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めじるしの鈴

めじるしの鈴 霧尾の雪解け――めじるしのほうが、迷子になりました

掲載日:2026/10/14

わたしは鈴です。


目はありません。ですから、音で見ています。


鞄の持ち手に付いた、小指の先くらいの真鍮で、役目はめじるしです。空港や駅で、持ち主が自分の鞄を見分けられるように、そこにいます。


そのめじるしが、この三月、迷子になりました。


持ち主は藤谷ちはるさんといいます。二十二の夏に、駅前の土産物屋で三百八十円で買われてから、八年になります。


ちはるさんには、走る前や何かを始める前に、鞄の持ち手を握り直す癖があります。握り直されると、わたしは鳴ります。歩いて揺れて鳴るのは、鳴ったうちに入りません。握り直されて鳴るのだけが、わたしの音です。


去年の十一月、柿沢という町の宿で、わたしを通していた組紐が切れました。それからは、ちはるさんの髪のゴムで、持ち手に結ばれています。


鞄の内ポケットには、二つ折りの紙が一枚入っています。去年の三月、霧尾という町で、ある人がちはるさんに渡したものです。番号です、使わなくても大丈夫です、とその人は言いました。


その紙が開く音を、わたしはこの一年、一度も聞いていません。


三月の終わりに、その霧尾へもう一度来ました。宿も去年と同じ湯守屋です。


去年の霧尾は、重い雪が音を吸う町でした。わたしにとっては、目隠しをされたような旅でした。


今年は、雪が解けはじめていました。


軒のつららから水が落ちます。側溝を水が走ります。ときどき屋根の雪がずり落ちて、地面が一度だけ低く鳴ります。朝は凍った雪を踏む音が硬く、昼を過ぎると、踏むたびに崩れる音に変わります。


よく聞こえる町でした。聞こえすぎるくらいでした。


紙を渡したのは早見さんという人で、三月になると毎年この町へ来るのだそうです。ポケットのファスナーを、上げて、下げて、また上げて、下げる癖があります。


その音は、二日たっても、どこからもしませんでした。


ちはるさんは一日目も二日目も、ロビーのソファに長く座っていました。本をめくる音も、電話の画面を叩く音もしませんでした。玄関の戸が開くたびに、衣擦れの音が一度だけしました。


二日目の夕方、ちはるさんはゴムをほどいて、わたしを持ち手から外しました。そのゴムで、髪を結ぶ音がしました。


わたしは上着のポケットに入れられました。あとでね、と小さく言われました。


宿を出て、隣の土産物屋まで十四歩でした。


店の前で、ポケットから電話が出されました。時間を見たのだと思います。


わたしは、電話といっしょにポケットの外へ出ました。


落ちる音は、しませんでした。鳴ったのかもしれませんが、わたしにも聞こえませんでした。雪は音を吸います。まわりの音が急に遠くなって、すぐ上で、つららから水の落ちる音がしていました。軒の下の雪に沈んだのだと、それで分かりました。


店の戸が開いて、上のほうで鈴が鳴りました。人が来たことを知らせるための鈴です。わたしよりずっと大きな音でした。


しばらくして、戸のすき間から、高い鈴の音が一度だけ聞こえました。わたしと同じくらいの大きさで、わたしより高い音です。去年、ちはるさんがこの店で三分間手に取っていた鈴と、同じ高さでした。銀色の、雪の結晶のかたちの鈴で、千二百円。あのとき、ちはるさんが値札をそう読み上げていました。


それから、レジの開く音がしました。


何を買ったのかは、わたしには分かりません。


戸の上の鈴がもう一度鳴って、ちはるさんの足音が出てきました。わたしのすぐそばを通って、宿のほうへ十四歩、遠ざかりました。


ここにいます、と言う方法が、わたしには音しかありません。振られなければ、鳴りません。


少しして、店の屋根の雪が軒の下へずり落ちてきました。低くて長い音でした。音が止むと、まわりの音は、さっきよりもっと遠くなっていました。


夕方のあいだに、店の前を何人もの足音が通りました。止まる足音は、一つもありませんでした。


夜になると、水の音が止みました。雪がまた凍りはじめたのです。町は、去年の霧尾のように静かになりました。


湯守屋の玄関の戸が、勢いよく開く音がしました。


走る足音でした。八年聞いてきた足音なので、間違えません。


けれど、走りだす前の、ちりん、という音はありませんでした。ちはるさんが走る足音を、離れたところから聞くのは、初めてでした。


足音は、宿と店のあいだを何度も行き来しました。


「たしか、ここで時間見たんだけど」


ひとりごとでした。場所は合っていました。雪をかき分ける手の音が、わたしの二歩ぶん手前で、何度もしました。


わたしの上の雪は、厚すぎました。


明るくなってから、と小さく言う声がして、足音は宿へ戻っていきました。


まわりの音が、だんだん硬くなっていきました。凍っていくのが、それで分かりました。わたしの中に入った水も凍って、玉が動かなくなりました。もう誰かに揺らされても、わたしは鳴りません。


それで、考える時間ができました。


わたしが鳴って一秒もたたないうちに、何かが割り込んだことが、これまでに六度あります。停留所のボタン、団体のバスが二度、駅の発車メロディ、宿の人の知らせ、帳場の電話。そのたびに、誰かが言いかけていたことか、渡しかけていたものが、届かずに終わりました。取りこぼしたあと、ちはるさんはよく、まあ、いいか、と言いました。


組紐が切れた朝だけ、わたしは鳴りませんでした。その朝だけ、何も割り込みませんでした。


このまま見つからなければ、持ち手はもう鳴りません。鳴らなければ、たぶん、何も割り込みません。三百八十円のものが一つ、なくなるだけです。隣の店の棚には、千二百円の鈴もあります。


見つからないほうがいいのだ、と思いました。


その夜の部屋のことを、わたしは知りません。わたしがいなかったからです。


湯から上がって、何気なく鞄の持ち手を握ったとき、何も鳴らなかった。そうだった、と思って上着のポケットを探ると、鈴はなかった。


探しに出て、見つけられずに戻ってからも、手は何度も持ち手を握った。窓を開ける前も、電話を取る前も、そのたびに何も鳴らなかった。自分がこんなに何度も持ち手を握る人間だったことを、ちはるは初めて知った。


鳴ったあとには、いつも何かが来た気がする。


柿沢の朝は、鳴らなかった。あの朝だけ、間に合った。宿に戻って手を開いたら、鈴は手のひらの中にいた。


だったら、ないほうが、うまくいくのかもしれない。


そう考えて、考えたことが少し怖くなった。


この町で知っている人は、一人しかいない。今年もこの町にいるのかどうかは、知らない。ちはるは内ポケットのファスナーを開けて、一年ぶりに紙を出した。


電話は、かけなかった。三百八十円の鈴を一緒に探してください、と言う声を、自分の口から出せる気がしなかった。


二十四の夏の桟橋も、二十六の秋の山小屋も、二十九の秋の乗り換えの駅も、始まる前には必ずあの音がした。間に合わなかった旅を思い出すと、どれもあの音から始まっていた。


あの音がしなければ、何も始まらない。始まらなければ、間に合わないこともない。


ちはるは、それがいちばん嫌だった。


駅へ出るバスは、明日の昼の一本しかない。


紙を戻して、目覚ましを五時に合わせた。


まだ暗いうちに、凍った雪を踏む硬い足音が来ました。ちはるさんでした。


足音は店の前を行き来して、ときどき止まっては雪を掘りました。店のシャッターが上がる音がして、これ使って、という店の人の声がしました。金属の先が雪に入る音が、二つになりました。


店の人が、どんな鈴なのかと聞きました。


「小さい真鍮のです。三百八十円の」


「鈴なら、うちの棚にもありますけど」


「知ってます」


掘る音は、止まりませんでした。


わたしは凍ったままでした。掘る音がすぐそばまで来ても、返せる音がありませんでした。


昼が近づくと、町に水の音が戻ってきました。軒のつららから、また水が落ちはじめました。一滴ずつ、わたしの上の雪に穴をあけていきます。三秒に一度でした。落ちる音が、少しずつ近くなりました。


わたしの中で、玉が少しだけ動きました。


見つからないほうがいい、と思ったはずでした。けれど鈴には、鳴らないでいることを選ぶこともできません。


町のスピーカーから、昼の音楽が流れました。


バス、来てますよ、と宿の人の声がしました。駅へ出るバスは、昼の一本しかありません。玄関の前で、エンジンの低い音が続いていました。


ちはるさんの足音が、店の前を離れました。宿の玄関で、鞄を持ち上げる音がしました。


いつもなら、ここでわたしが鳴るところです。


ちん。


わたしが鳴りました。持ち手からではなく、軒の下からでした。落ちてきた水が、わたしの上に最後に残っていた雪を崩して、わたしを揺らしたのです。


誰にも握り直されずに鳴った音を、わたしは初めて、数のうちに入れました。


一秒もたたないうちに、クラクションが鳴りました。出ます、という合図です。


いつもどおりでした。


鞄が雪の上に落ちる音がしました。


足音は、バスのほうへは行きませんでした。鳴ったわたしのほうへ、人が走ってくる。そういう音を、わたしは聞いたことがありませんでした。歩けば十四歩のところを、九歩で来ました。


三秒たって、わたしはもう一度鳴りました。足音が、わたしの真上で止まりました。


乗られますか、と運転手さんの声がしました。


乗りません、とちはるさんが言いました。雪を掘りながらでした。


三度目の水が落ちる前に、まわりの音が急に近くなりました。わたしは持ち上げられていました。


バスは、出ていきました。


手のひらの中は、ちはるさんの脈の音でいっぱいでした。走ったあとの速さでした。


「……いた」


それから、少し笑う息がしました。


「呼んだでしょ、いま」


わたしは、呼んではいません。水が落ちてきただけです。けれど、違います、とは言えませんでした。鈴には口がありません。


乗らなかったバスのことを、ちはるさんは一度も、まあ、いいか、とは言いませんでした。


その日の夕方、ちはるさんはどこかへ電話をかけて、すみません、と二回言いました。帰りが一日延びたのです。


それから、わたしは新しい組紐に通されました。


「昨日、これ買いに行ったんだよ」


前の日に店で買っていたのは、千二百円の鈴ではありませんでした。


前と同じ赤にした、とも言いました。赤がどういうものかは、今もわたしには分かりません。


新しい組紐は、まだやわらかい音がします。


帰りの電車で、内ポケットのファスナーが開きました。


紙の音がしました。一年待っていた音です。


けれどそれは、初めて開く紙の音ではありませんでした。一度も開いたことのない紙は、折り目が離れたがらない音をさせます。この紙は、すっと開きました。


わたしのいない夜に、一度開いたのだと思います。一年待って、聞きそびれました。


紙はすぐに閉じられて、内ポケットに戻りました。


めじるしというのは、持ち主が自分の鞄を見つけるためのものです。


八年で初めて、わたしのほうが見つけてもらいました。

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