第八章 「Chaos Dawn」 (2)
ノイテラーネ国内基準表示時刻12月23日 午後9時32分 パン‐ノイテラーネ空港周辺 「混沌街」
「混沌街」である。
そう呼ばれる一角は、パン‐ノイテラーネ空港と称される最新技術の粋を集めた広大なアスファルトとコンクリート、そして鉄骨と複合材から成る人工の原野の、その外縁に接せんばかりに拡大し、未だ留まるところを知らなかった。母都市の終わりを知らないかのような発展が、「混沌街」の際限ない拡大を保証しているかのような勢いであった。その様はまるで、文明という人類の最大の産物に対する超越者の悪意を、その浸食に直面する者に感じさせるのに十分であった。
「混沌街」――本来は、貧民街である。
その起源は「転移」の前より始まり、「転移」を経てもなおそれは厳然として存在している。母都市の発展から取り残された人々、ノイテラーネ連邦の根幹を成す競争社会から毀れ落ちた人々が自然発生的に集った最果ての地は、「転移」後その近隣に大規模な空港整備計画が持ち上がり、地価の下落と国外からの悪評を恐れた市当局による立ち退き交渉も功を奏すること無く、むしろ近隣の中小国から流入する難民や不法移民をも取り込む形で装いと規模を変えていった。さながら不定形の原生生物が細胞分裂を繰り返して成長するのにも似た無軌道さであった。直近の隣国たる日本が、順当な審査無く入国を試みた異邦人に対し厳格な措置を取っていることがさらにその傾向を促進した。結果として混沌はさらに深まり、今や住民の国籍すら判然としない……やがてはそこに出入りする者の素性すら、混沌を忌み嫌うことに馴れた一般市民の関心を惹くことは無くなった。ノイテラーネの人々は、その母都市に抱え込んだ混沌を敢えて無視することで問題の解決を図ったのである。当然賢明な策とは言えなかった。
その夜、空はすでに漆黒を背景に満天の星々の占有する処となっていたが、その足元で躍動する「混沌街」に休眠が訪れる事は永久に無い様に思われた。屋上屋を架すという表現で片付けるには、彼らが屋根を占める建物の構造は余りに歪で、その外壁はトタンや接ぎ木で儚げに補強されている――
『――指揮班より各班へ』
喉頭式マイクに告げる村雨 素子が佇むトタン屋根から臨む足許には、無秩序な電灯とガス灯、そしてネオンの連なりが光の脈動を刻んでいた。ノイテラーネ中央市の中枢から末端に至るまで、全てがコンピューター制御されている筈の水光熱供給システムの間隙を突く様に、様々な経路から引かれた雑多な違法配線のせいで、電力制御の不安定に起因する火災やガス配管の爆発事故が「混沌街」では日常茶飯事のように頻発する。火災の度に建て増しされ強靭さを失った集合住居がその住民ごと街区単位で消失し、「混沌街」に人口調整の機会と新参者の新たな居住地確保の余裕とを自然の采配のように与えていると言っても過言ではなかった。
市内の薄ら寒い風の一巡――少しの間を置き、骨伝導式のイヤホンに街の各所に散った同僚の応答が続く。
『――突入制圧1班』
『――突入制圧2班』
『――突入制圧3班』
「…………」
端的な応答は、彼らが所定の時間内に所定の配置に付いたことを示していた。雑多な人混みで躍動を続ける狭い街路を見下ろしつつ睨み、進むべき道を見出さんかの様に素子は腰を落とした。周囲に気配が迫るのを感じる。黒尽くめの人影が素子と同じく腰を落とし、獲物を探し求める黒豹を思わせる殺気までがオーラとして背中にひしひしと感じられた。素子は腕時計を翳す様に睨む。すでに時刻を合わせていた時計のデジタル表示は、「カタバミ」が行動開始時刻に達するまで僅かな秒時しか残されていなかった。
「行動を開始する。時間……5、4、3、2、1……いま!」
地を蹴り、空に駆け上がったハーフコートがはためき、それを纏う細い体躯が躍動する。次の瞬間には素子と彼女の配下は遥か下界の路地を跨ぎ、隣り合う高楼の屋上へと飛び移っていた。そこから屋根を伝ってさらに隣接する屋根、屋上、屋根……そして屋上へと飛び移っては駆ける。躍動が、「混沌街」の誰にも顧みられない場所で始まっている。タクティカルブーツが薄いトタン屋根をけたたましく踏締める音、着地時の急激な負荷に老朽化が著しい排水パイプが割れる響き……侵入者の存在に気付いても、それを咎める住民は誰もいない。夜の内に、彼らの棲家の外で行われる一切の営みに対し見ないこと聞かないこと、そして言わないこと――それが「混沌街」を生きる術で唯一の処世術であることを弱く貧しい彼らは知っているからである。
百の雷を落としたような烈しい爆音が素子たちの背後から迫って来る。それは巨大な全翼機の機影と量感を伴い、いち街区をすっぽりと覆った直後に素子たちの頭上を過ぎ去っていった。夜空を仰げば、パン‐ノイテラーネの滑走路へ向かい主脚を下し着陸態勢に入りつつある異国の六発旅客機の後姿。比高100メート未満の低空を飛び越える様にして滑走路へ降り立つ巨人機の機体を、その真下から仰ぎ見ることが出来るのは、ここ「混沌街」が隣接するパン‐ノイテラーネの着陸経路上に在るが故に見られる異様な日常の一コマであるのに過ぎない。巨大な質量の通過に掻き乱された地上の空気が震え、タクティカルブーツで踏締める足許が左右に揺れた。
家々の高さは四階五階の高層からやがて三階二階の中低層の居並びへと変貌し、飛び回るにつれて足許から活気が薄れていくのを感じる。彼らは四方向から「混沌街」の深奥に迫る。浸透は順調だった。素子がイヤホン越しに事態の急変を聞くまでは――
『――ミミズクから各班へ、北からシールズが迫っている! 突入まで10分切った!』
「――――!」
「ミミズク」とは、いわば機材操作員から成る電子/信号情報担当班のコードネームだった。彼らは作戦に先駆けて複数台のミニバンに搭乗し街区の各所に潜伏している。ミニバンの各車には専用の機材が搭載され、通信撹乱と妨害電波への対処、さらには通信傍受をも担当する。彼らは「混沌街」を飛び交う有形無形の交信に聞き耳を立て、解析したその内容と発進源とを行動班に伝えるのだった。目指す三階建ての集合住宅と正対する位置で素子ら「カタバミ」行動班は立ち止まる。屋上に飛び移るには車道ほどに距離があり過ぎ、彼女は跳躍という選択肢を早々と放棄した。
「あの窓だ。援護!」
素子の指示は端的だったが、それで通じてしまう程に行動班の連携は高かった。背中のホルスターから抜き出したMP7短機関銃の装填レバーを引く。同じく89式小銃を構えた同僚が配置に付くのを見極め、素子は屋上から延ばされた電線にMPの銃身を引掛け、次には一歩を蹴り出した。躊躇は無かった。
「――――!」
屋上より放たれたMP7の弾幕が、電線の延びる先の窓ガラスを砕くのを、滑走に身を任せつつ素子は見る。射手の狙いは正確で、そして的確だった。長い、流麗な脚線美。突き出されたタクティカルブーツの爪先が抗うものの無くなった窓枠を蹴り破る。無意識に反応した躯が受け身の姿勢に転じ、素子は転がりつつ二階へと飛び込んだ。
「ニホンっ!!」
闖入者に対する怒声を聞くまでも無く、神速で構えられたMP7が咆哮する。機関部から流れる様に弾き出された薬莢が床を撥ねて散らばる。連射は三回、その場にいた敵対者の数だけ引かれた引鉄は、彼らを即死させるに十分な量の弾丸を彼らの身体に叩き込んだ。制圧は一瞬で終わった。
「二階クリア! 地階に向かう!」
MP7を背部に収め、素子は廊下へ続くドアへと進んだ。ドアの外側に向かい迫りゆく気配を感じる。ドアの縁に立ち僅かに開けた隙間に向かい躊躇なく放った閃光手榴弾が一発――
『手榴弾ッ!!』
悲鳴のような単語をドア越しに聞く。ローリダの言葉だった。同時に全身を震わす破裂音が土壁を揺るがした。HK‐P9S自動拳銃を引き抜き、再び開けたドア越しに拳銃を片手撃ちする。閃光弾の炸裂に視覚と聴覚を閉ざされた男どもが悶絶しつつ弾丸を受け、歪な体勢で廊下に倒れ込む。死体を乗り越え、素子は高楼の中央を貫く螺旋階段に達した。上階にいた工作員が駆けおり様に短機関銃を構えるのを見、反射的に身を隠す――炸裂音!――目を瞑り閃光手榴弾の余波に備える。乱射された短機関銃の発射音、階段から何かが烈しく転げ落ちる音を次に聞く。
『――トツニ、三階クリア!』
イヤホンに入って来た弾んだ声は、屋上より突入を果たした突入制圧2班のそれだった。それに一階から突入を果たした他班が続く。
真っ暗い天井と廊下を背景に、慌ただしく羽ばたく白い鳩、それが黒白の鮮やかな残像となって暗黒を躍動する者たちの網膜に、鮮烈なまでに灼き付けられていく――
『――トツイチ、一階クリア!』
それが前進を開始する合図となった。HK‐P9Sを両手に持ち替え、素子は階段を滑る様に駆け降りる。合流を果たした同僚を引き連れて一階に達したとき、「ミミズク」からの報告がイヤホンを打った。
『――発信源を確認。確保対象者は地下だ』
先行するトツイチが一枚のドアの前で停滞しているのを素子は見る。事前の突入ルート検討時に使った見取り図によれば、それが地階に繋がるドアである筈だった。突入とそれに続く制圧を果たした行動班が一箇所に固まることなく部屋の各地で警戒に入っている辺り、戦闘部隊としての練度の高さが伺えた。
「くそっ! カギが掛かってやがる」
「電磁石持ってくればよかったですね」
行動班の会話を聞きつつ、素子は喉元のマイクを抑えるようにした。
「……L1よりトツニ、トツサンへ、確保対象者の拘束はこちらとトツイチがやる。撤収ルートの確保急げ」
『――トツニ了解』
『――トツサン了解』
『――ミミズクより各班へ、シールズの展開まで3分切った!』
「――――!」
軽い絶句と同時に、素子はトツイチの班長と眼を合わせた。反射的に素子はハンドサインを作り、それを見た班長が頷いた。トツイチの班員が指向性爆薬を縫い込んだテープを手早くドアの縁に張り、それに無線式の発火装置を繋ぐ。行動班全てがドアから距離を置き突入態勢を整えたのを見計らい、突入班最後尾の素子は腕時計を覗いた。
「時間……5、4、3、2、1……爆破!」
「――――!」
最初に突風が生じ、次に轟音が階全体を揺るがした。火と白煙の競演が潰えた後に、ドアはそれがかつて物理的に存在した空間を残して消えていた。その向こうには、光の及ばない空虚が拡がっていた。
「前へ……!」
一団はそれに吸い込まれるように銃を構えて進んだ。闇の向こうから散発的な銃撃が突入班を迎える。だがそれは効果を上げる前に突入班の構えるMP7の前に制圧され、真新しいコンクリート壁に延びた戦闘員の人影が、昏倒と共に消えていった。突入班の射撃はローリダの戦闘員より迅速で、かつ正確だった。
決して広い部屋では無かった。一方的な銃火の応酬に続き、後続する班員の手による、昏倒したまま動かない敵戦闘員に止めを刺すSIGの銃声が反響し続けた。見渡す限りの一面にコンクリートが塗り固められ、有機的に絡み合う大小の配線と壁沿いに居並ぶ重々しい機器が、ローリダの工作機関制式の通信機材であることを一瞥で素子に悟らせた。直後に素子の表情から完全に感情が消え、冷厳な眼差しをコンクリート壁の一隅、光の達しない領域へと向ける――
「シュレンガー……アギブ‐ロガス‐ド‐シュレンガーだな?」
「…………」
影の中で身を縮める人間の輪郭――シュレンガーと呼ばれた瞬間、それが僅かに蠢くのを素子は気配として察する。ノイテラーネの現地民の服装……私服姿ではあったが、その顔貌は行動を起こす遥か前から資料を通じ何度も眼に焼き付けていた。ローリダ共和国内務省保安局 ノイテラーネ支所所長 共和国内務省少佐アギブ‐ロガス‐ド‐シュレンガー。三年前は空軍大尉の身分に在って、あのサン‐グレス空港の警備部隊指揮官だった男――
「お前を拘束する。予め言って置く。抵抗と黙秘はお前のためにならない」
「何の権利があってこのおれを拘束しようというのか? 東の隅の蛮族風情が……!」
シュレンガーと呼ばれた男は眼に怒気を孕み、そして歯を剥き出しにして素子を睨みつけた。素子はと言えばそれに何物にも動じない剛直さではなく、むしろ虚勢を見た。
「自分の胸に手を充てて聞いてみるといい。ルード‐エ‐ラファスといったか……お前の昔の上司が再会を心待ちにしている。急ぐとしようか」
直後、剥き出しにした怒気の遣り処に困ったかのようにシュレンガーは呆けた顔をした。その後には驚愕が込み上げて来て、それに耐えかねたかのようにシュレンガーは顔を顰めた。
「ラファスだと?……噂は本当だったのか」
それには答えず、素子は眼でシュレンガーに立つよう促した。それでも動こうとしないシュレンガーの両脇を突入班が二人がかりでその腕を抑え引き上げる。同時に芯を揺るがすヘリの爆音とともに内壁が揺れた。その後には切迫した現実が骨伝導式イヤホンを伝ってやって来た。
『――シールズの到着を確認。哨戒ヘリで屋上から接触する模様!』
「――――!」
素子の舌打ちは、頭上から確実に迫り来るローターの爆音に掻き消され、誰の耳にも聞こえなかった。他の突入班が、もうひとつの隠し部屋を起点とする地下通路を発見したことを告げる。それを使っての撤収を素子は命じた。通路への入口に爆薬を仕掛ければ、当面は時間を稼げるだろう――
ノイテラーネ国内基準表示時刻12月23日 午後11時25分 デリア‐ノイテラーネ中央港
『――今夜執行された不正居住区に対する一斉強制捜査は、治安維持条例第42項に基づく我がノイテラーネ連邦警察局とニホン特殊部隊の合同作戦であり、法的正当性に基づかない越権的判断によるものではない。捜査活動の主力は我がノイテラーネ連邦捜査局緊急対応群であり、前例なき大規模な捜査活動ゆえ、経験豊富なニホン側に側面支援を担当してもらっただけである。あくまでこれは、異国との共同作戦遂行に関わる治安維持条例第42項を法的根拠とする通常の治安維持活動であり――』
大型ワンボックスカーの標準装備たる多機能表示端末の中で、ノイテラーネの法務局長は無感動かつ抑揚に乏しい口調で、端末の向こうの数知れぬ視聴者と正対していた。時折背景に照らし出されるフラッシュの絶えまない瞬きが、法務局長の正対する相手が彼の至近に、それも多数いることを見る者に感じさせた。
『――現在判明している現地の状況として、すでに250余名の不法移民、そして10名の指名手配犯の身柄を拘束。同じく都市区より盗電を行っていた違法電力供給プラントを接収。ニホン製の汚水再利用システムユニットもまた発見されている。なお、市税務当局は不法居住区内で営業する無許可商店に対し、彼らの過去半年間の営業利益及び納税記録を把握した上で、脱税した者に対しては追徴課税を行う見通しである――』
「――繋がりました」
「…………」
後席で暗号化通話回線を開設した技術工作班の報告を背中に聞きつつ、村雨 素子は送受話器を握る手に僅かに力を篭めた。送受話器の向こうの声を聞くのに、少なからぬ勇気が要った。
『――報告は情報官から聞いたよ。困難な任務御苦労だった』
「恐縮です。管理官」
『――シュレンガーは海路で「拘置所」まで移送する。諸君らは別名あるまで此処で待機だ。追って現地指揮本部から指示がある。状況が状況だしそれ程待たせることはないだろう』
海空を隔て遠く離れた距離に位置する東京。それが、素子が握る送受話器の向こうに広がる世界である筈だった。その東京の、最も闇の濃い領域を司る誰かに短く、だが無感動に謝辞を述べた後、予期せぬ静寂が訪れた。素子にとってそれを破るのに、更なる勇気が必要だった。
「管理官、ひとつ確認したいことがあります」
『――聞こう』
「……ルーガ‐ラ‐ナードラはそのまま帰すのですか?」
『――致仕方ない。何故そのようなことを聞く?』
「確認です……そしてもうひとつ、ナードラがノドコールまで逃れた場合、我々もすぐさま彼女の後を追う。それで宜しいですね?」
『――その点に関しては管理部でも意見が分かれている。だいいち今となっては我々には移動の術がない。君たちが歩いてノドコール国境を越えるというのではあれば話は別だが』
「それも検討しておきましょう」
『――重ねて言うが、空港で抑えるなどという事は考えるな。今夜のシュレンガー確保でさえ一歩誤れば日本、ノイテラーネ間の友好関係に深刻な亀裂を生じる可能性があった。これ以上の行動は傍若無人な越権行為と見られる恐れが大だ』
「…………」
無言で応じつつ、素子は脳裏でルーガ‐ラ‐ナードラの消息を反芻する。ノイテラーネ連邦警察局内に確保している特別情報提供者からの情報によれば、この「重要参考人」は当初の予定通りに明日午前中にノイテラーネを発ち、ノドコールへと戻る筈であった。彼(または彼女)の情報は正確だ。ローリダ共和国内務省保安局ノドコール支所の所在地という、防衛省情報本部がいち早く察知し、今回の「混沌街」一斉捜査に際し連邦警察局に共有させた情報を、特別情報提供者が此方に横流ししてくれたことが、海自に先んじた「カタバミ」の突入成功に繋がったのだから……しかし、「混沌街」一斉捜査自体が自衛隊、それも海自主導によるローリダ情報機関の細胞壊滅作戦の目晦ましに使われたという側面は、本来それを為すべき外事警察サイドとしては決して看過できるものではないだろう。見方を変えれば海自は、「キナレ‐ルラ」号事件の失点に余程焦っていると見える。更には……
「……防衛省情報本部は、ひょっとして我々の活動に気付いているのでは?」
『――もしそうであるとしても、防衛省への対応は官房長自らが行う。我々の活動がいずれ露見することは当初から想定に入っていた。警察庁と防衛省の意見の相違が、君たちの活動に悪影響を及ぼす様なことにはならない。その点は安心して欲しい』
「了解」
『――――』
聴覚と記憶を漂白するかのような、耳に不快な空電音がその後に続いた。素子の報告が終わったことの、決まり切った合図の様なものであった。視線を転じた先、全てを闇に委ねたワンボックスカーの中で、今では唯一白濁した光を注ぎ続けている運転席方向の多機能表示ディスプレイの中では、その「一斉捜査」に関し、記者による法務局長に対する質疑応答が始まっていた。その先頭を切ったのは女性の声だった。
『――局長、ノイテラーネ日報のナンギットです。ニホンの自衛隊特殊部隊による支援と仰いましたが、具体的には何処の部隊でしょうか?』
『――何処の部隊……とは?』
『――つまり、陸海空のどの自衛隊に所属する部隊か……ということです』
『――ニホンの具体的な部隊名称に関しては、保安情報保護法に抵触するため公表はできない。これはニホン政府関係者との協議と、現下のノドコール情勢を勘案した上で下された判断であることを、記者諸君には銘記しておいて頂きたい』
『――――!!?』
記者たちのどよめきが、多目的表示端末の外から飛び出さんばかりに洩れ聞こえて来た。それは時を経ずして政府の代表者たる法務局長に対する非難と不審の声となる。局長の両脇に詰める警護官の、彼らを制する声と挙動も、国家の権威が空転したこの現場では、むしろ笑いの琴線にすら届かない程の薄ら寒さを醸し出しつつあった。
『――ではもう一つお伺いします。連邦警察局の一部には、今回の強制捜査を時期尚早として反対する意見も少なからず存在したことが、我が社の取材活動により判明しております。強制捜査の執行を今日に決定した理由と経緯についてお答え願います』
『――たとえ次期尚早という意見があったところで、今回の一斉捜査が順調の内に進行し、そして終了したのは否定しようも無い事実である。君たちが市民に伝えるべきは我々市政府の治安維持活動の瑣末な部分ではなく、簡潔にして絶対なる政府の意思ではないのかね?』
『――局長、それでは回答とは言えません。それに今回の一斉捜査に備えて行われた筈の物証及び内偵情報の収集が不十分であり、それらは公判維持のためにも十分な時間を以て為されるべきであったという指摘が識者及び一般市民の間からも上がっています。これについてはどうお考えですか? 統治者は市民に対し真実を明確に告げる義務があるのではありませんか?』
『――市民生活に恐慌を来す如何なる発言も虚報の流布も、我がノイテラーネでは許されていない!』
『――御自分の不用意な沈黙によって、市民に要らぬ不安を喚起する恐れがあると、どうしてお考えになれないのですか?』
「……やれやれ、これじゃ押し問答ですね。いや、局長と記者のどつき漫才とでも言うべきか」
「指揮班より各車へ……撤収せよ」
助手席から端末のテレビ放送を見ていた同僚が笑った。それを無視するかのように素子は無線で命令を下す。もはやつい先刻まで自分たちが深く関わって来た「政治」のことなど、すでに何処か遠い国の出来事であるかのような素っ気なさであった。巨船の繋がる埠頭から脱し、貨物コンテナを積み上げた要塞のような貨物区画の間を車は奔る。夜を知らない街の風景に溶け込むべく動き始めたワンボックスカーの車内で、それまで後席に控えていた部下が、神妙な表情で素子に話しかけた。
「主任、ナードラの確保は行わないのですか?」
「今のところは間が悪いわね……ここから西では、また戦争が始まるかもしれないって時だから。でも……」
「でも?」
「……ナードラは本丸に近い支城……『カタバミ』にとって、彼女の確保は避けては通れない道よ」
それ以前にひと波乱起こりそうだが……という素子の秘めた予感は、恐らく当たっていた。
ノイテラーネ国内基準表示時刻12月23日 午前0時30分 ノイテラーネ中央市 駐ノイテラーネ日本大使館
ノイテラーネという都市国家において最も深奥に置かれた領域の、さらに奥まった一室で、今夜の総括は密かに始まっていた。
「つまりシールズからの報告によればこうだ……チームが突入した時にはナガルの本拠地は既に壊滅し、ナガルの頭目に至っては行方すら掴めないと」
「小官が戦闘要員の手配を担当しておきながらお恥ずかしい話ですが、そうなります」
植草 紘之 ノイテラーネ連邦主席府 安全保障担当特命補佐官の問いに、駐ノイテラーネ日本大使館駐在武官 日下部 良一 一等海佐は伏し目がちに頷いた。それによって深刻の度合いを増した空気の間に割って入る様に、間延びした声が続いた。
「やはり特戦か空挺団に任せればよかったのかなぁ。海自には海自により相応しい使い方というものがあったようだ」
「…………!」
余りに場違いな、軽い口調を、日下部一佐は思わず顔を上げ睨むようにした。その日下部一佐の眼差しの先で、駐ノイテラーネ日本大使 間瀬 恵介が彼の視線の厳しさに戸惑う様な表情を浮かべている。まるで先夜の自衛隊の介入自体、国家の意思とは何ら関係の無い他人事であるかのような振る舞いであった。間瀬大使は防衛大学校出身、情報幹部として三等空佐まで昇進したところで退役し外務省に転じている。その出自故に現地での自衛隊の行動にも少なからぬ理解を示してくれてはいるが、今ではむしろ前線とは縁遠い社交界にどっぷりと浸かり過ぎた感が鼻に付く……期せずして部屋に生じた対立構造。それを収める必要を植草は感じた。
「日下部君、過ぎたことは仕方がない。これからのことを考えよう。まずは……」
日下部一佐の関心を厳めしい上目遣いで自身に引き戻し、植草は続ける。
「……『混沌街』のナガルを制圧し、あまつさえシュレンガーとかいう彼らの頭目を連れ去ったのが何者か、ということだが」
「それに関してはふたつ気になる報告が入っております。まずは現地でシールズが回収した薬莢及び弾丸ですが、以上の遺留品から短機関銃用の小口径高速弾であることが既に判明しております。口径及び形状からして、該当する銃で最も近いのが、現在我が国で使用されているMP7短機関銃です。それと……」
「それと?」
「……現地におけるナガルの指揮中枢と思われる通信室ですが、突入に際しドアに指向性爆薬を仕掛け、瞬時の内にこれを爆破する手法を取っていることが判明しております。通信室に詰めていたナガルの戦闘員は爆破時の衝撃と閃光により、それこそ応戦する術もなく制圧されたものと思われます。つまりは専門用語で言うところの、教本通りのドア爆破突入法でして、このような手口……いや手法を、それこそ速やかに実施し得るノウハウを有する機関は、この世界広しと雖も我が国にしか在りません」
植草の眦から、完全に普段の柔和さが消えた。
「何が言いたい。日下部君」
「シュレンガー誘拐の実行犯は、我が国の自衛隊当該部隊あるいは警察及び海上保安庁の当該部隊の在籍経験者……ひょっとすると現役要員ではないかと……」
「は……?」
驚愕を場に合わない、気の抜けた声に換えて間瀬大使が上げる。次に彼は植草に向き直り、浮かんだ軽い狼狽もそのままに口を開くのだった。
「じょ……冗談だろ植草さん」
その大使の狼狽を無視するように、植草の問いが続いた。
「もし君の推測が正しいとして、何故だ? 何の意図があってそのようなことをする?」
「それは現段階では判りません。もちろん、この事は早速東京に報告させて頂きますが……」
「報告はいいとして、このままでは困る。わざわざ連邦警察局による一斉捜査の執行時期を繰り上げてまで作戦実施を隠蔽しようとした結果がこれだ。どう言い繕ったところで、現在我々がやっていることは友好国の主権に明らかに抵触している。それにノドコールのこともある」
「わかっております。東京の防衛省と緊密に連携をとり、事実確認に努める所存です」
張り詰めた表情をそのままに日下部一佐は応じ、植草は頷いた。「ノドコール」という現在進行形の事態の代名詞が、日下部の胸中に困惑と混乱とをもたらし続けているのは明らかだった。
「主席府への説明は私がしよう。閣下は予定通りに明日……」
「あなたの説明内容の草稿は、ターレス主席との面会予定時間までに頂けるのだろうね?」と間瀬。
「善処しましょう」
植草と日下部は期せずして同じ表情を浮かべる……やれやれ、今夜は眠れないなという、共通の感慨――だがそれは、不意に部屋の空気を貫いた内線電話の着信音によって破られた。
「私だ……なに?」
受話器を取った間瀬大使の表情が直後に困惑し、受話器を置くや彼は室内テレビのリモコンに手を延ばした。電源を入れたチャンネルを、ボタン操作で何度か換え、それが終わった後には植草にとって見知った貌がマイクを前に弁舌を揮っている――
「ナードラ……!」
「…………?」
植草の言葉に、日下部一佐ですら表情を謹直にして向き直った。平坦な広角ディスプレイの中では、植草が歓迎レセプションで遭い、会話までしたあの美貌がフラッシュとカメラに取巻かれ、先刻から彼女の祖国の意思を代弁し続けていた。
『――我々は開拓者に向けられたかかる悪意の発露を看過することは出来ない。今夕の内に行われた暴挙に対し、我らは正当なる反撃に転ずるであろう。すなはち、自衛せる開拓者は持てる全力を挙げて暴戻なる敵性住民を駆逐し、苦難の地ノドコールに生存圏を確保するものである!』
「今夕?……彼女は何を言ってるんだ?」
要領が掴めず、戸惑いを隠せない植草に、日下部一佐が手持ちのタブレット型PCを差し出した。画面を凝視した植草の表情から、みるみる血色が失われていく……
「居留民襲撃!……現地人が?」
ノイテラーネとその他異国発の記事を総合した電子新聞の字面に、植草は我が目を疑った。第一報の発生場所はノドコール中北部。そしてローリダ発の記事では、その他地域のローリダ人居留区に対しても襲撃は拡大しているという……
「どういうことだ……?」
呆然とする植草を他所に、日下部と間瀬はテレビのライブ中継に見入っている。
『――三年前より幾度も繰り返されてきた侮辱と不当なる扱いに開拓者たちは耐えた。だが彼らの忍耐は全てが無駄であった。かかる事態の全ての責任は、文明の恩恵を知らぬ先住者と彼らの跳梁を放置したニホン人にある。我ら共和国ローリダは居留民を代表し彼らの敵を弾劾する! これより開拓者たちは、彼ら自身の意思によって、彼らが後世の賞賛を浴びるに相応しい行動を取るであろう。そして何人たりとも、現在から後世に至るまでこれを批判する権利は持たないであろう……開拓者たちが取るべき途は、すなはち独立! 分離独立である』
「――――!」
絶句――ナードラの言葉を聞くがままに押し付けられた暫くの沈黙を、漸く破るに至ったのは、それを為すのに最も不相応な人物であった。
「いま……何と言ったのだ? あのローリダ人は」
「独立です……分離し独立すると」
間瀬大使、彼に応じる日下部共にその表情は青白い。間瀬大使に至っては手が小刻みに震え始めている。植草はそれがもどかしくも、滑稽であるようにも見えた。大の大人、それも社会的地位も決して低いものではない二人が、未だ30も出ていない様な女性にこうして「してやられている」というのは……自然と頬杖を付き、苦笑と共にライブ中継に見入る植草がいる。
『――私、ルーガ‐ラ‐ナードラは、勇敢なる開拓者たちの決断と行動を支持する者である。私以外の心あるローリダ人もこれに続くであろう。キズラサの神もまた開拓者たちの壮途を祝福するであろう。あの300年前の独立戦争以来、ローリダの子らに培われた自由とキズラサの神への渇望ある限り、開拓者たちが屈服することは無い。屈服を企図するいかなる試みも潰える運命に在るのだ。ノドコールに巣食う無法者どもはこれを銘記せよ!』
「……こんな真夜中に、何の積りだ」
「ここは真夜中でも、この世界にはそうではない国や地域があります」
間瀬大使の苦言に、植草は素っ気なく応じた。ナードラの宣言が世界中に拡散していること、そして世界によっては彼女の宣言をいち早く聞き、分析できる国家や勢力があることを植草はそれとなく告げる形となった。その一方で、苛立ちを隠すまでもなく間瀬大使は続けた。
「しかし早過ぎる……!」
「こういう事は、早めに言った者勝ちですからな」
今度は憮然として、間瀬大使は植草を見遣る。彼の視線など最初から意に介しないかのように、植草は不機嫌に画面のナードラを凝視し続けていた。
ノイテラーネ国内基準表示時刻12月23日 午前1時30分 ノイテラーネ中央市 ノイテラーネ空港国際線ターミナル
「専用機の離陸に必要な準備は、すでに整えてございます」
背後よりコートを主の肩に掛けつつ、ミヒェール‐ルス‐ミレスが告げる。パン‐ノイテラーネ空港国際線ターミナル内の重要人物専用待合室の、王宮の一室に勝るとも劣らない調度を誇るその壁に嵌められた長大な鏡は、身繕いの最中であってもルーガ‐ラ‐ナードラの肢体を艶やかに映し出していた。大黒狐の毛皮をふんだんに用いて仕立てられたそれは着膨れを見せることなく、ごく自然にナードラの細く締まった体躯を包み込むことが出来た。
コートの袖に白く細長い手を通しつつ、ナードラは聞く。
「シュレンガーとは連絡が取れないか?」
「はい……内務省保安局は、支所の秘匿には絶対の自信があると言っておりましたが」
「迂闊であったな。何処から漏れたのか……」
「…………」
二人の眼は期せずして、調度品の一隅を占めるニホン製の広角端末へと向かう。先刻から点けっ放しのそれは、強制捜査の過程で発生するに至った治安機関と不法移民との衝突の結果、一街区を呑みこまん程に燃え上がった「混沌街」の様子を、複数の新世界主要語の見出しと共に映し出していた。
「シュレンガーとは一度会っておきたかったが、これではもはやどうにもなるまい。あやつが生きていることを願うのみだ」
「ノイテラーネの治安機関に抵抗した結果、殺害されたという未確認情報も入って来ていますが、いかが思われますか?」
「あれは小人だが、ノイテラーネの拝金主義者ごときにむざむざと殺される様な男では無い……そうであれば、私の見込み違いということだろう」
ナードラのシュレンガー評は手厳しいが、戦闘者、あるいは間諜としての彼には一定の評価を置いていることがミヒェールには察せられた。そしてナードラの言葉が、単なるノイテラーネの内政事情に留まらない、より掴み処のない何かの、「混沌街」への介在を仄めかしたものであるということも……
「ミヒェール」
「はっ……?」
「お前、射撃の腕は?」
「…………」
不意に問われ、ミヒェールは気まずさに顔を伏せるようにした。それを鏡越しに察し、ナードラは鼻で笑う。軍人でありながら射撃に関しては決して精妙とは言えない技量のミヒェールの腰に、一人前に軍用拳銃が収まっていることをナードラは知っていた。
「正直、自信が無かろう?」
「しかし、持たぬよりはマシです」
「これからの事を考えると、そうかもしれぬな」
鮮やかな手付きで胸元から腰下に繋がるボタンと帯を全て結わえ終わり、ナードラはミヒェールを顧みた。ミヒェールの軍人としての不適正を、咎めるような風では無かった。先頭を切って待合室を出、ナードラは重要人物専用の乗降通路を歩き出した。ミヒェールを始めとした随員が彼女に続く。
「――――!」
暖房の効いていた待合室から一歩足を踏み出せば、専用機の待つ外へと繋がる廊下はすでに冬季特有の寒気の侵犯を許容してしまっている。だがそれが、身が引き締まるという意味では却って心地良いように思われる。廊下から24時間稼働の国際線用滑走路を一望できる専用窓を隔てた眼前では、要人輸送専用に改装されたセレス117 四発旅客輸送機が、持てる四基のターボフロップエンジンを暖気状態にして主の乗込みを待っていた。
「では、帰ろうか……懐かしきサン‐グレスへと」
そう言って微笑み、ナードラは再び歩を踏締める。その向かう先に彼女は何を望むのか……それは輪郭に過ぎなかったが、少なくともミヒェールの内心にはひとつの「視界」として見え始めていた。
ustreamで流れてるウクライナのデモ中継を見つつ本章を描いている。
そういやここといいタイといい現在進行形で揉めてるのは世界的な穀物生産地ばかり。