序章 「対峙の風景」
読者の皆様、お待たせしました。暫しの間「TIWの世界」をお楽しみください。
それにしても……ここまで来るのに長かった。
日本国内基準表示時刻10月21日 午前2時10分 関東某所
天球の辺縁――言い換えれば、地母神の化身とでも言うべき大地をその内に閉じ込めた蒼き境界。
そこを漂う無機物が一つ――
アンテナと、翼のように左右に広がる太陽電池を生やした円筒形のそれは、刺々しいまでに降り懸かる太陽光を直に浴び、眩く、あるいは痛々しいまでのぎらつきを星々の領域たる周囲の漆黒に振り撒いていた。それは、彼女が三年前に大地を蹴り飛立った天球の一角を占めて以来、あらかじめ定められた寿命通りに彼女が力尽き、再び天球の熱い懐へと戻って行く日まで課せられ、続く過酷なる日常であり、彼女の運命――
およそ天然のものならざる金属と合成素材で造られた人工の天体たる彼女は、その生誕と飛翔以来3年間、電子と金属の眼を以て眼下遥か90万m下方に拡がる大陸の一角を見詰め続けている。そして彼女が設計上の寿命を迎えるまでに、優に6年間もの時間が残っている……その間、彼女の千里眼とでも言うべき電子の目の捉えた全ては、地上の一隅に在って彼女の営みを見守り、制御している人々の物でもあり続けるというわけであった。
彼女――その名は画像測地衛星「いずな」。
3年前の打ち上げ以来、衛星軌道上を住処とするに至った彼女を管制する日本は関東地方の何処か。その所在も、名称も決して公になることは無い。そこでは24時間体制で管制官と情報分析官が詰め、彼らの属する機関の望む情報を引き出さんと、静かなまでの暗闘に心身を傾注している……やがて暗闘は、それが始まった朝から昼を経て、いまや深夜の領域へとその時間を跨ごうとしていた。
表向きは「転移」と呼ばれる、これまで人類が創造し蓄積してきた科学的知識で説明し得る範囲を越えた作用による時空間移動の結果、それまで国家として、民族として生を繋いできた世界から断絶するに至った日本を、国家として存続し、民族として生存し得るためのインフラの一つとして衛星軌道上に住処を定めるに至った複数の通信中継衛星、画像測地衛星。だがその一方ではそれらは、異世界に流れ着いた日本を、その周辺に潜むあらゆる脅威から守るための、全世界規模での情報収集を企図した耳と目としての側面を持つ。衛星の収集した電波、画像情報を集約して表示し、さらにはオペレーターによる解析を経てより簡略化され、鮮明化された情報を羅列する広角の情報表示端末は、日が変わった頃から日本列島の全容とその周辺の海、空で蠢く複数の輝点と記号とを追跡表示し続けていた。衛星のみならず、この空間を運用する「組織」が日本国内や国外に人知れず配したアンテナ、監視カメラ、盗聴器、そして専用の人員……それらのもたらす情報も収集し管理することに、この空間は特化している。つまりはこの日、「組織」の有する情報収集能力の多くがこの空間に集約され、これから日本周辺で起こる「何か」をモニターすべく空間は胎動し続けていた。
空間の深奥――
複数の人影に付き従われた、リクライニングチェアに身を委ねた影が独り――
「――官房長、間もなく始まります」
「…………」
傍らのスーツ姿に呼び掛けられたリクライニングチェアの背凭れが、やや持ち上がった。それがチェアの主の無言の返事だった。部屋はその広範さに比して暗く、巨大な広角端末以外には、オペレーターの向かうコンソールの他にまとまった量感を持った光の無い空間では、光源から離れて端末を伺うチェアの主ですら光と対を成す影の領域に埋もれ、その容姿を諮ることが出来なくなっている……それが却って、官房長と呼び掛けられた男の外見に、この空間全体の支配者を思わせる威厳を与えていた。
『――発信パターン照合……「ロメオ」、動き始めた模様』
「さて……じっくり見せてもらうとしようか。自衛隊さんの実力とやらを」
チェアの主の声は、モニターの向こうの変化を受けて静から動に転じ始めた部屋の空気の中に取り込まれ、彼の周囲の誰にも聞こえなかった。
日本国内基準表示時刻10月21日 午前2時14分 鳥取県境港市 情報本部直轄 美保通信所
夜は一層に深くなり、その奇怪な全容をさらに闇の只中に取り込みつつあった。
合計32本のアンテナが構成する、前衛芸術のオブジェの如き空間。それはその建設以来、決して表に出ることの無い日本の耳として機能し、情報の提供という形で日本の防衛に貢献してきた。日本国外を往来する電波、通信波を傍受、収集するための「通信所」。それは日本国内に六ヶ所存在し、この「異世界」において、非公式に国外に展開する同種の簡易施設も含めれば十を超えるとまで言われている。
それら「通信所」の中でも主力と言うべき、大規模な国内六ヶ所中の一箇所――鳥取県境港に所在する美保通信所は、「転移」前より日本の周辺諸国の動静を探るために稼働してきた施設であり、その通信傍受の対象はロシア、中国、朝鮮といった周辺の「仮想敵国」のみならず日本海上の領海、領空内を往来する国籍不明の船舶、航空機にまで及ぶ。そして「転移」の日を迎える瞬間まで、美保通信所は大過なく「聴く」任務に徹してきた。
「転移」後、自衛隊それ自体の立ち位置と同様に、情報収集施設としての通信所の在り方もまた大きな変化を迎える。「転移」を迎え、年月を経るに従い日本の周辺地域に重大な脅威が存在しないという事実が明らかになるにつれ、国防組織たる自衛隊戦力の整理縮小が叫ばれるのと同様に、情報収集機関の端末たる通信所もまた整理統廃合の対象とされた。対象とされたもののそれが結局は実行に移されなかったのは、日本を取り巻く未知の世界に対する根強い不安も然ることながら、「転移」前の「東アジア動乱」の過程で、納税者たる日本国民の間に国防に対する少なからぬ理解が芽生えていたことも大きい。そして「転移」から十年を経ずして明らかにされた「脅威」の存在が、軍縮への議論を完全に払拭してしまった。
現在、日本はその「脅威」と対峙している。
「転移」前の、日本の周辺に表裏に亘り侵犯を繰り返したロシア、中国、統一朝鮮といった軍事強国群と、その持てる全力を以て対峙していた時代には及ぶべくもないが、現在の日本にはれっきとした「仮想敵国」が存在する。その戦後に言うところの「スロリア紛争」の後に、正式に「日本海」と称されることになった海域を隔てて拡がるスロリア亜大陸の西半分を、「教化」の名の下その強大な軍事力を以て侵犯した「R」ことローリダ共和国と、度重なる譲歩の末に結局は彼らとの和平の途を断たれた日本が、スロリア亜大陸上で軍事衝突に転じたのは三年前のことであった。そして両者の抗争はその過程、結果共に大勢の予想に大きく反するものであった。
「ニホン製コンピューターゲーム戦争」
と、日本の隣国ノイテラーネ都市連邦共和国の一新聞は、「スロリア紛争」の経過に関する特別企画記事をその一文で締め括った。日本側からの一方的な情報開示によるものとは言え、その戦闘の一部始終がテレビやコンピューター通信網の上で余す処なく放送され、人々の驚愕を誘った。それらの中でも特に、コンピューターの射撃ゲームの様に捕捉された目標が爆弾、砲弾、ミサイルによって一方的に撃破されていく戦闘ならぬ「破壊」の光景……赤外線画像の中で破壊される目標は当然、日本の敵手たるローリダの軍隊の戦車、基地、そして艦船であり、それらは、開戦前の「軍事大国」ローリダの優位を信じていた一部の諸国にとってはあまりにも衝撃的で、彼らの軍事上の常識を越えていた。つまりは「スロリア紛争」の開戦からその停戦に続く僅か二週間と数日で、とある列国の軍事専門家の口を借りれば、「僅か二週間の間に、この世界に於いて我々の有する最新の軍隊は、遠い過去の軍隊へと成り下がった」のである――それ以来、日本はこの異世界に於いて有力な軍事強国の一角と見做されるようになり、ローリダ共和国はその日本の「仮想敵国」となるに至った。但し、両国に国交が無い現在、日本におけるローリダ共和国の扱いは、「ロメオ」という別称を割り当てられていることからも判るとおり、政府見解で言うところの「スロリア亜大陸西部を、その軍事力を以て不法占拠している所属不明の武装勢力」という、甚だ不明瞭なものではあったが……
美保通信所は、それの面する日本海全域から遥か西方までを傍受覆域としてカバーし、その覆域は時として日本より西北に位置する「武装勢力」ローリダ本土の南端部にまで達する。かの「スロリア紛争」において、美保通信所はその開戦前より、スロリア亜大陸上に展開するローリダ地上軍の動静把握にその傍受能力の全力を注ぎ、彼らの動向を完全に追尾する事に成功している。つまりは情報戦に限定する限りここは最前線であり、その重要な立ち位置は、「スロリア紛争」後により明確さを増した。
その数32本。環状の特徴的な配置から「象の檻」とも称される通信傍受アンテナを統括する管制室は常時薄暗く、傍受に関わる装置を操作する情報官の気配すら、通信所という名の巨大な機械を構成する部品の一つであるように感じられた。彼らの重点的な「監視対象」が、スロリア亜大陸西部のノドコールを依然と植民地支配する武装勢力であることには変わりないが、「スロリア紛争」以来、スロリアにおける傍受の対象はノドコールにおける「武装勢力」ことローリダ軍部隊間の通信から、彼らと彼らの本国間の通信に比重が移っている。停戦後に締結された日本とローリダ間の合意により、以降五年間で進行中の段階的なローリダ植民地軍の兵力縮小の結果として、スロリア亜大陸で再び大規模な地上戦が発生する可能性は殆ど失われていた。これには何よりも当のローリダ側が、「スロリア紛争」で受けた物心両面の衝撃と損害から未だ立ち直れずにいることもある。だが、紛争終息から二年も経たない間に、決して見過ごせない変化もまた生まれていた。
『――セクター18、電波発信中。出力増加……周波数、データベース照合完了。誘導電波です』
制御端末を注視する情報官の報告が上がる。それが、それまで空間を支配してきた静謐が躍動に支配者の座を譲った瞬間だった。管制室前面を占める巨大な広角端末は縦横の軸線で区切られ、その下で日本列島全域からスロリア亜大陸全域の海岸線と、その周囲に広がる海洋を常時表示している。報告と同時に地形図の一点が赤く瞬く。場所は日本海上だった。
『――発信位置特定しました。北緯41度東経136分。発信源、増速しつつ南下中』
「護衛艦隊司令部に緊急連絡。それと海上保安庁にも緊急連絡だ。急げ……!」
「……しかし所長、いままで泳がせておいたのが不思議なくらいですね。防衛省はどういう積りなんでしょう?」
雛段状の管制室の最上層、そこに陣取る通信所長に、傍で控える副官が言った。一等陸佐と二等海佐の二人。彼らより下層の管制区画で業務に当たる情報官もまた、陸海空とその階級章の種類は多様だ。中には警察庁や公安調査庁、海上保安庁からの出向者もいる。防衛省の管轄下でありながら、政府各部門の情報機関の統合部隊とでも言うべき通信所。但し、その長たる通信所所長は陸海空自衛隊現役幹部の指定席だった。
『――護衛艦隊司令部より入電。哨戒中の護衛艦二隻、発信源に向け最大戦速で移動中』
『――哨戒機、後10分で発信源上空に到達!』
電波の上でも、そして物理的にも発信源の追跡の始まったことを示す管制盤を眺めつつ、所長の一等陸佐は言った。
「本部から符号サンプルが届いていただろう。東千歳が最初に探知したやつだが」
「ああ……確か、爆撃機のコールサインとか……」
「そう、収集に成功した当初からそれが有力だったが、発信源が連中の本土だったため、精度の高い符号を傍受することは距離的に困難だった。だが……」
「…………?」
「近距離からの情報収集活動により、漸く先日、同一の符号であることが確認された」
「成程……」
副所長の二等海佐は呻くように言った。それは自身の納得の、根拠に足る事実を前から知っているかのような響きであった。「近距離からの情報収集活動」、それはやはり……海佐の感慨は、それが芽生えかけたところで、彼は横目がちに彼自身を見上げる一等陸佐に気付き、自身の意識を現場に集中させるべく努めるのだった。「来るべき未来戦争」に備えた陸海空の統合運用を叫ばれるようになって久しい現在であっても、同じ自衛官の間で軽々しく言いだせない事実は、往々にして存在するものだ。特に、その「情報収集活動」はより上級の防衛機密に属するものであり、彼の属する海上自衛隊にその任の大半を負っている……
「……私とて納得しているわけではないが、単にこそこそと盗み聞きに来るぐらいまでならば未だいい。それが本省の見解だ。だが、今連中がやろうとしていることは――」
「……確かに、これは重大な侵犯行為です」
副所長は頷いた。
漁船や商船に偽装した「ロメオ」の情報収集船が最初に日本近海に姿を現すに至ったのは、「スロリア紛争」が終結してから半年が過ぎた頃のことと確認されている。同時期になって北海道近海、日本海上、果ては日本本土を跨いだ小笠原諸島周辺から断続的に発せられるようになった不審な電波が、彼ら情報本部が国土の裏庭に足を踏み入れた侵入者の存在を察知した切欠であった。続いて情報本部からの連絡に基づき当該海域に展開した海上自衛隊の哨戒機、海上保安庁の巡視船によって捕捉され、撮影されたそれらの画像が、これら招かざる客の存在に対する確信を確実なものにしている。外見こそ日本の周辺国で広く見られる中小の商船や漁船であったが、不自然な漁具の配置、人気のない甲板、竿やマストに偽装したアンテナなど、見る者が見れば即座にそれと判断できる要素を、これらの「不審船」は十分なまでに備えていた。
その後に把握された彼らの通信状況、航跡から、彼らが「ロメオ」の領域あるいは、「ロメオ」の影響下にある地域の港湾を根拠地としていることまで察知されている。そして、彼らが「敵国」日本国内の通信を「傍受」していることも……通信所としては、広域の情報収集活動を続ける一方で「ロメオ」の「覗き行為」を始終モニターし、東京の本部に報告するだけでよかった。だが、それももはや先日までの話だ。
発端は、一つの「コールサイン」だった。これまでに収集した電波情報から、ローリダ共和国本土南端部に大型爆撃機の基地があり、訓練や哨戒飛行時の交信記録から情報本部はそこを基地とする爆撃機の機数、個々の機に割り振られたコールサイン、そして飛行訓練の頻度までを把握するに至っている。そこに先月、新しいコールサインを有する機が配備され、その機特有の、他の機とは明らかに違う交信パターンが情報本部の注意を惹いた。信号情報収集の精度を高めるべく「近距離からの情報収集活動」が行われた結果、判明した情報は驚くべきものであった。彼らは、同型の爆撃機を改造した空中給油機を配備していたのである。そして――
――その空中給油機が先日、本土よりずっと南方の彼らの植民地に移動した。これまでの情報収集船とは明らかに趣きの違う「不審船」が、日本海上に出現したのとほぼ同時期であった。
再び、美保通信所。
『――セクター18、通信中。秘匿通話と思われる』
「……明晰化しろ。どれくらいかかる?」
『……傍受可能まであと5分』
「転移」前の豊富な「実戦経験」に加え、機器の発達とコンピューターの高性能化により、情報本部は今や仮想敵たるローリダ軍、ひいては政府の使用する暗号パターンを完全に把握するに至っている。彼らが使っているのは典型的な乱数表暗号であり、時折送信内容を圧縮して送受信する「バースト」という小賢しい方法も使うのだが、それすら短時間で対処が可能な程彼我の戦力差は大きい。一例を挙げると、乱数表はパターンからその構成を把握されるのを防ぐために頻繁なパターンの変更が必要なのだが、防衛省情報本部の暗号解析部門は、専用の解析ソフトウェアを開発して対応することで、それすら問題にはしていなかった。その一方で傍受される側たるこちらとしても何らかの対処が必要なわけで、この分野は彼我の技術力が拮抗している場合、大抵はいたちごっことなる運命を秘めている。むしろこちらに技術的な優位があると言っても決して安心はできないのだった。その面で日本には苦々しい「敗北」の歴史がある。「転移」より遥か昔、太平洋戦争開戦時において日本海軍は自軍の作戦用暗号の強固なることを誇ったものだが、敵手たるアメリカ軍は専属の暗号解読チームはもとより専用の電子計算機まで投入することで、短日時の内に日本海軍暗号の全容を丸裸にしてしまったのである。そして甚だ間が抜けたことに、当の日本海軍は自軍の暗号が完全に敵に解読され、企画した作戦のことごとくで裏をかかれていたことに、敗戦を迎えてから初めて気付くというお粗末さであった。
情報官の報告は続く。
『――電波データベース照合完了。コールサイン『キズラサ』です。間違いありません』
「……管制官、交信先の位置は何処か?」
『……北海道北西よりおよそ700マイル海上。東千歳通信所も確認、交信先を追尾中です』
『――明晰化完了。交信対象は航空機と思われます……コールサイン『キズラサ』と一致しました』
「――――!?」
所長は椅子から微かに腰を浮かした。こめかみに、冷や汗と思しきぎらつきが滲んでいた。
「やはりそうか……」
恐れていたことが起きた。日本海上にいる「不審船」は単なる情報収集船ではない。今やそれ以上の脅威を日本本土にもたらそうとしている。
『――空自千歳基地、要撃機発進しました!』
東千歳通信所から本省を通じ、北空(北部航空方面隊)へ命令が行ったのであろう。それにしても……と所長は思う。敵の保有する長距離爆撃機群と専用の空中給油機の戦力規模、そのコールサインの把握が間に合って良かったと……。
そして……。
情報収集に最大の貢献をした「彼ら」は、今でも何処かの海で――
ローリダ国内基準表示時刻10月21日 午前2時30分 ダルトランド群島南端 ロールタージ岬沖合100㎞洋上 海上自衛隊潜水艦SS-504「けんりゅう」
「彼ら」の任務は、「ローリダ鈍行」と呼ばれた。
永遠とも思える闇が、艦の征く世界を支配している。刻を経て闇は一層に深くなり、全長80メートルを超える艦をその胃袋の中に呑み込まんとしているかのように思われた。推進機の響きであれ、水圧に抗う艦体の軋みであれ、艦体は喩え音を発したとしてもそれらは余りに小さく、海を支配する闇の奥へと吸い込まれるようにして消えて行く――
「……定時報告。艦は目標海域を潜航中。浮上予定時刻まであと20分。蓄電池異状なし」
「了解、引き続き任務を続行せよ」
艦の先任幹部。水雷長の椙山 勇一 三等海佐の報告を、海上自衛隊潜水艦SS-504「けんりゅう」艦長 二戸 広義 二等海佐は海図から目を離さずに聞いた。電子海図は、二戸二佐が指揮する「けんりゅう」が、とある群島の南端部沿岸域にあることを先日から表示し続けていた。時節柄、赤い夜間照明に支配された艦内では暖房が機能し始めていたが、縦横に隙間なく配された配管と流れる空気の生温かさが、閉塞された空間とも相まって、却って底知れぬ不気味さを演出しつつあるように少なからぬ乗員には思われた。
艦内電話が鳴り、ワンコールで反射的にそれを取り上げた二戸二佐の耳に、機関室からの報告が入って来た。機関長、阿木三等海佐だ。
『――艦長、AIPモジュール点検終わり。異状なし』
「了解。御苦労」
『――艦長、AIP燃料には帰路を除き未だ三日分余裕がありますが、どうなさいますか?』
機関長の言うところは判っている。内蔵する液体酸素とケロシンを主燃料とするAIP(非大気依存推進)機関は、6~7ノット/時の低速巡航に用途を限定すれば、一度も浮上することなく二週間以上の潜航を可能にする。計算上、日本領海の北限を起点として、往路で一週間AIPのみを使用すれば、潜航状態のまま容易に目指す「ロメオの拠点」――ローリダ共和国本土――に到達する事が可能だが、二戸二佐に限らず多くの潜水艦艦長はその上に蓄電池による低速巡航を併用している。AIP機関は潜水艦の隠密性を高める「魔法の足」であるのと同時に、緊急時の「保険」でもある。推進力をディーゼル機関とそれによって充電される蓄電池に依存する通常動力潜水艦にとって、レーダーや聴音機で探知される恐れの大きくなる浮上を行わずに、敵の勢力圏下で活動できるというのは大きなアドヴァンテージとなるのだ。喩えその出力と時間が限定されたものとは言え、「前世界」においてそれまで原子力潜水艦の独占物であった長時間潜航の術を手に入れることが出来たことは、通常動力潜水艦の開発史上画期的な転換点であるとも言えた。
「当分蓄電池で対処する。AIPを使う場合は改めて命令する」
『――了解しました』
「けんりゅう」もその名を連ねる、海上自衛隊「そうりゅう」型潜水艦は、この世界では世界最高性能を有する攻撃型潜水艦と称されている。AIP機関を最初に搭載した初の作戦用潜水艦であり、その就役は、「転移」前に推進された潜水艦隊増強計画とも相まって海上自衛隊潜水艦隊の作戦能力を大幅に向上させた。その作戦距離、潜航可能時間を拡大させたばかりか、軍事組織としての自衛隊の情報収集能力の向上にも繋がっている。その重要性は「転移」後も変化しないばかりか、一層に増しているというわけであった。もっとも、通常動力潜水艦を自国より遠く離れた外洋で、それも一カ月以上の長期作戦行動に何の躊躇もなく投入し得るということ自体、かの「ロメオ」を含めこの世界で潜水艦運用能力を有する数少ない国々からすれば「狂気の沙汰」であるのだが……
……「ローリダ鈍行」は、そうした海上自衛隊潜水艦を取り巻く異世界の現実の、まさに象徴であった。隠密性と潜航能力を生かして「ロメオ」本土の沿岸域に侵入し、沿岸、海底の地形、電波、信号情報、船舶の運航状況、艦船の動静……凡そ収集し得るあらゆる情報を収集し、日本に持ち帰る。その存在自体秘密の情報収集任務……二戸二佐は思う――だがそれは、「前世界」において自由主義陣営の一翼を担ってきた日本が近隣のロシア、中国といった社会主義勢力と鎬を削って来たあの「冷戦時代」と、何の変わるところがあるのだろうか……?
「艦長、浮上予定時刻に達しました」
「了解」
発令所に転じ、潜望鏡の前に立つ。艦番号とシンボルの縫込まれたキャップの日除けを後ろ向きに被り直す。
「ソナー、周辺に不審な推進音ないか?」
「周辺に推進音なし。至って静かです」
二戸二佐は頷いた。
「潜望鏡深度まで浮上せよ。電波収集装置起動用意」
身体に掛かる手応えはない。だが命令一下、艦は徐々に浮上を始めている。発令所右半分を占める戦術情報/兵装管制区画では、情報収集機器管制要員が専用モニターを前に険しい顔をしている。
「発令所より艦長へ、電波収集装置起動しました!」
「よし……」
潜望鏡が静かに上がり、二戸艦長はハンドルを握る。
「――――」
夜間用の赤外線画像表示に切替られた潜望鏡からの光景は、黒い海岸線の輪郭を二戸艦長の眼前に映し出していた。潜望鏡から覗く外界の光景は、もはやそれを、スコープを通じ直接目にする艦長だけの独占物ではなくなっている。発令所内に設置された専用端末からの画像を、発令所に詰める幹部も息を呑んで見守っている。二戸艦長は距離測定レーザー発振ボタンを押しつつ潜望鏡を一周させる。艦から海岸線への距離を図り、敵地の地形を把握するのだ。その間、戦術情報管制区画では同じく潜望鏡深度で稼働する電波収集装置、逆探知装置の操作端末を、専属の管制員が険しい表情で見詰めている。特に索敵レーダー波を感知する逆探知装置の役割は艦を守る上で重要だった。敵の領域内で活動する以上、当然敵海軍の哨戒網に引っ掛かる恐れがあるためだ。「ロメオ」――ローリダ海軍――の対潜作戦能力は我が海上自衛隊に比して著しく立ち遅れているというのが海上幕僚監部の分析だったが、それでも「まさか」という場合はあり得る。それに自分たちが直面しないという保証など、何処を探したところで存在する筈が無かった。
「潜航せよ。深度20」
時間にして僅か30秒――潜望鏡を一巡させると、二戸艦長は潜望鏡のハンドルを畳んだ。収容された潜望鏡本体が下へと沈み、艦もまた闇へと還る。
以前、同海域で、やはり同じ情報収集任務に就いていた僚艦は、一週間に亘る現地での作戦行動の中で、敵空軍爆撃機の詳細な交信記録を傍受する事に成功したという――通常戦の軍事力では日本に対し圧倒的な劣位にある「ロメオ」ことローリダ共和国だが、それでも彼らが圧倒的に抜きん出ている要素はある。「スロリア紛争」の過程で図らずも明らかになった、「核兵器保有国」という「ロメオ」のもう一つの側面は、「スロリア紛争」の勝利を経た三年後も未だに日本において「核保有」に関する国論を二分し、日本人が彼らに対する警戒を解けずにいる要素の一つとなっていた。
そのローリダの「核戦力の一翼」たる長距離爆撃機――「前世界」のアメリカのB-29長距離爆撃機を思わせる機首、ロシアのTu-95「ベア」長距離爆撃機を思わせる後退翼を有するそれは、事実スロリア戦の終盤に発生した植民地ノドコールの住民反乱を「鎮圧」するべく、その胴体内に核爆弾を運んで投入されている。その事実こそが、防衛省の情報部門を以てローリダの「戦略爆撃機」たるこの機の動静を最優先で把握させている根拠ともなっていた……ある日そいつが、その胎内に「物騒な荷物」を積んで日本上空に飛来しないという保証を、神ならぬ誰が出来るというのか? 現に、近来になって新たに配備されたという同型機改造の空中給油機の存在が、いよいよもって防衛省情報本部の神経を過敏にさせていたのである。
「転舵。針路2-6-3。潜伏海域到達まで速力6を維持。次回課電時刻は2035を予定」
「了解――」
休息を取る旨を告げた上、海図室に戻り掛けた二戸艦長の背後で、航海長が命令を復唱する。実際は予定時刻にシュノーケルを出して充電せずとも蓄電池にまだ余裕はあるのだが、念には念を入れて置きたかった。予定ではあと4日、「けんりゅう」はこの海域で「情報収集任務」を行うのだ。此処は敵国の領域内。その間何が起こるか分からない――
日本国内基準表示時刻10月21日 午前3時45分 北海道西北500㎞海域上空。
『――アスラン、会敵予想時刻修正。時刻57』
『――アスラン、了解……』
酸素マスクの中で反響する息遣いに重なるように、要撃管制官と交信する編隊長の声が聞こえる。決して会敵を前にした緊張に震えた声ではない。だが、自分が彼と同じ位置に在ったとして、彼の様に落ち着いて振る舞えるとは、操縦士たる彼女自身には到底思えなかった。
周囲は完全なる闇。
コックピットのキャノピー越しに肉眼で確認できる外界と言えば、僅かな星明かりの下で照らし出され水墨画の様に浮き上がる雲海の輪郭だけだ。これではHUDの表示する基準線を注視していなければ自機の姿勢が傾いていることすら判らなくなる。ともすれば、機が外目にはとてつもなく危険な姿勢をとって墜落への軌道をひた走っているのではないかという体感すら湧く。それでも夜間表示に切替えられた計器類が、地上管制官の誘導通りのコースを飛んでいることを無言の内に教えてくれている――自分の感覚より計器の示す数値の方を信頼しろとは、これまでの操縦教育課程で教官より嫌という程叩き込まれ、聞かされてきた事柄ではあるのだが……
怖い――!
『――……――……――…………――』
イヤホンの中で自分の息遣いを聞く。乱れがちな呼吸、編隊長に従って旋回に転じた乗機、航空自衛隊主力要撃戦闘機F-15Jイーグルのコックピットで、操縦士の遠藤 葵 二等空尉は闇夜を駆ける恐怖に独りで耐えていた。右前方を飛ぶ編隊長、早乙女 拓馬 一等空尉の駆るイーグルは、翼端で瞬く赤青の識別灯以外には、もはや灰色の雲の回廊を突き進む黒い影とだけしか彼女の視覚には認識できなかった。
遠藤二尉は、先月に北部航空方面隊 第3航空団隷下の第203飛行隊に配属となった。T-4改中等練習機による高等操縦訓練課程を修了した後、宮崎県新田原でF-15J操縦に関する延長教育を修了したのは空自のファイターパイロットの出発点としてはごく自然な流れだったが、かの「スロリア紛争」でも活躍した歴戦の戦闘機部隊たる203飛行隊への配属は、新人たる彼女を少なからず驚かせ、そして内心で狂喜させた。
三年前の「スロリア紛争」――政府、自衛隊内で通例として使われる呼称である処の「スロリアの嵐」作戦において、日本の勝利に最も重要な貢献をした組織として航空自衛隊を挙げない者は皆無と言っても良い。保有攻撃機の半数を投入したという開戦初頭の第一撃を始めとして、作戦で多用された高性能航空機と精密誘導弾の組合せは敵地上軍の重要目標攻撃に望外の威力を発揮し、友軍地上部隊の順調な進撃に大きく貢献している。それから僅か2週間余りの戦闘期間の内、PKF航空自衛隊スロリア派遣航空部隊は500以上の作戦飛行を行い、1200以上の地上固定目標、約800両の敵戦闘車両を破壊し、約300機の敵軍用機を地上で破壊、さらにはその間に発生した大小20回に亘る空中戦で72機の撃墜戦果を上げ損害ゼロ……航空戦に関する限り、航空自衛隊はスロリア紛争を文字通りの圧勝で締め括っていた。当時防衛大学校を卒業したての准空尉であった遠藤二尉もまた、操縦学生として福岡県芦屋の飛行訓練部隊にあって先輩パイロットたちの活躍に接し、自らの将来の希望と重ね合わせて興奮を覚えたものだ。
『――アスラン、高度30000フィートに上昇せよ』
『――アスラン、了解』
編隊長の上昇――それに追随するのが遠藤二尉には一瞬遅れた。間隔を開くまいと、思わず適性値より大きめにスロットルを開いてしまう。
『――プルルルルルルル!……プルルルルルルル!――』
「…………!?」
異常接近!――イーグルの各所に配された警報装置が間隔を詰め過ぎた新人パイロットに下す宣告を聞き、レバーを握る左手が、振り子が揺れる様にスロットルを閉じてしまう。却って一層に開く間隔――
『――02、気負い過ぎるな。目視可能間隔を維持しているだけでいい』
「……了解!」
信じられない……と言いたくなるのをこらえ、遠藤二尉は共に上昇を続ける編隊長を見上げるようにした。編隊長の眼はどうなっているのか? それとも背中にも眼が付いているというのか?
早乙女 拓馬 一等空尉は遠藤二尉の僚機であり、編隊長でもある。203飛行隊の事務室で、飛行班長 永瀬 宗佑 三等空佐によって彼と引き合わされた時の第一印象は「図体の大きいぼんやりさん」でしかなかった。顔立ちはハンサムと言われればそうかもしれない。ただ、それを維持する努力を彼自身が最初から放棄しているような印象も彼女は受けた。それでも、航空学生出身であることも加わって早乙女一尉の戦闘機乗りとしてのキャリアは彼女よりもずっと隔絶している。何より、永瀬三佐と早乙女一尉は自衛隊用語で言うところの「スロリア帰り」で、しかも全自衛隊合わせても四十数名しかいない「撃墜経験者」だ。
遠藤二尉が着任してから一週間が過ぎた頃、呼び出しに応じ出頭した飛行隊事務室で行儀悪くデスクに足を架けたまま、永瀬三佐は言った。
「早乙女、こいつは防大空手部の可愛い後輩なんだ。お前が鍛えてやってくれよ」
「…………」
険しい視線では無かったが、「えー……おれがですか?」……と言いたげであることぐらい、遠藤二尉にはすぐにわかった。と言うより早乙女一尉の、戦闘機パイロット特有の険しい眼付など、彼女は彼の下に就いて以来一度として見たことが無い。だが、後で判ったことだが早乙女一尉の腕は飛行隊でもずば抜けて良かった。あの「とぼけた」外見も相まって、後方勤務の女性自衛官の間でも人気が高いのは御愛嬌、と言ったところか……
黒い雲の海の広がりの中で、黒い雲の柱が眼下に広がっている。否、黒い雲の城だ。高度30000フィートまで達すれば、夜の支配は星々の瞬きに圧倒されて、星明りの下、天界は明瞭な輪郭を以てその全容を眼前に拡げてくれる。
早乙女一尉の言ったことは正しかった。気が付けば、千歳基地を発進した時と同じ間隔で早乙女一尉と飛んでいる自身に気付く。それに雲海を脱すれば、自ずと周囲に気を配る余裕が生まれてくる。「転移」前から度重なる改修の過程で計器盤に付加された多機能表示端末は、機体間データリンクによって発進した友軍各機の位置関係を刻々と更新し続けていた。千歳管制隊からの誘導に変化が無い限り、こちらの2機と、こちらより北方に60哩離れて飛行する2機とで、これから国籍不明機を要撃することになる。
「転移」以来、目立って回数を潜めた緊急発進任務の一回――但し、今回の飛行はそう片付けるにはあまりにも緊迫感の度合が違っていた。こうして発進した二週間前から、千歳基地には北部方面航空隊の司令部要員に加え、東京の防衛省情報本部から派遣された情報官が慌ただしく出入りするようになっていた。同様に東京から慌ただしく前進してきたC-2E電子情報収集機が、夜間千歳飛行場を発進し、翌日の夜間に何処からともなく帰って来るという光景が日常のものとなるのに、それほど時間はかからなかった。
もう一つの大きな変化は、それまで固定装備の機関砲と短距離空対空誘導弾1基に限定されていた要撃機の武装が一気に増やされたことだ。AAM-5短距離空対空誘導弾4基とAAM-4中距離空対空誘導弾4基というのはF-15Jが搭載し得る空対空兵装の上限であり、文字通りの「フル装備」である。戦時ならば兎も角、平時の国境警備に関してこれでは、実のところあまりに「過剰装備」と言える。
だが――
「――近々、ローリダの爆撃機が大挙して日本近海に飛来してくるそうだ」
「――連中が日本本土へ直接に核攻撃をかけてくるらしい」
この間、指揮所で幾度となく開かれた上級幹部会議から漏れ聞こえてくる噂は、あっという間に飛行隊全体に蔓延した。それでも民間のテレビやラジオ、新聞からは事態の深刻さを伺わせる報道など微塵も見出せなかったのだから、余程情報統制が行きとどいているということだろうか? そして出撃の前日に下りた再度の「フル装備」命令――
遠藤二尉たちが発進したのは、基地内で醸成された緊張が頂点に達し掛けた深夜のことであった。
「――――!?」
MFDの機体位置表示の中に、新たに浮かび上がる輝点。同時にHUDの中に丸い指標が現れる。地上の警戒レーダー、あるいは哨戒空域を巡回する早期警戒機によって捕捉され、データリンクによって要撃機に送信された国籍不明機の位置を示す指標――その円形の中に、彼我の距離と目標の高度、移動速度を示す数値まで表示されている。指標にHUDの中心を合わせる様にして飛べば、イーグルはいずれ国籍不明機に対し優位な位置を以て会敵できるという仕組みであった。
『――アスラン、三沢からも4機上がった。現在青森沖西方にて待機中』
『――アスラン、了解……』
青森県三沢基地に本拠を置く第3飛行隊の新鋭機F-35Jであることを直感する。前年にF-2から機種転換を果たしたばかりの部隊、それ故に戦力として機能し得るかについては若干の不安がある。三沢にはもう一つ、F-15EJを運用する第8飛行隊があるのだが、そのF-15EJは部分改修も兼ねた定期点検でその勢力の過半を減らしている。よりにもよってこういう時に来るとは……!
『――02、もうすぐ会敵だ。注意せよ』
「02了解……!」
HUDは、自機が目指す国籍不明機まであと距離10哩を切っていることを示していた。F-15J自体、敵機の捜索及び捕捉用にレーダーを搭載しているが、今回の様な緊急迎撃任務であからさまにそれを使用することはない。このような任務の場合、目標の捜索と追跡は地上の管制隊に任せ、自機からのレーダー照射は国籍不明機に対する「警告」の意味合いとして使われる。
『――アスラン、目標を視認した!』
「――――!?」
何処!? と内心で叫ぶのと、それらしき光の連なりを前方に見出すのと同時だった。むしろ早乙女一尉が言わなければすっぽりと見落としていたかもしれない。遠藤二尉が視認する事が出来たのは、それくらい些細な異状だった。そこに在ると他者に言われない限り、自身の目で確かめることのできない物が、この世には結構あるものだ。
星明りを吸い込みぎらつく銀翼……それは大きく、一つでは無かった――雁行編隊4機。
雲海を統べる竜の様に征くローリダ共和国空軍のロドム-775戦略爆撃機――防衛省呼称「R‐ベア」。
『――02、編隊の左後方に付くぞ。続行せよ』
「了解!」
早乙女一尉の指示は冷静だった。続行すると同時に、以前に基地で行われた情報官による敵情報告で教えられた「ベア」の性能、緒元が遠藤二尉の脳裏を駆け巡る。情報が正しければ「ベア」は機首、機体上方と下方、胴体側面、そして尾翼に防御用の機銃座を有している筈だ。もし何の考えも無しに敵機の後背に占位し、そのまま距離を詰めたならば――
距離を詰めるのは容易だった。何せ相手は高出力とはいえレシプロエンジン搭載の大型機である。ジェットエンジンのこちらがキャッチアップできない道理など無かった。撃たれるかもしれない……と言う不安は、不思議と感じられなかった。
『――こちら航空自衛隊。国籍不明機に告ぐ。貴機は日本の領空に接近している。直ちに転針し、領空より退去せよ』
先行する2機が警告電を発する。日本語、新世界共通語、そしてローリダ語……各国の言語を連ねた警告電は、規則として3回に渡って継続される。それでも反応が無い場合は――4機と4機、彼我合計8機はそのまま同航の姿勢を維持しつつ、日本列島に向け直進を続ける。
『――各機へ、レーダーの使用を許可する』
『――02、周辺の目視警戒を頼む』
「了解……」
訓練通りに――何度も繰り返した対敵領空侵犯処置の訓練で叩き込んだ手順を脳裏でなぞり、遠藤二尉は長機より間隔を開き、周囲に眼を凝らした。長機がレーダーで目標を捜索、捕捉している間、列機は目視を以て至近距離の警戒に努めるのが編隊空戦の基本である。レーダーとて決して万能の利器ではなく、レーダー捜索範囲の間隙を突いて思わぬ方向から敵機の急襲を受けることもあり得る。それは遠藤二尉自身、これまで数度経験した飛行教導隊による「巡回教導」において手痛い「敗北」を以て経験した事実だった。「スロリアの嵐」作戦以来、想定される「ロメオ」の戦闘機に体格の似たT-4改中等練習機を駆る局面が増えた飛行教導隊は強く、その洗練された戦技の前には、F-15J、F-2を有する実施部隊は度々敗北を重ねている。彼らは「航空自衛隊の『ロメオ』空軍」に徹するべく、最近では飛行隊事務室に何処からか調達してきた「ロメオ」の空軍旗を飾り、機体のカラーリングまで敵機に似せていると専らの評判であった。
周辺警戒の傍ら、MFDの中で追尾中の国籍不明機を示す指標が二つ、シーカーに囲まれるのを見る。同時にHUDに浮かび上がる目標指標もまた二つ――長機の早乙女一尉がレーダーを照射し国籍不明機を捕捉した瞬間だった。度重なる改修の結果として、イーグルのレーダーはその当初には無かった多目標の同時捕捉、追尾機能を有する。さらにはその際の戦術情報もまた機体間データリンクで列機たる遠藤機も共有するところとなる。もしこのままの状態で遠藤二尉がミサイル発射ボタンを押せば、飛び出したミサイルは早乙女機のレーダー誘導に従い敵機へ直進し、これを直撃する……という「戦術」すら可能になっていた。それがまた、ここ異世界の軍事関係者をしてF-15Jイーグルを「世界最強の戦闘機」と呼ばしめる根拠の一つであった。
遠藤二尉の手がヘルメットのバイザーに延び、彼女はAAM-5短距離空対空誘導弾照準用のフィルターを下した。同時にヘルメット照準ディスプレイが起動し、遠藤二尉の眼前で追尾されつつある敵影が二つ、円形の照準レティクルに囲まれる。それは敵影を囲んで逃さないAAM-5の先端、赤外線シーカーの小刻みな動き――その眼を目標に向け続けている限り、彼女は常に目標を攻撃し得る態勢にある。
『――敵は反応するだろうか?』
遠藤二尉の疑念には二通りある。レーダーの照射を受けてもなお、敵は本気で日本本土への侵入を狙っているのか? あるいは敵は、こちらにレーダー照射されていることに気付いているのだろうか?――いずれにしても、次にこちらが取る対処は決まっている。
『――国籍不明機、依然転針せず』
『――各機へ、威嚇射撃を許可する』
国籍不明機が、傾いた。彼らと距離を保とうとして遠藤二尉はスロットルを絞った。雁行編隊は急激な左旋回に入り、追尾する要撃機もこれに続いた。それでも国籍不明機が長機の発するレーダー波から逃れることは出来ず、彼らにもそのための意図は無さそうに思われた。
『――国籍不明機の転針を確認。このまま領空を脱する模様』
国籍不明機が微かに機首を下げるのが見えた。旋回の結果、目に見えて落ちた速度を取り戻すべく降下に入ったのだと遠藤二尉は思った。再び開きゆく距離――それでもイーグルはレーダーで彼らを捕捉しつつ続き、双方はそのまま防空識別圏を越えた。
『――国籍不明機、領空より離脱する』
『――アスラン、帰還せよ。高度27000』
『――アスラン01、了解』
「アスラン02、了解」
横転に入り、そのまま高度を下げる早乙女機……裏返しになったイーグルの機影を目で追いつつ、遠藤二尉も長機と同じ操作をする。誘導に従い回廊に入り、雲海を縫うようにさらに30分も飛べば、二機は元来た北海道の海岸線を越え、基地のある千歳に帰る途上、右手に函館市内の全容を見下ろすことになる……
「――綺麗……」
『――02、どうした?』
「いえ……何も」
矩形の闇の箱に、宝石を詰め込んだかのような光の瞬きと奔流――函館の街は、それまで二人が遠く離れた空で直面した緊張など、全く感知しないかのように夜の営みを続けていた。そうだ……私は、あの街を守るために先刻まで遠い空で孤独に耐えていたのだ。
『――02、燃料残を報告しろ。こちらは1000』
「02、燃料残……870」
『――大分使ったな。お前が先に着陸しろ。間もなく着陸コース……アスラン編隊、これより編隊を解く……いま!』
右前方を飛ぶ早乙女機が速度を落とし、遠藤機に先頭を譲る。先頭に出た遠藤二尉の眼前には、任務を果たしたイーグルを迎えるべく瞬き始めた千歳の滑走路が、漆黒の大地の果てにその全容を見せ始めていた。着陸に必要な操作を続けるうち、遠藤二尉の眼には込み上げてくるものがあった。帰れるという安堵が生んだ、気の緩みだと感じた。
日本国内基準表示時刻10月21日 午前3時34分 鳥取県境港市 情報本部直轄 美保通信所
『――レーダーサイトより報告。国籍不明機、防空識別圏を離脱。今なお北へ向けて飛行中』
他分割表示に転じた情報表示端末の一端は、日本海上から北海道周辺海域に跨る海空自衛隊の配置をリアルタイムで表示していた。それらは通信所による「追跡」が始まったのと期を同じくして躍動を始め、作戦単位の所在を表す記号の数は未だ増え続けていた。
通信所所長の眼は、日本海上で点滅する輝点に注がれている。「国籍不明機」こと爆撃機が適正なコースで日本の領域へ侵入を図れるよう誘導電波を発信する「移動ビーコン」――不審船は今や海上自衛隊の哨戒機に捕捉され、遅れて急行して来た護衛艦の追尾を受けている。
『――哨戒機からの画像が電送されていますが、上げますか?』
「頼む」
所長席の専用端末にアップロードされてきた動画は、哨戒機に接近され北へ針路を転じた工作船の姿を、赤外線画像を以て鮮明に捉えていた。日本海の荒波を蹴立てて遁走に転じたその船足の荒々しさは、ありふれた遠洋漁船のそれではなかった。今頃東京の情報本部は、これの分析に大わらわだろう。
『――小松306、帰投します』
石川県小松基地を発進した2機のF-2戦闘機は、工作船に対する恫喝だった。対艦ミサイルを抱えて自船の直上を航過する戦闘機の姿を目の当たりにした時、彼らの心境は如何ばかりであったか……。
端末の表示する戦況が正しければ、「ロメオ」の爆撃機はすでに彼らの祖国への帰投針路を執り、工作船は最終的には日本の領海外に脱するだろう。明確な攻撃の意思を伴った作戦行動か、あるいは示威か……彼らローリダ人の意図が如何なるものであれ、彼らの計画が夜の内に頓挫したことは確かだった。
傍らに控える副所長を横目に見遣り、所長は言った。
「君は、此処に来てもう半年だよな」
「そう言えば……そうであります」
「家族のところには帰ってやってるのか?」
「残念ですが……着任以来一度も」
ばつ悪そうに俯く副所長に、所長は苦笑した。
「帰ってやれよ。許可は出しておくから……今週末とかどうだ?」
「宜しいのですか?」
所長は頷いた。副所長の弾んだ声が続いた。
「今週の日曜日……娘の運動会があるんですよ」
「そうか……丁度いいじゃないか」
所長もまた、家に残して来た息子の顔を思い浮かべた。息子の通う小学校は、既に先週に運動会を終えていた。国防という事業は、それに携わる者に決して埋め合わせの出来ない犠牲を強いるものだ。だが、その犠牲で救われる命がより多いこともまた事実だと、彼は思っている。その自分の考えが正しいかどうかは、また別に思案の場が持たれるべきだろう。とにかくこの夜、日本にとっての脅威は取り除かれたのだ。決してその全容が公にされることの無い、自分たちと彼らとの「対峙」――先刻までの緊張もまた、数多重ねられた対峙の日々の中の、ありふれた光景でしかない。
所長は従兵を呼んだ。
「コーヒーを、淹れてくれないか……二人分。ミルクと角砂糖をたっぷり添えて」
在るべき静謐さを取り戻しつつある電子の空間。家に在って、安眠を貪る我が子の寝顔を、父は思う。