噂と庇護
魔晶石事故から一週間が経ち、学園内には不穏な空気が流れ始めていた。
アリシアは図書館で資料を整理している時、ふと隣の書架の陰から聞こえる囁きに耳を止めた。
「……あの人、本当にあんなことできるの?」
「だって急に頭良くなったでしょ? おかしいと思わない?」
「それに、あの事故、ちょうどよく気づいたよね。まるで予知してたみたいに」
アリシアの手が止まった。彼女は息を潜め、さらに聞き耳を立てた。
「私、聞いたんだ。闇魔法を使うと、人の思考が読めるらしいよ」
「え、それって……」
「だから、殿下に取り入れることも、事故を予知することもできるんじゃない?」
冷たいものが背中を伝う。アリシアはそっとその場を離れ、図書館を出た。
廊下でも、似たような囁きが聞こえてきた。
「最近、急に有名になったよね」
「殿下の寵愛を受けてるからさ」
「でも、なんで殿下があんな子を……」
アリシアは足を早めた。胸の奥で、何かがぎゅっと締めつけられる。
(噂……私のことを、そんな風に……)
【マスター、学園内でのあなたに関する噂の分析を行いました】
【主要な噂:1. 闇魔法の使用 2. 殿下への媚び 3. 事故の自作自演】
【噂の発生源:特定できず。複数の情報源から同時発生】
【拡散速度:急速。過去72時間で学園の67%に到達】
ベルの報告に、アリシアはため息をついた。
(誰かが、意図的に流しているんだ)
彼女は執務室へ急いだ。今日もアルベルトと、地方の税制改革案について議論する予定だった。
執務室では、アルベルトが既に待っていた。彼の机の上には、一枚の報告書が置かれている。
「遅いな」
「すみません、殿下。少し……」
「構わん。それより、これを見ろ」
アルベルトは報告書を差し出した。そこには、学園内で流布している噂の詳細が記されていた。
「お前のことを、闇魔法使いだと囁く者がいるらしいな」
アリシアはうつむいた。
「はい……聞きました」
「気にするな。愚かな者の戯言だ」
アルベルトの声は冷たく、しかしどこか怒りを込めていた。
「だが、無視もできん。噂が広がれば、お前の活動に支障が出る」
「どうすれば……」
「私が処理する」
アルベルトは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「既に、学園長に話を通した。これ以上、根拠のない噂を流す者には、懲戒処分を下す」
「でも、それでは……ますます反感を買うだけでは?」
「だから何だ?」
アルベルトが振り返った。彼の目には、鋭い光が宿っていた。
「お前は私の顧問だ。その名誉は、私の名誉と等しい。お前を貶める者は、私を貶める者と同じだ」
アリシアは息をのんだ。その言葉の重みに、押しつぶされそうになる。
「殿、殿下……そんな……」
「聞け、アリシア」
アルベルトは一歩近づいた。
「この世界は甘くない。お前が何かを成し遂げようとすれば、必ず邪魔する者が現れる。嫉妬する者が、足を引っ張る者が」
彼の声は低く、真剣だった。
「お前ができることは二つだ。諦めるか、戦うか」
「私は……諦めません」
アリシアは顔を上げ、アルベルトをまっすぐ見つめた。
「私は、殿下のお役に立ちたい。この王国のために、働きたい。それだけです」
一瞬、沈黙が流れた。
そして、アルベルトの口元が、わずかに緩んだ。
「……ならば、戦え。そして私が、お前の盾となる」
彼は机に戻り、書類の山から一枚を抜き出した。
「だが、その前に、お前自身の安全を確保せねばならん。最近、妙なものを受け取っていないか?」
「妙なもの……?」
「匿名の手紙。怪しい贈り物。何か、不審なものは?」
アリシアは考え込んだ。
「特に……ありません。ただ、この間、図書館で誰かが私の机にメモを置いていったのを見ましたが……」
「どんなメモだ?」
「『気をつけて』とだけ書いてありました。筆跡はわからないのですが……」
アルベルトの眉が曇った。
「警告か、あるいは脅迫か。どちらにせよ、軽視はできん」
彼は執務室のベルを鳴らした。すぐに、老執事が現れた。
「殿下、お呼びでしょうか」
「アリシアの護衛を手配せよ。学園内での移動には、常に衛兵一名が同行するように」
「殿下!」
アリシアが声を上げた。
「そんな、大げさすぎます。私、ただの学生です」
「私の顧問だ」
アルベルトの声には、一切の妥協がなかった。
「そして、お前の安全は、今や私の『重要な業務事項』だ。勝手な行動で、私の業務を増やすな」
その言葉に、アリシアは顔が熱くなるのを感じた。
(私の安全が……殿下の業務事項……?)
【緊急分析! この発言、複数の解釈が可能です!】
【1. 純粋な業務上の配慮(確率:35%)】
【2. 個人的な関心の表明(確率:45%)】
【3. 両方(確率:20%)】
【マスター、心拍数が急上昇しています!(゜Д゜;)】
(ベル、静かに……!)
「か、かしこまりました……」
アリシアはうつむき、小さく呟いた。
老執事が去ると、アルベルトは再び書類に目を落とした。しかし、彼の口元には、ほんのわずかな笑みが浮かんでいるように見えた。
「さて、本題に戻ろう。この税制改革案だが……」
議論はいつも通り続いたが、アリシアの頭の中は別のことでいっぱいだった。
(殿下は、私のことを……気にかけてくれている)
胸の奥で、温かいものが広がっていく。
その翌日から、アリシアには衛兵が一人つくことになった。名はマルクス。寡黙だが、鋭い目をした若い衛兵だ。
「アリシア様、今日のスケジュールをお聞かせください」
「えっと、まずは魔法理論の授業、それから執務室で……」
アリシアは少しきまり悪そうだった。周りの生徒たちが、好奇の目で彼女と衛兵を見ている。
「ねえ、見て。護衛つきだよ」
「やっぱり、殿下の寵愛を受けてるんだ」
「でも、それだけ警戒が必要ってことじゃ……」
囁き声が聞こえる。アリシアは目を伏せ、足を早めた。
授業が終わり、執務室へ向かう廊下で、リリアンが駆け寄ってきた。
「アリシア様! 大丈夫ですか!? 聞きました、噂のこと……」
「大丈夫よ、リリアンさん。殿下が対処してくださるって」
でも、リリアンの表情は暗かった。
「私、誰が噂を流してるか、少し調べてみたんです。それで……」
彼女は声を潜めた。
「ヴァルケンシュタイン侯爵家の令嬢、エリザ・フォン・ヴァルケンシュタインが、最近よくあなたのことを悪く言ってるみたいです」
アリシアの背筋が凍る。ヴァルケンシュタイン──魔晶石事故の背後にいたとされる、父の政敵だ。
「彼女は、あなたの父上と私の父上が、最近領地問題で対立してるんです。それで、あなたに仕返しを……」
「わかった。ありがとう、リリアンさん。でも、これ以上は危険だから調べないで」
「でも!」
「お願い。あなたを巻き込みたくないの」
リリアンは悔しそうな表情を浮かべたが、うなずいた。
「……わかりました。でも、何かあったら、必ず教えてくださいね」
「うん、約束する」
執務室に着くと、アルベルトが書類の山と格闘していた。彼は顔を上げずに言った。
「遅い」
「すみません、殿下。授業が少し延びて……」
「構わん。それより、これを見ろ」
アルベルトは一枚の紙を差し出した。それは、匿名で執務室に届いたという手紙だった。
『警告する
アリシア・フォン・ローゼンベルクは闇の力に染まっている
彼女が近くにいると、不運が訪れる
学園から追放すべきだ』
文章は歪な筆跡で書かれ、最後には不気味な模様が描かれていた。
アリシアの手が震えた。
「これは……」
「脅迫状だ。ただし、稚拙な」
アルベルトは紙をちぎり、灰皿に放り込んだ。小さな炎が、紙を瞬時に飲み込む。
「これで四通目だ。どれも内容は似ている。お前が闇魔法を使っている、危険だ、追放しろ」
「殿下、なぜ私に……」
「お前が私の顧問だからだ」
アルベルトの目が冷たく光った。
「お前を失脚させれば、私の力も弱まる。それは、私の敵にとって好都合なのだ」
彼は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「ヴァルケンシュタイン侯爵は、父王の時代から我が家と対立している。彼は今、税制改革に反対している。お前が作成した改革案が、彼の利益を損なうからだ」
「でも、それと私が……」
「お前を攻撃すれば、改革案そのものの信用を落とせる。『闇魔法使いの作った案』となれば、誰も支持しなくなるだろう」
アリシアは言葉を失った。彼女の個人的なことが、こんなに大きな政治問題と結びついているとは。
「では……私はどうすれば?」
「何もするな」
アルベルトが振り返った。彼の表情には、確かな自信が満ちていた。
「私が全て処理する。お前は、いつも通りに業務を続けよ。それが、最も効果的な抵抗だ」
「でも、噂が……」
「噂は、真実の前では無力だ」
アルベルトは机に戻り、書類を整理し始めた。
「お前の実績が、お前を守る。学園祭の成功。魔晶石事故の防止。税制改革案。これらは全て、お前の能力の証だ」
彼はふと、手を止めた。
「それに……私がいる」
その一言に、アリシアの胸がきゅっと締めつけられた。
「殿、殿下……」
「さて、仕事に戻ろう。今日は、地方の医療改革案の最終確認だ」
アルベルトはいつもの業務モードに戻っていた。しかし、アリシアにはわかった。彼がわざと冷静を装っているのだと。
(殿下は、私のために戦ってくれている)
その日、アリシアはいつも以上に集中して仕事に取り組んだ。アルベルトの期待に応えたい。彼の信頼を裏切りたくない。
夕方、業務が一段落した時、アルベルトが突然言った。
「明日から、しばらく学園外での調査に入る」
「え? どちらへ?」
「北の鉱山町だ。労働環境の改善案を作成するため、現場を視察する」
アルベルトはアリシアを見た。
「お前も同行する。現場の声を聞くのは、お前の得意とするところだろう」
「はい! 喜んで!」
「ただし、条件がある」
アルベルトの表情が厳しくなった。
「絶対に一人で行動しない。常に私かマルクスの傍にいる。そして、怪しい者には近づかない」
「かしこまりました」
「もう一つ」
アルベルトはためらったように一瞬黙り、続けた。
「この視察は、噂からお前を遠ざける意味もある。学園を離れれば、一時的にではあるが、噂の対象から外れる」
アリシアははっとした。彼は、彼女の心の負担まで考えてくれていたのか。
「殿下……ありがとうございます」
「感謝などいらん。これは業務上の判断だ」
アルベルトはそう言ったが、彼の耳たぶがほんのり赤くなっているのに、アリシアは気づいた。
【データ更新:アルベルト殿下の『ツンデレ指数』、過去最高を記録!( ̄▽ ̄*)】
(ベル!)
その夜、アリシアは旅の準備をしながら、最近の出来事を振り返っていた。
噂。脅迫。そして、アルベルトの保護。
(すべてが、私が殿下の顧問になったから……)
彼女は窓辺に立ち、外の月明かりを見つめた。
(もし、私が普通の令嬢のままだったら、こんなことにはならなかった)
(でも……後悔していない)
胸を手で押さえる。そこには、アルベルトから渡された護符が、肌に温もりを伝えている。
(殿下のために働きたい。この気持ちは、本物だ)
突然、ノックの音。
「アリシア、まだ起きているか」
「はい! 今開けます!」
ドアの外には、アルベルトが立っていた。彼の手には、小さな袋があった。
「明日の旅に備えて、これを持っていけ」
袋の中には、魔法の保温ポットと、携帯用の魔晶石ランタン、それに簡易的な治療キットが入っていた。
「殿下、これは……」
「北の町は寒い。準備が足りないと、体調を崩す」
アルベルトはあくまで事務的に言った。
「それと、これは緊急用だ」
彼はさらに小さな箱を渡した。中には、精巧な魔法の腕輪が入っていた。
「これは、位置追跡ができる。万一はぐれた時、私がお前を見つけられる」
「殿下……こんなに気を遣わせてしまって……」
「気を遣っているのではない。単なる予防措置だ」
アルベルトは顔をそむけた。
「お前が倒れれば、業務に支障が出る。それだけのことだ」
でも、アリシアにはわかっていた。彼の言葉の裏にある、本当の気持ちを。
「ありがとうございます、殿下。必ず、無事に帰ってきます」
「ああ。では、明日の朝早くに出発する。しっかり休め」
アルベルトが去ろうとした時、アリシアは思わず声をかけた。
「殿下!」
「……何だ?」
「私……殿下の顧問になれて、本当に良かったです」
一瞬、沈黙が流れた。
そして、アルベルトが小さくうなずいた。
「……私もだ」
その一言だけを残し、彼は廊下の闇に消えていった。
アリシアはドアに背を預け、ゆっくりと滑り落ちた。
胸の中が、温かい感情で満たされていく。
(殿下が……私を必要としてくれている)
涙が一粒、頬を伝う。でも、これは悲しい涙ではない。
嬉しくて、ありがたくて、溢れ出る涙だ。
【マスター、感情分析レポート更新しました】
【現在の状態:幸福感 85%、不安 10%、その他 5%】
【『恋愛ウイルス』、症状がさらに進行しているようです! でも、悪化とは言えないかも?(`・ω・´)】
「ベル……ありがとう」
アリシアは微笑んだ。
彼女は立ち上がり、明日の準備を整え始めた。
北の町への旅。それは新たな挑戦だが、同時に、アルベルトと二人きりで過ごす時間でもある。
(どんなに危険が待っていても、大丈夫)
彼女は護符を握りしめた。
(殿下が、私を守ってくれるから)
窓の外では、星々が静かに瞬いていた。
明日への期待と、ほんの少しの不安が、アリシアの胸の中で同居している。
でも、それでいい。彼女はもう、一人じゃないから。




