第四章 「カタバミ」
日本国内基準表示時刻11月14日 午後8時20分 関東某所 警察庁情報通信局隷下 衛星管制センター
「いずな」は、その前日からその足元に拡がる世界の一点を、只管に注視し続けている。
天界の辺縁に在って下界に向け電子の視線を注ぐ彼女と、地上の何処とも知れぬ場所に在って共有する事を許された彼女の電子の視界の中の、一挙手一投足に全神経を集中させる人々との間では、いまや奇妙なまでの一体感が生まれていた。
「――――?」
静から動へと転じる発端は、それまで液晶モニター画面を注視していたオペレーターの表情の変化、それに先立つ画面に映し出された状況の変化であった。全体的の暗灰色のヴェールの掛かった俯瞰図の只中、その車は駅前のロータリーにも似た広大な邸宅の玄関らしき場所で止まり、赤外線センサーの産物たる複数の白い人影を乗せ、やがて再び走りだした。
画面を注視する女性オペレーターが、感情を殺した声で告げる――
『――「いずな」カメラより管理官へ。監視対象者の移動を視認。追尾に入ります』
『――「いずな」、逃がすな。監視を続行しろ』
『――「いずな」了解』
管制室は広い。その最上層を占める「監理官」がオペレーターに指示を送るのと同時に、管制そのものを指揮する区画ではまた別の遣り取りが始まっている。そこでは、今回の作戦を指揮する管理官が、感情を抑えた重い声でこの場にいない「誰か」を動かすべく、随員に別の指示を送っていた。管理官と随員を含めその場の誰もが没個性な黒いスーツ姿。それらは軍服の様に着こなされ、その規則正しさによって醸し出される組織としての意思が、その場の面々の生来より宿していた個を、空調が生み出す生温い空気が完全に吸収してしまっていた。
『――現地のカタバミへ連絡しろ。豹が檻を出た。繰り返す、豹が檻を出た……回収作業に入れ、と』
カロゼリア王国基準表示時刻11月14日 午後9時12分 首都アドナルドシュテッヒ 王宮西苑 「ユリゼ宮」(迎賓館)
その日は、素晴らしい夜になる筈だった。ユーレネル大陸南部に位置するカロゼリア王国では、それが制定された最初の、王妃ユセリナの誕生祝賀日であったのだ。
最も、その目出度さはこの国の上位1パーセントを形成する王族、貴族階層に属する人々にのみ共有されるであろう事柄であったのかもしれなかった。都市部の大商人、地方の小領主等も含めれば、その上位3パーセントが王国の権力と富を独占する典型的な専制君主国家たるカロゼリア。この夜はその3パーセントに属する人々の大半が首都アドナルドシュテッヒの中心部に属する王宮に集い、今年19歳になったばかりの王妃の生誕を祝賀するはずであった。決して軽いとは言えない租税と、奉仕という名の労役を課せられる運命にある残り97パーセントの大半には、実のところ全くに関係の無い時間の始まり――
首都の中央を、王宮たる「ユリゼ宮」まで貫く大通りを、護衛の先導車付きで疾走する車が一台――
黒塗りのその車は、近年になって漸く王宮に導入されたばかりの乗用車に比べずっと車格が良い。丸みを帯びた矩形に纏められたその車体に比して、先導と警護役とを兼ねて黒塗りの車の周囲を固める王国宮内省の車の、エンジングリル剥き出しで、馬車の籠を思わせる古めかしい造りに比べれば、むしろ先導され、護られる立場たる黒塗りの車の、より機能的な車体の方が場違いに見えるのかもしれない。そして黒塗りの車の方が、排気管から黒煙を噴き上げつつ、あるいは車体を不機嫌そうに振動させつつスピードを上げる王国宮内省の車よりも、その走りに幾分かの余裕を有していたのは傍目にも明らかだった。
もし黒塗りの車が止まれば、その車体正面とホイールに、鳳凰の紋章を見出すことが出来る筈だ。そしてカロゼリア王国でこの車を使う外交使節は、カロゼリアと国交を有する200余カ国の中でも一カ国しかいない。尤も、その200余カ国の内半分の国の使節が、王宮への参内等に使っている車は、黒塗りの車と生まれた国を同じくにするものであったが……
黒塗りの車――トヨタ‐センチュリー――が停まった。
王宮外苑を固める「宮廷正門」の扇状の車寄。車から降りた使節はここから王宮までを、宮内省差回しの馬車で赴くことになる。本当ならばここからそのまま車で向かった方が時間的にも余裕が出来るし、参内に要する手続き等も簡略に済む筈なのだが、宮廷に乗用車なるものが走りだしてまだ半年も経たぬ国の初々しさか、そこまで劇的な変容など、未だ期待するべくもないのかもしれない。
「――国王陛下のお母堂が、あまりいい顔をしないとか……」
と、在カロゼリア日本大使館の一等書記官、赤木 了が実情を口にした。彼が付き従うカロゼリア日本大使、阿納 彰人は、側近たる彼に不機嫌な眼差しを向けたまま、何も言わなかった。ただ、礼服の襟を正し、馬車へと歩を進める。数歩遅れて、赤木もまた上司に続いた。
「…………」
実のところ、好きな国では無かった。三年前の着任から、その認識は変わっていなかった。阿納大使にとって、この認識が生ずる原因の過半を、その「お母堂」が担っていた。三年前、初代日本大使として着任したばかりの彼が初めて宮中に参内した時、玉座にある若き国王アルベルク10世と同列の座に在った摂政皇太后エルミダは、礼儀として平身低頭する日本大使に、平然とこう言い放ったのだ。
「――そなたの国の礼服には、一切の美匠も見受けられぬ。そなたは喪服で神聖なる宮中に踏み入ったのか?」
「…………!?」
唖然――大貴族の出身であり、当年21歳になる現国王の母であることを指し引いても、摂政皇太后の言の非礼さは大使にとって予想の外であった。
そしてこの国に在る限り、以後が万事その調子であった。喩え謁見の後に国土のほぼ半分を占める未開地の農地転用事業に関する日本の技術支援が決まり、さらには同年に勃発した「スロリア紛争」における、日本側の「眼の覚めるような勝利」が、瞬く間にユーレネルラント全域を駆け巡ることとなったとしても――その「スロリア紛争」が起こるまで、「前世界」で言うところのコーカソイド種に構成民の大半を負う中小の国家と自治領、自治都市の連合体であるユーレネルラントでは、ニホンという国とその民は、「商圏獲得と技術開発に目敏い一方で、芸術と文化を全く解しない異邦人」程度の認識でしか無かったのだ。
確かにユーレネルラントでは、日本人は異邦人だ――その事を誰よりも痛感していたのは動き出し、そして石畳の回廊に揺れる馬車の車内で沈思する阿納大使であったかもしれない。「スロリア紛争」の勝利は、日本と経済的に結び付いたユーレネルラントの一部の国々に、「友好国にして有力な軍事大国たるニホン」という好意的な認識を生じさせた一方で、やはりもう一部の国々に「近い将来、ユーレネルラントに軍事力を以てその影響力を及ぼすかもしれぬ危険な異邦人」という負の印象すら与えつつある。特にあのローリダ共和国なる「武装勢力」と同じく、近縁の後進発展地域に強引な植民活動や出兵を繰返す、いわゆる去年度版の外務省国外情勢報告書の表現を借りるならば、「端的な表現を用いれば、外交政策に『前世界』で言うところの帝国主義的傾向が強い国々」には――
この異世界は、決して平和な世界では無い――「前世界」以来の伝統として、外交や安全保障政策を巡って何かと対立を繰り返している外務省と防衛省ではあったが、この点に於いてはまるで双子の思念のような一致を見ていた。近年になって低開発地域で頻発しているこれらユーレネル諸国同士の紛争が、その認識を抱くに足る根拠の過半を占めていた。それでもこの異世界を日本の一つの街と看做し、かの「スロリア紛争」が指定暴力団同士の一大抗争とするならば、彼らの起こす紛争はまるで子供の火遊び程度の拙さでしかないのだが……
その意味では「スロリア紛争」は実のところ、ユーレネルラントを構成する諸国やその他の地域圏に属する国々に、それが一応の終息を見てから数カ月単位の時差を以て押し寄せて来た余波であるにしても、看過出来ざる影響をもたらしつつあった。「軍事大国」ローリダ対「平和国家」ニホンの、「国境紛争」の結果は、当事者の感慨を越えてその成り行きを見守っていた国々には予想外であり、衝撃的でさえあったのだ。新兵器と斬新な戦術構想を以て「旧態依然」としたローリダの軍隊を撃破した日本に対し、軍事留学生の派遣と軍事視察団の訪日を申し出る国々が増えたのは勿論のこと、日本の軍事技術移入を目論む国が出るのもまた自然な成り行きであった。彼らは大金、あるいは経済的な利権をちらつかせつつそれを日本に打診し、外貨獲得の新たな手段創造と国威発揚という利点から日本の急進的愛国者勢力がそれに乗った。
「――日本製の兵器はあくまで日本国の国土、そして日本国民の生命及び財産を敵性勢力の侵犯より護るために日本人の手によって調達され、日本人の手によって保有され、日本人の手によって運用されるべきものであり、利潤の獲得だの国威発揚だのと言った平易な動機によって異邦人の手と打算に委ねられるべきものでは決してない。特に戦闘用車両、航空機、艦船、誘導弾、電子機器、火砲、対装甲火器などといった重装備はそうである。従って、関連法に定める小口径の護身用火器以外の無分別な輸出及び供与は、いかなる場合でも絶対に許されるべきことではない。これが政府の見解である」
「スロリア紛争」に一応の終結を見た同年の六月、初夏に開催された臨時国会において、ときの神宮寺政権の官房副長官、蘭堂 寿一郎は野党共和党議員の、友好国への兵器輸出に関する制限条項の緩和を求めた質疑にそう応じた。先年末の連立解消以来、国政に関し窮屈な運営を強いられることとなった与党自由民権党であったが、その理由となった「スロリア紛争」における自民党主導の戦域拡大の抑制方針が、結果的には当初与党内でもその実施に当たり囁かれた不安を覆す形で国民の理解を得、それ故に政権から離脱した共和党の、与党に対する追及の槍先も今では鈍りがちになっている。逆に、国威発揚という抽象的な名分を掲げ、補給と国益を度外視する形で戦線を拡大しようと図った共和党の姿勢こそが、主にインターネット上の討論や意見表明の場で批判の対象となる有様であった。
それは言い換えれば、日本は局地紛争こそ戦えても総力戦は戦えない――図らずもネット上で行われた情報や意見の交換の過程で、すでに「スロリア紛争」前に導き出されていたこの結論が、結果的には「スロリア紛争」後に及んでも再確認されたのに過ぎない。ネット上の名も知れぬ「有識者」の突き付ける、数値化された日本社会と産業、そして財政の現状と、これらから予測され得る戦時の推移と、そこからさらに歩を進めて提示された、現状の更なる悪化という分析結果を前に、「保守愛国」を自認する一部の参加者は効果的な反論を以て抗する事が出来ず、ある者は沈黙に転じ、またある者は感情的な難詰を以てその他大勢の失笑を買う結果を引き起こしている。彼らの政治的な拠所たる共和党に対する少なからぬ数の国民の批判は、僅かながらの時差を置いてネットの世界から現実世界に続き、結果として共和党は国政における彼らの立ち位置を少なからずぐら付かせることとなった。それでも彼らの主張は揺らぐことなく、共和党とその支持者たちは、未だスロリア及びその他地域に対する積極的な軍事的影響力の顕示を唱え続けている。
――再び、国会。
「――それでは、友好国が他国の侵略に晒された場合、我が国は何の支援もしないというのか? 協働して友好国を護らないというのか?」
「――『転移』以来、我が国は友好国とこれまで一度たりとも安全保障条約に類する条約を締結したことはなく、これまで締結したどの条約にも、相互安全保障に類する条項は存在しない。友好国の関わる紛争解決に関し、我が国が取るべき主要な手段はあくまでも対話であり、軍事力行使というオプションは極力排されるべきものと考えている」
「――では、政府としてはこれから締結する用意はあるか、もしくは相互安全保障に関する協議の必要を認めるか? お答え頂きたい」
「――憲法第9条の禁止する集団的自衛権行使に抵触する恐れのある条約締結及び協議は、政府は一切行わない。これは『転移』、ひいては『スロリア紛争』を経た現在においても堅持されるべき政府の方針である」
果たして、共和党は激昂した。
「――政府はこの世界に存在する我が国の友好国を見捨てる気でいる。つまり侵略的な性格を有する勢力の侵攻に晒された友好国の支援要請を、とうにこの世界に存在しないアメリカからのお仕着せ憲法を盾に、口先だけではぐらかす積りでいるのだ。政府はスロリアでの失敗を忘れ去ったとしか思えない。この異世界に於いて我が国は先ずどの国よりも信義を尊び、悪に対し正義を行使する責任がある。政府はそれを放棄しているとしか思えない」
もっとも、相互安全保障条約の締結に関し、共和党には口に出せない打算が存在する。現在、日本の軍事力が共にこの世界を構成する他国に比して圧倒的に隔絶しているのはもはや自明の理である。日本はその軍事力を背景に、安全保障条約の締結という形でそれら中小国に対する影響力浸透を図っていく。それは、ゆくゆくは日本を盟主とする政治、経済的な共栄圏の構築へと繋がるであろう。つまりは「前世界」においてかのアメリカ合衆国が自由と民主主義の伝導という題目の下で、かつ圧倒的な経済力と軍事力を背景にそれを成し遂げたように――否、実のところ共和党に属する人々の胸中に在ったのは、「前世界」のアメリカを範とした覇権の確立というよりも、彼らにとっての「旧き善き時代」の再現であったのかもしれなかった。
「新世界」に築かれた広範な共栄圏の盟主たる日本、盟主の座に在って経済、軍事において圧倒的な力を誇示する日本……そう、「前世界」において帝国と呼ばれていた時分の日本が「暴虐なる」欧米列強を駆逐し、「八紘一宇」、「共存共栄」の名の下でアジア地域に広大な共栄圏を打ち立てようと図ったことと、それから一世紀近くの年月を経て、彼らの言う「旧き善き時代」と同じ立ち位置に立ちつつある現在の日本の行く末を、共和党の指導者から一支持者に至るまでが重ね合わせていたのかもしれなかった。「転移」とスロリアでの勝利こそは、まさに彼らが懐古してやまない「帝国としての日本」――大日本帝国――が復活する好機であるように思われたのである。
―― 一方で、与党たる自民党では、そのような共和党サイドの打算の存在を、ほぼ明確な視点を以て察知していた。元来同じ保守本流から分岐した党派である。つまりは共和党の連中の考えていることなど、手に取る様に判る。
「共和党は、馬鹿か?」
と、共和党側の誹謗を知った内閣総理大臣にして、自民党総裁でもある神宮寺 一は忌々しげに言った。場所は首相官邸の執務室である。
「共栄圏とやらを作るとして、創設及び交渉、その後の支援に充てる資金はどれくらい要る? そしてその資金は何処から捻出する?」
「さあ……貨幣の発行量を増やす積りなのでしょうなぁ……その後のことはおそらく……連中は少しも考えていないのでしょう」
嘯くように言った蘭堂に、神宮寺は不機嫌そうに太い眉の片方を歪めた。
「あの経済音痴どもの考えそうなことだが、冗談にしてはあまりにも現実味があり過ぎる。笑えん」
「申し訳ありません総理、軽率な発言でした」
「いや……」
手を上げ、神宮寺は苦々しくも蘭堂の言葉を認めたものだ。共和党の構想する「共栄圏」――それを経済面で実現するには余りにも莫大な資金と市場が要る。安全保障の共同体として運営するには余りにも強大な軍事力が要る。それらを確保する術を、現在の日本といえども持っていなかったし、たとえ持っていたとしても、それが国民の血税から生み出したものであり、何れは国民の福利厚生に還元すべきものである以上、リターンの期待できない見ず知らずの他国のために行使する正統性など無い筈であった。何よりも日本は国民の福祉と利益を追求するべき民主主義国家である。
さらには共栄圏を支える「市場」の問題――共和党の構想するそれは、内に開かれ、外に閉じられたブロック経済を意味している。共栄圏を形成しその盟主を自認する以上、日本は相応の国力をその拡大と維持に傾注しなければならない筈だ。共栄圏を外敵から防衛し、その秩序を維持するためにこれまで以上の軍事力を保有し維持し続ける必要に迫られる事は勿論のこと、さらに具体的には、日本は共栄圏より輸出という形で供出される資源や産物を、それらを消費し、あるいはより高付加価値を有する工業製品に換えて流通させる市場として受け容れ、その対価を、共栄圏を構成する国々に支払わなければならない。その過程で日本の通貨たる円は地域通貨としてよりその価値を高める必要に迫られるであろう。
結果として生み出される円高は、やがては国内産業に負担を強い、彼らに一層の国外での事業展開への誘因を生み出すことであろう……当然、それだけ国内から雇用が失われ、国外に技術が流出し、ゆくゆくは産業の独立と日本の技術的優位も損なわれることになる……現在の日本に、それを容認し得るだけの「国力」があるだろうか? 日本国民はそのような未来を受け入れるであろうか? そのような未来を受け入れた先に、国家としての日本の独立はあり得るのだろうか?――かつて「前世界」の日本が、欧米勢力の植民地であったが故に民間資本が皆無に等しく、単一作物栽培制及び単一資源開発に特化したアジア各地の統合を、植民地支配からの解放という名分と軍事力とを背景に強引に主導した結果、それらの諸国にとっての宗主国であった欧米列強の果たして来た生産物市場としての、最低限の役割を果たす事すらあたわず、単にこれら諸邦より資源と農産物、人的資源を一方的に収奪し、戦争という非生産的かつ再分配不可能な分野に振り向けるだけの、新たな植民地支配体制に成り下がるに至ったあの「大東亜共栄圏」と、同じ轍を踏みはしないか? 一時の高揚感や流れに身を任せるのは容易いが、その先に大団円が待っているとは思えない神宮寺と蘭堂であった。
――再び、ユリゼ宮。
馬車から降り、阿納大使と赤木書記官は応対の典礼官に導かれるがまま王宮の大広間へと続く赤絨毯の廊下を歩いていた。もちろん日本側には彼らの他に随行者がいる。駐カロゼリア日本企業団代表の眞苅 和美と、駐カロゼリア武官の石崎 祐一郎三等海佐だったが、彼らは二人とは距離を置いて追随している。
「ようこそアノー大使。過日のお口添え、感謝の言葉もございません」
と、差し出した手と共に阿納大使を迎えたのは、カロゼリア王国宰相次席秘書官たるゼシム‐ファン‐ロイルである。年の頃は阿納大使と同じ、去年首席秘書官に就任する前は特別講師として日本の大学で「新世界」の国際情勢に関する講義を幾つか持っていた。当然、カロゼリア王国の閣僚では唯一の日本在住経験者である。
「ご苦労様です。ロイル秘書官」
と、阿納大使は差し出された手を握り、微笑で応じる。
「宰相閣下は日本の農業支援に満足されておられます」
「但し、宰相閣下は我が国の名をあまり表に出したがらないように御見受けいたしますな」
「…………」
ロイル補佐官の顔色が、曇った。阿納大使はその理由を知っていたが、これ以上に事情を掘り下げるのは日本とカロゼリア、そして阿納とロイルのお互いのためにも有益ではないだろう。話題を変える必要を、阿納は察した。すでに祝賀会場たる「薔薇の間」へと通じる大扉の前だった。
「さあ、行きましょう」
宮廷音楽家の振う杖に合せて奏でられる舞踊曲。美酒と香料の芳香。銀製の食器と燭台、豊富にして豪勢なる山海の珍味、広間を彩る豪奢な装飾と彫像、談笑する貴人たちの雅な会話……祝宴の情景たるそれらを遠巻きに眺めたとしても、その真只中に日本人が入ることはない。実のところ阿納たちの関心は王族や貴族の辺縁に在って、王国の内政や経済を掌る高等文官や財界人へと向けられている。つまりは、明言はされないものの、身分の壁は宴会場にもやはり存在するのだった。それに――財政に無頓着な王室や貴族層が預かり知らないことではあるが――既に二年前からこの国を動かしているのは、いまや王室や貴族層を越える財力を有する財界人なのだ。その彼らの財力の源は――
「――アノー閣下とマカリ様には、常々我らに過分なるご高配を頂き、感謝の言葉もございません」
懇談用――否、密談用――に設けられた宴会場の奥まった一室で、カロゼリアの財界人を代表してラヌス‐ダガ‐リーザが恭しく阿納大使に低頭する。約100年続くカロゼリア最大の商家の当主であり、王国の商業の頂点に君臨するこの老人は、阿納大使の意を受けた日本の旧財閥系商社の支援により開発された隠し銅山の運営が軌道に乗り、今や王国最大の富豪となっていた。海外植民地の運営と王室の乱費に苦慮するこの王国の財務省が、今や最大の貿易相手国にして債権国である日本に借款を申し込む際、先ずこの老人を通さねばならない。それ程の影響力を彼は持っている……言い換えれば、日本が持たせている。今やこの老人を通じ、日本はカロゼリア王国国内の財界と官界、そして軍の一部勢力を「操縦」し得る立場に在ったが、それが公になることは永久に無いであろう。
他愛のない世間話が20分ほど続き、そして――
「リーザ殿にはご壮健そうでなにより。ところで……」
グラスの中で揺れるブランデーを見遣りながら、阿納大使は続けた。
「貴国の財務省は、幾らご所望なのですかな?」
「……20億ジニー程」
「フム……」
詰まらない話を聞き流すかのように、阿納大使はブランデーの琥珀を喉奥へと流し込む。それを上目がちに見守るカロゼリア財界の長老たち――
「宜しい、東京には私から話を付けておきましょう。眞苅さん……」
「はい……」
それまで物珍しげにガラス細工をこねくり回して眺めていた眞苅が、阿納大使に向き直る。
「融資の件、いいかな?」
「ええ、問題ありません」
と応じ、眞苅は商人たちを見遣る。
「皆様方の取分については、皆様方の王室に対する債権が担保です。お判りですね?」
「ええ、それはもう……」
老人たちに浮かんだのは、安堵の表情だった。王国は自国の商人からも借財を重ねている。それはもはや看過できぬ額に達している。どうやらこの国の貴人は、商人を「底を叩けばカネの出るものを言う壺」程度にしか見ていないのかもしれない。
『――ご来駕の皆様、間もなく摂政皇太后エルミダ様、アルベルク10世国王陛下、ユセリナ王妃が入場なさいます。広間へとお集まり下さい』
何処からともなく聞こえて来た典礼官の呼び掛けに、阿納大使をはじめ部屋の皆がゆっくりと腰を上げる。話は終わった。つまりは、彼らが今日為すべきことはもう終わった。
王宮の主にして、王室の頂点に在る者たちの入来を告げる典礼曲が高らかに奏でられる。出席者は一斉に低頭し彼らの登場を待つのが仕来りであった。
壇上の一段下に畏まり、入来を見守る出席者の群に手を振る摂政皇太后エルミダ。カロゼリア王国国王アルベルク10世の母であり、摂政として15年の長きに亘り国政を取仕切っている。とは言っても既に逝去した前国王と結婚したばかり頃の、妖精の女王を思わせる美貌と瑞々しさは既に失われ、宝石を散りばめたドレスと厚化粧に覆われた緩みきった体躯からは、支配欲と権力欲とが瘴気の様に仲好く発散しているように見える。
その姑に追従する嫁――本日の主役たる王妃ユセリナは、実のところ姑の実家にして王国の名門リエンシュバルク公爵家の縁戚の出であり、姑とは生来からの顔見知りであった。ほっそりとした体格と端正な顔立ちは貴人と称するに足る美しさを醸し出していたが、一方で目元と眉のあたりが貴族らしからぬ才気のきつさをやや醸し出している。同門故か、姑との仲はこれでかなり良好であった。
「…………」
王国軍総参謀長にして伯父たる陸軍大将リエンシュバルク公アルマクを伴い入来する軍服姿の青年。国王であることを示す赤い帯と王国軍最高司令官の胸章が何処となく不似合いな、常に物憂げな表情を絶やすことのない美男子を、阿納大使は遠巻きに眺めていた。
カロゼリア王国国王アルベルク10世。当年21歳であり、7歳で即位以来15年近くに亘り王国の君主であり続けている……とは言っても国政に関する権限は即位以来ずっと母の手に在り、国軍に関するそれもまた、即位以来母の兄たる総参謀長の手の内に在った。血筋だけのお飾りと言うべき国王。不遜な姑と癇の強そうな妻――見るからに、日頃からそれらに苛まれているように見える彼に同情は抱いても、この国の行く末に関心を持つ阿納大使ではなかった。
この夜、最も出席者の関心を集めた日本人は、駐カロゼリア武官たる石崎 祐一郎三等海佐であったかもしれない。国王ではなくエルミダ皇太后の述べる出席者への感謝の辞を聞き流しつつ、何気なく視線を転じた先で、海上自衛隊の礼服に身を包んだ石崎三佐は、その周りに武官らの群を作っていた。カロゼリア駐在武官に着任する前はスロリア方面派遣艦隊の幕僚であったという彼の経歴は、異邦人の軍人の興味を惹くにはあまりにも強烈に過ぎたと言える。
「やれやれ……」
軍人はこれだからこまる――困惑にも似た感慨を阿納大使は胸奥に仕舞い込むように努めた。教育の段階で武勇を尊ぶという性格形成を強いられるが故か、軍人は煽てにとことん弱い。それはともすれば彼が仕える組織に不利益な何かを、他者に対し意図せず「口から滑らせる」ことに繋がる。その他者の中にも、それを企図して接近を図る者がいるかもしれない。石崎三佐は果たしてそのことを自覚しているのだろうか? 交流と情報収集に精を出すのは結構だが、もう少しスマートに、あるいは控えめにやれないものだろうか?
その点、この場にはいないが警察庁から派遣されてきた情報官、奈良原 喜一の方が、この国ではもう少し「スマート」に立ちまわっている様に阿納大使には思われた。彼は半年前にこの国に着任するや、身一つでそれまで阿納自身すら二、三度ほどしか面識の無かったカロゼリア財界の重鎮、開明派貴族から市井のいち職人ギルド長に至るまで広範な人脈を築き上げ、それは現在ではカロゼリアの国内情勢を知る上で欠かせない情報収集、分析のツールとして機能している。阿納自身も奈良原に請われて一度ならず定例の情報交換会に「お忍びで」出たことがあるが、ある夜、アドナルドシュテッヒ市中の大衆酒場を、文字通り借り切って行われたそれは、さながら反国王派、言い換えれば改革派の全体集会的な活況を呈していたものだった。
「大使、阿納大使……」
と、何時の間にか歩み寄っていた赤木書記官が、あからさまにというわけでもなく会場の一点を指差す。促されるように視線を転じた阿納大使の余裕ある表情が、そこで一変する。
「む……!」
複数の王国軍将官や高級士官に取り巻かれ、笑みを絶やさない初老の異邦人将官……彼の纏う赤い軍服が、自分のみならず多くの日本人にとって特別な意味を持つことを、阿納大使は痛切なまでに知っていた。しかも彼は――
『外道め……!』
思わず口に出かかり、苦渋と共にそれを押し殺す。ルード‐エ‐ラファス。駐カロゼリア ローリダ共和国大使。予備役の共和国空軍中将であり、名誉位としてカロゼリア王国軍大将の階級も与えられている。だが阿納大使の憤懣の理由は現在の彼の出自と地位ではなく、むしろ彼の過去――言い換えれば前科――にあった。
三年前、「河首相一行遭難事件」時のサン‐グレス空軍基地司令官 空軍少将――この肩書を聞いて、眉を潜めない防衛、公安関係者は日本には皆無であろう。かの「スロリア紛争」の前段階とでも言うべき陸上、海上の紛争を収拾するべく敵地たるローリダ領ノドコールに乗り込んだ河 正道前総理大臣は最初に一歩を標したサン‐グレス空軍基地でラファスの率いる一隊に囚われ、交渉の余地なく銃殺されたのである……ラファスはいわばその「河首相一行遭難事件」の多数の主犯及び実行犯の、有力な一人というわけであった。
その男が、平然としてこの祝福の場にいる!……牽制外交と多国間戦略との織り成す事情によって捻じ曲げられた現実はそれだけ複雑怪奇で、その複雑怪奇さを弁えている筈の初老の大使の困惑と怒りを一層に誘うのだった。それまで和やかに将官らと談笑していたラファスの目が、将官どもの環を睨む阿納大使のそれと交差する――
「…………!」
『――嗤いやがった!』
天よ、何故にあなたはこのような不条理を放置しておくのか!……怒りはそれを抑えられぬほど大使の手を震わせ、持ち替えたカクテルグラスにやがては罅を入らせた。
カロゼリア王国基準表示時刻11月15日 午前1時07分 首都アドナルドシュテッヒ 西方大路 通称「ライナ皇后通り」
重厚な造りの黒い車は、誰も遮る者の無い道路を、一直線に帰路へと就いていた。両脇の側道を彩るガス灯と、深夜故か一切の灯りの消えた邸宅や集合住宅とが、荘厳なまでに美しい調和を見せていた。悪路向きではない公用車が年季の入った石畳を走るのに、中の人間には少なからぬ忍耐が必要だった。それでも後席の主人は上機嫌だった。
「――あのニホン人の顔を見たか? なかなかの傑作だったではないか」
「左様……見ものでしたな」
ラファスの言葉に、副官であるミレバス中佐がしたり顔で頷く。ラファスは顎髭の覆う顎を手でなぞり、そして車窓へと勝利の熱気に熟んだ眼差しを向けるのであった。この時間帯、街中をうろついているのは浮浪者か外灯の下で春を商る寄る辺ない女ぐらいなものだ。我が共和国ローリダがこの地の実権を掌握した暁には、あの目障りな輩は真先に矯正収容所へと送ってやる。勿論、彼らが街中に解き放たれることなど永遠にない。そのためには……
「……基地の用地交渉は進んでいるのか?」
「未だ土地にしがみつく地主や農民もおりますが、何れは片が付くでしょう」
「なるべく穏便に済ませろよ」
「そのための、リエンシュバルク参謀長でございましょう?」
ラファスは口元を急角度に歪めてにやけた。まったく、副官の言うとおりだった。参謀総長は強欲な男だ。金銭、宝石、絵画、屋敷、名馬、車、そして幼女……それらには不自由しない筈の大貴族の分際で、飽きもせずそれらを要求して来る公爵家の当主たる参謀総長には、十分過ぎる程の媚薬を嗅がせてある。そしてラファス自身、王国軍名誉中将として1000名のローリダ人士官と3000名の現地人兵士から成る「教導旅団」を指揮する立場でもあり、軍司令部の統制を飛び越えてそれらを自由に動かせる権限を有している。現在建設中の基地用地の、強制的な接収に欠かせないのが、実働戦力としてのこれら「教導旅団」と、国王の外戚たる軍参謀総長の威光というわけであった。
「基地完成の暁には、我が共和国ローリダは労せずして周辺20余カ国を軍事的に威圧する事が可能となる。『聖典』にある、雷の矢を手に下界を睥睨するキズラサの神の如くにな」
「ではやはり……ドミネティアスは本当に……」
「そうだ、先ずはカロゼリアに配備されることとなる」
ミレバスの口から、失望の吐息が漏れる。
「驚きです、小官はあれが配備されるとすれば先ずスロリアならんと思っていたのですが……」
「私もそうあるべしと思っていた……今でも、そうあるべきだと思っている」
蛮族めが!……歯を食いしばり、ラファスは再び車窓へと目を転じた。本国は弱気になっているのだ。思えばあの「事件」と、それに続く「スロリア戦役」こそが全ての始まりだった。あの「事件」においてラファスは主要な役割を果たした。講和の声に惹かれてのこのことこちらの掌中へとやってきたニホンの首班一味を包囲し、天誅を加えてやったのである。この勢いを狩り、ノドコールの騒乱など顧みず再攻勢を開始していれば、その後の展開は果たしてどのような結末を迎えていたであろうか?……共和国はその後の戦に勝利し、ラファスの名も、スロリア征服の聖戦を始めた男として共和国の歴史書にその名を記憶される筈であった。そうならなかったのはラファス自身の責任ではなく彼より上位に在る誰かの責任に帰せられるべきであろう。共和国はあの蛮族に時間を与え過ぎた――ニホン人が態勢を整え、反攻に転じるための時間を!……その結果がこれだ!
「馬鹿め……!」
「閣下、何か?」
「何でもない。こちらのことだ」
不機嫌に車外の光景を眺めたまま、ラファスは夜空へと視線を転じる。おそらくはこの世界の創世より、この異世界を天球の遥か外から睥睨する巨大なる衛星、陽光を受け金色に輝くそれの、痘痕の目立つ表面が、はっきりと見える眩さであった。その月光を背景に浮かび上がる区々の輪郭――
『――――?』
見出す筈の無かった「何か」を、ラファスが屋根の上に見出したのは、そのときだった。
影――外套を纏った、黒くか細い影――は距離と光の加減故にその正体を知ることはなく、また一瞬に近い時間の交差では、それを知ろうという意思すら、結局はラファスに起こさせることはなかった。
遠ざかりゆくローリダの車――
集合住宅の屋根の上に立ち、影はただ無言で車の通過を見送っていた。つばの広い帽子を被り、長く黒い外套に顔の下半分までをすっぽりと覆ったその姿から、その影本来の輪郭は完全に消えていた。
「…………」
無言のまま影は、手を延ばし自身の片耳を抑えるようにした。
「……パイドパイパーよりカタバミへ、マルタイの通過を確認」
『――了解、カタバミ、これより配置に就く』
誰もいなくなった街路を冷厳なまでに見下ろし続ける瞳に、熱いものが籠る。
何処からともなく流れて来た雲が月の巨体を遮り、やがてそれは不意の雨雲となって拡がる――
車が邸宅の敷地内に入った時には、王都は既に土砂降りの豪雨の支配する巷と化していた。
正面玄関に回ったところで止まった公用車に、傘を差した衛兵と現地人の使用人が駆け寄る。彼らの主人は神経質な男だった。まず雨に礼服を濡らすことなど思考の外である。そのことを邸の使用人たちは知っていた。雨風に身体を濡らす彼らが、幾重にも差す傘の下で身を屈めつつ、ラファスは副官を伴い玄関へと歩を速めるのだった。
「退けっ! 邪魔だ」
鬱陶しげに傘を払い、ラファスは玄関に続く広間に足を踏み入れる。恭しく一礼して帰宅を迎える家令に、押し付ける様にして礼服の上衣を預け、足早に自室へと歩き出す……その背後に副官と家令、一人の家令補佐が続いた。
「酒を持って来い。私の部屋だ」
妻は既に眠っている。祝宴に伴わなかったのはカロゼリア軍高官との内々の話も多く、彼女自身もこの日多忙だったからだ。連れ添って20年になる妻のイムリアは彼に伴われてカロゼリアの地を踏むや、早速その生来からの社交性の高さを生かして現地のローリダ人コミュニティで主導的な立場に立ち、両手の指の数にも達するかのような数の会派、同好会の長に収まってしまっている。例えば「聖歌同好会会長」、「カロゼリア‐キズラサ教教育普及婦人会会長」、「カロゼリアンティー同好会会長」、「カロゼリア駐在員ローリダ婦人会会長」、「カロゼリア駐在士官ローリダ婦人会会長」等々……昼間のこうした活動を考慮すれば、実のところカロゼリアの社交界では自分より露出が多いかもしれない。
書斎も兼ねる執務室、執務用の椅子にどっかと腰を下すと、ラファスは礼服のスカーフを緩め戸棚からブランデー入りのガラス瓶を取った。栓を抜き、気付け用のミニグラスに並々と注ぐ。迎え酒宜しく一気に喉へと流し込み、ラファスは何気なく雨の矢面に在る窓へと向き直る――邸宅でもお気に入りの中庭を一望できる窓だった。
落雷――近い。
「――――!」
窓の中央を占める巨木の麓で、ラファスの目は固まった。
影――――!?
影――あいつは、確かにあのとき――
そのラファスの眼前で、窓の世界は再び闇へと還り――次には部屋の電気が消えた。
「――――!!?」
驚愕する暇も無かった。不意を突いた背後の気配と首筋から体内の芯を貫く電撃、それが全てだった。ラファスの意識は完全に闇に沈み、それから僅かな間で彼の身柄もまた邸から消えた――
生きているものの気配が完全に消えたローリダ大使の執務室――
時を置いて再び震い落とされた轟音と落雷とが、室内とそこから臨む中庭とを再び照らし出す。
中心を占める大木――
人影一つも見出せないその麓は、沈黙を以て部屋で起こった一部始終を見守るばかりであった。
『――こちらカタバミ、任務完了』
『――「ヤマ」了解。退避ルート上に障害は確認できない。警戒しつつ移動せよ』
『――パイドパイパー、作戦は終了した。速やかに撤収せよ。御苦労だった』
「――パイドパイパー、了解」
応答し、交信を切った彼女の眼差しの見下ろす先で、「確保対象者」を乗せたトラックは無灯火のまま細い路地を走り抜けて行った。トラックはそのままカロゼリア王立中央港へと向かい、そこで待つ貨物船に「確保対象者」を預けて行くことだろう。その「確保対象者」は――
「当分、祖国へと還ることは無いか……」
外套を翻し、彼女は元来た道を辿り始める。任務はまだまだ続く。せめてぐっすりと眠れる朝までには、王都内に設けられた「アジト」に帰り着きたかった。
「カタバミの影」たる彼女――村雨 素子が「カタバミ」の一員として働き始めて、すでに二年の年月が過ぎようとしていた。
それまで警視庁警備部の幹部であり、公安部勤務を経て重犯罪対処部隊たる特殊捜査隊(SIT)隊員として勤務していた素子が、部内では俗に「カタバミ」と呼ばれる非公然の特別捜査部隊の存在を知った背景には、やはり最速にして最も確実とされる部内の風聞にその大多数を負っていた。警視庁の非公然の特別捜査部隊としては、日本国内の反体制勢力、外国の間諜の所在及び組織の内偵、追跡、監視、ひいては摘発まで行う非公然の機関として「ゼロ」、あるいは「サクラ」と呼ばれる組織がすでに「転移」前から存在し、今や殆ど内外に周知された存在となってはいたが、「転移」後、それも「スロリア紛争」後に、それと対を成すかのように誕生した「カタバミ」に関しては、そういう呼称を有する機関があるということ以外には組織の全容、目的など全くに謎の領域であったと言ってもよい。しかし、素子にとってそれらを知る機会はすぐに、しかも唐突にやってきた。それまで実のところ、「カタバミ」に対する関心は無かった。
その日、素子は突如として東京都府中市に在る警察大学校への出頭を命ぜられた。略称警大、教育施設というよりは警察上級幹部の研修施設、あるいは研究機関的な性格の強い機関であり、あの「サクラ」の本部も置かれていることでもその筋では有名であった此処警大では、素子もまた過去に幾度か捜査技術に関する研修を受けたことがある。
――その警大の奥まった一室。そこでは一人の男が素子を待っていた。まるで身体の一部と化したかのように着こなされた黒を基調としたスーツの様に、その表情と思考の掴めぬロボットの様な男――そんな人材が、日本の警察に居たとは……感慨を他所に執務机と向い合う様に配された椅子を勧められ、素子は言われるがまま腰を下す。
それを見計らっていたかのように、男は口を開いた。
「君は、『カタバミ』を知っているか?」
「名前だけなら、存じております」
「『カタバミ』が、君を欲しいと言ってきている」
「ではお聞きします。『カタバミ』とは一体、何をする部署なのですか?」
「『カタバミ』とは――」
一息置き、男は続けた。
「先年の『河首相一行遭難事件』に関し、重要参考人と目された人物を内偵、監視し、最終的にはその身柄を確保するための機関だ。特別部隊と言ってもいい」
「――確保!?」
「そうだ。この地上から日本の敵を一掃するために『カタバミ』は生まれ、そして存在する」
男は語った。彼が語ったのはいわば「報復」だった。この異世界に於いて、国家としての日本の存立と平和に対し重大なる悪影響を及ぼす最大の「武装勢力」にして「犯罪組織」たるローリダ――それが日本 警察庁の彼らに対する見解であった。「犯罪組織」である以上、警察が彼らの蠢動に対処するのは当然のこと、というわけだ。その中でも「カタバミ」の目標は、先年の、彼らが犯した最大の犯罪――あの忌わしい「河総理遭難事件」――の報復措置として、「河総理一行」を殺害した「犯人」を主犯、実行犯問わず捜索、追跡し、最終的には逮捕し「日本の法の裁きを受けさせる」ことにあった。
「逮捕なのですか?」と素子。
「そうだ。逮捕である。殺害では無い」
「…………!」
素子は、内心で圧倒された。過去の強制捜査で屈強な暴力団構成員に取り囲まれても、内偵捜査で狂気に満ちた目で睨みつけてくるカルト宗教団体信者の一群に取り囲まれても震えたことのない身体が、芯から震えるのを彼女は覚えたものだ。この任務は、明らかに警察官としての職分を超越した、あまりにも過酷なる戦い――
かつて、「前世界」において日本の公安警察は、世界中に散った赤軍派の闘士を捕えるべく秘密の特殊任務チームを編成し、追跡と監視のために世界中に送り込んだ。「カタバミ」はその能力と権限をさらに強化したものと言えるかもしれない。特に捕捉した目標の身柄を、場合によっては超法規的な手段を行使しつつその実力を以て確保し、日本まで連行するという点などがそうだ。だが、かつての「赤軍ハンター」が戦った相手に比して、「カタバミ」の敵は遥かに強大であり、そして狡猾でった。
素子は、打診を請けた。男は即座に背後のドアを指差す。秘密任務に就く者が元来たドアを潜り、元来た道を辿ることは許されていない。そして警視庁から素子の名と存在は、その日を境に完全に消えた。果たして何人の捜査官が、自分と同じ経路を辿り過酷なる戦いへの道を択んだのか、素子には知る術も無かった。
カロゼリア王都カロゼリアシュテッヒ 貧民街 「東の涯」―――――
かつては酒蔵として使われていたという石造りの地下室が、「カタバミ」のカロゼリアにおける根拠であった。酒蔵の空気は冷たく、時節柄このような場所でぐっすりと眠るのには毛布が必要となる。雨に濡れて重くなった外套と鍔広帽を棄てる様に拭い、濡れた体を乾かすのもそこそこに、素子は寝床に腰を下すのだった。
カーテンで区切られた奥の空間に、人の気配を感じる。違法に引き込んだ電信線に繋げた音響カプラーを通じ、データを遣り取りする特有の電子音が微かに聞こえてくる。各国に展開するカタバミのチームに必ず一名は付属している専属の情報官だ。名目上は大使館付き警察庁情報官補佐。その実「カタバミ」への情報提供、本庁との連絡を取り仕切る専属情報官は大抵、現地に駐在する大使館付の警察官がその役割を務める。近年になって警察庁の国外展開部門として発足した大使館警備隊は、彼の裏の顔を隠蔽するのに大いに役立っている。だが素子はその男の名を知らない。
素子も属する「カタバミ」の構成員は世界各地に散り、そこで現地の市井に溶け込み、日本の本庁からの連絡を待つ。連絡を受けてから、「カタバミ」の「仕事」が始まる。「カタバミ」は基本的に3班で1チームを編成する。先行して国外諸国に潜伏し「対象者」の所在を探る「追跡班」、「追跡班」より「対象者」の情報を引き継ぎ「対象者」の生活、周辺を悉く調べ上げ監視を続ける「監視班」、時期を見計らい「監視班」による支援の下「対象者」の身柄を確保する「行動班」……彼らの何れもが追跡、監視、潜伏、情報工作の専門家であり、「仕事」が一つ片付けば、その国内にいる要員は全員本国に一時帰国するか、新たな潜伏先としての他国へと「配置換え」になってしまう。固定されたメンバーで「仕事」を行うことは先ず無いと言ってもいい。それでも結果を出せるだけ、諜報組織としての日本警察の強固さ、人材面での層の厚さが窺えるというものだ。
カロゼリアにおける「カタバミ」の「仕事」は終わり、チームもまた役割を終えた。だが新たな「カタバミ」がいずれこの街の何処かに潜り、東京からの命令を待つことになるだろう――事実、先夜あの「ロメオ」の幹部を捕えた「行動班」は、幹部を乗せた船と共に既に出国を果たしている。素子と情報官他数名がこの国に取り残された形となっていた。
忙しげにノートパソコンのキーボードを鳴らしつつ、情報官が言った。
「主任」
「なに?」
「東京からの指示が入っています。来週末までに本土に戻り、本部に出頭するようにと」
「面倒だな……」
腰のホルスターから拳銃を抜き、手入れのために弾倉を外しつつ素子は言った。H&K P9S自動拳銃。主に潜入捜査に従事する私服警官に支給される拳銃で、重火器で武装したローリダの倦属に対しては些か力不足かもしれない。さらに言えば、それ以外の個人装備としてはスタンガンに麻酔薬程度で、日本の公権力の行使者という肩書を除けば、「カタバミ」の内実は単なる人攫い集団と捉えられても異論は挟めないかもしれない。
「いいじゃないですか。久しぶりに本土に戻れるんですから。自分なんて……」
「君も、何処かに行くの?」
「いいえ、ここに残って、後から来る要員を掌握しろと……」
「大役じゃない」
カーテンの向こうで響く苦笑を、素子は聞いた。その反面で素子は思う。彼は長くは無いかもしれない……この任務が、自分の感性には向かないとでも考え始めているのかもしれない。だがそれも仕方のないことだ。本当に好きでなければ、こういう「汚れ仕事」はやり抜けないだろう。降りたい人間はさっさと降りるべきなのだ。彼にはまた別に、活躍できる場所がある。
「主任は、エベシアまで陸路で移動されるとか?」
「鉄道の三等車だけどね」
身体を乾かし終え、着替えを済ませると素子は彼女の武器を寝台の上に置いた。自動拳銃とスタンガン、そして手錠……国から国への移動中に、そのような物騒なものはさすがに持ち歩けない。再び所持するには潜伏先の日本大使館付の警察庁情報官と接触し、「活動資金」の供与も併せ「こっそりと」再交付を受けることになっている。何故なら大使館及びその主も、彼らの活動の一切を関知していないのだから……
「当分一カ月は新たな指示は出ないようですから、ゆっくりと休暇でも楽しまれたら如何ですか?」
「ありがとう」
鼻で笑い、素子はトラベルバックを提げて塒を後にした。予め教えられた裏口から街路に出た途端。地下室が完全に灯を消したことを察する。少なくとも、この国で「カタバミ」が動くことは当分無いだろう。あるいは永遠に――
石畳の街路に向かい脚を踏み出し、素子は歩き出した。新たな任地、そして新たな任務が日本で彼女の帰りを待っている――
スロリア地域基準表示時刻11月15日 午前5時11分 ノドコール中部 クオリン村
四輪駆動車は、鬱蒼とした森を貫く小路を、その重々しい車体を揺らしながらに走り続けていた。空は未だ暗い。だが何れは太陽の光が一帯を少しずつ浸透し始めるだろう――そうなる前に、全ては為されるべきであった。
完全に葉が落ち、枝のみが虚しく寒空の下でその繁りを晒すその足元では、積もった枯葉が路を覆い隠していた。村へと通じる路――
車内――
厳密には、そこは荷台であった。荷台であった場所に覆いを架けただけの搭乗席。広い席では、八名程の人影が腰掛け、出発からすでに二時間に亘り不快な行程に身を委ねていた。路は悪く、それまで車を日常的に受け入れて来た路ではないことを伺わせた。
「――――」
車内は、無言であった。特に森に入ったときから、荷台を占有する面々の沈黙は始まっていた。矩形に区切られた空間は、この世で最も闇が深くなる時間に、仮初の住人の心の深奥まで順応してしまったかのような雰囲気だった。
車が、止まった。森の奥へと吸い込まれていくような、静かな、同乗者の誰にでも走行の終わりを容易に予期させる停まりかただった。
「……降りろ」
荷台の深奥。命じたのは女性の声だった。一切の感情を抑制した口調だったが、語幹の端々に響く瑞々しさから、他者に命令を下すに、常識的に適切と思える年季を経ていないことを伺わせる……だが、荷台の面々にとって、彼女の命令は絶対だった。
運転手と助手の手によって荷台の扉が開かれ、そして一群の男たちを吐き出した。全員が武装し、そして現地の民族衣装に身を包んでいる。最後に女性と思しき華奢な影が降り立ち、そして影は男たちの中で最も大柄な一人を指差した。多くが小銃やマシンガン、山刀を所持する一方で、彼だけが背中に巨大なタンクと思しきものを背負っている――
『――やれ』
身ぶりを目にし、大きな影は頷いた。パイプで背部のタンクと直結したノズルと思しき何かの先端。ライターの火を近づけた瞬間、それは闇夜には不相応な毒々しい朱の炎を湛え始める。直後に女性の影が、手ぶりで男たちに前進するよう促した。森の終わりに通じる茂みの方向だった。
そのとき、女は言った。
「……もう一度伝え置く、ローリダ語は使うな」
「…………」
夜はまだ続いていた。だが、森の方角から聞こえてくる鳥の鳴き声が、朝が近いことを教えていた。
始めは漣のように感じられた尿意は、もはや意識を取り戻した今では耐えがたい苦痛となって幼女を襲っている。夜に便所へと起きるのは嫌だった。何より幼女は、夜が怖かった。
藁を詰め込んだ布団に身を埋めながら、幼女は傍で眠る両親と、彼らに挟まれるようにして眠りを貪っている乳飲み子を見遣った。過日、やはり今の様に夜に目覚め、便所に連れて行ってもらおうとして断られた経験を彼女は思い出した。弟が生まれてからというもの、両親から事あるごとに日々の振る舞いについて姉としての自覚を促されている幼女であった。
便所は、母屋から少し離れた場所に在った。つまりは便所に行きたければ一度外に出る必要があった。それが、ノドコールの農村の典型的な造りだった。
部屋に寒気を入れないよう慎重に、かつ最小限に戸を開け、幼女は外へと飛び出した。年末特有の強風が、不快な寒気となって幼い、剥き出しの素足を襲う。頭から掛けた防寒用の毛織物を抱く手に力を込め、幼女は便所へと歩を速める――
「…………」
幼心に異変を感じたのは、便所に入り、用を足し終えた直後のことだった。
母屋に迫る複数の気配――
それを感じた時、幼女には何故か自分が今いる場所から出てはいけないような気がした。それは予感と言ってもよかった。
暫くの逡巡――それでも、親元へと戻りたいという子供特有の本能には勝てず、戸に手を掛けようとしたとき――
「――――!?」
炎は唐突に、瞬き一つする間に広がり、そして母屋をその拳の中に包んだ。
その後には事態を悟るか悟らないかの前に上がった幼女の父母の悲鳴が聞こえて来た。追い撃ちをかけるような銃声の連鎖がそれに続き、格子戸越しの幼女の眼差しの前で、彼らの生の気配は炎の中に掻き消える様にして消えた。
幼女の家だけではなかった。見渡す限りの家々、林、そして畑に襲いかかり、そして燃やし尽くしていく炎の壁。炎は連鎖的に人々の絶叫を呼び、次には雷の直撃を思わせる銃声が広がる。
炎――
その背景――
銃を構え、家々を繋ぐ小路を行き交う人影は、その顔立ちこそ判らなかったが、明らかにノドコール人の衣装を纏っていた。近隣にいる横暴なローリダの兵隊や、植民者ではないように見えた。では、何処の村の人間だろう?――幼心の赴くまま、幼女は格子に手を掛け、炎の眩さに目を細めつつ顔を近付けた。
格子戸を覗く、大きい、険しい眼光――
「――――!!!?」
言葉にならない悲鳴を上げ、幼女はそれまで自身の短躯を支えていた格子戸からずり落ちた。乱暴に戸が開かれ、ノドコール人らしからぬ毛むくじゃらの、太い剛腕が幼女の襟を掴み、外へと引き摺り出した。
何が起こったのか、彼女には判り兼ねた。強い力で引き摺られる内に、混乱と恐怖が幼子から思考を奪い、それらに内心を掻き乱されるがままの状態で幼女は何処かの地面へと放り出された。
「…………?」
眼を開け、起き上がった時、幼女は人混みの中に居た。闇に慣れた眼は、それらが顔馴染みの村人であることを幼女に教えてくれた。その彼らの何れもが顔を煤に汚し、怯えきった表情もそのままに、着の身着のままの姿でその場に蹲っていた。彼らが自身と同じように寝込みを襲われつつも、辛くも襲撃を逃れた人々であることを幼女は幼心に理解した。
だが……
彼らを取り囲む、異様な集団。
至近に在ってもその顔立ちは判らない。何故なら顔の下半分を布で覆ってあるか、あるいは顔全体を黒く塗っていたから――
ただ――
構えられた黒光りする銃だけが、彼らが村人たちに友好的な集団ではないことを無言の内に物語っていた。
連続した銃声はやがて途切れがちになり、何時しか消えた。
同時に、炎の乱舞する村から、完全に生者の息遣いもまた絶えた。
「…………」
見張りの連中に遮られつつも、幼女には自分たちを遠巻きにして話し込み襲撃者たちの様子がよく見えた。数にして三人、中央に位置する最も背の低い一人が、襲撃者の頭目であるように思われた。その頭目らしき影が踵を返し、生き残りの集められた広場へと向かって来た。それが幼女の眼前で立ち止まった時、見上げた養女と見下ろす頭目の眼が合った。頭目の顔は布のようなものに覆われ、眼の部分のみが辛うじて一文字の間隙を設けていた。それでも――
蒼い……眼?
幼女には、それがはっきりと判った。険しい眼付きが、自分の注がれる内に、次第に和らいでいくのも――
それに見とれる内に、取り戻しゆく生への希望――
幼女は気付かなかった――
自身の眼差しを奪う一方で、その蒼い眼の持主が、軽い手振りを以て既に決断を下したことに――
炎――
四方から投掛けられたそれは、唐突に生き残りの村人に襲いかかり、狭い空間に阿鼻叫喚を作り出す――
断末魔の重奏の中で、幼女の生もまた混乱の内に消えた。結局幼女は、彼女の両親と弟よりほんの数刻の内を長生きしたに過ぎなかったのだ。
生きている人間は、全てその場から消えた。
押し寄せる完全なる静寂――
人間の焼ける匂いには、もう皆が慣れた。布で顔を覆った女が、再び手を振る。「撤収」の合図だった。ただ殺し尽くし、焼き尽くすことが彼女らの使命だった。それが終われば、彼女らは彼女らの棲家である闇に還って行くしかない。彼女らの使命が完遂されるその時まで――
部下全員が森の中に入って行くのを見届け、女もまた歩き出した。その蒼い瞳からは完全に表情が消えていた。唯一彼女の傍に付き従う、火炎放射器のボンベを背負った巨体の男が、言った。
「人間……焼クト、少シダケ……少シダケ、心、アタタカイ……」
「…………」
歩きながら、彼女は大男を見上げた。ただそれだけで、大男の言葉は、結局は彼女の胸に何の感慨も引き起こしていないかのように見えた。一層に歩を速め、彼女は森の奥を目指す。これ以上留まる理由も無ければ、留まる時間もまた無かった。
――もうすぐ日が昇る。
――全てが白日の下に晒される。
――そして今日と同じ夜は、これからも廻って来る。
カロゼリア王国基準表示時刻11月15日 午前7時02分 カロゼリア―――ガルナド国境付近
夜が明けた。
村雨 素子がそれに気付いたときには、彼女が二等寝台車の狭い座席の客となってまる一時間が過ぎ去っていた。出発まで三時間仮眠をとり、大使館差回しの車で辿り着いたレジナルドシュテッヒの王立中央駅を始発で発った時まで、しぶどく王都を支配していた冬の寒さと夜の闇は、漸く白さを取り戻し始めた空の中で、雲を貫き伸びる温かい光の槍に追い立てられようとしていた。カロゼリアの冬は厳しいが、日本のそれ程ではない。だがこれから向かう新たな任地はどうだろうか……?
寝台車は緩慢な速度で王都の街並みを抜け、田園地帯に達する。その田園地帯、田畑のど真ん中を押し退ける様にして拡がる造成帯、そこの一角に翻る赤竜の軍旗に目を停め、素子は顔から表情を消した。近年王国への駐兵権を得て以来、留まるところを知らぬ勢いで現地における影響力を延ばし始めた「ロメオ」。本国の外務省、防衛省もまた、ノルトユーロネシアの地理的重要性から王国の動静に着目し始めていると聞く……
「――何故だ!? 何故一等車に入れないんだ!?」
「――規則だ。異種族は一等車を使ってはならん!」
通路が騒がしい。端末のスイッチを切り、素子は部屋のドアを微かに開けた。車掌と揉み合う夫婦に見える男女は、その豊かな髪から獣の様な耳を覗かせていた。
「ここに切符もある! どうして一等車に乗れない!? 納得のいく説明をしてくれ!」
「同席の客から苦情が出ている! 獣人に一等車を使わせるわけにはいかない! さっさと出ていけ! でなければ列車から摘み出すぞ!」
恫喝は、あきらかに獣耳の青年を怯ませた。抗弁出来ず沈黙する青年を車掌は鼻で笑い。踵を返して彼の持ち場へと戻っていく。その後には通路の真ん中で呆然と立ち尽くす獣人の男女が残された……
「あなた……」と、旅行帽から獣耳を覗かせた女性が青年を見上げる。年の頃は二十を出て少し……と
いったところか。青年は寂しげに笑い、彼女の肩を抱くようにした。
「済まない……三等車へ……行こうか」
「あの……ここ、空いてるけど?」
「…………!?」
素子からの呼び掛けに、二人の獣耳が揺れた。素子にはそう見えた。
素子が察した通り、二人の獣人は夫婦だった。古ユーレネル式の紳士服と婦人服を着こなした若い夫婦。住居は隣国で、家業の旅館に必要な食材と雑貨の買付けでカロゼリアまで足を延ばしたという……素子は二人に菓子を勧め、二人は弁当代わりに持ち合わせていた果物で彼女に報いた。列車に揺られつつ、世間話と互いの近況で時間を潰す内、不意に青年が言った。
「ひょっとして、ニホンの人?」
「…………」
戸惑いつつ、素子は頷く。途端に青年の顔に喜色が宿るのを素子は見た。
「ワタシ、実はオオサカで二年間暮らしていたことあるんですヨ」
「大阪!?」
「ええ……ドウテンボリ、ニッポンバシ、ツウテンカク、ミナミ、ウメダ……ご存知ですカ? ワタシ、昔オオサカで働いテお金貯めテ、今実家に戻って商売してまス。オオサカ面白い人、優しい人イッパイいル。亜人だからと言って差別されなイ。それはそれは素晴らしい街でしタ」
「そう……」
その後で青年は「モウカリマッカー? ボチボチデンナー」と大阪で覚えたらしいフレーズを言っておどけて見せた。その様子と夫婦の仲睦まじさに、素子はしばし彼女の立場を忘れる。列車は田園を越え、木々の点在する山間部に差し掛かりつつあった。
温かい日光が温かくも、それまで闇の中に在った身としては辛く感じられた。