第五章 「新参者たち」 (2)
日本基準表示時刻11月17日 午前11時19分 神奈川県横須賀市 海上自衛隊横須賀基地近辺
歩道から灰色の鉄柵に仕切られた埠頭の遥か先を、灰色の艦影が占めていた。舳先に翻る旭日旗が、武骨な艦影の生み出す重い空気に凡そ不似合いな、鮮やかな赤白の彩りを蒼空の背景に際立たせている。
歩道に乗り上げ、鉄柵に張り付くようにして止まる軽ワゴンが一台。
鉄柵を越えようと思えば、ワゴンの屋根を足掛かりに飛び越えられそうな程に軽ワゴンは鉄柵に密着している。それに注意を払うべき人影はこの時間帯、この近辺にはいなくなることをワゴンで乗り付けて来た二人は知っていた。海原を挟み護衛艦専用の埠頭を望むその一帯が、元々人通りの少ない場所であったこともそうだが、それよりも時間的に社会一般で言うところの「昼休み」が近いことが、軽ワゴンの主に行動する勇気を惹起したとも言える。
「シンちゃん、急げよ」
と、天井に陣取った一人が声を上げた。少し間を置き、空いたままのサンルーフの下から突き出されるようにして三脚が渡される。天井の男がそれを危なっかしい手つきで受け取らんとするや、車内から声が上がって来た。
「急かすなって……しかしこれ、重いなぁ」
「何たってワンセット総額で給料二カ月分だからな。でも気を付けろよ。重いけど、粗末には扱えねえよ」
三脚を天井に立てつつ、男は得意げに笑う。矢継ぎ早にサンルーフ越しに、重そうに突き出された手には、何か貴重な物品を納めるのに使う様な矩形のバッグが握られていた。それを受け取り、男は一層に顔を綻ばせた。カメラと望遠レンズの収まった専用のケース――三脚に繋がれ、足場を確保したカメラから臨む写界を遮るものは、もはや無かった。此処からならば、埠頭に居並ぶ護衛艦群の勇壮な姿を一望できるだろう。
彼ら――正確に言えば、軽ワゴンの天井から愛用のカメラを構える、太り気味の男に限ってではあるが――はカメラマンであった。だがそれは彼らの本職では無く、扱う機材だけは立派な写真愛好者たるに留まっている。。ごく一般的な考えとして、余程名が売れない限りカメラマンという仕事だけで食べていくことなど、まず不可能に近いこともそうだが、地に脚の付いた生業を持ち、いち社会人として生きる傍ら、趣味の一つとして「写す」行為に熱中する者の方がこの分野では多数派となる傾向にあるのだった。何故かと言うに、撮影という行為に人生の全てを賭けるには彼らの技量はあまりに不安定であったし、多くの者はそこまでして写真に熱中する意義を感じていなかったからである。むしろ高性能の撮影機材を所有し、操作する喜びの方が勝っているかもしれない。
軽ワゴンの持主たるもう一人がサンルーフ伝いに天井に上がり、ファインダー端末を覗く男に言った。躊躇いがちな口調は隠しようがない。
「……なあ、いい写真撮れたら『ユニットハウス』に売るって話、嘘だよな?」
「何言ってんだ。もうメールで向こうの運営者とは話は付けてあるんだ。向こうも楽しみに待ってるって言ってんのに」
「でもおれ達が今やってることって、まるでスパイだよな」
「スパイ?……おれ等がそれなら専門誌に軍艦や戦闘機の写真載せてる連中もみんなスパイじゃん」
「まあ、そうだけどさ……」
躊躇いがちに、運転手役の男は言った。
日本国内のとある大規模な会員制SNSの中に、軍艦、戦闘機、車両に留まらず、日本国内の自衛隊関連施設の写真を、中身によっては高値で買い取るという内容のウェブサイトが同好の士の注目を集める様になったのは、それが登場して丸一年が過ぎた頃のことであった。ウェブサイトを知る多くの写真愛好者の記憶が正しければ、「ユニットハウス」と名乗るそのウェブサイトが登場したのは、おそらくはあの「スロリア紛争」の翌年であった筈だ。事実、送った写真に対しその内容を評価された結果か、破格の「礼金」を受け取った事例が写真愛好者のインターネットコミュニティ上でも広く伝播し、趣味を利用した小遣い稼ぎの手段を見出したという歓喜の一方で、それが司直の目を掻い潜り日本国内に潜伏する外国の諜報網の一端であることへの疑念をも、やはり同好者の間で生じることとなった。
『「ユニットハウス」は、国外の軍事専門誌及び、新聞、雑誌といった一般メディアに軍事関連の写真使用権を販売するための窓口であり、近年、諸外国の日本に対する注目の度合は著しく高まっている。弊サイトの運営者は、これをビジネスチャンスとして軍事関連の写真使用権販売事業に着手している』――他国の諜報活動との関連を指摘された際の、「ユニットハウス」運営者の返答は極めて常識的であるように多くの写真愛好者たちには思われたが、それでも釈然としない感触を抱く者は少なからずいた。友人の頼みを容れて、その車高ゆえ優良な撮影ポイントともなり得る軽ワゴンを運転してきた痩せぎすの彼も、またその一人であった。
「……そうだけどって、何だよ?」
「いやさ……」
呟きつつ、後ろめたそうに周囲を見遣り、さらに語を継ぎ掛けたところで男の表情が固まった。軽ワゴンのすぐ傍、先刻……恐らくはかなり前から彼ら二人の様子を凝視している人影の存在に、今更ながらに気付いたのである。
「…………?」
大男だった。魁偉とまでは言い難いが単なる長身と言う表現では片付けられない程、彼は全身から畏怖を催させる空気を発散させていた。それが二人組に大男という印象を与えた。海上自衛隊の作業服が、巨大なダッフルバッグを肩に提げたまま、恫喝の眼光を二人に注いでいた。作業帽の陰に隠れた顔は細く、だが端正な容姿、頑健な骨格と締まった肉付きとを沈黙の内に雄弁に主張していた。堅固な鉄塔を思わせる長身は細く、だが豹の様なしなやかさに加えて作業服の下に在っても発達した胸筋を輪郭として浮かび上がらせていた。二人の前に立っているのは自衛官ではあったが、只者では無かった。年齢はおそらくは自分たちと同じ、だが時空レベルで住む世界が違う人間……射竦められている二人には、辛うじてそれだけはわかった。
無言の威嚇に言葉を失った二人を前に、自衛官は言った。
「てめえら、何やってんだ?」
若い声だが、友好的な声では無かった。痩せぎすの男が取成すように声を震わせた。
「え……見ての通りウォッチングですけど? 護衛艦の……」
「ハァ? ウォッチング?」
青年の口元が苛立ちに歪む。それだけで、二人は道端で猛獣と遭遇したかのように萎縮してしまう。
「ウォッチングするのにそんな処から見る必要があるのかよ?……まるでスパイじゃねえか。ああ!?」
青年は手振りで車から降りるよう促した。此処一帯は警察もそうだが、自衛隊の警務隊もまれに巡回している場合がある。横須賀の埠頭の主を相手に、余計なトラブルを起こしたくない感情は、二人の間に多分にあった。自分たちのせいで折角の撮影ポイントがふいになっては、同好者のコミュニティ間での自分の立場が無くなってしまう……だが、それでも車から降り際に太り気味の男が放った一言は、余計な部類に入ったかもしれない。
「……でも、みんなやってるしぃ……おれらだけ不公平だよなぁ……」
「む……!?」
目を怒らせ、青年が歩を進めた。顕わになる圧倒的な身長差、そこに加えて青年が長い手を延ばせば今にも掴みかかりそうな距離。二人は早くこの場から抜け出したかった。青年のバスケットボール選手の様な大きな手が延び、太り気味の男の首元を掴み掛けたそのとき――白い四輪駆動車が減速しつつ近付き、三人の前で止まる。それが海上自衛隊警務隊仕様の73式小型トラックであることに気付いたのは、二人組の方が先であった。助手席から一人の作業服姿が出、青年に近付いた。初老と思われる警務官の階級が、自分よりずっと高い一等海曹であることを見てとり、青年は慌てて背を正し敬礼する。「海上自衛隊横須賀警務隊」の腕章が、陽光を受け鈍く輝いていた。青年の階級章が海士長のそれであることを確認し、一等海曹は答礼した。
「君きみ、駄目だよ一般市民にメンチ切っちゃ」
「はぁ、すんません」
一転し恐縮した、だが軽い口調――それは渋谷を我が物顔で練り歩く着飾った若者のそれと、声の雰囲気は変わらなかった。だが海士長のへつらいとも取れる態度を無視するように、初老の警務官は眉を潜め海士長を睨み付ける。
「君、見ない顔だが、何処から来た? 新隊員か?」
「下総から高速バスで戻って参りました。横須賀基地所属です……今のところ一応……」
「ふうん……何処の部隊? 兵科は?」
「特殊部隊のチーム3に配属です。今日付けで……!」
慌てたように、青年が語尾に力を込めた。
「チーム3!? シールズ!?」
素っ頓狂な声が警務官の背後から上がる。二人組が、驚愕に顔を歪めて青年を見詰めていた。
「すげぇ……写真じゃ何度か見たけど直にホンモノ見たの初めてだ」
「でも……アメリカのシールズと比べると、見劣りするよなァ……」
と、太り気味の男が言う。反射的に目を怒らせ、青年は彼を睨んだ。
「何だとコラ!」
「馬鹿ッ!……納税者に突っかかるなって!」
警務官が青年を一喝し、二人を顧みて片手を振る。「此処から離れろ。行った行った」という無言の合図……否、圧力を察し、釈然としない表情もそのままに車に乗り込み、それでも逃げる様に離れゆく二人――軽ワゴンの後ろ姿が完全に消えるのを見届け、警務官は諭すように言った。
「まったくもう……君は何だ、延長教育終わって戻って来たのか?」
「ええ……今朝硫黄島からC-130で……夜間自由降下の修了検定があったもので」
警務官の愁眉が開く。同時に、息子ほども年齢の離れた同僚を労う言葉を、青年は聞く。
「空に海に陸にと、シールズはいつも大変だよなぁ……まあ、当分戦争は無いんだ。ボチボチやれよ」
「ヘヘヘ……そうっすね」
青年は笑った。その場を取り繕う性格の笑いだが、不思議と他者に不快感を与える種類の笑いでは無かった。警務隊の四輪駆動車が離れて行く……それがかなりの距離にまで走って行くのを見送ったところで、青年――海上自衛隊海士長 高良 謙仁は真顔で何かを探る様に蒼穹を仰ぐようにした。長い腕がごく自然に、重いダッフルバッグを背負い直す。年も押し迫っていながら、やけに日が熱い――
『――そうさ、空に海に陸にと……SEALsは大変なんだよ』
海上自衛隊特殊部隊はその前身たる海上自衛隊特殊舟艇部隊を人員、装備の面でさらに増強する事により完成された部隊であり、海上幕僚監部直轄部隊でもある。場合によってはより上級の統合幕僚監部、内閣安全保障会議の指揮下で運用されることも過去のケースには存在した。「転移」の少し前に急激に増した対テロリズム作戦への需要が、海上自衛隊の存在意義の本分たる艦艇や舟艇の作戦に何ら寄与しない筈の彼らの増強に、疑問を差し挟む余地のない名分を与えていた。
海上自衛隊の特殊部隊たるSEALsはその名称通り、海、空、陸において万能とでも言うべき作戦行動を可能にする特殊部隊として訓練され、編成されている。戦闘要員は全員が水中処分員資格、降下救難員、自由降下資格の最低一つ、または複数資格の保有者であり、狙撃、破壊工作、近接戦闘技術の習得者でもある。幾多の訓練を乗り越えた先に付与される、蝙蝠をモチーフにした海上自衛隊特殊作戦徽章の形状から、彼らが「バットマン」と称され海自内はおろか全自衛隊でも尊敬と畏怖の対象とされているのは、前述の特殊技能の保持者であることにその由来の大半を依存していると言えよう。
高良 謙仁 海士長は今年の7月に海上自衛隊特殊部隊の隊員資格を得た。そこから遡ること約二年前に、謙仁は海上自衛隊水中処分員の職を擲ち、志願して広島県江田島の海上自衛隊第一術科学校内に開設された海上自衛隊特殊作戦教育/訓練センターの隊門を潜った。
「――貴様のことは半端者とは思わん。何せあの部隊に志願したのだからな……だが、あすこに行くからには覚悟を決めろ。はっきりと言っておく、『シールズの学校』は死ぬ気でやらんと本当に死ぬぞ」
出発の前日、水中処分部隊における彼の上官は、そう言って謙仁を送り出した。その彼自身、過去にSEALsの前身たるSBUに志願し、基礎訓練課程で負傷し脱落した過去を持っていたのである……
広島県江田島 海上自衛隊第一術科学校隷下 海上自衛隊特殊作戦教育/訓練センター。
江田島というその地名自体が、今では同時に日本海軍という名称を余人の脳裏に惹起させる程の意義を持つようになって久しい。「前世界」に遡る旧い年代、日本に海軍というものが生まれて以来、海軍士官を養成する海軍兵学校が居を定めるに至った江田島は、良くも悪しくも以後の海軍史に名を残した数多の将官、指揮官を士官候補生として外海に送り出し、その伝統は太平洋戦争の敗北と帝国海軍の消滅を経てもなお変わらなかった。むしろ敗戦を契機に、新生の海防組織たる海上自衛隊の、部隊運用の総合的な教育機関として拡大を見たといってもいい。赤煉瓦の洋風建築、旧海軍兵学校時代以来の佇まいを残す幹部候補生学校の他、択ばれた曹士に兵器から機関、航海、ひいては主計にまで跨る護衛艦の運用技術を教育するための術科学校が併設され、それは年を追うごとに機能の拡張と充実を見ても、縮小されることは決してなかった。それら教育施設の中で、比較的新規に開かれるに至ったものの一つとして、海上自衛隊特殊作戦教育/訓練センターがある。
海上自衛隊特殊部隊の「志願者を訓練し、選抜する」……否、「不適格者を排除」する機関たる海上自衛隊特殊作戦教育/訓練センター。口さがない海自隊員は、そこを「ロアナブラ」と呼ぶ。由来は大昔のアクション漫画に出てくる地獄の無法地帯の名らしいが、謙仁には詳しいことはわからない。その「ロアナブラ」では二週間の基礎体力練成課程、それに続く五週間の基礎訓練課程が80名に及ぶ志願者を待ち構えていた。一般入隊、曹候補生、少年術科学校、防衛大学校、幹部候補生学校……その出自が多様であるのと同様、志願者の職種もまた多様で謙仁のような水中処分隊の他には元艦船勤務、警務隊、航空機搭乗員、降下救難員、中には元調理師という者までいる。その彼らがこれから7週間、人為的に作られた煉獄の中で平等に訓練生として扱われ、同じ釜の飯を食うのだ……それを思い、謙仁は胸を灼く高揚感の一方で名状しがたい不安が宿るのを覚えた。
「――貴様たち訓練生80名の中で、7週間後の基礎課程修了日まで、生きて此処に立っている奴がどれくらいいるか俺たちは賭けている。そこの貴様、俺は何人に賭けていると思う? 教官が許す。答えてみろ」
訓練開始日の朝、訓練生をセンター敷地内に集め、堂々とそう言って訓練生を驚かせた教官がいた。JMSDFの略称を縫付けた黒いキャップ、漆黒の中に鈍くぎらつくシューティンググラス、黒いTシャツにカーゴパンツ、さらにそれらの上にトレーニング用の青いパーカーを被った、凡そ国防組織の人間とは思えない中背の男、だが服装からも身体の輪郭で判る頑健な体幹、それを覆う様に引き締まった肉体と、シューティンググラスから覗く笑っていない眼光は、彼よりも体格的に恵まれているように見える訓練生を、彼らの初対面から明らかに圧倒していた。
指された学生は声を張り上げ、言った。
「三十名だと思います!」
「三十名だぁー……?」
教官の顔から表情が消えた。発言した訓練生に至っては、予想を越えた反応に狼狽するばかりだ。だが教官は再び笑顔を作り、別の訓練生を指した。
「貴様はどう思う?」
「二十名で、ありますか?」
「二十でありますか、だと?……舐めてんのかキサマ」
「…………」
新たに拡がる狼狽と戸惑い……それを楽しむかのように、教官は彼の眼光を訓練生の列に一巡させた。
「十……俺は十人に賭けている。教官の中には一人、と言う者もいる。事実、過去の基礎訓練課程において、八十名の志願者の中で修了者がたった一人だった時もあったからなぁ……」
「…………!!?」
大洋を津波が走る様に、驚愕と動揺が訓練生の列に広がった。「マジかよ……」と呻く声、恐怖に歯を震わせる音……それらを列の中で、謙仁は全身を使って教官の言葉を聞いた。訓練生の困惑ぶりの伝播を堪能するように眺め、教官は言った。
「まあ少なくとも全志願者の七割は訓練途中で脱落するってこった。だが此処で脱落することは決して恥じゃない。シールズが貴様らに要求する基準が、一般部隊の貴様らに要求する基準よりずば抜けて、いや、異常なまでに高いということでもある。つまりはここで全力を尽くして挫折したとしても、貴様らは他の部隊じゃ十分通用する。だから別に悲しむべきことじゃない。だがな……」
教官は「だがな」という言葉とその余韻に力を込め、直面する訓練生たちは内心で身構えた。
「……全力を尽くすべきなのに手を抜く奴、仲間を押し退け、引き摺り下してでも楽をし、苦しみをやり過ごそうとする奴は許さないぞ。此処では何時でも何処でも俺たち教官の眼が光っていることを忘れるな。卑怯者には俺たちが相応の報いをくれてやる。まあ、この訓練期間中、そういう行為が無いに越したことは無い……期待を裏切るなよ。ヒヨコ共」
「――――!!!」
訓練生が戦慄するのに満足し、最後に教官は言った。
「ロアナブラへようこそ、学生諸君」
基礎訓練は、それが始まって二週間で基礎体力に不備を晒した15名が脱落し、五週間で52名がそれに続いた。俗に「Oコース」と呼ばれる障害物走、往復四マイルの時間走、徒手体操、やはり時間と息継ぎのポイントに制限を課せられての遠泳……訓練施設で毎日のように続くそれらの結果として、自衛隊の他の部隊と違い、シールズが「脱落すること」に寛容であることを差し引いても、最終脱落率83.75パーセントという数字は訓練課程の開始以来近来に無く高い数値ではあったが、謙仁が同じく生きて修了式の列に立った11名と「生存者の歓喜」を自覚し、それを味わうのにさらに2週間の時間が必要だった。正確な「生存者」数13名、だがうち2名が五週間の基礎訓練課程中最後の5日間を占める「反原則週間」の終了間際で負傷し、病院送りにされている。そして、訓練参加以来それまでにやってきたことが、この「反原則週間」の前では子供のお遊び程度でしかなかったことを思い知らされた学生は、何も謙仁だけではなかった。
「反原則週間」――それは5週間に及ぶ基礎訓練課程の最終週を締め括るのに相応しい過酷さを有している。深夜零時。日が変わるのと同時にその始まりを告げる笛が鳴り、そしてトラメガを通じ教官の怒声が飛ぶ。
『――起きろ!! 起きろ!! 起きろ!! 起きろ!!』
生残っていた訓練生は宿舎の寝台から牧羊犬に追い立てられる羊宜しく演習場を駆け、海浜に膨張式ボートを漕ぎ出し瀬戸内海の荒波に揉まれる。陸に上がれば休む間もなく集団で丸太、あるいはIBを担いでの持久走。次にはクッキーか黄粉餅のように全身を砂に塗れて海浜を這い、走って障害物を越える。海に浸かって砂を落とせと教官に言われ、冷たい海水に全身を浸かりながら、やはり冷たいままの携帯糧食を食い、完全武装で江田島の術科学校の敷地内を駆け抜けてそのまま古鷹山を登り、反吐……それすら吐き出せなくなった者は胃液を吐き散らす。それまで4週間に亘り続いていたそれが、今度はまる5日間、宿舎に戻ることも、一切の睡眠も許されること無く続く……否、睡眠時間だけは3時間のみ与えられる。5日間の内、わずか3時間の睡眠――
疲労、飢え、寒さ、暑さ……交互に襲い来るそれらから成る「反原則週間」が始まって三日目に、変化は目立って現れ始めた。
LEDライトで照らし出された砂浜、墨を流したように波が押し寄せては引いていく海浜を、謙仁は茫然と眺めていた。海水の冷たさ、夜風の冷たさが男たちからじんわりと体温を奪い、やがては身体を動かす力すら削ぎ落すようにして奪っていく――重く湿ったライフジャケットにすっかり沁み込んだ、潮と汗との混ざった嫌な臭いに対しても、彼らの嗅覚はその本来の機能を停めたように思われた。
海浜の向こう。夜の海原で蠢く影、そしてIBの舟影……LED灯の及ばない海の闇で、揺れる光が十……いや二十。学生が被る軽量ヘルメットに付けられた非常用ライト、ライフジャケットに張られた夜光テープの光は緑色に眩く、荒波に翻弄されるゴムボートの上で翻弄されていた。「ロアナブラ」でももはや恒例の「操艇訓練」の一幕。このとき、謙仁の属する班はそれで早くも一位を取ったが故に、一時の休息を許されていた。「ロアナブラ」で絶対の原則があるとすれば、それは一つである。曰く「勝者のみが報われる」……だが、「反原則週間」において勝者に与えられる休息もまた、訓練生を脱落へと追い込むべく周到に準備された「煉獄」の一環でしかなかった。
「…………」
膝を抱えて座りつつ、共に並ぶ班の面子を、謙仁はさり気無く伺ってみた。隣に座る降下救難員の三等海曹は、虚ろな目もそのままに地面に眼を落したまま、声にならない声で何事かを呟き続けていた。その向こう隣り、此処に来るまでは護衛艦乗組みであったという二等海曹は、頭を抱え込んだまま微動だにしていない。そして班のリーダー格である幹部学校出立ての三等海尉は、本来ならば班の掌握と健康管理に費やすべき時間である筈の休息を、睡魔に身を委ねることで潰してしまっている……。
「…………」
その他もまた同じ……様子を注視する内、謙仁はこの場を支配しているのが束の間の安寧では無く、むしろそれを装った恐るべき「何か」であることに思い至った。それは――
不意に、背後が酷く眩しく感じられた。ヘッドライト?――と感じる間もなく、スピーカーから響き渡る陰気な声が、一気に砂浜を支配する。
『――お前たちは何時まで持つかなぁ……訓練は今週一杯続くかもしれない……いや、今月一杯続くかもしれない……永遠に終わらないかもしれない……』
「――――!?」
女性!?……否、少年!?――アニメの少年キャラが喋っていそうな、性別の判らない声はそれだけ明瞭で、それだけ訓練生の心の芯を圧し潰してしまいかねないどす黒さを持っていた。
『――……母さんはどうしているかなぁ……かわいいあの娘は元気かなぁ……ぼくはこの訓練に向いていないのかもなぁ……今すごく疲れてるんだよ……』
途端に、向こう隣の二等海曹が呻き声を上げ、頭を抱えて蹲る。理性というより本能で謙仁は察した……「彼ら」はこの時を待っていたのだ。訓練から解放された彼らの気が緩み、現在の自身の立ち位置に迷いを抱き始めたこの瞬間を――
『……家に帰ったら温かいシャワーを浴びて、残ったゲームをやって……「ガンガンコミック」を読んで……それから十時間以上、昼までぐっすりと寝るんだぁ……早くこんなの辞めて家に帰りたいなぁ……』
悪いな、俺は「ヤングマガジン」派なんだ。
――内心で呟き、謙仁は頭を抱え耳を塞いで耐える。
少年の様な声は続いた。それはまさに悪魔の誘いだった。同時に何処からか嗅ぎ覚えのある匂いが漂って来た。それは熱いコーヒーの香り、甘いドーナツを揚げる香ばしい匂い、そして音……
「おい――!」
謙仁が呼びとめる間も無かった。隣の降下救難員がふらりと立ち上がり、ゾンビの様な足取りで匂いの方向へと歩き出す。謙仁は目を剥いて背後に飛びかかり、彼を押し倒した。
「ばか! 此処で止めたらお終いだぞ」
「コーヒー……コーヒィー……!」
降下救難員の声には涙が籠っていた。彼を抑えつけ、泣き止むのを待っている暇をヘッドライトの向こうの悪魔は与えてくれない。今度は二等海曹が立ち上がり、ヘッドライトの向こうへと歩き出す。
「――――!」
驚愕をそっちのけに、謙仁は彼を背後から抑えつけた。そこに重なる新たなる誘いの声――
『――……ああ、豚骨ラーメン食べたいなぁ……針金みたいな細麺で、味玉子とメンマがたっぷり乗って……薄いチャーシューじゃ無くて分厚い角煮が二枚乗ったやつ……おれ、ここ辞めたらすぐ喰いに行くんだぁ……』
くそっ!……静かにしやがれってんだ!
二等海曹を抑え付けつつも、疲弊した脳裏にヒルの様に取付こうとする声を、必死で振り払うべく頭を左右に振る謙仁の姿があった。謙仁ですら、悪魔の囁きは獲物と見做したかのようだ。
『――……もう帰ろうよ。君はこれだけ頑張ったじゃないか……なあそこの君、これは本当に君のやりたいことなのか?……本当の君はこれでいいのか?……これ以上やると人間としておかしくなってしまう……だからもうゴールしていいよね……ゴールしていいよね……ゴールして……いいよ……ね――』
「うるせぇーーーーーー!!」
自分でも意外だった。これ程までに大声を出し、相手を怒鳴りつける余力があったとは――気が付けば、他の班員はもとよりそれまですっかり眠りこけていた班長の三等海尉までもが、唖然としてこちらを眺めている。それが謙仁の、これまで胸中に蟠っていたものに火を付けた。
「みんな何やってんすか!? 声だ! 声出して向こうの班を応援しましょうよ!! このままじゃ班がバラバラになっちまう!!」
声をふり絞る内、胸と言わず手足と言わず身体が熱くなるのを感じる。そうだ!……とにかく動き続けないと、動き続けて雑念を払わないと……!
「高良、落ち着け!」
と、班長格の三等海尉が謙仁の上腕を掴んだ。よく見れば顔が青白い。疲労の極にあることもそうだが、肝心な時に意識を飛ばし、自身の責務を放棄していたことへの気後れは、隠しようが無かった。その彼に何かを叫ぼうとした謙仁の背後で重厚な射撃音が轟き、打ち上げ花火の如くに曳光弾が夜空を駆けたのはその時だった。
「貴様ら、よほど元気が有り余ってるようだな」
と、別の教官が謙仁たちを睨む。その手には旧型の62式機関銃が握られている。装弾全重量が20キログラムを超える62式機関銃を、片手で扱っている……? 教官の口元が弑虐の悦びに染まり掛けているのを、謙仁は見た。
「貴様ら、休息は終了だ。眠気覚ましに丸太を担ぎ、砂浜を五周して来い。急げ!」
命令は絶対で、無慈悲だった。痙攣の前兆として震える足腰を気合いで鞭打ちつつ、謙仁は進んで総重量100キログラムを超える丸太の中央を受け持つ。最も荷重の掛かり、そして前後のバランスにも配慮せねばならない位置。前後に、彼に向けられた班員の呪詛の声を聞く。
「走れクズ共!!」と、旧型の62式機関銃を片手で持ち、空砲を夜空へ向けぶっ放しながら教官が怒鳴る。それがスタートの合図だったが、班がスピードに乗らない内にバランスが崩れ、丸太の重みは謙仁にも圧し掛かった――
「――――!!」
丸太の重量が凶器となって背中を打った瞬間、謙仁から呼吸と意識が漂泊の向こうに飛んだ―――――
――気が付いたときには、謙仁は海浜の上に寝かされていた。眼は閉じていたが、外がやけに明るいことは判った。さらに言えば周りが喧しい――
――もう駄目です……!
――脱落を申請します……!
――足に違和感がある。医者に見せて下さい……!
聞き覚えのある声が聞こえる。それも嫌な声だ――
駄目だ!……と半身を起しかけ、背中を奔る激痛に身を歪める。思わず開けた眼――
逆光で顔が影になっていたが、謙仁の傍には人がいた。そこで謙仁の眼差しは固まった。
『…………』
影が言った。先程の、全ての原因となった嫌なアナウンスの主だと判った。だがその声が、思ったより歳を取っているように謙仁には聞こえた。
「――生きているか?」
『…………』
「――お前が救おうとした奴らは脱落した。お前は誰も救えなかった」
『…………!』
動けない謙仁の耳元に、影が口を寄せる。此処に入って以来絶えて久しい女の匂いに、謙仁は戸惑う――
「――私は知っている。お前は正しいことをした。お前はあいつらのようになってはいけない。『反原則週間』もあと少しで終わる。全力でゴールまで喰い付け」
『…………』
「――お前ならやれる。高良謙仁」
焦点の定まらない眼前から影の気配が消え、次の瞬間にはあの厳めしい顔の教官が、謙仁を覗きこんでいた。
「高良士長、動けるか?」
「はい……訓練やらして下さい」
「診察する。横向けになれ」
謙仁を横向けにし、教官はシャツを脱がせた。医官が背骨に沿って指を走らせ、教官と専門的な会話を交わす……話が終わり、教官が謙仁を寝かせて言った。
「医務室に行くことを勧める。重傷かもしれない」
「訓練やらせてくれよ! 死んでもいいから!」
謙仁は叫び、半身を起こした。背を動かす度に電撃の様な痛みが走ったが、それは耐えられないものではなかった。医官が渋ったが、結局は謙仁の熱意の前に折れた。教官がテープで背中を固定してくれた。
「…………」
立ち上がった眼前では、生残りを再編し新たな訓練が始まっていた。有刺鉄線の張られた砂浜を匍匐前進で掻い潜り、熊歩きで斜面を登る。それをまた、他の訓練のように終わりが告げられるまで繰り返す……訓練生を追い立てる教官の撃ち上げるMINIMI分隊支援機関銃の曳光弾が、花火のように漆黒の空を彩っている。以後を謙仁は、時を経るにつれ深さと鋭さを増して行く背中の疼痛と共に、煉獄を過ごすこととなった――
そして時が過ぎ――運命の瞬間は、唐突に訪れる。
「訓練生は整列せよ! グズグズするな!」
「――…………?」
地獄の終わりを告げる声を、謙仁たち生残りは浅瀬に身を沈めかけた姿勢で聞いた。五日目の太陽は既に高かった。それでも冷たい海水は、意志あるものの様に訓練生から生命力を吸い取り続けた。混濁しかけた意識が低体温症の兆候を示していたのだが、それでも「整列せよ」の命令だけが、謙仁に絶対の服従を強いていた。立ち上がり、完全に感覚の消えた身体を必死で引き摺り教官の元へと向かう。それでも歩を勧める度、鈍痛と化した痛みが落雷の様に背中を奔る。歯を食いしばって謙仁が並んだとき、彼と同じ列に並んでいた訓練生は10名しかいなかった。最後に確認した時は自分を入れて13名だったのに――
「…………」
元来た砂浜へ目を向け、謙仁は残る二人の末路を知った。完全に意識を失い、教官に蘇生措置を受けて担架に乗せられようとしている二人の身体――赤十字マークを付けた四輪駆動車が白波に洗われた砂浜を蹂躙しつつ近付いてくる――
「貴様らはクズだ」
無感動に学生たちの列を見遣りつつ、教官はやはり無感動な口調で言った。だが彼の前に居並ぶ学生たちの表情には明確なまでの変化がある。それは今後に彼らに降り懸かるであろう新たな試練に対する緊張ではなかった。試練を受容し、身が朽ち果てるまでそれを完遂しようという強固な意志と連帯の表情であった。学生たちの行く末を見届ける様に一瞥したシューティンググラスが、眩くギラつき、教官は厳かな口調で続ける。
「貴様らのクラスで幹部は一人も残らなかった。これは貴様らの怠慢の結果だ。よって我々は、先刻第一術科学校校長に「反原則週間」をもう一日延長する許可をもらった!……総員、回れ右!」
「…………!?」
姿勢を転じた先、勃然と佇む人影に我が目を疑わなかった学生は恐らく皆無であったろう。折り目正しい黒い制服に身を包んだ将官の姿、先刻彼らに地獄の一日延長のゴーサインを出した筈の当人が、にこやかな表情と共にそこにいる? そして彼の傍らに立つ教官連中の、恐らくは入所以来初めて見たであろう心からのにやけ顔――あまりの展開に事態の真意を呑み込みかねた学生たちの前で、本来入学と教育修了の時にしか学生と顔を合わせる機会のない海上自衛隊 第一術科学校校長は姿勢を正し、厳かに告げた。
「状況終了をここに告げる。基礎訓練課程修了おめでとう。諸君らはよくやった! 訓練生は1300に講堂に集合。そこで今後の予定を説明する。それまでに風呂に入り、メシを食ってしばし休め。以上だ。解散!」
「…………」
不思議と、喜びは感じなかった。ただ、終わりを告げられた瞬間、足元から力が抜けていくのを謙仁は感じた。安堵だと思った。最初に両膝を突き、そして手を突いた瞬間、謙仁は視界が漂白されゆくのを感じる――それがこの記念するべき日の、謙仁の最後の記憶だった。
「反原則週間」の突破、それに続く基礎訓練課程の修了と三週間の特別休暇を、謙仁は江田島の第一術科学校の、医務室のベッドの上で告げられた。背骨の二か所に入った罅、それにともなう神経の圧迫と背筋の損傷、そして軽度の貧血……それらの完治にはまる一カ月の安静が必要であること……患者として知らされるべき全てを医官の口で告げられた瞬間、謙仁は苦笑とともにそれを受け入れた。とにかく……最大にして最悪の関門を彼は越えたのだ。と同時に、失神する前に目にした二人に関しても、謙仁は彼らが「反原則週間」を突破したことを知る。「反原則週間」において、全行程の70パーセント以上を克服していれば無条件で基礎訓練修了と見做されるという内規があるということを、謙仁はこの時初めて知った。修了の時点でSEALs訓練生は候補生となり、三週間の休暇の後、さらに四週間をかけて水路、海岸部の地形、海洋気象に関する講習を受けることになる。その後に、「戦闘要員」として必要な技術を学ぶ機会が廻って来る――
「水中行動訓練」――それは第一術科学校の敷地内に特設された訓練用プールで行われる。訓練に先立つ基礎として、候補生は距離にして50メートルを潜水のみ、つまりは息継ぎなしで泳ぐことを要求される。それから訓練の場を水中行動訓練用に作られたより広大で、階段状に深度の違うプールに場を移し、本格的な教程が続くことになる。「スロリア紛争」において、PKF水陸両用部隊がスロリア中南部のゴルアス半島に橋頭保を築くにあたり、SEALsは水陸両用部隊の先鋒として水中より半島の上陸地点沿岸部の偵察、ひいては上陸し後続の上陸部隊の誘導まで行い、戦術ユニットととして有用なることを証明した。作戦を可能にする上で技術的な裏付けとなったのが遠距離潜航技術であり、これはSEALsの前身たる特殊舟艇部隊の創設以来、何にも増して重視されてきた技術であった。海上自衛隊特殊部隊は「前世界」においても「転移」後の異世界に於いても、世界最高峰の潜水浸透技術を有する精鋭とされていたし、それは数々の戦歴に裏付けされた事実であった。だが、おそらくはこの段階でSEALsにとって銃に並ぶ身体の一部と言ってもいいスクーバダイビング用の機材に、初めて触れる機会を持つ候補生もいる筈である。あるいはSEALsという組織の真の存在意義を、この段階に至って漸く噛締めることとなった候補生も――
謙仁はといえば、水中処分員という元々の出自も手伝って機材の扱いも、訓練の内容も勝手知ったるなんとやら、と言ったところであった……が、多くの候補生は流石にそうはいかず、特に修了検定とも言うべき妨害排除訓練で何度もやり直しを命ぜられる者が続出する。しまいには、呼吸困難に陥り失神する者まで出る。修了検定に臨む候補生がスクーバダイビング用の装備を着用し、プールの最深部まで沈んだ直後、待ち構えていた教官が候補生に襲い掛かり彼よりマスク、レギュレーター、さらにはタンクを引き剥がす。これは潜水作業時における敵性工作員による妨害の他、潮流の変化や障害物との接触を想定してのことだ。水中で生命を繋ぐのに必要な装備一切を奪われた候補生は、息の続く僅かな時間、限られた視界の中でそれらを回収するのと同時に、使用可能なよう再調整するという困難な作業を強いられる……普通の候補生ならば一回のはずのそれを、謙仁に至っては二回もやられた。一回目の再調整があまりにスムーズに行ったことが教官たちの注意を惹いたのかもしれないが、水中処分員というその出自ゆえに、わざわざハンデを付けられたというべきか?――再びスクーバ装備を着用する中で睨む水底が灰色に染まる。灰色一色の視界が次にはトンネルに入ったかのように狭まっていく。酸素を欲し喉が痙攣する……再調整を終えたレギュレーターを咥えた直後に喉に流れ込む酸素は重く、それに謙仁はむせた。窒息するよりもパニックを起こす方が彼には怖かった。現に彼の前に検定に臨んだ候補生は、回復動作の途上でタンクの調整に手間取った挙句にパニックを起こし、そのまま医務室への直行を強いられたのだから――脳裏を巡る感慨をそのままに謙仁は水底に死への恐怖を置き捨ててゆっくりと浮上し、そして検定を修了した。三人が二度のチャンスを使い切り落第を言い渡される。謙仁を含めた残りは、一転し陸上において新たな教程に臨むこととなった。銃器操作の訓練だ。
「銃器操作」――実のところこれこそを期待して「ロアナブラ」の門を潜った志願者が多かっただろう。89式カービン。全長にして80センチメートル、重さにして4キログラム足らずの金属と合成樹脂の塊は、それ以前の海上自衛隊教育隊、水中処分員養成コースの最中で何度か撃つ機会を有した89式小銃に比べて頼り無いと思えるくらいに軽く、華奢な造りである様に謙仁には思われた。
ただ、これまでの訓練と異なる点は、すでに10名を切っていた特殊作戦要員教育課程の候補生は、同時期陸戦訓練の途上にあった幹部候補生に混じり射撃及び戦闘技術の訓練を受けることとなったのである。但し、作業服で89式小銃を抱えつつ訓練場を駆け回り、あるいは這い回る候補生達の中で、同じ作業服ながらさらにその上にタクティカルベストを纏い、89式とは全く趣の異なる小型銃を構えてワンランク上の訓練を受ける集団は明らかに人目を惹いた。しかも――
これまでの訓練より、ずっと楽だ――謙仁を始め、彼ら学生の心身には余裕があった。少なくとも同じ陸戦訓練を受ける者として幹部候補生学校の教官の管轄下にある限り、いくら怒鳴られつつ訓練場を走ろうが、あるいは障害物を越えようが疲労は感じなかった。むしろ肉体が、乾いた土壌が水を欲して已まないかのように次々と苦役を求めていた。それを与えるのはやはり「ロアナブラ」の教官たちの仕事だった。陸戦訓練からさらに発展した屋内戦闘、閉所戦闘、そして特殊な銃器操作と拳銃の射撃訓練、もはや一日の習慣となった障害物走と四マイルの時間走……「ロアナブラの住人」達の訓練量は瞬く間に幹部候補生たちを圧倒し、何時しか彼らは謙仁たち候補生を畏敬の眼差しで見詰めていた。共に取る休憩の合間、一体どれくらいの量訓練しているのか? どうすればシールズに入れるのか?……などと、候補生に真顔で聞いて来る幹部候補生もいる。若い彼らもまた、自らの属する海上自衛隊という組織の中で、自衛官として彼らの居場所を決めるべき時期に来ていた。
「要するに、広報効果さ」
と、その日の課業の終わり、教官が謙仁に教えてくれた。
「SEALsは慢性的に人手が足りない。だが部隊としての性格上、訓練の質を落として員数を揃えるわけにはいかない。そこで間口を広くしておく必要がある。つまりお前たちに触発されて多くが志願すれば、それだけ多くを採ることができる。お前達学生は生きた入隊勧誘広告ってわけさ。だから幹候や他の学生と混ぜて訓練をやらせている」
「…………」
なるほど、でも……と、謙仁は思う……もし自分の知り合い、あるいは未だ見ぬ子供が長じて自衛官になり、「ロアナプラ」に行きたいと言ったならば、おれは全力でそいつを止めるだろう……「ロアナプラ」はそれに対しその後の人生を賭けるに足ると強く思っている者、その途上で死んでもいいと思っている者だけが行くべきなのだ。自分の知人や子供は、そうあるべきではなかった。強く説き伏せても尚、そこに赴くことを強く望む者だけが行くべきなのだ。生半可な覚悟では、此処の試練は受けてはいけない。
――入所から三カ月後、謙仁の属するクラスは「ロアナブラ」を出る日を迎えた。つまりは海上自衛隊特殊作戦教育/訓練センターで受けることのできる正式な教育課程の修了を告げる日であったが、SEALsのスタートラインに立ったばかりの彼らの訓練に終わりは無い。あの基礎訓練に続き江田島で受けることのできる訓練は銃器操作と水中行動、爆発物取扱に関するものまでで、特殊作戦要員として必要なそれ以上の訓練――パラシュート降下、狙撃技術、山岳機動、近接戦闘技術その他――は、外部の教育機関で受けることになっている。そして海上自衛隊特殊部隊の戦闘要員と見做されるようになるまでには、候補生は前述の少なくとも二項目以上には習熟していなくてはならなかった。但し、この修了式の日を以て彼ら候補生は正式に隊員となる。つまりはあの「悪名高い」海上自衛隊特殊作戦徽章――別名バットマーク――を第一術科学校校長の手ずから与えられ、それまでの隊員名簿から抹消され、新たに「特殊職種区分」として他の隊員とは別個に管理されるのだ……否、「別格」として扱われるということか……
謙仁は、横須賀を本拠地とするチーム3への配属が決まり、その準備段階として空挺訓練に振り分けられた。基本降下教程を受けるべく習志野の陸上自衛隊空挺教育隊に向かう日、謙仁は教官に呼び止められた。
「高良謙仁!」
「はっ……!」
「『地獄週間』の三日目に、声を張り上げたのは貴様だろう?」
「ハッ!……そうであります!」
教官は笑った。
「あれはいい判断だった」
「…………?」
「他の訓練生は班の結束を乱したとか言っているようだが、俺は貴様の判断を支持する」
謙仁は、改めて背を正した。
「しかし、あれが原因で班を去った者もおります。教官殿、自分は……」
「教官はそうは思わない。あれしきの事で、自分の事しか考えられないような奴は、そのままSEALsに上がったとしても大成しない。一度SEALsの一員になれば、あれ以上に辛いことはこれから先、幾らでも待っている。俺達が欲しいのは、どんなに過酷な状況にあっても、仲間の事を思い続けていられる根性を持った奴だ。高良士長、貴様は今回の『反原則週間』でそれを証明した」
「教官殿……」
「滅多に訓練生を褒めない弦城二尉も、貴様の事は褒めていたぞ」
「ツルギ二尉……?」
「『ネガティヴコール』の主だ」
謙仁の脳裏に、あの女性の声が去来した。だが結局、彼女の正体を知らないまま、自分は此処から巣立っていく……だがそれはどうでもいいことのように思えた。少なくとも今のところは――
「高良士長、胸を張れ!」
踵を鳴らし、姿勢を正す。
「いいSEALsに、なれよ」
「ハイッ!」
敬礼――踵を返し、謙仁は隊門へと向かう。その途上、別の教官に背後から声をかけられる。
「おい高良士長」
「はっ……?」
「高良俊二ってのは、貴様の親戚か?」
「兄であります」
「俺はあいつには借りがあるんだ。会ったら宜しく言っておいてくれ。それと……」
「…………」
「貴様の兄貴、どうやら『S課程』を修了したらしいぞ」
「――――!」
入隊して暫く置き去りにしてきた驚愕が、追い付いてきて謙仁の肩を叩いたかのような感覚――
「――――」
――気が付けば謙仁は、意識を他所に置いて空を見上げ続けていた。追い付き追い越そうと頑張って来た相手の背中、手を延ばしてそれを掴み掛けようとした瞬間、背中がさらに遠ざかって行ったような感覚を、軽い失望と共に抑えつけようとする自分の意識……それが今の謙仁にはもどかしかった。
俊二は、今度は何処へ行こうとしているのだろうか――
眼差しに険しさを取り戻し、蒼を睨んだ謙仁の睨む先を掠める二条の飛行機雲――
「ジャリアーか……」
空を滑る雲雀のような小振りの機影が、軽やかに艋艟たちの巣の、遥か上空を航過していく――