第一章 「NSC」
日本国内基準表示時刻12月19日 午前8時10分 東京 内閣総理大臣官邸地下 官邸危機管理センター内
先導と後衛、二台の護衛車を挟んだ公用車は、速度を落とすことなく滑る様にカーブに達した。右手に明治神宮を臨み、それを通り過ぎれば新宿御苑と国立競技場の間を抜けて信濃町に達する。さらに走れば車列は首都高速道路の出口たる三宅坂JCTに達し、高速道路を下りることになるだろう。
思い返せば、神奈川県大磯の別宅を出たのが早朝の午前6時丁度であった。前夜からぱらつき始めた小雪は、結果としてそれほど積もることはなく止み、それが結果として幹線道路の円滑な通行に帰結している。地方の視察から別宅に帰り着いたのが昨夜の午後11時前。それから入浴と軽い夕食の後で首相への報告をまとめ、床に就いたときにはすでに翌日の午前2時を回っていた。
妻と家政婦に見送られて別宅の玄関を出、首相官邸から差し回された迎えの車に乗り込んだ時には、空は年末のそれに相応しく一片の明るさすら感じさせなかったが、それでも、時を掛けて高速道路を走る内に白んできた朝空は、雲ひとつない、透き通るような晴空へと変わって東京に入った内閣官房長官 蘭堂 寿一郎と彼の随員を迎えた。ただそれだけに肌に感じる空気の流れが冷たく、張り詰めたものに感じられたのも事実だ。外界から隔絶され、暖房の効いた公用車の車内にあってもそうなのだから、妙なものだと蘭堂には感じられた。その一方で彼はこうも思う。張り詰めた空気……それも当然のことかもしれない。確かに今日の「会議」は――
「『東邦スポーツ』が好きなのかね?」
「…………!」
不意に横合いから話し掛けられ、門島 騏一郎 警護官は頭上から電撃でも浴びたかのように背を正した。魁偉な図体に似合わず狼狽の色を隠さない彼を前に、護衛の対象たる官房長官の涼しげな眼差しが笑っていた。
「ええ……相変わらず面白い見出しが出ているもので」
と、門島は頭を掻く様にする。手にした新聞のその見出しには、一目でそうと判るCG合成の怪獣と船の写真に重なり、青地に白のゴシック体で次の様な一文が踊っていた。
「――ルジニア海の怪異! ローリダの原爆輸送船が大海獣に襲われ消息不明!!――」
突飛な見出しに、蘭堂は相好を崩して笑った。凡そ非現実的で大仰な見出しと記事は、「転移」前から伝統ある「東スポ」こと「東邦スポーツ新聞」の特徴だった。特に日本がこの異世界に「転移」してからというもの、同業他紙を圧倒するその突き抜けぶりには、一層磨きがかかっているように思える。
「……確か、昨日の見出しは『人面竜重体』だったよな」
「長官も御存じでしたか?」
と、門島も笑う。体躯の横幅が広く、短髪に赤銅色の険しい顔つきという、如何にも叩き上げの刑事といった外見の門島は、古くは大阪府警の暴力団対策部署から転移後は対外交渉使節の警護係、そして今や首相官邸付属の要人警護部門幹部と多様な経歴を有している。だが彼の外見から漂う経歴の華やかさを思わせない、飾らなくも土臭い感触が蘭堂は嫌いではなかった。その一方で、蘭堂は車内で既に読み終えた別の大手紙の記事を脳裏で反芻する。遡ること三日前の12月16日、日本より東方の海を巡航中の異国籍豪華客船が「新世界清浄化同盟」を名乗る武装勢力にシージャックされている。事件そのものは発生から二日後に、シージャック実行犯の出身国たるグナドス王国が彼らの要求を容れる形で事件は終息したものの、その過程で客船の乗客乗員から12名の死者が出ており、さらに悪い事には彼らの中に1人の日本人観光客が含まれていた……それ以外の日本人乗客の安否確認も然ることながら、日本的な言い方をすれば「テロに屈した」グナドス政府が、投降した「テロリスト」をどの様に遇するのかが、日本政府としては今後の焦点となりつつある――だがそれは、今回の「会議」の主題ではない。
携帯電話の着信音が鳴った。前席に座る秘書官のものだ。十秒程の遣り取りを経て、電話を取った秘書官が送話口を塞ぎつつ蘭堂を顧みた。
「長官、党本部からお電話が入っておりますが……複数の他国の代表団が、至急に長官との面会を求めて来ているとか……」
「別に今日じゃなくてもいいのだろう? 確認してくれ」
と応じる蘭堂の表情には、困惑と食傷の色が交互に浮かんでいる。秘書官が再び電話に向かい、そしてまた蘭堂を顧みる。その顔に喜色は無かった。
「何れの国も今日絶対に長官と会うと言って聞かないそうです……中には長官のために夜の宴席まで予約している使節までいるそうでして……」
「拒否だ。予定にない人間とは会わないと言っておいてくれ」
「はっ……!」
上司の断固とした意思を受けた秘書官が、その表情を殺して再び電話に向かうのと同時に、蘭堂は懐から手帳を取り出した。使い込まれ、時折数枚の付箋すらページから覗く手帳の、予定表の欄は優に三カ月先まで埋まっている。公私につけ、自分の仕事と生活の構築を完全に他人任せにすることを、蘭堂は好まなかった。政治の途に入る前から確立した「習慣」であると言ってもいい。
予定表の中から今日の予定を辿り、蘭堂は鷹の様な目を細めた。外国がらみでの面会は四件。何れも前日に予約された、政府や各省を通した面会の予定であり、うち一件は某国の通信社による取材応対。それに予定表には書かれていないが、ちょっとした挨拶程度の「面会」が一件――蘭堂はそれを新たに書き込む。電話を終えた秘書官が、悄然とした顔を蘭堂に向けた。
「申し訳ありません長官、外国がらみの面会はこちらから言わない限り取次ぐなとは何度も言っているのですが」
「仕方がないよ。彼らも必死なのだろう……でも順序は守ってもらわないとな」
窓からの風景からは、緑の要素が減り始めていた。その代わりに道路の両脇に厳然として聳えるコンクリートとガラスの高い壁。他の大都市の例に漏れず、その中心部から同心円状に異なる東京の色調が、緑地帯から巨大都市としての装いに移りつつあることの何よりの証しであった。
『必死過ぎて、下心が丸見えなのだよ……』
その胸中で、蘭堂は失望を滲ませるしかなかった。蘭堂にとって失望は、その萌芽は「スロリア紛争」の終りと共に生じていた。破局回避の努力の一方で払われた、周到な準備の下で行われた脅威排除のための戦争。言い換えれば異世界における日本の生存権確立のための戦争。日本はそれに勝利し、勝利は日本に三つのものを与えた。寄る辺の無い異世界に於いて、これから日本国が存続し、日本人が生存していくことに対する確固たる「自信」。これから数年……否、数十年単位で対峙し、結果として和解に達するか、あるいはどちらかが斃れるまで抗争していくべき「敵国」。そして、戦争における勝利で図らずも明らかになった、この異世界を陰で支配する、あまりに不安定に過ぎる「勢力均衡の一端」……蘭堂が問題と見做したのは、この三つ目に関してであった。
「スロリア紛争」の勃発と前後して、その周辺国の動静もまた活発化している。但し、紛争の当事者となった日本とローリダ間の緊張を解き、スロリアに平穏をもたらすべく対話に向けた仲介を務めるとか、そのための呼び掛けを行うといった平和的な試みでは無い。むしろこの寄る辺ない世界において生起するに至った緊張状態の中で、部外者的な立ち位置から最大限の利益を得るべく打算を巡らせ、あるいは当事者の預かり知らぬ裏面において蠢動するといった「火事場泥棒」的な種類の試みであった。異世界を一つの共同体の様に見做し、大局的な視野に立って他国の心配をしてくれる程、文明の出来た国家や種族は残念ながらこの世界では少数派である、と言うべきか……
日本に限って言えば、武装勢力の東侵から武力衝突の発生に至るまで、日本と交流の在る無しを問わず、何らかの形で接触を図って来た国は大小20余カ国に及ぶ。異世界に要らぬ波風の立つのを快しとせず、軍事行動の自制を求める要請ならばまだいい方で、甚だしき中には今次紛争における日本の敗北を見越し、ローリダの友好国、同盟国たるを騙って打算的、あるいは高圧的な要求に出る国も枚挙に暇が無かった。むしろそれへの反発が行政、実務サイドに奮起を促す効果をもたらしたこともまた事実ではあるが……結果として「スロリアの嵐」作戦は成功裏に終わり、日本がこれら第三者から要らぬ干渉を受ける不安は完全に払拭されたわけだが、それらの国々が従前の態度を一変させて要求の撤回と和解とを求めて来たのは一種の喜劇であり、一方で寄る辺のない異世界を支配する弱肉強食的な外交力学の発露でもあるように蘭堂ならずとも思われた。
ただし、「転移」以来、これまでの地道な対外支援及び協調外交に拠らず、ただ一回の軍事衝突の勝利で日本という国の存在感と声望とが一気に上昇したという点は、蘭堂や外務省関係者のような「文民」にとって決して手放しで喜べる話では無かった。事実、作戦の過程でその全容と威力を露わすに至った日本の軍事力は、これまでは逆の意味で諸国の注目を集めることとなった。しかもそれが他国への明確な侵略や勢力進出の手段としてではなく、「平和維持活動」なる、彼らから見れば自国の国益に寄与するとは言い難い種類の業務に多用されているという点が、却って彼らの耳目を惹いたかのようであった。
「――成功した途端、親戚の数が増えたようなものですよ」
と、蘭堂の大学時代以来の知己にして、当時外務省東スロリア課課長であった西原 聡は蘭堂に現状をそう総括してみせた。現にルートの公式非公式を問わず、それまで日本と直接的な接触の無かった国及び勢力で、国外より日本政府の中枢に接触を図らんとする動きは「スロリアの嵐」作戦の成功以来急激に増している。それに対し政府は「相手国の内情と周辺情勢とを見極めた上で、折衝の可否は『適切な時期に、かつ総合的に』判断する」という玉虫色の声明で応じている。
「将来のスロリアの安定のためにも共闘出来得る仲間は欲しい。だがそれがスロリアに対し侵略的な意図を持った国であっては困る……返答を濁して相手を焦らすのも考えものだとは思うが、形だけでも向こうの好意を無下にするのは今のところ得策ではないからな」
と、蘭堂は苦り切った表情で西原に言った。西原も嘆息しつつ口を開く。
「……あれら諸国は、ごく近い将来に我が国がローリダをノドコールから追い落とし、スロリア全域にその勢力を拡大すると踏んでいるようですね。そこからさらに進んで、我が国がこの世界全域を支配する足掛かりをスロリアに求めようとしていると考えている節がある。何故なら彼らもまた、あのローリダと同じく図抜けた軍事力を背景に自国の周辺に勢力圏を拡大しつつある国であるからです。要するに彼らはこの世界に於いて列強であり、我が日本もまた彼らに列強として見做されようとしている。ついでに言えば、ローリダもまた去年の末までは世界的には列強の有力な一角と見做されてきた国です」
「知らないというのは幸福なことである……という古の誰かの格言が、胸に沁みる話だな」
流れ着いたこの異世界に関し、我々はあまりに無知であり過ぎる……日本と自身とを取り巻く近況から、その事を一層に痛感する二人であった。日本は時空を超えていわば獣の犇めく檻に放り込まれ、それを知らずに十年余りの時間を過ごして来た。そして現在進行形の現実は、そこに不快な空気すら漂わせつつある……
「――我が国と貴国の軍事力を以てすれば世界全土に覇を唱えることも夢ではない。是非我が国と軍事同盟を締結して欲しい」
と、出席した外交会議や儀礼的な面会の席上、先方からこの種の申し出が出る度に頭を振り、あるいは露骨に不機嫌な表情を以てそれ以上の話題の進行を遮るのは、今や蘭堂自身にとっても習慣の様なものになっている。あるいは……
「――何故貴国は出兵し、その勢力を本土以外に拡大する事に努力を払わないのか? 何であるのならば我が国がその先導を務めてもよい。軍を進めれば協調や相互扶助の精神に名を借りた金銭的、物質的よりも早期かつ確実に実を得ることができる。貴国と我が国は今や共に覇道を歩むべき段階にあるのだ」
「……我が国と貴国とでは、兵士の生命の価値に少なからぬ相違があるように見受けられますな。我が国では国防に従事する指揮官も、最下級の兵士もまた、ともに普通の日本国民であり納税者でもある。事前に戦の必要と無用を見極めることもせず、無用の戦争行為に惜しげも無く兵士の命を投ずるような国と盟約を結ぶとあっては、いざ共同で作戦を遂行しようにも価値観の相違から齟齬ばかりが目立つのみでありましょうに」
会談の席上、決まり切った要請や要求に、蘭堂は表情一つ変えずそのような内容で応じ、相手はそれに対し露骨に不快な表情と脹れっ面を以て蘭堂を見返すのが常となっていた。その点だけでも、彼ら列強を自認する諸国が日本とは根本的に異なる領土観、戦争観を有する国であることは明白だ。
車は、直線を走り続けている。高速道路を降りるまでの、最後の直線道路だった。
「門島君は……」
蘭堂に名を呼ばれ、門島警護官は彼の横顔に向き直った。
「はっ……?」
「……君は、以前に外交交渉使節団の随員として、ローリダ占領下のノドコールに行ったことがあるそうだが、少し聞いてもいいかな?」
「はい、お役に立つ事でしたら何なりと」
「率直に言ってくれていい。交渉の相手だったローリダ人について、どう思った?」
「傲慢な連中ですな」
と、門島の感慨は短い。だが語尾に秘めた苦々しい感情の発露が、言語上のどのような表現以上に他者の受ける感慨を強烈なものにしていた。蘭堂にしてもそうであった。その点、自身の発言に稚気めいた気後れを覚えたのであろう。自身の発言を補足するかのように、門島警護官は続けた。
「わたしとしてはあの頃よりも今……つまりスロリア紛争後の連中の心境に興味がありますね。連中はやはり、これまで見下してきたところから一転して奈落の底に叩き落とされた訳ですから、我々を心底憎んでいるのでしょうなあ」
「私はあの勢力の要人を二人知っている。いずれも私よりもずっと若く、才気溢れる人物だ。うち一人とは日本で共に酒を酌み交わし、日本と彼らの未来について夜通し持論を戦わせたこともある」
「…………」
感嘆の息を洩らしつつ、門島は蘭堂に目を細めた。この任に就く前、警護官同士の間で囁かれた政界筋の噂の中に、そのような話があったことを彼は思い出していた。かのスロリア紛争時、何かの理由で平和維持軍の捕虜になった武装勢力ローリダの高官がいて、彼は身分を隠し日本政府の仲介で国内の市井の様子は固より最新の工業施設や著名な史跡、学校や病院等公共施設を見て回っていたという……それは当時当人を監視――否、護衛――する任に当たった同僚自身の口から聞いた話だった。
「――奴さん、電機工場の幹部食堂でカキフライを美味そうに食っていたよ。カキにこのような食べ方があったとは知らなかった、是非自分の国にも広めたいとも言っていた……で、陪席していた外務次官が聞いたのさ、あなたの故郷では、カキをどうやって食しているのですか?……ってね」
「……で、どう答えたんだ?」
「自分の国ではカキは生で食べるものと決まっている。だから採れたてで最上級のカキは上流階級にしか回って来ないし庶民や下層民は品質の劣るカキしか食べられない。それが元で病気になったり命を失う貧しい人間がローリダには大勢いる。だがこうして調理してやれば貴賤を問わずみんながカキをおいしく、安全に食べられる。だから自分の国にも広める価値がある、とそのローリダ人は言ったのさ……どうだい、日本の政治家センセイにも聞かしてやりたい言葉だと思わないか?」
話し上手で有名な同僚との遣り取りを思い出し、内心で苦笑する門島の一方で、蘭堂はそのローリダの高官――ロルメス‐デロム‐ヴァフレムス――が帰国の途に就く前日の夜、蘭堂邸で開かれたささやかな酒宴の際に発した一言を、忘れることが出来ずにいた。
「――あなた方ニホン人はこの世界がいかに恐ろしく、欺瞞と背信に満ちた場所であるかを知らない。私はあなた方のために、そのことを悲しく思う」
その時点で大分飲み、かなりの本数の酒瓶を空けていた筈だが、そのローリダの青年はその澄みきった蒼の眼差しを真っ直ぐに蘭堂に向けていた。それに対し一瞬で酔いが醒め、内心で気圧される蘭堂がいた。青年の出自の貴きこと、そしてこの青年が、自らの出自の貴さに背かぬ人生を完璧に送って来たことを蘭堂は感じた。彼の属する蘭堂家もまた、日本では政財界の名門とされる家柄なのだが、此処までの覚悟とともに政治の道に入った記憶を彼は持ち合わせていない。その事が急に恥ずかしく思われた。
「過去を無かったことになど出来はしない。だが、我々ローリダ人が台無しにした過去より生じた負債は余りに重い……私の祖国、共和国ローリダは、その負債を雪ぐべく、これから茨の道を歩んでいくことになるでしょう。何故なら我が共和国をして強国たるを担保して来た軍事力が、今次の戦役により完膚なきまでに崩壊してしまったからです。この期を見逃さず、何らかの行動に出る国が少なからず出るでしょう。我が共和国はその対処にさらに貴重な時間と、民の汗血とを注ぐこととなりましょう……」
「…………」
蘭堂の沈黙を促しと取ったかのように、ロルメスの言葉は続いた。
「……あなた方にはすでにお判りの筈だ。弱きは之を叩く、弱きは強きに従う。それがこの寄る辺ない新世界の、明記されざる法なのです。この法に従って新世界では多くの国が滅んでは興り、あるいは弱国を取り込み、強国に取り込まれて国家、種族としての生存を繋いでいくものなのです……だが、あなた方ニホン人は違った。我々はあなた方に敗れた。だが、私個人の本心を打ち明ければ、敗れた相手があなた方で良かった。強大な軍事力もそうだが、それ以上にあなた方には武力のみにものを言わせないだけの節度がある。その上に、信仰や主義主張を異にする者に対する寛容さがあることを、私はこれまでの日本滞在で知った。厚かましい願いだが、どうかあなた方ニホン人には、この戦いを経てもなお、節度と寛容さを大切にしておいて頂きたいと願うものです」
「私としては、貴国もそうなることを願いたいものですな」
と、蘭堂は微笑み掛けた。不意に、ロルメスの顔が彼と同年代の蘭堂の息子のそれと重なった。
「対話のためのドアは、常に開かれております。あなたの本国には是非そうお伝えください」
「必ず……」
と応じるロルメスの眼には、決意の色と同様に、これまで慣れ親しんだ場所を離れることに対する寂寥が淡く滲んでいた。
『――14号、一般道に入った』
「…………」
回想は、警護官の手による無線の定時交信の音で現実へと引き戻された。カーヴの複雑に入り組んだ三宅坂JCTを抜けた先には、東京という巨大な経済的生命体の鼓動とでも言うべき繁栄の喧騒が、すでに地上全域に満ち満ちている。だが公用車の車中から首都の繁栄ぶりを体感できる時間はごく僅かだった。高速道路を降りて五分も走れば、公用車は東京都千代田区永田町の一角、総理大臣官邸の正面玄関へと滑り込むことになるからだ。
NSC――内閣安全保障会議――への参加が、この日、蘭堂 寿一郎が総理大臣官邸に足を踏み入れた目的であった。
内閣安全保障会議は、「前世界」の西暦1980年代後半にはすでに類似の会議が制度として設けられていたが、太平洋戦後の復興期を経た高度成長期の間に培われてきた民間の国防意識の伸長と、国際情勢の変化、周辺情勢の緊迫化が、その討議される分野の範囲と会議自体の権限とを、雪原を転げ落ちる雪玉が雪達磨に変わるかのような勢いで拡大していった。会議は「転移」前の「環アジア紛争」の過程で内閣安全保障会議と改称されて現在に至っている。その「転移」後の現在、NSCにおける決定は日本一国のみならず、その周辺国及び友好国の国防政策にまで影響を与えるものとして、特別な注意を以て意識される存在となっていた。特に、「スロリア紛争」がその傾向に益々拍車をかけていた。
国防に関する重要事項、国内外の重大緊急事態に対する対処を討議し、方針を決定するのがNSCの創設以来の主旨であり、主な目的であるが、それ以上に特筆すべき点は、前記の事態に即応対処可能な実働部隊を会議の直接指揮下に置いていることであろう。具体的には、内閣安全保障会議は陸海空自衛隊の特定の災害派遣部隊、特殊作戦部隊、その他実働部隊を自衛隊幕僚の補佐を受けて指揮し、重大災害発生時及び有事の際の初動対処を行うこととなっている。あるいは――
「国家の存立に関わる安全保障上の脅威」――内閣安全保障会議はあらゆる方面から収集され、分析された情報を元にこれを排除する決定を独断で下す権限が与えられている。特定の国家では無く文書や資料、あるいは組織や個人――法的、物理的な手段を駆使しそれらを消去し、あるいは抹殺する……本来、「前世界」に於いて仮想敵国とされていたロシア、中国、統一朝鮮ら三勢力との「水面下の戦い」に備えて整備されたこの権限が、本格的にその機能を発揮するを見たのは、皮肉にもこれらの脅威から解放されるに至った「転移」後のことであった。あの「スロリアの嵐」作戦の前々年、日本の安全保障上不都合な情報を土産に母国を出奔し、敵国への亡命を図ろうとした日本の友好国の外交官を追跡し、殺害する決定をNSCは下している。その際に実行部隊として派遣された陸上自衛隊特殊作戦群所属の、二名の戦闘要員は満足すべき働きを示し、NSCが決して表沙汰に出来ない秘密作戦を遂行するにあたり指揮中枢として機能し得ることを証明した……それはまた、来るべき「スロリアの嵐」作戦の最中に幾度となく遂行された重要な秘密作戦の予行演習でもあった。
――その内閣安全保障会議の上席に、蘭堂 寿一郎はいる。
傍観者としてではなく、会議の進行者として、蘭堂は灰色の絨毯を除き、内壁から長大なテーブルに至るまで白一色に満たされた会議室にいた。既に開始予定時刻は過ぎていたが、楕円形のテーブルに配された席は、未だその半分が埋まっていない。但し、いわゆる武官――自衛隊制服組は律義にも予定された全員が既に入室し、折り目正しく着席している。
「…………」
最上席のテーブル上で手を組んだ蘭堂と、自衛隊幹部に占められた一角、その上座に在る将官の眼が合った。煉瓦を思わせる赤銅色の肌、そこに彫刻刀の刃を走らせたかのような皺は幾重にも刻まれ、戦国時代に在って白刃一振りで荒野を駆け巡る侍大将のような凄みを蘭堂に思わせた。体躯もその風貌に相応しく、年齢離れして引き締まった胸板が、濃緑の制服からその輪郭を浮き上がらせている。年功と戦功より為る幾多の徽章に飾られた胸の一隅では、パラシュートと鵬翼を組み合わせた空挺徽章が細かいながらも鈍い光を湛えていた。現、自衛隊統合幕僚長 陸将 松岡 智。あの「スロリアの嵐」作戦では陸上幕僚長として地上部隊全体の統括に当たっている。年功序列的にも、能力的にも先ず順当な統合幕僚長への昇任であり、すでに二年間、陸海空自衛隊のトップとしての業務を大過なくこなしていた。空挺部隊の出身で、現場を離れてもなお月二回以上の自由降下訓練に欠かさず参加しているという努力の末に空挺徽章を維持している点からして、根っからの武人なのだろう……二人は同時に、眉一つ動かさずに目礼し、その後は相互への無関心を装った形での静寂が続いた。
その松岡幕僚長の隣席……同じく陸将の階級章を付けた彼もまた濃緑の陸上自衛隊の制服に身を包んでいたが、銀縁眼鏡をした細面と細身はより一般受けのする容貌であり、武官というよりもむしろ霞が関中枢の住人といった印象を受ける。勿論、彼の纏う濃緑の制服がそうではないことを一目で主張している。胸に飾られた徽章は金烏と望遠鏡、鍵、日本刀を組み合わせた情報科のそれの下に、ヘリコプターの回転翼と翼を組み合わせた航空徽章……判る者には、それだけでこの筧 正毅 陸将の、自衛官としての履歴を察する事が出来る筈だ。
防衛省情報本部 本部長 陸将 筧 正毅。航空科から情報科への転科であり、「スロリアの嵐」作戦時には防衛大臣直轄下の陸上自衛隊中央情報隊の司令職に在った。さらに言えばその前年に生起したクルジシタン王国の反政府武装勢力掃討作戦において、現地PKO司令官として実働部隊の指揮に当たっている。統合幕僚長と情報本部長、そして両名を補佐する数名の幕僚……それらが、内閣安全保障会議に列席を許される武官たちの数的な上限であった……否、元武官ならばもう一人この会議にいる筈だ……上席の傍を占める、すでに参集していた三人の首相補佐官。ダークブルーのスーツに身を固めたその一人を、蘭堂は見遣った。総理大臣直轄の防衛担当補佐官の島村 速人 元海上自衛隊海将。前年まで統合幕僚学校校長の職に在り、それが彼の現役自衛官としての最後の職となった。「スロリアの嵐」作戦ではスロリア派遣艦隊司令として、前線に展開した海上自衛隊全部隊の指揮を一手に引き受けて大過なく勤め上げている。「シマムラ提督」――その名声は日本国内よりもむしろ国外に於いて轟き、高まっているかもしれない。何せ彼が退役の意思を表明した途端、それを聞き付けた諸国より講演の依頼が殺到し、中には彼らの政府や軍の中に顧問として迎えようとする動きを見せた国まであった程なのだから……
静寂が峠を越えた。それまでの経験からこの場に人間が集まり出す時間帯に差し掛かりつつあることを、蘭堂はさり気無く見たセイコーの盤面で察する。
この頃には慌ただしく扉が開閉し、その度に入室した閣僚や政府関係者で席が埋まっていく。出席者の吐く息と話し声が徐々に広範な会議室に浸透し、それらもまた内閣安全保障会議という光景を作る要素の一つとなっていた。それらの中に、友人の西原 聡の姿を認め、蘭堂は顔を綻ばせる。「日本国駐ノドコール大使」とでも言うべきノドコール駐在連絡所所長の地位にある西原は、平たく言えば「辺境勤めのいち外交官」であり、本来ならばこの会議に参加する資格を有していないのだが、今回の会議で扱われる内容が、参考人としての彼の参加を必要としていた。眼が合うや蘭堂は西原に手招きし、西原は脇に抱えた書類もそのままに蘭堂の近くまで歩み寄って来る。
「どうだ、ノドコール大使の椅子は座り心地がいいか?」
「御挨拶だなぁ……まずまずですよ」
「それはよかった。鎌田さんとはもう話はしている。来年には大使館に昇格させる予定だから。それまで踏ん張ってくれ。ひとかどの大使館ぐらいには楽をさせてやるから……」
外務大臣 鎌田 義臣の名を出し蘭堂は笑いかけた。曇った表情もそのままに、西原は応じた。
「……残念ながら、昇格は再来年以降になるかもしれませんよ」と、西原は声を潜めた。
「どういうことだ?」
「日本に戻る前、スロリア特別援助群の司令部と協議をしてきました。既に現地情勢に関する報告を、鎌田外相を通じ官邸に送ってあります。簡単に言えば、現地情勢は極めて緊迫しており、いずれローリダ人入植者と現地住民両者の大規模な衝突も在り得るということです」
「簡単な話じゃないな……というより簡単に済ませていい話じゃない」
「ええ……ですから、首相と直に話をしたいと思っています。鎌田外相もそのつもりですし」
「……で、何時まで日本にいるんだ?」
「今夜中にはノドコールに戻らないと……」
「わかった……あとで連絡させる」
それに関し、西原が何か言おうと口を開き掛けた時、
「……坂井総理が官邸に入られました!」
聞き覚えのある秘書官の声がした。同時に会議室の外が慌ただしさを増すのを気配で感じる。蘭堂に目礼し西原は元の席へと戻っていく。扉が開き、それと同時に列席者がテーブルの上座へ向かい一斉に立ち上がった。国家の防衛方針の一切を決定する内閣安全保障会議。その法規上の主催者たる内閣総理大臣 坂井 謙二郎は入室から無言のまま上座の中央へと進み出、彼を無言で見守る様に注目する列席者を一巡し、軽く頷いた。
「皆さん、ご苦労様です。楽にして下さい」
坂井 謙二郎。「スロリアの嵐」作戦時の神宮寺 一内閣では内閣官房長官の職責に在り、紛争終結に伴う神宮寺内閣の総辞職に続いて政権を継承し既に二年を経過している。その間日本国の最高指導者としてその事績に特筆すべき点も無ければ重大な過失も無いように国内外からは見做されていた。前任の神宮寺 一の、きかん気の強い頑固親父的な風貌に比して線の細い、気難しそうな表情を滅多に変えることの無い坂井は、さしずめ頑固親父の我儘に始終振り回され通しの謹厳実直な息子と言ったところだろうか……
坂井は祖父の代からの政治家一門の出身であり、父に至っては与党自由民権党の有力者であった。三人兄弟の末子に生まれた彼は首都の名門私立大学卒業後大手の石油商社に就職しており、そのまま政界とは何の接点も無い人生を歩むものと周囲より見られてきたし、本人もそう思っていた。つまりは政界に対する興味はもともと無かったと言っていい。
……が、彼が社会に出て約二十年後に状況は一変した。具体的には父に続き、その後を継ぐ筈であった二人の兄が相次いで亡くなったことが坂井の運命を変えた。相次ぐ不幸に伴い当時の任地であった「前世界」の、中東の某国より呼び戻された坂井は、地元の後援会と自民党の一種哀願にも似た要請を受け、父の地盤を継ぎ政界へと進むことになったのである。二十年に及ぶ商社員生活で培った交渉力と組織内の調整力、世界中に跨る人脈は、それが貿易の世界から政界へとその行使の場を変えても大いに有効であったことを、それからさらに二十年近くの政治家人生の中で坂井は証明して見せた。内閣総理大臣という現在の地位は、その一つの結実であると言っていいかもしれない。
内閣安全保障会議の出席者全員が席に就くのと同時に、それまで白皙に空間を照らし出していた照明が一斉に落ち、奈落の底に落とされたかのような抑制された光が空間を重苦しく支配し始めた。内壁の数か所がその全面を使って情報端末として機能し、出席者の眼前に「新世界」の地形図、地理情報、政情等会議で扱われる議題に関わる各種情報を表示する……但し、会議で主に取り扱われる内容は三年前より変化を見ておらず、それだけに政権サイドの議題に対する問題意識の大きさを物語っていた。つまりは議題の内容とは日本から遥か西方、スロリア情勢である。
「……さる10月21日の、緊急警備行動に関する最終報告書は全て読ませて頂きました。関係各位には、この場を借り今次の警備行動に傾注した努力に対しお礼を申し上げたい……なお、外務省を通じて行った、今回の我が国領空及び領海侵犯への抗議に対する、『ロメオ』側からの回答は未だに無いことを、ここで私の口から申し添えて置きます」
坂井総理は言った。卓上の一角を占める武官らが坂井首相へ向けほぼ同時に低頭する。それを見届けたかのように蘭堂は言った。基本、会議を進行するのは官房長官の役割である。
「最初の議題ですが、松岡統合幕僚長、先日のルジニア方面における特殊作戦に関し、口頭で報告をお願いします」
「ハッ……!」
松岡統合幕僚長が立ち上がり、彼の背後で稼働する情報表示端末の傍らに立った。端末に向けてレーザーポインターを振るや、スロリア亜大陸の全容を表示した地形図が移動し、かなり離れた海域の一点で止まった。そこに見慣れぬ船舶の写真や緒元、作戦に投入された戦力を羅列した文字列が二重三重に重なる。
「ローリダ共和国を僭称する武装勢力『ロメオ』が、三年前の我国との軍事衝突により大打撃を受けてもなお、侵略的なスロリア地域への干渉の意図を放棄していないことは、これまでの内閣安全保障会議において、列席者の皆様には既に周知して頂いた事実であると小官は信じるものであります。今回、『ロメオ』がその洋上作戦部門を以て秘密裏に未だ彼らの影響下にあるノドコールに武器弾薬その他の軍需物資を集積させているという、現地で情報収集活動中の現地情報隊からの報告に基づき、半年前より各方面から内偵を進めた結果、ノドコールよりより南西に位置する『ロメオ』の衛星国ルジニアを起点とする海上輸送ルートの存在を探知するに至りました。ルジニアは表向きには食料および生活物資、移住者の搬入窓口であるというのが『ロメオ』側の主張ですが、ここルジニアを発した船より大量の武器弾薬類がノドコールにおける『ロメオ』の窓口に運び込まれていることは、これまでに収集された各種情報により断定された明白な事実であります。
前回のNSCの決定に基づき防衛省 特殊作戦自衛隊は日本時間にして12月18日午前0時19分、海上輸送ルート上に跨る想定海域に急派された特殊作戦群一個分隊を以て該当輸送船舶、船舶名『グリュエトラルⅡ』の急襲及び制圧を実施、0時50分に制圧を完遂。我が方はその過程で複数の証拠物件を確保するに至りました」
説明する間、端末の中で新たに開かれたウインドウが、その一部始終と思しき動画を表示し続けている。夜間、ヘリからの暗視装置に捕捉された波浪に洗われる船体、風雨に蹂躙されるがまま動揺を続ける船の甲板上に、ラベリングで降り立ち迅速に疾駆する全身黒尽くめの人影……間を置かず船の各所で交差する曳光弾……閃光手榴弾の炸裂を盾に船内に突入する人影の背中で瞬く赤外線ビーコンの有無のみが、甲板上における敵味方の帰趨を表示し続けている。それでも、この突入部隊の戦闘能力が船に潜んでいた武装兵より遥かに隔絶していることは、誰の目にも明らかなように思われた。それ圧倒的故に空間を圧し潰すかのように拡がりつつある静寂……出席者の中には悪名……否、勇名高い「陸上自衛隊の特殊任務班」を初めて目にした者もいることだろう。蘭堂もその動画を見遣りつつ、移動中の車内で読んだ「東邦スポーツ」の記事を思い出していた。基本、内閣安全保障会議で見聞きした事はこの空間から外に出さない決まりになっているが、それを死ぬまで遵守出来る人間は幾人いることであろうか?
さらに動画が切替り、完全に制圧した船内の様子と、その倉庫内の積荷を隊員視点のカメラが映し出す。動画の質はヘリからのそれに比して粗く、それが特殊作戦群隊員各個に装着されたCCDカメラによるものであることに列席者が気付くのに多少の時間が必要ではあった。隊員の手により積荷の木箱が荒々しくこじ開けられ、その中から出て来た小火器やその弾薬、あるいは重火器に列席者の中から一斉にどよめきの声が上がる……周囲の反応を確かめるように目を細め、松岡統合幕僚長は新たに表示された動画をポインターで指しつつ続けた。
「……こちらをご覧ください。詳細は現在防衛省技術本部に於いて画像の解析を進めておりますが、結論から言えば長距離ミサイルあるいは航空機のエンジン部品である可能性が極めて大きいと判断されております。直後に所属不明の戦闘機の攻撃を受け該船は大破。数刻を待たずして沈没し、物品そのものの押収は不可能となりました。幸い、突入部隊は全員船からの離脱に成功し我が方に死者は一名も出ておりません」
「…………!?」
驚愕の声が上がったのは当然のことだった。自衛隊の大胆な作戦行動も然ることながら、敵がこのような対抗手段に出ることなど文民たる彼らにとっては想像の外だったのだ。本当に、日本と「ロメオ」は休戦状態にあるのだろうか?……と、これまでの自身の記憶をその脳裏で探り直した出席者も少なからずいる筈だった。さらに恐るべきはこの「交戦事実」が、今後半永久的に一般に公表されることはない、ということである。あの「ロメオ」にしてからもそうであろう。相互の了解を経ないノドコールへの武器搬入は、重大な「ノイテラーネ条約」違反なのだから……
「『ロメオ』は行動を起こすべく、既にこれら部品の組立設備をノドコール国内に建設していると思われます。現状としては我が方防衛省情報本部及び中央情報隊共に情報収集要員を増員し、その捜索にあたっているところです。以上で報告を終わります」
蘭堂は頷いた。
「鎌田外相、この作戦を踏まえた上で外交面での対応策をご説明願いたい」
促され、外務大臣 鎌田 義臣が起立する。中背にややがに又、豊かな頭髪は完全に灰色に染まり、石臼を思わせる角ばった頭と顎が細い目と顔に似合わない高い鼻を付けている。素朴さを伺わせる顔立ちも相まって、外交畑の人間というよりは、その裏方に在って事務手続きや資金管理の一切を預かる立場に居そうな出で立ちの持主であった。ただし大手商社員から身を起こし議員当選四回。「転移」後間も無い頃、未知の部分のみ大きかった国外市場を開拓するための議員外交に率先して尽力したこと、その実績を買われて三年前の河内閣に一度外相候補として名が挙がったことが、結果的に坂井内閣の外相就任を後押ししたとも言える。
その鎌田外相が言った。
「外務省といたしましては、防衛省より提供されたこれらの情報を元に、『ロメオ』に対し事態の再発防止と『ノイテラーネ条約』の遵守、既に搬入した兵器及びその関連施設の撤去を求めることで方針を一致しております。もちろん、秘密裏の打診という形を取ることになりますが」
「外務省の方針は生温いと思う。有利なのは我々なのだ。もっと強硬な要求が出来ないのか? 例えばこれを機に重武装PKFの駐留を認めるとか、『ロメオ』の有する全ての軍事力をノドコールから撤収させるとか……」
と、閣僚席の間から声が漏れる。それを制したのは坂井内閣の防衛大臣 桃井 仄だった。在野の学者から防衛大臣の職に在ること、先代の神宮寺内閣から現在に至るまで既に四年、野党共和党とも繋がりのある彼女は、防衛政策のみならず自民党の政権運営においても不可欠な人材になりつつある……
「お聞きください……現在、『ロメオ』は三年前の敗北による打撃から立ち直ることあたわざる状態にあります。彼らの帝国主義的な膨張政策の帰結としてスロリア以外にも軍事的な火種を抱えている以上、低下した軍事力を多方面に分散させている『ロメオ』としては、辛うじて維持している均衡を守るべく必死の防戦を試みるでしょう。強硬な要求はむしろ意図せざる暴発への起爆剤となるやもしれません」
「防衛相、ローリダ共和国はそれ程危ういのか?」と、蘭堂。同時に、ロルメス‐デロム‐ヴァフレムスの若い表情が脳裏に浮かんだ。
「元来、拡大した勢力圏を維持するための軍事費が彼らの国庫を圧迫していたこともありますが、それ以上に少なからぬ額の民間資本がスロリアやその他の『未来の植民地』に先行投資されていたこと、それが『スロリア紛争』の結果膨大な不良債権と化したことが彼らの経済的疲弊に拍車をかけています。さらには『ロメオ』は元老院……つまりは彼らの政府中枢ですが、それが軍や急進的な民兵組織を完全に制御しているとは言い難い状態なのです。防衛省としても彼らの暴発を防ぎ、『ノイテラーネ条約』を遵守させるためにも慎重な交渉が必要と考えます」
桃井の発言に鎌田外相も頷いた。その点でも、両者は事前に情報の共有が出来ていたのかもしれない。蘭堂の眼が鎌田外相の傍らにいる西原と合う。その西原の眼が笑っているように蘭堂には見えた。
「この件に関し、他に意見は?」
「質問」
と、即座に挙手した者がいる。防衛担当補佐官の島村元海将だ。
「このまま事態が悪化するとして、『ロメオ』が行動を起こす時期を、その予想される範囲でお伺いしたい。なお、現地における情報収集活動が『ロメオ』に察知された形跡があるのかもお伺いしたい」
おそらくは防衛相と外相の意見を楽観論と捉え、それに牽制を加える意味で発言したのかもしれない。そのかつての同僚の質問に、筧情報本部長が向き直った。
「情報本部といたしましては、このまま事態が進行するとして、『ロメオ』の行動開始時期を三ヵ月以内と予想しております。なお、ノドコール国内で行動中の現地情報隊及び特殊部隊の存在が『ロメオ』に察知された形跡はありません。我々としても彼らの行動には万全を期しております」
「もし『ロメオ』が行動を開始したとして、秘密裏に阻止させるということで宜しいのか?」
更なる質問に、目線で松岡統合幕僚長の了解を取り、筧情報本部長は言った。
「当然そうなりますし、そのための当該部隊の運用計画も策定しております。尤もその際、あらためて内閣安全保障会議を招集して頂かねばなりませんが……」
松岡と筧、両陸将の視線が了解を求める様に上席の坂井総理へと泳いだ。坂井総理は頷き、言った。
「勿論だ。私が直接指揮を取らねばなるまい」
その口調に一片の躊躇も無いことに、隣席の蘭堂は内心で感銘にも似た感傷に襲われる。それはつまりは、内閣安全保障会議がそのまま秘密作戦の指揮所と化すことを意味している。当然、阻止作戦はなるべく迅速に行われるのが望ましい。だが実行するとなれば、当然『ロメオ』の拠点への急襲という形になり、作戦の実行が公になれば最悪日本が先に「ノイテラーネ条約」を破棄したという汚名を被る可能性が生まれる……恐らくはそれを承知で、坂井総理は自衛隊の最高指揮官としての意思を表明したのに違いない。総理は内心で腹を決めたということか……
「……それで、投入する部隊は陸上部隊だけでよいのか?」
蘭堂の発言に、松岡が応じた。
「統幕といたしましては、脅威を迅速かつ完全に排除する手段の一つとして、地上からの誘導支援を受けた空自作戦機による精密誘導爆撃を考えております。投入するとすれば築城あるいは三沢基地所属のF-35Jが適当かと……」
「…………!」
一座にどよめきの声が広がったが、それは心からの感嘆によるものであった。本来ならば「転移」前に導入が開始されてしかるべきであった「幻の新鋭機」。F-35J「ライトニング」は、「スロリア紛争」直後から導入が本格化した新型戦闘機である。その機体構造と電子戦装備は、国外に存在する既存の防空探知システムの殆どを無力化する隠密性を確保し、大規模な航空作戦では敵地深奥部に単機で侵入、敵重要拠点への第一撃あるいはスタンド‐オフ兵器を搭載しての敵防空網制圧を担当することで、後続の通常航空攻撃を円滑ならしめる戦術が構想されている。新世界ではどの国もこれに匹敵する作戦機を保有しておらず、それまで防空偏重だった航空自衛隊に攻撃型空軍としての性格を付与する嚆矢となった新鋭機でもあった。
列席者の興奮が冷めやらぬ中、ひとり挙手をした者がいる。
「…………」
挙手の主にペンを向けたまま、蘭堂は彼を注視した。NSCを構成する他のメンバーと同じく、坂井内閣の組閣以来この男とは幾度となく顔を合わせている筈が、彼の風貌に慣れることがどうしてもできない蘭堂であった。おそらくはこの場に居合わせた幾人かが、彼と同じ感慨をその男に抱いている筈だった。何故かというに――
――異相だった。丸顔、だがそれが過分に大きく、長身かつ細長い手足と相まって人体構造学的にはアンバランスな印象を接する者に与える。赤茶けた頭髪は短く切り揃えられているものの、中央で左右に分かれ、狭い額の下には丸くかつ黒い眼が中央に拠りつつ、獣の様な爛々とした光を常に湛えていた。日本人……というよりもあまりに人間離れした風貌、敢えて喩えるとすればオランウータンの様な顔。大昔の恐怖映画に出てくる人に馴れたオランウータン。それも、檻の向こうから意思を持って眼前の人間どもの愚行を見守るオランウータンだ……少なくとも蘭堂自身は、彼にそういう印象を受けている。
「八十島官房長、どうぞ」
八十島官房長と呼ばれた男は、すっくと立ち上がった。黒いスーツ姿の長身。それだけに、この人物の異様な風貌に改めて目を見張った者も少なくなかったかもしれない。席の配置上、彼に対面する形となった武官の中には、その姿から醸し出される目に見えない、波動の様な何かに圧倒され思わず仰け反った者もいる。それを宥める様に長い手を上げ、官房長という肩書の彼は大きな口を歪めてニッと笑った。
「取って食いはしないから……」
のんびりとした、かつおどけた口調、それも、役者か歌手の様な美声であった。彼はそのまま松岡統合幕僚長に向き直る。
「『ロメオ』への対処に関し、今後実施が予定されている作戦があれば、作戦自体に支障を来さない範囲でもよいので教えて頂きたい」
「今次の制圧作戦には、該船の母港に潜伏する『資産』――すなわち現地協力者からの情報提供が不可欠でした。しかし該船の出港を通報直後、協力者の潜伏場所がローリダ治安機関の急襲を受け壊滅した模様です。幸いにも協力者は脱出し未だ現地に潜伏していることが確認できておりますので、情報提供者の安全確保という観点から協力者の保護を迅速に行う必要があると考えております」
「そのまま死んでくれればよかったのにね……」
「――――!」
朴訥とした口調だったが、発言の内容がそう聞き流すにはあまりに不穏当な要素に満ちている。松岡統合幕僚長は唖然として発言の主、警察庁長官官房長 八十島 景明を見遣った。だが、彼と同じ感慨を抱いた者がこの場に皆無とは言い切れない空気が、ここ内閣安全保障会議に流れていることもまた事実だ。ひょっとして皆の反応を確かめたくて、あえてそのような事を言ったのか?……蘭堂は表情を消し、官房長を凝視する。その視線に気付かずか否か、八十島官房長は再び聞いた。
「切り捨てる……という選択は?」
「今後の協力者獲得工作に支障をきたす恐れがあるので、それは出来かねますな。あなた方ならお判りの筈だと思いますが」
「確かにね……」
八十島官房長は再び笑った。ただし微笑みかけられたところで、彼に対する警戒心は拭い様がない……というのが現在の武官らの一致した感情であろう。日本の警察機関の頂点たる警察庁長官の直下に在って、長官の手足として警察組織の最前線から行政サイドとの調整に跨るあらゆる職掌を統括する警察庁長官官房。それが八十島 景明の掌中に収まって以来、日本の警察機関は質量ともに飛躍的な拡大を続けている。八十島官房長自身がその入庁以来警視庁警備部に於いて外事畑一筋に栄達してきたが故か、特に国内外の電波、信号情報の収集能力に関しては、今や防衛省のそれをも凌いでいるとさえ言われていた。それも、全世界的な範囲に亘って――
八十島官房長が、再び聞いた。
「それで、協力者の保護には自衛隊さんはどの部隊を、どれくらいの数投入する予定なのでしょうか?」
「ルジニアは臨海都市でありますので、夜間海上自衛隊SEALsの一個舟艇チームを投入し、海上より隠密でルジニア深奥部まで浸透させる……ということになろうかと思います。もちろん、機密保持には万全を尽くす所存ですが……」
「ほう……そのような遠方まで。御苦労なことですな」
ゆっくりとした、抑揚に乏しい口調だったが、決して聞き取りにくい声では無かった。だがそれ故にこの八十島 景明という異相の警察官僚の、霧を纏っているかのような判らなさを演出しているかのように蘭堂には思われた。会議の前日、知人の新聞記者と交わした会話が、自ずと思い返された。
「――『カタバミ』の噂を御存知ですか?」
「――『カタバミ』?……悪い噂かね?」
「――四年前の『河首相一行遭難事件』の報復を、警察庁の一部勢力が企図しているという噂があるようなのですが……『カタバミ』とはその実働部隊のコードネームのようなものらしいのです」
「――穏やかな話じゃないな。そんなものを組織して、具体的にどうしようっていうんだ?」
「――河前首相殺害の実行犯の身柄を確保し、テロリストとして日本で正当な裁きを受けさせる……というのがその報復の主旨なのだそうです。もっとも、あの遭難事件で警備部の情報収集体制に非難が集中したことによる失点をいずれ回復しようという、警察組織らしい打算が働いていることは確かでしょう」
「――ああ……失点というのは、あの事件の後に警察庁長官と官房長が退任したことを君は言っているのか?」
「――公式発表では病とか大学への出向とかいう形になっていましたが、あれは実質上の引責辞任だと我々の間では専らの噂でしたよ」
「――そうとも取れるだろうな……」
蘭堂の曖昧とも取れる返答に、記者の表情がやや曇った。おそらくは彼ら報道サイドの憶測を、事実と確信し得るだけの断言を期待していたのかもしれない。
「――『転移』の結果として、この異世界において日本の行動を掣肘し得る存在は事実上無きに等しくなった。『スロリアの嵐』作戦の成功が、その傾向にいよいよ拍車を掛けている。その事が我が国の警察組織にフリーハンドを与えつつある……ということかもしれません」
「――そんな馬鹿な……」
「――もっとも、彼らの目的はあくまでテロリストの捕縛ですから、『前世界』のアメリカやイスラエルみたいにテロリストの殺害までとは行かないところが、いかにも日本の警察らしいところではあるのでしょうが……」
単なる陰謀論か、出来の悪いスパイ小説のネタかと思われたが、この男ならやるかもしれない……悠然と席に付き、質問を打ち切った八十島官房長を見遣りつつ、蘭堂の眦が険しさを増した。八十島官房長の隣席には、警察組織における彼の唯一の上司たる乃木坂 兵吾 警察庁長官がいるが、入庁以来管理畑を主に歩み、現場経験の少ない彼の経歴故に、警察組織の運営は実質上八十島官房長を中心に回っていると言われている。つまりは、八十島が独断で何かをやるために警察組織を動かす土壌はすでにあると見て良いだろう。
「……次の議題に移ります」
蘭堂の進行に感情は無かった。彼なりの今後の課題を胸に秘め、蘭堂はこの場における彼の役割へと向き直る――
島村 速人は、来客の休憩室が居並ぶフロアを所在無げに歩いていた。朝早くに始まった内閣安全保障会議が昼過ぎまでにずれ込み、かつては提督と呼ばれ戦場の海に立ったこともある初老の男は、総理官邸にいる現時点では、入省したての新人官僚の如くに辿るべき道を見失っているかのように見えた。
「島村さん、こっちこっち」
「…………?」
不意に声を掛けられ、顧みた背後で、統合幕僚長 松岡 智が半開きのドアから魁偉な容貌を覗かせ島村に向け手招きをしている。安堵したかのように表情を緩め、島村は周囲を確かめつつ休憩室を構成する一室に足を踏み入れた。狭い談話室では、二人の濃緑の制服姿がダークスーツ姿の元武官を待ち構えていた。松岡と筧の両陸将。内閣安全保障会議内の席次もそうだが、島村は彼ら二人にとって共通の母校たる防衛大学校の先輩に当たることもあって、松岡の口調も自ずとあらたまったものとなっている。
「先刻の発言は助かりました。あれで総理も含め全員に危機感が共有できていればと思うのですが」
「政府としては、向こうが打って出るより早く彼らの鼻面に一撃を与え、そこからさらなる譲歩が引き出せればいいと考えている。ローリダ人のノドコールからの駆逐は政府の既定路線ではあるが、そこは正々堂々、誰の異議も挟ませない段階を踏んでいきたいというのが政府の本音だ」
「といいますと?」
「ローリダ人が武器を集め、敗勢を挽回し再び暴力的にノドコールの征服を図ろうと企図しているのは既に確定した事実だ。そこで日本としては電撃的にローリダ人の拠点を急襲し、行動を起こそうとした彼らの陣容を白日の下に晒す。この時点で我々の行為も『ノイテラーネ条約』違反になるわけだが、敵はそれ以上の条約違反を犯していることになる。差引勘定では非を認め譲歩するのは向こう、ということになる……まあ、ノドコール駐在の日本人職員や自衛隊員の安全を確保するための止むを得ざる措置、とでも発表すれば時勢的にも国民や他国の多くがこれに靡くだろう。政府としてはこの実働戦力として特殊部隊を特に重視している。君たち現場もそうだろう?」
「確かに。先年のような大規模な軍事力展開は『ノイテラーネ条約』の趣旨に著しく反することになりますしね」
と、筧情報本部長が頷いた。あの「スロリアの嵐」作戦から三年、その間に行われた多方面からの情報収集から判明した「仮想敵国」ロメオの内情は、防衛担当者の想像を越えて衝撃的なものであった。自分たちと異なる信仰、文明の存立を認めず、場合によっては種族ごと抹殺することすら厭わない侵略政策……さらにはロメオと同種の対外進出政策を取る勢力がこの世界には複数存在し、スロリア戦以前より彼らの間では幾度となく勢力圏の拡大を巡り武力衝突が頻発していたという事実……スロリア戦の勝利は、結果として日本を否が応なしに異世界における有力国家間の、仁義なき勢力争いの大舞台に引き出してしまったと言える。
島村が言った。
「……それで、『ロメオの核』について新たな情報は無いか?」
「実は、かねてより分析を進めていたロメオの長距離地対地誘導弾の件ですが……新たなタイプの存在が確認されております」
「『ロメオ・スカッド』に飽き足らず、さらに別タイプも開発しているのか?」
思わず声を荒げた島村に、筧情報本部長は表情を変えることなく頷いて応じた。
「ロメオ・スカッド」とは、ローリダ軍における正式名称「グロスアーム」地対地誘導弾の日本側のコードネームであり、これまでに収集した情報から、性能面では「前世界」の西暦1950~60年代に濫造された、野戦用の戦術地対地誘導弾の域を出ないものと見做されている。だが日本のペイトリオットや03式中距離地対空誘導弾のような、高度な戦域防空システムを有さない中小国にとっては重大な脅威となり得るであろう……
「『ロメオ・スカッド』は前線運用の戦術兵器の域を出ない、標準的なトラック牽引型の地対地誘導弾ですが、これとは別にもう一タイプ、『ドミネティアス』と呼ばれる移動発射式誘導弾の存在が確認されております。発射台付車両及び収納筒の構造から判断するに、本命はこの『ドミネティアス』ではないかと……」
「それは今、どの段階に入っているのだ? まさかもうすでに実戦配備されているのか?」
筧本部長が頭を振った。
「未だ試験段階のようですが、実用段階に達するのは時間の問題かと……幸いにもロメオが核弾頭の小型化に成功した兆しは確認できておりません。彼らの核戦力は依然、本土に集中配備されている長距離爆撃機です」
「それ以外の弾頭に関してはどうだ? 生物化学兵器とか……」
「その線も調査させておりますが、ロメオが生物化学弾頭の開発に成功したという事実も現状では存在しません」
「そうか……ひと安心だな」
眉を顰めた松岡が口を開いたのは、その時だった。
「それにしても、あの男は何とかならんのですか?」
「八十島官房長のことか……?」
松岡は頷いた。
「あの男、あそこでは平然としていたが、どうも配下の外事部や公安部を駆使して自衛隊の身辺を嗅ぎ回っておるようなのです。しかも、日野の通信傍受施設を使って国外で行動中の部隊にまで触手を延ばしてきておる」
「……大昔の旧帝国陸海軍の遺風漂う時代ではあるまいし、今更自衛隊がクーデターを起こすとでも思っているのかな?」
「現状では国家に対する貢献度では我々が優位になりつつあります。そのことは国民の意識変化でも明らかだ。それを背景に向こうに態度の是正を求めていけばいい。何も急くことは無いでしょう。それはそうと……島村さん」
「ん……?」
「先月、阪田閣下のところに行かれたと小耳に挟んだのですが」
「阪田さんなら、元気だよ。むしろ自衛隊にいた頃より溌剌としておられる」
「確か……郷里に戻って農業をされておられるとか」
「うん、あの泰然自若たること、官を辞して鹿児島に帰った南州翁の如しだよ。正直言って、羨ましかった。地元の共和党が国政への出馬を促そうと何度も押し掛けて来ているようだが、本人はまるで聞く耳を持たないらしい……まったく、そっとしておいてやればいいものを」
「…………」
不意に、三人の間に気まずい空気が流れた。島村の言葉に対し、残る二人が島村とは違う感慨を抱いた証であったのかもしれない。それを察し、話題を変える必要を島村は感じた。
「ところで、『在庫処分』の方は上手く行っているのか?」
「それはもう……ロメオに察知された兆侯は今のところ見受けられません。『夜逃げ』の方も慎重を期すよう現地で行動中の部隊には厳命してあります。ご安心ください」
「これに関しては、官邸は勿論総理もノータッチだ。事が露見したら自衛隊ひいては政権の信用問題にも関わる。兎に角機密保持には万全を尽くしてもらいたい」
「それは必ず……!」
「しかし……情報科には何かと苦労を掛ける」
筧本部長を見遣りつつ、島村は言った。「前世界」では行動に移すことは勿論、構想することすら考えられなかった「秘密工作」に、自衛隊は首を突っ込もうとしている……だがスロリアの安定化と日本に纏わりつく脅威を排除するために、彼らがこれから行おうとしていることは避けては通れない途であった。