第一〇章 「Enemy Lines」 (1)
日本国内基準表示時刻12月27日 午前3時48分 東京 内閣総理大臣官邸地下 官邸危機管理センター
東京 総理大臣官邸地階。太陽の光が絶対に達することのないその広範な空間は、久方ぶりでの活気に満ち始めていた。
人文地理学的に、日本の首都東京が新世界の主要都市として数えられるに至るのに「転移」から約五年の月日が必要であった。東京が都市としての規模や機能面で異国の都市に遅れを取っていたというわけでは決してなく、日本の首都が主要都市として数えられるに足る外交、経済面での実績を、日本自体が積み上げるまでに要した時間が五年というわけで、その東京の政治の中枢、千代田区永田町のいち区画を占める立地を有する総理大臣官邸の地下に、新世界の軍事科学分野で言うところの「世界最強の軍隊の総司令部」たる官邸危機管理センターは所在する。それは三年前の「スロリア紛争」以来、絶え間無く機能と規模の拡充が図られることはあっても、それが停滞することは決してなかった。
「スロリア紛争」を乗り切った神宮寺内閣の後を襲った坂井 謙二郎内閣の官房長官 蘭堂 寿一郎は、いち早く官邸危機管理センターに隣接する会議室の上座にあって、今回の有事に際し人的な指揮中枢となる内閣安全保障会議メンバーの集合を待ち続けている。クリスマス商戦という祭もとうに過ぎた年の暮れ、それも午前四時近くという時間帯は、一箇所に参集を掛けるには社会一般の観念からすればあまりに非常識な時間帯であるが、国家間の諍いは社会や個人の都合からはフリーに時間が進行して行く。そのことを今更ながらに思い知らされている者が、この坂井内閣には決して少なくない筈であった。
官房長官という要職に在る蘭堂の場合、先日の午後七時から始まった各省庁の事務次官会議が日を跨いでも終わらず、それが議長たる彼の裁断の下、一応の決着を見て危機管理センターに移動して来たのが30分前であった。危機管理センター室長から資料を受け取り、未だ誰も参集していない会議室の席上で二年前から架け始めた老眼鏡越しに一行々々を撫でる様に凝視する。その間、蘭堂の傍らに気配が近付き、それはテーブルに置かれたコーヒーの湯気と芳香となって、会議に疲れた彼の眼と嗅覚を癒すのだった。
「長官どうぞ」
「…………」
資料から顔を上げて、コーヒーを配った係官に蘭堂は軽く目礼する。ダークブルーの航空自衛隊の制服に均整の取れた細身を包んだ女性自衛官。彼女は蘭堂の目礼に会釈で応じ、燕の様に身軽く踵を返すと足早に彼女の持ち場へと戻っていった。三年前に比べ、彼女も含めここ危機管理室に詰める制服自衛官の数は倍近くに増えている。それは一面では、現下の日本の危機管理体制に対する防衛省自衛隊の関与の深まりを象徴する風景でもあった。蘭堂がこのNSCメンバーとして有事に臨んだのはこれが初めてでは無く、国家の指導者として必要な洗礼は、すでに三年前に潜って来ている。その三年前の戦い、スロリアという国外において陸海空三自衛隊派遣部隊は蘭堂らの統制の下でその威力を十二分に発揮し、結果として日本に多くの勝利と名将、熟練した前線指揮官、戦場を知る曹士、そして以後の装備開発に有用な教訓とデータをもたらした。同時に異世界におけるこれ以上ない危機管理の経験も――
「失礼します」
一礼して入ってきたスーツ姿の人物を、蘭堂は表情を固く締める頬筋を綻ばせて迎えた。彼の鼻から下の口はマスクに覆われて見えなかった。時折咳き込みつつ、彼は係員の官僚に伴われ彼の指定席に向かう。外務大臣 鎌田 義臣。先週に特命を受け派遣された異国イリジアから戻ったばかりであった。席に付く間際、坂井内閣の外務大臣は上座の蘭堂に向き直り、謹直なまでに背を正して一礼する。蘭堂は会釈し、丁重な口調で言った。
「風邪ですか? それともインフルエンザ?」
「風邪です。帰国した途端にこれでね」
と、大きなマスクの下で鎌田外相は笑った。苦々しい笑いだと思った。
「大丈夫ですか?」
「何のこれしき。会議が始まれば、風邪なんかすぐに吹っ飛びますよ」
そう言った後で、鎌田外相は再び咳き込んだ。鎌田の声にはこれから始まる事態に対する彼なりの覚悟が感じられたが、恐らくは緊張のせいであろうか、語尾の震えは隠しようが無かった。彼に続き新設の特殊作戦幕僚長 槇村 享 空将補と特殊作戦群群長 御子柴 禎 一等陸佐の連れ立った姿が会議室に入るのを蘭堂は認める。彼らが係員の自衛官の案内に従い席に着く間際、期せずして眼を合わせた蘭堂と槇村空将補は、その眼中に同じ表情をした。内閣安全保障会議メンバーに召集が掛かったこの段階で、問題のノドコールにおいて唯一戦闘状態にある自衛隊部隊は、実質上彼らふたりの指揮下で行動している特殊作戦自衛隊隷下の一部部隊のみと言っても過言ではない。「スロリア紛争」の反省の上に立ち、「前世界」のアメリカ軍の類似組織を手本に新設された日本版 統合特殊作戦コマンドたるJSSDF。統合幕僚部を頂点とする実戦部門の指揮系統を軽々と超越し、内閣安全保障会議の直接指揮下に置かれる彼らはあの三年前、「スロリア紛争」のような全面戦争の勃発、あるいは拡大を防止するために機能するべきものであった。
その槇村と御子柴、彼らが呼び水となったのであろうか、引っ切り無しに入室して来る官民のメンバーで席が埋まるのに、もはや十分も要しなかった。但し円卓の一角を占める防衛大臣の指定席には防衛副大臣の高塚 善樹が座り、上座の中央――内閣総理大臣 坂井 謙二郎の席――は空席のままである。首相は先々日に北海道まで遊説に出、本来ならば明日の昼に公邸着の予定を急遽切り上げて空路此方に向かっているところだ……蘭堂は外務大臣の鎌田、JSSDF幕僚長の槇村空将補に目配せし、そして卓から身を乗り出す様にして切り出した。
「皆さん、このような時間に官邸へ御足労頂きご苦労様です。首相は午前7時に官邸着の予定ですので、それまで僭越ながら私蘭堂が会議の進行を務めさせていただきます。なお、桃井防衛大臣及び筧 情報本部長には既に防衛省地下の中央指揮所にあって、ノドコール他各方面に展開する陸海空自衛隊各部隊の監督にあたって頂いております」
「――――」
返事は無いが、蘭堂一人に集中する文民武官らの視線は一様に冷たく、そして自我が消えていた。不測の事態による内閣安全保障会議メンバーの「全滅」を防ぐため、会議を構成する一部閣僚や制服組に別行動を取らせるのは危機管理策の一環である。もし我々に害意を抱く何者かが此処を襲撃し、居合わせたメンバーを殺傷し尽くせばどうなるか?――脳裏に浮かび掛けた最悪のケースを意思の力で振り払いつつ、蘭堂は続けた。
「では早速情勢の把握から始めたい。松岡統合幕僚長」
「はっ!」
席の一角を流れる空気が質量を有する影に煽られ、僅かに揺らいだようにすら見えた。濃緑の制服に壁を思わせる堂々たる体躯を包んだ統合幕僚長 陸将 松岡 智が席を立ち、レーザーポインターで内壁に並ぶ畳大の広角表示端末を指す。画面は日本とスロリア亜大陸全域の地形図を瞬間的かつ立体的に展開し、同時に地図の上で彼我の軍部隊の所在をもチェスの駒を盤上に配するように表示させた。松岡統合幕僚長の、巌の如く結ばれた口が開き、情勢報告が始まる。
「――現在より遡ること10時間前、ノドコール中北部のローリダ人入植地を何者かが襲撃しました。入植者たちはこれに応戦し襲撃者を撃退したものの、少なからぬ人的被害が出た模様です。目撃者の証言によれば襲撃者は何れもノドコール現地人であったとのことで、これを受け本日午前0時、ノイテラーネに於いて開設された多国間緊張緩和会議に出席していたローリダ共和国代表使節ルーガ‐ラ‐ナードラの手により、これまでの現地人による侵犯行為に対する入植者の反撃と、ローリダ人入植地のノドコール本土からの分離独立とが宣言され、ノドコール首都キビルでは総督府の統制を離れた急進派による独立準備委員会の開設が進められている、というのが現状であります」
「質問」と、挙手を以て松岡の報告に応じたのは上座の蘭堂であった。
「ローリダ人を襲撃したのが現地ノドコール人という点は、事実か?」
「事実関係は確認できておりませんが、その可能性は低いものと思われます。過去十数件のローリダ人襲撃事案の何れも、実行犯の身柄は拘束されておりませんし、その正確な素性も判明しておりません。ただその外見が何れの件もノドコール人の風俗に合致しているという点のみが、ローリダ側の言う現地人実行犯説を補強する材料となっております」
「どういうことかな?……話が見えんが」
と言ったのは鎌田外務大臣だった。鎌田に向き直り、松岡統合幕僚長は言った。
「陸幕情報部といたしましては、実行犯はノドコール人ではなく、ノドコール人に偽装したローリダ人ではないかと考えております」
「……つまり、ローリダ人に被害を出すことで、植民地は元より彼らの本国にノドコール人排斥の機運を作り出す……ということかな?」
そこまで言ったところで鎌田は烈しく咳き込み、口を噤んだ。鎌田を補佐するかのように蘭堂が言う。
「……その延長線上に、ノドコールの独立があるということだろう。ただしノドコール人の国としてではなく、ローリダ人の国としての独立だ」
松岡は頷いた。一座がざわめき出すのが同時だった。
「――ひどい!……己が野望のために同胞まで殺すのか?」
「――それぐらいの事は平気でやる連中だ。この先どのような形で我々に牙を剥くかわからん」
「報告は未だ終わっていない」
「…………?」
蘭堂の声は感情に乏しいが、場の動揺を収めるに足る威厳を持っていた。陰性の高揚感と憤怒に交互に揺られる会議室で、おそらくは彼自身の内面にすら醸成されつつあった敵への憎悪と敵意に取り込まれかけていた松岡ですら、我に返ったかのように反射的に蘭堂に向き直り、そして一礼する。
「情勢報告を続けます。現地時間の本日午前二時未明、場所はスロリアとの境界に近いノドコール中北部。現地人独立派民兵と協同で情報収集活動を行っていた特殊作戦群の1個偵察チームが、現地人村落を占拠した所属不明の武装勢力と交戦しこれを制圧。チームはベース‐ソロモンより急派された輸送ヘリコプターにより全員回収され、現在空路ベース‐ソロモンへ移動中であります、こちらの動画は、この時の作戦の一部始終を、スロリア方面の我が方航空拠点より発進した航空自衛隊 特殊作戦航空団所属のAC-130J支援輸送機より捉えた画像であります。支援輸送機の火力支援により偵察部隊は戦闘地域を離脱し、作戦は成功致しました」
「…………」
広角端末内のスロリア亜大陸西部、その中でノドコール中北部に点滅する×印の表示に一同の視線が集中する。×印から飛び出す様にしてさらに展開されたウインドウが、上空から現地の地形を捉えた赤外線画像を映し出す。暗視という視覚的な制約下であっても、上空からの攻撃を受けて炎上する車両や戦闘員の一団は勿論のこと、回収のヘリコプターに向かい疾駆する自衛隊員と思しき影の蠢きすら把握することが出来た。
「こりゃまた……派手にやってるなぁ」
と、一座の一人が場違いな、まるで市中の見世物でも目の当たりにしたような陽性の驚愕を表に出して言った。乃木坂 兵吾 警察庁長官だった。地位からも察せられる通り全国の警察機構の頂点に立つ身という点では、ここNSCに身を置く十分な資格がある様に見えるが、この男の場合、実年齢に比して人生の労苦を感じさせない若々しい風貌に加え、制服姿でどう繕ったところで察せられてしまう物腰の軽薄さが、彼のNSCメンバーとしての資質に対し、少なからぬ列席者が疑問符を付けるのに十分な印象を与えてしまっている。この場に相応しいのはこの男よりもむしろ、今この場にいない彼の補佐役たる(にあえて甘んじている)警察庁長官官房長の方ではないのか?……と訝る者もまた決して少なくは無かった。白けかける一座の空気を変える必要を感じたのか、鎌田外務大臣が再び蘭堂に向き直り、言った。
「官房長官、この戦闘に関しては事態を収拾する必要から、記者会見なり何らかの発表で情報を開示するべきだと思いますが」
「特殊部隊が武装勢力に関する情報を持ち帰り、その正体がはっきりとするまでは情報開示はしない」
「…………」
蘭堂の即答に、鎌田外相は明らかに驚いた表情を見せる。それを見遣りつつ、蘭堂は説明の必要を感じた。
「この時点での自衛隊の介入は伏せます。交戦した部隊が特殊作戦群であることも理由の一つですが、改めて出す公式声明では現地のノドコール人解放勢力が独力でローリダ派民兵と交戦し、これを撃退したという点を強調することにしたい。何故なら関係各方面より収集した世論を総合するに、我が国には未だノドコール情勢への全面介入というオプションに対する、国民の合意が形成されているとは言い難いからです。仮に防衛省の推測通り、武装勢力の正体が現地人に偽装したローリダ人であればこれは明白なノイテラーネ条約違反であり、日本としては介入の大義名分を得られる以上、早期の事態収拾に弾みが付くでしょう」
「なるほど」と、鎌田外務大臣が頷く。同時に会議室の各所からも声が上がった。
「――つまり、コンセンサス形成は今後の報道次第ということですね」
「――それよりもインターネット上の反応に留意すべきだ。むしろそれだけ見ていれば大丈夫だろう」
再び、私語にも似た会話の漂い始めた空間に、再び上座から蘭堂の声が飛んだ。
「……従って当面、大規模な地上兵力の展開は行わない。但し何時でも介入できるよう準備は行う。介入の最終的な目的は我が国に友好的なノドコール人政権の樹立と、スロリア地域に対する『ロメオ』ことローリダ共和国の影響力の完全な排除である。なおこれは、坂井総理と関係各機関のトップの間に持たれた幾度かの討議を経て決定した、再度のスロリア有事に対する、我が国の確固たる外交及び安全保障の方針であります」
「…………!」
一転し眼差しを凍らせ、一座は上座の蘭堂に視線を集中させる。それを他所に蘭堂は、再び松岡統合幕僚長を見遣った。
「松岡統合幕僚長、事態収拾に要する戦力とその配置、作戦計画を説明してもらいたい」
「ハッ……!」
松岡統幕長の声には、東京の政府中枢に在りながら、銃弾飛び交う前線に置かれたかのような緊張が多分にこもっていた。
「動員戦力は、現在スロリア中部に展開中の北部方面隊隷下の第5旅団及び中部方面隊隷下の第14旅団の2個旅団、これに新編成った水陸機動団を加え地上部隊の主力とします。これら主力に第一空挺団、中央即応集団、他方面隊より部隊を抽出し増強します。侵攻作戦の主軸を担う第5、14の両旅団とも機動力に優れた軽装備の歩兵旅団であり、本格的な国外展開をも想定した改編を既に完了しております」
「日本版『ストライカー旅団』ってやつか……」
席上で誰かが呟いた。「前世界」の軍事大国アメリカ合衆国において国外の地域紛争やテロリズムに介入するために構想された、コンパクトな編成の中に高度な装甲と打撃力、そして機動力を並立させた軽歩兵旅団。日本においてその萌芽は「転移」前に存在したが、第5、13、14旅団の改編完了という形で事業の完成を見たのは「転移」後、それも「スロリア紛争」の翌年であった。「転移」と「スロリア紛争」……前述のふたつの事件が、防衛当局内外の関係者にその種の部隊の重要性を認識させるのと同時に、却って事業の進行を遅らせる原因ともなったのは皮肉な展開と言えよう。それだけにこれらの「日本版ストライカー旅団」の実現に、「スロリア紛争」で得た運用経験が大いに反映されたのもまた事実である……松岡統幕長の説明は続いた――
――作戦の第一段階として、自衛隊ノドコール緊急展開部隊はスロリア方面、そしてノドコール南岸よりノドコール本土に同時侵攻し武装勢力の制圧を迅速に実施する。スロリア方面からの侵攻を担当する第5、第14の両旅団共に、11月の初めから開始した戦力の前進配置を僅かひと月で完遂しており、地上部隊の完全な展開と戦闘準備完了に三月を要した「スロリア紛争」の場合を勘案すれば、これは長足の進歩と言っても良かった。
この二個旅団の西進に呼応する形で、本土を発した水陸機動団先遣隊が長駆ノドコール南部の主要港ロギノールを急襲し制圧する。過去の「スロリア紛争」において、海空強襲作戦の先鋒を務めた西部方面普通科連隊を増強する形で完成されたこの部隊は、現時点では海上機動作戦において他の追随を許さない装備と練度を有していた。彼らは超水平線上からの強襲上陸、あるいはヘリボーンを駆使し、海空よりロギノール方面の武装勢力中枢への機動打撃を担うことになる。
その彼ら陸上自衛隊を、海上自衛隊がやはり海空から支援する。揚陸作戦時の拠点となる輸送艦を提供するのみに留まらず、海上からの護衛艦による艦砲射撃、航空護衛艦展開のジャリアー攻撃機による近接航空支援の他、今回は随伴するイージス護衛艦及び潜水艦発射の新艦対艦誘導弾による敵重要拠点への攻撃が加わる。既存のSSM‐1Bに比して飛躍的な射程の延伸、誘導精度の向上の他、僚艦に加え地上及び上空からの副次的な誘導による目標情報の更新機能を有するそれは、従来の対艦ミサイルの枠に捉われることのない、事実上の艦載巡航ミサイルとしての性格を持ち合せていた。
「――ロギノールは港湾として近年整備が進んでおり、現時点では我が国の地方主要港に比しても遜色ない埠頭を備えております」
新たに表示された衛星写真、その矩形の中に収まったロギノールの海岸線は、松岡統幕長の言うとおり、東西に走る海岸線全体をコンクリートとアスファルトとで塗り固めたかのような景観を広げていた。内陸と海岸線を繋ぐ複雑な水路は無く、海岸線の地形は埠頭から揚陸艦や事前集積船を横付けすれば、そのまま方面隊規模の兵力を陸揚げできる程の単調さすら漂わせている。港の北側――埠頭から陸に向かえば、建造物や倉庫が規則正しく並んでおり、そこを越えて幹線道路沿いに北へと大軍を向かわせれば、海からの侵攻軍は容易にノドコール中部を抑えることが出来るであろう――
「――統幕と致しましてはロギノール港を橋頭保として後続部隊の揚陸を迅速に行う必要上、そして戦後のノドコールの迅速な復興をも考慮した結果、港湾の破壊は最小限に留める方針であります」
松岡統幕長の発言は、つまりは上陸作戦の前段階として必須とされる制圧攻撃の「自粛」を示唆していた。つまり強襲部隊は迎撃して来るであろう武装勢力を排除しつつ、橋頭保を確保しなければならない……ということでもある。
「……それは可能なのかね?」
と聞いたのは、誰あろう蘭堂 寿一郎その人であった。松岡は蘭堂に向き直り、制服に覆われたぶ厚い胸板を逸らすようにした。
「海上及び航空優勢は我が方にあります。さらには、港湾部は一つの市街地であります。水陸機動団隷下の普通科各隊は九州、そして富士に於いてこれまで幾度も市街戦の訓練を重ねており、彼らを支援する火力及び装甲も充足しております。最小限の損害で港湾の確保は為されるでしょう」
「…………」
応じる言葉は無く、蘭堂は松岡に頷いて見せた。形だけは了解しても、その眼差しからは対象に対する訝しみは消え去ってはいなかった。それは松岡自身にも察せられただろう。恐らくは防大生時代、厳格な区隊長と期せずして正対させられたかのと同種の緊張を彼は覚えたのに違いなかった。
「……なお、強襲部隊の支援に当たる海上自衛隊派遣艦隊は、現在各方面に展開中の艦艇を当該海域に集結させることで漸時増強される見込みであります」
「ふむ……」
誰かが声を出し頷く。現時点でも日本、あるいはスロリア近海に所在する護衛艦の中には、総理大臣命令でノドコール南部洋上への北上あるいは西進を強いられている艦がある筈である。しかし例外もある。イージス護衛艦 DDG‐178「あしがら」は、最近グナドス人ハイジャック犯の引き渡しを巡って外交摩擦の舞台となったイリジアを親善訪問している。外務省の肝いりで洋上パーティーの会場ともなった本艦が合流に向かうべく錨を上げるのは、恐らくは今日の夕方になる筈であった。
「航空自衛隊の運用は?」
再び蘭堂が聞く。それが合図であるかのように、戦況要約の観を顕しつつあった情報表示端末の画面に、新たな指標が重なった。指標は三つ。スロリア中部に点在する二つの基地と、もう一つは沖縄県嘉手納基地――
「スロリア中部に位置するベース‐ルナツー並びに中南部に位置するベース‐トリントン両飛行場には、現時点では本土の2個戦闘飛行隊より分遣された戦闘機が、飛行禁止空域監視の任を受けて分散配置されております――」
ベース‐ルナツー及びベース‐トリントン。現在それらの名を課されている両基地共にその起源は三年前に遡る。三年前、突如ノドコールとスロリアの境界線を越えたローリダ軍は、スロリア中部に三つの前線飛行場を造営した。そのわずか半年後に勃発した「スロリア紛争」のごく初期に、それらは反攻に転じたPKFの制圧するところとなり、内二つに至ってはその所有者を航空自衛隊スロリア派遣に代えて、規模を拡張しつつ運用が継続されるに至っている。そこには本土から空自の戦闘機部隊が分遣と称して少数ずつローテーション配置されている。分遣の表向きの理由は、「スロリア紛争」後に設定された「飛行禁止空域」の監視警戒ということになっていたが、NFZよりさらに東のノドコール、あるいはスロリアで再び起こり得る不測の事態に備えたものである事はもはや誰の目にも明白であった。
ノドコール有事の作戦計画では、本土より増強した戦闘機を以て、PKF陸上部隊の航空支援に当たらせる。航空自衛隊 戦闘航空団においてその草創期より存在した要撃戦闘機と支援戦闘機の区分はもはや無く、「スロリア紛争」時まで要撃戦闘機として扱われてきたF-15Jイーグルもまた例外では無くなっていた。今や空自の保有する戦闘機はその全てが戦闘攻撃機となり、これを以て地上、海上の友軍に有効なエアカバーを提供できる体制が整ったことになる。
「嘉手納飛行場には第3飛行隊に替わり西部方面航空隊隷下の第6飛行隊を展開させ、ノドコール国内の武装勢力拠点への精密誘導爆撃に集中させます。第6飛行隊もまたF-35Jを装備しており、投入戦力の空白は有り得ません。同じく嘉手納には改修型P‐1哨戒機を擁する海上自衛隊第5航空群が展開しており、戦況の推移に応じP‐1もまた地上部隊の支援に投入する計画であります」
「P‐1?……哨戒機を航空支援……だと?」
卓上から上がったどよめきは決して小さくなく、彼らの疑念は根拠の無いものではなかった。本来洋上で対潜哨戒に当たらせる筈の大型機を、対地攻撃に投入する? それに関し補足説明の要を感じていたのか、松岡統幕長は端末の画像を切替え、P‐1哨戒機の全体図が三次元モデルで浮かび上がる。
「現時点での改修型P‐1の保有機数は6機、その全てが嘉手納に配備されております。改修型P‐1は空中給油受油機能を備え、戦術航法ソフトウェア及びアビオニクスの改善により本格的な対地攻撃能力を付与した改良型であります。我が方が完全に制空権を確保した暁には、本機の投入を以て地上部隊により柔軟な航空支援を提供できる見込みとなっております。この点はまた、我が方が少数の陸上戦力による武装勢力の掃討完遂に絶対の自信を持つ根拠でもあります」
「すばらしい……!」
と、卓上の一隅で誰かが感嘆の声を上げる。「スロリア紛争」を契機として自衛隊は大いに変貌したが、紛争はおそらくはそれを統御する政治サイドの意識にもまた変貌を来しているのかもしれない。外交の場に於いて堂々と武力行使の可能性を論じることはもはやタブーでは無く、それは外交を為す上で数多い選択肢の一つとなりつつある……それが祖国日本に繁栄をもたらすのかあるいは破滅をもたらすのか、それを判断する術をこの段階では一座の誰もが持ち合せてはいなかった。
「――なお、陸自と致しましても、強襲上陸部隊の支援部隊として、AOH‐01攻撃/偵察ヘリコプターを運用する飛行隊をノドコール洋上の航空護衛艦及び揚陸艦上に展開させ、損害の抑制に万全を期す所存であります」
「…………?」
それまで黙って資料に目を通していた蘭堂の顔が不意に上がり、何気なく上座に向いた松岡の眼と合った。
「AOH?……グリフォンってやつかな?」
「はい」
怪訝な顔、生返事に近い口調で松岡統幕長は頷いた。「グリフォン」という固有名詞に接した時、上座の主の顔に浮かんだ微かな困惑を、統幕長は流石に見逃さなかったのである。一方でその松岡の傍に控える幕僚たちが、上座の蘭堂に視線を注ぎつつ小声で話し合うのを見逃さなかった者は、この場には決して少なくなかった――直後に自衛隊の制服姿の係官が慌ただしく入室し、松岡の傍で耳打ちしメモ用紙を握らせる……一読した松岡の表情から完全に表情が消えた。それは武人らしく抑制された驚愕の表情だった。
「どうしました統幕長?」と蘭堂
「長官、ヘリコプターが……」
「…………?」
「ベース‐ソロモンへ移動中の輸送ヘリが、たったいま撃墜されました」
「――――!!?」
伝播した驚愕は、無形の嵐となってその狭い、重要な空間を駆け巡った。
10章が大部分描き上がった後に水陸機動団編成のニュースを知る。西普連の名を残すべきか水陸機動団に差し替えるべきか散々迷った結果後者を択びました。前章との不整合はなるべく修正を試みる積りです。弊作の成り行きを熱心に追っておられる読者様にはご迷惑をお掛けしております。
あと、気になった点として
AH‐64の追加調達ってもう有り得ないんだろうね。
OH‐1のローターって折り畳めるのだろうか。
(うーん……殆どぼやきだな)
以上、制作後記として。