リストなき救出
地下室の扉を背にし、戦場の熱気と焦げ臭さがアリシアを襲った。廊下は崩れかけ、炎が壁を舐めている。遠くで剣戟の音、叫び声、そして──アルベルトの怒号が聞こえる。
(あっちだ)
アリシアは足を進めようとした。しかし、足が動かない。恐怖が全身を凍りつかせていた。
【警告:生命危機的状況を検出】
【単独行動による生存率:0.03%】
【提案:直ちに撤退を】
ベルの警告が脳内に響く。でも、もう引けない。
「ベル……最短ルートを。もう一度」
【……了解】
【超常モード:サイレント分析を起動します】
突然、ベルの声が変わった。いつもの軽快さはなく、冷徹で機械的な響きに。
【全データ統合開始】
【地形分析……完了】
【敵配置推定……完了】
【味方戦力分析……完了】
【気象条件、魔力残量、心理的要因……統合】
アリシアの視界に、青い光の線が浮かび上がった。それはあまりにもシンプルで、直感的なものだった。
単なる一本の線。曲がりくねり、時には壁を貫き、時には床下を通り──中央広場のアルベルトの位置へと続いている。
線の脇には、最小限の注記だけ。
・3人の敵(疲労度高)→ 右の部屋を迂回
・2階廊下(崩壊危険)→ 速やかに通過
・中庭東側(炎勢弱)→ ここで一時停止
【最適生存ルート生成完了】
【総距離:427メートル】
【推定所要時間:8分23秒】
【生存率:4.7%】
【備考:本ルートは感情的要因(アルベルト殿下救出)を優先的に加味した結果です。合理性は考慮されていません】
「4.7%……」
アリシアは呟いた。信じられないほど低い数字だった。でも、0%ではない。
(それでいい)
彼女は走り出した。最初の曲がり角で、三人の蛮族兵が酒宴の戦利品を奪い合っている。ベルの指示通り、右の部屋へ。廃墟となった教室を、物陰に身を隠しながら進む。
「あっ……!」
足元が崩れかけた床板を踏み、危うく音を立てそうになる。アリシアは咄嗟に身をかわし、壁に寄りかかった。
(落ち着け……ベルが道を示してくれる)
次の指示は「2階廊下、速やかに通過」。階段を駆け上がると、天井がきしんでいる。早く、早く──
その時、下から声がした。
「誰かいる!?」
蛮族の言葉だ。アリシアは息を殺し、物陰に身を潜めた。二人の兵士が階段を上がってくる。彼らの鎧には血がこびりつき、斧には肉片が引っかかっている。
(ダメ……見つかる……)
【選択肢提示】
【A:その場に留まり、発見されるのを待つ(生存率:12%)】
【B:先へ進み、追跡を振り切る(生存率:3%)】
【C:攻撃(生存率:0.5%)】
数字が視界に表示される。どれも絶望的だ。でも──
(先へ進む)
アリシアは腰のポーチから何かを取り出した。学園祭の余興で使った、光と音を発する魔法の小道具。本来は花火のようなものだ。
彼女はそれを廊下の反対側へ転がした。
パン! キラキラ!
小道具が爆発し、閃光とともに甲高い音を立てた。
「なんだ!?」
「あっちだ!」
兵士たちがそちらへ走る。アリシアはその隙に、廊下を駆け抜けた。天井が軋み、石膏が降り注ぐ。
(もっと早く!)
彼女はほとんど飛ぶように階段を下り、中庭へ出た。ベルの示すルートは、炎の勢いが弱まった東側を通っていた。
そこには、意外な光景が広がっていた。
「アリシア様!?」
三人の男子生徒が、武器を手に震えていた。彼らは皆、剣術クラブの面々だ。リリアンが止めようとした「戦いに行きたい」と言っていた生徒たちだ。
「あなたたち……どうしてここに?」
「だって……だって殿下が!」
一人の生徒が、涙声で言った。
「僕たちも戦いたい! ただ逃げてるだけなんて……」
アリシアは彼らの顔を見つめた。恐怖に震えながらも、必死に勇気を振り絞る少年たち。年は彼女より下だろう。まだ子どもだ。
【分析:追加戦力獲得の可能性】
【三人の戦闘能力:低~中】
【士気:不安定だが、指揮次第で向上可能】
【生存率再計算:11.3%】
数字が跳ね上がった。
「あなたたちの名前は?」
「ク、クラウスです」
「僕はフィン」
「……レオン」
「よし」
アリシアは彼らの前に立ち、一人一人の目を見つめた。
「アルベルト殿下を救出する。ついて来られるか?」
三人の目が、一瞬で変わった。恐怖から、決意へ。
「はい!」
「もちろんです!」
「お願いします!」
「だが、一つだけ約束してほしい」
アリシアの声は、自分でも驚くほど冷静だった。
「私の指示に従うこと。戦うのは最後の手段。私たちの目的は、戦うことではなく、殿下を連れ戻すことだ」
「わかりました!」
「では行く」
ベルの示すルートが更新された。四人分の動線が、新たに加わっている。
・ククラウス:左翼警戒
・フィン:右翼警戒
・レオン:後方警戒
・アリシア:先導
彼らは中庭を横切り、焼け焦げた庭園を通り抜ける。ベルの指示は細かい。
「今、右の彫像の陰に隠れろ」
「10秒数えてから進め。巡回兵が通り過ぎる」
「地面の瓦礫を避けろ、音がする」
まるで、ベルが彼女の目となり、耳となっているようだった。彼女は思考せず、ただ指示に従う。感情も恐怖も、一切排除して。
そしてついに──
中央広場が見えてきた。
そこは地獄だった。
数十体の蛮族兵の屍。倒れた衛兵たち。そして中央で、ただ一人立つアルベルト。
彼はもはや、立っているというより、剣に寄りかかっていると言ったほうがいい。銀の鎧はひどく損傷し、左腕は不自然な角度で垂れ下がっている。顔は血と埃で覆われ、金色の瞳だけが鋭く光っていた。
「殿下……!」
アリシアは叫びそうになるのを必死にこらえた。
【状況分析】
【アルベルト殿下:重傷。出血多量。戦闘継続不可能】
【敵残存兵力:9名。うち戦闘可能:7名】
【我が方戦力:4名(うち非戦闘員1名)】
【直接突入による生存率:0.8%】
「どうすれば……」
【提案:陽動】
【ククラウス、フィンに囮を依頼。敵の注意を引きつけている間に、アリシア、レオンが殿下を救出】
「でも、彼らが……」
【生存率:囮役 15%、救出班 32%】
【選択はあなたに委ねられます】
アリシアは唇を噛んだ。少年たちを危険に晒す。でも、他の方法がない。
「ククラウス、フィン」
二人が振り向く。
「あなたたちに、危険な役割をお願いしたい」
彼女は計画を説明した。二人の少年は、一瞬顔を青ざめさせたが、すぐにうなずいた。
「わかりました」
「殿下のために……!」
「ありがとう」
アリシアは胸が痛んだ。彼らはまだ子どもだ。戦うべきではない。
(でも、もう選べない)
「では、10秒後から行動開始。無理はするな。生きて帰れ」
二人がうなずき、それぞれの位置へ散る。
アリシアはレオンを見た。彼は一番年下で、一番震えている。
「レオン、あなたは私と一緒に。殿下を支えるのを手伝って」
「は、はい……」
「大丈夫。私がついている」
10秒。
9。
8。
アリシアはアルベルトを見つめた。彼はもう、数人の敵に囲まれている。次の攻撃で倒れるだろう。
7。
6。
「行くわよ」
5。
4。
「今!」
ククラウスとフィンが、広場の反対側から叫び声を上げた。
「こっちだ! 援軍が来た!」
「殿下! こちらへ!」
敵の注意が一瞬、そちらへ向く。その隙に──
アリシアとレオンが駆け出した。
「殿下!」
アルベルトが振り向く。彼の目には、信じられないという色が浮かんだ。
「アリシア……なぜ……」
「後で話します! 今は逃げるの!」
アリシアはアルベルトの腕を自分の肩に回した。レオンが反対側を支える。
「馬鹿者……ここへ来るなと……」
「そんな命令、聞きません!」
彼女の声には、涙が混じっていた。アルベルトの体は熱く、血の匂いがした。
「みんな、退却!」
アリシアの叫び声に、ククラウスとフィンが反対側から走り寄る。四人でアルベルトを囲み、後退を始める。
「逃がすか!」
蛮族の一人が気づき、襲いかかってくる。斧が振り下ろされる──
その時、レオンが叫んだ。
「やめろっ!」
少年は、持っていた短剣を投げつけた。的は外れたが、敵の動きを一瞬止めるには十分だった。
「行け!」
四人は駆け出した。ベルの示す退却ルートは、来た道とは違う。安全な迂回路だ。
「左へ!」
「階段を下りる!」
「あの扉を通れ!」
アリシアの指示に、誰も疑わない。彼らは一心に走った。背中から敵の足音が追ってくる。
「もう少し……!」
地下室への扉が見えた。でも、敵も近い。
「ククラウス、扉を開けて!」
少年が扉に飛びつく。重い鉄の扉が軋みながら開く。
「中に入れ!」
アリシアとレオンがアルベルトを支え、地下室へと転がり込む。ククラウスとフィンも続く。
「閉めろ!」
扉が閉じる直前、一つの斧が飛び込んできた。鉄の扉にぶつかり、火花を散らす。
ガチャン。
鍵がかかる。魔法の封印が再び施される。
外から、扉を叩く音。怒号。しかし、扉はびくともしない。
「はあ……はあ……」
アリシアは床に崩れ落ちた。息が切れ、心臓が爆発しそうだ。
「殿下……?」
アルベルトは目を閉じている。しかし、胸はかすかに上下している。生きている。
「医者を呼んで! 手当てができる人は!?」
地下室に避難していた者たちが集まってくる。教員の一人が、応急手当の知識があると名乗り出た。
「傷が深い……でも、致命傷ではない」
「出血を止めないと……」
人々が動き始める。布を裂く音。水を汲む音。
アリシアはその場に跪き、アルベルトの手を握った。冷たい。血の温もりさえ感じない。
「殿下……大丈夫ですよ。もう安全です」
彼女の声は震えていた。涙が、頬を伝う。
アルベルトのまぶたがわずかに動き、細い隙間から金色の瞳がのぞいた。
「……馬鹿者」
声はかすれ、ほとんど聞き取れない。
「命令に……逆らうとは……」
「はい。逆らいました」
アリシアは涙ながらに笑った。
「でも、これで殿下も私も、お互いさまです」
アルベルトの口元が、わずかに緩んだように見えた。それから、彼は完全に意識を失った。
「殿下!?」
「大丈夫、気を失っただけだ。出血が多すぎた」
医師代わりの教員が言った。
「今すぐ本格的な治療が必要だが……外はまだ危険だ」
「地下室に、医療品はありますか?」
「少しならある。だが……」
「全部持ってきてください。私が手伝います」
アリシアは立ち上がった。疲労は限界を超えているが、彼女は動き続けた。アルベルトのために。
「ククラウス、フィン、レオン。あなたたちも手伝って」
「はい!」
「わかりました!」
少年たちは、もう震えていない。彼らの目には、達成感と誇りが輝いていた。
手当ては長く続いた。アルベルトの傷は深く、数か所が骨折していた。魔法による治療が必要だが、今はそれもできない。
「とりあえず、出血は止まった」
教員が額の汗を拭いながら言った。
「あとは、彼自身の生命力次第だ」
アリシアはアルベルトの傍らに座り、彼の手を握り続けた。その手は、少しずつ温かさを取り戻しつつあった。
「生きて……絶対に生きて」
彼女は小さく呟いた。
「まだ、たくさんやることがあるんです。あなたの王国を、もっと良くするための……」
地下室は静かになった。人々は疲れ果て、眠りについている。外ではまだ時折、戦闘の音が聞こえるが、だんだん遠のいている。
【マスター】
突然、ベルの声が戻ってきた。いつもの軽快な調子ではない、疲れたような声だ。
【超常モード:サイレント分析、終了しました】
【エネルギー消費:97%】
【今後72時間、通常機能が制限されます】
「ベル……ありがとう。あなたがいてくれたから」
【いいえ、マスターが決断したからです】
【生存率4.7%の作戦を、成功させたのはマスターです】
アリシアは微笑んだ。そして、アルベルトの手を強く握った。
「これで終わりじゃない。まだ、やることがある」
彼女は立ち上がり、生き残った者たちを見渡した。
子どもたち。生徒たち。教員たち。そして、傷ついたアルベルト。
彼女は印章を取り出した。アルベルトが預けた、王家の証。
(殿下が守ってくれた命を、今度は私が守る)
リストはない。計画もない。
でも、やるべきことはわかっていた。
生き延びる。全員で。
そして、アルベルトを絶対に生きて連れ帰る。
彼女の目に、新たな決意が灯った。
戦いはまだ終わっていない。でも、少なくともこの瞬間、彼らは生きている。
それだけで、十分だった。




