第六章 「佐那子の旅」
ノイテラーネ基準表示時刻11月18日 午前9時23分 アガネスティア自由市 サルビノード空港
『――お客様へご案内申し上げます。NJAL新日本航空003便、サルビノード空港発、ノイテラーネ国際空港着は午前10時45分に離陸いたします。搭乗手続きは離陸5分前に終了します。搭乗予定のお客様は第12ゲートまでお急ぎください。繰り返します――』
「航へ――
飛行隊配属おめでとう。これで航も一人前の自衛官だね。
パパに聞いたよ。戦闘機に乗るんだって? 航が自衛官の途を択んで以来、きっと飛行機乗りになると信じていたけれど、まさかわたしが戦闘機パイロットの姉になるなんて思ってもみませんでした。それもトップガンみたいな戦闘機パイロットなんて……!!
マーべリックみたいなカッコイイ、凄腕のパイロットになるんだよ。さな姉は航ならきっとなれると信じているから――でも、何よりもさな姉は、航が生きて好きな道を択び、人並みに幸せな暮らしができることの方が大切だと思います。無理をしないでください。はは……何か矛盾したことを言っちゃってるな……
さな姉はこれからノイテラーネ経由で日本に戻ります。姉弟水入らずの年末を……と言いたいところだけれど、実はそんなに長くは居られません。未だ外国に多くの仕事を残しているからです。居られるのはほんの一日二日ぐらいでしかありません。航スマン。
―――そう遠くない何時の日か、仕事に一区切りつけて航、そしてパパと一緒に過ごせる日を願って。さな姉より」
「送信」ボタンをクリックし、諏訪内 佐那子はノートパソコンのモニターから顔を上げた。展望室も兼ねたカフェテラス。飛行場に面するカウンター席からは、多種多様な異国の旅客機の、引っ切り無しに離発着する様を四六時中の長きに亘って眺めることが出来た。
モニターのアニメーションは、内蔵のメールソフトが順調にメールの送信を行っていることを告げていた。ソフトは遠隔地だと通信システムの未整備から頻繁にフリーズを起こしていたが、ここではそのような心配をする必要が無かった。カフェテラス内に設置された広域無線データ通信用のアクセスポイントは、この場に居ながらにしてインターネット通信網へのアクセスを可能にする。これと、佐那子が持ち込んできたデータ通信機器内蔵のノートパソコンとの相性は良かった。
何といっても此処はデアム地域では一、二を争う規模を誇る大都会だ。日本の東京に居るのと変わらないぐらいの恵まれた環境を享受することが出来る。デアム大陸の東端に位置し、日本との8年前の国交樹立以来、都市国家アガネスティアは海上通商に重きを置く中継交易国家の常として、積極的に最新の通信方式を取り入れている。その通信方式の技術提供元が日本であるが故か、おかげで家庭のインターネット充足率は97パーセント、佐那子がいるカフェテラスのような娯楽施設や公共施設へのアクセスポイント設置率は100パーセントと、実のところ元祖たる日本よりも高い普及率を誇るまでになっている。都市国家らしい小回りの良さと、常に情報の伝達方法と質への留意を強いられる商業国家の性、それら故に彼らの社会全般に情報インフラの急速な普及を促すこととなったのだろう……
ノイテラーネ行きの便までは、未だ時間があった。文章作成ソフトの中の、溜まった報告書の文案の断片的な切れ端……それらを繋ぎ合せ、日本の本部に提出する報告書を仕上げるべく、佐那子はノートパソコンの液晶画面に向き直る――
諏訪内 佐那子は医師だった。先週、それも最果ての難民キャンプで20代最後の誕生日を迎えたばかりだ。医大を卒業してすぐ、日本で窮屈なインターン生たるを拒否し、その代わりに対外支援の医療機関へと半ば飛び込みで志願し、幸運にも一員に加えられている。それから3年余り……鮮血と苦渋に満ちた修羅場を潜った回数、そして場合によってはあまりに果断で、言い換えれば困難な医療行為をこなした回数ならば、日本から一度たりとも出たことのない同年代の青年医師を軽く引き離しているはずだった。
180㎝を優に超える長身、そしてプロのファッションモデルを思わせる引き締まった細身の体躯と遊び盛りの子供のように短い、収まりの悪い頭髪は性的にも年齢的にも少女や少年とも形容できない筈の佐那子を見る者に、やや厚ぼったい唇と調和した、均整の取れた顔立ちと合わせ清涼感ある美少年のような要素を印象付けさせていた。それでも、灰色のTシャツと短パン、所々に修繕の痕が目立つ、使い古された巨大な登山用バックパックという出で立ちは、彼女の身分を想起させない質素さを伺わせる一方で、それまで医療支援というより享楽主義や物見遊山目的で国外を渡り歩いてきた貧乏旅行者の姿を連想させてしまう。実際、それ故に以前、日本本国へ戻る途上の経由地としてノイテラーネへの入国を果たそうとした時に、現地の入国管理機関とひと悶着あった程だ。係官は佐那子を、彼女の「みすぼらしい」外見という唯一の客観的判別手段から、当然の様に不法入国者の類と見做したのである。まさか対外支援機関の所属を表す身分証が、このような形で役に立つとは思ってもみなかった佐那子であった。
かつて「前世界」において「医療先進国」の末席――分野によっては最先端――に在った日本の、保険衛生面での支援が異世界における対外援助の一翼を占めることとなったのはごく自然な流れと言えた。異世界における日本の高等医療に対するニーズは殊の外大きく、「転移」の翌年には早くも最初の医療支援チームが疫病に苦しむ東方の島国アデリーズへ派遣されている。それから堰を切ったように打診される医療支援の打診に応じる形で日本の外交権が及ぶ限りの世界に派遣され、今なお医療行為に従事している医師、看護師の数は優に三千名を下らない筈であった。あの「スロリア紛争」の時にもまた――佐那子とてあの戦争には全くの無関係という訳ではなかった。
何よりも佐那子には、スロリアには嫌な因縁があった。恋人をそこで失ったのである。
「真彦……」
画像ファイル保管フォルダの一隅――睦み合ったまま写真に収まる男女の姿に、佐那子は複雑な眼差しを注いだ。
真彦――稲森 真彦は医大の先輩であり、佐那子が入学して程なく知り合い、そして恋人となった。背の高さは佐那子とほぼ同じ、一見頼りなげな、芽の出ない研究員的な雰囲気を漂わせる真彦は、その実優秀な学生であり、頼りがいのある先輩であった。早くから国外での医療活動参加を希望しており、佐那子が国外の僻地医療を志願したのは、彼の影響と言ってもいい。佐那子が実習課程に進んだ時とほぼ同じくして大学院に進んだ真彦は、それから一年も経ずして知人からの誘いに応じ西方の未開地へと発った。佐那子も医師の資格を得るや彼の後を追う積りでいた。未だ日本を取巻くごく小さい世界が平和であった最後の時期。スロリアという日本に程近い広大な地が、真彦の仕事場となった。出発の間際、空港の国際線ターミナルでどうしても真彦から離れられず、その腕を掴んだままの佐那子を、真彦はその手でゆっくりと、諭すように佐那子の両腕を握って言い聞かせたものだ。真彦のその手、その眼差しの温もりを、佐那子は未だに鮮明に憶えている……それが、佐那子が感じた、恋人の最後の温もりだった。
半年後――スロリア中部に「謎の武装勢力」が侵入し、現地民との衝突が拡大しているというニュースを、佐那子は仮初の勤務地としていた東京都内にある救急病院で聞いた。その半日後に発表された現地日本人行方不明者の名簿の中に、真彦の名もあった。その上に衝撃は重なり、スロリア沖に出動した海上保安庁の壊滅、首相を頭とする和平交渉団の遭難――他大勢の日本国民と同じく、佐那子ですらその先に「戦争」の二文字を覚悟したものだ。それに当時、航空自衛隊の航空学生だった弟の航……さらには姉弟二人の父は現役の海上自衛官であり、護衛艦の艦長だった!……佐那子たちの父、諏訪内 一輝二等海佐もまた、有事の際には補給艦の艦長としてスロリア方面に赴き、戦場の潮風をその身に享けて来たのである。込み上げてくる未来への不安、そして医師としての自身にも、その立場ゆえに声がかかるかもしれないことへの覚悟と共に、佐那子はその年の末を働いて過ごした。真彦の消息は、厚生労働省からの募集に応じた佐那子が医療活動要員としてスロリアに一歩を標しても、その戦争が日本の勝利の内に終わってもなお掴めなかった。
「紛争」勃発以来一年近くに亘り不明だった真彦の消息がはっきりとしたのは、「スロリア紛争」の終息から丸一年が経過した頃のことだった。再開された地整事業の傍らで偶然に発見された人工の孔。そこから発見された大量の射殺体の中に、真彦の姿もあったのだ。それでも腐敗と損傷の烈しさから、彼の身元が完全に確定したのは、DNA鑑定と旧い歯の治療痕のみによるという心細さであった。何よりも全身から見出された無数の銃痕と銃剣らしき刺し傷が、恋人の最期の凄惨さを佐那子に想わせ、深い悲しみを与えた……
『――ウレム‐サレ‐クローム 前ノイテラーネ都市連邦中央政府主席は今日、アガネスティア中央大学を表敬訪問し、記念講演を行いました』
カフェテリアの一角、長大な液晶画面が切替った。画面が従者や警護に周囲を取り巻かれ、報道陣のフラッシュの中に佇みつつ微笑む長身の老人の姿を映し出す。今年で80になると言うが、老人の体躯はそれを思わせない程頑健で、背筋の延びもまた眼を見張らんばかりだ。二年前にノイテラーネ都市連邦中央政府主席を任期満了で退任し、今では国内外より複数の名誉職を得て悠々自適の立場にあるウレム‐サレ‐クロームだった。
悠々自適……という表現は一面では正しく、もう一面では正しくは無い。クローム退任後の僅か二年の間、彼の後には三人の主席が続いた。その何れもが指導者として短命に終わったのは、以前、緩みきった風紀粛清を唱えて連邦の辺縁都市から中央に乗込み、汚職防止や行政システムの合理化に大鉈を揮って来たクロームの改革を、彼の退任後に挫折せしめるべく旧勢力から送り込まれてきた彼ら三名の何れもが、就任直後に露見した汚職や派閥内の抗争によって立て続けに権力の座から退場を強いられたからに他ならない。それらの露見するタイミングの不自然さと、その背後に見え隠れする「前首席」クロームの影の存在を指摘する声も決して小さくは無かったが、それを確定する材料にも乏しいとあっては、追求を深める正当性など見出せないというわけであり、結果として相対的に「母都市中興の祖」たるクロームの声価と影響力もいや増すというわけでもあった。
「…………」
クロームの傍らに付き従う黒い背広姿の男、佐那子の注意は期せずして彼に注がれた。背の高さはクロームよりやや低い。それでも、背広の日本人が年齢に似合わない、常人よりも健全な体躯に恵まれていることは、佐那子にはすぐに判った。顔立ちは良く整い、実年齢よりも一回り若い年齢を言い張っても、そのまま通用しそうな若々しさを保っていた。
「植草 紘之……」
背広の男の名を、佐那子は呟いた。前首席の傍らに居るその背広の男は、今から3年前には航空自衛隊の制服を着てプレスの前に立っていたはずだった。忘れもしない「スロリア紛争」時の自衛隊統合幕僚長。航空自衛隊戦闘機パイロットの出身で、「スロリアの嵐」作戦の望外の成功から、部内からは「日本のコリン‐パウエル」との勇名まで馳せるに至ったこの空将は、戦後提示された内閣安全保障会議メンバーの椅子を無関心にも跨ぐ様に退役し、やはり退役後に提示された防衛関連企業の名誉職や各私立大学の教授職就任の、度重なる打診すら固辞し、故郷たる神奈川県鎌倉市に戻って静穏な、だが早過ぎる退役生活を送るかのように見えた。そこに、待っていたかのようなクロームの打診―――――引退後の政治活動における外交参謀の役として、そして日本とノイテラーネを繋ぐ安全保障上のパイプ役として、ノイテラーネの前中央政府主席は日本の前統合幕僚長を望んだのである。
打診――否、それは「前世界」の中国の古典で言うところの「三顧の礼」に近かった。ノイテラーネ政府外交部に属するクロームの代理人、さらには地位、権限ともに駐日ノイテラーネ大使に相当する東京商館長が贈物を携えて、鎌倉の山中にある植草元空将の邸宅を引切り無しに訪ね、ついにはクローム自身が訪日して植草を「一本釣り」にかかった。クロームは植草を京都は嵐山にある彼の別邸に招き、直に説得に臨んだのである。別邸……それはかつてクローム自身が東京商館長であった時期に、親交の在った祇園の芸伎だった日本人女性に買い与え、以後一切の管理を任せているという曰くつきの「別荘」であった。結果として、植草はクロームの要請を受けた。
連邦中央政府行政府付 安全保障担当特命補佐官。それがクロームに連れられる形でノイテラーネに渡った植草 紘之が得た新たな肩書であり、そして地位であった。特命補佐官というもの自体が、本来市法規に記載されていない行政府の職制であり、しかも市の治安維持と安全保障に関しクロームのみならず中央政府主席への助言と補佐の権限を有するとあれば、これは異数の抜擢と言ってもよかった。それに前首席の個人的な友人!――事前の触れ込みの効果からか、植草はノイテラーネの人々から「スロリア紛争の英雄」であると同時に、「前首席の個人的な盟友」と見做されている。これは「ニホンの代理人」以上に拡散されているノイテラーネ人の、植草個人に対する印象であった。一方で、日本側で広く知られている逸話に、ノイテラーネ渡航に当たり、植草当人は案内役を務めるノイテラーネ側の使者に確認するようにこう聞いたと言われている。
「ノイテラーネには、『八海山』はあるのかな?」
その話を聞いた時、植草空将らしい言い草だと、佐那子は思った。父の仕事の関係で、植草 紘之という人物には「スロリア紛争」以前に一度会ったことがある。その頃植草空将は未だ一等空佐で、新設の特殊作戦航空群司令の身分だった。それでも40代になるかならぬかの内に一佐というのは自衛隊内でも異例の出世だ。それを感じさせない生来の自然体と、武官というより気鋭の青年企業家といった感触を与える植草一佐の外見は、旧来の――愛国者を自称する人々が言うところの「大東亜戦争」以来の――軍人観から脱却しきれぬ保守系の反感を生んだ一方で、佐那子の様に軍事とは無縁の領域に属する人々には新鮮で、とっつき易い印象を与えたものだった。その旧来の軍人に属する筈の父もまた、父自身より年少で、彼の様に防衛大学校の学閥に属さない「異端者」に実は好意的だった。佐那子が植草に出会ったずっと前――「転移前」――から二人が知り合いであり、そしてあの「環アジア紛争」の戦友であったことを佐那子はその少し後に知った。
『――航空便到着をお知らせします。現在、第三滑走路にパン‐ローリダ航空861便、予定時刻プラス5分に着陸。現在第4乗降口に向け滑走中。同機の再度離陸予定は――』
「―――――!」
佐那子はノートパソコンの液晶画面からまた顔を上げ、窓へ視線を転じた。既に誘導路に入り、四発のレシプロエンジンを回しながら駐機場へと向かう巨大な輸送用航空機。主翼と胴体に描かれた紋章が、ローリダ共和国に属する民間用航空機の有する識別章であることを、佐那子は知っていた。どの国、どの勢力に対しても開かれた通商国家の、空の玄関口特有の奇異な光景。だが、一口に「民間用航空機」と言われたところでそれを鵜呑みにすることは難しい。特にローリダはその帝国主義的な対外政策を遂行する上で、軍隊とは別に情報収集、秘密工作面で実働し得る機関を有している。それは佐那子のように国外を主な活動の場とする職種に属する人々にとって、いまや共通の認識だった。眼前の輸送機が純然たる民間機であり、その「機関」の意を受けて此処まで飛んできたわけではないという証拠など、何処にも無いのである。
事実、ここアガネスティに留まらず、戦場になったスロリアより後方に位置するノイテラーネでも訓練やイベントで飛来してきた日本の自衛隊機と、「スロリア紛争」後に定期便として飛来して来るようになったローリダの「民間機」が空港で「鉢合わせ」になるのは、今やありふれた光景であった。それはまた、此処よりはるか西方の、ローリダの占領下にあるノドコールでも彼我の立場を替えてお馴染みとなった光景でもある。
地上からの誘導を受け、岩山を繰り抜いたターミナル方向に進むローリダ機を見る内、知らず、眼差しが険しくなるのを佐那子は覚えた。恋人を殺し、さらにはその遺体を辱めたローリダに対する怒りは確かにある。特に日本政府が言うところの「武装勢力」たるローリダ人が何者で、その正体が何であるか、今や多くの日本人が知るところとなった現在では――
――はたして、「スロリア紛争」後、救出されたスロリア現地住民の証言、捕虜にした「武装勢力構成員」から得た情報から導き出された「武装勢力の内情」に、多くの日本国民は「戦慄」した。
「――武装勢力――ローリダ共和国――の国家はピラミッド状の階層制を有しており、国民は四つの階級に別たれ、相互の階級は厳格に区別され、下層階級は徹底した差別と搾取に苦しんでいる。彼らより遥か下の階層外に属する奴隷や支配下の異種族の置かれた惨状は筆舌に尽くし難いものがある」
「――彼らの国家の最高執行機関は最上層階級たる貴族を構成員とする元老院であり、元老院の決定は他のあらゆる行政執行機関に優先する。また、彼らの軍の指揮権も元老院が有する。また、元老院議員は代々世襲で、その門閥に属する者は特権を有し、それ故に彼らの国内では絶大な権勢をふるっている」
「――武装勢力の社会には、我々日本人がごく自然に享受している義務教育や社会保障といった制度は存在しない。種族の文明度、出自の貴賤と富の多寡のみが彼らの人間を見る尺度であり、異種族は勿論、同胞ですら貧しい者、弱い者は社会の発展のためには無用な存在として切り捨てられる」
「――ローリダ共和国は帝国主義的な領土拡張政策を採っており、彼らの植民地支配は苛烈である。植民地によっては、ゆくゆくは同胞の移住先として断種、居住地の制限など現地住民の緩やかな絶滅政策を行っており、日本もまたその対象として認識されている」
「――武装勢力――捕虜の言うところの「共和国国防軍」――の総兵力は30万。今次の紛争に於いて思わぬ敗北を喫した武装勢力は、更なる兵力の増強を図っている筈である。共和国において軍部の影響力は強く、敗戦に関わらず彼らの発言力はむしろ増している」
市井の軍事専門誌や週刊誌の記事中で「関係筋」の語り伝える「武装勢力」の内情は、若干の誇張こそ当然のように含まれていたが、それを差し引いてもスロリアで日本が戦った敵手たるローリダ人の、日本人とは相容れぬ世界観に戦慄を覚えた者は決して少なくは無かった。もしこのような勢力と一戦の末、敗北を喫した日には――
「――総理は武装勢力の内情を御存じか!?」
「――関係機関からの報告は、受けております」
「――では何故攻勢に出ない? 捕虜などから得た情報から勘案するに、連中の本質は典型的な全体主義国家であり、侵略的指向を有するテロ国家であります! かつて我が国は中国、統一朝鮮といった強大にして凶悪な侵略勢力との対峙を経て今日に至ったわけでありますが、『転移』後の現在においても、このように新たな脅威と対峙しようとしているのが現状であります。総理には是非、ローリダ共和国を僭称するこの危険な武装勢力について、ご自身の意見を披歴して頂き、敵対勢力として然るべき対処をするよう決断をして頂きたい!」
「スロリア紛争」後に開かれた通常国会において、質問に立った共和党議員の表明した懸念に、時の内閣総理大臣 神宮寺 一は咳払いをして応じたものだ。
「――我が国は、憲法で国権の発動としての戦争を放棄しております。スロリアにおける一連の紛争は、国家権力の及ばない低開発地域における、国際的な合意に基づく治安維持活動の一環でありまして、従って今次の武力行使はその方針に即した手段と制限の下で行われ、成功を収めるに至りました。我が国はスロリアにおいて現地の治安及び民生の回復以上の権限を有さず、または有する事があってはならないというのが私の意見であり、政府の見解であります」
色を為し、議員は立ち上がった。
「――それでは問題の根本的な解決になっていない! 病を治すには表面的な患部の治療よりも先ず、根本的な原因の除去が必要であることは、小学生でも判る道理であります。そこで再びお伺いしたい。政府には現下のスロリア情勢を、最終的には平和裏に終息させるべく、病巣の徹底的な排除を図る意思はありますか?」
「――最終的には対話を以て、事態の終息を図るというのが政府の方針であります」
外目には平然とした神宮寺の答弁に、議員は肩を怒らせた。
「――今次の事変は、既に対話で解決できる範囲を超えていると私ならずとも思うのですが。総理、あなたは内閣総理大臣であり、自衛隊の最高指揮官であります。指揮官であるからには、敵に対し戦術的なるだけではなく戦略的にも勝利を収めるべく、そのための実効力たる自衛隊の指揮を執る義務がある。 そしてこの場合の戦略的な勝利とは、ローリダ共和国を僭称する武装勢力を、彼らの策源地たるスロリア西方のノドコールから実力を以て逐い、後顧の憂いを完全に断つことではないですか?」
「――議員に確認したいが、後顧の憂いとは、何を指しているのでしょうか?」
「――つまり、武装勢力がその侵略的な性質から、再び現地の平和を破壊しようと蠢動し、スロリアを再び混迷の淵に陥れんとする危険のことであります」
「――それではお答えします。何度も申し上げたように、最終的には対話を以て、事態の終息を図るというのが政府の方針であります」
「スロリアのみならず、日本ですらもその魔手に収めんとする侵略者が対話の相手でもか!?」
議員席上からの怒声――その主を神宮寺は猛禽の如くに目を怒らせて睨んだ。共和党の代表たる士道 武明。静かな微笑と黒縁眼鏡越しの視線は細く、それ故に一般の観念では測れぬ底知れなさをその深奥に湛えているように神宮寺には思われた。
――「戦時内閣首班」としての役割を終えた神宮寺がその内閣を総辞職させ、仮初の「戦時体制」に自ら幕を引いたのは、答弁の翌週のことである。敗戦の責任を取るための退陣ならばいざ知らず、勝利という完全な成功裏に終わった紛争処理後の速やかな退陣……それを不思議がり、あるいは不満に思う者は、部外者はおろか与党内部にも数多くいた。
その日の夜――その神宮寺に、都内某所の料亭まで呼び出された者がいる。神宮寺内閣の官房副長官、「スロリア紛争」時には特命を受けて現地に飛び、武装勢力との条約交渉に臨んだ蘭堂 寿一郎だった。交渉後も彼は日本政府の特使として友好国及び第三国を巡り、今次事変における日本の立場の説明と理解の取付に尽力を続けていたのである。それらがひと段落したのが先週のことで、結果として蘭堂は、彼自身の属する内閣の終焉を帰国と同時に知らされる形となった。
「蘭堂君、御苦労だった」
「恐縮です総理」
蘭堂の持つお猪口に、自らの手で徳利の酒を注ぎながら、神宮寺は彼の官房副長官を労った。
「諸国の感触はどうか?」
「各国とも、今次の紛争における我が国の立場に理解を示してくれております。中には平和維持活動に必要な兵力の提供を申し出ている国もあるくらいです」
「それは、結構なことだ……」
頷く神宮寺、だが報告する蘭堂の表情に、曇りが浮かんでいるのを彼は見逃してはいない。だが神宮寺が声をかけるより早く、口を開いたのは蘭堂だった。
「この場でお伺いするのも憚り多い事ですが、総理……」
「ん……?」
「総辞職の件、本当にこれで宜しかったのですか? 私は戦争という途を択んだ以上、何れはこうなるとは覚悟していましたが、こうもあっさりとお決めになられるとは……」
「これでよいのだ」
間髪いれず、神宮寺は言った。
「喩え紛争であれ、全面戦争であれ、戦争に臨み、あるいは戦争を経た内閣は例外なく戦時色を帯び、戦後もその空気を引き摺ることになる。従って全てが終わった後に戦時色を払拭し、民心を安定させる上で、指導者の交替は必要な手続きなのだ。首相が変われば、国民の意識もそれに倣う。これは議院内閣制であり、長期政権という前例に乏しく、これまで平和国家たるを目指して来た日本だからこそ為し得ることだとわしは考えている」
「では総理、あなたは……」
「我が国において戦争とは、あくまで国土防衛と国民保護のために採られるべき数多の選択肢の一つであり、それ以外の動機で、他勢力と濫りに戦端を開くようなことがあってはならないとわしは考えておる。それに戦の勝ち負けに関わらず、戦端を開いた内閣が戦後に退陣を強いられるという前例を作れば、利権だの勢力圏拡大だのといった不純な動機で、軽率に自衛隊を動かそうという輩が現れることはないだろう」
「共和党のことですな……」
蘭堂の顔に、緊張が走った。反射的に、蘭堂は神宮寺の傍らに座る男を見た。神宮寺内閣の官房長官、坂井 謙二郎がやはり緊張した面持ちもそのままに蘭堂に頷いて見せた。
「共和党だけでは無い、当の自衛隊内部にも同じような動きがあるのだ」
「何ですと……?」
「今思えば、半世紀以上前の創設以来、あまりに長い間彼ら自衛隊は我々政治サイドに無視され、貶められ続けて来た。それは反省するべきことである。そして彼らの中でも先鋭的な勢力が、今回の紛争を機に彼ら自身の地位の向上と発言力の増大を求めることは自然の成り行きとも言える。当の自衛隊にその意思がなくとも、部外者がそう仕向けようとするかもしれない」
「『環アジア紛争の亡霊』のことですか? ですが連中は……」
「彼らには彼らの言い分があるのかもしれないが、『転移前』に彼らが為したことは明らかな売国行為であり、国家と国民に対する反逆だ。本来ならば外患誘致罪を適用されても当然である筈なのだが、やむを得ず野放しにさせているだけでも感謝するべきだというのに……!」
坂井の声が、怒りで奮えていた。『前世界』に置いて来た筈の苦い過去の記憶が、生来冷静沈着な性格を有する筈の彼から、一時的にそうした要素を奪っていた。
「共和党も、おそらくは彼らの蠢動に一枚噛むことになるでしょうな……」
「『高度防衛国家』、『自由主義の牙城』と言えば聞こえがいいが、共和党も含め、保守本流を自称する連中が最終的に目指しているのは、『戦前』の復活だ。そんなこと……今の国民の思考や我が国の経済状況を考えれば、到底不可能であることぐらいすぐに判るであろうに」
「彼らの言う、『旧き善き日本』……ですな」
「そうだ」
神宮寺が頷いた。彼は彼で、心中に余裕を残していることが、口元の苦笑で容易に察せられた。
「……かつて古人は、軍事は外交の一形態であると定義した。かといってこの世界で軍事を外交の道具にするには、我が国が有する軍事力は余りに大きく、他者より隔絶し過ぎている。わしは、スロリア紛争でそのことを思い知らされた。かといってこの世界で覇権国家たるを目指そうとしたところで、現在の我が国の国力では一時的に覇権を握ったとしても、近い内に限界を見ることになるだろう。何者であれ一度頂上に達すれば、遅かれ早かれあとは惨めに転げ落ちるしかないのだ。わしは、日本にそのような末路を辿らせたくはない」
蘭堂が言った。
「同感であります。かの大日本帝国は言うに及ばず、古のローマや至近のアメリカ、中国の如き衰亡は、何としても避けねばなりません」
「そのための、坂井内閣だ」
神宮寺は笑い、傍らの坂井の背中をパンと叩いた。やはり彼らしからぬ苦笑を隠すように、坂井は盃を呷った。
「もうひとつ苦労を掛けて済まないが、君にも政権に残ってもらうぞ。官房長官だ」
「ハッ!」
蘭堂とて、自ずと背筋が延びるのを覚える。女将が新たな来客を告げたのは、その時だった。仲居に先導された人影が、開かれた障子の向こうでその姿を露わにしたとき、蘭堂は思わず呻き声を上げる。神宮寺政権の防衛大臣。しかしその出自は敵対勢力たる共和党の、桃井 仄その人であった。驚く蘭堂を尻目に彼の傍らに座り、彼女は神宮寺に低頭する。
「表面的な戦後処理は、全て終了致しました。あと為すべきは将来を見据えた処理です」
「具体的には?」と、神宮寺。
「将来のノドコール独立に向けた処理ですわ。総理」
「――――!」
絶句し、蘭堂は桃井防衛相の横顔を見遣る。
「ローリダ共和国……武装勢力はこのまま指を咥えてノドコールの分離独立を眺めているとは思えません。必ずや何らかの方法で独立の妨害を図るものと考えられます。あるいは――」
「あるいは……?」
「独立こそ容認しながらも、ノドコールを何らかの形で彼らの影響下に置いておこうと図ることも考えられます。具体的には、独立政権の首班を彼らの息の掛かった人材で占めてしまうという点が考えられるでしょう。その場合、ローリダがスロリアを通じ我が国の脅威になり続けるという事態も起こりかねません」
「なるほど……」
蘭堂は察した。至近の誕生の迫った新政権。その主要メンバーの間だけでもこの場で意見の統一を図る積りなのだろう……と。それならば話は早かった。
「提案……」と、蘭堂は手を上げた。
「蘭堂君、言ってみたまえ」と神宮寺。
「見通しとしては、ノドコールの治安維持の権限は現地駐留のローリダ軍から、近い将来に我が国PKF、NGO及び現地人から成る民間組織へ移譲されることが決まっております。組織の主体はノドコール旧政権の軍人ですが、補佐及び教育担当は警察庁及び防衛省から派遣された人員です。これらを有効に使うには、遅くとも今年中には正式な援助機関として発足させ、組織化する必要があります。出来得れば、民間組織とは別系統の、自衛隊内の一部隊として編成するのが望ましいと思われます」
「自衛隊隷下か……ローリダ人を刺激することにはならんか?」
「刺激とは言わぬまでも、牽制する効果はあるでしょう。実態こそ伴ってはいないが、彼らの言う『ニホン軍』がノドコール国内に居るという、只その一点が、武装勢力に対する抑止力となります。軍事面で、ハード、ソフトの両面で我々が彼らに優越する事は、彼らとて身に沁みて理解している筈……」
と言ったのは坂井だ。桃井もまた、蘭堂に向かい眼を細める。
「私も蘭堂副長官の意見に賛成です。ついでに言えば停戦監視機能を付与する事も考慮に入れた方がいいでしょう」
神宮寺は頷いた。
「君らの意見はわしの中に入った。その編成命令がわしの最後の仕事になるだろう」
翌週、神宮寺内閣はその最後の閣議に於いて、それまで「スロリア紛争」の展開部隊にその業務を担わせて来たスロリア東部での戦災復興活動に従事する、新たな自衛隊部隊の正式な編成命令を下すことになる。陸上自衛隊 中央即応集団と対外支援業務群より人員を抽出し、編成されたその部隊名は、SAGS――Special Assistance Group, Surrolia スロリア特別援助群――と呼称されることとなる。総辞職発表の際に明言された在任の期日まであと二週間を残すのみ、本来ならば円満に任期満了して然るべき「戦勝内閣」の、総辞職の少なからぬ衝撃が政官界と市井を少しずつ覆い始めていた時期だけに、その最後の仕事は、決して余人の注目を集めるものでは無かった。神宮寺 一 の置き土産が、以後の日本国内の政局はもとより、スロリア情勢に如何なる影響を及ぼすことになるのか、明確な回答を出せる者はこの段階ではいない。内閣総辞職に続き速やかに行われた与党自由民権党総裁選挙において、後継総裁として選出された前官房長官 坂井 謙二郎に、神宮寺内閣の「事業」は引き継がれることとなった。
――後日、首相官邸を去る日、官邸の番記者に総辞職の真意を聞かれた際、神宮寺は少し考える風を見せ、こう語ったものだ。
「――国政は平穏の上で運営されねばならない。あの『転移前』の戦争以来、国外の事情はともあれ我が国は対外的に平和な情勢の内に内閣を運営し、そして数々の混乱こそあれ平和裏に内閣を交替してきた。その戦後以来の長い憲政の伝統に則れば、非常時の内閣たる我々がその役割を終えた今、速やかに政権の座から退き、国政運営を平穏な時勢に相応しい態勢に復するのは当然のことである」
「つまり、首相はご自身の内閣が所謂『戦時内閣』であったことを、自らお認めになるわけですね?」
神宮寺は頷いた。
「その自覚があったからこその、今回の総辞職です。出来得れば……わしもまた、平穏な時勢の内に首相を経験しておきたかった」
それは、偽るべからざる神宮寺の本心であった。
『――東スロリアでは依然緊張状態が続いており、外務省及び防衛省、現地のSAGS司令部では日本人職員に対し警戒を呼び掛けています。一方、共和党の士道党首は党執行部会において、党内で一致して与党に対し、重武装の平和維持軍派遣を強く要求することを確認しました』
広角の液晶TV画面が切替り、肩を怒らせて党本部を出る士道党首の姿を映し出した。だがその様に、何かしら演技めいた大仰さを佐那子が感じ取ったのは気のせいだろうか? 折り目正しく黒いスーツに中背の身体を包み、黒縁の眼鏡を煌めかせつつ党本部正面玄関を潜る士道党首、その彼の周囲は恰幅の良い書生(士道は、自身の弟子格として政治家志望の大学生を身辺に置く傍ら、彼自身の身辺の世話や執務の補助をさせていた。それを共和党内では「書生」と呼んだ)や他の若手議員らに身辺警護の様に固められ、待ち構えていた記者たちは彼らの取材対象を遠巻きに取り囲むか、あるいはあたふたとして後を追うしかない。待ち構えていた玄関ホールから外へと押し出されようとしている記者たちの群の中で、必死気味に手を伸ばしマイクを向けた一人の女性記者が、叫ぶように問い掛けた。
『――士道党首! 今回のスロリア情勢への政府の対応について一言!!』
『――与党の対応は極めて生ぬるい。このまま状況を放置していては、今年末には再びスロリア中部にまであの忌わしい赤竜旗が翻っていることだろう。これまでの対処を鑑みるに、与党はすでに当事者能力を喪っているとしか思えない』
士道は良く通る声で言った。黒縁眼鏡のレンズを隔てた向こう、士道党首の、眼光を隠すかのような細目は明らかに質問した記者に向けられていはいたが。そのさらに奥で煌めく光を、佐那子は見たような気がした。眼光は鋭く、且つ烈しかった。
『――では、スロリアの反乱勢力及び武装勢力に対しては断固たる処置で臨むべきと?』
『――当然ではないか。連中は人を人とも思わぬ暴戻な侵略勢力だ。今度こそ徹底的に叩き、あの悪魔の軍団をスロリア全島から放逐すべきだ。我が国にはそれだけの能力が備わっており、スロリアの住民のためにもそれを行使するべき義務があるというのに、坂井政権は最初からその義務を放棄してしまっている。何のための政府であり、何のための自衛隊か!』
堰を切ったように吐き出される非難の余韻も醒めぬまま、側近を伴った士道は早足で玄関の自動ドアを潜る。その先では、それまでとは全く違った驚愕が取り巻きの記者団を待ち構えていた。
共和党本部の敷地を取り囲むようにして拡がる、群衆の躍動――
『――士道さぁーーーーーん!!!』
『――――!』
プラカードを掲げ、あるいは横断幕を抱いた人々の歓声は若く、尽きることを知らないかのように士道の名を連呼していた。コンサートホールでロックスターの登壇を待ち構えるファンクラブ宜しく、共和党本部前に集う支持者の多くが若く、容姿からして未だ二十歳を出ていないと判る者も決して少なくは無かった。
『俺たちの士道』
『士道首相断固支持』
『皇国の守護者』
プラカードや横断幕の文面には、大抵このような形容が踊っている。それら何れもが今やテレビ、新聞と言った既存の報道媒体を抑えて情報発進の主流となったネット掲示板上で生まれ、急速に広まったフレーズであった。フレーズは思想を同じくする若者らを一つの場所に集め、そして同じ行動へ駆り立てる原動力となる。行動はその過程の実況と事後の報告という形でネット掲示板を彩り、参加者の一体感をさらに喚起するとともに、未だ行動を起こしていない潜在的な支持層をも新たな行動へと駆り立てていく……共和党の場合、首班たる士道の強烈なカリスマ性も相まって支持層の狂騒は良好な循環を生み出していると言っても過言では無かった。
『――――!!』
笑窪を伴った笑みを湛え、片手を上げて支持者――あるいは崇拝者――らに応じる士道。それはさながら国家の指導者としての将来を約束されたも同然の光景であるように少なからぬ人々には印象付けられたかもしれない。おそらくは士道自身の胸中にも――
愛国者を自称する人々とその象徴に対する同情――佐那子は、それを思わなかった。元より佐那子は、そうした政治的な主張とそれを具現する行動に対し、どちらかと言えば冷淡な方であった。その意味では佐那子はやはり医師であり、理系の人間だった。レポートをおおかた仕上げ、空腹を覚えた彼女が軽食も提供できるドリンクバーを見遣ったとき、新たな来客が電子音とともにラウンジへの入場を告げた。
「…………」
奇妙な集団だった。ノイテラーネ人でもなければ日本人でもなかった。そして……ローリダ人でもない? 男が5人に女が2人。先頭を歩く一人を除く、6人全員が金髪碧眼――そしてジャケットの下に隠れた青い衣装には佐那子は見覚えがある。
グナドス人だ……と佐那子は思った。彼らのことは知っている。彼女の経験上、はっきり言っていい連中ではない。
グナドス王国。この異世界では北方地域に位置するこの国は、日本の3分の1の面積を有する国土に960万の人口を有する。日本と正式に国交を樹立したのは7年前で、経済面はもとより学術的、技術的な交流も同時期に開始されている。佐那子もまた去年、医療支援活動に関する研修の一環として入国したことがあった。国家の体裁としてはごく普通の立憲君主国家で、国の技術レベルと国民の民度は日本のそれとほぼ同じ。だが、基礎研究のレベルでは日本にだいぶ遅れを取っているかもしれない。
「スロリア紛争」前の日本がそうであったように、グナドスが「転移」した当初から現在に至るまで、この国には周辺に特筆すべき脅威は存在していない。「転移」前もそうであったようだが、グナドス自体が有する軍事力は小国のそれにしては強大であり、保有する兵器の質では、現在「世界最強」とされる日本自衛隊に勝るとも劣らないというのが日本及び関係諸国の情報筋の評価であった。ただしグナドスの量的な軍事力は日本のそれに比してずっと小規模であり、国自体も完全な兵器の独自開発能力を有さず、その点で有事の際の継戦能力に不安を抱えているとされる。
この国、グナドスは国王の下、国民は大きく三つの階層に別たれている。人口比10パーセントの、国家全体の舵取りを掌る学識者階層たる「高等博士層」。人口比20パーセントを占め、中間管理職から一部高級官僚に跨る「普通勤労層」。人口比70パーセントで勿論社会の大多数、下級労働者階層たる「労働階層」。それらの階級は出自や所有する財産では無く、4歳時に全国民が一斉に受診を義務付けられている特殊な知能/身体検査たる「階層適正化試験」によって決定されている。具体的には、「幸運」にも「高等博士層」に組み入れられるに足ると見做された幼子は、その後成人するまで、あるいは成人後も徹底した英才教育を受け、そうではない幼子は、それ以後を彼らの属する階層の中で生活するに十分なだけの教育を受け、やがては事務労働者、工場労働者、あるいは肉体労働者として成人前に社会へと放出されるというわけであった。1:2:7という階層間の人口バランスもまた、「運命の計画」と当時グナドス政府部内で呼ばれたこの方式の施行以来、全く変化を来たしていない。
物心付くか付かない頃に国家の方針で受けさせられる、その確実度も定かではない知能検査で、その後の人生の行く末が決まってしまう――日本国籍を有する限り、自らの望む学問や職業を、それに相応しい能力を得る努力を継続する限りにおいて自由な意思で、自由な時期に選択できる日本人にとっては、グナドスの制度は信じがたい話であったが、当のグナドス人にしてからか、彼らの言葉で「あまりに初歩的、かつ原始的」な日本の社会制度は理解し難いものであるように見えるらしかった。事実、佐那子はグナドスに滞在していた頃に、同僚のグナドス人研究員にこう言われたことがある。
「――幼少時からその将来性を見極め、その子に相応しい充実した教育を受けさせた先に、社会に貢献し、国家を正しい方向に指導し得る完全に優秀な人材が完成する。私が思うにニホン人は回り道をし過ぎる。ニホンの教育制度は余りに非効率的ではないかね?」
発言の主たる彼は、「高等博士層」に属する人物だった。彼もまたやはり4歳の時に「階層適正化試験」によって、彼が言うところのその「秘めたる才能」を見出され、それ以後は徹底的な早期英才教育とともにその人生を送って来たというわけだった。「高等博士層」の家庭はもとより、それ以下の階層で「高等博士層適格児」を出した家庭は、それ以後を国家の保証の下、何不自由ない生活を送ることが可能になる。下級技術者の家庭であった彼もまた、「適性」を見出された後、高層集合住宅の密集する下級階層用の居住区から、都市郊外の自然に溢れた「高等博士層適格児」教育用の「特別教育区」に、家族単位で移住を許され、その後を生活面でも物質面でも恵まれた環境の下で少年時代を過ごしたものだった。
グナドス人――特に、社会の最上位を占める「高等博士層」に属する、あるいは準ずる立場にいる者の多くが、独特の価値観を有していた。自国は他国に比して優れ、文明的にも洗練された国家であり、それ以外の国は論評する価値も無い低文明の地域であるかのような思考……ただしそれが他者に対する侵略行動や内政干渉に直結せず。ただ只管に「上から目線」で他者を蔑視するに徹するという点が「敵国」ローリダとは違ったし、日本との政府間の関係も表面上は良好だった。
カフェテリアに入った6人のグナドスの若者……ジャケットにこそ隠れてはいたが、彼らの青い服は、それを着ている者がグナドスでも最優秀の学生であることを佐那子は知っていた。グナドス王国首都アウリーンにある王立中央技術学院の学生服。創立以来300年、「高等博士層」の俊英ですら入学は難しいとされるその学院の入学者は、学習、研究施設の破格なまでに充実した中で、学生でありながら国家上級官僚に準じる扱いを受けるという恵まれた立場に在る。それが、どういう理由で彼らの言う「文明の遅れた東の涯」の空港に居る?
一行は、佐那子のさり気無く注視する中、カフェテリアの隅の席に一斉に座った。先導する男を取り巻くようにして。その時初めて、佐那子は一座の中で主導的立場にあるらしきその男の容姿の詳細を量ることができた。
『…………!?』
黒い肌、メッシュの様に編み上げられ、肩の位置まで柳の様に垂らされた長い黒髪――それらを挙げるだけで、グナドス人の中にいるその男の異様さを垣間見ることが出来るというものだった。眼は細長いサングラスの、分厚いレンズの向こうに隠れてしまってはいたが、むしろそれ故に眼光の厳めしく、鋭いことを佐那子には容易に想像させ得た。鎧の様なロングコートの下、シャツから肌蹴させた胸板は分厚く、チョコレートの様な光沢を時折獣のようにぎらつかせている。凡そ秀才の一群に不似合いな、魁偉な容貌の男。背は高く、それでいてコートの下に脂の乗り切ったボクサーの様な、引き締まった体躯を隠していることすら容易に想像させた。
怖い……と、距離を保ちながらも佐那子は思う。そして男は、部屋の隅からカフェテリアの全容を容易に伺える席にいる――男がその席を択んだのは、何も彼自身の好みや偶然では無く、明確な理由があるのだと佐那子は思った。それは――
「…………!?」
深刻そうに話を始めるグナドス人らを尻目に、男が不意に顔を上げ、佐那子の様子を捕えるようにした。捕らわれ掛けるところで、危うく眼を逸らす佐那子――射るような眼差しの先に置かれているような嫌な感覚は数分の間続き、それに対し佐那子はひたすらに無視を決め込む。
ラウンジの大型液晶画面が切替り、次の瞬間には日本の国営放送の定時ニュースを流していた。日本国の方針として、ジャンルを問わず積極的に放送コンテンツの輸出と公開を進めていることもあるが、異国でも日本のニュース番組を眼にするということ自体、この異世界において日本が諸国に「大国」として認識されつつある証なのかもしれない……と佐那子には思えてしまう。画面は、やや寂れかかった地方の漁港の風景、そこで続く警察、海上保安庁の実況見分の光景――そして、次にはアラミド線維製の養殖網が綺麗に切開かれ、次には悠々と……否、所在無げに外洋を泳ぐ巨大な海生哺乳類の群を上空から映し出していた。
『――今日早朝未明、北海道網走港沖北西40キロ海上で運営されている「カイギュウ」牧場の海中網が破られ、場内で肥育中の200頭中43頭が外洋に逃げ出していることが、現地警察署への通報により明らかになりました。海上保安庁と牧場を運営している水産加工業者の合同調査によりますと、牧場と外洋を隔てる海中網は、何らかの鋭利な刃物で幅10メートル四方の四角形に切り開かれており、また、事件発覚直後、水産加工業者宛てにグナドス国籍の環境保護活動家を名乗る人物から犯行を示唆する電子メールが送付されていることから、北海道警察では「カイギュウ」の食用化に反対する異国の過激な環境保護組織の犯行とみて捜査を開始しています』
「…………」
カイギュウは最大で全長8メートルに達し、その重量は6トンにまで成長する。その巨体から3トンに及ぶ肉と脂肪が取れ、飲用に適するミルクすら採取できる上にそれはバターにも加工される。皮や骨も各種製品に加工可能であり、要するに「棄てるところが無い」。性格的にも温和で飼育に適し、「転移」の翌年に北海道近海で大規模な群が発見されたこのカイギュウが、程なくして「前世界」より断絶された日本国民の貴重なタンパク源の一つとなるのに、それほど時間は掛からなかった。経緯が経緯なだけに「前世界」のステラーカイギュウのように捕獲という乱暴な手段は取られず、むしろ平穏な湾部に設けた「牧場」で養殖するという方法が効率的であったし、何よりカイギュウは育て易い。
……だが、グナドスではカイギュウは「人類の友」と呼ばれている。従順な性格もさることながら巨体さながらの抱擁感と、時折見せる愛嬌のある表情が、グナドス人の「文明人としての野性に対する優越感」を刺激するものらしい。特に過激な自然保護活動家はカイギュウ愛護団体を組織し、あるいは日本のようにカイギュウを食用にする他国に圧力をかけ、それは結果として「友好国」である筈の日本との間で要らぬ外交摩擦を引き起こしている。佐那子もまた、グナドス在住時にカイギュウの件を引き合いに出されて、あらぬ誹謗を受けたことも一度や二度では無い。かの「武装勢力」ローリダ人は、彼らの言う「ニホン人」を、「野蛮で服属させるべき者たち」としてその周辺に侵略の手を伸ばしてきたが、世界観や文化面での相違から日本に反感を抱く国や人々は、日本に対し明確な敵意を見せぬまでも、この世界にも確かに存在していたのだった。
「…………」
気が付けば、隅の席を占めるグナドス人たちも日本の国営放送に見入っている。その眼差しに、柔和な要素など塵ほども含まれていない。彼らが近くの席に座らなかったという偶然に、佐那子は心から神の才配に感謝した。
ただし――
「…………!?」
あの肌の黒い男はと言えば、ただ独り眼を外に向け、離発着する飛行機の動きを見送っているように見える。外へ向いた分厚いサングラスの奥に何を隠しているかは佐那子には流石に判らなかったし、判りたいとも望まなかった。
『――10時45分発。サルビノード空港発、ノイテラーネ国際空港行。新日本航空127便。搭乗ハンガーに進入開始。搭乗手続き開始予定時刻は10時25分。搭乗予定のお客様は12番搭乗口までお急ぎ下さいますよう宜しくお願いします。予定搭乗率72パーセント。混雑の恐れなし――』
アガネスティア語のアナウンス……その後に日本語によるアナウンスが続く。通信インフラ移入の件もそうだが、国際空港でそれだけの扱いをされるだけあって、この地域における日本の影響力は実際凄まじい。
ノートパソコンを仕舞い、継ぎ接ぎの目立つ登山用バックパックを肩で背負うと、佐那子は席を立ち上がった。ターミナルの構造上、指定された搭乗口までは此処からでは距離がある。急ぐに越したことはなかった。
喩えその先に待つ休息が僅かな間であろうと、旅は終わりに近付いている――佐那子はそう思っていた。




