boyfriend
〈boyfriend〉
アイドルからひとりの女の子へ――なんて、あたしとは無縁の話だと思ってた。
そんな思い込みをいとも容易く引き裂いたのは、彼のあの言葉。
『誰よりも好きだ。――愛してる』
不思議と、彼なら安心だと……いや、あたしが彼といっしょにいたいと、心の奥底が訴えてきて。
だからあたしは、足を踏み出す決心をしたんだ。
「えへ……えへへへ」
マフラーの内側で、堪えきれずに笑みを浮かべる。
今日は愛しの彼との初デート。緊張に高鳴る鼓動を、彼の告白を思い返すことで鎮める。
鎮めるが――
「えへへへへへへ」
今度は笑いが止まらない。もう浮かれちゃって駄目だ。
なにせ、これまで人目を気にせず堂々と街中をデートなんてしたことなんてなかったのだ。国民的アイドルがそんな真似をしたら、たちまちマスコミの餌食になってしまう。
待ち合わせは街を代表するのっぽな時計塔。千切れ雲が泳ぐ冬の快晴を真一文字に裂くように背伸びしている。口から漏れる白い吐息はその高さには遠く及ばず、すぐに消えてしまう。
見れば、約束の時間の三十分前。意地でも彼を笑顔で迎えようと一時間も前に出発したのは、やっぱり失敗だったな。
手鏡を取り出して化粧を確かめる。これも幾度となく繰り返した動作だ。大丈夫、かわいい。腐っても元アイドルなんだから。
――早く来ないかな。待ち遠しいな。
再度彼の顔を思い浮かべ、そして緊張もいっしょに思い出してしまった頃だった。
「サツキ、ずいぶん早いじゃないか。ごめんな。待ったか?」
ちょうど訪れたのか周囲を見回す彼と視線が重なる。駆け寄ってくる彼を、満面の笑顔で迎える。
「全然待ってないよ、行こう」
薄めのチークから頬の赤らみがばれないよう、あたしは率先して彼の腕を引いた。掴んだ手首が一瞬だけ、痙攣したように跳ねる。
――もしかして、彼も緊張してる?
気づくと、少しだけ嬉しくなった。
ふたり並んで、賑やかしい真冬の商店群を歩く。もちろん、手は繋いだまま。
映画とか、遊園地とか、そういった定番スポットに訪れたりはしないけれど、こんな簡素なデートが、たまらなく楽しかった。
服屋の店頭に並ぶお洒落なワンピースを「絶対似合うよ」と言ってもらったり、季節外れのソフトクリームを舐め合ったり、全部が初めての経験。
「楽しいね」
「ああ」
こんな会話を、もう何回交わしただろう。自然と口を衝いて出てしまうのだ。
手と手を通じて感じる温かみを、一際強く握り締める。
あたしは、この熱を選んだのだ。
究極の二者択一に迫られ、そしてその末に掴んだこの手。だから、決して手放したりするもんか。
彼の告白を受けて、あたし――人気アイドル・サツキの人生は激変した。
返事をするよりも先にあたしを苦悩が襲う。
差し伸べられた彼の手を握るには、この仕事はしがらみが多すぎた。
恋愛を抱えたままアイドル業を続けるのは茨の道なのだ。どれほど秘密の逢瀬を重ねても、あたしはファンみんなのもので。
テレビ局の門前で待ち受ける人だかりから必死に叫ぶ彼にも、ライヴ会場の客席で一生懸命に手を振る彼にも、答えることは叶わない。
だから、彼との関係を激白し、アイドルを引退したことは、我ながら大英断だと信じている。
それにあたっての悶着は驚くほどなかった。誰もが祝福してくれた。きっと、心優しいマネージャーの尽力の賜物だろう。いくら感謝しても足りないくらいだ。
――そしてなにより、隠れておつきあいという大変な恋路にも文句ひとつ言わずに、一心に愛情を注いでくれた彼。
あたしを最後まで見捨てずにいてくれた。
手を、繋いでいてくれた。
「――なあ、サツキ」
不意に、彼の呟くような呼びかけが鼓膜に届く。
「え、なぁに?」
はっとして隣の顔を見上げる。回想に耽っている間、話を聞いてなかったかもしれない。
偶然視界に入った空はもうすっかり暗くなっていて、それが彼の赤みを帯びた頬を一層際立たせる。
「寒いの?」
空いている手を彼の横顔に当てると、むしろ肌は熱くなり、薔薇色が濃くなった。慌てる彼の口から、対照に真っ白い息が浮かぶ。
「そ、そうじゃなくて」
咳払いの後、落ち着くように深呼吸をした彼は、まっすぐに双眸をあたしに向けた。
絡み合う視線。
「……俺の家に来ないか?」
彼はアパートに独り暮らしだった。ふたりきり、考えただけで身体中の血液が駆け巡り、高い熱を帯び、疼き出す。
あたしも彼も、耳まで真っ赤に染めて、ギクシャクした動きで扉をくぐり中へ入った。
そこは少ない私物に空のコンビニ弁当の箱など、正直に言って色気のない部屋だった。その拍子抜けな環境に、むしろ安心して溜め息を吐く。
「……あれ?」
でも、安心したのはそれだけじゃない。
なぜか懐かしさのような既視感をそこに感じて、だから安堵の吐息が漏れたのだ。
「よし、乾杯しようぜ」
僅かな緊張の残滓を振り払うように声を上げた彼は、片手に高価そうなワインボトルを掲げていた。
「え、いいの? ……なんか高そうだけど」
「初デート記念だよ」
照れくさそうな彼の表情に、しかしあたしは苦笑い。
自慢じゃないが、あたしはアルコールに弱い。酔ったときの記憶はないけれど、かつての仕事仲間によると、酔うと口数が極端に少なくなり、すぐに寝落ちしてしまうらしい。
とはいえ、振る舞われたからには飲まなくちゃ。記念と言われればなおさら、遠慮なんてご免だ。
おっかなびっくり、グラスに口をつける。一瞬の果実の甘みと、少し遅れて舌を襲う痺れ。五味とは違う、アルコール独特の感覚だ。
そして――
「……うぅ」
予想を覆すことなく酩酊はすぐに訪れ、思考がぼやけ、代わりに急激な眠気が脳を支配する。
ゆらゆらと舟を漕ぐあたしの醜態を眺め、しかし彼は平静を崩さなかった。おかしいな、彼とお酒を酌み交わしたことなんてなかったはずだけど、お酒に弱いの、知ってたの?
いや、そんなことより!
徐々に薄れていく自我を猛然と奮い立たせる。
実はなんとしても今日、彼に伝えたいことがあったのだ。
たったひと言でいい。それを告げるまでは、寝てはいけない。
「えっとね……」
酒気で火照った吐息とともに小さく囁く。
ああ、眠い。でも、駄目だ。あと少しなんだから。
「あたし――」
★
規則的な寝息を立て始めた彼女をベッドに寝かせ、その艶やかな髪を撫でる。
安らかに眠る彼女は、まるで世間で騒がれるようなアイドルとは遠くかけ離れた、普通の愛らしい女の子のようで。
そして実際、そのとおりなのだ。
そう、彼女は最初から、アイドルなんかではなかった。
彼女――皐月と俺は幼馴染みで、小学生の頃はいつもいっしょに遊んでいた。
そして『アイドルになりたい』という皐月の夢も、ずっと傍で聞いてきた。
彼女には自信があった。そしてそれに劣らぬ才能もあった。
皐月の容姿は当時からすれ違う人々の目を惹くほどに垢抜けていたし、誰も彼女の夢を笑う者はいなかった。きっと彼女ならば夢を叶えられる、と。
贔屓目をなしにしても、本当に、皐月はすこぶるかわいいのだ。
――だから、成長した彼女がオーディションに落ちた理由は、きっと外見とは別の部分にあったのだろう。
矜持を容赦なく、粉微塵に砕かれた皐月が選んだ道は、再挑戦でも、諦めることでもなく。
逃げ、幻想に縋ることだった。
オーディション落選の翌日から、彼女はアイドルとなった。
正確には、アイドルとして活動する妄想に身を委ね、溺れ、それを真実だと錯覚するようになったのだ。
そして皐月は現実を捨てた。大学には一切顔を見せなくなり、自室に引き篭もり、俺を含めた友人との連絡も途絶えた。きっと空想世界ではテレビ出演やイベント参加など、引っ張りだこだったんだろう。
ひたすらに夢幻を求め、他を一切顧みない“壊れた”彼女の姿を、俺は許せなくて。
だって、好きだったんだ。
幼馴染みとして手を繋いでいたあの頃から、ずっと。
そして俺は彼女に告白する決意を固めた。
偽物じゃない、この世界を、俺とともに歩んでほしかったから。
けれど、俺の大一番は虚しくも惨敗に終わった。
告白に成功しても、負けは負けだ。
皐月は俺を“幼馴染み”ではなく“ファンのひとり”として受け入れたのだ。
彼女の記憶にかつての友人の姿などはなく、俺は単なるファンという役割を与えられた、一介の登場人物でしかなかった。
かつての思い出は、まとめて虚像に掻き消されてしまったのだろう。
つきあっていても、皐月はよくアイドルだった頃の幻の経験を語る。やたらと規模の大きな、今どき子どもでも世迷言だと鼻で笑うような、酷く現実離れした誇大妄想を。
両想いになっても、俺の本心は――伸ばしたこの手は、未だ彼女の奥底に届かない。
彼女の周囲を漂う濃霧を拭い去ることはできないのだ。
だけど。
『あたし、今、幸せだよ……。アイドルやめて……きみと恋人になれて……よかった……』
さっきの彼女の台詞。
消え入りそうなくらいか細い声で、それでもしっかり伝えてくれたその想い。
皐月がアイドルであるよりも俺といることを幸福だと感じてくれたのならば。
偽りの――けれど、彼女にとっては紛れもない真実の――アイドル生活を捨ててでも、俺を選んでくれたのならば。
「俺も……俺もだよ……」
それだけで、救われた気分になる。
読んで頂きありがとうございます!
たとえ幻惑に塗り固められた歪な世界にいようとも、想いは決して偽物ではない。
それが男の希望にそぐわなかったとしても、それはまあ「惚れたら負け」ってやつですよね。相思相愛なら、きっとそれだけで幸せなんじゃないかと思います。
妄想じゃない、確かな現実を伴侶とともに生きていく――そんな妄想でした!