終章 「First Mission」 (1)
都市国家ルジニア基準表示時刻12月14日 午前5時16分 首都ルジニア ルジス中央港第115埠頭 通称「離別の桟橋」
出所の知れぬ白煙が地を這うように埠頭一帯に広がり、それは何時しか層を為す入道雲のように、未だ日の昇らぬ闇空へと浸食の手を延ばしている。
運用の放棄された倉庫の空虚、その影から外を伺えば、白煙の正体が埠頭に横付けする巨大な船影から立ち上る蒸気であり、あるいは埠頭の建物の各所を、血管のように廻る配管から漏れる生活と生産の名残たる煙であることに、冴えた視覚を有する者ならば誰もが気付く筈だ。先日に横付けした、やけに腹の太いその貨物船は、昼間はまるで廃城のような静寂さを引き摺り続けていたものの、日が落ちた辺りから、今ではまるで急に生まれ出て来たかのような慌ただしさの中心となっていた。
慌ただしさの正体は、貨物の搬入であった。何よりも桟橋で軋みを上げつつ荷積みを繰り返す巨大なクレーンと、船から照らし出される探照灯と地上の松明を明かりに桟橋を行き交うトラック、そして荷馬車がそれを雄弁なまでに物語っていた。地勢的にはヒンディア洋に面し、その領域の過半を港湾部と貨物取扱区画に占められたルジニアは天然の良港であり、周辺海域に点在する大小100余りの国家及び種族生存圏の命運を繋ぐ物流の中心でもある――ただし、その施政と物流は7年前から遥かな海を越えて来訪し、武力による威嚇を以てそれを掌握した他者の影響下に置かれている。
―――再び、商船。
船尾を彩る国旗――赤地に二頭の絡み合う飛竜をあしらったローリダ共和国の国章。さらに目を凝らせば、その下に付き従う様にしてはためく旗に、誰もが目を奪われる筈だった。正方形に近い白地、独特の硬質な書体を有する「L」の上に、複雑に組み合わされた「S」「C」「C」の三文字……それこそが、商船たる彼女がこの港に於いて主となり得る絶対の根拠であった。その旗の持主が7年前にルジニアの海を抑え、ひいてはルジニアに連なる全てを掌中にした。本来ならばルジニアよりずっと北にある大国ローリダの、いち国営商社に過ぎない彼らの武力を前に、ルジニアはもとよりその周辺国の正規の軍事力は全く抗する術を持たず、やがては一切の抵抗力を封じられてしまったのである。
同じく、船尾に刻まれた船名――「グリュエトラルⅡ」というそれに、実のところこれと言って明瞭な由来は無い。船に関わる人々からしても、それが無いからといって何ら痛痒を感じるものでもなかった。だが、闇夜に紛れての荷積み作業が時を経るにつれ、作業に従事する現地の人々にとって、船名の響きは彼ら一人々々の内心で、次第に重さを増していくのだった。それは不吉な未来の暗示だった。「LSCC」の旗を有するフネが来る度に厳重になる埠頭の警戒も然ることながら、何よりも彼らが今、船の倉庫に運び込んでいる「荷物」が――
ルジス中央港第115埠頭――そこが、「離別の桟橋」と呼ばれるようになったのは何時頃からの事なのか正確に知る者は港にはいない。だが「彼ら」がこの街を支配するようになって間もない時節であることぐらい、多くの者が知っていた。何故ならば、それまでこの街では大っぴらに扱われることの無かった新しい「商品」が、「彼ら」の手で遥か彼方から海を越えて続々と集められ、港で堂々と扱われるようになったからである。夜、家畜用の貨物船で港に運ばれ、翌日の夜により大型の輸送船に積み替えされる、手枷足枷に身体の自由を奪われた人々の列、それらを目の当たりにして、戦慄を覚えない者などルジニアにはいない。さらには、家族ごと身売りされ、埠頭で別々の買い手へと引き離されていく奴隷たちの阿鼻叫喚を目の当たりにした日には――そしてルジニア人には、奴隷に悲劇を強いる「彼ら」を排除する手段も無ければ、それを行使するための実効力も、そして勇気もとうの昔に失われてしまっていた。
第115埠頭――「南ランテア社」専用の貨物搬入区画に面する小山、数多の倉庫と補修施設、そして工員宿泊所の犇めきあう一区画。
その建物の連なりを繋ぐ複数のいりくんだ片隅、港湾特有の、個人生活に対する配慮の無さを象徴する芥と塵に両隅を埋もれさせた小路を、トボトボと歩く影が二人三人――黒く分厚い外套に身を覆った彼らの姿は、その顔立ちはおろか衣服の輪郭すら外灯の無いその路地では、容易に窺い知ることはできなかった。船の主であり、この地の主でもある筈のローリダ人は此処までは踏み込んで来ない。連中はと言えば、一度船を降りればそのまま送迎のバスかトラックで市内の専用宿泊施設へと直行してしまう。当然そちらの方が公認である分娯楽と享楽の面で充実しているわけで、この奥まった「下等種族の貧民窟」に彼らの目が向くことはまず無いのだった。
「…………」
無言の内に小路を曲がり、あるいは急な坂道を登る。歩くにつれ、最初の変化が訪れる。微かに聞こえてくる誰かの談笑と、軽妙な弦楽器と笛の音。それに導かれるようにさらに歩を進めるうち、それらは乱調気味な宴の賑やかさとなって、人影の足はそこで止まった。
「…………」
見上げた先、傍らの扉、煉瓦造りの壁を矩形に穿つように見える鉄製のそれは醜く錆付き、一度蹴りを入れれば容易に破れそうなほど儚い外見を有していた。人影の一人がドアノブに手を延ばし、そしてドアを押し開く――
「…………」
通路があった。窓一つ、明かり一つとしてない廊下――
その先は行き止まり……それでも、床を軋ませつつ三人は奥へと進んだ。行き止まりに達した時、一人が手を延ばして壁を探り、そして小さな引き戸一枚を経て壁に埋め込まれた何かを探り当てた。この地ではまずお目にかかれない筈の「何処かの文明の利器」。テンキーとカードリーダーの組合せ――
『――ピッ……!』
隠し持っていたカードを読み込ませ、その後にテンキーを押す電子音が続く。直後に音も無く壁がスライドし、淡い明かりに照らされた地下へと続く階段が、三人の前に飛び込んできた。足の向く先は階段から降りた突当り、最後のドア――
「…………!」
最後のドアを開けた先に、出所の知れない甘ったるい匂いと狂乱が闖入者を待っていた。集う人々の嬌声、笑い声、そして怒声――掻き鳴らされる異界の音楽と歌声、そして得体の知れない酒と香料の強烈な匂いが、人々の活気と体臭とを中和するかのように、眼前の薄暗い空間に充満している。突然の闖入者に対し向けられた警戒と猜疑の眼差しは鋭いが、それも一瞬のことだ。客より関心を払われなくなった三人は酒や食い物に占領されたテーブルの森を縫う様に抜け、時折地面に落ちた食い掛けの骨付き肉や酒瓶に足を取られつつ、または客引きの踊り子や楽士をかわしつつカウンターまで進んだ。
「――聞いたか?」
「――何を?」
「――南ランテア社の『奴隷船』が、また海賊に襲われたらしい」
「――海賊?……また『鷹の羽』か?」
「――断言はできんが……あの辺りで動いている海賊となると……やはり 『鷹の羽』だろうな」
「――まあ、どっちにしたって、ローリダの盗賊どもにはいい気味さ」
歩き、足を進めながらに又聞きする客の会話……真意の程を確かめる術がなくともこうした場が、出所が明確な、あるいは出所不明な情報の集積の場であり、交換の場としての価値を貶めることはない。そして現在、この地下酒場に集う人々の話題は、遥か西方の何処かからここルジニアの港を中継し、最終的にはローリダ共和国本国に終点を有する、通称「奴隷航路」の途上に突如出現し、海路を荒らし回る出所不明の海賊団に集中している……
一人の老人とそれを補佐する亜人種の若者が二人……カウンターでクダを巻く面相の悪い客に相槌を打ち、あるいは適当にあしらいつつ忙しげに仕事をこなす三人の注意を引くのに、少しの勇気が必要だった。
「注文を頼みたい」
「何を御所望で?」と、壺の古酒を酒瓶に継ぎ足す手を止めず、一人の亜人が聞く。
「…………」
三人は、互いに顔を見合わせた。
「……プレミアムモルツを3杯、お通し付きで」
「お通しは何がいい?」
「……切干大根」
「…………」
亜人が、黙った。そして三人を見た。彼らが自分たちの敵か味方か、改めて見定めているかのように思われた。一人の亜人が老人を呼び、そして身振りで三人を指し示す――老人はホールの少女に客への応対を任せ、三人の前に立った。
「何しに来た?」
「アナスタシアに頼まれて来た。贈物を届けたい」
「名前は……?」
「レッドアーミー……」
老人は親指で背後を指差すようにした。そのとき一方の手がさり気無く、カウンターの陰に延びて隠れていたが、そこに拳銃なりナイフなり、何らかの暗器を隠していることは、此処では素性の知れない訪問者でしかない三人には容易に想像が付いた。此処は守られているが、それが「今のところ」でしかないことを彼らは知っていたのだ。何時の間にか、カウンターの遣り取りを遠巻きに見守っていたホールの踊り娘が、後ろ手に裏口を開け三人に潜るよう促した。
ランプを手にした娘に導かれ、錆付いた鉄製の階段を上がる……一歩、また一歩と昇りを重ねるにつれ、ひんやりとした空気が重く、不快なものに感じられた。階段は二階部分を少し超えたところで途切れ、その先の踊り場には扉があった。
コンコン……扉をノックする娘の拳、三人にとっては聞き慣れぬ、異国の言葉での扉越しの遣り取りが一分ほど続いた末、扉を開けた女は三人に部屋に入る様に促した。
「止まれ。これ以上進むな。私がいいと言うまで」
「―――!?」
女性の声だった。その響きは若く、だが冷たい――そして、正面から自身に突き付けられている銃口の存在を三人は感じた。
椅子に座った人影――部屋を支配する闇が、来訪者たる三人にそれ以上の相手を見定める術を奪っていた。机に置かれた化粧箱の様な奇妙な機械が、それを知らぬ三人にとっては低い、だが不気味な響きを奏でていた。箱の中で何かが回っている様な、太った蠅が羽ばたく様な響きが耳に障る。開かれたままのその一方から漏れる光に関わらず、三人の雇い主の顔はなお陰になって見えなかった。
「写真……撮って来た。言われたもの、全て写して来た」
「例の荷物は、置いて来た……?」
「も、勿論だ」
と、三人の内の真中、痩せぎすの男がおずおずと写真機を差し出す。この世界広しと云えども、掌程度の大きさ、そして手帳程度の薄さでしかない小型写真機を作ることのできる国は余りに限られている。写真機を受け取るや、女性はそれをコードで箱状の機械に繋ぎ、次に彼女は画面に向き直る。それまで抑えられ気味であった光が一層に強まり、端正な、あるいは高貴な印象すら伺わせる女性の横顔を明晰に、だが不気味に照らし出した。
「使い方、ちゃんと覚えていてくれたようね」
「ああ……最初は苦労したけど」
箱一面に詰まったボタンを、鍵盤でも弾く様な指使いで触れるや、切り替わる端末の画面――暫く指先での操作を繰り返した末、何かに満足したかのように女性は頷き、そして微笑する。それまで無言で彼女の表情の変化を見守っていた三人の内一人が、口を開いたのはそのときだった。
「なあ……聞いていいか?」
「何かしら?」
と、彼らを省みることなく女性は言った。
「ニホンは、これからどう動くのだ?」
「…………」
女性の顔から、表情が消えた。三人が息を呑んだのは、ほぼ同時であったかもしれない。
「どうなんだ?……ニホンはおれ達の行動に応えてくれるのだろうか?」
「……正直、それはわからない」
「わからない?……わからないってどういう事だ?」
男の一人が声を荒げた。その顔は不安と切迫感とが、冷や汗を伴って交互に点滅している。ルジニア人としての自由は、それを奪われて既に久しく、男は彼自身の若さ故に自身の無力さと現実に対する焦りを覚えていたのかもしれない。
「ニホンがどう動くかは、あなた達の行動ではなく、今此処を支配している連中次第……ということかしら」
「それだけでは……」
なおも食い下がろうとする男を無視するように、女性は机の引出しを勢いよく開けた。反射的に身構えた男達に、彼女は無言で袋を放る。慌ててそれを受け取り、中身が報酬と見るには過分な量の金貨であること、そして先方が話を切り上げたがっていることをその感触で悟った男……女性は彼らに微笑し、言った。
「暫く此処には近付かない方がいいわ。用があれば、また連絡するから」
受け取るべきものを受け取らされたが故に、抗弁の余地を失った男達。踵を返し、釈然とせぬままに帰途に付く彼らの背中を、女性は表情を殺して見送るのだった。不意に板硝子が揺れ、次には穏やかならざる強風の到来を部屋の主に告げる。
窓辺へ向かい、女性は腰を上げた。黒一色に覆われた衣であっても、腰と脚の流麗な輪郭、それもしなやかさを秘めた曲線を薄闇の中で際立たせていた。
「……嵐が、来るのかしら」
厚い、薄朱の唇から洩れる呟きは、恐らくは確信であった。
スロリア亜大陸基準表示時刻12月17日 午前6時21分 スロリア亜大陸南西海域上空
長い間、怪物の胃袋の中に閉じ込められているかの様な感触は、それが左右に揺れ出すのと同時に消え去った。
「…………」
高良 俊二は、無言のままに天井を見上げた。始終油の匂いの取れない濁った空気、縦横に巡る配線と配管、そして骨材に支配された、決して快適とは言えない空間。専用携帯電話に入った電子メールの指示した場所、埼玉県入間の航空自衛隊飛行場を0010きっかりに発ってすでに6時間余りを、俊二と彼の同僚たちは、この空間で各々に強いた静穏の内に過ごしていた。
外はどうなっている?――それまで時の流れまで静止したかのように変化なく過ぎて来た貨物室内は、いまや左右上下に揺れ、時には生命の危機すら感じさせるほどの動揺の連続となって空の旅を脚色している。予定通りに旅の終わることを、俊二自身としては心から信じきっていた訳ではなかったが、それでも振動の烈しさは知らず、死と向き合うための心の準備を新参者たる俊二に強いてしまう。
……そう、俊二はいま、航空自衛隊のC-2輸送機の機内に在って、スロリア近海上空にまで及ぶ空の旅の途上にある。
正直、これ程までに早く戻れるとは思っていなかった。そこはほんの三年前、日本が未曽有の危機に直面し、その持てる力を振り向けて侵略者と戦った土地。三年前の俊二もまた、その戦列の只中にいた。日本は戦いに勝ったが、彼はといえば未だにその勝利を噛み締める事が出来ずにいる。俊二は思う。そこは自分の運命を狂わせた土地、スロリアは自分から多くを奪い、その自分は奪われたものをそこに置いて来たまま、未だ取り戻せずにいる……
瞑目を解き、俊二はさり気無く、貨物室の床へと視線を落とした。首元から爪先までを覆う上下繋ぎの、迷彩されたジャンプスーツ。その上から全身をきっちりと締め付ける安全ベルトと救命衣。ベルトによって繋がる、背面全体を覆う落下傘の収納袋――それらを挙げるだけでも、現在の自分が一人の人間としてよりも一個の兵器として扱われているかのような錯覚に襲われてしまう。これまで何度も経験したのに、この錯覚だけは拭えないでいる自分がいる。その全重量60㎏に及ぶ高高度自由降下用の装備一式、これらの上に、実際に降下する際には銃器等の戦闘用装備も帯同しなければならない。当然レジャーではなく、純然たる「任務」のための備え。だが、決して報われることの多からざりし「任務」―――
「――どうした新入り、怖気づいたか?」
投げ掛けられた声に、俊二は顔を向けるよりも早く、ゆっくりと眼差しを動かすようにした。向かい合って配置された簡易座席の反対側、顎鬚を短く蓄えた男が、ニヤリともニコリともせず、ただ無表情に俊二の表情を伺っていた。伺う……というよりも自分を監視しているのではないか。それも先刻からずっと……という風に俊二は感じた。背の丈、肉の付き方は俊二とほぼ同じ。だが背筋から腹筋に至る絞り具合は、熱帯の木々の間から眼下の獲物を狙う黒豹の体躯を俊二に連想させた。
「……いえ」
相手から眼を離さず、むしろ睨むように見て俊二は応えた。そのとき、対面の男は始めて笑った。口元を微かに動かした様子が、笑っているように俊二には思えた。鷲津 克己二等陸尉。俊二の所属する陸上自衛隊特殊作戦群において、俊二にとっての直接の上司が彼であった。
優に120名の人員を収容できるC-2の貨物室。だが本土より3000㎞以上を隔てたスロリア南方近海上空まで俊二達を運んできたC-2は、その貨物室に俊二自身を含め7名の人員とその装備しか載せていない。それ故時によってはこの空虚な貨物室に、自分一人しか居ないのではないかと思える程に静かな時間を俊二は過ごして来た。時間が経つにつれて分隊の気配は消え、貨物室の内壁と一体化しているように俊二には思えてならなかった。そして当の自分もまた、離陸から現在まで、あたかも輸送機を構成する幾万もの部品の一個として振る舞ってきたかのような、一切の自我や私情の消えた、超自然的な感覚に何時しか囚われている――
『――機長より全員へ、間もなく降下予定地点上空。これより減圧を開始する』
「……おいでなすった」
俊二の隣席、やはりジャンプスーツに全身を包んだ男が言った。金髪にピアスの男。年齢は俊二と同じ位で、階級も俊二と同等。だが金髪にピアス――奇異であり、驚愕すら覚えたその風貌に今更のように驚くには、俊二は既に一生分の驚愕を使い切ってしまっている。その名は賀上 冬二 二等陸曹。その彼に続き、俊二もまた酸素マスクを付け減圧に備えるのだった。
『――――』
そして俊二は改めて見遣る……貨物室の一角を占める特殊作戦群の男達。
言い換えれば、第2小隊D分隊の新たな「仲間」たち――
「高良 俊二 二曹であります……!」
「鷲津だ。宜しくな」
味気ない返答が、敬礼に対する答えだった。ただ鋭い、空虚な眼光が彼の新しい部下を見据えていた。
待機を解かれ、再び出頭した習志野駐屯地は特殊作戦群のオフィスで配属分隊の長に引き合わされた時、鷲津二尉に対し、一目で好感触とは全く逆の感触を覚えたのは俊二にとって拭うべからざる本心だった。だが、自分は友情とか個人的な信頼とか、そのような「初々しい」ものを求めに特戦に志願したのではない筈だ……内心で自身にそう言い聞かせ、俊二は気を付けの姿勢を崩すまいと努める。が、俊二の予期に反して世間話を交わすでもなく、無言の内に観察する時間を取るでもなく、鷲津二尉は言った。
「配属早々騒がしくて迷惑だろうが、早速任務が入った。おれたちはこれから空路作戦地域まで進出するわけだが……お前は、どうする……?」
「ご一緒させて下さい!」
反射的に声が出た。分隊の空気に馴れるには絶好の機会だと思った。途端に踵を返し、俊二を置いて歩き出す鷲津二尉、少し歩いたところで唖然とする俊二を省み、顎で付いてくるように促す。自分の答えは正解なのだろうか? この先に一体何が待っているのだろうか?……そんなことを考える暇すら、鷲津二尉は与えてくれなかった。
俊二が辿りついたのは、オフィスから奥まった位置に広がる講堂。狭い上に一切の照明が消され、闇に支配されたその場所の一角に、複数の人影が着座しているのを俊二は見出す。それがこれから行動を共にするD分隊の人間であることを察するのと、何時の間にか傍らにいた鷲津二尉が口を開くのと同時だった。
「あいつらだ……あいつらがお前のこれからの仲間だ」
鷲津二尉が俊二に席に座るよう促した。集会室か……直感と確信を胸に、俊二は歩を進めた。再後列に座る一人の傍にさり気無く座るや、その影が俊二に囁くように言った。
「新入り?」
「はっ……!」
「そんな肩肘張らなくてもいいよ。疲れちゃうだろ」
砕けた口調に拍子抜けする俊二に、影は小声で続けた。
「しかしツイてないよなぁ新入りさんも。配属早々からこれだろ? 特戦は元々ローテ厳しい上にスロリアの件もあるからさ。後方でじっくり訓練するってこと最近出来てないんだよ」
「仕方がないんじゃないでしょうか? そういう部隊ですし」
「まあ、言われてみりゃあそういう部隊なんだけど……おれとしてはもう少し余裕が欲しいやね」
『…………』
「…………?」
前に座っていた影の群が、何時しか自分たちの遣り取りを、無言で伺っていることに俊二は気付く。その何れも顔の詳細を捉える事が出来なかったが、輪郭から伺える肩幅や肉付きから、大小様々な体躯の持主がこの分隊にいることを俊二は察することが出来た……だが、影であってもある程度は把握できる筈の表情の動き、さらには感情の動きを、全く察することが出来ないというのはどういうことであろうか? それを不気味がるよりも、皆の心象を悪くしただろうか……と俊二が不安がるのも一瞬、
「起立!……礼!」
鷲津二尉の発声一下、隊員は一斉に立ち上がった。女性の制服幹部を伴って入室したスーツ姿の防衛省情報官、スーツ姿ではあったが、その身のこなしから、制服も着ている――あるいは、かつては着ていた――人間であると俊二は察した。行動を共にする女性幹部の胸には、情報科の徽章が冷たく光っている。女性幹部がノートパソコンを開きプレゼンの準備に取り掛かっているのを尻目に、情報官は壇上の広角端末の前に立ち、ピンマイクを摘んで言った。
『楽にしてくれ』
全員が腰を下ろしたのを見計らい、情報官は続けた。
『状況を説明する』
直後、背後の広角端末に光が宿り、地形と動画、写真の入混じった複数の画像の連なりが、俊二の闇に馴れかけた網膜を灼いた。
「…………」
『――現在、スロリア亜大陸西方に位置するロメオの勢力圏ノドコールの情勢は一層に不安定さを増している。具体的には、先住民たる現地住民とローリダ人入植者との衝突であり、10月以来現地で続発する正体不明の武装勢力による村落襲撃、住民虐殺事件である。ロメオ側はこの村落襲撃への関与を否定しているが、現地住民の被害はその程度、内実ともにもはや看過できない段階に達している。また、現時点では事件の発生は報告されていないが、現地駐在のスロリア特別援助群及び民間の住民支援組織が今後こうした騒乱に巻き込まれる可能性も排除できない。そこで日本政府としては、二年後の住民選挙実施を円滑ならしめるべくあらゆる不安定要因を排除し、情勢を平穏化させるべく行動を起こす必要を痛感しているところである……』
画面が切り替わり、空中から撮影した船舶の写真が複数、端末に表示された。
『――これらはスロリア南方近海において、我が国海上保安庁及び海上自衛隊の航空機により撮影された所属不明の船舶である。後の追跡監視行動により、これら船舶はその殆どがこの海域よりさらに南西の都市国家ルジニアを起点として活動していることが確認されている』
再び切り替わった画面は、そのルジニアと思しき地形を鮮明に映し出していた。偵察衛星による画像だと俊二は直感した。スロリア亜大陸から遥か南西はイドリア亜大陸の中部、東西を海に面したそこは、東西何れも設備の整い河川を利用した運河で繋がれた港湾と、それに集う広範な都市群を、遥か天空の高みからも目視できる程に現出させているように見えた。広角端末の画面が、貨物船と思しき一隻の船の写真を表示させる。情報官の指示に従いその船尾がたちまち拡大され、その所属を示す二枚の旗を鮮明に映し出す。一枚は赤地に黄色の龍章を組み合わせたローリダ共和国の国章、そして白地に黒の判読不明の文字をあしらったかの様なもう一枚は――
「…………?」
『――ルジニアは現在ロメオことローリダ共和国の影響下にあり、この写真は、ルジニア在住の現地協力者から提供されたローリダ船籍の貨物船である。赤いローリダ国旗の下、白地の旗に着目されたい。これは、南ランテア社の社章である』
「…………!」
舌打ちの主を、俊二は思わず見返すようにした。舌打ちを聞いた前列の席、分隊からやや離れて着座している鷲津二尉は、広角端末から投掛けられる青白い光の下に在っても、苦々しい表情を隠していなかった。尤も、苦渋を浮かべるであろう理由は俊二のような新参者にもおぼろげながら理解できた。「南ランテア社」というのは、特殊作戦群の後期教育課程、その中で組まれた国際情勢教育講座において、俊二もまた少なからず聞いた固有名詞であったからだ。南ランテア社、それはこの異世界において日本の唯一の「仮想敵国」たる、「ロメオ」ことローリダ共和国の保有する「もうひとつの軍隊」。国営貿易会社を装った、彼らの正規軍に匹敵する兵力を有するローリダの「傭兵軍団」……あるいは、ローリダの植民地獲得戦争の「血塗られた尖兵」――講義においてその固有名詞に俊二が抱いたのと同じ感慨を、鷲津二尉は恐らくは特殊部隊員としての実体験によって得たのかも知れなかった。
情報官による説明は続いた。
『――南ランテア社船籍の民間船舶による、スロリア方面への航行は二年前より顕在化し今なお継続している。ローリダ政府は対外的にはこれを、現地住民への食糧支援ないしは肥料及び農器具の輸出、移民の運送としているが、航路及びその積荷には不審な点が多々見受けられる。そこで防衛省は半年前よりルジニア国内に複数の現地人協力者を確保し、彼らを使い秘密裏に内偵を進めて来た……』
端末が、新たな画像を映し出した。横付けした船腹の下、荷物の積み下ろしに賑わうごくありふれた埠頭の風景であった。外目には――
「…………?」
俊二の眼が、険しさを増した。岸壁から船腹まで続く乗客と思しき列、その大半が粗末な服装の男達……それが俊二には奇異に思えた。移民に相応しい若者、あるいは家族連れが全く見受けられない。しかも彼らの左右を固める武装した兵士……その彼らに守られ……否、監視されているように見える堅気とは思えない、険しい顔つきの男達の列――
『――これはスロリアへ向かうローリダ人入植者であるが、より着目すべきは入植者乗船と並行して行われている貨物積載作業である。次の画像に着目されたい』
次に切り替わった画像は、埠頭の後方で行われていた貨物の梱包作業を映し出していた。倉庫と思しき薄暗い、だが広大な空間の中で、仮設の木箱、あるいは布袋の中に荷物を詰める作業。だが画像の中で梱包されつつある「モノ」を前にして、両目を見開くようにしたのは俊二だけではなかった。
『武器……?』
それも、入植活動に必要な猟銃とか、護身用の拳銃どまりといったレベルではなかった。俊二自身も訓練で扱ったことのあるローリダ軍制式の小銃、機関銃、果ては……
「…………!?」
緩衝材の藁屑に埋める様に木箱に納められようとしている円筒形の物体に、俊二は思わず身を乗り出すようにした。やはりローリダ軍制式の、車載無反動砲の砲身だと直感した。その直後に映し出された砲弾を梱包する様子が、俊二の直感を確信へと変える。砲身と支脚、照準器を分割して梱包しているところを見ると、荷揚げした先で組み立てる腹積もりなのだろう。では、何のために……?
『――遺憾ながら、我が国担当各方面の監視を掻い潜り、すでに相当数の兵器がノドコール国内へと運びこまれているものと推測される。武器の集積場所及び実行部隊の拠点の所在は、現在我が方現地情報隊が調査中であるが、ロメオがノイテラーネ条約受諾にも拘らず水面下でスロリアに兵器を運び込み、独自に彼らの手駒となり得る武装勢力の育成を行っていることは確実と思われる。これが意味するところは、将来の住民投票の結果として招来され得るノドコール独立に備えた、抑圧的な影響力確保の意図がロメオにあり、我が国としてはロメオのノドコール、ひいてはスロリア全域に対する再度の不当な干渉を未然に防止するためにも、相応の対処をせざるを得ない。そこで今回、防衛省及び外務省、国土交通省各省の担当者を交えた内閣安全保障会議内の協議により、君たちに非公式の任務を設与することとなった』
本題だ……と俊二は思った。画面が再び切り替わり、ルジニア港の地形図と、そこに重なる様に一隻の船舶の画像を映し出す。
『――船舶名「グリュエトラルⅡ」。これは南ランテア社船籍の大型貨物船である。ちなみに同型船の「グリュエトラルⅠ」は、三年前に南スロリア海上において、これを確保した海上保安庁の巡視船隊とともにローリダ海空軍の攻撃を受け沈没した船でもある』
あのときか……もどかしさと悔しさを伴う、胸を灼く感慨を俊二は覚えた。その「グリュエトラルⅠ」が死に瀕したとき、自分もまたスロリア亜大陸の何処かで死と隣り合わせの彷徨を続けていたのだ。あの日――あれは、義務に殉じた多くの日本人の生命が非道に奪われ、主権国家としての日本の尊厳が著しく損なわれた「屈辱の日」――それは、日本と「彼ら」の戦いが始まった「運命の日」。
『――「グリュエトラルⅡ」は現在、スロリア南岸より約2000㎞南西海上を北上しつつあり、推定目的地まで時間にして後72時間で到達するものと推測される。君たちの任務は航行中の「グリュエトラルⅡ」を、彼らの組織に察知されるより先に捕捉し、彼らによる武器輸送の証拠を確保することにある。相手は商社を偽装しているが、その実純然たる軍事組織であるが故に、確保の手段に関し斟酌は一切必要ない。君たちが収集した証拠を基に、以後日本政府がロメオに対しスロリアを取り巻く諸問題に関し、有利な交渉を行えるように任務を完遂して欲しい。これにて状況説明と任務設与を終了するが、質問は?』
すかさず手を挙げたのは、鷲津二尉だった。
「此処で確認しておく。場合によっては、軍事による当該船舶の制圧及び障害の排除も容認され得る、ということでいいのか?」
『――そうだ。幸いにも作戦予定海域は海図上の難所だ。船が一隻消えたところでそれを不審がる者はいない、ということでもある』
「なるほど……幸いにも、ね」
照明の抑えられた空間故、はっきりとは見えなかったが、鷲津二尉が笑ったのが俊二には判った。不敵な笑いだと思った。
――再び、輸送機。
通称「トウジ」、賀上 冬二 二等陸曹はD分隊の通信担当だった。年齢は俊二と同じ。だが高校卒業後に一般入隊したという点からして、予備自衛官から正規隊員にスライドした俊二とは出自が根本的に違う。特戦群本部のあの暗い部屋で、俊二に最初に声をかけて来たのが彼であった。金髪にピアスと言う自衛隊員にあるまじき外見、さらに距離を詰めた瞬間に察した香水の匂い……だがその背中から気迫として伺える経験と練磨の蓄積が、尋常なものではないことぐらい俊二にはすぐに判った。即座に感じられた緊張。だがそれも、お喋りな性格に切手集めと献血という、意外とも感じられる趣味を知らされるにあたって苦笑の内に霧散してしまったが……
そのトウジが言った。
「食えない奴らだよな俊二……実際に行くのはおれ達だっていうのに」
「海自特殊部隊は今回動かないのかな」
と、俊二は頷き、高度計の数値を修正させつつ応じる。同年齢に同じ階級、そしてトウジの打ち解けやすい性格が、出会ってごく短い間に、二人の間で入隊年度という壁を自然に瓦解させていた。あるいは対照的な性格が、むしろ二人を繋げるのに少なからぬ要素として働いたのかも知れなかった。
「――シールズは今回別任務に備え待機中だ。この任務には回せない。おまいら船舶制圧は不慣れだろうが、まあ上手くやってくれや」
と言ったのは鷲津二尉だ。「コブラ」という彼の通称を、俊二は出撃前に知った。サイボーグを思わせる引き締まった体躯と如何なる困難をも軽くいなしてしまうような不敵な表情……確かにこの人には「コブラ」の二つ名が良く似合う。
「シールズは、ノドコール深奥部に潜入しての偵察任務に重点的に投入されるだろう。要するに敵性武装勢力の捜索と監視だ」
「妙な言い方ですな。防衛省情報本部の連中にもう少し突っ込んどいた方が良かったんじゃないですか?」
と、鷲津二尉の隣に座る一人が言った。年の程は鷲津二尉と同じ位の、無精髭の濃い男。だが彼が被っている阪神タイガースのキャップが、国家の危急に殉ずるべく死地に赴く途上に在るに場違いだと思うのは、異常なのだろうか?……俊二は内心で困惑を覚える。
「ヤクローは、残らなくて良かったのか? 嫁さん臨月なんだろう?」
「いいんですよ……でも思えば出産に立ち会えたのは一人目と三人目だけだったな……」
やや寂しげに、だが諦観したようにキャップの男は言った。通称「ヤクロー」こと須藤 八九郎 准陸尉は分隊の破壊工作担当であり、鷲津の副官格でもある。そして個人的にはプロ野球の阪神タイガースの大ファンであり、すでに七年連れ添った異種族の妻との間に七人の子供がいる……「基本休み無しの特戦に入って一〇年以上経つ筈なのに、一体何時どうやって『仕込んで』いるのやら」とはトウジの言だ。
「……でも、普通逆じゃないんスか? 船舶制圧なんて、シールズ向きの仕事でしょ」
と、奥まった席を占める一人が言う。短躯、痩身、それ故に体格に合わないジャンプスーツがダブついているように見える。だが、そして青白い顔色すら美点として見える程に美形。それも女性と見紛う程に端正で、それに加えてクセの目立つ長髪に円らな茶色い瞳が遊び盛りの少年のそれを思わせ、それ故に、このような男臭い場所に身を置くには外見の威圧感不足はもとより、年齢と経験もまた明らかに不足しているように見える。移動の間中常に風船ガムを口一杯に頬張り、時折膨らませているという風は、歴戦の特殊部隊員の挙動というより修学旅行中の高校生のそれであった。その「高校生」の眼が期せずして俊二のそれと合い、彼は俊二を睨むようにした。「超高校級兵士」を前に、友軍である筈の俊二もまた内心で身構えざるを得ない。
「超高校級兵士」こと、伏見 憲伸 三等陸曹、通称「ケンシン」は一九歳。この時点で、自衛隊内でも異常とも言える彼の経歴の一端を伺い知ることができる筈だ。彼が特殊作戦群初期練成課程を修了したのは一七歳、少年工科学校在学中の時で、もちろん特殊作戦群創設以来最年少の記録であった。それ以来、エスカレーターにでも乗ったかのように「エス課程」の全てを修了し、現在に至るまで特殊作戦群隊員としての責務を大過なく勤め上げてきている。世の中のいかなる分野であれ、「早熟の天才」というものが存在することの生きた例証が、このケンシンであるのかもしれなかった。
「…………」
「…………」
ケンシンは俊二を睨み続けていて、俊二も何時しかそれに対峙している。何もこの時限りではなく、特戦の本部で初めて顔を合わせて以来、ケンシンに関しては眼が合う度にずっとそういう風に返されるのが俊二には不思議であった。実を言えば全く顔を合わせないそれ以外のときにも、この少年の自分に向けられる視線を感じる時が俊二にはある。だが不愉快だとは感じなかった。例えて言えば他人の家に上がり込んだ時に、躾の悪い飼い猫に始終警戒されているかのような印象に似ている。
その時、トウジが言った。
「……あれですよ。海自のお偉いさんが五月蠅いらしいですよ。コソ泥みたいな変な作戦に投入して、大金かけて養成した隊員を無駄に死なせるなって……」
「その変な作戦のための、シールズだろうが……!」
と、ヤクローが困惑したように言う。
「海幕の連中、ああ見えて特殊作戦には全く無理解ですから……シールズにしてもただ『昔のご主人様』が持っていたから作ったってだけで……」
「……ああ、『アメリカ病』ってやつか……」
何気なく、俊二はケンシンから逃れる様に視線を逸らし、座席の奥を一瞥する……奥を占める二人の影、その一人はただ無心に腕を組み、持ち込んだ携帯音楽プレイヤーに集中しているように見えた。ジャンプスーツからもその魁偉さが判る筋肉質の巨体と、それに劣らず太く長い腕。表情は眼全体を覆う細いシューティンググラス故にそれを掴むことは出来なかったが、漆黒の肌、分厚い唇と一本の頭髪もない頭部は、市井にごくありふれた日本系の容姿とは、明らかに一線を画した異彩を漂わせていた。「ブレイド」……危うく出かかった彼の別称を、俊二は慌てて喉奥に押し込める。
「ブレイド」こと柳 斗夢 二等陸曹は分隊の重火器操作担当。二メートル近い長身とそれを支える強靭な肉体は、重量級の得物を振り回し悪鬼を攘うファンタジー世界の闘士のそれを思わせる。事実、彼の肉体には「前世界」のアフリカ系アメリカ人の血が四分の一流れている。
「ブレイドは――」
と、トウジは言う。
「――ああ見えて繊細な男だ。アニメフィギュアを集めていて、『ONEPIECE』を愛読している。休日には部屋に閉じこもり、『CLANNAD』や『AIR』を見て涙を流して過ごす……心優しい巨人だよ」
「…………」
アニメはよくわからないが、面白い人物であるのには違いない……トウジとの遣り取りを反芻しつつブレイドを見返しかけたとき、彼の対面に座する影が不意に俊二を顧み、二人の眼が合った。
「……何を見ているでゲソ?」
「ゲソ……?」
忍者が、俊二を見返していた。正確には、頭全体をすっぽりと覆うバラグラヴァの顔面を占める、赤いクルクルホッペに丸目、への字口の印象的な漫画の忍者の顔。当然、素顔ではなかった。困惑に縛られて言葉を失い、さらには表情すら凍らせる俊二。そこに口を開いたのはケンシンだった。
「あれ? カンゾウさんまた口ぐせ変えたの? 確か先週はベシだったっスよね?」
「いや、ナリじゃなかったか?」と、鷲津二尉が言う。
「ゴザルだったかと……」と、言ったのはヤクローだった。決して覆面の男を不審がったり不快がっているような風ではなかった。むしろこういう人間が隊にいることがごく自然で、日常であるかのような振る舞い―― 一方、覆面の男はただ、俊二と眼を合わせたまま、文字通りの忍者の様な静寂を保っている。それを見、対面に座るブレイドが白い歯を覗かせて笑っていた。
名は服部 カンゾウ。階級は一等陸曹。実は本名ではない。その上に素顔も年齢も不詳だった。そして先程の様に日常会話にわざと口ぐせを付けて話す趣味 (のようなもの)がある。その通称は「ハットリ君」だが、作戦中は単に「ハットリ」と呼ばれることが多い。此処まで語ってしまえばただの変質者なのだが、「ハットリ君」がそうではないことは、これまでの嚇々たる戦歴と仲間からの篤い信頼で明らかになっている。あの御子柴群長ですら、彼の特殊作戦要員としての資質には一目置いている程なのだから――
「総合的な戦闘力で隊員の個性を測るならば、あの人が特戦では一番強いかもしれない」
と、トウジも言っている。すでに10年程特殊作戦群に身を置いているそうだが、D分隊で合流するまではキャリアが同じ筈のヤクローですら、彼と行動を共にしたことはおろか顔を合わせたことが一度もない。彼が特殊作戦群内でもより機密度の高い任務に、それも年単位で継続して就いていたことは確かであり、「前世界」から遡る、よほどクリティカルな背景が、この「ハットリ君」の立ち位置をその正体も含め生ける防衛機密としているのかもしれなかった……とにかく、謎の多い男なのである。
……特殊作戦群第2小隊D分隊は、そうした男達で編成されている。
減圧――その瞬間に訪れる耳から耳へと脳髄を貫く、お決まりの不快な感覚にはとうに慣れた。
『――減圧完了。降下地点上空まであと5分』
それまで無言で彼らの遣り取りを伺っていた機上整備員が立ち上がり、親指を掲げて見せた。降下準備開始の合図だった。彼の顔はフライトヘルメットと酸素マスクとで覆われ、彼自身の身体もまた落下防止用のロープで機体に繋がれている。合図に従って腰を上げつつ、俊二は操縦席と貨物室を隔てる隔壁の上で瞬く飛行情報表示板を見上げる。C-2輸送機の現在位置、飛行高度と速度、風速と風向、外気温、そして雲量――機内に居ながらにして、俊二たちはこれからの行動に必要な数値の殆どを一目で把握することが出来る。そして表示された数値は、決して彼らの壮途にけちを付ける様なものではないことを教えていた。
「……時間だ。装具を点検しろ」
腕時計を睨みつつ鷲津二尉が言った。フライトヘルメットに酸素供給装置、ジャンプスーツに救命衣と、背中全体に固縛された落下傘、そして携帯用の無線機と高度計――典型的な自由降下用の装備、それらの点検個所を呟くように復唱しつつ触れ、あるいは見、噛み締める様に睨む。これまでの訓練で我が身の一部の様に使い慣れた装備の筈が、初出撃を前に込み上げてくる不安故か、神経質な程の確認作業を俊二自身に強いてしまう。
「高良二曹、準備よし!」
「本当か……?」
と、鷲津二尉が訝しげに見ている事に気付く。
「大丈夫ですっ!」
と俊二が応えるや、鷲津二尉は無言で貨物扉の方向を指し示した。その先、小型の降下用パレットに固縛されたコンテナの山――促されるがままパレットに取り付いた俊二の眼前で貨物扉が開き始め、それは同時に、それまで十時間以上を闇中に安住してきた俊二の視界を漂白に染め上げる――
「―――――!」
灰色の空、鉛色の雲の薄い層を貫いてその下に広がる漆黒の海原。朝日の赤い光の手は未だこの領域には及んでいないものの、いずれは時間の問題であるように思われた。パレットに付属するビーコンと高度検知器を起動させ、投下した機材が一定の高度に達した瞬間にパラシュートを展開し、所定の座標への着水と同時に浮揚装置を起動するようにセットする。同じくパレットに取り付いたトウジと二人掛かりでそれらの操作を終えた時には、早朝の大気の流れが乳白色へと移ろい始めていた。
『――降下1分前!』
操縦席からの報告、俊二は思わずトウジと顔を見合わせる。すでにゴーグルを下ろしていたトウジが、俊二にもそうするよう手振りで促してくれた。ゴーグルを下ろし、俊二は酸素供給用のホースを軽く摘む。絶えず喉奥に吹き込む生温かい酸素の流れを掌中に感じ、問題の無い事を今更のように俊二は噛み締める。そして報告はなおも続く。
『――降下30秒前!……20秒!……10、9、8、7!……』
「――――――」
思わず息を呑む。
『5、4、3、2、1……降下! 降下! 降下!』
赤から緑へと替わるランプと耳障りなブザー、それが合図だった。
満身の力を籠めてパレットを機外へ押し出し、二人はそのまま虚空へと飛び込んでいく――
一歩ローディングランプを蹴るや両手両脚を広げ、新幹線の営業速度に匹敵する300㎞/時に達する凶悪なまでの降下速度に寄る辺ない我が身を晒し、大洋の荒波の如く吹き荒れる高空の気流に一つしかない我が身を任せる……その当初は生命の灯を削る思いでその訓練に臨み、技を磨いて来た降下の技術が、今の俊二には生物としての自身に備わったごく普通の特技であるように思えてしまう。俊二の背には翼が生え、翼はそれを開くや気流を拾い、俊二の躯を望む場所へと下ろしてくれる。今の俊二にはそれが言い様もなく愉しい。
「――――!」
初陣で力み過ぎたか、自身の降下速度が速すぎる事に身体で気付く。風圧に抗い周囲を見回せば、分隊の同僚たちが俊二を囲むように速度を合わせてくれている。赤面――軽い後悔に姿勢が緩み、腰を浮かして速度を殺そうと試みる。一時続く空中の輪舞――俊二と6人は集合の後、鷲津二尉のハンドサインに従って雁行隊形を取り、そのまま雲海に突っ込んだ。
「―――――!?」
朱――雲を染めるその色を眼前に見出した直後、俊二は雲の層を抜けた。同時に水平線から伸び上がった朝日が、赤い光の触手を俊二の網膜に投げ掛けて来た。夜は完全に開け、今や眼下の海原が平坦かつ広範な蒼の営みを見せつけてくる。重力の導きに従い降下していく間、高度計はその針を目まぐるしく回し、それはやがて比高1000メートルを切った。荒れ狂う風の音以外一切の雑音が聞こえない、天空の静寂――
『――高度300!……5、4、3、2、1――』
カウントダウン……同僚との間隔が十分であることを確認し、俊二は主傘と繋がるリップコードを引いた。拘束を解かれて展張した落下傘が風神の剛腕に捉われ、四角く開いた落下傘は俊二の身を強引に引き上げる。主傘と我が身を結わえる装帯が全身に食い込むが、俊二はその衝撃を無視し落下傘操作用のハンドルを引いた。気流を拾い、安定した姿勢を回転させ、あるいは横滑りさせながら俊二は再び周囲を見回す。俊二と同じく、朝空を華麗に漂う落下傘が6つ。安堵を覚えるのと同時に、白波を伴った荒々しく碧い唸りが足元まで迫っているのに気付く。着水!――
「…………!」
水の冷たさ、潮の匂いと不快な味を頭の天辺から爪先まで全身で感じる。救命衣のハンドルを引くや、窒素を含み膨張した救命衣が命を繋ぐ浮力を俊二に与えてくれる。波は思いの外荒く、俊二の体躯を塵芥のように軽々と翻弄する。それでも、事前の不安を余所に今ではやけに落ち着いている自身に気付く。
『――こちら「たかなみ」01、機材の着水を視認した。これより回収作業に入る。以上――』
『――「たかなみ」より01へ、機材は任せる。要員は複合艇で回収する。交信終わり――』
荒波。冷厳なまでに晴れ渡った蒼穹の拡がり。イヤホンを交錯する通信と頭上を航過する哨戒ヘリの機影――
――それが、この日最初に高良 俊二が取り戻した人界の感覚だった。
※次週投稿分で、EpisodeⅠは終了になります。EpisodeⅡまではもう暫くお待ち下さるようお願いします。