過労死と地獄のスタートライン
社畜の悲哀は、終電を逃した夜よりも、朝の満員電車に詰め込まれるあの瞬間によくわかる。
冷房の効きすぎたオフィス。パソコンのブルーライト。目の前に積まれた、まだ手を付けていない書類の山。そして、胸の奥から押し上げてくる、鈍い痛み。
(まずい……この感じ、前にも……)
佐藤玲子、三十二歳。システムエンジニアとして、日夜プロジェクトと格闘してきた。睡眠時間は削られ、食事はデスクで済ませ、有給休暇は紙くず同然。それでも、なぜか「できる女」のレッテルを貼られ、より多くの仕事が舞い込む。
スマホの画面には、上司からの連絡が光る。
『玲子さん、お疲れ様です! クライアントから急ぎの変更が入りまして、明日のAM9時までに仕様書を修正いただけませんか? お願いします!(^^)』
末尾の顔文字が、なぜか残酷に見えた。
(明日……明日は、母の入院先に行く約束だったのに……)
そう思ったとき、胸の痛みが炸裂した。
視界が白く滲む。耳元で聞こえていたオフィスの雑音が、遠のいていく。デスクの角に手をかけようとするが、指先に力が入らない。
(ああ……これが、あの噂の……)
過労死。
最後に脳裏をよぎったのは、冷蔵庫で明日には期限切れになるはずだったヨーグルトと、未提出の有給休暇申請書の存在だった。
───そして、次の瞬間。
「……っ!」
頬にひやりとした感触。濡れている。そして、耳元で響く、甲高い女の声。
「ふん! これで懲りたかしら、この平民めが!」
玲子――いや、今この体に宿る意識は、強制的に目を開かされた。
まず目に入ったのは、磨き上げられた大理石の床。色とりどりの花びらが散乱している。そして、その上に転がる、茶色の髪をした少女。
(え?)
混乱。だが、それ以上に、体が先に反応した。
この体は、細く白い手。絹のような感触のドレス。胸元には、宝石がちりばめられたブローチ。そして、自分を取り囲むように立つ、同じく豪華なドレスを着た少女たち二人。
記憶が、洪水のように流れ込む。
アリシア・フォン・ローゼンベルク。十七歳。オルフェン王国の公爵家の令嬢。
リリアン・ホワイト。平民出身ながら、卓越した魔法の才能で王立魔法学園に特待入学した少女。
そして、自分が今、していること――『星の誓い』という乙女ゲームの世界で、悪役令嬢としてヒロインをいじめている、まさにその瞬間だ。
ゲーム中、アリシアはこのいじめを発端に、王子たちからの好感度をがた落とし、学園を追放され、最後は反逆罪で――
(公開処刑……)
その言葉が頭をかすめた刹那、視界の隅に、淡いブルーの光がちらりと浮かんだ。
【警告:高リスク状況を検出。】
【分析中……】
【分析完了。ユーザー認証:佐藤玲子。転生先:アリシア・フォン・ローゼンベルク。】
【現在のプロジェクト:『悪役令嬢としての生存』。】
【緊急タスク生成:『三ヶ月後の公開処刑を回避せよ』。】
【──こんにちは、マスター。私はビジネス効率と生活支援システム、ベルと申します。これから、あなたがこの世界で無事に生き延び、できるだけハッピーに過ごせるようお手伝いしますね(・ω<)】
軽くて、どこか機械的でありながら人間臭い「声」が、直接脳裏に響く。
(システ……ム?)
【その通りです! そしてマスター、現在はまさに死亡フラグ発生イベントの真っ最中です! 優先度MAXの【生存リストV1.0】を自動作成しましたので、まずはこちらをご確認ください!】
目の前に、半透明のブルーの画面が広がる。ちょっとピクセルっぽい、かわいらしいフォントで、文字が並んでいる。
≪ 生存リストV1.0 ≫
目標:公開処刑フラグを回避する
期限:3ヶ月
現在のステップ:1/5
1. 現在のいじめ行為を即時中止する。
→ 状況:進行中(要緊急対応!)
2. 適当な口実を作り、その場から離脱する。
3. 安全な場所(自室)に移動する。
4. 現状分析と情報収集を行う。
5. 中長期生存戦略の草案を作成する。
(……リスト?)
玲子――いや、アリシアの頭は混乱した。だが、長年のサラリーマン生活で培われた「目の前の課題を片付ける」本能が、パニックを上回った。
リストがある。やるべきことが順序立てて示されている。
ならば、まずはステップ1から。
「……あら?」
自分の口から、冷たく高慢な声が出た。アリシア・フォン・ローゼンベルクとしての声色だ。
「どうしたの、リリアンさん。そんな汚れた床に転がってばかりいないで、早く立ちなさい」
アリシアは一歩前に出た。周りの取り巻きの少女たちは、「これからもっとひどい仕打ちが始まる」と期待して、目を輝かせた。
しかし、アリシアはリリアンの腕を――乱暴ではなく、しかし確実につかみ、引き起こした。
「ほら、早く。あなたのような才能ある方が、こんなところで汚れていては、王国の損失ですわ」
リリアンは、恐怖で涙がにじんだ碧眼を大きく見開いたまま、きょとんとしていた。頬には、先ほど投げつけられた水がつたい、髪には花びらがくっついている。
アリシアは、素早くだが優雅な動作で、自分のハンカチを取り出し、リリアンの頬を軽く拭った。
「ほら、これで。……あなたの髪に、枯れ葉がついていますわね」
実際には何もついていなかったが、アリシアはそう言いながら、リリアンの髪に手を伸ばし、何かを取り除くふりをした。
取り巻きの少女たちは、呆然と口を開けた。
「ア、アリシア様? どうかなさいましたか?」
一人が、哀願するような声で尋ねた。いつもの調子で、この平民をこらしめてください、という意味だ。
アリシアは内心、冷や汗が背中を伝うのを感じた。この役割を演じきれるか? だが、リストには「口実を作って離脱」とある。
(そうだ……体調不良。それなら自然だ。)
彼女は軽く額に手を当て、わずかに顔を曇らせた。
「ふう……突然、気分が悪くなってきたわ。今日はもう、これくらいにしておきましょう」
そう言いながら、アリシアはリリアンから一歩離れた。
「リリアンさん、あなたも早く教室に戻ったほうがよろしい。今のあなたには、私たちとつきあっている暇などないはずですから」
涼しい顔をして言い残すと、アリシアはくるりと背を向け、ゆっくりと歩き出した。
「あ、アリシア様!」
取り巻きの少女たちは慌てて後を追おうとしたが、アリシアは振り返らず、優雅に手を上げて制した。
「放っておいて。一人にさせて」
その声には、いつもの高圧的な響きがなかった。ただ、疲れたような、本当に体調が悪そうな響きがあった。
少女たちは足を止め、困惑した表情でアリシアの後姿を見送った。
廊下の角を曲がり、誰の目も届かない場所にたどり着いた時、アリシアはようやく壁に背を預け、深く、深く息を吸い込んだ。
(はあ……)
心臓が狂ったように鼓動している。恐怖と緊張と、それに加えて、この体が本来持っているらしい、アルベルト王子に対する畏怖の感情が入り混じり、胸が苦しい。
【お見事! ステップ1 & 2、見事クリアです! マスターの即応力、さすが元プロジェクトリーダーですね!(ノ◕ヮ◕)ノ*:・゜✧】
ベルの声が、軽快に脳内に響く。
(……プロジェクトリーダー、か)
そういえば、前世では確かに、何人ものメンバーを率いてプロジェクトを完遂してきた。締切に追われ、クライアントの無理な要求に頭を悩ませ、徹夜で仕様書を書いた。
それに比べれば、たかが悪役令嬢の生存戦略――
(いや、『たかが』じゃない。命がかかってる。)
アリシアは目を閉じ、再び開いた。
視界の隅には、まだあのブルーの画面が表示されている。ステップ1と2の横に、小さなチェックマークがついた。
1. 現在のいじめ行為を即時中止する。 → ✅完了
2. 適当な口実を作り、その場から離脱する。 → ✅完了
3. 安全な場所(自室)に移動する。 → 進行中
(次は、自室か)
アリシアの脳裏に、この学園の見取り図と、自分の部屋の位置が浮かぶ。原主の記憶だ。
【マスター、現在の心拍数は通常の145%です。ストレスレベルも高い。まずは落ち着くことをお勧めします。深呼吸、どうぞ!】
ベルが、まるで健康アプリのようなことを言う。
アリシアは言われた通り、ゆっくりと深呼吸をした。冷たい石の壁の感触が、背中から伝わる。
(……そうだ。落ち着け。パニックになって何も解決しない。)
前世でも、トラブルが発生した時はまず落ち着き、状況を整理し、やるべきことをリストアップした。
今、やるべきことはリストに書いてある。
ステップ3:安全な場所(自室)に移動する。
ステップ4:現状分析と情報収集を行う。
ステップ5:中長期生存戦略の草案を作成する。
(まずは、自室に戻ろう。情報が必要だ。この世界の詳細、この体の状況、周囲の人間関係……すべてを洗い出す必要がある。)
アリシアは壁から体を離し、背筋を伸ばした。
黒い瞳には、まだ混乱の色が残っていたが、その奥に、確かな意志の光が灯り始めていた。
佐藤玲子としての人生は終わった。
今ここにいるのは、アリシア・フォン・ローゼンベルク。そして彼女には、たった三ヶ月という期限付きで、とてつもなく難しいプロジェクトが与えられた。
プロジェクト名:生き延びる。
納期:三ヶ月後。
達成条件:公開処刑を回避し、新しい人生を築く。
アリシア(玲子)は、ゆっくりと歩き出した。
ドレスの裾を軽く持ち上げ、背筋を伸ばし、公爵家の令嬢としての品位を保ちながら。だが、その心は、既に戦闘モードに入っていた。
(まずは現状分析。それから戦略立案。可能な限りのリソースを確保し、リスクを最小化する……)
【おお、マスターの思考がどんどん『仕事モード』に切り替わっています! 素晴らしい適応力です! では、次のステップへ参りましょう。自室への最適ルートをナビゲートしますね!】
ベルが、どこか嬉しそうに告げる。
アリシアは、廊下の向こうに見える、豪華な階段へと歩を進めた。
胸の鼓動は、まだ速い。しかし、それはもはや恐怖だけではない。ある種の高揚感――困難なプロジェクトに直面した時、かつての玲子が感じたあの、緊張と興奮が入り混じった感情に近いものだった。
(さあ、仕事が始まった)
そう呟きながら、アリシア・フォン・ローゼンベルクは、新たな人生──そして生存をかけた戦いの、最初の一歩を踏み出した。
視界の隅のリストは、静かに光り続けている。
次のステップ:自室到着。現状分析開始。
プロジェクト進捗率:2%。
──生き延びるためには、まだまだやるべきことが山積みだ。




