真心の答え
アルベルトが意識を取り戻したのは、それから二日後の夜だった。
地下室は、戦火を逃れた者たちの臨時の避難所となっていた。教員や生徒、使用人たち数十人が、限られた空間に身を寄せ合っている。外ではまだ時折、遠くで戦闘の音が聞こえるが、包囲網はどうやら弱まりつつあるようだった。
アリシアはアルベルトの傍らに座り、彼の手を握っていた。二日間、ほとんど眠らずに看病を続けていた。目には深い隈ができ、髪は乱れ、ドレスは血と埃で汚れている。でも、彼女の手からは微力ながらも癒しの魔法が流れ続けていた。
(殿下……お願いです、目を覚ましてください)
彼女の祈りは、もはや信仰に近かった。医師代わりの教員は「あとは本人の生命力次第」と言った。アルベルトの呼吸は浅く、脈はかすかだった。
「アリシア様、少し休まれては」
リリアンが小さな器を持って近づいてきた。中には、限られた水で作られた薄いスープが入っている。
「ありがとう、でも大丈夫。殿下が目を覚ますまで……」
「でも、あなたも倒れたら、誰が殿下を支えるんですか?」
その言葉に、アリシアはようやくうなずいた。スープを受け取り、一口、また一口。味など感じない。ただ、栄養を摂らなければ、という義務感で飲み干す。
「ククラウスたちは?」
「みんな、無事です。傷は浅いし、今は入口の見張りをしています」
リリアンの目には、深い安堵の色が浮かんでいた。あの危険な救出作戦から、全員が生きて戻れたことが、奇跡に思えた。
アリシアは再びアルベルトの手に触れた。彼の手のひらには、剣のマメと古傷の跡。戦い続けてきた人生の証だ。
(早く、この手でまた書類を握ってほしい。あの厳しい表情で、私の提案を聞いてほしい)
ふと、アルベルトの指が微かに動いた。
「……殿下?」
アリシアは息を呑んだ。彼のまぶたが、ゆっくりと開いていく。長い睫毛の下から、金色の瞳がのぞいた。焦点が定まらない、かすんだ目つき。
「アリ……シア……」
声はかすれ、ほとんど息遣いのようだった。
「はい! はい、殿下! 私です!」
アリシアの目から、涙が溢れ出た。彼女は両手でアルベルトの手を包み、自分の頬に押し当てた。
「よかった……本当によかった……」
「ここは……」
アルベルトはゆっくりと周囲を見回そうとした。しかし、その動きで痛みが走ったのか、顔をしかめる。
「動かないで! あなた、たくさん傷を負っているんです」
「戦いは……」
「まだ続いています。でも、ここは安全です。みんな、無事です」
アルベルトは一瞬目を閉じ、深く──とはいえ浅いが──息を吸った。そして、再び目を開けると、アリシアをまっすぐ見つめた。
「……お前の救出計画」
「え?」
「リストは……作ったのか?」
一瞬、アリシアは意味が理解できなかった。そして、その質問の意味がわかった時、彼女の胸に熱いものがこみ上げてきた。
(そんなこと、今、聞くこと……?)
涙が、もう止まらなかった。一粒、また一粒、アルベルトの手のひらに落ちる。
「……いいえ」
彼女の声は、涙に噎びながら震えていた。
「今回は……リストなんて、作りませんでした」
「なぜだ」
アルベルトの目が、かすかながらも鋭さを取り戻している。いつもの、彼の目だ。
「お前は、常に計画を立てる。リストを作る。それが、お前のやり方だろう」
「その通りです。でも……」
アリシアは顔を上げ、アルベルトの目を涙で曇ったまま見つめた。
「今回は、違ったんです。考えてる暇なんて、ありませんでした。ただ……ただ殿下を助けたい、それだけでした」
彼女の涙が、アルベルトの手のひらに温かく滴る。
「頭の中は真っ白で、計画もリストも、何も浮かばなかった。ただ、走るだけでした。ベルが道を示してくれたけど、それも確率4.7%の……」
声が詰まる。彼女は必死に言葉を続けた。
「合理的じゃない。効率的でもない。リスク管理も何もなかった。ただの……ただの……」
彼女は深く息を吸い込んだ。
「……衝動買いでした」
一瞬、沈黙が流れた。
そして、アルベルトの口元が、わずかに──本当にわずかに──緩んだ。
「馬鹿者」
その言葉には、叱責ではなく、どこか温かい響きが込められていた。
「4.7%……そんな確率で、よく来たな」
「来ますよ。だって……」
アリシアはアルベルトの手を強く握りしめた。
「殿下が、私に生き延びろって言った。でも、殿下がいなければ、私が生き延びても意味がないんです」
「何を言う」
「本当です!」
彼女の声には、もはや迷いがなかった。二日間、アルベルトの傍らで考え続けた結論だ。
「私は、殿下のためにリストを作りたい。殿下の王国を、もっと良くするお手伝いがしたい。それが、私の生きる意味です」
涙が止まらない。でも、彼女は笑っている。
「殿下が死んだら、私のリストも意味がなくなる。だから、絶対に生きて連れ帰ると決めました」
アルベルトは彼女を見つめ続けた。金色の瞳に、複雑な感情が渦巻いている。驚き、困惑、そして──理解。
「……お前は」
彼の声は、まだかすれている。
「本当に、とんでもない女だ」
「はい。とんでもなく、わがままで、頑固で、リストばかり作る変わり者です」
アリシアは涙をぬぐい、小さく微笑んだ。
「でも、そんな私を、顧問にしてくださったのは殿下です。責任、取ってください」
再び沈黙。しかし、今度は重苦しいものではなく、どこか温かい空気が流れていた。
「……痛い」
アルベルトが突然、苦渋に満ちた表情を浮かべた。
「どこが!? 傷が!?」
「いや、違う」
彼はゆっくりと、自由になる方の手を上げた。そして、そっとアリシアの頬に触れた。
「胸が……痛い」
アリシアの息が止まった。彼の指先の温もりが、涙で濡れた頬に伝わる。
「なぜだ……お前のこの涙が、どうして私の胸をこんなに締めつける」
「殿下……」
「馬鹿者め」
アルベルトの目にも、かすかに涙が浮かんでいる。彼はそれを認めようとしないように、きつく目を閉じた。
「お前のせいで、私まで合理を失いそうだ」
「それで……いいんです」
アリシアは彼の手に自分の手を重ねた。
「たまには、リストも計画もない方がいい。感情のままに動くのも、悪くないと思います」
「……ふん」
アルベルトは目を開け、天井を見つめた。
「わかった」
「え?」
「お前のその“衝動買い”……認めてやろう」
彼の口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。
「次からは、もう少し確率の高い方法を考えろ。4.7%では、さすがに心臓に悪い」
「殿下……!」
アリシアはまた泣きそうになった。でも、今度は嬉し涙だ。
「でも、一つ条件がある」
アルベルトの表情が真剣さを取り戻した。
「お前の命は、私の“最重要業務事項”だ。二度と、あんな無謀な真似はするな」
その言葉に、アリシアの胸がきゅっと締めつけられた。あの時、執務室で言った同じ言葉。でも、今は違う意味に聞こえる。
「……かしこまりました」
「それと」
アルベルトはためらったように一瞬黙り、続けた。
「私のことも……同じように、大事に扱ってくれ」
その一言に、アリシアの心臓が高鳴った。彼の目は真剣で、迷いがない。
「殿、殿下……?」
「これが、命令だ」
アルベルトは言い、ゆっくりと目を閉じた。
「さて、少し休む。お前も、寝ろ」
「でも、殿下のことが心配で……」
「私は大丈夫だ。お前が傍にいるからな」
それだけ言うと、アルベルトは深く規則的な呼吸をし始めた。眠りに落ちたのだ。
アリシアは彼の手を握ったまま、その場に座り続けた。胸の中は、嵐のように感情が渦巻いている。でも、その中心には、温かく確かな安堵があった。
(生きてくれて……本当によかった)
ふと、視界の隅に、いつもの青いシステム画面がちらりと浮かんだ。しかし、そこにはいつものリストやデータはない。
ただ一つの、シンプルなマーク。
❤
そして、その下に小さく表示された文字。
【核心指令:ユーザーの幸福を最優先します】
【現在の幸福度:測定不能(上限突破)】
【おめでとうございます、マスター】
ベルの声は、いつもよりずっと柔らかく、温かかった。
アリシアは小さく微笑み、アルベルトの手をそっと握りしめた。
(ありがとう、ベル)
彼女は目を閉じた。二日ぶりに、本当の意味で休息を取る。
地下室は静かだった。人々の寝息、遠くの戦闘音、そして──隣で寝息を立てるアルベルトの音。
すべてが、現実だとわかる音だった。
(戦いはまだ終わっていない。でも、少なくとも今、この瞬間は……)
彼女の唇が、自然に微笑みを浮かべる。
(これでいい)
リストも計画もない。ただ、隣にいる人が生きている。
それだけで、世界のすべてが意味を持ち始める。
アリシアはゆっくりと眠りに落ちていった。手は、アルベルトの手を握ったまま。
夢の中でも、彼女はリストを作り続けている。でも、今回は違う。戦略でも、計画でもない。
ただ二人で歩く未来の、小さな幸せのリスト。
それは、まだ言葉にできない。でも、心の中では、確かに形を成し始めていた。
そして、彼女が知らないうちに、アルベルトの手が微かに動き、彼女の手を包み込んでいた。
戦火の外では、夜明けが近づいていた。
長い夜が明け、新しい日が始まる。
二人の関係も、新たな章を迎えようとしている。
リストのない未来が、今、始まった。




