遺愛
死を恐れるのは生きている人間だけだ。
生きることができるのは終わりを持つ人間だけだ。
――僕らには関係のない話だね。
無表情で男は言う。
その黒い木の下でいつも伊藤は藍鷹と出会う。
伊藤は藍鷹が“何”なのか知らない。
同じだと彼は言うけれど、一緒なはずがない。
伊藤はただの人間だ。
だけど、生まれたのに終わりはないのって変だろう。
僕は輪の中にある。はじまりも終わりもない。
伊藤の疑問に淡々とした声が返る。
藍鷹は伊藤が知る人間という種には合致しない。その姿形は一見人間のように見える。しかし、その肌は青白い光を纏っていた。深い藍色が艶を放つ。彼は布でその身を隠し、木に寄り添うように立っている。
こんな神話がある。
世界には始め、ひとつの夜があった。それは闇色の鳥だったという。一筋の風が吹いた、その瞬間、夜は孕んだ。そして夜は卵を産み落とした。卵は孵り、世界がうまれた。
夜の最後のこども。藍色の禽。
伊藤は問うた。
君は、原始の夜?
僕は何も産めないよ。
僕は何ものでもない。
だから、その意味を探してる。
藍鷹は翼を広げた。
その先が闇に溶け込んだ。
彼は、名もなき闇だ。
伊藤は気づくとそこにいる。
惹かれているのだと、思う。
それは常識を超えた存在だから。
君は、そこにいなければ違うものだった。
僕は僕だよ。
そう思い込んでいるだけさ。人間であるのに、どうしてこの場所に来れる?
……みんな気付かないだけだよ。
そこにその木があることに。藍鷹がひっそりと佇んでいることに。人は決して気づかない。
この場所が君を呼んでいるんだ。
違う、よ。
君が呼ぶんだ。
僕が?
藍鷹は珍しく、少し驚いたようだった。
伊藤も驚いた。
藍鷹に呼ばれた記憶などない。
そもそも、彼は伊藤の名を知らぬはずだ。
だけど、その考えはしっくりと伊藤の胸にはまった。
話をしてよ。
藍鷹はせがまれて語りだす。
こうして二人の逢瀬は過ぎていく。
――一人の女性をみつけたんだ。
藍鷹は伊藤が訪ねるといつもそこにいる。
だけど、彼はずっと旅を続けているらしい。伊藤よりはるかに見識の深い藍鷹の話はおもしろい。
――私を忘れないで。
僕ができるのは記憶を繋ぐこと。
終わりを迎えること。
それが藍鷹の望み。
死にたいわけじゃないさ。
手に入れられないから欲しいんだ。
死から逃れようともがく人間が聞いたらなんと思うだろうか。贅沢ものと罵るか、憐れむか。
永遠の“枯渇”。
何に満たされても、枯渇を枯渇する。
それはパラドクス。追いつけない負の迷宮。
君は、望めば何でも手に入る。
――死も生も。時間も後悔も。何の苦労もなく。
容易く手に入れたそれは何の価値も持たない。
それ自身の価値がある。道順は関係ないだろう。
それは、どうかな。
藍鷹の言葉は伊藤をあざ笑う。
僕らはその虚しさを知っている。
知っているのに抜け出せない。
藍鷹は静かに、けれど圧倒的な存在感を持ってそこに佇む。周囲に対する警戒は怠らない。まるで野生の鷹のように。
何もいらないなら消えればいい。
そこに在るのも無いのも同じ。
僕らは何かのために、そこにいる。
目的を奪われたら、生きるも死と同じ。
死は恐るるに足らず、されど、生きることは叶わず。
伊藤は藍鷹の言いたいことを理解した。だけど納得できなかった。伊藤には未来がある。夢も希望も残っている。
――君も分かっていると思ったけど。
人は進んでいく。だから忘れてしまう。
藍鷹だけが覚えている。彼はいつもそこにいるから。
僕には時間という概念がない。
だから、僕が会う君がいつの君なのか。
その違いかもしれないね。
いつか分かるよ。だって僕は君と一緒に考えたんだ。
そう、藍鷹はいつだって同じ場所にいた。
記憶の中の姿のままで。
その藍鷹と会う伊藤に同じ瞬間はない。
伊藤は子どもから、大人になり、そして変化していく。それは自然の理。伊藤にとっての常識だ。
自分の考えに伊藤は口の端を歪めた。
『常識』。なんて思い込み。
伊藤は解っていた。
もしも明日が昨日に向かって流れるならば。
もしも選択のすべてが可能ならば。
それが当然ならば。
伊藤にとってそれが自明の理ならば。
それが真実と為ることを。
伊藤が望めばいい。
それはすべて叶えられる。
願望も欲望も満たされる。
伊藤の進む道には過酷な運命なんて存在しない。
希望も期待も意図も容易く消え去る。
伊藤はそれを望んでいなかった。
――君の望みは“渇望”。
藍鷹が突き付ける事実。
僕らはその虚しさを知っている。
知っているのに抜け出さない。
悲劇のヒロイン。
自ら創り上げた虚像。
伊藤と藍鷹は似ている。
そして、似ているようで違う。
藍鷹は死を持たない。
伊藤は神を持たない。
藍鷹はなんでこうしているの。
僕があるのは“僕の死”を探すためだよ。
死んでいるも同然なのに生きるために死を求める。
悲しい存在。
君にはたくさんの人との出会いがあるよね。彼女や、たくさんの思い出は懐かしいだろう。ひとり時間から取り残されて寂しくないか。
藍鷹は怪訝な顔をした。
僕の記憶はただの事実だ。思い出にはなりえない。
それは僕の時間じゃないんだよ。
横顔からは何も読み取れない。
――ねぇ、僕を殺してくれないか。君ならできるかもしれない。
胸を締める甘い誘惑。
――それは確かに魅惑的だね。でも、できないから素敵、なんだと思う。
妄想が現実となったらそれはただのガラクタ。
君は死ぬんだろう。
きっとね。
君は不変なんだろう。
たぶんね。
他愛無いやり取り。そこに意味はない。
見上げた空には星はない。広がる虚無に先はあるのだろうか。伊藤がぼつりと呟く。ふと心の底に光った思いつき。
たとえば俺が君に何かを刻みつけたいと望んだら。
――それは叶うのか。
さぁ、ね。もしも君が願うならそれは――
伊藤には長い年月が過ぎた。
あのとき藍鷹は何と言ったのか。
思い出すことはできない。
少し目を伏せて珍しく戸惑った様子の彼の顔。それだけはこんなにも鮮明に覚えているのに。
藍鷹はきっと今でもそこにある。
そこにいてずっと変わらない、それが藍鷹。
思い出にしてほしい。
記録された事実の一ページなどではなく。
伊藤の願い。
答えを確かめることはしなかった。
どんな結果でもきっと残念に思うから。
伊藤は知らなかった。叶った願望がさらなる欲を生み出すことを。ヒトの感情に終わりがないことを。
だけど伊藤は幸せだった。
愛しき葛藤(dilemma)。
老人はそして眠りについた。
藍より深い翼を持つ獣。不変の存在。
彼にも劣化していく記憶がある。
だから風化しないように君と思い出を紡ぐ。
薄れていく記憶に塗り重ねるように。
藍鷹は知っていた。時間を持つ人々がそうして生きていることを。ヒトの感情は何より意味を持つことを。
藍鷹は死を探す旅をやめた。
藍鷹はいつもそこにいた。
訪れる存在を待った。
その願いが叶えられても。
藍鷹は待った。
その願いが裏切られても。
藍鷹は待った。
それが藍鷹の望み。
生を得るための意味。
二人が出会う。それはある一時。
過去であり、未来であり、現在である。
君はいつも変わらないよね。
そんなことはない。だって僕は死が怖い。
なんだって。
死にたくない。
死なないくせに。
そう、心底よかったと思ってる。
ずるいよ。
なんか、ずるい。
いつか分かるよ。君にも手に入らないものがある。
だけど――本当に欲しいものがきっと見つかる。
藍鷹は幸せだった。
ほほ笑む藍鷹にまだ年若い青年は首を傾げた。
お読みいただきありがとうございました!
他で書いた作品の大元なのですが、それとは別に伊藤と藍鷹にはそれぞれ短編があるので機会があったら載せていきたいです。
願わくばあなたに何か遺せますように。そしてまた、お会いできますように。




