露見と契約
医療改善案を提出してから二週間が経ち、アリシアは五つ目の提案書の準備を進めていた。
今回は、王都の下町の衛生問題だ。リリアンから聞いた話では、貧しい地区では下水設備が整っておらず、病気が流行しやすいという。
「ベル、このデータを見て。過去五年間で、この地区の伝染病発生率は他の地区の三倍だ」
【確かに……でもマスター、そろそろ危険じゃないですか? クラウド殿下にも疑われているんですよ?(;一_一)】
「わかっている。でも、やめられない」
アリシアは首を振った。彼女の机の上には、下町の詳細な地図と、各戸の衛生状況を記した調査資料が広げられていた。これらは、彼女が変装して実際に下町を歩き、目で見て集めた情報だった。
「明日、もう一度現場を確認しに行く。この地区には、新しい公共井戸が必要だと思う」
【でもマスター、そんな危険な地区に一人で行くのは――】
「大丈夫。昼間だし、変装もする」
アリシアの声には、もう迷いがなかった。彼女は既に、匿名の提案者としての活動に、ある種の使命を見出していた。
翌日、アリシアは質素な平民の服に着替え、顔の下半分をスカーフで隠し、下町へと向かった。
地区は確かに貧しかった。道は舗装されておらず、雨が降った後の水たまりが悪臭を放っている。子どもたちは汚れた服を着て遊んでいたが、その笑顔は純粋だった。
(ここに、井戸を……)
アリシアは小さなノートを取り出し、スケッチを始めた。井戸の適切な位置。水道管を引くための経路。予想される工事費用。
彼女はあまりに集中していたので、背後から近づく足音に気づかなかった。
「──何をしている?」
冷たい、鋭い声。
アリシアの背筋が凍りついた。その声は、もう聞き覚えがあった。
ゆっくりと振り向くと、そこにはアルベルト第一王子が立っていた。彼も平民風の服装だったが、その威厳と鋭い目つきは隠しようがなかった。
「で、殿下……?」
「聞こえなかったか? 何をしている、と聞いている」
アルベルトの目は、アリシアが握っているノートへと向けられた。
「それは、何だ?」
「こ、これは……ただのスケッチです」
「スケッチ?」
アルベルトは一歩前に出た。彼の身長差に、アリシアは思わず後ずさりした。
「下町の衛生問題を調査するために、わざわざ変装までしてやってくる。そして、詳細な測量図を描く。これが“ただのスケッチ”だと?」
アリシアは言葉を失った。彼が全てを見ていたのだ。
「こ、こちらこそ、殿下はなぜこんなところに?」
「私のほうが先に質問している」
アルベルトの声には、抗えない圧力があった。
「答えろ。アリシア・フォン・ローゼンベルク。お前は、ここ数週間、匿名で様々な提案を王立機関に送りつけているな?」
(やっぱり……バレていた)
アリシアの心臓が、狂ったように鼓動した。ベルが警告音を鳴らしているが、もうどうでもよかった。
「黙っているということは、認めたということか」
アルベルトの目が、さらに細くなった。
「では、もう一つ質問だ。なぜ、匿名なのか? これだけの提案ができるなら、名乗り出れば評価されるはずだ」
「……できません」
アリシアはうつむいた。
「私は、まだ……信用されていません。名前を出せば、提案そのものが無視されるかもしれません」
「ふん。それで、影で活動することを選んだと」
アルベルトは腕を組んだ。
「しかし、それには矛盾がある。お前は学園祭で、表立って成果を上げた。あの功績があれば、多少は信用も得られるはずだ」
「違います」
アリシアは思わず声を強めた。
「学園祭と、これとは違うんです!」
彼女はノートを握りしめた。
「学園祭は……学園内の、限られた問題でした。でも、これらは違います。人々の生活に、直接関わる問題です。もし私の提案に欠陥があれば、実際に人々を苦しめることになります」
彼女の目が、アルベルトをまっすぐ見つめた。
「だから、提案そのものが評価されるべきなんです。誰が提案したかじゃなくて」
一瞬、沈黙が流れた。
通りを馬車が通り過ぎ、子どもたちの笑い声が遠くで響く。
そして、アルベルトが口を開いた。
「……そのノートを見せろ」
「でも──」
「見せろ」
命令するような口調だった。
アリシアは仕方なく、ノートを差し出した。アルベルトはそれを取り、ページをめくり始めた。
彼の表情が、次第に変化していく。
最初は冷淡な評価の目つきだったが、次第に驚きに変わり、そして──真剣な考察の表情へ。
ノートには、単なるスケッチ以上のものが記されていた。
問題点のリスト。原因の分析。複数の解決案。それぞれの案に対するコストとベネフィットの比較。実施スケジュール。リスク評価。
そして、何よりも印象的だったのは、随所に書き込まれた“現場の観察”だった。
『井戸の候補地A:日照条件は良いが、隣家の老人が「ここは昔、汚い水が出た」と証言』
『経路B:最短だが、ここの店主が「雨の日は水が溢れる」と悩んでいる』
『注意:地区の子どもたち三人が、同じ皮膚病にかかっている。水質と関連ある可能性』
「これは……」
アルベルトが呟いた。
「単なる机上の計画ではないな。実際に現場を見て、人々の声を聞いた上での提案だ」
彼はアリシアを見上げた。
「これを、どれだけの時間かけてまとめた?」
「二週間です。毎日、少しずつ……」
「毎日? ということは、お前はこの二週間、毎日ここへ通っていたのか?」
アリシアはうなずいた。
「最初は資料だけでした。でも……数字だけではわからないことがたくさんあって。実際に来て、見て、話を聞かないと」
アルベルトは再びノートを見つめた。彼の指が、あるページを軽く叩いている。
「このコスト計算、少し甘いな。石材の値段は、今月から一割上がっている」
「え?」
アリシアは目を見開いた。
「そんな……報告書には、来月まで据え置きと書いてありました」
「報告書は一ヶ月前の情報だ。新しい情報は、昨日の商工会議で決定された」
アルベルトはノートを返し、腕を組んだ。
「机上の資料だけに頼るな。現場の情報は、常に変化している」
「……はい」
アリシアはうつむいた。悔しさと、同時に、もどかしさが込み上げてきた。
(まだまだ、足りない……)
「だが」
アルベルトの声が続いた。
「資料の不足はあるが、その分析方法、問題の捉え方は……評価に値する」
彼はアリシアをじっと見つめた。
「お前には、他の者にはない“眼”がある。問題の本質を見抜く眼が」
アリシアは息を詰まらせた。彼の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「殿、殿下……?」
「聞け、アリシア・フォン・ローゼンベルク」
アルベルトの声は、低く、真剣だった。
「私は今、多くの問題を抱えている。王国の、地方の、人々の。どれも複雑で、簡単には解決できない」
彼の目が、下町の家々へと向けられた。
「役人たちは報告書を作り、学者たちは理論を語る。しかし、彼らの多くは、実際に現場に足を運ばない。この人々が、毎日どんな問題に直面しているのか、本当の意味では理解していない」
アルベルトは振り返り、アリシアを見つめた。
「しかし、お前は違う。変装してまで現場に来る。人々の声を聞く。そして、具体的な解決策を考える」
彼は一歩前に出た。
「私は、その“眼”が欲しい」
アリシアは言葉を失った。彼の言葉の意味が、ようやく理解できた。
「殿、殿下……それは……」
「私の下で働け」
アルベルトははっきりと言った。
「表立った肩書は与えない。あくまで、非公式の顧問としてだ。しかし、必要な情報へのアクセスは保証する。現場に行く許可も、場合によっては出そう」
「で、でも……なぜ私が?」
アリシアの声は震えていた。
「他にも、優秀な人はたくさんいます。経験も知識もある、立派な方々が」
「確かに、優秀な者は多い」
アルベルトはうなずいた。
「だが、彼らの多くは、すでに“立場”に縛られている。貴族は貴族の、官僚は官僚の、学者は学者の立場からしか物事を見られない」
彼の目が鋭くなった。
「お前は違う。少なくとも、今のところはな。貴族の令嬢でありながら、平民の服を着て下町を歩く。学園の優等生でありながら、匿名で提案書を書く」
アルベルトの口元が、わずかに緩んだ。
「それが、お前の強みだ。固定観念に縛られず、ただ問題そのものを見つめ、解決策を考える」
彼はもう一度、ノートを示した。
「このノートは、その証拠だ。お前の“眼”が、単なる夢想家のそれではないことを証明している」
アリシアは黙ったままだった。頭の中が混乱している。
(私を……欲しい?)
【マ、マスター! これは大きな転機です! でも、リスクもあります! よく考えて!(;゜Д゜)】
ベルの警告が脳内に響く。しかし、アリシアはもう、ベルに頼る必要を感じなかった。
彼女自身が、決断しなければならない。
「……お答えする前に、一つだけお聞きしてもよろしいですか?」
「何だ?」
「殿下は、なぜ今、ここにいらっしゃるのですか?」
アルベルトの眉がわずかに動いた。
「下町の問題を、直接確認するためだ。報告書だけでは、信用できない」
「それでは、殿下ご自身も、現場を見る必要があるとお考えなんですね」
「ああ」
アルベルトはうなずいた。
「役人たちの報告は、往々にして都合のいいように歪められる。真実を知るには、自分の目で確かめるしかない」
アリシアは深く息を吸い込んだ。
そして、顔を上げ、アルベルトをまっすぐ見つめた。
「では、お引き受けします」
彼女の声は、震えていたが、確かな意志に満ちていた。
「ただし、条件が二つあります」
「言ってみろ」
「一つ。私の提案は、常に真剣に検討していただきたい。たとえそれが、殿下の考えと異なっていても」
「当然だ。でなければ、お前を雇う意味がない」
アルベルトは即答した。
「二つめは?」
「私の活動は、あくまで“非公式”とさせていただきたい。学園の生徒としての立場は維持し、表立っては目立たないように」
アルベルトは一瞬考え込んだように見えた。
「……それは、なぜだ? 表立って評価されたいとは思わないのか?」
「思います。でも、今はまだ……時期尚早だと思います」
アリシアはうつむいた。
「私には、まだ信用が足りません。表立って活動すれば、殿下の判断そのものに疑問が向けられるかもしれません」
「ふん」
アルベルトは小さく鼻で笑った。
「それもまた、現実的な判断だ。よかろう、その条件は認めよう」
彼はアリシアに手を差し伸べた。
「では、これで契約成立だ。アリシア・フォン・ローゼンベルク。我が非公式顧問として、これからよろしく頼む」
アリシアは一瞬ためらったが、その手を握り返した。
王子の手は、彼の外見とは裏腹に、騎士として鍛えられた頑強な手だった。
「はい、殿下。精一杯、お役に立ちたいと思います」
アルベルトは手を離し、もう一度下町を見渡した。
「では、最初の仕事だ。この地区の衛生問題について、お前の案を聞かせてくれ」
「え、今ここでですか?」
「問題は待ってくれない」
アルベルトはきっぱりと言った。
「お前のノートに書かれた案は、概ね妥当だ。しかし、石材の値上がりを考慮すると、予算が不足する」
彼は地面に杖で線を引いた。
「ここに井戸を掘る案は良い。だが、同時に排水路の整備も必要だ。でなければ、井戸の水も汚染される」
アリシアの目が輝いた。彼の指摘は、まさに彼女が悩んでいた点だった。
「はい! 実は、私もそこが気になっていて……」
二人の議論は、一時間以上続いた。
通りかかった住民たちは、奇妙な光景を目にした。平民の服を着た若い男女が、地面に図を描きながら熱心に議論している。
彼らが誰だか知る者は、一人もいなかった。
夕日が傾き始めた頃、アルベルトは時計を取り出して見た。
「時間だ。今日はここまでにしよう」
「はい。でも殿下、もう一つだけ……」
アリシアはためらった。
「何だ?」
「この話……リリアンさんには、内密にしていただけますか? 彼女を巻き込むわけにはいきませんので」
アルベルトは一瞬、鋭い目でアリシアを見つめた。
「……あの平民の娘か。お前が最近、よく話をしているというな」
「はい。彼女からは、多くのことを教えていただいています」
「ふむ」
アルベルトは考え込むように眉をひそめた。
「よかろう。ただし、お前の活動が彼女を危険にさらすようなことがあれば、話は別だ」
「もちろんです!」
アリシアは必死にうなずいた。
アルベルトは軽くうなずき、歩き出した。
「では、明日からだ。朝、執務室に来い。最初の案件を説明する」
「か、かしこまりました!」
アリシアが深くお辞儀をしていると、アルベルトが振り返らずに言った。
「一つ、忠告しておく」
「はい?」
「お前のその“匿名”の活動は、もうやめておけ」
アルベルトの声には、冷たい響きが戻っていた。
「これからは、私を通して行動する。そうすれば、より効果的に動ける」
そう言うと、彼は去っていった。
アリシアは一人、下町の道に立ち尽くした。
夕日が、彼女の長い影を地面に伸ばしている。
(契約……か)
彼女はそっと胸に手を当てた。心臓が、まだ速く鼓動している。
【マスター……これで、本当に大丈夫なんですか?(´;ω;`)】
ベルの声には、心配の色が濃かった。
「わからない。でも……」
アリシアは振り返り、貧しい家々を見つめた。
「これが、私にできることなら。誰かの役に立てるなら」
彼女の目に、確かな決意が宿った。
リストは続く。問題は山積みだ。
しかし今、彼女には“味方”ができた。
強大で、怖いけれど、信頼できる――かもしれない――味方が。
アリシアはゆっくりと歩き出した。
学園へ戻る道のりは長いが、彼女の足取りは軽かった。
新しい章が、今、始まった。
影の顧問から、王子の非公式顧問へ。
ゲームのルールが変わった。しかし、プレイヤーは変わらない。
アリシア・フォン・ローゼンベルクは、これからもリストを作り続ける。
ただ、そのリストが、より大きな影響力を持つようになるだけだ。
彼女は小さく微笑んだ。
明日から、本格的に仕事が始まる。
楽しみだ。




