第八章 「Chaos Dawn」 (1)
ノドコール国内基準表示時刻12月23日 午後3時37分 ノドコール中北部
野鳥の羽音は尚も止まず、大樹の犇めく地に不穏な気配を湛えつつあった。それは中天に達した日が西へ傾くにつれ、陰鬱をも不穏たるに加担し始める。少女はその余波を最も真に受ける場所にいた。森の奥だ。
叢を小走りに駆ける細身と、それが纏っている狩猟用上衣と革製の鍔広帽の組合せは、少女の手に狩猟用のヴォルキウス‐スペンシア銃が加わった時、辺境の植民地にごく有触れた狩猟者の姿となって、多くのローリダ人の脳裏に容易なまでに想像させることが出来る。薄暗さを増しつつある森の空気、その上さらに年末特有の冷気の深まりさえ加われば、これを想像するローリダの人々はおろか当の狩猟者たる少女自身の胸中にも、寂寥感すら生起しようというものであった。
上半身から膝に掛けてすっぽりと身体を覆う狩猟用の外套は、獲物たる森の鳥獣からはそれを纏う追跡者の距離と輪郭を掴み難く、そして地形と植生によっては欺瞞の効果すら与える。外套のさらに上に少女は草木を絡ませ、一層に偽装の効果を高めていた。入植地の大人たちの中で、ある者はそうした少女の徹底ぶりに感心し、あるいはやり過ぎとして眉を顰める者もいる。それでも、狩猟者、あるいは銃手としての少女の技量の高さを疑う者は、今では入植地の共同体の中には一人としていなかった。
開けた場所に出たところで、少女は立ち止まった。円形の鍔広帽の陰で束ねられた蜂蜜色の髪の毛、冷気に赤く染まり掛けた形のいい頬が動く。それが少女に白い息を何度か吐き出させ、息を整えた少女は片膝を落として地面の一隅に蒼い瞳を細めた。三つの肉球と一つの踝――それらから成る四つの球の規則正しい配列を、印象の様に地面に押し付けた小さな足跡が、森のさらに奥まった方向へと続いていた。獲物がそう遠くへと行っていないことをその少女――ユウシナ‐レミ‐スラータは知った。再び腰を上げ、少女は外套を翻して森へと入っていく――
「…………」
年の瀬は、この森に留まらずこの世界に棲む全ての生あるものにとって、その生を全うできるか否かが切実なまでに決する時節である。何せ地上から一斉の緑とその恵みが消えるのだ。従って森の居住者たちは年が替わり、新たに春が巡って来るまでの間を、地中の塒に潜んで風雪と春窮とを遣り過ごさなければならない。そのためには、冬の深まる前に森に在る多くの恵みをその腹に詰め込み、年を越すのに必要な分の脂肪を蓄える必要に迫られる。そんな脂の乗った動物を狙い、ユウシナは森に入ったという訳であった。見方を変えれば、本国の様に喧しい狩猟制限の無い、辺境の入植地だからこそ許される「我儘」と言えるかもしれない。
ウォルデニス――生を享けて初めて祖国を離れた先に落ち着いたその地で、ユウシナは銃の撃ち方と乗馬を覚えた。植民者として化外の地を切り拓き、蛮族の襲撃から身を守る上でそれは必須の技術だった。それ以前のユウシナは首都アダロネス郊外の寄宿学校に在って、深窓の令嬢となるべく学び、躾けを受ける日々を過ごしていた。ユウシナの父はそれなりに才覚の高さを知られた貿易商で、家の暮らし向きも決して悪いものではなかった。家格に相応しい令嬢として育ち、ゆくゆくは何処かの富裕な家に嫁ぎ、善き妻、善き母として一生を送っていくであろう未来図に対しても、当時のユウシナはそれ程抵抗を感じなかった。敢えて希望を語るならば、父の許しがあれば、学校を出た後は敬愛する従姉のように師範学校に進めればなおいいと、漠然と考えていたのに過ぎない……それ以外は何も考えずに過ごすことのできた、ある意味幸せな日々は、三年前に終わりを告げた。
直接の原因は、父の事業の破綻であった。当時ユウシナの父はスロリアで、「解放戦争」後に予想される新植民地開発需要の高まりに備え、大量の食料品や建設資材の買付けを行っていたが、「解放戦争」の結果は大勢の予想に反し、空前の大敗北となってユウシナの祖国の未来に暗雲をもたらすこととなった。需要の霧散と共に大量の在庫を抱え込むことになったユウシナの父は、「スロリア戦役」の途上で発生した叛乱により荒廃した植民地復興に在庫の幾分かを裁き切ることが出来たものの、買付けにあたり銀行から勧められるがまま融資を受けていたが故に、少なからぬ負債を追うこととなった。
結果として父は先祖伝来の邸をはじめ祖国に有する資産の殆どを手放すことで負債を完済したが、実業家として再起する途は断たれてしまっていた。新たな生きる糧を得る必要に迫られた彼は、植民省に勤める知人の勧めに従い、植民省の嘱託としてスロリアとは正反対の方向の「新天地」ウォルデニスへと渡ることとなったのである。将来の総督府開設の準備機関たるウォルデニス植民地管理事務所のいち職員。それがユウシナの父の人生の再出発にあたり、彼が得た新たな肩書だった。
渡航に当たり、ユウシナは祖国に残ることを父母に勧められた。負債の完済に資産の大半を投じてもなお、スラータ家にはユウシナに寄宿学校を卒業させられるだけの資産は未だ残っていたし、任地では祖国で娘に人並みな生活をさせられるぐらいの給与も国家から保障されている。それに首都アダロネスには娘を預けるに足る信頼を寄せ得る親族もいた。すでに結婚していた従姉のタナが、ユウシナの祖国における身元保証人たるを申し出てくれたのである。その生来よりユウシナと親しみ、実の妹の様に慈しんでくれた従姉の親切は彼女には嬉しかったが、ユウシナはそれを固辞して学校を辞め、そして一家で祖国を出た。戦争が始まる前は父に縋り付かんばかりの勢いで平身低頭し融資を申し出ていた銀行が、戦後は手のひらを返す様に容赦なく一家の財産を持ち去って行く様は、ユウシナの早熟な感性に、大人の世界の汚らわしさを刻みつけるのに十分であったし、何よりも彼女と同じ境遇の少女たちの辿った運命に、戦慄にも似た感情を覚えたためでもある。
「――ローリダ人は破産出来るだけまだマシさ。敵国ニホンじゃ、借金を返せない者はどうなるか君は知っているかね?」
「――どうなるんだい?」
「――私が聞いた話では、ニホンでは借金を返せない者は、肉を焼けるぐらいに熱した鉄板の上で膝と手、そして頭を付いて謝罪させられるのだそうだ。普通の謝罪では誠意があるかどうかわからない。本当に謝罪したいという気持ちがあるのなら、焼けた鉄板の上でも謝罪できるだろう、というのが奴らの考え方なのだそうだ」
「――蛮族らしい恐ろしいやり方だが、一理ある様な気がするな」
「…………」
……未だ祖国を発つ前日、母と一緒に入った喫茶店で又聞きした会話の内容が、何故かユウシナの脳裏で反芻された。一家の破滅の元凶たるニホン、当初は断片的な風聞のみであったそれが、時が経つにつれ骨格模型に肉を付ける様に、明瞭な輪郭を以て少女の前に現れて来たものだ――
「――――!?」
鼻がひくつき、反射的にユウシナは手近な斜面に身を伏せた。この入植地に身を落ち着けて以来、狩猟に山菜や薬草の収拾、そして入植者として必須の自衛戦闘訓練等、様々な理由で森の中を歩き続けることで森の空気に馴れた彼女の嗅覚が、遠方から冷気に乗って漂って来た、これまで嗅ぎ取ったことの無い臭いを感じ取ったのである。獣の臭いに似ていたが、そうでないことを少女が知るのに時間は要しなかった。正確には一分後、ユウシナはそれに男の汗の臭いを感じた。それも、碌に身を洗っていない男の臭いだと思った。そのとき――
『あっ……!』
内心でユウシナは叫び、驚愕に形のいい唇をぽっかりと開けた。走って行けばすぐに近付ける距離。斜面の岩陰から伺える大きな切り株の陰に、彼女はこれまで追っていた獲物を見付けたのである。野兎の倍ほどの胴周りはある山鼠。醜い外見こそ頂けないが、豚肉に似たその味は集落の子供たちの大好物なのであった。もしあれが獲れれば、年末の食卓に一つの興を添えることができるであろう……身を伏せる傍らに置いた愛用のヴォルキウス‐スペンシア銃をゆっくりと引き寄せつつ、ユウシナは内心で逡巡する。追跡者を見失い、切株の下で右往左往する山鼠。いまユウシナの腕を以てスペンシアの引鉄を引けば、一発で問題無く殺せる距離……だが、それを為すこと――つまりは、引鉄を引き銃声を立てることでこちらの存在を暴露すること――に対する無音の警報を、少女の本能的な勘が、「臭い」を嗅ぎ取った瞬間から今に至るまで発し続けていた……あのとき、同じように行き方知れぬ森の中で「鳥人」に追われていたときのように――
そして――
気配を消せ。身体から力を抜くんだ……大丈夫、君なら出来る――あのとき、自分を「鳥人」から救い出してくれた「彼」の言葉をユウシナは心で聞いた。自ずと延びた手が、外套の下に忍ばせた「彼」の記憶に触れる。ウォルデニスで命を拾った後、首に掛けるお守りとした「彼」のおとしもの。
「…………」
岩陰からさらに身を引き潜んだ木陰から、ユウシナは小走りに遠ざかりゆく獲物を見送る……それが、此処で自分が為し得る最善の自衛策だと彼女が思うようになっていた。同時に、山間の冷気に乗って漂ってくる人の臭いが、此方に近付いてくる何かが複数である事をユウシナに教えていた。汗の臭いに火薬の臭い……そして血の臭いすらそれに重なるのを、ユウシナは戦慄と共に感じ取る。もはや彼女は進むことも、逃げることも出来なくなった。ついには神に、あるいは今は亡き父母に祈りつつ身を潜める内、今度はその聴覚に地面を踏締める足の響き、そして銃器、あるいは刃物の触れ合う音をユウシナは感じ取る……恐怖のあまり、ユウシナは眼を開けることも出来なくなった。
「止まれ」
声は唐突でそれも女性、しかも現地人の言葉だった。入植時の現地情勢に関する講習で、現地人の言葉は積極的に学んだ方だ。他の者は蛮族の言葉など学ぶに値しないという態度だったが、ユウシナには異邦の地に根を下す上で必要なことであるように思われた……とは言っても集会場で学ぶことが出来たのは、簡単なあいさつや「止まれ」、「降伏しろ」、「銃を棄てろ」だのまるでこれから戦争でもするかのような簡単な単語だったのだが……同時にユウシナは、叢の中で女性の匂いを嗅ぐ。ローリダの女性にはない、ユウシナの嗅覚には刺々しく感じられる匂いだった。そういえば本土に居た頃、父の友人という金持ちの家を訪ねたとき、そこで働いていた異邦人の召使からよく似た匂いがした記憶がある――
「こちらダミア。スバス、今何処にいる?」
「…………」
次に聞こえたのは、聞き間違えの無いローリダ語だった。だが生粋のローリダ語ではないとユウシナは思った。まるで詩や公文書でも読み上げる様な「文法通りの」ローリダ語だ。話者個人の出生地の気質や風土に洗われた痕跡のまるでない、役人か機械の語る様なローリダの言葉――それに、ユウシナは芯からの戦慄を覚えた。寄宿学校時代に文学を熱心に学んだ彼女には、個性の無い言葉が余計に奇異で、かつ恐ろしく感じられた。携帯無線機の空電音を次に聞き、そしてこの場にはいない男の声をユウシナは聞く。その声にもやはり、ローリダ人らしさが無かった。
『――こちらスバス。だいぶ後方です……いま二名を捕えた。付近の住民のようです』
「ローリダ人か?」
『――そうです』
「殺せ。静かに」
「――――!」
思わず声を出そうとして、ユウシナは掌を口に充てて辛うじて堪える。直後に無線機の向こうから絶叫とも呻き声とも区別のつかぬ声が聞こえ、それは森の深奥に呑み込まれていくようにユウシナには感じられた。
「待ちますか?」
「……いや、合流する必要は当分ない。打ち合わせ通りだ」
「ハッ……!」
隊列――おそらくは横隊――が動き出すのをユウシナは気配で察した。数はユウシナが当初に感じたよりもずっと多く、それも彼女の周囲一帯に広がっている。今や彼女の眼前を過ぎゆく足音と息遣いまでが一帯に反響していた。視界の捉えられる限りで目にした人影の何れもが銃や短機関銃で武装し、そして原住民の衣装を身に纏っている。だがその顔は化粧や迷彩で誤魔化してはいても、原住民らしからぬ精悍さ――否、野卑さ――は隠しようが無かった。身を潜め続けるユウシナの傍らで再び空電音が生じ、先程の女性と思しき声で指示が飛んだ。
『――重ねて申し置く、ローリダ語は使うな。少なくともあと三時間は――』
「誰だ……?」
「…………!?」
今度の声は、紛うことなきローリダ人の発音だった。それがユウシナを怯えさせ、そして眼を瞑らせた。その間にも気配は、地面を伝う足音の響きに姿を変えてユウシナの元へと近付いてくる。同時に銃の金具が触れ合う音を少女は聞く……あと数歩を踏み出せば、そのローリダ人は山肌に身を埋める同胞の少女を見出したことであろう。胸の高鳴りが、処刑台の階段を上る足音のようにユウシナには思われた。いっそ立ち上がり、死中に活を見出そうか――ゆっくりと延ばした形のいい掌が、腰の狩猟用ナイフの鞘に触れる。
「なんだ……鼠か」
拍子抜けした様な声と同時に聞く吐息――足音の響きが遠ざかりゆくのをユウシナは眼を瞑って見送る。それからさらに時間をかけて、隊列はゆっくりとユウシナの周囲を通り過ぎていった。それはユウシナにとって、これまでの彼女の前半生に匹敵する長い時間の出来事であるように思われた。潜んでいるこの場所からすぐにも逃げ出したい衝動を何度も抑えつつ、何時しか歯を食いしばって状況に堪える少女の姿……不意に静寂が訪れ、そしてユウシナは放心と安堵の内に委ねた身を、地肌に投げ出しながらに脱力する。木を伝って立ち上がるのに、若干の力と勇気とが要った。
「…………」
西を朱に染めつつ暮れゆく空の一方で、黄昏に見捨てられた森では既に夜が始まろうとしていた。幽鬼のようなあの集団が消えていった方向を、ユウシナは木陰に身を潜めつつ凝視する。微かに後姿が見えたがそれも一瞬、彼らは完全に森の作り出す闇の世界へと消えた。
「まさか……!」
集団が消え去った方向と、今のユウシナにとって一番大事な場所の方向とが、今になって彼女の脳裏で重なった。これ以上の思考はもはや障害にしかならなかった。一転して込み上げて来た激情の赴くままユウシナは山肌を滑り降り、そして蹴って森の出口へと急ぐ。幸いにも馬は彼らからは遠い場所に繋いである。急いで馬を走らせれば、連中が集落に近付くまでに入植地に駆け込める――
ノイテラーネ国内基準表示時刻12月23日 午後8時15分 スルアン‐ディリ迎餐館
水晶で作られたかのような塔の連なりが、広範な庭園の中心に聳えている。それは地上から投掛けられた光の束を受け、まるで夜空の一点に浮遊しているかのように見えた……そう、天空を掌る神の業により、煩わしい下界から完全に隔離されてしまったかのように――
饗宴はその始まりを支配した熱狂が過ぎ去り、今では心地良い喧騒がその広大な会場を支配している。「黄金宮の間」と称されるこの会場は、三層をぶち抜いた天井からタイル張りの絨毯に至るまで純金の装飾が施されており、此処に足を踏み入れた客人は、これ以上奥へと歩を進めることすら躊躇わせる程の豪奢さに、圧倒されないだけの財力と胆力とを要求される。ここ「黄金宮の間」を指して「天界に在るが如し」とは、良く言ったものだ。但し、万人に対し開かれた天界とは必ずしも言い難いであろうが。
会場の中央を占める噴水台は、四季を司る彫像の女神たちの戯れのさらに上、頂点を占める半神像の担ぐ水甕から永遠の流れを生み出している。つい一時間前からその麓に生じた会話の環は、そのメンバーの入れ替わりこそ頻繁であるにせよ、決して途切れることは無かった。
「――ウエクサ閣下、スロリア戦に関してお話を頂きたいのですが」
「―― 一緒に写真を撮って頂けませんか?」
「――閣下、我が国の軍制に関し、是非ご助言を頂きたく……」
会話の中心を占める礼服姿の男に投掛けられるのは、大抵そのような話題に終始する。赤青、あるい灰色にカーキ色……そのような服の上にお決まりと言ってもいいように金銀を散りばめた勲章と装飾がキラキラと瞬いている。軍服を纏った異国の将官、その他幹部たちの眼もまた、その先に神でも見出したかのように輝き、彼らの尋常ならぬ煌めきは子供のそれのような稚気すら礼服姿の植草 紘之には感じさせた。決して気分のいいものではなかった。
ノイテラーネ主席府付 安全保障担当特命補佐官。それが現在の植草 紘之の肩書であるが、彼を囲む軍人たちの興味はむしろ植草の三年前の肩書に集中していると言えるのかもしれない。日本国自衛隊 統合幕僚長。それが三年前の彼の肩書であり、異邦人のよく知る彼の肩書であった。
「世界最強の軍隊を率いた男」、「飛行服の名将」――この世界において植草 紘之の二つ名は多く、いずれも彼に対する悪意は含まれていなかった。三年前の「スロリア紛争」において統合幕僚長としてニホンの陸海空三軍を率い、三軍一体の電撃的な進攻作戦を成功させた立役者。下馬評ではノイテラーネ維持が精々と思われた諸国の予測を排し、開戦から僅か二週間の内に戦闘をニホンの圧倒的な勝利の内に終息させ、当時軍事的には無名に近かったニホンの軍隊の、恐るべき戦闘力を知らしめた名将……列国の軍事専門家の口をして「ウエクサと彼の軍隊の出現以前と以後とでは戦争の定義が変わった」とまで言わしめた程、未だ軍人としての彼の声望は高く、むしろそれ故に、一小国の助言役たるに収まっている植草の立ち位置を訝しむ声もまた存在していた。
「――閣下は、主席府近くの職員用官舎に一人でお住まいとか?」
「ええ。単身用ですが、贅沢を言えば一人で済むのにはやや広すぎる嫌いはありますね」
「――もう少し広い家……いや邸に住みたいという希望はないと?」
「王侯のような暮らしも悪くは無いでしょうが、育ちに合わない暮らしをすると、人は歪むといいます。特に国防に携わる人間は肝に銘じておくべきでしょう」
「…………」
ある者は興味深けに植草を見詰め、またある者は憮然として植草を見遣る。人の話を聞くという点では共通していても、それに対して抱く感慨には大きな違いがあるという、明瞭なまでの証明が為された瞬間であった。但し、植草に関して栄誉や富貴に無頓着な人間であるという印象を得た者は、それなりに多くいたかもしれない。外見的にも、植草はノイテラーネの高官たるを示す黒と灰色とを基調にした礼装を着用している事以外には、実年齢よりもずっと若々しい風貌を有するいち青年以上の感触を他者に与えるものではなかった。但し、会話の端々で走らせる眼光の煌めきは烈しく、それを見逃さない者も会話の環の中にはいた。赤い礼服に全身を包んだ女性士官がひとり――
「――閣下は、また三年前の様に一軍の指揮を執りたいとお望みになりますか?」
「それは、私が希望するしないとに関わらず、日本政府としては出来ない相談でしょうね」
投掛けられた質問を、植草は軽くあしらうかのように答えて見せた。それが他者に更なる質問を促す。
「――何故です? 閣下は軍人でいらっしゃるのでしょう? 軍人ならば戦場に立ち、時によっては戦場に斃れることこそ、軍人として本望であるはずです」
「正確には、元軍人というのが私の立場です。軍人たることを捨てた人間が今更現役に戻って出しゃばったところで、後進に迷惑を掛けるだけでしょう。一軍を預けるに足る人材ならば、今の自衛隊には私以上に適当な人間が沢山います。何処の国とは言いませんが、現在我が国に対し積極的な害意を抱いている勢力には、迂闊な手出しをしないことを望むのみです」
そこまで言って、植草は質問の主に目配せする。外見だけならば清新な印象を与える好青年に、同意を求められるような眼差しを投掛けられ、その女性士官は困惑に思わず頬を赤らめる。見ず知らずの女性の感情を掻き乱す位には、男性としての植草の表情は魅力があったとも言える。それまで彼女の礼服を凝視していた異国の高官が、絶句して言った。
「ローリダの士官じゃないか」
「…………!」
その一言は、それまで植草を中心に回っていた会話の環を乱し、視線の集中を前に困惑の表情を浮かべる女性士官を、更なる困惑に追い込むのに十分な威力を持っていた。摺り下がった眼鏡を押し上げつつも言葉に詰まる女性士官を前に、植草は会釈で応じる――
「――見たことがある服だと思ったら、そうだったのですか? 何は兎も角、ノイテラーネにようこそ。政府の一員として歓迎いたしますよ」
眼前の差し出された手を凝視し、次には眼前のかつては敵将であった男を見上げつつも、内心で身構えるミヒェール‐ルス‐ミレスがいた。敵将……それも共和国ローリダにとっては生きた災厄とも言うべき危険な男――それが、今自分の眼前にいるのだ。
「…………」
表情を消して、ミヒェールは差し出された手を握りかえした。作り笑いを浮かべる気にすらなれなかった。だが内心で眼前の敵将を押し図ろうとして失敗している彼女がいる。それが、さらに彼女を困惑させていた……これが、三年前の戦いでニホン軍の総指揮を執った男なのか? であれば、これまで彼が積み上げて来た軍人としての過去を感じさせない様な、まるで一般人の様な自然体は、一体何を意味するのであろう……と。だが、三年前の戦いで我が共和国国防軍が、この男に勝ちを譲ったことは――受け容れがたいことだが――事実なのだ。
「ローリダ共和国陸軍のミヒェール‐ルス‐ミレス少佐です。閣下には以後お見知り置きの程を……」
慇懃な口調でミヒェールは言った。意図せず語尾が震えるのを覚えつつも、彼女はそれを自制心の統制下に置こうともがく。
「主席府安全保障担当特命補佐官の植草です。よしなに」
「将軍ウエクサ、あなたの御高名は我が国までも轟いております。お会いできて光栄ですわ」
「高名?……悪名の間違いでは?」
冗談混じりの植草の返しに、ミヒェールは微かに笑った。
「我が軍将兵に、包囲の末の殲滅という末路ではなく秩序ある撤退の機会を与えて下さったという意味では、我が国にとっては高名で御座いますわ。将軍」
「…………」
ミヒェールの言葉は、三年前の「スロリア戦役」において、ローリダで言うところの「ニホン軍」の包囲網が不徹底であったこと、そしてその後の追撃に徹底さを欠いたことを暗に指摘したものであったが、当の植草がミヒェールの意図を察したのかどうかはこの段階では未だわからない。少なくともミヒェール自身にとってはそうであった。それほどまでに植草の表情に変化は無く、彼はただミヒェールを興味深げに見詰めるに留めている。それでも見詰められるにつれ、まるで全てを達観した宗教者と対峙しているかのような居心地の悪さをミヒェールは感じ始める。
植草は、言った。
「なるほど、再戦の意欲は十分過ぎる程おありのようだ。聞くが、それは貴国の民衆の一致した感情なのですか?」
「再戦を望むか否かに限れば、それを望むローリダ人は決して少なくはありませんわ」
「では、貴官の意見はどうです」
その眼鏡越しに、ミヒェールは植草の顔を覗くようにした。
「小官はあの時、キビルに在ってスロリア方面軍の司令部に詰めておりました。未だ右も左も判らぬ新任士官でしたが、当時の我が軍首脳部の決断と行為が決して賞賛されるべきものではなかったことは否定しません。出来得れば、それらの瑕疵を取り除いた上で全てをやり直したいという思いはあります」
「その瑕疵の中には、キビルを灼いた反応兵器も含まれるのか?」
「…………」
何時しか植草の表情から余裕が消え、迂闊な発言を許さない険しさをミヒェールは彼の顔に感じ取った。だがそれはミヒェール自身も十分に心得ている事柄であった。ローリダで言うところの「神の火」……つまりは核分裂原理を応用した大量破壊兵器の保有と使用に、ニホン人が敏感にならざるを得ない歴史的経緯を彼女は知っている。実はその上に、ローリダの日本に対する唯一の軍事的な優位が生じているということも――植草は目を細め、無言の内にミヒェールに回答を促す。
「個人的な意見を言わせてもらえば、あれは無用の行為ではなかったのかな。無辜の民衆を、核兵器を用いて殺戮するというのは――」
「――無辜の民衆ではない。叛徒だ」
不意に投掛けられた言葉は、ミヒェールと植草を不毛な意見の応酬から救ったばかりか、場の共有していた意識を言葉の主に引き付けるに足る響きまでも有していた。植草とミヒェールは同時に言葉の主へと向き直り、無感動と安堵――それぞれに違った表情を浮かべる。植草が表情を失ったのは、発現の主の端麗なる容姿だけではなかった。
「叛徒……それが我が共和国の公式見解だ」
漆黒のドレス。それに過剰な装飾は無く、ドレスの主が身に付ける装飾品も主の地位に比して聊か控えめに見え、むしろそれ故に、ドレスを基調に生み出された美の調和を乱すものではなかった。ドレスは主の精悍さと妖艶さとの絶妙の競演を思わせる流麗な体型に密着するように纏われ、それ自体がすでに主の躯の一部であるかのような錯覚すら周囲の男たちには起こさせた。白皙の美貌、宝石に飾られ、幾何学的に結われた黒髪、覇王が創業成った天下を愛でるように植草を見据える緑の瞳……均しく息を呑む男たちの注目の中心で、黒衣のルーガ‐ラ‐ナードラと植草 紘之は対峙し、二人の間に生じた仮初の均衡は、会話への闖入者たるナードラによって破られた。
「将軍が思うように他にやり様はあったかも知れぬが、我が共和国の方針は変わらぬし、私も祖国の意に従う者である」
ミヒェールが植草の前に進み出、改まった態度でナードラの傍らに立った。
「将軍ウエクサ、今回の宴席における我が主、ルーガ‐ラ‐ナードラ特使です」
「お噂はかねがね……」
植草は言い、そして微笑んだ。その一方で彼の眼差しには一切の感情も語らず、眼前に現れた新たな人物を観察し続けていた。一方でナードラという女性もまたそうであった。しかし観察という事象に要件を絞るならば、眼前の淑女は完全にこちらの機先を制していることを植草としては認めざるを得ない。恐らくは眼前の淑女は、植草がミヒェールと会話する前から、植草個人とこうして対峙できる間隙を見計らっていたのであろう。その彼女にとってミヒェールとかいう軍幹部は、いわば「威力偵察」の「駒」のようなものだったのだろうか?……軽い困惑を覚えるまでも無く黒いシルクの手袋に覆われたナードラの手が上がり、期せずして延びた植草の手が軽くそれを触れる。手の甲への接吻――かつての敵国の将がナードラに低頭した瞬間、軽いどよめきが周囲の男たちから上がった。展開の突飛さも然ることながら、彼らには二人が、外見的にも妙齢の組合せであるように思われたのである。ナードラの細腕を覆うシルクからは、甘い香りがした。
「ノイテラーネへようこそ特使、この部屋の美は見せ掛けだけの紛い物ですが、あなたのお美しさは本物の様だ」
「御冗談を……だがこの程度の機微すら弁えない者がローリダには少なからずいて困っているところだ。それはそうと将軍……」
最初に眼差しが微笑い、そして形のいい、朱を施した薄い唇が後に続いた。
「……あなたにこうして直に会えてよかった。機さえ整えば、我が共和国を滅ぼすのも夢では終わらなかったであろうあなたに」
「特使も冗談が巧い」
笑顔で応じつつも、植草の表情からは称賛されたことに対する謝意も、そして優越感も表には現れなかった。社交上の感状の伴わない微笑を絶やすことなく、植草は続ける。それがナードラの緑の瞳に一層の興味の光を湛えていく……
「下世話な言い方をすれば、私は給料分の仕事をしただけのことです。戦争の勝利から一歩進んだ先、他国を滅ぼすとか、支配するとか決めるのは、私の祖国日本では軍人の仕事ではないことをこの場を借り申し上げて置きましょう」
「それは我がローリダとて同じだ。だが時として錯覚する軍人は極めて多いのだ。敵国と闘争し、闘争に勝つことこそが、自分だけに与えられた仕事……いや、権利であるという錯覚を――」
「…………」
社交用の朗らかな表情を消し、ノイテラーネ以前の謹直さを取り戻したかのような険しい眼差しでナードラを凝視する植草。その彼をナードラはやはり観察する様な眼差しを変えずに続けた。
「ニホンには、そのような軍人はいないようで羨ましい……」
「それは買い被りかもしれませんよ。ミス‐ナードラ。問題は、その国を支配する制度ではないでしょうか」
「制度……と?」
「……つまり、いろいろな思想を持つ軍人を、彼を縛る規範からの逸脱を許さず、国家に対し大過なく責務を果たさせることの出来る仕組み、とでも言うべきでしょうか。私の祖国日本では今のところそれが機能していますが、貴国ではどうか……という点に行き当たるかと思いますが」
「成程……見掛けに拠らず辛辣な方だ。だが一考に値する示唆でもある」
ナードラの緑の瞳から感情が消えた。軍人のそれを思わせる、冷徹さすら込められた視線を植草は感じ取る。そうだ、この眼は軍人……軍人であったことのある人間の眼だ。
「軍人という者は、単に輔弼者であるのに過ぎない。国家の主が戦争を欲した時、軍人は彼の命に従って物理的な意味での戦争を戦い、これに勝つことで戦争全体の遂行を補完するのだ。あなたも前線で戦った経験があるのであればお判りの筈だ。私も昔は騎兵隊の将校として、言い換えれば国家の数多い駒の一つとして国家の望む闘争の最前線にいた。将軍ウエクサ、昔のあなたは何をしていた?」
「ナードラ様……」
ミヒェールが歩み寄り、ナードラに耳打ちする……なるほど、自分に関してはまるきり不用意に会話を振ったわけではないということか――植草は自身を納得させ、その内心で相手の出方を待つようにした。ナードラは眼を僅かに見開き、そして植草を再び興味深げに凝視する。
「戦闘機?……なるほど、お見逸れした将軍。あなたも一廉の戦争の子であったと見える」
「私はその職種故、殺した相手の顔を見ずに戦歴を重ねることができた。軍人としては恵まれている方だと思っていますよ」
「ふむ……それを言うのであれば私の友人を殺した貴国の戦闘機乗りもまた、幸運と言えるのかもしれぬな」
「友人……?」
始めて聞く話に、植草は身を乗り出したくなる衝動を辛うじて抑えた。不用意な発言で眼前の敵国の要人、それも女性の、精神の急所を抉る様な真似をすることを、元軍人として、あるいは一人の男性として植草は何よりも恐れた。
「私には、戦闘機乗りの友人がいた。武運つたなくスロリアの戦いで散華したが、それもまた国家の駒の運命だ。しかし出来得れば、盤上に並べた駒を何の思慮も無く無駄遣いする様な羽目になるのは避けたいところではある。駒もまた、血肉の通った人間であるのだから……」
「同感ですな」
植草が同意し、ナードラは笑った。癇に障らない、俗世に関わるを由としない貴人の笑いだと植草は思った。しかしその後に続いたナードラの言葉は、植草の予想を明らかに裏切った。
「将軍は他人事のように言う。私が言っているのは、ノドコールのことだ。あれこそ将棋の盤ではないかな? 血肉でできたあなた方の駒が並ぶ盤……だが、三年前と違いあなた方の前に敵の駒は並んでいない。戦うべき相手と理由を見出せぬまま、しかも何処から攻めてくるか判らぬ敵を前に、あなた方は無益な戦に臨もうとしているではないか?」
「戦争になると、何故判るのです?」
口調は穏やかだったが、硬化した態度は流石に隠せなかった。かつての敵将に、ナードラは再び微笑みかける――あたかも植草の内心を見透かしたかのように。
「将軍ウエクサ、あなたのかつての主とあなたの後継者に理性的な判断ができるか否か、我が共和国としても注視していることをお忘れなく」
「…………」
それに対し植草が僅かに口を開き掛けたとき、上席の壇上がにわかに活気づき始める。息を弾ませたノイテラーネ主席府付きの官僚が植草の元に足早に近付き、そして言った。
「補佐官どの、間もなく閉会の辞が始まります。壇上へ御足労願いますか?」
「……ああ、わかった」
官僚の要請に頷きつつ、植草はナードラの方向を見遣る。その彼の視線の先で、黒衣の特使は微笑と共にシャンパングラスを掲げて見せた。
エラム‐ロウ‐ターレス ノイテラーネ連邦中央政府主席。三年前の「スロリア紛争」時に主席位にあったウレム‐サレ‐クロームから数えて五代目にあたる。この時点では主席の最高諮問機関たる――日本で言えば内閣に相当する――「十一人会議」の筆頭から現在の地位に昇格して半年程が経過していた。没個性的なオールバックの銀髪にかつては端正と謳われたであろうことだけは伺える目鼻立ち、しかしそこに強い印象を与える個性は無い様に見える。縁無しの色付き眼鏡がさらに彼の没個性振りに一種のアクセントを加えているようにも思われた。性格もまた五代前のクロームの「パンクさ」とは正反対に位置し、むしろ謹厳実直なターレスの方がノイテラーネのトップとしては典型的と言えるだろう。
ノイテラーネ社会のエリートたる登竜門とでも言うべき最高学府、ノイテラーネ大学における彼の卒業成績は、やはりノイテラーネの将来を背負って立つに相応しい首席であったが、これには若干の裏話がある。本来ターレスの上には二人、成績優秀者がいたのだが、卒業式の一週間前に本来の首席が無謀運転に起因する自動車事故で死亡し、次席に至っては主席に昇格して五日後に急性アルコール中毒が原因で死んだ。結果として本来三番手であった筈のターレスは、それから二日後の卒業式で急遽卒業生総代として、卒業式会場の壇上で居並ぶ時の政府要人と財界の有力者らの険しい視線を前に、一人直立し答辞を読むこととなったのである……
『――風雪を司る精霊の無慈悲なる手の、容赦なく我が母都市に延びんとするこの時節、御来駕の皆様には、わざわざ此処ノイテラーネの品格と富貴を代表するスルアン‐ディリに御足労頂き、感謝の気持ちに堪えません』
閉会の辞は、ごく有触れた文句から始まった。壇上のクリスタルガラス製プロンプター上にディスプレイ表示された原稿に目を走らせつつ、ターレスの口から滑らかなノイテラーネ語が広大な会場に響き渡る。演説に関しては、ターレスの技量の程は歴代の主席と比較しても見劣りするものではなく、むしろこれが平均的であると言えた。ただ三年前の、前首席ウレム‐サレ‐クロームの強烈な個性が、人々の記憶に拭い難い余韻となって残っている現在では、物足りなさを覚える者が会場には決して少なくないのもまた事実である。
「…………」
植草 紘之は主席の背後に居並ぶ政府要人たちの末席に在って、主席の演説に耳を欹てる来客の様子を凝視している。会場に佇み、閉会の挨拶に聞き入る者、演説、あるいは今回の宴会の主催者そのものに関心を払う風でも無く談笑を続ける者……会場の反応はまちまちで、それが植草には気掛かりであった。スロリア地域の緊張緩和のために設けられた協同通商会議と、それに付随する形で設けられた宴席……会議自体はこれ一度きりではなく、この先幾度も続ける必要があるだろうと植草は思う。会議に要する費用の一切合財を捻出する財務局と、税金の無駄遣いとの市民の批判の矢面に立たされる民政局にとっては悪夢の始まりかもしれないが……
『――我が母都市ノイテラーネは、万国に対し開かれております。この世界は今なお不安定であり、各地に紛争の火種を抱えております。対立は対話により解消されるべきものであり、万民は政府より平穏なる生活を約束されるべきものです。そのためには国家、種族の枠を超えた対話の場が必要であります』
植草は眼下の会場から演説台へと視線を移す。途上、要人の列の中央を占める一人の青年の姿で植草の眼は止まる。
「…………」
美しい青年だった。外見だけで判断するならば、まだ高校生と言いきっても通用する程その外見は若々しく、女性的な流麗さすらその容貌に加わっているように思えた。ウェーブした銀髪と一切の感情の宿っていない灰色の瞳の生み出す氷の様な眼差し、均整の取れた中背、黒と灰色を基調にした制服との組み合わせが、前述の容姿上の特徴を度外視して冷徹な実務家という印象を接する者に与える……主席府筆頭補佐官のエルオン‐アザレ‐クロームだった。
主席府筆頭補佐官は二年前に第一首席補佐官から改称された役職で、それでもノイテラーネの主に公私ともに最も近い立場を占めることに変わりは無い。エルオン‐アザレはこの年24歳で、17歳でノイテラーネ大学を「本当の意味で」首席卒業して以来、まるで高速エレベーターに乗ったかのような勢いで権力の階層を踏破してしまっている。ゆくゆくは30を出ずして中層政府の要職を占める、あるいはさらに上の至高の地位に就くのは確実と噂されていた……そのエルオン自身の才幹の確かなことも然ることながら、何より前首席ウレム‐サレ‐クロームの息子と言う異数の出自が、そうした噂の論拠を補完する形となってしまっている。それ故にエルオンの補佐官就任を、父親たる前首席クロームによる幹部人事への露骨な干渉の表れとして、批判的に見る者もまた多かった。曰く、「クローム一族による、母都市の露骨な私物化」……と。
……が、筆頭補佐官の職に就いてすでに半年。ターレスとエルオンのコンビは大過なく中央政府の職務をこなしているように見える。出席の必要を認めないが故にこの場にはいないウレム‐サレ‐クロームに、以前エルオンと引き合わされたことのある植草としては、それが当然の成り行きのことであるように思われる。初めて前首席の息子と顔を合わせた際、エルオンは植草も驚く程の明快さを以てスロリアとノドコールの現状を分析して見せたものだ。
「――最大の問題はノドコールにおけるローリダ人移民の処遇でしょう。ノドコール独立が前提として、彼らと本来の住民との共存が最良の解決法ですが、それが叶わない場合はスロリア、ノドコール国境付近に限定してのローリダ人自治区の設定を容認するしかなさそうです。もちろん、その際ローリダ人の武装解除は必須ですが……」
一息つき、灰色の瞳を一瞬煌めかせて主席の息子は続けた。
「……ニホン政府には、その際停戦監視のために戦力の提供を求めることになるかもしれません。我がノイテラーネとしても、今後の国際貢献の幅を広げる上で警備部隊の派遣も選択肢に上るかと思います」
「ほう……」
若過ぎる補佐官候補者の口から警備部隊派遣という文言を聞いた時、さすがの植草も驚愕を隠し通すことは出来なかった。エルオンの言葉は、彼が政権の中枢に立った暁には、ノイテラーネ独自の実効力を伴った国際貢献を企図するであろうことを意味していたからである。ノイテラーネ単体は現状、その施政圏の治安維持に必要なだけの軽武装戦力しか有していないが、それでも国外における警備や後方支援に関し、少なからぬ国際貢献を可能とする余地をその編成上有していた。もしエルオンの構想が実現すれば、ノイテラーネはその商業都市国家としての性格を少なからず変貌させることになるであろう……
「ただし現有の我が市の戦力では国外への展開に際し、未だ不安があります。私としては出来るだけ早く戦力の拡充に必要な予算を通過させ、将来への投資を進めて置きたい。現在我が連邦内総生産に占める特別治安維持費……つまり、ニホンで言うところの防衛費の割合ですがそれは0.5パーセントです。私としてはターレス主席の任期中に、これを1.0パーセントにまで引き上げて置きたい。そこでですが……」
「…………?」
「戦力増強に関し、私としてはニホンに支援を仰ぎたい。ウエクサ将軍には、是非その際の橋渡しを務めて頂ければ……と考えています」
「成程……」
相槌を打ったところで、植草は首を傾げて見せた。エルオンが求める「支援」が、何処までの線引きを設けた上で為されるべきかに、即座に確信を持てずにいたからである。
「現在の日本政府の方針から勘案するに、国外での平和維持活動に関し、要員の教育や共同訓練という点に限れば十分な支援を差し上げることは可能でしょう。ですが、実際に装備の提供となると、折衝にかなりの時間を割かねばならないでしょうな」
「その事は存じております。しかしニホンの憲法解釈によれば、非武装の軍用地上車や軽装甲車両、個人用装備はそのような折衝の埒外である筈、それに私は新時代の都市国家たるに相応しい国際貢献を企図しているのです。何も仰々しく戦車や大砲を保有しようという訳ではありません」
「そういうことでしたら、折衝も割合順調に進むかもしれませんな」
「…………」
ターレス主席の背後に在って、年齢不相応の貫禄すら漂わせて胸を張るエルオンの横顔を、植草は凝視する。この若者の話は面白いが、ともすれば単なる理想主義に傾くきらいがある。単に若さの為せる勢い、と言ってしまえばそれまでかもしれないが……ただ、ノドコール問題の解決に際し、眼前の若者が最も平和的かつ現実的な手段のひとつを提示したことは事実である。
それでも――
『ナードラはどう出るだろうか?』
という、不安にも似た疑念が急速に植草の内心に広がりつつある。ノイテラーネの旧い言葉で「懐中の剣」とはよく言ったものだ。先刻、彼女と話をした時に感じた戦慄すら伴った違和感を総括すればまさにそれだ。彼女は何か、途轍もない策謀を抱いて此処ノイテラーネに降り立ったのではないか……?
『――この善き日に、皆様を美と贅を極めた空間にお招きできたことは私、エラム‐ロウ‐ターレスにとって最大の喜びであり、名誉であります。願わくば御来駕の皆様に、スルアン‐ディリの守護精霊の加護があらんことを!――』
「――――!!」
締め括りの言葉と共に、来賓の拍手が津波となって壇上へと押し寄せてくる。それに笑顔で手を振って応じるターレスの顔を、怒涛の如く青白く照らし出すフラッシュの余波が、末席の植草までに達し、余りの眩しさに彼は眉を僅かに顰めた。その眼差しの先に、ルーガ‐ラ‐ナードラの姿は見出せなかった。