けるべき相手がものの見事なまでに違うというのでは、その背後にあって全てを操ったつもりになっている何者かの悪意を、怒りと共に噛締めざるを得ないというものだ。
双眼鏡を覗き続ける俊二の眼差しの先で、家から引き出された家族は、時折銃口で急きたてられ、あるいは怒声と唾を吐き掛けられつつそのまま村の中心まで歩かされ、その中心にはやはり村の家々から引き摺り出されたであろうノドコールの人々が集められていた。
「――――!」
人々の群から千切れる様に人影が走り出す。逃走だ。民兵の制止を振り切り村の外へと疾駆する村人がひとり。だが――
パンッ!――乾いた銃声は一発、それは機を同じくして自由への逃避を試みたノドコール人を、出血と共に背中から撃ち斃した。
「マスターよりコブラへ、現地人の村落を視認。いま現地人がひとり、ローリダの民兵に撃たれた」
『――こっちもいま見ているところだ……村の南口に通信車を発見……あれは駐留軍のやつか?』
双眼鏡を村の南方に転じる。荷台のコンテナから四本のアンテナを生やした軍用トラックが一台、同じく巨大な円形アンテナを回転させ続ける同型トラックが一台……さらにそれらの近くには、濃緑のコートを纏ったローリダ正規兵数名と荷台が空の小型トラックが二台。これは恐らくは、援農用にローリダ本国から持ち込まれた民間仕様だろう……思考を巡らせる俊二のすぐ隣、壹岐が再び口を開いた。
「ああ間違いない。駐留軍も混じっている」
『――くそっ!』
「しかしあのレーダーアンテナみたいなものは何だ……?」
『――わからない。村に入る価値はあるな』
「やるか?」
『――ああ、やろう』
「――――!」
俊二の肩を叩き、壹岐は監視地点の移動を移動を促した。ここからは本格的な近距離偵察への移行――継続訓練で仮設の訓練施設、あるいは山奥の廃村を舞台に何度となく繰り返した演習が思い出された。村との距離を縮めるべく山肌を直に通る。斜面に直立する木々を支えに速度を殺しつつ、二人は山の麓へ向かい斜面を文字通りに滑り降りる。山の麓が見え始めた。そこからずっと先には、点在する家屋と山を隔てる様に薄野が拡がっていた。身を隠すのにも有利な位置、しかも丁度うまく村の広場すら見通せる位置だ。そこから匍匐の姿勢で再び覗いた双眼鏡――重複する銃声。
「――――!」
『――コブラよりマスターへ、民兵が村人の殺害を始めた。手当たり次第に撃ちまくっている……酷い……!』
村の中心に集められた村人に向かい、民兵が射撃を始めていた。非武装のノドコール人に向けられた銃は大小様々だ。猟銃と思しき細長い銃から拳銃、中にはローリダ軍制式の自動小銃を腰だめに撃っている者までいる――銃声と硝煙に塗れた阿鼻叫喚が過ぎ去った頃には、村の中心部には替わり果てたかつての住人が、覆い被さる様にして骸の山を作っていた。未だ息のある村人に止めを刺す銃声が散発的に続く中、民兵の奥からボンベを背負った異形の兵士が進み出、両手に構えたホース状の物体を死体の山に向ける。ホースの先端から吐き掛けられる紅蓮の炎――
『――狂ってやがる!……ローリダ人ってのはみんなああなのか?』
無線機の向こうで、誰かが叫ぶように言った。聞き覚えのある声だったが、誰の声かは俊二には判然としなかった。壹岐三佐が再び口を開いた。
「マスターよりコブラへ、こちらは北へ回る。コブラは東から来い」
『――コブラ了解』
至近の壹岐はあくまで冷静だった。再び俊二に前進を促し、俊二は身を屈めて彼に従う。その頃には何処から放たれたか判らぬ火が、村の各所から上がり始めていた。
「マスターよりコブラへ、敵兵の総数は40名程だと思うがどうか?」
『――こっちも同感だ……上手くやれば30分で片が付く』
「では、手早く済ませて電話を借りるとしよう」
『――ついでに車もな』
俊二の驚愕――壹岐がクスリと笑った。北口には誰もおらず、二人は容易に村内へと踏み込むことに成功する。否――
『止まれ』
先導する壹岐が拳を上げ、俊二に家屋の陰に潜む様促す。土壁の突き当り、その向こうで自動小銃を構えて佇む民兵がひとり――
「どうする?」
「自分がやります」
言うが早いが俊二は進み出た。ただし民兵が此方に背を向けた瞬間に土壁沿いに走り出、隙を見てドアの壊れた家屋に入り込む。ただならぬ気配を察した民兵が振り返り、突き当りを確かめようと入口を通り過ぎかけた刹那――
「――――!?」
戸口から襲いかかった一瞬は民兵から身体の自由を奪い、直後の彼の生をも奪った。頭から家屋へ引きずり込まれ、それに続く脛骨への過度の圧迫により引き起こされた破断――それを企図して一秒足らずで成し遂げた俊二は表情一つ変えずに外へ進み出、新たな得物を物色する。向かいの家屋から呼ぶ声、その主が迫って来る前に、俊二は隣接する井戸へと身を滑らせる――
「カルロ……?」
それは二人組であった。猟銃と自動小銃で武装した二人の青年。恐らくは先程の民兵の名を呼んでいるのであろう。銃を構え、名を連呼しつつ二人は平屋へと進む。家屋から漂う不穏な気配に気付いたのか、二人の内年長らしき一人が、もう一人に言った。
「お前は此処で援護しろ。おれが探してみる」
「あ、ああ……」
力なく頷いた一人を井戸の傍に残し、男が前進する。残された男が警戒心故か、些細な物音から井戸の向かいに銃を構えたそのとき――
「――――!」
突如背後から衣服を引っ張られ、男は後ろ向きに井戸へ転倒した。絶叫を上げる暇も無かった。入れ替わる様に井戸から飛び出す俊二。前進した男が何気なく背後を振り返る……仲間の気配が無い。
「ロヴス……何処だ?」
狼狽の色を隠さず、男は元来た途を引き返し始めた井戸の所在する突き当り――
そこの敵の所在を思い、男は距離を取り突き当たりへ向け銃を向ける――
「…………?」
いない――狼狽の上に混乱が重なる。それでも駆け寄った井戸の中に、こと切れた仲間の姿を見出した瞬間、狼狽と混乱は恐怖へと昇華した。
「ヒィ……!?」
それは藁葺きの屋根から音も無く男の背後に降り立ってその口を抑え、即座に男の喉を掻き切った――
「……オールクリア」
「御苦労さん」
預かっていた小銃を俊二に放って返し、壹岐は再び俊二を先導する。歩を進める毎に火を放たれる家は増え、その周囲を右往左往する民兵の人影すら散見された。彼らの眼に触れないよう、二人は家屋の陰に身を隠し、あるいは匍匐の姿勢で浸透を続ける。その点壹岐の誘導は絶妙だった。敵のいない場所を予め知っているかのように彼は進み、何時しか彼の誘導に安心しきっている自身を俊二は自覚する。
「――マスターよりコブラへ、トラックを視認できる位置にまで進出した。そちらはどうだ?」
10分後――壹岐と俊二は村の南口、軍用トラックの停まる一角を見ろす位置にいた。俊二たちの居る川岸の対岸、相変わらず回転を続ける移動式のレーダーアンテナは、その周囲で偽装網の敷設が始まっており、通信兵を引き連れた下士官と思しき軍服が、送受話器を手に話し込む姿すら見受けられた。
『――こちらコブラ、今川沿いに進んでいる。いま橋が見えた』
「…………」
構えた双眼鏡をそのままに眼を凝らす。橋の上に見張りがひとり、トラックの停まる周辺に、同じく兵士が4……5人。此処に通信用の拠点、あるいは戦域航空管制用の拠点を作るために彼らは民兵と共に進出し、その過程でノドコール人たちは虐殺された……と考えれば合点がいく。
『――マスター、橋の上の敵兵は何人いる? こちらからは見えない』
「橋の上に一人、停車地点に五人だ……いずれも民兵じゃない。正規軍の兵士だ」
不意に背後が騒がしくなるのを俊二は感じ取る。肩越しに顧みれば、だいぶ火が回った村内では、気色ばんだ顔をした民兵たちが取るものも取りあえずという慌ただしさで北口への移動を始めていた。混乱が始まっていた。それを目にした壹岐が苦笑して言う
「君が処理した敵兵に釣られて北側へ向かっているな……いいタイミングだ」
そして俊二の肩を叩く。
「シュンジ、あの通信兵を狙え。我々の浸透を報告されるのは拙い」
「了解!」
アイアンサイトだが、十分狙える距離だと思った。俊二はザミアー7半自動小銃を構え直し、照星が指揮官に付き従う通信兵の頭部に重なった――息を止めるのと引鉄を引くのと同時――側頭部をはたかれるようにして弾かれ、砕かれた頭部から脳漿をぶちまけつつ足元から崩れ落ちた通信兵。永遠に歩みを止めた彼より数歩進んだところで部下の異変に気付いた指揮官の胴を、俊二の放った第二弾が貫通する。
「敵襲っ!」の絶叫が虚しく聞こえた。その時点ですでに対岸の兵士個々に付けられていた狙い通りに銃弾が命中する。ものの一、二発で抵抗も出来ず、声を上げることも叶わずに地面に倒れ伏す敵兵。生きている敵兵の誰もいなくなった停車場へ向かい、一気に駆け上る黒尽くめの群――
「合流するぞ!」
壹岐と俊二は駆け出した。警備兵を失い取り残された軍用車両から、生き残りの兵士たちが毀れ落ちる様にして橋の方向へ逃げて来る。彼らと橋の上で対面する形となった壹岐の反応の方が早かった。ホロサイト付きのM1カービンが軽快な射撃音を奏で、俊二もそれに続く。残敵掃討は呆気なく終わった。
「前方クリア! 前へ!」
息せき切って対岸へ踏み入った時には、すでに橋梁爆破の準備が始まっていた。ヤクローがC4爆薬に点火装置を差し込み、トウジを伴って橋の下へと向かう。元いた対岸が、不遜な侵入者の存在を今更のように察した民兵の蠢きで慌ただしさを増していた。
「民兵が来るぞ! ブレイド、ケンシン、銃座に付け!」
トラックの荷台上に据え付けられた重機関銃、ブレイドがその黒光りする銃身を巡らせ、円形の照準環が橋に取付こうとする民兵の群に重なる。ブレイドが引鉄を押し込むや、重厚な響きを立てて銃身が震え、破壊の光矢を吐き出した。舞い上がる土柱、千切れ飛ぶ手足に胴体、断末魔の絶叫――それ以上の成す術を失った民兵の阿鼻叫喚を横目で見やりつつ、ケンシンは重機関銃の装填を手伝っている。腰から上下に吹き飛ぶ人体、肩から腕を持って行かれて弾け飛ぶ人体……その口径と弾の重さ故に弾幕は猛威を揮い、前進したヤクロー等に悠然と爆薬の敷設を成功させてしまう。
「爆破用ー意!……爆破!」
木組みの橋の中央、その直下に仕掛けられた爆薬は貧弱な橋脚を折り、均衡を失った橋は自重も加わりその中央から潰れる様に曲がり、そして川面へと呑み込まれていった。その一方で向こう岸の民兵は重機による反撃を受けても尚その数を増し、渡河の機を伺っているように見えた。
「シュンジ、機銃に付け!」
彼自身手持ちの64式小銃で対岸に応戦しつつ鷲津が言う。乗り手を失った軍用トラックの天井に配された重機関銃に脚から身を滑らせ、、俊二は装填レバーを引き、そして銃身を巡らせた。引鉄を押すや肩までに達する程の反動と共に重い弾幕が対岸へと延びていく。地面に散る着弾の火花と同時に、弾幕に捉えられた敵兵が血の霧を噴き上げて斃れ、あるいは胴体を引き千切られていくのがはっきりと見通せるほど銃座の視界は良好だった。威力と射程で抗し得ないと悟ったのか、あるいは機銃の威力を前に怖気を揮ったのか背中を向けて離脱を図る者が見受けられ始める……このあたりの芯の弱さは、彼らが根本は単なる入植者でしかないことの表れか――そのうち、対岸から完全に人影は消えた。
『――デルタ射撃やめ、射撃止め!』
命令を受け、俊二はトラックから飛び降りる。放置された形となった軍用トラックの傍でヤクローが爆破準備に取り掛かる一方で、虫取り網を思わせる形状のアンテナをなおも回転させ続けるトラックの内部では、鷲津と壹岐の話が続いていた。
「管制盤の形状に見覚えが無い……新型の野戦用レーダーか」
「いや……私には見覚えがあるな……管制盤の配置にスクリーン周りのボタン……これに似たのを昔ロシアの資料で見たことがある」
車体の後方で周辺を警戒しつつ又聞きする内、誰かが舌打ちする音を俊二は聞いた。
「そうか……判ったぞ。こいつは対空警戒システムの末端だ」
「……ということは、地対空ミサイルか!」
「……この近くには無い様だが、スクリーン内の配置から判断するに実物がノドコールの何処かに在るってことだろうな。それも多数が広範囲に」
「……やつら、何時の間にこんなものを……!」
「…………」
軽度の調査を終えた鷲津と壹岐が車から出た。部下を集合させ、鷲津はトウジに敵の無線機を使っての基地との回線接続を命じる。トウジは慣れた手つきで無線機の周波数を調整し、即座にスロリア方面のPKF基地との通信回線を開いてしまった。
「繋がりました」
と、送受話器を差し出すトウジに頷き、鷲津は基地の指揮所を呼び出した。ヘリが撃墜され同乗の解放戦線が全滅したこと、今眼前に在る対空レーダーのこと……特に対空レーダーとそれに連動する兵器の存在する可能性に関する報告は、司令部の耳目を大いに惹いた筈である。ヘリでの回収は要請しなかった……というよりできなかった。先夜……そして今現在自分たちが直面している地対空兵器の脅威が明らかになったこの上は、ノドコール上空で飛行機を飛ばすのは至難の業だろう――報告の最後に、鷲津は端的に以後の行動予定を告げた。
「我々はこれより交通手段を確保し、万難を排してベース‐ソロモンに向かい友軍と合流します」
『……いや、もう手遅れだ』
「…………?」
『――たった今……ベース‐ソロモンが武装したローリダ人に包囲された』
「――――!?」
鷲津は思わず、傍らの俊二と顔を見合わせる。期せずして二人とも、その面から感情が消し飛んでいた。
ノドコール国内基準表示時刻12月27日 午前7時01分 ノドコール南部上空
「――204、第3変針点通過」
操縦桿を前に倒し、高度を下げようと試みる。黄昏から蒼々しさを取り戻した空を彩る雲海は真白く、今日は快青が続くことを、ジャリアーMkⅠ「ヴァルキリー204」の操縦桿を握る諏訪内 航に予感させた。機はノドコール西方のスロリアとの境界、便宜上そこに設定された第3転針点と同時にそこを越え、今や完全にノドコールの領域に入っている。つい一時間ほど前にノドコール南部洋上の航空護衛艦から発進したヴァルキリー204からすれば余りに長く、煩わしい回り道だった。燃料と労力の無駄遣いの甚だしいこと夥しい。発艦後、北へ直進してノドコール南の海岸線を越えて侵入を図るのが正道だと思うのだが、安全な東京に在って電子地図を前にアーデモナイコーデモナイと空論を振り回すお偉方の思考は少しならず違うようだ――実力行使のゴーサインを出すまでノドコールの陸と海には直接に触れない。触れるにしても必ずスロリアというワンクッションを置く……航はそれほど真剣に考えることは無かったが、それが東京サイドの当面の姿勢であった。
緩降下――それから背面に転じ、航は横転で飛行経路を修正しつつ乗機の降下速度を上げる。通例の飛行禁止空域監視任務ならば、戦術機動の訓練という名の下で飛行に在る程度の「裁量」が与えられることを航は知っていた。先刻、飛行禁止空域に入る前に海自のC‐130Rと会合し空中給油を終えたジャリアーの操舵は重いが、それでも辛いという程では無い。両手を添えて操縦桿を動かせば、ジャリアーは増槽や装備を抱えていてもパイロットに対し良好な反応を示してくれる。
『――ワタル、張り切り過ぎだ。もうすぐ高度10……姿勢を戻せ』
「――……――……――」
腹式呼吸で喘ぎつつ、後席の菅生が言う。後席に過大な負担を掛けつつあること、自身に掛けた重力の負荷に限界が近付いていることを察し、航はジャリアーを水平に戻した。丁度エンジェル10――高度10000フィートの位置だった。
『――ワタル、おまえいまヤバかったろ?』
「うん……ちょっとね」
『――しっかりしてくれよ。こんなとこでベイルアウトなんて御免だぜ』
「……実際墜ちたら助けに来てくれるかな」
『――たぶん無理だな』
即座の否定、しかし――だろうな……内心で同意しつつ、航は心持ちスロットルを僅かに絞った。それでも、ジャリアーは直進しつつも徐々に高度を上げていく。エンジンの出力に未だ余裕があることの表れだった。
『――まもなく作戦空域上空……偵察ポッドを起動する。ワタル……チェック頼む』
「了解」
多機能表示端末の一面、表示画面を「兵装管理」に切換える。MFD特有の虚無を写し取ったかのような矩形の画面、そこに最初に起動画面が生じ、次には何の問題無く偵察カメラを通じた眼下の地形を映し出していた。
「操縦士、稼働状態よし」
『――航空士、稼働状態よし、此方も確認した』
「……ところでユウちゃん、ノドコールに露天風呂って無いのかなぁ」
『――あってどうするんだよ?』
「丁度うまく上空通ればさ、合法的に女の子のハダカ拝めるわけじゃん。これってよくね?」
機内通信機の向こう側で、クスリと笑う声を航は聞く。
『――ここだけの話、航空士になりたての頃、一度だけそれやったことあるよ。群馬の山奥の露天風呂でさ……何が映ってたと思う?』
「――え……なになに?」
『――うちの司令がやってた……娘さんより若い女と』
「――えーマジ!?」
航は思わず噴き出した。そこに新たな通信が割り込んで来る。
『――ダイダロスよりヴァルキリー204、無駄口を叩くな。悪い子は母艦に入れてやらないぞー……』
女性の声、それも頼もしさすら感じる声には聞き覚えがあった。「かつらぎ」飛行長の谷水 美紗緒 三佐。彼女が飛行長の役職が銘打たれた専用シートから長い脚をデスクに投げ出し、眼鏡越しに管制端末を見詰める姿を想像した途端、航は内心で背筋を糺すしかない。今回の飛行は、全てがまるで彼女の掌の上で行われている様なものだ。実際未踏破の空でも、彼女の誘導があれば何処までも自在に飛べるだけの安心感がある……通信が切替り、今度は若い男性の管制官の声が、イヤホンに割り込む様に聞こえて来た。
『――ヴァルキリー204、針路2-0-9。高度15000を維持せよ』
「204了解」
網膜に優しい緑色の光を湛える広角HUD内に、新たな経由点の所在が指標として表示される。矩形の指標の中で、数値として刻まれ続ける経由点までの距離――航はそれがHUDの中心に重なる様に機を操作し、その途上でヴァルキリー204は高度15000フィートに達した。
『――ワタル、10時下方』
「…………?」
肉眼で眼を凝らした限りでは、薄い層雲に阻まれて見えない。だが胴体下に装備された側方監視用の高倍率デジタルカメラと動態監視センサーは、コックピット前方のMFD上に、地上を占める広範な林間の一点で生起しかけた違和感を、鮮明な画像を以て機上のふたりに報せてくれた。
「…………」
枯れ木の集う林に隣接する草原……否、耕地。その上で複数の人影が蠢くのを航は認める。
「ヴァルキリー204、地上に不審な動きを視認。これより接近し確認する」
『ダイダロス了解』
高度15000フィートを維持、そのまま針路を変えて一度目標上空を航過、さらに注視する必要を認めれば、今度はさらに高度を下げて「撮影」する――戦術偵察飛行の手順を脳内で組立てつつも、航はそのための準備を既に始めていた。左フットバーを踏み、さらに操縦桿を左に傾けて機首を南へ転じる。旋回から水平へと姿勢を回復したところで菅生の指示が続く。
『――撮影モード起動……針路そのまま……目標上空まで後2分……1分30秒……』
「――――」
ふと、息を吐いた。
『――1分……30秒……』
何故か、胸が高鳴るのを航は覚えた。
『――目標上空いま!』
呆気ない通過と同時に、後席から呻き声が漏れるのを航は聞いた。
「ユウちゃん、どうした?」
『――何だこりゃあ……』
「穴……?」
MFD内に表示された画像は、耕地の一点に穿たれた黒い穴と、その周囲に集まる人影を映し出していた。だがそれ以上を航は画像から感じ取ることは出来ず、その点は菅生もまた同じだった。
『――ワタル、再度航過しよう。次は高度を下げて』
「了解!」
スロットルを押し開き、航は目標から早期に、それも余裕を持って距離を開こうと試みた。加速したジャリアーを上昇させ、今度は宙返りの頂点から降下、そして高度6000フィートで機首を引き起こし再度の航過に転じる。そのとき――
電子音――?
「――――?」
それは地上の防空レーダーに照射されたことを知らせる特徴的なトーンとして航の耳に聞こえ、同時に自動的に電子戦モードに転じたMFDの一隅に、未知の脅威陣地を示す三角形の指標が表示される。位置にして北東の方角――だが警報も指標も航の耳と眼から一瞬で消える。何だ今の?……機器の故障かな?……などと、自分でも意外な程平静に考えていることに航は内心で感動すら覚える。
『――ワタル、スロットルを絞れ。このままではタイミングが合わない』
「了解!」
HUD上、後席の菅生が設定した経由点を示す矩形の光が、HUDの中心から僅かにずれているのを見る。操縦桿を慎重に動かしてそれを修正する。そこに更なるカウントダウンが続いた。
『――1分……30秒……目標上空いま!』
「はいチーズ」
ヴァルキリー204はその撒き散らす衝撃波で枯れ木の群を揺るがし、弾丸のように地上を航過した――
「――――!!?」
それは、地上に在って「仕事」の後始末を始めたばかりの男たちにとって、文字通りの晴天の霹靂だった。
突如隣接する枯れ木の林を揺るがし、低空で冬空を突っ切って行った戦闘機。その翼に刻まれたヒノマル――ニホンの紋章――が、動揺の伝播に一層の拍車を掛けた。予期せぬ爆音と風圧の競演を前に、掘削用のシャベルとツルハシを放り出し銃の置場へと駆け出す者がいる。またはトラックに積まれた機銃座に付き、銃口を空へ向け始めている者もいる。例外なく全身にノドコールの民族衣装を纏った彼らにとって、空への恐怖はその精神の根幹にまで植え付けられていた。此処に来るまでに至る戦闘の経験が、彼らにそう仕向けていた。
「手を止めるな! 持ち場に戻れ!!」
最初は両腕を振り上げて怒鳴り、それでも間に合わないと悟るや彼らの指揮官は自動小銃を天へ向け引鉄を引き続ける。混乱から一転、怒声と銃声に威圧された男たちが渋々と持ち場へと三々五々駆け戻っていく。漸く平穏が戻り掛けたところで、指揮官は吐き捨てる様に言った。
「馬鹿どもがっ……!」
口笛を吹き、指揮官は一人の男を指招きで呼んだ。軍用無線通信機を背負ったノドコールの民族衣装姿の男。彼は指揮官の傍まで来るや送受話器を差し出した。回線は既に開いていた。
「指揮所に繋げ」
送受話器の向こうで待たされること優に一分、回線が繋がり今度は高圧的な濁声が要件を尋ねて来た。それに対し背を正し、指揮官は報告する。
「ニホンの戦闘機が一機、我々の頭上を通過しました」
『――「後始末」の現場を見られたのか?』
「おそらくは……」
『――馬鹿めっ……!!』
「申し訳ありません」
『――後はこちらに任せろ……それと、後始末をさっさと終わらせて西へ向かえ。包囲部隊と合流するのだ』
「はっ……!」
交信を打ち切ると、指揮官は彼の自動小銃を背負い直し「後始末」の場所へと向き直った。かつては根菜畑であった一角に、人力と蒸気機械で掘削された巨大な穴がひとつ……彼の言う「後始末」はその仕上げに差し掛かっている。穴の傍に横付けするトラック――
荷台に死体を山積みした一台――穴の傍で誰かが言った。
「――オイ、これが最後か?」
「――そうだ。これで終わりだ」
「――よかった……そろそろ満杯だから、もう一個穴を掘らなきゃならんと覚悟していたところだ」
ジェットエンジンの爆音が遠雷のように響き続けている。それも低空、何をぐるぐる回っているのか……と漠然と訝る内に、着信音が入って来た。その女は携帯電話を取り上げ、通話ボタンを押した。
「はい」
『――小賢しいニホンの蠅がいる。排除しろ』
「……了解」
その口調に相手に対する敬意などまず無い。ただ気だるそうに女は応じた。電話機の向こうで激発を抑えかねる呻きを聞く。それに女は吐き捨てる様な冷笑で応じる。それで通話は終わった。直後に女は腰を上げ、後方で上官の指示を待つ鋼鉄の塊に口笛と手振りで合図する。鋼鉄の塊がエンジン始動の爆音と黒煙を噴き上げ戦車程の大きさのある装軌車の巨体を覚醒させた。それを一時、女は無感動に凝視した。
「…………」
生来のずんぐりとした中背に纏う、光沢質の繊維で作られた伸縮性のある黒い衣服。傍目には機能的に見えるが軍服や戦闘服の類では無かった。上衣にフードも付いたその服の上に、弾薬の収まったサスペンダーを纏わせ、さらには背中に銃身を切り詰めた、折り畳み式銃床の自動小銃を背負っている。それは兵士と呼ぶにも指揮官と呼ぶにも、そして「純粋なローリダ人」と呼ぶにも異彩を放ち過ぎる風体であった。
女は地面に向かい忌々しげに唾を吐いた。乱雑に携帯電話を服のポケットに押し込み、自動小銃のベルトを締め直す。器用に車上に飛び上がり、彼女はハッチを叩いて前進を促した。無限軌道の触れ合う動きも重々しく山肌を抉る様に走り出す装軌車。その動きは懐いた生き物のように女の意思に忠実だ。木々の間を縫い、あるいは乗り越え、またあるいは邪魔な木を引き潰して進む無限軌道の車。朝方の木漏れ日に照らし出されたその影が、車の上部に長大なロケット状の物体を載せていることを輪郭として見せつけていた。あっという間に森の外へ抜けたところで装軌車を止め、女は彼女の濁り切った眼には眩し過ぎる空を仰ぐのだった。
「…………」
口から覗いた歯並びは悪く、前歯の内数本は大きく反っていた。脂ぎって乱れたまま固まった黒髪と青白い肌、三白眼の目元は死人のそれの如く灰色に染まり、お世辞にも女性として万人に好感を持たれる容姿とは言い難かった。さらには中背の全身を包む寝間着を思わせる光沢質の服――要するにジャージ姿――が、並みのローリダ人ならば一目で我が眼を疑わせる程の奇異さを発散し続けている……彼女、アルビア‐女狩人‐ルガーは、これでもれっきとした正規軍軍人で、階級は空軍大尉。ノドコールには志願し「義勇兵」として赴いて来た。本土ですら配備が始まって間もない「ヴァミルカル」中距離防空システムとともに。
「ヴァミルカル」中距離防空システムは、その基本構造はすでに「スロリア戦役」前の段階で完成していたが、その本格的な配備が「スロリア戦役」後になったのは、その管轄と配備を廻って陸空軍間の対立が生起したこと、そして当の「スロリア戦役」の結果が、ローリダの軍事史上前例のないこの種の兵器に、更なる技術的熟成を強いたことも無関係ではない。「ヴァミルカル」はその名を冠した誘導弾発射器と目標方位評定レーダー、目標高度評定レーダー、目標追尾レーダーをひとつの基本構成とし、これらは無線信号と有線で相互に接続され、全てトラックあるいは装軌車による自走展開を前提としている。前述の基本構成に電源車、誘導弾予備弾の輸送車と、索敵から目標追尾、攻撃に至る過程を一手に掌握する指揮通信車が付随することで、「ヴァミルカル」は野戦、拠点防衛の何れにも対応し得る可搬式の防空体系として完成するというわけであった。
再び、ノドコール。
暖気運転を続ける装軌車を背に、車から飛び降りたアルビアは前へと進み出る。その手には射撃指揮官用の遠隔操作盤が握られている。まるで庭先でラジコンでも扱うかのような挙動でアルビアはレバーを動かした。同時に背後の装軌車の上で発射台がレバーの傾いた方向に稼働する。この森一帯にアルビアが配置した「ヴァミルカル」中距離防空システムを構成するひとつ、ヴァミルカル地対空誘導弾本体の発射装置だ。その睨む空の遥か向こうに、陽光を吸い込みつつ上昇に転じるニホンの戦闘機が一機――元々お呼びが掛かる前から、この不遜な侵入者の存在には気付いていたアルビアであった。
発端は、高高度から侵入であった。そいつが不用意にも(アルビアにはそう思えた)味方の展開地域を航過した際に、アルビアの注意を惹いたのだ。展開地域付近で行われている味方の任務が任務だけに、再度の航過あるを察したアルビアは、手持ちの移動対空レーダー二基の内一基を一回だけ作動させ、「不用意な」ニホンの戦闘機のおおよその位置を察し、その後の飛行経路を予測した――しかし、別の「掃討班」に従い移動した残りの一基との連絡は、そのすぐ後に取れなくなった――彼女の待ち構える眼前をニホンの戦闘機はさらに高度を落とし、展開地域上を再び航過する。そこに、アルビアは彼女にとっての「勝機」を見出すに至った。つまりは――
「バーカ……」
ニホンの戦闘機はアルビアの予測した飛行ルートを通り、「ヴァミルカル」を構成するもう一翼、予想経路上に指向した目標追尾レーダーの発振する電波の待ち構える空域へと差し掛かろうとしている。それが実現した瞬間、操作盤上のランプが瞬き、目標照射レーダーが獲物を捕捉したこと、そして自動追尾モードに入ったことを無線信号でアルビアに報せた。自分が賭けに勝ったことを彼女は確信した。
「…………」
慌てて出力を上げ、緩やかな上昇姿勢から急上昇に入りつつあるニホンの戦闘機を、アルビアは無感動に見遣る。挙動からして、やつらの戦闘機が脅威レーダー波を感知する装置を搭載しているという軍事情報は真実の様だ。だがもう逃がさない……陰鬱な決意と共に、誘導弾発射ボタンに触れた親指に力を篭めるのに躊躇は無かった。
轟音!――無線信号でロケットモーターに点火した誘導弾。それは躊躇なく空へ飛び出し、白煙を曳きつつ与えられた獲物を追う――
「RADAR」
MFDの電子戦モードの一点に再び出現したその指標が、先刻のように一瞬で消えずにMFDに居座り、そして癇に障る警報を鳴らし続けるに至って、パイロットは精神の平衡を掻き乱される思いを強いられることになる。その上に出現した新たな指標、それもこれまで訓練や演習でしか見たことの無い……否、見ることなど有り得ない筈の指標を見出したとき、我が目を疑わなかった者はヴァルキリー204の機内には皆無であった。航と菅生、ヴァルキリー204を預かる二人は同時にその脅威に一瞬唖然とし、その直後に戦慄した。彼らにとっての地獄の始まりを告げるもうひとつの円い指標――「SAM(地対空ミサイル)」
「ミサイル……!?」
『――オイ待った! 何でこんなものが……!』
「SAM」の指標はひとつ、MFDの表示が正しければ、指定高度に向い上昇中のヴァルキリー204の左後方からこれを追尾するコースを取っている。航は反射的にスロットルを全開に押し込み、上昇姿勢からの加速を促した。急上昇――ぐんっと圧し掛かる加速度に体幹と胸骨が軋み、下半身へ引き摺り込まれる血流が、航の意識すら奈落に持って行こうとする。それをさせまいと下半身を覆う耐加速度服が万力のように航の腰と脚を締め付け、航はそれらに眼を瞑り、下腹部に力を入れて耐える。意識を維持するための短間隔の呼吸を維持しつつ、航は機を急上昇から背面に転じる……それでも、振り解こうとしても解けない誘導電波の桎梏――
「クッ……!」
『――ヴァルキリー204、ダイダロスへ、攻撃を受けている! SAMを撃たれた! SAMに追尾されている!!』
菅生の報告は悲鳴に近かった。航も叫びそうになるのを、歯を食いしばって耐えた。背面のまま天地が逆転、自転で再逆転し、航は身体中から冷たい汗が滲み出すのを自覚する。その先で姿勢を回復した時には、ヴァルキリー204は狙われた際よりも低空を飛んでいた。緩やかな丘陵を間近に見つつ飛び、航は背後を振り向き菅生に告げる。
「後席、そこからミサイルが見えるか? こちらからは見えない! 視認してくれ!」
『――見えた! こっちを追尾してる! 本機の右後方!……くそっ向こうが早い!……どんどん距離が詰まってる!』
「これでも喰らえってんだ!」
スロットルレバーに付随するチャフ/フレアーボタンを押し込む。主翼付け根から黄色の火球の数珠と薄い金属片が交互に吐き出され、気流と衝撃波に煽られ空を乱舞した。火球は光と高熱で対空ミサイルの熱源追尾装置を欺瞞し、電波を乱反射する金属片は実体なき敵影となって追尾レーダーを欺瞞する。幻影にレーダーが惑わされ、レーダーに誘導されるがまま進行方向を転じたミサイルが金属片の壁に突っ込みそこで爆発した。だが――
『――畜生!……二発目が来るぞ!』
MFD上には、すでに新たな「SAM」指標が生まれていた。しかも前方。それはミサイルの発射装置が一箇所では無く、この地域全体に分散していることの何よりの証明であった。蛇のトグロを思わせる白い航跡、空に巻きつつ向かって来るそれを、航は眼を怒らせて睨む。今現在自身が置かれている状況が、あまりに不条理に思われたが故の怒りの発露だった。おそらく地上では、自分たちをかくの如き苦境に追い込んだ連中が、それこそ舌なめずりして自分たちの破滅を待ち望んでいることだろう――
「やられてたまるかぁ!」
怒りに任せて操縦桿を引き、再びスロットルを押し込む。急上昇に転じたジャリアーの機内で、菅生が急加速の苦渋に悶えつつ言った。
『――ワタル!……増槽を棄てよう!』
「……駄目だ!」
姿勢を回復するために機を自転させつつ、航は即座に否定した。増槽には未だ燃料が残っている。搭載燃料の配分から勘案するに、いまここで増槽を投棄すれば、ヴァルキリー204は何処にも還れなくなってしまう!……前方から飛翔するミサイルが一度ヴァルキリー204の下方を擦れ違う様に直進し、直後に緩やかな迎角から上昇に転じた。急上昇では無く、それ故に追尾対象たるヴァルキリー204との距離が開いた。但しそれも僅かの間だ。ミサイルはジャリアーよりも速く、上昇であってもみるみる距離を詰めて来る。
『――後方からSAM!』
上半身を後方に捻り、さらには首を歪な角度に廻らせつつ菅生が報せる。それは報告というよりも絶叫と言った方が正しかった。フレアーとチャフを巻きつつ再び背面に転じ、さらに急降下に転じる。体幹に直に圧し掛かる遠心力の凄まじさに、ともすれば悲鳴が出そうになる。ブラックアウト!―― 一瞬視界が黒に閉ざされ、次に視力を取り戻した先に、緑の大地が覆い被さる様に広がっていた。無慈悲な大地に対し機首を向け、同時に殆ど垂直の態勢にあるヴァルキリー204――驚愕が航に満身の力を篭めて操縦桿を引かせる。そこで航は、自分でも思い寄らないことをした。意識せずに延びた本能の手が、スロットル傍のレバーに延びる――エアブレーキ!
「――――!?」
大地に激突必至の機体が、突如空中に静止した様な感覚――それがエアブレーキ展開による減速の為せる業であることを航が悟ったとき、ジャリアーは地上より僅かな隙間を残して水平に達する。烈しい加速に抗いつつも、航は尚も機外の状況を把握しようと努めた。果たして無慈悲な追跡者は、その獲物が過ぎ去った大地の一角に、虚しく佇む黒煙の柱となり果てていた。急降下からの上昇に弾体の引き起こしが間に合わず、勢い余って地上を貫いたのである。あの耳障りな警報音は何時しか消えていた。何も起こらないまま順調に高度が上がり、ヴァルキリー204は遮るものの無い蒼空へ向かい下層雲を脱する。冬特有の潤いの無い太陽が、剣の様な光をコックピットにまで投掛けて来た。
『――ヴァルキリー204、周辺に脅威なし……』
「――――」
それまでとは一転し落ち着き払った菅生の声に、航はそれまで溜めこんでいた息を一気に吐き出した。完全に顔に張り付き、流れ落ちる汗に塗れた酸素マスクを、僅かでも緩めようと試みる。その息遣いからは闘志も覇気も消えていた。そこに追い縋る様に管制官の誰何が聞こえて来た。管制官個人の口調は冷静でも、彼の詰めるダイダロスこと「かつらぎ」の航空管制室の慌しさが、その向こうから聞こえている様な気がした。
『――ヴァルキリー204、こちらダイダロス、応答せよ。無事か?』
「ダイダロス、こちら204、機位を喪失した。指示を乞う。繰り返す――」
『――ヴァルキリー204、方位1-0-7へ針路を取り、高度24000を維持せよ。境界を越えた後給油機と会合させる』
「204了解」
新たに与えられた生還への途、それに向かい航はフットバーを踏みしめる……その脚に、力が入らなかった。
次回更新日は、3/29(土)を予定しています。以上宜しくお願いします。