表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/83

序章  「気象観測機」



ローリダ国内基準表示時刻12月19日 午前5時04分 ローリダ共和国直轄領ナヴィゲウス ミルタズ‐エラス社専用飛行場 通称「鶴の巣(シリューグニステ)



 粉雪が舞っていた。ベッドから身を起こした時、セドルス‐ド‐ハーストは自室の窓から見渡せるそれに、故郷の村の情景を重ね合わせた。年過ぎの祀りに備えて飾り付けの成される町の家屋や沿道の木々、仲良く連れたって学校へ向かう子供たち。町の外れに在る牧場の一角、先端の欠けた暖炉の煙突から立ち上る煙は、冬窮によって養えなくなった家畜をつぶし、保存食の燻製や腸詰を作る準備であろう。町役場勤めの技官だったセドルスの父は、この時期になればわざわざその牧場まで車で出かけて行って、塩漬け肉や腸詰を買いに行っていたっけ……


 旧い調度の寝室内にあっても、四六時中宿舎内で稼働し各部屋に暖気を送り込んでくれる空調機器のお陰で、ベッドから起き出すだけでも難渋という風にはならない。セドルスにはそれが有難い。昔……此処ナヴィゲウスが未だ植民地という区分で扱われていた頃に建てられ、以来さる富豪の別荘であったこの邸を宿舎として買い取ったセドルス達の雇用主は、わざわざニホンから高性能の空調機器を取り寄せて邸に据え付けさせたという。ニホン……そう、それは今現在我らが偉大なる共和国(パプリアース‐ディ)ローリダが対峙している最悪の敵の名だ。


 もっとも、寒波の尖兵はすでに先月の半ばには本国から遠く離れたこの場所でも押し寄せ始めていた。尖兵は程無くして太陽を遮らんばかりに巨大な曇天の増援を得、それが今では心までも凍らせる風雪という形で、北に海を臨むこの田園地帯にまで押し寄せている。その閉塞感はまた、かつて空軍の戦闘機パイロットであったセドルスの属する、共和国ローリダという国家を支配する空気にも(なぞら)えることが出来た。少なくともここ三年間はそうだ。


 共用トイレ隣の洗面所で身繕いを済ませる。頬と顎にクリームを塗り、銀製のT字剃刀を充てて髭を剃るセドルスの背後に、明らかに寝起きらしい髪の乱れた男が入って来るのをセドルスは鏡で察する。共用トイレもそうだがこの洗面所の調度は素晴らしい。軍の基地の様に殺風景かつ不潔ではないのは勿論だが、かといって華美に過ぎるというわけではない。差し詰め避暑地の少し値の張る宿屋といったところだろうか……セドルスの隣の洗面台、だいぶ量が減った整髪料とくし一本とで収まりの悪い髪に悪戦苦闘しつつ、顔色の悪い痩せぎすの男が言った。整髪料のきつい匂いが此処まで漂って来た。確か、名はロダスといったかな……

「お早うございます。ハースト機長」

「ああ……オハヨウ」

 片方が髭剃りの途中ではまともな会話など成り立つ筈がなく、自分の返事が伝わっただろうかとセドルスは内心で困惑する。だがそれは杞憂の様であった。

「機長、今日のフライトは自分が補佐を勤めることになりました。宜しくお願いします」

「アア……ソウ?」

 イジェクのやつ、もう帰ってしまったのか……前任の副操縦士の顔を思い出しつつ、寂寥が胸を過ぎるのを覚える。元はセドルスと同じ戦闘機乗りで、趣味でもだいぶ馬が合う間柄だったのに、本国の空軍司令部から飛行教官としての現役復帰を提示された途端、彼は予定の「観測飛行」をキャンセルしてさっさと荷造りを始める始末だった。それでもセドルスには、裏切られたというより、置いて行かれたという思いの方が強かった。髭を剃り終わり、タオルで顔を拭いつつセドルスは言った。

「確か……ロダスだったよな。名前は」

「ハッ……!」

 覗きこんでいた鏡から顔を上げ、背を正そうとする男を、セドルスは制するようにした。

「堅苦しい挨拶は無しだ。何と言ってもここは……一応は民間企業だからな」

「はっ……」

「君は、此処に来る前は何に乗っていたんだ?」

「軍で二年輸送機を操縦して、そのあとは一年ほど民間の飛行学校に……」

「訓練は、ちゃんと受けたんだよな……?」

 内心の困惑を悟られまいと言葉を選ぶのに、セドルスは少し悩んだ。

「ええ、内務省に勤める叔父が紹介してくれたんです。給料もいいし、待遇もいいし……兎に角いい事尽くめだと」

「成程な……」

 自らを納得させ、かつ内心で込み上げてくる暗然としたものを持て余しつつ、セドルスは洗面所を出る。此処の仕事は、コネ採用の人間にどうにかできるという種類の仕事では無い。喩え私情であれ、本国の事情を此処に持ち込むべきではないのに――

 


 宿舎となっている邸には食堂があるが、その名通りの目的で使われたことは一度としてない。

 宿舎の住人たる航空機操縦士と地上要員は大抵、彼らの平時の居住空間たる二階フロアの半分を占める広大な居間で食事をとる。セーターと繋ぎの飛行服に着替えを済ませたセドルスが朝食の卓に就いた時には、飛行場での同僚が朝食をかき込むナイフとフォークを忙しげに動かしていた。分厚いベーコンにミートローフ、卵二個を使った目玉焼き、付け合わせとしてジャガイモとタマネギのソテーとレンズ豆のトマトソース煮が乗る。これら何れも本国から派遣された専属の料理人の手によるメニューで、その上にパンとケーキが食べ放題、茶は当然として野菜と果物のジュースが飲み放題とあっては、傍目から見れば住人たちが特定の業務を執り行う人材として、彼らの雇用主から如何に重要に扱われているかが判る一助となるだろう。

「…………」

 席に着き、異種族の使用人から配膳を受ける間、セドルスは食卓傍に据え付けられたテレビ受像機に眼を向ける。テレビ受像機もまたニホン製。この時間帯の本国では丁度国営放送の朝のニュースが始まる頃合いだ。案の定、巨大な絵画の額縁を思わせる平坦な画面いっぱいには、見慣れた無表情の国営放送のアナウンサーが陣取り、地図を背景に国際情勢に関する放送を行っていた。食事スペースから臨める、窓に面した広い休息スペースでは、やはり同じ日本製テレビ受像機を前に、夜勤明けの地上要員たちが不自然なまでに集まっている。その周囲で酒を酌み交わす者、カード遊びをする者もいるが、その場の男どもの関心は、専らテレビ画面の中で繰り広げられる自動車競走に集中していた……見たことも無い流麗な外観の車が二台、爆音を噴き上げつつ追いつ抜かれつの鍔迫り合いを路上で繰り広げていて、さらによく見れば、それらの自動車と風景が実物では無く一種の「創りもの」である事が判る……ニホンのテレビゲームである。


『――ノドコールにおける我が国居留民に対する、原住民の暴虐は留まるところを知りません。現在までに判明している我が国同胞の被害は死者120名、家畜50頭略取、奴隷210名死傷……土地及び植民者の生活保障に要する費用に至っては、その膨大なるが故に未だに算出出来ざる状況です。原住民解放の名目で我が国の文明化事業に干渉したニホンの無謀な試みは、今まさに無残な挫折を迎えんとしております……』

 ナイフとフォークを動かし、卵とジャガイモを口に運びつつテレビの音声を聞く。不意に居間に繋がる廊下が慌しくなり、鞄を抱えた中年男が外の冷気と共に食堂に入って来るのを見る。セドルスの姿を認め、中年男は相貌を緩ませた。国防軍士官学校時代からのセドルスの友人で、今では飛行場に詰めて情報分析を担当しているデドロ‐ガス‐クリニーだ。

「セドルス、起きていたか……良かった」

「…………」

 無言のまま、空いている隣の席に座る様セドルスは促した。分厚い防寒コート姿のまま、デドロはズカズカと食卓に踏み込んで椅子に腰を下す。コートに積もった粉雪を払う配慮も見せなかった。寄って来た使用人にまず熱い茶を所望し、デドロは分厚い、節くれだった手で鞄を開けた。

「ホラ、今日の資料だ」

 と、デドロは書類の束をセドルスの傍に置く。煙草を燻らせ、無言でそれらのページを捲るうち、セドルスの目から余裕の色が消えていく。

「ニホン艦の数が増えてるんじゃないのか?」

「実を言うと、そのようだ。そしてこれから先、もっと増えるだろう」

「くそっ……!」

「近い内に、ニホンがノドコールに兵を増派するって話もあるしな……予断を許さない状況だ」

「…………」

 セドルスは書類を投げる様に卓上に落とした。スロリア亜大陸の西方、ローリダ植民地ノドコールの地形図上に標された彼我の戦略単位の配置。今現在も東方の空を飛ぶ同僚によって逐一報告され続けるそれらは、時として刻々と移動し、あるいは停滞の支配するままという場合もある。最新の情報がセドルスの「観測飛行」には必要だった。皮製のジャケットを羽負いつつ部屋に飛び込んで来たロダス。その彼を、嘆息と共にセドルスは見上げる。彼にも資料を渡す旨デドロに頼んだ後、セドルスは相棒に対し眉を顰めた。

「ロダス、早く飯を食え。出発は六時半だ。さもないと置いて行くぞ」



 雪はやや烈しさを増した。


 飛行場から迎えの高級自動車の後部席に、まる10分も揺られていれば、後部席の客は目指す飛行場「鶴の巣(シリューグニステ)」へと辿り着く。実のところ、元来の宿舎の持主がプライベートで作らせた飛行場を、ローリダ共和国でも大手に位置する航空会社サンリクアムが買収し、延長と拡張を施すことで完成したのが「鶴の巣」の沿革で、緊急時の不時着用地の他、サンリクアム傘下の小規模航空会社「ミルタズ‐エラス」に委託された気象及び地形観測用の飛行場というのが、「鶴の巣」の名目上の存在意義であった。


 雪の量は多いが、それが横殴りでないだけ未だ救いがある……操縦士待機所及び飛行管制施設も兼ねる巨大な格納庫の傍で送迎車から降りて、風雪に頬を晒した時に抱いたセドルスの感慨は、その後に行われたブリーフィングで報告された気象予報で補完された。そしてこれから彼の向かう先が、雪一粒降らない快晴であるということもその場で知らされる――前日の飛行計画作成時に空図上に引いた線に、情報官や管制官からの各種報告に基づく修正を加えつつ、セドルスは傍らの相棒を見遣る……案の定、地図上に走らせる鉛筆が震えていて、しかも顔に表情が無い。

「ロダス、遊覧飛行と同じだ。お前はおれの言うとおりに写真機のボタンを押せばいい……簡単なことだ。ただそれだけじゃないか」

「…………!!?」

 今更のようにはっとしてセドルスを見返すロダス……その様子に、セドルスは近い将来の前途が多難なることを思う。



 子供の頃、博物館で見た大昔の潜水服のような分厚い繋ぎの服と、金魚鉢を思わせるフルフェイスのヘルメット。高々度で気圧が急低下した際に備えて特注されたそれは、重い上に構造が複雑で、それを着用するのに慣れない内は助手が必要で、新入りのロダスの場合、助手を付けても優に二十分の時間を要した。とっくに馴れたセドルスならば、彼一人で七分もあれば着用は完成する……二人がヘルメットと用具を収めたバッグを手に格納庫の主要部たる屋内駐機場へ足を踏み入れた時には、専属整備員による乗機の最終点検が終了したところであった。

「うあ……!」

 と、歩を止め、ロダスが彼らの乗機を見上げる。此処に来るまでに実機での訓練を経験してはいても、彼が驚くのには十分過ぎる理由があるとセドルスもまた思う。普通の戦闘機より二回りほど長大な胴体。さらにはその胴体に対してすら不似合いな程の幅の長く、細く絞りこまれた主翼が中翼配置で格納庫の幅一杯に突き抜けている。その上に天井へ向かいピンと張った細い垂直尾翼も相まって、飛行機というよりはまるで競技用滑空機のお化けの様な外観。さらに驚くべきは、機首の先端から尾部の後端、そして主翼の両翼端に至る全てが、この機の場合黒い。とにかく黒いのだ。それこそが、この機の醸し出す迫力の根幹であるようにロダスにも思われたのだろう。キズラサ教によって異端とされた古代神話に出てくる、凶事の到来を告げる巨大な(からす)を思わせる機体……以前、操縦訓練を受けに本土の空軍基地に赴いたとき、初めて接したその機に抱いた印象を、セドルスもまた再び噛締めつつあった。



「機長、整備作業は終了しました。書類に記名の後、機外点検願います!」

「おーう……」

 敬礼もせず、単なる事務手続き同然に整備書類を手渡してきた整備指揮官は女性であった。それも若い。実際に操縦桿を握る機長たるセドルスよりもある意味この機、「気象観測機(ゲルフィギア)」の全てを知り尽くしている人物。白い繋ぎの作業服の上腕に張り付いた徽章が、軍人では無く純然たるサンリクアムの社員である事を示していた。但しその名をセドルスは知らない。機密保持の観点からセドルス達操縦士及び地上要員と、機材の維持管理を担当する技術要員は双方ともあくまで民間人を装う事、そして持ち場の違う相互の部門に対し必要以上の干渉を持たないことを着任時から徹底されている。作業服の胸に張られた認識番号以外名前も知らない整備指揮官に促されるがまま、セドルスはペンで整備書類の必要事項に確認の印を刻み、最後に署名する。それから、恒例の搭乗前点検が始まる。


 戦闘機乗りならば半ば常識とも言える搭乗前の機体点検は、「気象観測機」の場合機の左半分が機長の受け持ちで、右半分が副操縦士の受け持ちと決まっていた。機首先端の信号灯と夜間着陸灯から視認が始まり幾つもの円窓に覆われた操縦席、空気取入口、そして胴体下部の写真撮影機――大小7つの撮影装置から構成されるそれは、迎撃機の上昇力の及ばない成層圏内から目標の詳細画像を前方、下方、側方、後方に亘り縦横無尽、かつ立体的に捉えきることを可能にしている。その威力は、ニホン、ノルラントといった現有の敵対勢力に対しては兎も角、有効な対抗策を持たない中小国には著しい脅威になる筈であった。機体点検が順調の内に終わるのも何時ものことだ。余計な交渉こそ無いが、セドルスは整備員の腕の良さにはすでに篤い信頼を抱いている。



 そして――搭乗。

 「気象観測機」の操縦席は前後に機長席と副操縦士席を配し、相互の席はやや左右シフト気味に配置されている。これは相互の視界確保と意思疎通の円滑化を図って生まれた構造だった。機長は機の操縦と写真撮影に関わる一切を担当し、副操縦士はその間の通信と航法、撮影作業の補助を担当する。但し離陸後20分余りで高々度に到達する「気象観測機」では、その特性上妨害回避を目的とした戦術機動などは不要な訳で、離着陸時以外の飛行コースに乗った機の操縦は、大抵副操縦士に任される傾向にあった。事実「気象観測機」に関しては、その開発時から単座案を推す声があった程で、最終的に複座型に方針が決したのは、ローリダにとって成層圏内の高高度飛行が所謂未知の分野ゆえ、バックアップ的な意味でも慎重策としての複座案を採ったと言った方が正しい。整備員に手伝ってもらい座席と体を固縛し、最後にヘルメットを被ることで自己の身体を外気から完全に遮断する。外部から繋がれた酸素供給ホースと電熱服用電力供給ホース、これらが以後離陸から着陸に至るまでの時間、セドルスとロダス、一切の生命の介入を妨げる成層圏に在って二人の生命を繋ぐ命綱であった。


 整然……パネル位置によっては大昔の蒸気機関車のそれの如く雑然と配された計器盤以外に眼に留まるこの機の特徴としては、明らかに機体内外からも隔絶された、まるで繭の中に身を置いているかのような操縦席が挙げられるであろう。操縦席は与圧され、隔壁に亀裂が生じない限り、操縦士は地上と変わらない環境下で操縦に関わる操作を行うことが出来るというわけであった。


『――点火装置起動……始動装置起動』

 サイドパネル内のトグルスイッチを、二本共に「接続」の方向へ倒す。同時に機体から接続された通話用ケーブルを通じ、セドルスの声が誘導員の被るイヤホンに聞こえる。キャノピーを開けたままの操縦席からセドルスの手が延び、突き出された指が回転した。それを合図に機内エンジン点火装置への送電が始まる。外部電源は格納庫内の発電機から、機体に繋がれた送電線により取り入れる仕組みになっていた。指を回転させつつ、セドルスの眼は点火装置と始動装置の居並ぶ傍に配された電圧計に向いている。電力を得て徐々に当初の位置から逆方向に傾きつつある電圧計の針が一定の値を指した時、今度は掌を開き、エンジンへの空気挿入を促す。やはり格納庫から繋がれた空気挿入用パイプを伝い、圧縮空気がその(はがね)(はら)に炎を宿しかけたエンジンを覚醒させるべく息吹を送り込む。


 流入空気量が一定の値に達した時、セドルスはスロットルを「始動」の位置にまで押し上げた。エンジンが地響きにも似た振動を発し始め、それまで不動だったエンジン回転計の針が、鞭打たれたかのように起き上がり始める……

『――10%』

 交信と共にセドルスは指一本を示し、回転計の数値を地上に伝える。以後10%刻みで指の数が増え、それが回転計内の数値で35%を上回った時にセドルスは腕を上げ、40%を越えた時に腕を下した。

『――送気止め!』

 セドルスの指示を受け、機体正面に立つ主誘導員のハンドサインを経由し送気パイプが機体から切り離された。その間セドルスの眼はずっと計器盤正面のエンジン回転計に集中している。回転計の数値が65%に達し、そこで針の振れが安定するのを見計らい、セドルスはスロットルをさらに押し開いた。「アイドル」の位置だ。エンジンと連動する機内発電機が順調に稼働していることも確かめ、送電線カットも指示する。その頃には、待機していた整備員が「気象観測機」の周辺を忙しげに歩き回り、ドライバーを手に開け放たれたままの点検用ハッチを閉め直し始めていた。舵輪を傾け、あるいは押したり引いたりして飛行機の命というべき三舵――補助翼、方向舵、昇降舵――が問題無く動くことを確認する。機内通話回線を通じ、副操縦士席に収まったロダスの声が聞こえて来た。

『――機長、位置送信装置起動します』

『――許可する』

 サイドパネルの一隅、赤いランプが短間隔で点滅を始め、やがて常時点灯に安定する。飛行の間中電波を発し、レーダー管制圏外の位置を報せるための装置だ。

『――位置確認用電波受信装置起動します』

『――許可する』

 再びもうひとつ、赤いランプが点滅。こちらは管制基地から発振される電波を受信し、帰還を容易にするための装置である。

『――機長、慣性航法装置起動。確認願います』

『――了解』

 ロダスが慣性航法装置に事前に設定した飛行ルートに基づく出発地、経由点、目的地の座標を入力した。完全に起動したそれが機の自動操縦装置と連動しているかを確認した後で、副操縦士は飛行ルート上の地形図を記録した磁気テープをサイドパネルに挿し込み、円形の地形表示スクリーンの起動ボタンを押す。点灯したスクリーンの中には、機の現在の所在――飛行場周辺の地図が寸分の狂いもなく投影表示されていた。それは前方の機長席にも反映される。

『――こちら機長、確認した。起動状態良好』

 

 離陸に臨む準備の一切は終わり、「気象観測機」はゆっくりと格納庫の外から誘導路へと進み出た。但し此処からが通常の飛行機とは手順が異なる。そのあまりに長大な主翼構造ゆえ、「気象観測機」の離陸以外の自力滑走は不可能とは言わぬまでも著しく困難であり、そのため主滑走路への移動には専用の牽引車を使用する必要があるのだ。機首と胴体中央、そして長大な主翼の両端……地上に在って「気象観測機」を支える主脚はそれら四ヶ所に存在する。牽引されるその間、管制塔がセドルスに飛行場上空の風向と風速とを伝えて来た。れっきとした構造物では無い、軍用の移動式管制塔。そこから距離を置いて忙しげに回転を続ける、皿のような形の膨張式レーダーアンテナもまた、軍用の可搬式装置をそのまま使っている……それらはセドルス達の雇い主が、「鶴の巣」の恒久的な使用を企図していないことを示す無言の証明であった。



 「気象観測機」は飛行場の発進地点に着き、接続機を解除した牽引車が慌しく走り去っていく――


 寒い……雪の量は積もるには未だ未だ足りないが、骨まで響く寒さは分厚い与圧飛行服を通しても伝わって来る。サイドパネルのキャノピー開閉スイッチを動かし、セドルスは外界との接触を完全に絶った。離陸命令はその後にやってきた。

『――「鶴の巣」管制塔より黒鶴2号へ、離陸を許可する』

「了解、離陸する」

 スロットルを「アイドル」からゆっくりと押し開く。「アイドル」から僅かに開いただけで機は前進を始め。全開に転じたときには離陸に必要な量の気流を捉えた主翼が、「気象観測機」の巨体を地から空へと押し上げた。最高出力に達したジェットエンジンの甲高い爆音――その一方で、飛び上がるというよりごく普通に「浮く」と言った方が正しいマイルドな離陸。それが「気象観測機」の持ち味である。


 有り余る揚力に任せてさらに持ち上がろうとする機首を、操縦桿を前に倒して抑え、トリムボタンで操舵にかかる力を加減する。飛び上がる間、身体に僅かな荷重が掛かるのを感じる。機が完全に飛行場から脱しようとする刹那、レバーを引き主翼端の補助主脚を切り離した。収納するスペースが無いための、いわば「使い捨て」で、逆に着陸時は胴体内の車輪を駆使し、支えるものの無い主翼端を滑走路に擦らないよう細心の注意が要求される。普通の感覚では飛ばせない、ややこしい飛行機……それが「気象観測機」。だがセドルスはこの飛行機が好きだった。難解な航空機を乗りこなすという、飛行機乗り特有の挑戦心を満足させることもさることながら、容易に到達できない高みにあって全てを見通せる翼の力に、操縦桿を握るセドルスは酔っていた。


 力……あのニホンですら持っていない。空を飛ぶ万能の眼という権力。


 前方の視界、行くべき途が自ずと啓いて行くかのように鉛色の雲間が前方に立ちはだかっては後方へと過ぎ去っていく。「気象観測機」は離陸したままの直進を続けつつ境界層に達し、それを越えた。旋回に必要な速度はすでに確保していた。フットバーをゆっくりと踏み、西へ向かって旋回する。その巨大さ故、こいつの現在の速度と失速速度の差は僅かなものでしかない。速度を落とさぬよう速度計を睨み続け、なるべく機を傾けないように旋回を繰り返しつつ昇る。壁の如き層雲を昇った先に、暖かな太陽の光と、透き通るような青空が待っていた。周囲の雲は白く、あるいは銀色の光りすら宿している。その眩さに目を顰めつつ、セドルスは言った。

『――ロダス、針路を教えてくれ』

『――申し上げます。針路0-3-2、第一返針点まであと200リーク。観測空域予定到達時刻 午前11時45分であります』

『――了解、針路0-3-2』

 もはや成層圏と呼ばれる高みに達しつつ、「気象観測機」は左旋回を続けた。このままコースに乗り自動操縦装置を起動させれば、当分彼がするべきことは無い。


 目指すはノドコール近海。そこに展開するニホン艦隊の「観測」を、彼らは課せられている。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ