第三章 「cruise――戦闘航海」 (2)
午後に空中給油の訓練と並行して離着艦を繰り返し、基地に帰還するというのがその日の予定であったが、それは変わった。つまりは、航たち空自離着艦講習班は訓練の終了後も基地に戻らず、そのまま「かつらぎ」と行動を共にすることとなったのである。しかも、硫黄島に展開していた地上員までも輸送ヘリに分乗して乗艦してくるという慌しさであった。
『――艦長より達する。本艦はこれより硫黄島近海を離脱。北方に針路を取る』
「…………!」
艦内放送で知らされたDCV-102「かつらぎ」のごく近い将来に、現在不安定化が憂慮されているノドコールの将来を重ね合わせた者は決して皆無では無く、「かつらぎ」艦内ではむしろ多数派であっただろう。北上した「かつらぎ」は硫黄島と日本本州の中間海域で、同じく日本近海から訓練航海を急遽切り上げて南下してきた護衛艦DD-115「あきづき」と合流し、その後に厚木から急遽南下してきた海上自衛隊航空集団所属のジャリアー艦上哨戒機2機と、JV-22垂直離着陸機で輸送されてきたその支援要員を収容する。さらには――
『――実藤さん殺害を受け、政府は今日午後の閣議で防衛省 海上自衛隊に、現在日本近海で訓練行動中の航空護衛艦「かつらぎ」をセルラン海公海上への急行を命じると同時に、新世界海賊対策特別措置法に基づく海上警備行動を発令しました』
「かつらぎ」のパイロット待機室で、日本本土のニュース映像という形でそれを知らされたとき、航はその他数名の搭乗員と共に艦内外の状況を表示する情報表示端末の一角で、今まさに繰り広げられている光景に目を惹かれていた。日が水平線の向こうに沈み、完全に闇に覆われた飛行甲板。その上に左右一対のプロップローターを唸らせつつ降下し、今まさに着艦しようとするJV-22が一機……回転するローターブレード端の識別灯が光の円い軌道を描き、それがやけに美しく神々しいもののように思われる。
飛行甲板からの誘導を受け、完全に接艦したオスプレイの後部からは、米俵の様に太いダッフルバッグを背負った屈強な体躯の男たちが十数名、彼らの使う機材と共に足早に降り立ってきた。航の隣で端末に見入っていた菅生准尉が、感嘆の声を洩らしたのはそのときだった。
「すげえ……特殊部隊だ」
「え?……シールズ?」
海上自衛隊特殊部隊のことは、いくら他隊に関する知識に乏しい航でも知っている。潜水と空挺降下、近接戦闘技術と破壊工作に長じた、傍目から見れば、およそ帝国海軍以来の伝統から大きく逸脱した海上自衛隊の「異能集団」。だが現在、海上自衛隊に於いて空護や潜水艦並みに――あるいはそれ以上に――重視されているのは、この艦艇なき部隊なのだ。なによりもまず、なるべく人目に付かない内に、少額の投資で最大の効果を――という政府の希望を実現し得る数少ない「道具」として……
この際、航たち航空機搭乗員にとってもそうであるように、特殊部隊にとっても航空護衛艦は「母艦」となる。特殊部隊は搭乗員待機室に司令部を置き、その中で行われていることが司令部の外に出ることはまずない。
だが、キナレ‐ルラ号内で現在進行形の事態を打開する手段が、その遂行に必要な情報を集約しつつ部屋の中で準備されていることは艦内の誰もが知っている。具体的にはそれは、シージャック犯の制圧と日本人をも含めた人質の解放の手段であり、この異世界における海上の自由を不当に侵犯した無法者どもに対する、主権国家としての日本の意思を知らしめるための手段であった。
艦内において特殊部隊は航空機搭乗員と同じく濃緑のカバーオールに全身を包み、それ以外には蝙蝠と碇を重ね合わせた例の特殊部隊徽章を胸に、ロービジのワッペンを上腕に付けているだけに過ぎない。だが彼らの全員が背の高低に関わらず筋肉質であり、落ち窪んだ眼窩の奥に鋭い眼光を湛えている……傍目には同じカバーオール姿に見えても、彼ら特殊部隊員の場合、肉体と精神の芯の作りが航の様な航空機搭乗員とは根本的に異なるのだ。艦船勤務の海自隊員はおろか、純粋な陸戦要員たる陸自の普通科隊員にも往々にして見られる「野趣」が全く見受けられない、とにかく「クール」な男たち……それが、航が特殊部隊に対して抱いた印象であった。
この間、航たちと言えば離着艦訓練からさらに段階を進めた夜間着艦講習の最中にある。緊急出動といえども、既定の訓練スケジュールはそう簡単に航たち空自講習班を解放してくれなかったのだ。自然、緊急展開の航程はそのまま、訓練航海のそれに重なった。ただ、夜間の離着艦ともなれば始めから単独というわけにはいかず、長浜一尉の後席に付いて離着艦時の手順と感覚を養うしかない。
『――怖い!』
と、航は思う。だがそう思いながら離着艦を繰返している内に恐怖は消えた。軍隊における訓練の目的は、実戦で感じ得る全ての恐怖を忘却させることにある――同時に、未熟者を背後に抱え込んで平然と危険な飛行を繰返す長浜一尉に対する敬意も深まってこようというものだ。夜の雲海から鳥瞰すればごく僅かな光の揺らぎ……そこから降下し、誘導灯に彩られた漆黒の飛行甲板へ突入するように接近する――否、文字通りに「突進」する。昼間のそれでは全く感じなかった離着艦の隠れた側面が、夜間ではその闇の下で大いに顕在化してしまうのだ。講習班の班長として飛行隊の訓練スケジュールを一手に握る長浜一尉は、航に特に夜間飛行の訓練時間を割り当て、結果として「かつらぎ」艦内においてまる三日に亘り航の昼夜は逆転した。日が変わった頃、夜間の飛行訓練が終われば疲れ切った身体を引き摺る様に風呂に入り、そして曹士居住区の寝台に飛び込むようにして潜り、マットレスを貪る様に搔き抱いて眠る。そして寝台から這い出るように、漸く起き出した昼――
『――グナドス王国のアルミオ国務尚書は、現在「新世界清浄化同盟」の制圧下にあるキナレ‐ルラ号について言及し、グナドス政府は平和的解決を重視し、事態打開のためには「同盟」の要求に応じることも吝かでは無いと発言し、「同盟」への強硬姿勢を崩さない日本政府を牽制しました』
「かつらぎ」の曹士食堂で、ボサボサの髪と寝ぼけ眼もそのままに、山盛りの卵かけ飯をかき込みつつ航はテレビを見遣る。長方形の巨大なテレビ端末の中では、無表情の女性キャスターが記事を読んでいた。衛星通信網を経て世界中に配信される日本の国営放送の一幕――航の席の背後で、同じく食事中の乗員が不機嫌に話し込んでいるのを聞く。
「――東京もやりにくいだろうな。よりにもよって客船はグナドスの船だ。当然、乗客の大半もグナドス人だし……」
「――その新世界なんちゃら……というテロ組織も、元はと言えばグナドスの反政府組織らしいぜ」
「――じゃあ、全部グナドスに任せればいいじゃないか……今回の件で死んだ日本人には悪いけれど」
「――何でも新世界なんとかの構成員が、向こうのいいとこのぼんぼんばかりらしくてさ、向こうの政府も迂闊に手が出せないらしいぜ……」
「――お坊ちゃんたちの革命ごっこってやつか……日本でも昔似たような話があったよなぁ……」
「…………」
卓を囲んで話し込む青い作業服姿の男たちに、航はさり気なく視線を投掛けた。航よりも年齢も自衛官としての年季も一回り程長じた海の男たち……本当ならば硫黄島近海での訓練が終われば艦は北上し、日本に「一時帰港」することになっていた筈だ。そこで彼らは本番たる「スロリア巡航」に向け、横須賀辺りで命の洗濯をする筈だったのだろう……自分も含め、自衛隊がその本分たる国防以外に多忙なのは、単に自衛隊の戦力としての絶対数が足りないが故なのだろうか?……それとも単に「政治」の問題なのだろうか?……知らず、思考の底に沈潜しかける航の意識が覚醒を強いられたのは、彼の背後に回った誰かの手が、軽く肩を叩く衝撃ゆえであった。
「――!」
「昼夜逆転は、流石に頭にも堪えるか?」
菅生准尉が、にやけ顔もそのままに航の背後にいた。そのまま航の隣に盆を下し、山盛りの飯を黙々とかき込み始める。彼の丈夫そうな首筋が、季節がら想像できない程赤く灼けていることに、航はその時気付いた。同時に、微かにオイルの入り混じった汗の臭いが航の鼻を擽る。
「訓練、やったの?」
「いや、周辺の監視飛行だよ」
と、菅生准尉は言った。夜間飛行の予定を割り当てられるようになって、彼とは少なからず擦れ違いが生じ始めている。
「そうか……航は夜番だから知らないんだな。先日からずっと同航者がいるってことに」
「同航者って?」
「あれだよ」
と、菅生准尉は食堂に複数置かれている広角端末の一つを指差した。飛行甲板、艦橋、そして艦外……「かつらぎ」を取り巻くあらゆる場所を表示する端末……その一枚が、「かつらぎ」と距離を置いて同航する一隻の船影を映し出している。白一色、やけに精悍な外観を持ったフネであった。まるで日本の海上保安庁の巡視船のような――
「――エルタニアの大型巡視船だよ」
と、菅生准尉は言った。航にとっては聞き慣れない名前の国ではあったが、日本、特に自衛隊とは縁がある。ただし、良くない縁である。正式名称エルタニア連邦国。文明の程度は日本とほぼ同じ。但し国防のための強力な軍備はこれを持たず、「国土保安省」なる国境警備と災害救助、ひいては環境保護に特化した独自の警備組織を持つ。これがどういうわけか日本側に対抗意識を持ち、「転移」後に頻発した国外への復興支援出動の行く先々で、その規模が拮抗するが故に日本とエルタニアは支援活動の方針を巡って対立している。自衛隊と国土保安省はその対立の「最前線」と言うべきかもしれない。
護衛艦のような、刀身を思わせる細身の船体。艦橋や煙突、センサー類の配置もまた呆れる程海上自衛隊の護衛艦と同じだが、その船首と船尾に申し訳程度に据えられた速射砲と機関砲とが、安全保障という事象に対するエルタニア独自の観念を無言の内に、かつ雄弁に主張している。確かに、近海をうろつく海賊相手ならば十分に通用する装備ではあるだろうが……
「キナレ‐ルラ号には、エルタニア人も乗っていたらしいからな」と、菅生准尉は言った。
「……で、共同作戦でもやるの?」
「まさか、エルタニアの奴らは対話重視なんだぞ。要するに連中の目的は――」
冷たいお茶を啜り、菅生准尉は続けた。
「――おれたちを監視しているのさ。変なことしないように……」
「…………」
言葉を失う航を前に、菅生准尉は話題を変える必要を感じたのかもしれない。
「それはそうと、航も出るだろ? 明日の赤道祭に」
「赤道祭?」
「そうか……航は船乗りじゃないから知らないんだな。赤道祭っていうのはな……」
「かつらぎ」は「前世界」でいうところの赤道の位置に迫り、その艦内では「赤道祭」の準備が始まっている。
航が知らぬ間に、「かつらぎ」の航空機格納庫が飾り立てられ、その一隅にはプロレスの興行でも行うかのようにリングが設えられていた。「前世界」の大航海時代に起源を持ち、赤道近くの海域を無事に通過できるよう海の神に祈りを捧げる行事である赤道祭は、軍民を問わず外海を航行する船では必ず執り行われることになっている。それは作戦行動中の「かつらぎ」も例外では無かった。赤道祭当日に訓練はなく、それまで張り詰めていた時の流れが緩んだかのように航には思われた。ただし赤道祭のメイン行事として、艦上で任務に就いて初めて赤道を越える者には、ちょっとした「試練」が待っている。衆人環視のところを青鬼、赤鬼に扮した乗員の前に引き据えられ、「通過儀礼」として種々の無理難題 (?)を科せられることになる。それは本来「部外者」であるはずの航も例外では無かった。
「科内対抗ボクシング大会に出るか、舷側エレベーターから海中にバンジージャンプするか」
鬼に扮した乗員の前に引き出されて「試練」の選択を迫られた時、航は前者を択んだ。「かつらぎ」乗務の各科員有志で行われる「赤道祭」恒例の出し物のひとつである科内対抗ボクシング大会、参加者の中には砲雷科、航海科、機関科、需品科といった主要部署はもとより中には立入検査隊の一員、さらには特別参加枠で特殊部隊の隊員までいる。そして航は「かつらぎ」飛行科の中で唯一の参加者で、迂闊にも彼がそのことに気付いたのは、貼り出された対戦表を目にしてからのことであった。しかも対戦相手は――
「…………」
歓声を背に共にリングに上がった、特殊部隊の分隊指揮官という壮年の二等海尉を前にした時、航は丸みを帯びた眼を大きく見開いて彼の相手を見遣った。航のそれよりも発達した、鋼鉄の塊を思わせる逆三角形の上半身、半袖シャツから覗く上腕は異様に太く、下腕を経たそのずっと先端では同じく巌の様な拳がグローブに包まれている。ボクシングには自信はあった、小学生の頃から高校までサッカーをやっていたが、防府の航空学生時代には週末に校区を抜け出し、電車を乗り継いで下関のボクシングジムに通っていた。初級操縦訓練課程の頃、エリミネートされたら本気でプロを目指そうかと考えたこともある。それでも――
「やばいかも……」
――入隊前は体育大学のボクシング部で、国体選手でもあったという眼前の特殊部隊を目の当たりにしたとき、航であっても試合前に抱いていた自信は流石に揺らいでしまう。それが、彼の初戦の相手であった。さすがに両者とも頭と胴にプロテクターを付けてはいるが、拳の応酬を前にどこまで防具本来の効果を発揮できるだろうか?
「パイロットか……女みてえな顔してんな。寝覚めが悪いからボディーだけにしといてやるよ」
と、ウォームアップか軽くステップを踏みつつ二等海尉は言った。それを目にするだけでもこの人はまずい、出来る……などと、航は勝ちに対し躊躇を覚えてしまう。その二等海尉から目を逸らすようにリング下に目を転じた先――
「あ……!」
直下に立つ菅生准尉の姿を見出し、航は軽く声を上げかけた。眼が合うや菅生准尉は両の拳を上げ、笑顔で「行け」と促してくる。自分を応援している積りなのか、それとも単なる冷やかしなのか、この時の航には判然としかねた。二人の前に進み出たレフェリー役の幹部が拳をタッチするよう促し、直後にゴングが鳴った。
「ほう!……いいねぇ」
互いにステップを踏み込んだり、引いたり、あるいは回り込んだりを繰り返している内に、二等海尉が声を弾ませた。その次に拳が飛んできた。頭を動かし、上半身を曲げてそれらを回避する内、強い風圧を顔や胴に感じる……航は確信する―― 一発でもこいつのパンチを食らったら、おれは間違いなく沈む……! それでも必死で身体を動かし、全身の神経を昂らせる内、精神が恐慌の沼から脚を脱し、思考が冴え始めるのを航は覚える。大丈夫……距離を詰めて一発か二発繰り出せばあいつのスピードは止められる。問題は、その距離を詰めるタイミングだ。
「――!」
計算というよりも動物的な本能――それが航に一歩を踏み込ませ、拳を数合繰り出させた。最初の二発がガードに阻まれたが、三発目が胴を捉える。ガードが僅かに開き、反射的にストレートを入れようと突き出した拳――当たった!……と思うより早く、巌のような青い拳が航の顔面に飛び込んで来た。
「あれ――?」
食らった!……と思った。同時に航の視界が漂白し、意識が溶けるように消えた――
「赤道祭」の夜には、「かつらぎ」任務部隊は目指すセルラン海に足を踏み入れていた。日が変わると同時に、まるで「赤道祭」で生じた練度向上の空白を必死で埋め戻すかのように「かつらぎ」の飛行甲板に活気が戻る。空が満点の星々から蒼穹と太陽にその支配者の座を明け渡す時分、甲板上に充満する熱気の揺らぎは、哨戒ヘリ、JV-22、そしてジャリアー……搭載機個々の発するエンジン音や駆動音、航空燃料の臭いとも合わさって、決して狭隘とは言えない飛行甲板から溢れ出さんばかりに充満していた。
『――収監中の「新世界清浄化同盟」幹部の釈放を受けて、キナレ‐ルラ号を不法占拠していた武装グループは、乗客全員を解放後速やかに武装解除しエルタニアの治安機関に投降しました。投降した犯人グループはエルタニアとグナドス、モロジア両政府の協議を経て、グナドス国籍の民間航空機で亡命希望先のモロジア共和国へ移送される見通しです』
生温い、オイルの臭いのする風に乗ってテレビニュースの声が聞こえる。だが艦外に在ってそれは、間隔を維持して離着艦するジャリアーや哨戒ヘリの発する爆音に吹き飛ばされるように掻き消え、艦外に満ちる数多の雑音を構成する一つの要素と成り下がってしまい、情報としての価値を極限にまで低めてしまう……
航はと言えば、外に在って辛うじて流れ出てくるニュースの声に、耳を欹てる側に在った。「かつらぎ」飛行甲板を食パンの耳の様に取り巻くキャットウォークの一角、そこでは手空きの乗員が煙草盆の周りに輪を作り、取り留めのない談笑や艦載機の離発着技量の論評を無責任に続けている。一服の清涼剤の積りか、艦内放送用のスピーカーからテレビやラジオのニュース放送が垂れ流されてはいるが、艦に起因する各種の雑音に掻き消されて、それは娯楽としての用を全く為していなかった。
それまで同航する護衛艦の艦影に向けて細めていた眼を、飛行甲板の方に戻す……航の左眼は、分厚い湿布付きの眼帯とテープに塞がれていた。眼帯のすぐ下、保冷材の有難味は上空より降り注ぐ熱線と、海原に漂う不快な熱気のせいで殆ど薄れかけている。ただ掌の中、医務室で掴んだ准空尉の階級章だけがやけにひんやりとしていた。
「――このバーカ、昨日一回だけバンジージャンプすれば、それだけで昼間シフトに戻れたのに……」
顔面に重いパンチがヒットするのと同時に飛んだ意識をようやく引き戻した医務室のベッドを見下ろし、長浜一尉は呆れた様に言った。何度か瞬きをして両眼が動くのを確かめ、あるいは左眼全体を冒す疼痛に顔を歪めつつ、航は言ったものだ。あるいは、先刻に口頭での辞令と共に投げ渡された准空尉の階級章を片手で弄りつつ……
「自分、海水浴は嫌だったので……」
「その眼じゃ飛べないだろ。当分搭乗割からは外れてもらう。ことによると、作戦にも参加できないだろうな」
反射的に、航はベットから半身を起こした。同時に少年のような端正な顔から余裕が、潮が引くように失われた。
「作戦?……やるんですか?」
「詳細は追って知らせるが、此処で我々がやるべきことは、『かつらぎ』の幹部も交えてすでに最終的な調整に入っている。あとは東京のゴーサインが出るだけだ」
「…………」
顔を曇らせた航に、長浜一尉は苦笑で応じる。
「そう悲しそうな顔をするな諏訪内、作戦参加者名簿には名前だけは入れといてやるから、本決まりになる前にその眼、何とかしろ」
「有難うございます……!」
「……まあ、今迄飛び通しだったから、そろそろ一息入れてもいい時期だとは思っていたがな。いい機会だと思ってしばらく休めばいいさ」
苦笑が微笑に転じ、航の肩を叩きつつ長浜一尉はベッドから離れた。ベッドから呆然と彼を見送る航……医務室を出る間際、長浜一尉は再び航を顧み、両の拳を構えつつ笑った。
「いい試合だったぞ。諏訪内准空尉どの」
『――小田官房副長官は今朝の定例記者会見において、日本政府はキナレ‐ルラ号乗員乗客に日本人1名を含む12名の死者が出ていることを極めて問題視しており、事件を主導した「同盟」に対し、各国が連携して毅然とした対応を取ることを求めると声明を発表しました。これに対しグナドス政府高官が遺憾の意を表し、エルタニア政府は、日本政府の発言はエルタニア及びグナドスに対する内政干渉であるとしてこれを非難する声明を出しています……』
「…………」
スピーカーに目を凝らしつつ、航は手摺に凭れかかった。「作戦」――長浜一尉が教えてくれたその一言を脳裏で持て余す内、距離を置いた隣に新たな人影が身を乗り出したのに、航は気付かなかった。何気なく顔を向け、直後に航は軽い驚愕と共に彼と目を合わせる。
「ヨッ」
「あっ……!」
カバーオールに長身を包んだその男は、航が声を掛けるよりも早く手を上げ、会釈する。階級章は二等海尉。カヴァーオール越しの分厚い胸板に、蝙蝠と碇をモチーフにした特殊作戦徽章がぎらついていた。同時に、二等海尉の左眼が、航のそれに負けず劣らずどす黒く腫れているのに航は気付いた。
「飛べるか? パイロット」
航が彼のことを気遣うより早く、声を掛けるのは二等海尉の方が早かった。
「……ええ、どうにか」
「いいフックだった。もう少しタイミングが早ければ、ダウンしていたのは俺の方だったな」
「参ったなァ……」
ストレートの積りだったのに……とまでは、口には出せなかった。
「不覚にも、少しカチンと来て本気出しちまったけどな……悪く思うなよ」
「それより、二尉どのの眼は……」
「大丈夫、俺は目ん玉から金玉まで身体中の玉は全部チタンで出来ている」
下手な冗談だ……そのことに航は、不意に湧いた笑いを噛み殺す。特殊部隊のカヴァーオール姿がもう一人現れ、二等海尉に向き直った。
「工藤二尉、間もなく作戦会議が始まるので待機室へ御足労願えますか?」
「おーう……」
立ち去り際、二等海尉は航に笑い掛けた。
「いい試合だったぜ。パイロット」
――それから三日後、セルラン海上に展開した「かつらぎ」任務部隊は海上を遊弋しつつ、東京からの新たな命令を待つこととなった。
――待機は、なおも続いている。
『――「クヴァテール」号は駐機場に翼を休めたまま、離陸する兆しを見せません。機は「キナレ‐ルラ」占拠メンバーを乗せ次第、空港を離陸し一路モロジアへ向かう予定です』
待機室の広角端末は、他分割表示の一角に白色の三発レシプロ旅客機の機影を映し出している。始動に必要な電力供給装置を載せたトラックを脚下に従えて佇むそれは、今にも爆音を轟かせ、誘導路を走り出さんばかりにその巨体を見せ付けていた。操縦席付近で翻る旗は、紛れも無いグナドス王国の国旗――画面は、グナドス王国の国営放送の一幕であった。
「うー……」
飛行装具の救命衣に頭を預けつつ、航は右目を眠たげに擦った。だがもう眠りたいとは思わなかった。飛行隊が行うべき作戦は既にその全容が告げられ、今や航空科を含め「かつらぎ」全科員が臨戦態勢にある。気が付けば、航のためにコーヒーを持って来てくれた菅生准尉が隣席でフネを漕いでいた。日頃の訓練と警戒飛行の緊張が、束の間の平穏の中で睡魔を呼び寄せたのだろうか……?
『――ニホン及びエウスレニアは我が王国宰相府の決定に強く抗議しています。特にニホンは「同盟」を「恐怖主義者」と強く非難しており、恐怖主義には実力行使も辞さないと強く反発しています。これは我が王国に対する明らかな内政干渉であり、主権の侵害であると断言せざるを得ません』
「…………」
グナドスのニュースキャスターは美人だなぁ……自分でも、場違いだと思うことを航は考えた。昔、それを単なる「助平心」だと姉に笑われつつ切り捨てられた事が思い出された。白い長衣を纏った金髪、碧眼、白い肌の美女。だが映像に合わせてニュース原稿を読む口調までがロボットの様に無感動であった。プライベートだと、どんな女なのだろう?……ニュース画面が切替り、今度は老境だが恰幅のよく眼光の険しい人物が、壇上で記者の質疑に応じる画面が映し出される。赤と黒を基調にした制服が、彼がグナドス王国宰相府に属する政府幹部であることを一目で物語っていた。
『――ニホン人に「クヴァテール」号の針路を捻じ曲げる権利も無ければ、そのための力も無い。「クヴァテール」号は定刻通りにモロジアに着き、「同盟」の若人たちをその亡命先に送り届けるであろう。その後で対立を解消すべく交渉を行う。グナドス人以外の何人たりとも我々の文明的な対話を妨げることは許されない』
政府幹部が傲然と語る間、別の画面では旅客機にタラップが繋がれ、黒塗りの大型乗用車が横付けしようとしているのが見えた。開かれたドアから出て来たのは18名、その何れもが少年少女と見紛う程若く、黒い制服に身を包んでいる。キャビンに足を踏み入れる間際、タラップの先頭を歩いていた若者が身を翻し、笑顔と共に両腕を振る。即座に瞬く写真撮影のフラッシュ――
「…………!」
英雄のつもりかよ、馬鹿が――彼自身の思想に合わないというより本能的に嫌悪感を覚え、航は柳眉を顰めた。少数が多数の命の生殺与奪を握り、その状況の解消と引き換えに相手から何かを勝ち取る……それは航の祖国では許されない――あるいは、殆ど廃れた――「政治闘争」のやり方である筈だった。実行犯と元囚人の全員を機内に収容した「クヴァテール」号からタラップが離され、エンジンの始動が始まる。アイドルにしたエンジンを轟かせつつ、トーイングカーに曳かれ誘導路へと機首を向ける「クヴァテール」。同時に長浜一尉と海自の幹部数名が慌ただしい歩調で待機室に入り、その中でフライトスーツに身を包んだ海自幹部が声を上げた。
「東京からゴーサインが出た。第一直は香田一尉と真野一尉、両名は速やかに発艦し、当該空域に向かえ。他は待機!」
名を呼ばれた二名とそのペアが席から立ち上がり、足早に待機室を出る。作戦とその手順は、ブリーフィングの形で既に作戦に参加する全てのパイロットに周知されている。「クヴァテール」の離陸を確認するや、ジャリアーは「かつらぎ」より発艦、モロジアへ向かう「クヴァテール」の通過が予想される空域内を周回する。「クヴァテール」自体の捜索とこれに向かうジャリアーの誘導は、エウスレニアを根拠地とする空自の早期警戒機はもとより洋上の空護及び随伴の護衛艦が、その搭載する対空レーダーを以てこれを担当することになっている。作戦に投入するジャリアーは6機、当該空域に対しては一度の哨戒に一個編隊2機を投じるとして三回毎のローテーションを繰返すことで、予想空路上に進入した「クヴァテール」を捕捉できる、というのが任務部隊司令部の立てた予測であった。
早期警戒機、あるいは前方展開した護衛艦による要撃管制の下、「クヴァテール」を捕捉したジャリアーはその針路上に占位し、「警告」を以てその飛行を中断させ、近縁の都市国家イリジアの中央空港に「クヴァテール」を強制的に着陸させる。それを見届けたところでジャリアーの任務は終わり、乗客たる「テロリスト」の確保は、ジャリアー隊に先行する形でイリジア空港に秘密裏に展開した海上自衛隊特殊部隊が担当することになっていた。
あまりに緻密で、投入するハードウェアの性能からして成功が約束された作戦の様に思えるが、それでも不安要素はある。イリジア政府へのODA増額を餌にそれを可能ならしめた特殊部隊のイリジア展開だが、元々防衛力に乏しい――というより、「転移」前の集団安全保障体制に馴れきった都市国家の性で防衛に関心の薄い――イリジアには、それを補完する形でエルタニアの国土保安省が分遣隊を置いている。イリジアは地理的にエルタニア他少なからぬ中小国にとって海上交易上の要衝であり、エルタニアにしても他国を侵略する意図を持ち合わせていなかったから、これは明らかな善意の発露であった。丁度日本とノイテラーネの関係に似ている。
もし、グナドスに同調するエルタニアが海自任務部隊の動きを嗅ぎ付け、特殊部隊の任務を妨害するようなことになれば――従って、「クヴァテール」機内の「テロリスト」の制圧と確保、それに続く撤収には相応の迅速さが必要とされた。特殊部隊はエルタニアの現地部隊が急行して来る前に「新世界清浄化同盟」メンバーを拘束し、イリジア中央空港から撤収しなければならない。
……作戦開始から四時間が過ぎ、第三直の発進になった。
第一直はすでに帰艦し、第三直に哨戒コースを譲るであろう第二直も帰投コースに入っている。但し航と菅生准尉もジャリアーへの搭乗を命ぜられた。つまり第三直編隊に不調が発生した際の予備機だった。それは第三直の飛行隊長を務める長浜一尉直々の指名――
「諏訪内、行けるか?」
と、長浜一尉は航の顔を覗き込むようにして聞いた。隣席の菅生准尉も、知らず神妙な表情で航の横顔を除き込んでいる。航は黙って眼帯に手を掛け、湿布を剥がすのだった……
「行かせてもらいます!」
眼の周りは未だ黒ずんでいたが、その眼は狩りに臨む鷲の様な光を貯えている。
『――ヴァルキリー編隊、応答せよ』
『――ヴァルキリー‐ツー』
『――ヴァルキリー編隊、全機エンジンを始動せよ』
エンジンを始動し、自力で滑走した第三直二機が「かつらぎ」飛行甲板のセンターライン上に並ぶ。夜が迫っていたが、各機の吐くジェット排気の織り成す大気の揺らぎが眼に捉えられる明るさは残っていた。
航もラッタルを踏んで飛行甲板に上がり、予備機へ向かう道すがら、飛行前点検に入った二機より距離を置いた一角に、フロップローターを折り畳んだJV-22が駐機しているのを見る。その尾部、機内灯の洩れる搭乗ランプ近くに屯する複数の人影――
「お……」
カバーオールの上半身を固める防弾プレートとタクティカルベスト、IRビーコンと暗視装置装着マウント付きの軽量ヘルメット、背中に固定した89式カービン銃――それが海上自衛隊内でも特異な集団のなりであることに、航が改めて思い当るのに、傍を歩く菅生准尉の言葉が必要だった。
「特殊部隊だ……テロリストの確保に行くんだな」
「ああ……あいつらが」
艦橋傍に引き出された予備機に踵を向ける間際、航は見慣れた顔を見出した。「赤道祭」の日、リングの上で拳を交えたあの二等海尉が、同じく痣にした左目もそのままに部下に指示を与えていた。遠巻きに自分たちの様子を伺う航の存在に気付くや、二等海尉は歯を見せて笑い、戯れに拳を突き出して見せた。航も拳を見せ、思わず相好を崩してしまう。
「すっかり仲良くなったみたいだな。海自に転科したらどうだ?」と、菅生准尉が言ったのは何もからかい半分では無かった。
「……ああ、考えておくよ」と航は微笑む。
機付長の野田 絵里二等空曹を始めとする専属整備員が、歩いてくる航と菅生に敬礼する。菅生准尉が「野田ちゃん」と呼ぶ野田二等空曹は航と同い年だが、本当の意味での「専用機持ち」である機付長として彼女が担う責任は、自分よりもずっと重いことを航は知っている。普段の野田二曹の素顔は、常に目深く被っているキャップと黒縁メガネに遮られるようにして判然とし難いが、その実菅生准尉をして、「カミさんに掴まる前に会っていれば絶対狙っていた」と言わしめるほど端正としている。
「宜しくお願いします」
野田二曹が航に機体の整備状況を標した帳簿を見せ、航は記入されている事項を自分の眼で確認した後、末尾にサインを施した。他の整備員が航と菅生からヘルメット他飛行時に要する用具の収まった雑嚢を受け取って操縦席に上がる。発進はないかもしれない。喩えあるとしても、第三直二機の何れかが技術的なトラブルで任務に堪えないと判断された時ぐらいなものだろう。二人はすぐには操縦席に入らず、協同し機体外部の点検を行うことになる……その途中、航は乗機が抱える装備に、改めて眼を見張るのだった。滞空時間延伸用の増槽はもとより翼端ハードポイントに吊下された左右各一基、計二基のAAM-3改短距離空対空誘導弾。そして胴体下に接続された25㎜機関砲内蔵ポッドが一基……誤作動防止用の安全ピンが挿し込まれたままのそれらが、今回の任務に当たり航の機が携行を許された装備であった。特に、初期生産型が導入され始めてすでに30年近くの時が経っているAAM-3は、度重なるコストダウンと高い信頼性も相まって、未だ改良を繰り返しつつ調達が続いている。その最新モデルはAAM-5と共通のシーカーを有し、ヘルメット照準はおろか限定的な地上/水上目標攻撃も可能になっていた。
点検を終えた航はラダーを昇り、均整の取れた中背をジャリアーの決して快適とは言えない操縦席に滑り込ませた。続いてラダーを昇って来た整備員がベルトの固縛とヘルメットの着用を手伝ってくれた。ヘルメット照準ディスプレイデバイスの繋がったヘルメットはその仰々しい外見の印象に反して軽い。違和感を覚えるのは着け始めてから数分だけで、その後は自分の身体の一部であるのも同じ感覚をパイロットにもたらしてくれる。
ヘルメットを固定させつつ、航は手を延ばし計器盤右前方サブパネルの一角、エンジンマスタースイッチとスタータースイッチを入れた。ジャリアーの場合、本土の基地に居た頃は外部電源でエンジンを始動させていたが、それは機内バッテリーの消耗を抑えるための手法で、一度前線に出た際は即応性の維持という観点から機体内蔵のバッテリーの使用が励行される。
同時に、左側サブパネルを占める二本のスロットルレバーの内一本をアイドルの位置にまで開く。エンジン回転が毎分500に達した辺りでイグニッションを作動させる。ジャリアーの搭載するエンジンは左右二基、燃料消費の低減と安全性の確保という観点から最初に一基を始動させ、電力供給と燃料流入が順調なのを確認した上でもう一基を始動させる手順となっている。始動完了を待って、整備員が機の整備用パネルを慣れた手際で締め始めた。
『――……』
装着した酸素マスクの中で息を吐いてみる。エンジン始動と飛行準備に関わる一切を終えるのと機を同じくして、起動画面に続き覚醒を始めた計器盤中央の二基の多機能表示端末、そして広角HUDが光の躍動を刻み始める。機体制御、航法、兵器管制……MFDで管制し得る全ての表示を確かめる様に切換えた後、航は再び右側サブパネルに手を延ばし、慣性航法装置の管制盤にメモリーカードを差し込んだ。ブリーフィングの段階で予め入力された飛行経路と戦術情報をINSが読み込み、それはMFDを端末とする戦術コンピューターにも反映される。MFDデジタルマップモードの地図上で自動的に描画されていく飛行経路と経由点との織り成す赤い曲線……飛行前点検でそれを目にする度、航はまるで自分が戦地の外に在って、ゲームでもしているかのような錯覚に捉われることがある。飛行モードが「手動」に切替っているのを確認した後、後席の菅生の声がインカムに聞こえた。
『――ワタル、装備適合性良好……飛行に支障なし』
地上の機付長がジャリアーの機体各所を固縛する安全ピンを抜き出して航に見せた。それが規定通りに揃っているかを確かめ、航は操縦系の点検に入る。補助翼から始め次に昇降舵、最後に舵とエアブレーキ操作まで終えたところで、甲板員が航に前進を促した。見送る野田二曹たちに敬礼し、スロットルを僅かに開く。装備を抱えたジャリアーが発艦ラインまで前進し、そこで止まる。航空護衛艦化改装の際、飛行甲板に付設されたジェットエンジン排気遮蔽板が跳ね上がり、ジェットエンジンの発する高熱と衝撃波が飛行甲板上に伝播するのを妨げてくれる。その頃には、第三直を空へ送り出すべく風上へ加速を始めた「かつらぎ」が、その甲板上に人工の強風を生み出しつつあった。頬に当たる風が、左目にやや痛く感じられた。
『――ヴァルキリー、発艦を許可する』
『――ヴァルキリー了解……』
長浜一尉搭乗の第三直一番機がエンジンを最大に焚き、機を加速させるのを航は見た。同時に、眼前に立つ甲板員がハンドサインで航に前進を促す。今回はここまでか――
『――ヴァルキリー2番機、エンジン回転が一定しない……』
「…………?」
異変を察したときには、長浜機はすでに「かつらぎ」から脚を蹴り出していた。その一方で滑走の途中で止まったまま微動だにしない二番機、それが即座にセンターラインの横に引き出されていくのを航は見た。
『――発進をヴァルキリー03に変更する。03……準備いいか?』
「三番機準備よし!」
甲板員がハンドライトを傾け、スタートラインへの前進を促した。胸の高鳴りを抑えつつブレーキを解き、所定の位置まで機を進めて停める。何時の間にかエンジンを始動していたJV-22が浮上し、飛行甲板を脱して母艦から遠ざかっていく。特徴的な可変式フロップローターが前方を指向し、加速しつつ上昇するオスプレイ――
後席の菅生がキャノピーを閉めた。同時に母艦の航空管制室が離艦後北西に針路を取り、集合後に高度20000フィートまで上昇することを指示して来る。規定通り航が指示を復唱した後――
『――風は230度方向から6ノット吹いている。ヴァルキリー03、発艦を許可する』
航空艦橋からのハスキーな女性の声……谷水飛行長だと直感する。発音の滑らかさが耳に心地良い。
『――諏訪内、お約束通りにやるんだぞ』
と、背後から菅生准尉の声、酸素マスクの下で、自ずと苦笑が浮かぶ。誰が始めたか知らないジャリアー乗りの「伝統」として、操縦士は発艦の間際にひとつ、掛け声を発するのだが……込み上げてくる羞恥……何度か口を開いては躊躇った後、航は観念したように告げる。
「ヴァルキリー03!……諏訪内 航、行きます!」
スロットルを開いた後の流れは早かった。加速しつつセンターラインを駆け抜け、ジャリアーは眼前に迫り来る傾斜構造を越える――その後には、見えない力で宙から吊り下げられ、ゆっくりと奈落に落ち行くかのような静寂と虚無とが訪れる……それも一瞬、機首が下がり、同時に気速を捉えた主翼と最大出力を維持する二基のIHI-F5Nターボファンエンジンが飛翔に必要な速度を創り出す。再び機首が持ち上がり、上昇――傾斜構造の効果は、発艦する搭載機が滑走によりそれら一連の作用に必要な高度を稼ぐことに集中している。
揚力を得た機が、徐々に速度を取り戻しつつあるのを感じる。暫く舐めるように海面直上を飛び、速度を蓄えたジャリアーは上昇に転じた。
「――……――……――……!」
『――ヴァルキリー編隊、集合せよ。高度3000』
『ヴァルキリー03、了解……!』
高度3000フィート……「かつらぎ」上空を旋回するジャリアーを一機視認する。長浜機だ。航の姿を見出したのか旋回半径を広げた長浜機、航はそれを追尾する態勢を取り、合流した二機はそのまま編隊となって任務部隊を鳥瞰する位置に付いた。水平線の彼方に沈みゆく太陽、朱に染まった光に照らし出され、黄金色に輝く波濤と各艦の航跡までがはっきりと見出された。
『――ヴァルキリー、高度二万フィートまで上昇。針路0-2-7へ向かえ。以上』
『――ヴァルキリー編隊了解』
「――……――……」
左前方を飛ぶ長浜機と、共に目指す下層雲の雲間――そこを幾度も潜る内に日は完全に落ち、空は夜の支配する処となる。やがて雲の杜の真只中の、ポケットの様に開いた空域に入ったところで、長機がゆっくりと旋回を始める。航もそれに倣う内、いつしか二機は高度三万フィート近くにまで上昇している。下層雲は海岸線のような輪郭だけが辛うじて肉眼に捉えられ、すぐ頭上に上層雲の刺々しい断崖が拡がっている。
酸素マスクの中で息を吐きつつ、航は考える。
「……――……――……」
『目標は来るのか?……もし来たとして、おれたちはそいつを追尾できるのか……?』
航の不安には、ちゃんとした根拠がある。ジャリアーという飛行機自体、元来この種の任務を想定して作られた機体では無いからだ。第一、エンジン出力の限られた練習機上がりの機体では、空自の要撃機の様に飛行する目標を追跡し、あるいは目標の機先を制してその機動を掣肘する行為自体不可能である。航空護衛艦がジャリアーを少数搭載して運用するのも、あくまで島嶼奪還戦や海岸部への上陸作戦時に、艦隊を策源とする水陸両用部隊や空中機動部隊の対地支援を行わせるためであって、「前世界」の太平洋戦争の様に、敵の空母と数百浬の外洋を隔てて相互に航空部隊をぶつけ合うといった「殴り合い」をやらせるためでは無かった。空護固有のジャリアー飛行隊というものが存在せず、他の哨戒ヘリ部隊の様に必要に応じて地上の航空部隊から空護に戦力を分遣するという形を取っていること自体、まさにその発想の表れではないか?
滞空時間は一時間、これが過ぎればジャリアーは一旦哨戒空域を離脱し、エウスレニアから進出した空自のC-2輸送機と空中給油のため会合することになる。それからさらに一時間を哨戒し、母艦に戻る航程を辿ることになる。
空振りか……機上で思い始めた頃、通信は唐突に入って来る。
『――こちらダイダロス。ヴァルキリー、目標を捕捉した。針路3-2-0……高度二万一千フィート……』
『――ヴァルキリー了解!』
「03、了解……!」
広角HUD上に円形の指標が浮かび上がる。円形の中に目標との相対距離、進行方位と速度を数値化して表示したそれは、HUDの中心にそれを重ねて飛ぶだけで、ジャリアーを目標に対し優位な位置にまで接近させてくれる。高度を下げ、増速する長浜機、それを眼下の夜空に穿たれた暗渠の中で見失わぬよう、航は眼を剥いてそれを追う。
『――諏訪内、あまり加速するな。もう少し距離を空けてもいい』
後席からの菅生准尉の声には余裕があった。全開にしかけたスロットルを握る手が、僅かに緩んだ。
『――大丈夫、同じ機体だ。簡単には置いていかれはしないさ』
高度はすでに二万フィートにまで下がっていた。前方の長浜機に倣って返針と旋回を繰り返す内、自機と目標位置指標の相対距離を示す数値が、僅かばかりになっていることに気付く。
「――!?」
前部風防枠の右隅、夜空に浮かび上がる銀色の点に、航は眼を見張った。姿勢を水平に戻して飛び続ける内、はじめは空に浮かんだ一振りの刀身に見えたそれが、距離を詰めて行くうちに主翼と尾翼、そして垂直尾翼を生やした典型的な航空機の機影として、航の網膜に焼き付けられていく――
『――ダイダロスへ、こちらヴァルキリー、目標を視認――03、目標の右に付け。こちらは左に付く』
「03、了解」
編隊を解き、航は指示通りに操縦桿を傾けた。目指す「クヴァテール」号のほぼ後背に差し掛かったとき、不意に機が小刻みに揺れるのを覚える。プロペラの後流で乱れた気流をもろに受け、機が動揺しているのだ。思わずフットバーを右に踏み込み、機は大きく右に滑る。プロペラで乱された空気が空気取入口からエンジンに侵入し、それは最悪、燃料燃焼用の空気を断たれたエンジンの停止に繋がる……航にとってはそちらの方が怖かった。結果として上手く右に占位したが、距離はかなり開いた。スロットルを開き、「クヴァテール」の操縦席付近まで達したとき、共通回線の中で新たな交信が流れるのを航は聞く。
『――こちらは日本国自衛隊セルラン海派遣任務部隊である。「クヴァテール」号に告ぐ、貴機は完全に我々の管制下に置かれた。これより我々の指示する方位へ転針し、我々の指定する場所に着陸せよ。さもなくば相応の対処を取る』
「…………」
何時しか、「クヴァテール」の操縦席から、操縦士と思しき人影がこちらを伺っていることに航は気付く。顔立ちからして航よりも飛行士としての経験はずっとありそうな中年男の顔、だがその顔は、まるで空中で有翼の悪魔にでも出くわしたかのように怯えきっているのが判る。当然であろう。「相応の対処」……もしそれが、今現在自機の両脇を固めるニホンの二機の戦闘機の抱える「物騒な荷物」に関わる話であるように思えるのだとしたら……共通回線を介した警告が二度続き、三度目が告げられようとしたそのとき――
『――ダイダロス、こちらヴァルキリー……「クヴァテール」の転針を確認』
「クヴァテール」の、鵬を思わせる主翼が傾き、距離が開き始めるのを航は認める。「クヴァテール」が指定された飛行場に着陸するまでその両脇を固め、あるいは「クヴァテール」の飛行を誘導することを二機は命ぜられている……そのことを意識しつつ、航は一旦閉じかけたスロットルを開き、「クヴァテール」の機首を抑える様に飛んだ。
『――ダイダロスよりヴァルキリーへ、二機発進させた。会合予定時刻は2030を予定。合流後監視を引き継ぎ、速やかに帰投せよ』
『――ヴァルキリー了解』
一発の弾丸も撃たずに遂行されつつある任務――それ故に、航は自分でも知らない内に、自らが作戦飛行の最中にあることを忘れた。