第二章 「英雄とその姪」
ローリダ共和国国内基準表示時刻12月20日 午後1時32分 首都アダロネス 「ルーガ総研」
ローリダの陰極線管方式とは違う平坦な投影画面の中で、円卓を挟んだ討議が続いている。険しい顔を崩さない「ニホンの識者」とやらに囲まれてもなお、ロルメス‐デロム‐ヴァフレムスの論調は明快に聞こえた。
『――最大の問題は、今次の紛争に至るまでに、ローリダ共和国と称する武装勢力が物心両面で我が国とスロリア亜大陸に多大なる損害を与えているという事実にあります。我が国単体に限定すれば、僅か一週間の内に1500名に達する邦人がその生命と尊厳を奪われるという事態は、我が国憲政史上未曽有の事態であり、そのような非道を容認し、あまつさえ主導するような勢力との融和など有り得るでしょうか? これは単に国家間の利害を越えて看過されるべきではなく、我が国政府国民一丸となって武装勢力の鎮撫に傾注せねばならないと私は考えるものです』
『――鎮撫というのは穏やかな表現では無いと私は思う。だいいち我々の事を指して武装勢力と呼ばれるのも納得がいかない。この映像を見る者に、私の祖国がまるで帰る場所の無い浮浪者の如き集団という印象を与えてしまうではないか? 司会者に確認したい。この番組はそのような意図を以て企図されたものなのか?』
『――それはですねロルメス議員、我が国と議員の祖国との間に正式な国交がないからなのです。正式な国交さえあれば、政府は議員の祖国を正当な国家と認め、それなりの対応と配慮も生じるでしょう。然しそれ以前に我々があなた方について持っている情報は余りに少な過ぎる上に、政府も国民の多くもあなた方の行いに警戒感を抱いているのが現状なのです。国交正常化は不可能とは言わぬまでも当面困難ではないでしょうか?』
『――今回の事態を、スロリア亜大陸全体を包括して見れば困難かもしれない。しかし我が共和国とニホン、両国の二国間の問題に限定すれば、国交を結ぶに至る問題の解決はそれほど困難ではないと私は考えている。つまりあなた方は、相互の勢力圏に明確な一線を引くことを望んでいるのだろう? 我が共和国もニホンの実力を目の当たりにした以上、遠からずその方向に靡くと私は思う。まずはそれを決めるべきだ』
『――議員、私の意見は違いますね。まず必要なのはローリダ国内の体制の変革です。私はローリダが日本のように、中小国にもその領分を侵さない配慮を示せるようにならない限り国交の自由は難しいと思いますよ。そこでロルメス議員に聞きたい。あなたの祖国は、国民に政治活動への参加を認めている国ですか? 公平な司法と税制が機能している国ですか? そして日本の議員内閣制とあなた方の元老院とやらとの間の相違について、議員の意見をお聞かせ願いたい』
『――ニホンの議会制度は、私が学んだ限りでは我が共和国のそれとは山と海ほどに違う。だがどちらが優れているかと言えばそれはニホンの議会制度の方が優れていると思う。将来の国家の指導者になるかもしれない人間を、国民自身が直接選ぶことが出来るという点は、我が共和国も大いに見習いたいところだ』
『何言ってんだこのアホ 古代の専制君主国家みたいなもんかと思ったら違うのね
正直タイプだわこの人 おべんちゃらキタ━━━━(°Д°)━━━━!!
運営もっと突っ込めよ このすました顔ムカつく 異世界の北朝鮮 ローリダ
さっさと賠償金払えらコラ
こいつマジで死刑にしろよ 。゜ゞ(゜д゜)ペッ 舐めてんのかコイツ
なにこのリア充っぽい顔?
こんなの生かしてる自民党は売国奴
( °д°)ハァ? 何言ってんの? 共和党工作員ばっかwwww
リアルローリダ人が見られると聞いて 司会仕事しろや!
来場者数190000人とかマジかよ
生きて日本から出すな! ( ゜,_ゝ゜)バカジャネーノコイツ
士道さん出せよ この人は話がわかりそうだな
この早さなら言える 会社の金横領した
1500人も殺されてるのにこんな企画ありえんて
ヌコ動にローリダ人とかwww 』
画面の上を、まるで落ち葉が川面を流れる様にスクロールする判読不能なニホン文字の羅列。初めて見た時点ではあまりに煩わしく不愉快に見えたそれが、収録時は生放送であった討議に見入る視聴者の、いわゆる「書き込み」であることを知った瞬間に愕然としたのを、ルーガ‐ラ‐ナードラは今でも覚えている。この討論のように、ニホンでは双方向的な情報交換の場が発達していて、このような場を使い政治家から市井の一般人までが意見表明をするのは勿論のこと、国家の最高指導者たる内閣総理大臣ですら国民と「対話」することもあるのだとロルメスは教えてくれた。ロルメスが「蛮族の地」ニホンより生還を果たし、ナードラと再会を果たしたときの出来事だ。
――それ以来一年近く、「ルーガ総研」を舞台にした「記録作業」は続いている。
「――日本には、ネットカフェというものがあって、そこでは多くの人々が犬小屋程度の広さでしかない空間の中で自由な時間を過ごしたり、夜を明かしたりする……大抵が夜遅くまで仕事をしていたり、歓楽街で遊んでいたりした結果、彼らの家に帰るための電車が無くなってしまった人たちだ。中には家を持たず、単純労働で日銭を稼いではそれを糧に方々のネットカフェを泊まり歩いている浮浪者の様な者だっている……」
離れてタイプを打つ音は、それが始まってから止むことなく続いていたが、当事者たちにとって決して雑音にはなっていなかった。
「しかし、乗合自動車があるのでしょう? タクシーとかいう……」
「タクシーの運賃は高いんだよ。大抵のニホン人は懐具合がいい時とか、緊急に迫られた時ぐらいにしかタクシーを使わない……ネットカフェには色々なものが揃っている。酒以外の飲物を自由に飲むことが出来るし、ちょっとした食べ物も置いてある。中には洗濯や身体を洗うための設備まで揃っている。官報や雑誌、新聞もあるし、部屋ごとにパソコンが置いてあるから、そこに居ながらにして暇潰しは勿論、ちょっとした事務仕事もできるし仕事を探すことだってできる……中には会議室まで置いているネットカフェもあるんだ」
「パソコン……ああ、ニホン人にとって身体の一部と言ってもいいあの機械の事ね」
ロルメス‐デロム‐ヴァフレムスという男は、かくも情熱的な人物であっただろうか?……と、内心で目を丸くするナードラがいる。確かに雄弁な青年だが、彼女の記憶を辿ればそれが政治の場以外で発揮されたことは殆ど無い。そのロルメスをしてあの国のことについて語らしめる時、青年は聖典にある、キズラサの神に導かれて天界の理想郷を垣間見た聖人の如くに頬を紅潮させ、気を昂らせている。だがそれは、ナードラにとって決して不快な印象を与えるものでは無かった。
――無期限の登院停止処分の身ではあるが、ロルメスの有する予定の中に、怠惰と呆然たるを許される時間は実のところ殆ど存在していない。むしろそれまで元老院に向かっていたロルメスの足がそれ以外の場所に向くことが出来る様になった分、ロルメスの身体と才幹に対する需要は共和国ローリダ全土で高まっているとも言える。元老院の平民派、ヴァフレムス家の支持者らとの会合、地方都市における自営農民、労働者の集会、スロリア出征兵士の名誉回復のための集会等、それらに出席を求められる度に名門ヴァフレムス家の当主は慌ただしく立ち回り、その度に必要とされただけ、あるいはそれ以上の結果を出していた。
「最近、関係部局の官僚が我が家にも来るようになってね、院外での活動を慎んで欲しいと言って来ている。さらに彼らが言うには僕は余計な事をしているそうだ。徒に事実と異なる流言を振り撒き、国論の統一を妨げている……とね」
「……で、あなたはどう答えているの?」
「それでは一緒に現地へ行こうと言うことにしている。時間はふんだんにあるからね。僕に同行し、アダロネスの外に広がる現実を僕と一緒に見て欲しい。議論はそれからやろう……と、そう答える度に、彼らは何も言わずに帰っていく……」
そこまで言って、ロルメスは顔を曇らせたものだ。彼の意趣返しの結果が不本意なものであることの、それが何よりの証明であった。ただ、彼の言を容れて実際に平民の集会に接した若手の官僚が幾人かいたらしく、それ以来彼らは中央に在って在野のロルメスと密接に連絡を取り合う間柄になっている……
「――基本的に、ニホンでの生活はケイタイ、もしくはタブレットという平板の通信機器だけあれば事足りる。あの手のひら大の機械で情報の収集や娯楽の提供、買い物の補助まで何でも間に合うようになっているからね。ニホン人の中には必要最低限の家電以外にはケイタイしか持たずに生活している者が大勢いる。パソコンを持つのは仕事に必要か、あるいはそれが趣味というだけで持っているような人々だ。丁度我々ローリダ人でも趣味人が音響機器に熱中するのに似ている……」
「…………」
ナードラのたおやかな、だが決して華奢では無い白い手が傍らの録音機に延び、何かが弾けるような音と共にテープの回転が止まった。
「……今日は、ここまでかい? ナードラ」
「御免なさい」
ナードラは微笑み、手元にある黒っぽい板状のものに触れた。形のよい、尖り気味の指先が複雑に組み込まれたボタンの一角に触れるや、壁の一面を埋め尽くす液晶端末の一枚に光が宿り、次の瞬間にはロルメス自身も見覚えのある人影を一人、それは映し出した。ここアダロネスより遠く離れたニホンの首都東京。その政経の中枢たる総理大臣官邸に於いて、閣僚を従えて会議室のソファーに着座せんする、細身の男の気難しそうな表情――
「サカイは理知的な人物だ。外見に似合わず機転が利くところがある。あのジングウジやシドウのように好戦的な人物というわけでもない。彼の首相就任で、戦乱は当面遠のいたと思うけど……」
男の姿に目を細め、ロルメスは言った。それこそが実はナードラがニホンに関し、知りたいことの一つであった。坂井首相を始め会議に臨む坂井内閣の面々……その中には幾人か、ナードラも知る顔も見受けられた。
「ランドウとモモイは内閣に残ったようね……」
「モモイのことは掴み処が無くてあまり判らなかったが、ランドウ……彼は人物だよ。このまま行けば彼は間違いなく首相の座に就くだろう」
「あの強硬派が……?」
と、ナードラは眦を心なしか険しくした。あの「スロリア戦役」から三年……これまで「取るに足りない蛮族の一支族」的な扱いであった頃とは、共和国ローリダの、特に指導層のニホンを見る目は大きく変わりつつある。かつての高等文明の恩恵から遠く離れた、唾棄すべき下等種族という見方は殆ど息を潜め、強大な工業生産力を背景に日々最新の技術を生み出し、高度な社会構造を維持し続けている「先端の民」――共和国の学識者の中には帰国した捕虜から聞いた話を総合した結果としてニホン人のことをそう呼び表す者もいるという……但し、ナードラの精神の片隅に巣食う、不本意な現実に対し皮肉を振わずに居られぬやや稚げな部分が、そのような「先端の民」が、生産的な各分野に於いて高度な創造力を発揮する一方で、(ローリダ人にとっての)道徳の枠を軽々と越えるような汚猥さを、文化の面において少しの躊躇も見せることも無く曝け出してしまっているのはどういうことであろうか?……と、冷笑にも似た感慨を惹起させてしまうのだった。
「――ニホン人はそれを、表現の自由だと言っているのです」
ナードラより、「スロリア戦役」における停戦交渉の一切を引き継いだ元老院議員エルナス-ガ-ロ-ファナスは、帰国後に設けられた夜話会の最中、外交交渉の経緯を身内の者に報告する過程でそう語り、そんなナードラの疑問に答えて見せたことがある。
「――ランドウは外交の徒としては極めて手強い相手でしたが、外交とは関係の無い世間話には快く応じてくれたものです。それで私は、彼にひとつ意地悪な質問をしてみることにしたのです……貴国には男女の営みそのものを映像にした媒体が市井の何処かしこにもあるそうだが、それは本当なのか?……と」
「それで、ランドウは何と答えたのだ?」
別の出席者が聞き、ファナスはそれに応じた。
「ランドウ曰く……男と男のものもある。但し自分にはそちらの気は全くないが……と」
「――――!?」
交渉の土産話も兼ねた、気の利いた冗談のつもりでファナスは言ったのだろう。彼の目論見はその半分は成功した……但し、サロンのごく数名の貴人が絶句した直後に眦を吊上げ、憤然として会話の輪から離れて行ったことを除いて……ナードラはといえば、そのままファナスの話に耳を傾ける側に留まった。
「当然私は言いました。我が共和国ローリダでは、そのようなものを売り買いすることは勿論、作ること自体が重い罪となる。このようなものを許していては風紀が乱れ、道徳や信仰を軽んずる風潮がますます強まるばかりではないか?……とね。それに対しランドウはこう答えました。別に文化や道徳の退廃を容認しているわけではない。ニホンではこれを表現の自由と呼ぶ。これは数多い我が国の宝の中の一つだ。これ無くしてニホンの社会は成り立たない……とね――」
『――表現の自由、言論の自由、出版の自由……思想、良心の自由……信教の自由……学問の自由……』
ファナスの口を通じて知ったニホンの言葉を、ナードラは脳裏で反芻する。それらの言葉の何れも、ニホン人の信奉する憲法なる最高法規に記されている言葉だった。そしてナードラは、彼女自身の国の有する、如何なる法規の中にもそれらに類似する言葉を見出すことが出来ずにいる。ナードラは思う。国民の代表たる元老院議員によって運営されている筈の共和国ローリダに、それらの言葉が無いというのは不自然なことなのではないのか?……と。その彼女を現実に引き戻したのは、切り替わった端末上、会議室から一転し、官邸地下の専用室で記者会見の壇上に立つ坂井総理に投掛けられた記者の質問であった。それはナードラが初めて目にする総理官邸の緊急記者会見の一幕だ。遡ること四日前に起こった事件の続報、ニホン人が乗った豪華客船が銃で武装した暴徒に乗っ取られ、ニホン人に死者が出たということだが……
『――総理! 現在進行中のキナレ‐ルラ号の件について一言お願いします』
『――テロリストには譲歩しない、というのは我が国不動の方針であります。この点、グナドス王国にも同意を強く求めていくものであります』
『――グナドス政府は、投降したシージャック犯を、関係国の刑事法が適用されない第三国に出国させるという方針を崩していないようですが?』
『――我が国政府は、当然これに抗議します。なおこれは、今回の件で我が国と同じく死者を出したエウスレニア政府と協同した方針であります』
『――日本側の対処状況について一言』
『――現在、我が国はセルラン海上に航空護衛艦を急派し、当事国の了解の下、当該海域の警備行動に入っております……以上です』
『――それは総理ご自身の判断によるものなのでしょうか?』
『――そうです。あらゆる情報を精査分析した上で、私が命令しました』
「……確か、ニホン軍の指揮権は総理大臣が握っているとか」
「そう、総理大臣は軍の最高指揮官だ。制服組は彼の指揮を補佐する立場でしかない。制服組で最高の役職が参謀長だからね……確か、統合幕僚長といったか」
「軍に不満はないのかしら?」
「ナードラ、軍が政府に不満を述べること自体、ニホンでは有り得ないことなんだよ。我々とは違う」
「…………」
沈黙もそのままに、ナードラはロルメスを見返した。「我々とは違う」……此処ではそれは、ニホンの優位とローリダの劣位を表す意味で使われている。ロルメスの話を聞く度に、それはナードラの胸中で国家の行く末に対する危機感となっていく。
「ロルメス、ノドコールの件についてはどう思う?」
「二年後に住民選挙だったか……ぼくが『スロリア戦役』前から、ノドコールからの西進に反対だったことは知っているだろう? ノドコールをニホン人に明け渡せとは言わないが、原住民の生存を保障する方向に転換した方がいいと思う。それもすぐに」
「でも、現に原住民とローリダ人移民との間で衝突が始まっている……つまりはこの際ノドコールが完全に共和国ローリダの支配下にあるという既成事実を作っておいた方がいい。そうすればニホンも住民選挙の実施を諦めるだろう……というのが外交部及び植民省の見解よ」
「…………」
ロルメスは押し黙った。ナードラの言葉が、その裏にすでに共和国がノドコールに介入を始めていること、それが効果を上げ始めていることを示唆するものであるのを感じ取ったからであった。
「ニホン人は引き下がるかな……」
「それは、あなたが一番判っているのではなくて?」
「まあね……」
それに対してはこれ以上何も言わず、ロルメスは微笑んで席を立つ。此処に居ることだけが今日の彼の予定では無いことを知っているが故に、ナードラはそれを止めなかった。完全に男性の影が消えたオフィスで、ナードラは速記を担当してくれた女性に向き直る。手際良くタイプライターのテープを巻き戻した後、無言のまま飲み掛けの茶のカップを片付け始めた彼女に、ナードラは話し掛けた。
「タナ、私はこれから植民省に行って戻ることはないだろう。だから今日はもう上がって構わない」
「実は、ミレス少佐に資料の整理を頼まれているので、もう少し此処に居たいのですが」
「そう……」
頷き、ナードラはタナと名を呼んだ女性を見遣った。自然な形で束ねられた金色の髪は、彼女が二年前に事務員として此処に来た頃よりもずっと延びていたし、その頃よりもずっと家庭人らしい落ち着きを漂わせていた。かつては志願看護兵としてスロリア戦線に赴いたことのある頃からの縁も含めれば、彼女とは優に三年の付き合いということになるだろうか……?
「ミヒェールも直帰だと思うから、戸締りの方は宜しく頼む」
「はい」
外出する準備を始めたナードラに、タナは聞いた。ニホン人は、ノドコールからローリダ人を逐った後、どうするつもりなのだろうか?……と。ナードラの答えには、一瞬の躊躇も無かった。
「……彼らは、スロリア全域を自国の勢力圏と見做している。独立宣言ぐらいはさせるだろうが、それ以外の全てはニホンの掌の上だ。所詮我々のやることと変わらない」
ローリダ共和国国内基準表示時刻12月20日 午後2時42分 ローリダ群島北東部ナディカ地方
アダロネスを発ってから9時間を少し超えた頃には、車窓からは舗装された道路は完全に消えた。
不快に揺れる車内で、時によっては車道から逸れ掛ける車体を制御すべくハンドルを握る……否、必死で掴むといった方が実相に合っているかのように思われる。単に地肌を突き固めただけの車道は、本来不整地走行に適さない筈の民間用乗用車の車体に過度の負担を強い、それだけ決して頑健とは言えない運転者に身体的、精神的な焦燥を強いるのだった。父の言うとおり、もう少し大きく、車重のある車を買えば良かったか……今や運転者の脳裏にはそのような後悔すら過ぎり始めている。運転者の父はローリダの上流社会でも名の知れた車道楽で、運転者たる彼女は幼少時より度々父の助手席に乗せられ、首都アダロネス内外のドライヴや草レースに連れ出されたものだった。それでも、年齢にして未だ二十代前半の彼女が運転免許を取得したのはつい二年前の事であった。娘は父の趣味に「毒される」ことが無かったし、その娘自身自分で車を運転する必要をつい二年前まで感じなかったということもある。
油断すれば、張り詰め、乾燥した空気が冷気と土埃とを運転席まで運んでくる。それが嫌で舗装道を出てからというもの窓を閉め切りにしている筈が、車内に籠るオイルや排気の臭気に堪えられず自ずと開閉用ハンドルに手が延びてしまう。申し訳程度に付いている空調など、始めから信用していなかった。従って、巨大なトラックや乗合自動車と行き交う度、車内に吹き込んでくる埃や排気に閉口する彼女がいる。同時に何処からか漂ってくる堆肥の臭い。とうに刈り取りの終わった麦畑の只中に点在する小屋と倉庫の連なり。道路の上、資材や鉱石、あるいは家畜を満載した古ぼけたトラックの車体。車体の内外に溢れん程に乗客を満載した乗合自動車……それはまさに、ここ新世界に比類なき文明国にして強国たる共和国ローリダの、農村の風景――
――共和国陸軍少佐 ミヒェール‐ルス‐ミレスは路肩に車を止め、地図を開いた。慣れぬ運転で行程を確認しておきたかったし、単調かつ不快な道程に飽きたということもある。
「…………」
軍用の道路地図帳を捲り、これまで自身と愛車が駆けて来た道程と、これから自身が辿るべき道程を見出さんと彼女は目を細める。そして後者を見出さんとしたとき、ミヒェールの表情からやや余裕の色が褪せて行く……士官学校時代に、もう少し熱心に野戦教練――特に、地文航法――をやって置くべきだったか……などと彼女は後悔する。それから数分の熟考の後、道が無いのではなく、道筋が意図的に変えられていることに気付き、ミヒェールが愕然としたそのとき――
コンコン……コンコン……!
「…………?」
ドアのガラスを叩く、小さな、汚れた拳がひとつ――ミヒェールが運転席から見下ろすように眺めたそのすぐ先に、果物を盛った籠を抱えた女の子がいた。小さいながらも継ぎを充てた頭巾に長スカートというローリダの典型的な農婦の服装の女子。幼いながらもやつれきった顔立ちと埃に汚れた全身が、彼女の生活に、女の子であることを愉しむ余裕の無いことを無言の内に物語っていた。
「兵隊さん……これ買って」
言葉と共に差し出された籠の中身を、ミヒェールは注視する。所々が熟し、腐った果物……中には明らかに所々が割れ、何かに齧られた痕すら見受けられる――しかも、籠や袋を抱えて来たのは彼女だけでは無かった。
「兵隊さん、おいらのも買って」
「陸軍のお姉さん、あたしのがおいしいよ」
何時の間にか、砂糖の山に集るアリの様に路傍から道路に飛び出して来た子供たちが果物の籠や袋を抱き、ミヒェールの周りに集まっている。彼らの多くが一様に貧しく、薄汚れた身なりをしていた。あまりの光景にミヒェールは困惑し、一斉に投掛けられる同情を誘う言葉と切実な仕草とに気圧される――
「コラァガキども! 畑のモノを勝手に持っていくんじゃねえっ!」
怒声はそれを向けられた者を怯ませ、同時に声だけで追い散らすのに十分な威力を有していた。ミヒェールはその声の主を、嫌悪感に満ちた目で睨み返す。見ず知らずの女性にそれだけの感情を喚起させるだけの嫌味な響きを、怒声はまた有していた……果たして、木の棒を振り上げた肥満気味の男が、血走った目を剥き出しに子供たちを追い立てに掛かっていた。手入れの悪い頬髭、赤銅色の肌、シャツの胸や腕から覗く剛毛が、男の出自の粗野なることを貴族階級出身の女性士官に感じさせた。蛮声に追われ、果物の滓の入った籠やずた袋を放り出して四方八方に散る子供たち、男の獣のような目がミヒェールの方に向き、その蛮声の矛先をも彼女に向けた。
「何だテメエは? テメエがあのガキどもを嗾けたのか?」
「何ですって?」
「此処一帯のフレイコット畑はなぁ、全て元老院議員クラタタス‐デウ‐エドリクサス様の私有地だ。喩え腐って地べたに落ちた果実でもなぁ、他所者が勝手に持ち出すことは許されねえぞ?」
「…………」
表情を消し、ミヒェールは男を睨みつけた。最近利潤に目敏い貴族や富豪の間で、私領でのフレイコット栽培が流行しているという噂を彼女は父から聞いたことがあった。ルーガ一族とも親しいとある大富豪が、名も知れぬ異国向けに国外でフレイコットの栽培を始めて大成功し、それに触発されたが故の流行であるらしかった。ただし当のフレイコットは栽培と品質管理が難しく、まとまった利益を生みだすまでにはもう暫くの時間が必要であるとも聞く。あるいはフレイコットという作物自体、気候的にローリダの風土には合わないのかもしれない……
「…………」
男を睨みつつ、ミヒェールは軍用コートからさり気なく拳銃の収まった腰のホルスターをちらつかせる。元は深窓の令嬢と呼ばれた身ではあっても、無法者を怯ませる手段において、言葉よりも実力の顕示が有効であることを彼女は知っていた……そしてミヒェールの目論見は完全に成功し、男は舌打ちと共に踵を翻し、早足で彼女の視界から遠ざかっていく――
「――――」
安堵―― 一息つき、ミヒェールは再び乗用車のシートに身を沈める。ドアをロックするのも忘れなかった。チョークレバーを全開にしてスターターキーを捻りつつ、ミヒェールは内心で愕然としている。畑の管理人らしきあの男は自分が国防軍の軍人、それも士官であることを一目で察した筈だ……それなのにあの振る舞いはどういうことなのだろう? 私領こと貴族や富豪の私有地が、二〇〇年以上前のローリダ独立と同時に定められた土地所有の権利に則り、中央政府の介入が制限されていることをミヒェールは知らない訳では無かったが、彼のあの振る舞いは、明らかに政府の倦属たる彼女への礼儀を欠いているようにミヒェールには思われた。重い変速レバーを低速に合わせ、ミヒェールはクラッチを繋ぐ。前進に転じ、ゆっくりと道の中央に復帰しつつある車内、路傍の草陰からこちらを伺う子供たちの影を、ミヒェールの目は見逃さなかった。車のタイヤが腐った果実を踏み潰して行く感触が、何故か自分の身体のそれの様に感じられた。
車を進める内に麦畑の装いは失せ、車は山間部の曲線の続く道に入った。
家畜を放牧するための牧草の生い茂る山々が、かつては雑多な木々が生い茂る山林であったことを、ミヒェールは歴史関係の書物から知っていた。その背景として建国からおよそ一〇〇年後に急速に進行した産業、さらに言えば重工業の発展を挙げねばなるまい。開拓と同時に高まる建築用資材への需要。外洋へ乗り出す為の巨船の材料としての需要。家庭用、製鉄の燃料としての需要。あるいは家畜の肥育、石炭や希少金属の採掘のための濫開発に伴う伐採――それらの理由の発生に比例するかのように山は拓かれ、結果として大半の山腹から木々は失われるに至った。それでも辛うじて回復が進行するに至ったのは、植民地の獲得によって国内産より安価な木材を入手できるようになったこと、そして保持力を失った剥き出しの山肌が風雨に晒された結果、地盤の崩壊を来たすという悪影響が顕在化するに至ったことが大きいのかもしれない。その緑化事業が進んでもなお、山間部の緑の回復が大規模に進まないのは、やはり木材の供給地としてよりも耕作地や牧草地として利用した方が、地主にとってもたらされる利潤が大きいということもある。そして政府は、それに干渉する法的根拠を有してはいない。
「…………?」
何度目かの緩やかなカーヴを越えたところで、ミヒェールは山間部を縫うように作られたあるものを見出し、愕然とする。繁茂する草木に覆われた鉄道とそれに寄り添うように作られた駅舎らしき小屋の様な何か……荒廃の具合が、それらが使われなくなって既に十年単位の時間が過ぎていることを一目でミヒェールに教えてくれた。その昔、共和国の全土にローリダ人の手が入っていなかった「旧き善き」時代、開発が遅れていた西部の辺境に大量の物資、開拓者を送り込むために敷設されたという群島横断鉄道の血脈の一端。それらは時を経る内に次第に開拓の手段から民衆の生活の足へと変わり、東西をつなぐ物流の基幹ともなった。そして自動車や他の交通手段の普及によって一部の主要幹線を除きその役割を終えた……ということになっている。だが実相はそうではないことをミヒェールは知っている。急速な工業化の波に乗り政財界に対する影響力を高めるに至った資本家たちが、その傘下の自動車産業や空輸、海運事業を拡大すべく、競合する存在として官民の鉄道事業を敵視するようになったのだ。そこに農場経営の目的で鉄道の敷設地域を買収した新興の富豪階層が加わった。共和国建国以来の私有地への国家の不介入の理念を信奉する彼らにとって、鉄道は国家による彼らへの干渉の象徴であるかのように映ったのである……彼ら資本家、地方領主たちのロビー活動の結果として、「運輸産業の自由化」、「財政の健全化」、「合理化」の名の下で多くの地方路線が廃止され、「表面上は」精緻な道路網が整備されるに至っている。そう、「表面上」は……地図に無い道路を引き、計画通りに道を啓かないことで利益を得る者たちと、実際に道路建設に当たる工部省国土整備局の担当官との間で、どれほどの金銭が流れることになったのだろうか?
「肩を竦める巨神」では、これを勝利と言っていたっけ……昔読んだ小説のことを、ミヒェールは脳裏で反芻した。小説の舞台は未来、競争の撤廃と富の分配を謳う中央政府による交通網への統制が進んだ時代、青年実業家の主人公が同志を集めてそれに反抗し、幾多の艱難辛苦を乗り越えた末に独自の自動車交通網を完成させる――この物語の底流に在る思想は一貫している。競争と闘争こそが社会を活性化させ発展させる唯一の道筋であり、成功者はその獲得した富や利益について政府の干渉を一切受けてはならない。競争に敗北した者、もとより競争に参加しない(できない)者に自身の獲得した富を分配するなど、社会を停滞させ、退廃させる結果しか生まない……今よりおよそ半世紀前にローリダで出版されたこの物語は、新興の資本家層や貴族階層に爆発的な賞賛を以て迎えられ、今や資本家の「聖典」として軍人における「明白なる天命」と同等の地位を不動のものとしている。当のミヒェールも以前、士官教育の教養の一環として「肩を竦める巨神」を読み、その物語と思想に共感した時期があったものだが、今の彼女には違った感慨があった。
『――タナカ‐カクエイが今のローリダの状況を見たら、何と言うだろう?』
「スロリア戦役」の過程で生じた個人的な関心もそうだが、ルーガ総研における研究の過程でニホンの歴史を扱ううちに、ミヒェールの興味は一人の人物に集中している。いち早く都市部と地方部の経済格差の是正に着目し、都市部への資本と人口の偏在を是正するべく各種の大胆な施策を実行した古のニホンの宰相。当初は史料の端々に出てくる彼に関する挿話の面白さに惹かれ、軍事史の研究の傍らで個人的に彼の事績に関する研究を始めたものだが、最近では専らこちらの方に偏りつつある……
「ニホン列島改造論」――首相就任に当たり、彼がニホン国民に披歴した政策は正にこの一言に集約されていると言えるかもしれない。中央の意思を以て列島を構成する島ごとに分断された国土を橋梁や高速鉄道で接続し、国土を農業地帯と工業地帯に大きく二分、個々の地方の工業化を推進し、人口の移動と並行して都市部への負荷を軽減する――大まかな内容はこうだが、さらに細部を覗けば数値的な緻密さと遠大な計画性に驚愕の念を抱いてしまうミヒェールがいる。だがそれ以上にミヒェールが驚いたことには、この「ニホン列島改造論」を構想し、実行に移したタナカが、ニホンでは決して富裕な階層の出身では無く、国家を指導する者として適格な教育を受けた形跡が、その経歴の中に微塵も見られないという点であった。つまり彼は裸一貫で政治家としての基盤を築き上げ、さらにはニホンという国家の頂点に立ったことになる。与えられる地位には、それ相応の教育が伴わなければならないと考える人間が多数派の共和国ローリダでは、到底有り得ないことだった。
『……このような人物が、ニホンでは国家の指導者になれるのか』
ミヒェールには、新鮮な驚きがある。タナカの首相在任期間は僅か二年、彼は自ら披歴した政策の半ばを成し遂げたところで失脚し政権の座から降りたが、彼の計画と方針はその後に続いた彼の後継者たちに綿々と受け継がれることとなった。その点だけでも、タナカは彼以後のニホンに大きな影響を与えた人物と言える。事実ニホンはタナカが敷いたレールの通りにその国土の開発を継続し、ついには彼らの「前世界」において、経済大国と称されるまでにその国力を伸長させることになるのだから……
車は鬱蒼と茂る森の麓、そこを一直線に貫く小路を抜ける。向かう遥か先にミヒェールが目指す場所がある。森を出、草の匂いの強い風の漂う中を、藁や飼料を満載した馬車と行き交いつつ家屋の連なりを越え、村の奥に在る広大な平屋建ての校舎の下段に隣接する運動場に入り込んだ時、狭い運動場を見下ろす花壇にいた人影が運転席の自身を凝視するのをミヒェールは感じた。此処に来る度、あの娘に冷たい眼差しを向けられるのは何時ものことだ。自分の来訪をあの娘が心から喜んでいないのには、もう慣れた……それまで外でボールを蹴って遊んでいた子供たちが、突然の闖入者に気付き、遊ぶのやめて此方に駆け出してくる。
「すごいや、自動車だ!」
小さな影と歓声がエンジンを止めた車を取り囲むのに、時間は要さなかった。物珍しそうに車体に触れ、運転席から出てトランクから大きな鞄を取り出すミヒェールを、森で妖精の女王でも見出したかのような眼差しで見上げる。このような辺境では、車すら一生に一度か二度見ただけでそれ以上の文明の利器に触れることも叶わずに老い行き生を終える者が多い。ミヒェールもそれを知っている……それが、「高等文明の担い手」たるを喧伝して止まない共和国ローリダの、拭いようのない現実。
重そうに鞄を抱えつつ花壇、そして校舎へと続く石段を登る。顔を上げ、ミヒェールは花壇の少女に呼び掛けた。
「リュナ、変わり無いようね。良かった」
「何の御用ですか? 少佐さん」
それだけ言って、関心など無いという風にその少女はジョウロを抱え花壇の花々へと向き直った。きりっと締まった眉に、意思の強さを感じさせる卵型の眼。細い顔立ち、ややふっくらとした頬には、この土地特有の寒気に晒され続けた故か赤みが宿っていた。銅色の髪の毛は長く、背中の部分で一本に、太く編まれて肩越しに胸へと回されている。髪の先端を束ねる地味なリボン飾りに、少女が本来は控えめで、堅実な性格の持主であることをミヒェールは悟る。図抜けた背丈といい大人びた物腰といい、運動場の子供たちに比べても少女は明らかに年長であった。アダロネスならばとうに中等女学校に入っていてもおかしくない年頃だ。ミヒェールの足はそのまま花壇に続く教室へと向かい。事務机の上に鞄を置いた。何かひどく重いものを置くような響きを伴った音が、それを置くのと同時にした。
「少佐さん、それは?」
「学校へのお土産よ。将軍に頼まれたから」
「…………」
リュナという名の、その少女の眦が険しくなるのをミヒェールは察した。勿論、それを打ち解く必要も――
「ロート将軍は、校舎にいらっしゃるのかしら?」
「将軍? そんなものは此処にはいませんよ。校長ならいるけど」
「…………」
手厳しい指摘だとミヒェールは思った。手厳しいが、この少女が嫌味だとは思ったことはなかった。それでも戸惑いがちに、ミヒェールは応じる。
「そうだった……そう、校長ね……ロート校長先生は何処?」
「…………」
無言のまま、少女は校舎の一点を指差した。そのずっと先で、大きな水車が山間からの奔流に乗って軽快に回っている。前回此処に来た時には修理中であったそれをミヒェールは思いだす。あの人はずぶ濡れで水車小屋の補修に取り掛かっていたっけ……その姿を目にした途端、ミヒェールは自ずと浮かんだ微笑とともに、首都で抱え込んだ煩悶の雲が一気に退いて行くかのような解放感に満ち満ちたものだ。
「ありがとう」と言うや、ミヒェールは水車の方向へ歩を速めて行く。呼び止めようとした少女の慌てた表情には、流石に気付かなかった。
目指す水車小屋の周囲には菜園と畑があって、最初にそこを訪れた時、素人ならぬ手入れの良さにミヒェールは驚いた記憶がある。何時どうやって、あの人はこんな手並みを習得したのだろう?……古の宗教説話に出てくる隠者の家をミヒェールは連想する。畑に隣り合う植物の林、その間を縫うようにミヒェールは歩く。支柱に絡みつく植物の所々に生えている見慣れぬものにミヒェールが気付き、眼鏡越しに大きな瞳を見開いたのはその時だった。赤い……丸い……果物? 少しそれを凝視した後、ミヒェールは再び歩き出す。目指す人影は、屹立する菜園の林を抜けたずっと先で、独り犂を揮っていた。ミヒェールは遠巻きに、男の様子をしばし見守る様にする。彼がかつてそうであったように前線で野戦服を纏い、双眼鏡を手に幾下将兵に指示を飛ばすよりも、こうして子供たちを教え導く合間、農夫の様に土と格闘する姿の方がさまになっているように思えるのは、はたしてあの人にとって失礼な印象だろうか? 喩えて言えばあのニホンの偉大な思想家、ヨシダ‐ショウインのような――
「…………」
犂を揮う手が止まり、農民帽を被った人影がミヒェールを顧みた。顧みられたミヒェールの表情が自ずと綻ぶ。センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートは、ともに戦場にいたあの時と変わらぬ微笑を以て来客を迎えてくれた。
「お久しぶりです。校長先生」
「将軍でいいよ。こうも誰彼に校長呼ばわりされては、誰が来たか判ったもんじゃない」
首に巻いた手拭で顔の泥を落としながら、ロートは言った。その背後について歩きながらミヒェールは思う。センカナス‐アルヴァクの背筋は、こんなに逞しいものだったかな?……と。それを口に出す代わりに、ミヒェールは苦笑と共に言った。
「しかし、校長であることを楽しんでいらっしゃるように見えますわ」
「楽しんでいるか……確かにね」
そう言いつつ、ロートはそのまま菜園へと歩を進める。先刻見た赤い果物にロートの手が延び、もいだそれを、ロートはミヒェールの鼻先に差し出した。
「…………?」
「…………」
「食べてみろ」とその微笑が言っていた。凝視し、匂いを嗅いだ後、恐る恐る歯を当ててみる。齧り付くやこれまで経験したことの無い酸味を伴った触感に、ミヒェールは思わず目を白黒させる。だが……決して食べられない、という感触では無かった。でも果物というよりこれは……
「これは、野菜……?」
「トマトって言うんだ。ニホンの野菜だよ」
「トマト……」
少し齧った赤い野菜を、ミヒェールはまじまじと見つめた。その間、ロートは我関せずとばかりに歩を進めて行く。ミヒェールは慌ててその後を追う。農園を縦横に走る小路を伝った先、校舎に隣接する小屋に、かつては共和国の英雄と呼ばれた男の住処はあった。花壇でミヒェールを迎えたあの少女が、何時の間に台所に立ってお茶を淹れる用意に取り掛かっていた。
「リュナ、そんなに世話を焼くことは無いよ。ここからは大人だけの大事な話だ。外で遊んでいなさい」
「…………!」
瞳を険しくして、少女はロートを睨んだ。ロートが姪たる彼女を子供扱いしていること、彼女の関知しない来訪者を望外に遇していることへの、それは強烈な反駁であった。その二人の「父娘のような」遣り取りが何か微笑ましくて、ミヒェールは思わず口を押さえて笑ってしまう。茶器と菓子の載った盆を無言で、かつ乱暴にテーブルに置くと、少女はそのまま二人に背を向け、小屋を出て行ってしまった。リュナの姿が完全に見えなくなったところで、ミヒェールは切り出した。
「リュナちゃんは、どうなさるお積りですか?」
ミヒェールが聞いたのは、ロートの姪に当たるリュナに村では享受できない、より上級の教育を受けさせる必要があるのではないかという意味での問い掛けであった。ロートは頷き、熱い茶を満たしたカップを取った。
「来月から町の学校に行かせようと思っている。当分あの娘の手料理が食べられなくなるのは残念だが……」
「では、アダロネスの学校になさっては如何です? 後見人や身元保証人に不足は無いでしょうし……」
「後見人? 誰が?」
「小官でしたら、市の教育委員会も苦い顔をしないでしょう……あの娘はどう思うかはわかりませんけど。この点についてはナードラ様も助力して下さると思いますわ」
「そうだな……あの娘もそろそろ直に首都を見てもいい頃だ」
ロートは寂しげな眼をし、湯気の溢れるカップに口を付けた。ミヒェールの目がロートの机に向き、そこに築かれた資料の山で止まった。それに気付き、ロートは微笑んだ。
「君が送ってくれたニホン関係の資料は興味深い。戦史関係は特に……」
ロートは言い、席から立ち上がった。そして机の引き出しから一冊の冊子を取り出す。
「はい、注文の品だよ少佐」
手渡された冊子を何度か捲り、ミヒェールは頷いた。
「……確かに。感謝します将軍」
「我が国は今まで、攻めることのみを考えていればよかった。だがこれからは、真剣に守ることを考えねばならない。アダロネスの連中には、多少の助けになってやれるかと思ってね……」
「……将軍、アダロネスの思考は、あなたと小官のそれとは少なからず違うようですわ」
「あなたと小官」……その一言に思わず力を篭め、ミヒェールは言った。
「ああ……わかっている」
ロートは両眼を瞑り、続けた。
「思考の均衡を失ったのだな。ドクグラム達はグロスアームに飽き足らず、ドミネティアスなんてとんでもないものまで作ってしまった。彼らは『距離の暴虐』さえ手に入れてしまえばそれで問題は簡単に片付くと思っているようだが、いざ再び戦端を開いた場合、ニホン人は全力でそれを潰そうとするだろう。それこそ、如何なる手段を使ってでも――それらが消えた後我が軍には、スロリアの頃から戦術的に何の進歩も無く、訓練も編成も行き届いていない、あの頃より一層に弱体化した通常戦力のみが残される」
「…………」
ミヒェールが言葉を失ったのは、アダロネスにいる彼女が豊富な資料と情報とで辿り着いた結論に、この辺境に身を置く青年が、彼女よりも遥かに少ない資料と情報量とで同様の結論に辿り着いた点に対してであった。確かに、従来の火砲を軽々と超越する射程距離と威力を有する地対地誘導弾は、「距離の暴虐」という表現が妥当と思えるほど強力な兵器だが、その開発と配備にはあの「神の火」と同様あまりに多くの資源と予算を必要とする。つまりはそれ以外の戦力の充実が等閑になってしまう――そこに、恐ろしい未来の暗示がある。
「ニホンはどう動くでしょうか?」
「彼らは動かない。ニホン人は行動を起こすに正当な手順と合意を重視する。我々が何も手を出さない限り、あと二年は彼らが軍事的に動くことはないだろう。但し、我々が裏表で何も目立った動きをしない、ということが前提だが……」
「しかし、このままではノドコールを失陥することになります」
「正直なところ、スロリアの戦闘で大敗を喫した以上、ノドコールからは退くしかないと私は考えている。何故なら現状ではノドコールを維持し続けることで発生するリスクの方が、失陥というリスクよりも遥かに大きいからだ」
「…………」
ミヒェールはロートを見返すようにした。それは決してロートの意見に対する失望とか、怒りを表すものでは無かった。彼の言うことは正しい。だが今のアダロネスの軍人の中には、それを正面切って堂々と言える人間は殆どいない。それに、ロートの言うリスクとは……
「……ノルラントはどう動いている? シレジナの情勢はあれから変化があったか?」
「現状では変化はありません。しかし、ノルラントの本土で大規模な召集が始まっているようです」
「成程……全力を投入するか……シレジナに」
ミヒェールは身を乗り出すようにした。
「……実は、我が軍内部にも不穏な噂が流れています。近々シレジナの守備軍から多数を引き抜き、将来生起するであろう新たな戦線に配することになるとか……」
「スロリアのことか……?」
ミヒェールは頷いた。
「シレジナの守備隊にはスロリア戦の生残りや元虜囚が多数含まれていると聞くが、ドクグラム達は都合のいい戦場をでっち上げて彼らを使い潰す積りなのか……!」
ロートの言葉には、若い怒りがあった。それはまた、自己嫌悪の響きも含まれていることをミヒェールは見逃さなかった。かつての部下たちを他所に、自分だけがこうして平穏な日々を送っていることに対する嫌悪の念――
「…………?」
苦渋の内の沈黙――何時の間にか、女性の白い手に握られた自身の手に気付いた時、ロートは目をパチクリさせながらその主を見返していた。そのロートの眼差しの先では、当のミヒェールが俯き、彼以上に困惑したかのように黙り込んでいた。次に顔を上げた時には、彼女の円らな瞳は、やけに湿っぽくなっているようにロートからは見えた。
「少佐……?」
「その……校長……いや将軍? 現在の軍の在り方に反感を抱いている者は官民にも多くいます。何も将軍が逸らずとも、歪みは彼らが糾してくれるでしょう。もちろん、微力ながら小官も……」
それは軍人としてよりも、誠意を尽くすべき相手を見出した女性としての、秘めた決意の表れであった。
校庭を掃いていたリュナ‐ミセレベス‐アム‐ロートが、連れ立って歩く彼女の叔父と彼のかつての部下であったという女性士官の姿を見出した時、リュナはそれまでの沈みがちな表情を消し、気丈さを装うべく目をいからせた。それでも二人の会話は、林間の風に乗ってリュナの耳にまで届いてくる。
「――将軍は、アダロネスにはお住みにならないのですか?」
「――此処のいいところは、それ程世に知られずに、世のためになることが出来る点かな……政治に煩わされることなく……」
「…………」
何時しか庭を掃く箒を持つ手が止まり、リュナは恋人の様に話し込む二人を見詰めていた。傍から見れば恋人に見えるというまさにその点が、少女には気に食わなかった。
「……それに、此処の子供たちの中にも、父親や親類が戦争で死んだ者がいる。私としては愚行の当事者の一人として、此処で自分にできることをやっていきたいと思っている」
箒を抱き、リュナは二人が近付いてくるのを待つ形となった。ロートとミヒェールはそのリュナの前で立ち止まり、共に怪訝な顔をする。
「どうした? 神妙な顔をして」
「ちょっと!……間隔が狭過ぎではありませんかおじ様」
損ねた機嫌を隠そうともせず、リュナは言った。見方を変えれば被保護者なりの保護者への甘えと取れるかもしれない。だが姪の指摘は的を射ていた。二人は互いに顔を見合わせ、互いに慌てて距離を取ろうとする……
「あ……何と言うか、迂闊だったな」
念押しの咳払い。二人の仲を喜び、冷やかすにはリュナの精神年齢はあまりに大人びているのかもしれない。そのリュナを前に、ロートとミヒェールの二人は悪戯を指摘された子供の様に頬を赤らめていた。
夜への先兵は夕日の全容を山の向こうに殆ど押し込めてしまい、山間の家々に陰影のヴェールを下し始めている。順調に行けば翌日の午前三、四時には家に帰れる。何より明日は、首都にある上流階級専用の高等学院で軍事学の講義をしなければならない。眠る時間は実のところ皆無に等しいがこればかりは仕方が無い。
灌木の林に両側を彩られた道で、ミヒェールは車を走らせていた。動く物を何も見出せないバックミラーに、ミヒェールは何気なく視線を移す。つい三十分前、センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートの学校を出た時には、そこには学校の生徒たる子供たちに取り巻かれて彼女を見送るロートと、彼に肩を抱かれ神妙に彼女を見送ったロートの姪の姿が映っていた筈だった。二人の間に親子と言う程の年齢差は無い筈が、傍から見ればごく普通の父娘に見えてしまうのは、やはりセンカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートにリュナの父親代りという存在意義をミヒェールも見出してしまうからなのであろうか?……であるにしても、ロートの父親ぶりが結構様になっているのがミヒェールには微笑ましくも、少し寂しかった。
「――今度は、ケーキをお願い出来ないかな。それすら見たことも食べたこともない子供たちが、この村には大勢いるのでね」
「――わかりました」
別れ際に交わした会話もそうだが、機を見て再び此処に来る意義をミヒェールは見出している。内外の軍事情勢を報告書や資料に纏めてロートに与え、ロートはそれを元にルーガ総研の研究に助言を与える――先年から軌道に乗ったルーガ総研の業務に、センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートは、今や欠くことのあたわざる存在になりつつある。
『ローリダ本土及び国外領における防御戦術論――参考:イオージマとオキナワの場合』
「…………」
微笑と共に、ミヒェールは助手席に置いた冊子を見遣った。ノルラントを始めとする列強勢力が共和国ローリダの勢力圏を削りにかかった時、冊子に記された理論が具現化するのはそう遠い時期のことではないのかもしれない……そのとき、陣頭に在って防衛戦を指揮するのは――
「…………」
軍制式の野戦服を纏い、海岸を見下ろす野戦陣地の指揮所から水平線に向かい双眼鏡を構えるロートの姿を想像したところで、ミヒェールは考えるのを止めた。それは余りに不謹慎な考えであるように彼女には思われた。何よりもそれは、あの人の望む静かな暮らしを根底から否定するかのような――
そのとき――
「車――?」
対向車の出現を予知していなかった訳では無かったが、この寂れた土地では有り得ないことのようにミヒェールには思われた。完全に闇に支配された道で、急に眼前に飛び込んできた一対のヘッドライトの煌めきを、間隔を取って遣り過ごす。両者が擦れ違ったとき、ミヒェールは対向車が一台では無いことに初めて気付いた。民間人では無い、軍用地上車が一、二……四両?――完全に擦れ違い、対向車の赤いテールランプが元来た道の向こうに消えたとき、反射的にブレーキペダルを踏んだミヒェールの背筋を冷たいものが走った。あるいは、胸騒ぎ?
『何なの?……一体』
急停止させた車内でハンドルを握り締め、ミヒェールは唇を震わせる。それは明瞭な声にならず、暗夜の静寂の深奥に取り込まれるまでも無かった。