第四章 「闇の戦士」 (1)
都市国家ルジニア基準表示時刻12月20日 午後10時24分 首都ルジニア ルジス中央港
嵐の爪痕は、真白い靄となって未だ海面全体に漂い続けていた。
夜空の下、波止場の灯りは淡く、儚いまでに漆黒に取り込まれた港湾の各所に宿っている。但し時折海面の黒いうねりを撫でる様に過ぎる光の線が、四六時中開かれた港湾であってもそこを支配する一抹の船影の存在を、自然を支配する人工物の中に印象付けていた。船影の存在感は大きく、それは港湾の各所に据えられた大型浮標と、その上に立つ武装した警備兵の姿からも察せられた。靄は、船影が見るもの、あるいは船影を見る者がそうと判らない程に濃く、海面の広範囲に亘って棚引き、視界の悪さは夜が明けても収まりそうになかった――そこに、蠢く影が複数。
『――こちらアルファ、桟橋に一人いる』
『――ブラヴォ、視認した。排除するから待っていろ。岸壁のもう一人はどうする?』
岸壁……それも、波止場の主要箇所から外れた、とうの昔に使い途を失った古い石積みの岸壁――岸壁に通じる桟橋を、銃を提げて佇む影がひとつ。丸太を組んだ桟橋の上に佇む人影を一瞥した後で、波間に潜む「それ」は、再び頭を没した。次の瞬間には「それ」は桟橋の真下に在って、所在無げに頭上を歩き回る影を見上げている。声は、それ自体が粘液質の波に呑まれて上までは届かなかった。
小声での交信は、なおも続く。
『――そいつはこっちで片付ける』
『――ブラヴォ了解』
「チョッパー、下に付け。奴を排除する……落とすなよ」
「……了解」
「チョッパー」と呼ばれた影が波に潜り、それは再び桟橋の先端まで歩いて来た兵士の直下で波間を割り、手を突き出した。
『待機、待機……スリー、ツー、ワン――』
眼下の暗黒の向こうから響く、聞き慣れぬ波の澱みを、不気味な気配として感じ取り、兵士がそれを覗き込むようにしたとき――
「――!?」
闇夜を裂き一閃した銃弾、発砲音は無かった。それが何処から放たれたのか、そして放たれたことすら知る者はこの港にはいない。しかし弾丸は音も立てずに兵士のこめかみの右から左へ抜け、闇の世界を何処へともなく過ぎ去った。絶命した兵士が倒れて桟橋から落ち、海中の懐へ陥り掛けるところを、海面から延びた二本の手ががっしりと受け止める……音も水飛沫も立てることなく、ゆっくりと海中へ取り込まれ、引きずり込まれる兵士の死体――
『――桟橋クリア。チョッパー……応答しろ? チョッパー?』
「こちらチョッパー……準備よし……!」
光の届かない水底に死体を沈め、海面からせり上がった頭が応答する。どす黒いブーニーハットの日除けから、海水が滝の様に毀れ落ちている。彼の前方よりずっと先の、岸壁に程近い浅瀬。もう一つのブーニーハットが周囲を一心に伺っている。すでに立ち泳ぎの必要ない、脚が付く程の深度だった。海中で足鰭を外し、背中に結わえたバンジーコードに固定する。浅瀬に向かい前進するブーニーハットを目指し、彼もまた水中でゆっくりと歩を進める。海底の泥の、ぬるぬるとした不快な感触をアサルトブーツに感じながら――前方を行くブーニーハットが海面から半身を起こし、それは銃を構える兵士の影となった。後続する彼もまた上半身を擡げる。両手で構えた先進型光学射撃照準器付きの89式カービンライフル。構えながらにそれを傾け、チャンバーとガスチューブに溜まっている海水を排出するのも忘れない。先頭のブーニーハットが完全に陸に上がり、腰を落として周囲に銃身を巡らせる。海中に在る彼もまた、89式カービンを構えたまま、周囲を巡る。
『――周辺に脅威なし……いいぞチョッパー、付いて来い』
「…………」
溜めていた息を吐き、「チョッパー」は浅瀬へ向かう……チョッパー――海上自衛隊海士長 高良 謙仁が日本の神奈川県綾瀬の飛行場を飛び立ってから数千キロを隔てたルジニアの海に身を沈めるに至るまで、未だ8時間も過ぎていなかった。
8時間前――
海上自衛隊特殊部隊の一員になった者にとって、日常から非日常への転換は、大抵の場合一通の携帯メールから始まる。
「BATSIGNAL――」
この単語の後に、数字とアルファベットの羅列が続く。数列は、集合時刻と場所とを示していて、通常召集ならば少なくとも集合時刻の半日前には送信されるようになっている。つまりは集合までの移動、装具の準備に要する時間を多少は考慮してくれている。但し、待機状態ならば受信から一時間以内に集合場所へ到着しなければならないと決められていた。11月17日付で海上自衛隊特殊部隊「チーム3」に配属された謙仁にとって、シールズ隊員となって最初の召集メールは、後者の形でやってきた。
チーム3指揮所の所在する神奈川県綾瀬の海上自衛隊航空基地、共に待機していた隊員三名と連れ立って、足早に指定された格納庫まで向かう。作戦に必要な装備は、事前にテープで厳重に封をされたバックに詰め込まれており、それは召集が掛かれば即座に航空基地の地上要員の手でシールズ専用のロッカールームから集合場所に運び出される手筈になっている。従って指名された要員は、身一つで集合場所に来ればよいというわけであった。但しバッグの中に事前に何を、どういう風に詰め込むかはそれを扱う当人の裁量次第である。
「お若いの、今日は付いて来なくてもいいぞ。訓練じゃないから」
と、「ロック」こと緊急班の先任分隊長 服部 亮二 一等海曹が待機室から出る間際に言った。事実、呼び出しの内容が訓練であるか否かは数列を見れば判るようになっている。だから自身が受信したメールが、「作戦の実行」を告げるものであることを察したとき、謙仁は背筋が砕けんばかりに震えるのを覚えた。
「いえ! 行かせて頂きます!」
「…………」
ビックリ箱のように立ち上がり、声を上げた謙仁を、服部一曹はにやけ顔もそのままに凝視した。謙仁と同じく水中処分員出身で、入隊したての謙仁に隊内の気風やメンバーの人間像について色々と教示してくれた面倒見のいい分隊長。彼の言葉が心からの好意によるものであることを謙仁は理解していたが、それでも、将来のためには受けない方がよい好意というものがあることを、謙仁は短い人生経験の中で知っている。謙仁の反応には何も言わず、彼を従えたまま集合場所である航空機格納庫へと向かう道すがら、服部一曹は言った。
「気負うな。ところでお前、自由降下は持ってたっけ?」
「経験はしております!」
「ならいい」
服部一曹はまた笑い、肩越しに「ついて来い」と促した。それが謙仁には嬉しかった。
「自由降下か……」
という感慨は、格納庫の外で駐機するC-130R輸送機の威容を目の当たりにしたとき、心からの驚愕へと席を譲る。陸上自衛隊習志野駐屯地の基本降下/自由降下教程でもこいつには何度もお世話になった筈が、その無骨な外観に未だ慣れることのできない自分がいる。そのC-130R、解放したままのローディングランプからシールズ達の集合を見守っていた人影が、格納庫に屯するシールズ達に歩み寄って来る。シールズに状況と作戦内容を説明する運用班の幹部だ。第一線は退いているものの、彼もまた歴戦のシールズであり、ナイロン製のフライトジャケットから覗く分厚い筋肉に覆われた上半身と、サングラスの奥に秘めた感情の無い眼差し、痘痕の目立つ頬を縦一線に走る傷痕が、それを雄弁に物語っていた。無機質な眼光が作戦参加メンバーを一巡し、幹部は服部一曹に向き直った。
「一人足りないようだが?」
「ああ……コングね。あいつは今外出中でして……」
と、服部一曹は言葉を濁す。幹部は腕に嵌めたGショックを睨んで嘆息し、背後のC-130Rを顧みた。
「刻限までに来なかったら、置いていくからな」
爆音が聞こえた。改造マフラーの音だと謙仁は直感した。週末の神奈川の海岸線によく屯している、自己満足……否、自己顕示欲満載の爆音、当然、この場には存在すら許されない、聞くことなど絶対あり得ない音――音が近付くにつれそれは、案の定真白いフルエアロ、フルスモークのワゴン車の姿となって駐機場に走り寄り、シールズ達の眼前で止まった。
「あちゃー……」
と、服部一曹が手で顔面を覆うのを謙仁は見る。但し、同僚の乱行を前に深刻に嘆いているようには見えなかった……ひょっとして海自用語でいうところの「猛者クレ」なのだろうか?
「貴様ぁッ!!」
それまでのクールな表情を崩して怒鳴りつけた幹部の前で、ワゴン車のドアがスライドして開く。先ず降り立ったのは白い毛皮のガウンを纏った女性がひとり、八重歯を覗かせた童顔、漆黒の肌に長い金髪、そこから飛び出した長い耳……獣毛のガウンの下では、西瓜の様な形の胸が柳の様なボディラインと共に虎柄のワンピースからはち切れんばかりに覗いている。明らかな異種族……彼女の背後から肩を抱くように掴み、のっそりと車内から外へ足を踏み出した男の姿に、眼を見開かない者はその場にはいなかった。同時に石鹸の微かな匂いが強い香水のそれとともに漂い、謙仁の鼻を擽った。
「マジか……?」
巨大な男だった。背は決して高くはなかったが、そう形容したくなる程に青い作業服からの輪郭が筋肉の、外骨格の如き分厚さ、それを支える骨格の、常軌を逸した頑丈さを見る者に自ずと伺わせ、そして次には戦慄を喚起する。鬼瓦の様な異相を彩るリーゼントと長いもみあげ、そして顎鬚に至るまでが金色に染まり、日焼けした肌に覆われた、熊の様に太い首や手首に巻かれた金の鎖とブレスレッドは、その男の凡そ軍人らしからぬ婆娑羅な趣向を見る者に対し無言の内に主張していた。まるで、草原を堂々と闊歩する獅子の如き巨漢――その階級章は、三等海曹。
こいつ……本当に自衛官か?……と眼を強張らせる謙仁を尻目に、その男は肩を抱いた異種族の女性とキスを交わす……それも、唇だけではなく舌先までねっとりと絡めた深いキス。
「じゃあ行ってくるぜ。ハニー」
「お仕事がんばってネ。コング」
野太い声とたどたどしい日本語……それらの甘い囁きの後、白いガウンからも伺える女の豊かな尻を叩き、男は彼女を車へと送り出す。再び獣の咆哮の様にマフラーを吹かしつつ、元来た道を遠ざかっていくワゴン車を暫く見送ったところで、巨漢は服部一曹に向き直った。
「真壁三曹、これより合流します!」
「集合時間五分前ジャストだ……首が繋がって良かったな」
冷厳に言い放った後で、服部一曹は笑った。その背後で幹部が忌々しげに首を振っている。「ありゃあ……『竜宮城』の送迎車だな」と、他の隊員が苦笑混じりに話すのを謙仁は聞く。聞き覚えがある固有名詞だった。基地の食堂や喫煙所で、口さがない曹士らの会話に時折上がる名前……確か、横須賀に在るというソープランドの名だ……謙仁の眼前で巨漢を交え、幹部と出発に関する調整に少し時間をかけた後、服部一曹は謙仁を指差した。
「コング、お前はそのルーキーと組め。久しぶりの補充要員だ。死なせるなよ」
「はぁ……?」
と、コングと呼ばれたその巨漢は謙仁に向けた眼を怒らせた。それに気圧されまいと、謙仁は踵を鳴らし敬礼で応じる。
「高良 謙仁 海士長であります!」
「あ?……ケンジン?」
と、呆けたように男は謙仁を凝視し、背を屈めて彼に顔を寄せる。負けじと鬼瓦を睨みかえす謙仁に対し、獅子のような眼光が一層に煌めいた。太い手が謙仁の頭に延び、強い力で謙仁の髪を弄る様にする。眼光を交えた対峙が暫く続いた後、巨漢の眼光から険しさが消えた。気が抜けるような安堵を、謙仁は覚えた。
「……よし、お前をチョッパーと呼ぶことにする。弱っちそうだから」
「……!?」
背後で笑いを噛み殺す複数の声を謙仁は聞いた。唖然――謙仁の表情からそれを察し、男は取り成すように笑う。
「俺の名は真壁 譲 三等海曹だ。此処じゃコングって呼ばれてる。お前にもこれからは特別に俺のことをコングって呼ばせてやる。有難く思え。チョッパー」
「……」
「返事はどうした? チョッパー?」
「はっ! 有難うございますコング三曹!」
「階級まで言う必要はねえ。今度言ったら殺す」
「はいっ! コング先輩!」
ニッと笑って真壁三曹は踵を返し、服部一曹が謙仁の肩を叩いた。
「気にするなケンジン。そういう奴なんだ真壁は……まあ、じきに慣れる」
真壁 譲 三等海曹。シールズとなってすでに五年。入隊以前は救難飛行隊の機上救難員であったことを謙仁は後に知った。
再び、8時間後――
小雨が降り始め、上陸を果たした岸壁で二人は新たな「敵」を見出した。焚火の傍に佇む、銃を提げた人影が独つ――その背後から伺い、コングが言った
『――チョッパー、処理しろ』
「了解……」
カービン銃をナイフに持ち替え、謙仁は摺足で進む。専門用語で言う「処理」――人を殺し――に掛かるのは任官して、というより生まれて初めてのことである筈が、不思議と冷静でいられる自分がいる。先刻直に死体に触れたことで、ある意味「免疫」が付いているのかもしれない。ナイフは唯一の「私物」だった。ボーナスをはたいて専門の鍛冶職人に作ってもらった、柄と刃が一体化した特注のカランビットナイフ。法規上専用の銃が持てない以上、せめて拘れるものには拘りたかった。掌の中でナイフを一回転させて逆さに持ち替えつつ、謙仁は距離を詰める。江田島や館山の訓練施設で、徹底的に叩き込まれた閉所近接戦術の基本を脳裏で反芻しつつ――
「……?」
何気なく背後を振り向いた兵士の表情が固まり、表記不可能な絶叫を上げかけるのと同時に彼の生命は潰えた。背後から迫った黒い影と彼の口をふさぐ手、同時に彼の延髄に突き立てられ、一刺しで脊椎を切断したナイフの煌めき。それらが過ぎ去った後には、人形のように焚火の傍に倒れて動かない兵士の骸が残された。
『目標排除。チョッパー……初めてか?』
「…………」
戸惑いがちな表情に、巨漢の眼差しがやや緩んだ。何時の間にか叢から出て回り込んでいた真壁三曹が、全周を警戒してくれている。破天荒な日常の一方で、戦場では意外と繊細で冷静な男……という印象を謙仁は真壁三曹から受けつつあった。
「ファーストキルにしては大したもんだ。二人目以降もその調子で行け」
謙仁の肩を叩き、真壁三曹が先へ進む。息を吐き、謙仁もまたカービンに武器を持ちかえて後を追う。草深い小路は何時しか朽ち果てかけた倉庫群に変わり、その間途絶えていた人間の気配を遠巻きに感じるまでになって来る。それも多数――
『――止まれ』
そう言われずとも、腰を屈め、拳を突き出した姿勢がそれを告げるものであること、単に先導者の命令だけを聞いていれば良いわけではないことを、謙仁はそれまでの訓練で嫌という程学んでいる。謙仁も腰を屈め、元来た後背と側面に向けて警戒の銃口を廻らせつつ指示を聞く。
『――警備の数が多いな。仕方がない、下水道を使うぞ』
「了解……」
ウエストバックに入れた夜間暗視装置を取り出して頭部に装着する。これより二人が向かうのは一切の光が無い、完全なる闇――
『――問題は無え。どんな国でも、どんな世界でも、貧乏人はどぶの傍に住まわされるってもんさ……』
ルジニアの全容と建物の配置、目的地までの行程は、C-130Rで飛んだ6時間で必死に覚えた。作戦部隊を輸送するC-130Rに同乗した運用班の幹部による飛行中のブリーフィング。決して快適とは言えないC-130Rのキャビンで、簡易な戦況要約図を背後に幹部は作戦の場所と内容とを告げたものだ。
「――君たちの任務は、これより『ロメオ』の影響下にある港湾都市に潜入し、現在潜伏中の『資産』を回収することにある」
「…………」
戦況要約図に貼り出された作戦地域の海岸線と建物の配置、侵入ルートを指しつつ、幹部は続ける……「資産」――つまり現地協力者はそれまでの港湾から離れ、より内陸の「貧民街」に潜伏していることが判っている。しかし、街を支配する「ロメオ」の治安機関の捜索がその周辺にまで及んでおり、「資産」の身柄が彼らの手に陥ちるまでにこれを確保しルジニアより脱出させる必要があった。実行部隊としては海上自衛隊よりシールズの二個分隊16名。彼らは「資産」の捜索と回収を行う二人一組のチーム三個計六名と、狙撃を以てこれを援護する二人一組のチーム二個計四名、彼ら上陸部隊を輸送し回収する一チーム三名のRIB舟艇機動班二個計六名から成っている。彼らは本土からC-130Rでスロリア中部のPKF専用飛行場まで運ばれ、そこで待機していたJV-22オスプレイ垂直離着陸機に機材諸共に移乗する。離陸したJV-22は途上、C-130による空中給油の支援を受けつつ、スロリア公海上に展開中の海上自衛隊スロリア派遣艦隊主力上空を通過したさらに先、主力から離れルジニアに近い海域に展開中のヘリコプター護衛艦 DDH-181「ひゅうが」に着艦する。そこが作戦完遂までの短い間、当面のシールズ「資産回収班」の根拠地となるというわけであった――
「――いっそのこと、『ひゅうが』の近くに我々を落としてくれりゃあいいんですけどね……」
と、戦況要約の途上でそう言ったのは、今回の作戦の指揮を執る服部一曹だった。
「……その方が、わざわざ乗り換える手間が省けていいでしょう? 実際、先月陸自さんの特殊作戦群はそれでルジニア近海まで行ったそうじゃないですか……自由降下なら全員出来ますし」
服部一曹は謙仁に視線を巡らせ、「なあ」と眼で同意するよう促す。謙仁もまた黙って頷いて応じる。幹部は苦笑した。
「言いたいことは判るが服部一曹、上層部はなるべく事故は付けたくないんだよ。それに、海自は陸自と比べて輸送に必要なものは自前で賄えるからな。使わないより使い倒した方が財務省の手前、折衝で突っ込まれずに済むからいいってわけだ」
「成程……輸送機、もっと欲しいって言ってるんでしたっけ上層部は?」
「まあ、そういうことだ」
期せずして爆笑が起こる機内。その中に在って謙仁は別のことを考えた。あのむかつく兄貴も、やはり俺たちと同じ経路でルジニアに向かったのだろうか……と。
夜間暗視装置の緑の視界、その中で止め処なく流れ続ける汚水の川、空気として空間を流れる硫黄系の悪臭、石組みの内壁を奔るゴキブリの群に至っては、まるで壁全体が意思を以て始終蠢いているように思われる……それらに対する本能的な嫌悪感は、闇を駆ける内に薄れて消えて行った。馴れてしまうのだ。
それにしても、逆なんじゃないのか……と、下水道のトンネル。終わりの見えない空洞を歩きながら謙仁は思った。
先月、陸自の特殊作戦群は「ロメオ」の船を襲って数々の武器や情報を押収したという。本当はそれこそが自分たちシールズの仕事で、今自分たちがやっているような人探しが、どちらかと言えば特殊作戦群の仕事ではないのか? 確かに、此処は港湾都市だ。海から敵地に侵入するのは自分たちシールズの十八番だが、単に少し海を潜って敵地に上陸する位なら、特殊作戦群でもできるだろう。実際、特殊作戦群にも戦闘潜水士の資格を持つ人間は多いと聞く。そうでなければ西部方面普通科連隊とか――
『――止まれ』
と、前を行く真壁三曹が拳を上げる。二人は既に石組みの巨大な排水口の曲がり角に差し掛かっている。その先に光が見えた。夜間暗視装置を払い除け、二人はさらに歩を進める。下水道の開けた先、そこから見上げるコンクリートの橋がひとつ――
「……」
下水道の陰に潜みつつ、橋のど真ん中に居座る車に、謙仁は眼を細めた。ヘッドライトを点けっ放しにした一台の軍用地上車。その周囲に立っている灰色の軍服が三人……否、四人。
『――こちらブラヴォ、スラムの西口にいる。アルファ位置報せ』
『――こちらアルファ、南の下水道の入口だ。橋の上に兵隊が見える』
『――こちらも橋と車が見える……周りに四人いるな……周辺に脅威なし……交戦を許可する』
「チョッパー……!」
低い声で叫び、真壁三曹は謙仁を呼び寄せた。
「あいつを狙え……橋の左端だ」
小声で囁かれ、謙仁は頷いた。ただ無言で89式カービンライフルを構え、先進型光学射撃照準器を覗く……最大倍率1.5倍、光増幅機能を有するそれは、夜間に在っても昼間に在るのと同等の視界を、それを覗いている限りでは扱う者に与えてくれる。そのACOG、赤い照準点が橋に佇む灰色の軍服の胸に重なり、止まる。
『――チョッパー、照準完了』
『――待機……スリー、ツー、ワン……』
――ゼロ!
内心で叫ぶと同時に引鉄を引く――極端に抑制された発砲音、金属が克ち合う機関音に遅れて、ACOGの丸い射界の中で敵影が被弾し、声も立てず崩れ落ちる様に倒れるのを見る。あまりにも呆気ない一瞬。
『敵兵排除……!』
骨伝導式の無線機に無感動な声を聞く。謙仁が一発を発射するのと同時に、橋の上に立っていた敵兵四人が撃たれ、そして斃れたのだ。あまりにもテクニカルで、アーティスティックな殺人――それを平然と完遂する海上自衛隊特殊部隊という、恐るべき戦闘マシーンの群……!
『――こちらブラヴォ、先行する。アルファはこのまま北に進め』
『――アルファ了解』
傾斜を上って用水路から出、橋の上に出る。そこに斃れる灰色の軍服が四体、彼らの何れが両眼を見開き、あるいは口をぽかあんと開けたまま生気を失っている。首筋、胸、頭……急所に穿たれた赤い孔が、彼らが一介の死体であるのに過ぎないこと、彼らの上に訪れた死が唐突なものであったことを静寂の内に物語っていた。
『――こいつは「ロメオ」の内務省軍だな。こんなところまで何しに来たのやら……チョッパー、灯りの下に出るな。あの市場に入るぞ』
先導する真壁三曹が手招きした。後方を警戒しつつ地上車のヘッドライトの照らす先、両脇にバラックの連なる通りに足を踏み入れ、小走りに駆ける。香辛料の臭い、果実や野菜の青臭い香り、あるいは何かの肉の腐った臭い……それらを嗅ぎつつ走り、二人はその向かう先に新たな戦場を見出す――
『――止まれ!』
「…………!?」
真壁三曹が拳を上げる。それに従って腰を落とす。前方に周囲より図抜けて高い、雑居ビルのような建物が一棟。その周囲で炎の海が生まれ、その上空をヘリコプターが二機旋回しつつその下方へ銃撃を続けている。メインローターを前後に配したバナナの様な機体、その銀色の腹が炎に照らし出され、眩く輝いていた。
『――こちらアルファ、資産の潜伏場所を視認した。これより侵入する』
『――こちらブラヴォ、こちらもこれより侵入――待て、警戒が厳重だ。何とか穴を開けられないか?』
『――アルファ……やってみる。待っていろ』
どうやって?……と訝る謙仁を他所に、真壁三曹は走り出した。謙仁も無言でそれに続く。朽ちかけた木の柵で仕切られた隘路を駆け、窓ガラスの四分の一が割れているバラックの倉庫や集合住宅の織成す壁の傍を、這うように進む。小銃、機関銃、あるいは機関砲……様々な銃声に混じって絶叫が聞こえる。女や子供の悲鳴が多い様に思われた。それが謙仁の胸中に、徐々に闘志の灯を宿しつつある……鼻腔を、木や金属が焼け、熔ける臭いが擽る。さらに歩を進める内、夜を支配する熱風に火の粉が混じるのを見る。何時しか隘路は、潜伏先に通じる大通りに面しようとしていた。
『――チョッパー!』
名を呼ぶと同時に真壁三曹が拳を振る。路から離れ、物陰に潜むことを命じる合図だった。植え込みに身を埋めた直後、一条の強い光が路を照らし出し謙仁の眼前を通り過ぎて行く――低空飛行するヘリの撒き散らす爆音。同時に重複したディーゼル音が付きあたりから押し寄せてくるのを耳に感じる。身を顰めて周囲の空気を伺う内、轟音は路に面した大通りで止まる複数の軍用トラックの影となった。荷台から一斉に溢れ出る人間の気配……銃器や軍靴の触れ合う響きが聞こえる。さらには怒声……それが、謙仁が生まれた初めて直に聞いた敵国の言葉となった。
『――ロメオの奴ら、本気で潰しに掛かってやがる……チョッパー、発火装置を出せ』
「了解……」
背部のコンテナバックから遠隔発火装置と雷管、点火コードを取り出す。謙仁が準備を終えるのを見届け、真壁三曹もまた背部より弁当箱大の塊を取り出す。矩形に成形されたC4爆薬。教本通りの周辺警戒をしつつ、謙仁は真壁三曹が慣れた手捌きでC4爆薬に点火装置を挿し込むのを見守った。
『――ついて来い。姿勢を低く』
「了解」
匍匐――そのまま二人は隘路を出、通りに横付けされたトラックの真下に潜り込む。地面の湿った臭いとトラックから漏れる軽油の臭いが交互に鼻を突く。潜り込んだ反対側に見張りが立っているが、浸透の素早さと周囲の喧騒の故か、気取られた様子は全く感じなかった。
同時に全身で感じる地面の振動――さらに、急に騒がしさを増す歩哨たち。
「……大変だ! 南口の警備隊が!……」
「……下水を探せ!……未だ遠くへは行っていない!」
疾走を思わせる軍靴の高鳴りが遠ざかっていく。同時に、トラックと二人の周囲から、完全に人間の気配が消えた。
『――チッ……案外早くバレたな。まあいい……見張りを排除する手間が省けた』
と、無線機の中で苦笑交じりの声を謙仁は聞く。謙仁と真壁三曹の眼前を、トラックより重厚な影がのっそりと走り出、そして停まった。前線へ赴く指揮通信車か?……と、謙仁が乏しいロメオに関する知識を絞り出して察したときには、真壁三曹は滑る様な匍匐でそれに近付き、その真下に入り込むや、装甲車の下部に爆薬を張り付けた。装甲車はそのまま前方に走り去り、取り残された形となった真壁三曹は立ち上がり際に周辺警戒に入りつつ謙仁を誘う。二人は通りを走って横断し、完全に廃墟と化した商店らしき家屋に身を潜めた。装甲車の向かった先、「反乱勢力」を包囲するロメオの警戒線――
『――チョッパー、やれ!』
「――!」
無線式遠隔発火装置のスイッチに重なった指に、力が入った。オレンジ色の光――テンポをずらし続く轟音!……炎は夜空に延び、そして入道雲のように地上の通りに広がり、同時に夜に過分なまでの光と熱風の奔流を謙仁たちのいる距離まで投掛けて来た。爆発は警戒線の向こうで誘爆と火災すら引き起こし、それらに襲われる警備兵らの絶叫と怒声すら天を騒がさんばかりに響いてくる。それまで執拗に上空に張り付いていたヘリコプターすら、気流の乱れを避けてその場から離脱に取り掛かっていた。
『――こちらアルファ、ブラヴォへ、警戒線の一部を破壊した。直にそちらにも穴があくと思うが。オーバー』
『――アルファ、やってくれたな。まあいい、おかげで警戒が手薄になった。我これより突入、資産の回収に入る! 交信終わり』
『――チョッパー、ついて来い!』
声を荒げ、真壁三曹が警戒線に向かい駆け出した。謙仁には彼の真意が判っている。つまりはブラヴォが浸透しようとしていた警戒線に張り付いていた部隊が、爆発を受け増援として此処に回って来るより先に、警戒線の向こう側に滑り込もうというわけだ。大胆と言うか無謀と言うか……海自特殊部隊は、何時もこういうことばかりやっているのか? 爆風を受けて崩壊した建物、ひっくり返った車両、あるいは炎上する車両、折り重なる爆死体……銃を構えつつそれらを掻い潜り、さらに歩を速めるうち――
「――!」
眼前に飛び込んで来た人影に、謙仁は思わず眼を剥いた。
炎が、歩いている……?
人型の炎だった。それが半壊した装甲車の陰からフラフラと歩いて謙仁に近付いてくる。火に取り巻かれ、全身を焼かれながらに歩くかつては敵兵だった誰か……その鬼気迫る様子に、謙仁は発砲したくなる衝動を必死で抑えた。前後を見失い、目に入ったもの全てに追い縋ろうとするそれを必死でかわし、謙仁は全速で真壁三曹を追った。目指す建物が、眼前に迫っていた。石を積み上げて作った楼塔のような建物。階層は四階建て。石壁の各階に規則正しく穿たれた窓が、日本で言う有り触れた低層雑居ビルの佇まいを謙仁に思わせた。
『――スナイパー1より各隊へ、四階正面より左から二個目の窓に資産を視認。二階正面より右から敵複数が接近。資産を追跡している模様』
『――スナイパー1、狙えるか?』
『――距離400、問題無い』
各隊間の遣り取りを聞きながら、二人はすでに建物に侵入し階段を上っている。合流すべきブラヴォは影すら見えなかった。敵と克ち合わない事を祈るばかりだ。
『――こちらアルファ、現在四階まで移動中、どうした? 動けないのか?』
『――こちらブラヴォ、一階に到達するも敵の追撃を受け応戦中。退路を確保しておくから資産を連れてこれるか?』
『――アルファ、やってやろう』
真壁三曹……否、両者の声には余裕すら含んでいるように謙仁には感じられた。こちらは真壁三曹に付いて行くだけで精一杯なのに……! 四階に差し掛かったとき、それまで微かに建物に光を注いでいた電気が落ち、不気味なまでの静寂が全身に圧し掛かって来た。反射的に夜間暗視装置を押し下げる。濃緑の粗い視界の中で、真壁三曹が歩調を遅めに取るよう手信号で告げた。四階までにもうひと息の距離でしかなかった。
『――やつら、電源を落としやがった!』
『――こちらスナイパー、二人撃ち漏らした。今四階にいるぞ』
『――資産はどうした?』
『――いない……視認できない……!』
「…………!」
89式カービンを構えつつ、胸が高鳴るのを謙仁は覚えた。真壁三曹はすでに三階の入口に歩を標し、腰を落として前方を警戒している。その彼が銃を構えつつ謙仁に前へ回るよう手で告げた。交互躍進――
腰を落として静かに駆けだす、真壁三曹の肩を軽く叩き彼の背後から四階に歩を標す。さらに踏み込んだ先、壁沿いで止まり、それを背に中腰で89式カービンを構え直す。四階は幾つかの部屋に仕切られ、ただ廊下が一筋、窓際に続いている。謙仁としてはそれに、陸自の屋内訓練施設を連想してしまう。いわゆる一歩一歩を踏み込む度に込み上げてくる、心臓をグラインダーで削られる様な感触――
「……ロラン?……ロラン?」
何時しか階層全体を支配していた静寂の中で、明瞭な言葉を聞いた。男の声だった。資産は女のはず……暗視装置の作り出した人工の視界の只中。ACOGに眼を細める謙仁の前方、抜き足差し足で廊下に飛び出して来た男の姿――
「――!」
息を止め、引鉄を引いた。飛び出した一発は、その男の頭部を寸分違わず貫通した。銃を取り落とし、歪な姿勢でその場に崩れ落ちた敵兵――不意に肩を叩かれ、直後に真壁三曹が眼前に躍り出る。続いて絶叫と共に銃を構えて廊下に躍り出た敵兵を、真壁三曹の放った一発が沈黙させた。真壁三曹に続き、謙仁も前進しようと足を踏み込んだ――
不覚――敵を排除したのに気を取られ、廊下に面した部屋の安全確認を怠っていたのだ。不意に開いたドアの向こうから襲いかかって来た気配に対処する暇は無かった。唸りを付けて振り下された角材は、謙仁の側頭部を強かに打ち据える。激痛と衝撃に脳が耐えられず、それは意識の漂白と脳内の運動中枢によって制御される足下の動揺となって謙仁を襲った。
機能を停止しかけた脳内に反響する、真壁三曹の怒声――
『――バカヤロウ! 何てことしやがる!』
『――こちらブラヴォ、アルファどうした!? コング応答しろ!』
「――ちょっちょっと!……あんたたち何なのよ! 手を離しなさいよっ!」
『――こちらアルファ、問題が発生した! チョッパーが民間人に襲われた! バットで頭を殴られた』
『――は……?』
「……」
会話が、聞こえ続けていた。空虚となりかけた脳内に、それは不快なまでに反響し続ける。
「――アナスタシアか?」
「――あなた達は……?」
「――あんたを回収に来た。動けるか」
「…………」
漂白した意識の傍らで、反響する会話を聞く。それは数十秒を経て覚醒しかけた謙仁の意識の内で、情勢の急転を告げる緊迫感をも伴い始める。
『――こちらアルファ……ブラヴォへ、民間人は資産と確認……資産を確保した。これよりチョッパーを連れて合流する』
『――舟艇班が岸壁に向かった! ビルのすぐ裏だ。急いで岸壁まで向かえ!』
『――スナイパー1、時間切れだ! 離脱しろ! こちらはいい!』
「チョッパー……チョッパー!」
仰向けにされ、頬を強く叩かれている。それも強く、何度も何度も……もう少し、眼を瞑ってじっとしていたかったが、状況がそれを許さないことは、身体に振りかかろうとする脅威の接近を察する、本能的な何かが謙仁の意識に警報を鳴らし続けていた。殴打はなおも続いた。それこそ、口の中に血の味を感じる位に――
「…………」
薄らと開く眼――相変わらずの緑色の丸い視界を、怒声を上げるむさ苦しい男と、自分を心配そうに覗きこむ女性の顔が塞いでいた。
「――!」
勢いを付け身体を起こそうとして失敗する。壁に突き当たったかのような疼痛が謙仁の顔を歪ませた。脳に直接釘を突き立てられたかのような激痛だ。真壁三曹が有無を言わさず89式カービン銃を胸に押付ける様にして持たせ、謙仁を引き摺り上げる様にして立たせた。
『――時間がねえ! 屋上へ行くぞ!』
「……」
言うが早いが、二人は既に走り出している。纏わりつく疼痛に顔を顰めつつ謙仁も後を追う。一歩一歩を踏み出す度に、足で受け止める筈の床の衝撃が、直接脳髄にまで襲いかかって来ているような錯覚すら覚える。だが何故か死ぬ程辛いとは思わなかった。何よりおれは、これ以上に辛い目にそれこそ何度も、死ぬ程遭っているではないか!……階段を上り切った先、真壁三曹が屋上の手摺にカラビナフックを引掛けているのを見る。
なんてこった! ラベリングか!……オーケー!……やってやるよ。
眼を怒らせた謙仁を指差し、真壁三曹が怒鳴る。
『――チョッパー! 資産を預ける! 落とすなよ!』
「――!?」
謙仁は反射的に資産と呼ばれた女性を見遣った。均整の取れた長身。ウェーブの掛かった長髪、顔立ちも体躯相応に細く、眼鼻立ちも人形のように整っている……本来ならば抱くのになんら躊躇しない筈のその種の女性を、謙仁は生死の掛かった土壇場で死神に出くわしたかのように資産を睨み、険しい表情を変えなかった。それを間近に見た困惑が、女性に引き攣った笑顔を浮かべさせ、後退りさせる。
「あ、あたし……高いところ苦手だから……」
それ以上は有無も言わせず、資産の両腕を謙仁の手が強引に掴んで抑えた。
「ネーチャン、しっかり掴まってろ……でないと死ぬ」
「…………」
女性が微かに同意の色を浮かべたのを見て取るや、謙仁は強引に彼女の手を引いて欄干へと向かった。真壁三曹が為したように欄干にカラビナフックを掛け、対面から彼女を抱くように捉える。資産も危機を予期してか、謙仁の首に腕を回し、謙仁の胴に長い脚を絡める。教育と訓練に追われ、この瞬間まで忘却しかけていた女の胸と腰の感触、男子としての本能に訴えかけるそれらを全身に今更思い出すように感じる。カラビナフックと繋がったロープを伝い、身体を外へ突っ張る間際――
『――アルファ、脱出急げ! ヘリが来るぞ!』
「――!?」
最初に感じたのは、風圧――
同時に響き渡る爆音――
今まさに降りようとする反対側から、飛竜宜しく浮揚する質量――
――それは、謙仁と女性の眼前で、彼らが飛び立とうとする屋上に向けて攻撃の軸線を合わせようとする武装ヘリコプターの機影となった。
『――降下ぁっ!!』
両脚で石壁を蹴り、直後に二人の特殊部隊員は怒涛の如き勢いで石塔を蹴り降りる――
「――!」
塔全体を震わせる烈しい振動に、思わず見上げた屋上――ロケット弾の一斉射撃を受けて広がる炎。
飛び散る石材の礫、吹き飛ぶ骨材の雨を、縦横に姿勢を転じて回避する。
「キャアッ!!」
資産の絶叫に釣られ、顧みた隣で、謙仁は信じられないものを見る――降り懸かる瓦礫が顔面に直撃し、ロープから手を離した真壁三曹。考える間もなく延びた謙仁の手が、間一髪のところで真壁三曹のサスペンダーを掴んだ。
「フンッ!!」
真壁三曹の巨体を提げつつ、謙仁は満身の力を篭め、腕一本でロープを握り締めつつ石壁を降り続ける。落ちるような速度で降りられるのが不思議なほどだ。女性はと言えば、自身の立ち位置も忘れ、ただ眼を丸くして細腕に支えられたままの巨漢を凝視している。
「――!?」
不意に身体が浮くのを覚える――恐怖――ロープが切れた!!?
落ちると思った時には、謙仁は二人を搔い抱く様にして背中から落ち、受け身――そして、謙仁の鍛え上げられた肉体は加速を付けて落ちる二人の体重に巧く堪えた。
「グフッ……!!」
息を詰まらせ、咳き込みつつ謙仁は真先に身を起こす。肺が巧く機能していない。加えて喉の奥から血の味がする。ロープが切れた時点で二階の半場に達していたのは幸運だったろう。それ以上の高さならば三人と揉まず助からなかったに違いない……という安堵は、それを覚えかけた直後に、屋上から眼前に剥がれ落ちた石壁によって打ち消される。資産の尻を叩き、謙仁は疾走を促した。
「岸壁へ走れ!!」
彼女を行かせるのと同時に真壁三曹を両肩で担ぎ、謙仁も走り出した。前方、なにも遮るもののない岸壁とそれの面する漆黒の海原――否、そのすぐ表面上で有機体の様にたゆり続ける海霧が、陸で繰り広げられている人間どもの愚行を只管陰鬱に眺め続けていた。その霧に向かい、謙仁は駆け続けた。
「止まれ! 止まらんと撃つぞ!」
背後から叫ばれるのと、それに連続した銃声が重なるのと同時だった。耳元を不快な掻過音がブルルルルと囁いては前方へ飛び去っていく。
「ねえ! どうするの!?」
と、岸壁の突端で身を竦ませ資産が叫んだ。あまりのことに、一瞬、謙仁の頭が漂白されかかる。
「馬鹿野郎! 飛び込め!」
言うが早いが謙仁は手を突き出して資産を突き飛ばした。そして人一人分の荷を負った長身が、勢いよく岸壁を蹴った。
爆音――波間を割る心地良い疾駆音が迫って来る。
「ブファアッ!!」
真壁三曹を庇うように抱えつつ、顔を海面に突き出した時には、その特徴ある円い艇体が眼前にまで迫っていた。もう少しで船腹にぶつかるかと思った瞬間、上から延びた剛腕が複数三人を捉え、波間に引き摺りつつ艇内に呑みこんでしまう。
『――こちら三号、アルファと資産を回収した! これより港外へ向かう!』
艇長の弾んだ声に続き、RHIBボートに繋がれた三基の高出力エンジンが咆哮する。全開にされたスロットルが奏でる、暴力的な加速音が霧の海を切り裂くように圧倒する。岸壁から、決して命中しない追撃の銃撃を以て、港内を旋回しつつ離脱を図るRHIBボートを追うローリダの内務省軍――
「お三方さんとも、酷え顔だァ!!」
と、三人を覗き込んでいた左舷、74式7.62mm機銃の銃手が笑った。未だ目を覚まさない真壁三曹を抱き、息を切らしつつ謙仁は聞いた。
「……アルファ、チャーリーは?……狙撃手は?」
「そいつらならとっくに他の舟艇で離脱した。俺たちが最終便よ。他の奴らとは港外で会合する。なあに、大船に乗った気持ちでいればいい」
「こんな木の葉みてえな木端船でか?」
直後に豪快な笑いが続いた。蒼白な顔もそのままに頭を振り苦笑する謙仁の肩を叩き、銃手が聞いた。
「チョッパー、74式は使えるか?」
「はい!」
「よし、配置を替われ。コングは俺が診る」
銃手が謙仁の肩を叩き、場所を替わるよう促す。胸に付けた特技章から、衛生兵資格の保有者であることが判る。こちらは海軍流に言えばズブの「特技無し」。真壁三曹の傍に居座るべき正当な理由を、謙仁は未だ持ち合わせていなかった。潜水と自由降下、近接戦闘は特殊部隊の基本として、その上に特技としての衛生と通信、各種工作、そして狙撃……海上自衛隊特殊部隊に居続けたいと望む限り、謙仁は必ずそれらの内どちらかに進むための選択を迫られることになる。それも近い内に――
『――このまま浮標の視界外から進め。後五分で港口だ』
「…………」
港内で投錨している巨船の腹を掠めて旋回しつつも、ねっとりとした海面を撥ねさせる位に疾駆の手綱を緩めないRHIBボートの舳先で74式の把柄にしがみ付きつつ、謙仁と資産は同時に元来た海を顧みる。夜霧の白いヴェールも、未だ炎上を続ける石塔周辺の惨状を隠し通すことは出来ていなかった。港口に近付くにつれ、岸壁に繋がれた船の一艘また一艘から生じる赤青の灯が、乳白色の霧に包まれるようにして視界から埋もれて行く。それは夜に生じた宝石箱を厳重に梱包する真白いヴェールであった。宝石箱の中身を掬い上げる機会は、とうの昔に失われてしまっていた。