初接触、「S級リスク顧客」
ドアを開けると、そこには確かにアルベルト・リヒター第一王子が立っていた。
銀色の髪が窓から差し込む夕日を受けて、冷たい光を放っている。金色の瞳は鋭く、その視線はアリシアの全身を瞬時に分析するかのようだった。深紅の礼服が彼の細身ながらも鍛えられた体躯にぴったりと合い、威厳に満ちていた。
(やっぱり……絵に描いたような「氷の王子」だ)
アリシアは内心で呟きつつ、優雅にお辞儀をした。
「アルベルト殿下、突然のご訪問、光栄に存じます」
声は驚きを一切示さず、完璧に貴族令嬢としての礼儀を守っている。長年のビジネス経験が、緊張している時こそ平静を装う術を教えてくれた。
「立ち入らせてもらう」
アルベルトはそう言うと、許可を待たずに部屋に入ってきた。彼の背後の従騎士が、入り口でぴたりと止まり、見張りについた。
【警告:S級リスク顧客が至近距離に接近。現在の好感度推定値:-45(敵対的)。発言には最大級の注意を!(;゜Д゜)】
ベルが危機感をあおるように警告する。アリシアは内心で「わかっている」と返答し、冷静に王子の動きを観察した。
アルベルトは部屋の中を一瞥し、机の上にちらりと目をやった。羊皮紙は隠したが、ペンとインクの位置が少し乱れていたかもしれない。
「今日の午後、中庭でのことだ」
彼は窓際に立ち、背を向けたまま話し始めた。その態度は、まるで部下に報告を求めている将軍のようだった。
「リリアン・ホワイトをいじめていたと、複数の目撃者が証言している」
(……やっぱり、その話か)
アリシアは心の中でため息をついた。この世界の情報伝達速度は意外と速い。
「それが事実なら、学園の規律に反する行為として、相応の処分が必要だ」
アルベルトがゆっくりと振り向いた。金色の瞳は、冷たく鋭い。
「何か言い訳はあるか? アリシア・フォン・ローゼンベルク」
その名前の呼び方は、まるで罪人を呼ぶかのようだった。
アリシアは一瞬、目を伏せた。原主なら、きっと泣きながら言い訳をしただろう。あるいは、逆に開き直ったかもしれない。
しかし、彼女は玲子だった。
「申し訳ありません、殿下」
彼女はゆっくりと顔を上げ、アルベルトの目を真っ直ぐ見た。
「今日の午後、私は確かにリリアンさんと……言葉を交わしました」
真実から逃げず、しかし悪意の部分は曖昧にぼかす。ビジネスで難しいクライアントと交渉する時と同じだ。
「しかし、いじめという意図はございませんでした。ただ……体調がすぐれず、普段とは違う言動を取ってしまっただけです」
「体調が?」
アルベルトの眉がわずかに動いた。それは、疑いの表情だった。
「ええ。最近、あまり眠れていないもので……」
これも真実だ。転生してからというもの、まともに眠れたためしがない。その疲労は、彼女の目の下に薄く影を落としていた。
アルベルトはしばらく黙ってアリシアを見つめた。その視線は、真偽を見極めようとする検察官のようだった。
「……それで、お前がリリアンを助け起こし、自分のハンカチで彼女の顔を拭ったのは、体調不良のためか?」
(……全部見ていたのか!?)
アリシアは内心で驚いたが、表情には出さない。
「はい。少し……我に返りまして、自分がとんでもないことをしていることに気づきました」
【マスター、その説明、確かに真実を含んではいますが……あまり説得力がありませんね。殿下の好感度が-47に低下しました!(>﹏<)】
ベルの警告が脳内に響く。アリシアは焦った。これではまずい。何か、もっと確実な方法で……
その時、彼女の目がアルベルトの手元に留まった。
王子は、無意識にというか、意図的にというか、数枚の書類を指で軽くたたいていた。それは羊皮紙で、どうやら何かの報告書のようだ。彼の眉間にわずかな皺が寄っている。その表情は、玲子が前世でよく見た──難しい問題に直面した上司のそれに似ていた。
(何か……悩んでいることがある)
アリシアは直感した。そして、危険を承知で、口を開いた。
「殿下……その書類、何かお困りでしょうか?」
アルベルトの目が鋭く光った。
「何だと言う?」
「いえ、ただ……殿下が先程からその書類を何度も見直され、眉間に皺を寄せていらっしゃるように見えまして」
アリシアは慎重に言葉を選んだ。
「もし、私の僭越を許していただけるなら……第三者としての意見を申し上げることもできますが」
部屋の中が、一瞬静まり返った。
従騎士さえも、息を呑んだように感じられた。
平民出身の令嬢が、第一王子に意見を申し出るなど、前代未聞のことだったからだ。
アルベルトは、長い間沈黙した。その金色の瞳は、アリシアを貫くように見つめている。
そして、ふいに、彼は小さく鼻で笑った。
「面白い。では、聞かせてもらおう」
彼は書類の一枚をテーブルの上に置いた。それは、どうやら領地からの報告書のようだった。
「北東の国境地帯にある村から、魔獣被害が増加しているとの報告だ。村人は討伐隊の派遣を要請しているが、そこへ部隊を送るには、冬の間通行止めになる峠を越える必要がある。春まで待てば安全だが、その間にも被害は拡大する」
アルベルトの声には、明らかな苛立ちが込められていた。
「村の代表者は一刻の猶予もないと言い、軍部は冬の行軍の危険性を主張する。どちらにも一理あるが、決断を先延ばしにすることはできない」
【検索中……領地問題……魔獣被害……峠の冬季閉鎖……分析完了。これは典型的なリソース配分とリスク管理の問題ですね! マスター、お得意の領域です!(•̀ᴗ•́)و ̑̑】
ベルの声が弾む。アリシアも内心でうなずいた。
(なるほど……トレードオフの問題か)
彼女はゆっくりと書類に目を通した。前世で何百ものプロジェクト提案書を読んできた彼女にとって、このような問題構造は慣れたものだった。
「……どうだ? 何か意見はあるか?」
アルベルトの声が冷たい。彼は、この令嬢が何か意味のあることを言えるとは思っていなかった。ただ、彼女がどんな無様な失敗をするかを見て楽しむつもりだった。
アリシアは深呼吸を一つした。
そして、口を開いた。
「三点、申し上げます」
彼女の声は、突然、以前とは全く違う響きを持っていた。それは、会議室でプレゼンテーションをする時の、佐藤玲子の声だった。
「第一に、リスク評価の不足です」
アリシアは指を一本立てた。
「現在の報告書には、『魔獣被害の規模』と『冬季行軍の危険性』という二つのリスクしか比較されていません。しかし、考慮すべきは第三のリスク──『何もしないことによるリスク』です」
アルベルトの眉が動いた。
「もし部隊を派遣せず、村が魔獣の襲撃で壊滅的な打撃を受けた場合、春になってから復興にかかるコストは、冬の行軍のリスクを上回る可能性があります。また、国境地域の村落が衰退すれば、治安の空白地帯が生まれ、より大きな問題を引き起こすかもしれません」
彼女は続けた。
「第二に、オプションの検討不足です」
二本目の指が立つ。
「報告書では『すぐに派遣する』か『春まで待つ』かの二択しか提示されていません。しかし、中間的な解決策はないでしょうか?」
「例えば、小規模な精鋭部隊を先行派遣し、現地の状況を詳細に調査させると同時に、村人に対して一時的な避難や防御手段の指導を行う。そして本隊は、春の通行可能と同時に現地へ向かう」
「あるいは、魔法使いを数名加えた特殊部隊を編成し、厳しい気象条件下でも行動可能な装備を与える。これにより、冬季行軍のリスクをある程度軽減できるかもしれません」
アリシアの言葉は、淀みなく流れていった。彼女の頭の中では、問題が自然と分解され、整理され、再構築されていた。
「第三に、意思決定プロセスの不明確さです」
三本目の指。
「この問題は、誰がどの権限で決定すべきなのでしょうか? 軍部の指揮官か、領地を管轄する貴族か、それとも殿下ご自身か?」
「報告書には、各関係者の意見は記載されていますが、最終的な決定権限者が明記されていません。これでは、責任の所在が曖昧になり、決定が遅れる原因となります」
アリシアは一度息をついた。
「以上三点が、私の見た限りの問題点です」
部屋は水を打ったように静かだった。
従騎士は目を見開き、まるで見知らぬものを見るようにアリシアを見つめている。
アルベルトは、一言も発しなかった。彼の金色の瞳は、アリシアの顔をじっと見つめ、そこに何かを見出そうとしているかのようだった。
長い沈黙が流れた。
そして、ついにアルベルトが口を開いた。
「……どこで、そのようなことを学んだ?」
声は、先程までの冷たさを失っていた。むしろ、純粋な驚きに近い響きだった。
「学んだというより……自然に、そう考えてしまうのです」
アリシアは正直に答えた。ビジネスの現場では、常にリスクとベネフィットを天秤にかけ、最適解を探す。それは彼女の第二の天性だった。
アルベルトは再び沈黙した。彼の指が、テーブルの上を軽く叩いている。
「……その小規模な精鋭部隊という案だが、具体的にどのような編成を想定している?」
「はい。まずは偵察を専門とする軽装兵を五名ほど。それに治療魔法を使える者を一名、地形に詳しい案内人を一名。装備は……」
アリシアは、かつてプロジェクトの人員配置を考えた時と同じ要領で、言葉を続けた。
彼女の提案は完璧ではなかった。この世界の軍事知識は不足している。しかし、その考え方──問題を分解し、リスクを評価し、代替案を検討するというアプローチは、この世界ではほとんど見られないものだった。
アルベルトは、彼女の話を一言も逃さず聞いていた。
そして、彼女の話が一段落した時、彼はゆっくりと立ち上がった。
「……今日の話は、ここまでだ」
彼は書類を手に取り、アリシアをもう一度見つめた。
「リリアン・ホワイトへの行為については、今回だけは見逃す。ただし、二度と繰り返してはならない」
「はい、殿下」
「そして……」
アルベルトは一瞬、言葉を選ぶかのように間を置いた。
「お前のその……物事の考え方だ。もし本気なら、もっと学ぶべきことがある」
そう言うと、彼は何も付け加えず、部屋を出ていった。従騎士が慌てて後を追う。
ドアが閉まり、部屋に再び静けさが戻った。
アリシアは、ようやく深く息を吐いた。
(……終わった)
膝が少し震えているのに気づいた。緊張していたのだ。
【緊急報告! アルベルト第一王子の好感度推定値が大幅に変動しました!】
【-45 → -15 に上昇!】
【ステータスが『敵対的』から『注意深く観察中』に変更されました!】
【マスター、大成功です!(≧▽≦)】
ベルの声が、興奮気味に響く。
「-15か……」アリシアは小さく呟いた。「まだマイナスだけど……少なくとも、殺意はなさそうだな」
彼女は窓辺に歩み寄り、下の中庭を見下ろした。
アルベルトと従騎士の背中が、夕闇の中に消えていくのが見えた。
(あの提案……本当に役に立ったのかな)
彼女は心の中で自問した。軍事のことなど、彼女は素人に等しい。ただ、問題解決のフレームワークを提供しただけだ。
しかし、アルベルトの最後の言葉が頭に残る。
『もっと学ぶべきことがある』
(これは……チャンスかもしれない)
彼女は机に戻り、新しい羊皮紙を取り出した。
そして、そこに書き込んだ。
『アルベルト・リヒター第一王子:観察記録』
・完璧主義者。効率と合理性を重視。
・問題解決に対して開放的(驚くべきことに)。
・権威には従うが、無能を嫌う。
・今回の接触により、敵対状態から「注意深く観察中」にステータス変化。
書き終えて、彼女はふと気づいた。
(そういえば……あの書類の問題、彼はどう決断するつもりなんだろう)
窓の外では、もう完全に夜が訪れていた。星が一つ、二つと輝き始めている。
アリシアは羊皮紙を見つめ、小さく笑った。
プロジェクトの最初のマイルストーンは、無事クリアできたようだ。
次の課題は、このわずかなチャンスを、どう広げていくか。
彼女はペンを握り直し、新たなリストの作成に取りかかった。
【マスター、お疲れ様でした! でも油断は禁物ですよ。S級顧客との関係構築は、まだ始まったばかりですから!(`・ω・´)】
「ああ、わかっているよ」
アリシアはそう呟きながら、明日からの行動計画を書き始めた。
心の中には、小さな、しかし確かな希望の灯がともり始めていた。
少なくとも、今日一日は、生き延びられた。
そして、ほんの少しだけ、未来を変える可能性を見いだせた。
それだけで、今夜はよく眠れそうな気がした。




