戦争、リスト失効の日
北の町からの帰還から一週間が経ち、学園はいつもの平穏を取り戻していた。
アリシアはアルベルトの執務室で、鉱山労働者の労働環境改善案の最終調整をしていた。北の町で目の当たりにした過酷な労働条件、子どもたちの栄養失調、それでも懸命に生きる人々の姿──それらが彼女の胸に深く刻まれていた。
「ここ、作業場の換気システムをもう一段階強化するべきです。特に、深部鉱区では……」
「アリシア」
アルベルトの声が、突然真剣な響きを帯びた。彼は窓辺から、遠くの空を見つめている。
「何か、おかしい」
「え?」
アリシアも窓に近づいた。西の空が、夕暮れには早すぎる赤みを帯びている。いや、赤いというより──
(炎……?)
「通信室に連絡を!」
アルベルトの声が鋭く響く。執務室のドアが開き、従騎士が駆け込んでくる。
「殿下! 緊急報告です! 西の国境から──」
その時、遠くで何かが爆発する音がした。窓ガラスが微かに震える。
「何だ!?」
「蛮族の襲撃です! 国境の監視所が突破されました!」
一瞬、時間が止まったように感じた。アリシアの頭が真っ白になる。
(蛮族……? でも、和平条約が……)
「兵力は?」
アルベルトの声は冷徹だった。彼は既に指揮官モードに切り替わっている。
「詳細は不明ですが、少なくとも数千。通常の襲撃規模をはるかに超えています」
「学園の防衛体制は?」
「守備隊が応戦中ですが、圧倒的に不利です。すぐに避難命令を──」
「遅い」
アルベルトは机の引き出しを開け、短剣と魔法の護符を取り出した。
「学園の守備は私が指揮する。お前は、女子生徒と非戦闘員の避難を指揮せよ」
「しかし殿下、それは危険すぎます! 王族が──」
「命令だ!」
アルベルトの一喝に、従騎士は黙ってうなずいた。
そしてアルベルトは振り返り、アリシアを見た。
「お前も避難しろ。すぐに」
「で、でも……」
「聞け、アリシア。これは戦争だ。お前のできることではない」
「でも、私だってお役に立ちたいんです! リストを作れば、避難計画を──」
その時、学園の警鐘が鳴り響いた。緊急事態を知らせる、甲高い音。
アリシアの頭の中を、無数のリストが駆け巡った。
避難経路。食料の備蓄。医療施設の確保。安全な場所。情報伝達の手段──
(できる。きっとできる。私はこれまで、どんな問題もリストで解決してきた)
しかし、彼女の思考は次の瞬間、粉々に砕かれた。
窓の外で、巨大な炎の柱が立ち上がった。爆発音。叫び声。金属がぶつかり合う音。
戦場の音だ。
「殿下! 正門が突破されました! 蛮族が学園内に侵入してきます!」
「くっ……」
アルベルトは歯を食いしばった。彼の目には、決意の色が浮かんでいる。
「衛兵隊、全員ここに集まれ!」
執務室に、武装した衛兵たちが次々と集まってくる。その数、二十人ほど。学園の守備隊のほとんどだ。
「状況は絶望的だ。しかし、逃げる時間を作らねばならない」
アルベルトは兵士たちを見渡した。
「私は、この場所で敵の主力を食い止める。その間に、お前たちは生徒たちの避難を支援せよ」
「殿下! それはあまりに無謀です!」
「他に選択肢があるか?」
アルベルトの声は静かだが、揺るぎない決意に満ちていた。
「私がここに立てば、敵は私を狙う。その間に、できるだけ多くの者が逃げられる」
彼は一人一人の顔を見つめた。
「これが、王族としての私の役目だ」
アリシアの胸が、激しい痛みに襲われた。彼は、死を覚悟している。
(ダメ……そんなのダメ……)
「アリシア」
アルベルトが彼女の前に立った。彼の手には、小さくも重厚な印章があった。王家の紋章が刻まれた、金と赤の石でできた印章。
「これを預ける」
「殿、殿下……?」
「王族の緊急権限を行使する印章だ。これがあれば、残された衛兵たちを指揮できる。学園内のどの施設も開放できる」
アルベルトはアリシアの手を取ると、その手のひらに印章を置いた。
「もし……私が戻らなければ、これを使って生き延びろ」
「やめてください!」
アリシアの声は、思わず泣き声になっていた。
「そんなこと言わないで! 一緒に逃げてください!」
「できない」
アルベルトの目は、悲しみと決意が入り混じっていた。
「私が逃げれば、敵は追ってくる。逃げ遅れた者たちが、皆殺しにされる」
彼の手が、そっとアリシアの頬に触れた。その手は、わずかに震えていた。
「お前は生き延びろ。お前の頭脳と、そのリストが、この国に必要だ」
「でも、殿下がいなければ……」
「命令だ」
アルベルトの声は、再び硬くなった。
「生き延びよ。それが、私への最大の貢献だ」
彼は振り返り、衛兵たちの方へ歩き出した。
「全員、配置につけ! 正面には盾兵、両翼には弓兵! 魔法兵は後方から支援を!」
「殿下!」
アリシアが叫んだ。しかし、彼はもう振り返らない。
(どうして……どうしてこんなことに……)
彼女の頭の中は、完全に真っ白だ。リストを作ろうとしても、思考がまとまらない。恐怖と絶望が、理性を飲み込んでいく。
【警告:危機的状況を検出】
【生存率推定:学園内での生存 23%】
【アルベルト殿下の生存率:正面戦闘を選択した場合 8%】
【提案:直ちに避難を】
ベルの声が響く。しかし、アリシアはもう、システムの助言に耳を貸せない。
(リスト……リストを作らなきゃ。何か、できることがあるはず……)
彼女は震える手でメモ帳を取り出し、書き始めようとした。
しかし、ペンが動かない。文字が書けない。
ただ、「殿下を助けたい」という想いだけが、胸の中で渦巻いている。
(私のリストは、いつだって役に立った。問題を解決してきた。でも、これには……)
戦争。死。別れ。
彼女のリストは、生と死の選択には無力だった。
外では、戦闘の音がますます近づいている。叫び声。剣戟の音。魔法の炸裂音。
「アリシア様!」
リリアンが、涙で顔をくしゃくしゃにして駆け込んでくる。
「どうしよう、みんなパニックになってて……男子生徒たちまで戦いに行こうとしてて……」
「リリアンさん……」
アリシアは必死に平静を装おうとした。
「大丈夫。避難する方法を考えるから」
「でもアルベルト殿下は! あのままじゃ、きっと……」
「殿下は大丈夫よ」
その言葉は、自分に言い聞かせるための嘘だった。アリシア自身、全く信じていなかった。
「まずは、あなたたちを安全な場所に」
アリシアは印章を握りしめ、廊下へ出た。そこには、恐怖に震える生徒たちが大勢いた。
「みんな、落ち着いて! 地下室に避難するから!」
彼女の声は、自分でも驚くほど冷静だった。リストは作れなくても、やるべきことはわかる。
(まず、子どもと女性を優先して。次に負傷者。そして……)
「アリシア様、男子生徒たちが、殿下のところに行きたいと言ってます」
一人の教員が報告する。アリシアは深く息を吸い込んだ。
「ダメです。殿下は、私たちに逃げる時間を作ってくれているんです。無駄にしないで」
彼女は印章を高く掲げた。
「これは、アルベルト殿下から預かった王族の印章です! 殿下の命令で、私は皆さんを導きます! 従ってください!」
印章を見た生徒たちは、一瞬静かになった。王族の権威が、混乱に秩序をもたらす。
「では、移動を始めましょう! 怪我人は前に! 女性と子どもはその後!」
アリシアの指示で、避難が始まった。彼女の頭は、機械のように動いている。
(経路A:廊下が破壊されている。経路B:安全だが遠回り。経路C:最短だが敵の侵入経路に近い)
(経路Bを選択。時間はかかるが、安全が最優先)
「こっちです! 急いで!」
生徒たちの列が、地下室へと続く階段を下りていく。アリシアは最後尾に立ち、全員が入ったか確認する。
その時、また爆発音。天井から埃が落ちてくる。
「早く!」
全員が地下室に入ると、アリシアは重い鉄の扉を閉めた。鍵をかけ、魔法の封印を施す。
地下室は薄暗く、生徒たちの嗚咽が響く。子どもたちが震え、母親が必死に抱きしめる。
(食料は三日分。水は一週間分。医療品は最低限……)
アリシアは、地下室の備蓄を確認する。彼女の頭は、まだリストを作ろうとしている。現実から逃れるために。
しかし、心は違うところにある。
(殿下……)
彼女は印章を握りしめたまま、壁に背を預けた。その手のひらから、アルベルトの温もりがまだ残っているような気がした。
「アリシア様……」
リリアンが傍に座り、そっと彼女の手を握った。
「大丈夫ですか?」
「……うん」
嘘だ。全然大丈夫じゃない。彼女は今、崩れそうだった。
「殿下は、きっと戻ってきます」
リリアンの声も震えている。彼女も、同じくらい怖いのだ。
「ええ、きっと」
アリシアは目を閉じた。地下室の外では、まだ戦闘の音が響いている。遠くで、何かが崩れ落ちる音。
(ベル……)
【はい、マスター】
(殿下の生存率、再計算して)
【計算中……】
【現在の生存率:5.7%】
【敵の包囲網が縮小しています。撤退の可能性は限りなく低いです】
数字が、アリシアの胸を貫く。でも、彼女は驚かなかった。最初からわかっていたことだ。
(私に、できることは?)
【分析中……】
【あなた一人で戦場に介入した場合の生存率:0.3%】
【殿下を救出できる確率:0.08%以下】
(それでも、何か方法は?)
【方法は一つだけ:奇襲による救出】
【しかし、成功率は極めて低く、あなた自身の命も危険に晒します】
【最も合理的な選択は、ここに留まることです】
(合理的……か)
アリシアはゆっくりと目を開けた。地下室の薄暗がりの中で、生徒たちの顔が見える。子どもたちの泣き顔。恐怖に震える少女たち。必死に耐える少年たち。
彼女は彼らを守る責任がある。アルベルトが命をかけて与えた時間を、無駄にしてはいけない。
(でも……)
胸の奥で、何かがちぎれそうな痛み。
(殿下を、見捨てられない)
彼女は立ち上がった。
「アリシア様?」
「ちょっと、外の様子を見てくる」
「だめです! 危険すぎます!」
「大丈夫。すぐ戻るから」
アリシアはそう言い、地下室の小さな換気口へ向かった。そこからなら、外の様子をうかがえる。
換気口の格子越しに見える光景に、アリシアは息をのんだ。
学園の中庭は、炎に包まれていた。建物の一部が崩壊し、そこかしこに倒れた者たちの姿。
そして、中央広場で──
アルベルトだった。
彼はまだ立っていた。銀の鎧は傷だらけ、髪は血と埃で汚れている。しかし、その背筋はぴんと伸び、剣を構える手は微動だにしない。
周りには、数十人の蛮族兵が取り囲んでいる。アルベルトの周りには、倒れた衛兵たちの姿。生きているのは、彼一人だけのようだ。
(殿下……)
アルベルトが剣を振るう。一撃で、二人の敵をなぎ倒す。しかし、すぐに別の敵が襲いかかる。
彼の動きは、明らかに鈍っている。足を引きずり、片手を脇腹に押さえている。深手を負っているのだ。
(助けに行かなきゃ……)
しかし、どうやって? アリシアは戦い方を知らない。魔法も、初歩的なものしか使えない。
(ベル、最短ルートを)
【マスター、本当にですか? 成功率は──】
(計算はいい。ルートを)
一瞬の沈黙の後、視界に地図が浮かぶ。地下室から中央広場への最短ルート。敵の配置をかわす経路。
成功率:1.2%
(ありがとう、ベル)
アリシアは地下室に戻ると、リリアンの前に跪いた。
「リリアンさん、お願いがある」
「な、なに?」
「もし私が戻らなかったら、皆を導いて。印章を預ける」
「だめ! あなた、何を考えてるの!?」
「殿下を助けに行く」
「そんなの無理です! あなた、戦えないでしょう!?」
「戦わない。連れ戻すだけ」
アリシアは微笑んだ。それは、自分でも驚くほど穏やかな笑みだった。
「私は、リストの専門家だ。問題解決のプロだ。それに、殿下からは『生き延びろ』って命令されてる」
彼女は立ち上がった。
「だから、殿下を連れて、生きて戻る。それだけだ」
「アリシア様……」
リリアンの目に涙が光る。
「約束して。必ず、戻ってきて」
「うん。約束する」
アリシアは最後に印章を握りしめ、地下室の扉へ向かった。
心臓は狂ったように鼓動する。足は震える。でも、彼女の決意は揺るがない。
(リストは役に立たない。計画も意味がない)
(でも、それでも──)
彼女は深呼吸を一つした。
(私は、殿下を助けに行く)
扉を開け、外の戦場へと一歩を踏み出した。
炎の熱気と、血の匂いが立ち込める。
アリシア・フォン・ローゼンベルクは、最後の仕事に向かった。
リストも計画もない。あるのは、ただ一つの想いだけ。
彼を、生きて連れ帰りたい。
それだけだ。




