骨となりて骨を抜くとは
『馬鹿野郎。大馬鹿野郎、クソ野郎っ!』
えぇ、えぇ、間違いはございません。
確かに私めの斜め前で、晒し首の前に陣取っていた御仁は、確かにそう、申されたのでございます。
外の柔らかでありながら何処か昏い霧雨の奏でる音すら朧げな。
暗く、僅かな光源すらも闇に飲まれそうな一室に、老いた声が響く。
痩せ衰えた、擦り切れた服を纏いながらも何処か油断ならない老いた男。
男の語りを聞く相手の顔も姿も伺い知れぬなか、地の底よりかは浅くから、響くように老いた声は語る。
絞り出すような、低く掠れた、雨音にかき消されるような声で、御仁は申されました。
私めに聞こえたのは全くの偶然、はい、そうで御座いますな、さしずめ神のいたずらとでも申すところだったので御座いましょう。
最初は私めも罵倒の一つと思ったので御座います、えぇ、何せ晒してあった首というのは、その御仁が絞り出すように恨みを吐きかけた首と、いいますのは――。
そこで一息、間を空け、老骨は唇を湿らせた。
微動だにせぬ相手が僅かでも崩れることを期待して。
歪む口許が闇に飲まれ見えないことを願って、老骨は一息に言った。
かの逆臣、石田治部少輔の首であったので御座いますから。
あぁ、あぁ、ご無礼を。
貴方様が存じ上げぬはずもござりませんでしたな。
どうぞお許しくださりませ、学のない、哀れな乞食、地に堕ちた天上人を嗤う以外の愉しみを持たぬ卑しき身に御座いますれば……。
眉一つ動かさぬ、ともすれば温厚にともすれば冷酷に見える相手の顔を、朧気な視界が映し、期待外れに少々落胆しながら再び老骨は口を開く。
此の世のありとあらゆる誹謗を、生前に京や堺を回されておる時分より受けて来られたであろう御方への、死後への届かぬ餞別の一つを、その御仁もまた、かけられたと。
そう思った私めは、御仁の背に隠れ伏せられた右の目ばかりしか見えなんだ首から目を離し、御仁へと両の眼を向けたので御座います。
またも一息。
慣れぬ語りに渇く喉を、老骨は出されて相応に時を得て冷めた茶をぐいとあおり、癒して過去へ再び潜る。
これ、この様に今ではもはや僅かに物の輪郭やらを捉えるばかりとなっておりますが、その折はまださほど衰えておりませなんだ、よう覚えております、焼きついております。
如何にもな立派な体躯の御仁であられましてな、ほれ、治部少輔めが最後の奉公にて、二度と見られぬではありましょうが……。
戦場にて鎧兜に馬を駆れば大将を務められようかと思うほど、それはそれは御立派な、六尺はあろうかという背丈。
今が盛りと思うほどに隆々としたその肩まわり、腰まわり、戦が日常であった頃はさぞ功を挙げられたことが想像に難くない、武人に御座いました。
私のような小者はうんと首を上向けねば伺い知れぬ頭部には深く深く編笠を被られ、ともすれば殺気だったご様子で、御前の首を見ておられました。
えぇ、そうです、私めにもさぞ名のある武将であろうことがわかるほどの、覇気のある御方で御座いました。
覇気、と申せば、かの治部少輔の引き回されておる折の姿も相当ではございましたが、はい、それはもう背筋が寒くなる程で御座いました。
えぇ、あぁ、そういえば、そういえば。
申し訳御座りませぬ、やはりくたばり損ないの老骨めは記憶は語らねばただ老いるばかりにあるようにて……。
たった今、たった今繋がり申した。
私めが、かの御仁を気にかけたのは、覚えが多少あったからに御座います、それは御仁の声であり、武人らしい覇気であり、治部少輔への、交錯した感情を感じさせる何かで御座いました。
はい、そう、それでは少々、筋は逸れ……何の、行き着く先は同じで御座いますれば、今少しの御時間をお与え頂ければ至福の極みに御座ります。
戻る事数日、治部少輔がまだその命の拍動を世に響かせておられた頃、そう、引き回され、もうすぐ露となる頃に御座います。
街道を埋め尽くすは無数の、私めが口にするのも片腹痛い事では御座いますが、下卑た聴衆で御座いました。
聴衆の下卑た勘繰り、無意味な中傷を、下劣な視線を、まるで神か仏かと思うほど、穏やかな顔でやり過ごされており申した。
えぇ、えぇ、治部少輔という男は只者では御座いますまい、引き回されようと刑場に立たされ、今まさに首が落とされようとしておる時ですらも。
口許には常に穏やかな笑みを浮かべて居られたので御座います。
そして粛々と刑が執行されていく最中にも隣に引き立てられた同罪のものと何やら歓談し笑い合っておられた。
正気ではあられぬ、否、正気であれば斯様な刑罰を受けることも無いので御座いますが。
兎にも角にも、異様に落ち着き払い、穏やかに微笑って見せるその胆力、異常性に、少なからず慄く者が居ったので御座いましょう。
斬れ、早う斬れ、逆賊の首を打てとそこかしこから悲鳴の様な細い、醜い声が挙がったので御座います。
罪人として引き回され、今まさに首を落とされようとしている、今や己らより遙かに蔑まれるべき立場の者に、気圧されるのが我慢ならなかったので御座いましょう。
無論執行人も当人たちも、爪の先ほども気にしてはおられなんでしょうが、いたぶれる獲物を見つけた弱き集団とは、恐ろしいものに御座いまして、瞬く間に刑場は狂った空気に占められていったので御座います。
その時で御座いました、何人たりとも逆らえぬ、低く威圧感のある轟雷の様な声が一帯に響きわたったのです。
『見苦しいぞ!末期を汚すな下臈ども!』
水を打たれたように静まり返るその場に、朗々と声が響いたので御座います、あれは、えぇ、あの狂おしい愛執を感じさせる一連の叫びは。
下卑た聴衆の、下賤な心を完膚なきまでに打ち砕き、なおも張り上げた声が続いたので御座います。
『其処に居るは許され難き大逆人なれど貴様ら下賤の民が目にするのも畏れ多き高潔なる男ぞ。』
下人である私めは、恐れ多くもこの刑場を一喝で支配した御方を一目見んと視線で人混みを掻き分け、この二度目の叫びでようやく、後ろから従者と思しき男に袖を引かれている武人を見つけたので御座います。
無論その御方は従者の袖引きなど、制止など振り切ってただ穏やかに微笑む治部少輔を見ておられましたが。
……いいえ、いいえ、語弊が御座いました、治部少輔は穏やかに微笑むばかりでは御座いませんでした、何処か驚いた、それでいて温かみのある顔をされていたので御座います。
今も、今でも鮮明に浮かび上がりまする、僅かに目を見開き、すぐに呆れたような、それでいて何処か悪戯を思いついた、子供らしい無邪気さすら感じさせる治部少輔が顔、堪えきれぬと震える薄い唇が。
横で刑の執行を待つ切支丹の男が、僅かに呆れを滲ませた目で御仁を見、治部少輔を小さく小突いたのを思えば、あれはきっと、笑いかけたので御座いましょうか。
笑いをこらえた、治部少輔が震える唇が開く前に、再び御仁が声を上げられたので御座います。
私めは、もはやあれに勝る餞別を贈れる方など居らぬ様に思えるので御座います。
『艱難汝を玉にす。天晴よな治部少輔!』
その叫びが、僅かに湿りを帯びていた気が致しますのは、私めの願望が老骨の記憶を蝕んで居るので御座いましょうか。
きっとそうで御座いましょう、治部少輔はそれはそれは、愛らしい顔をされたので御座いますから。
真、罪人か、逆臣か、奸臣かと我が目を疑うほどに愛らしい、刑場で斯様な顔をされる御方など後にも先にも居らぬであろう、極上の笑みを浮かべられていたので御座います。
もはや呆れすら通り越し胸焼けしたような切支丹の顔と、助平爺の様な顔で興味深げに見ておられた坊主の顔にその衝撃は掻き消されたので御座いますが、これは関係の無い話で御座いました。
それきり御仁は口を閉じ、以後、もはや誰一人として口を開くことなど出来ない、静寂の支配する刑場で、予定通り粛々と進んでいったので御座います。
御仁は刀に水をかけられた辺りで一度顔を伏せられたので御座いますが、聴衆の声のないどよめきに、再び顔を上げ真っ直ぐに顔を向けられたので御座いました。
御仁の顔が再び向くのを待って、治部少輔はようやくその薄い唇を開かれたので御座いますが、その言葉は音として誰の耳にも入らぬものに御座ったのです。
ひょっとすれば御仁の耳には音として聞こえたのやも知れませぬが。
しかしどうも、ばーか、とからかう様に唇が動いたのは、いやはや、老骨の記憶違いに御座りましょう。
衣擦れに混じって聞こえた、微かな空気の揺らぎに、老骨は何時の間にやら遠くを見ていた目を目の前の聞き手に一瞬戻し、されども一寸の揺らぎも見つけられず、小さく息を吐いて老骨は言葉を繋いだ。
さて、御仁は面食らったかの様に固まり、食い入る様に注視なされました。
その御様子を見られたからか、はたまた染み付いたもので御座ったか。
穏やかな、非の打ち所の無い微笑みを浮かべ、治部少輔は刑場の露となったので御座います。
合間合間、時折息は継いだものの、口を湿らす間もなく語り続けた老骨は、ようやく感じた喉の渇きを癒そうと椀に手を伸ばし、空であることに気づく。
嘆息する老骨の前に、聞き手の男が新たに茶を注いだ椀を出す。
如何に目が慣れようと斯くも容易に出来る芸当では無い、と内心驚きながら小さく礼を言い、程よい温度の茶で喉を潤した老骨は語りを続ける。
真に人であったのだと納得する様な、赤く輝く血は冷たく土に吸われ、残滓の様に刀に付いた血脂は流され拭われて。
先程までの時間は皆が見た幻であったのではと思うほどに、冷たく物言わぬ骸が遺るばかりで御座いました。
御三方の首が土に落ち、首を欠いた身体が回収され首が運ばれるその時まで、御仁はその場に仁王の如く立って居られたので御座います。
無論首の運ばれる道中も、河原にて晒す用意が粛々と進んでおる時も、片時も目を離さなかったそうに御座います。
あぁ、えぇ、申し訳御座いませぬ、この時ばかりは私めは諸事情御座いまして目に出来ておりませなんだ。
無論御承知で居られましょうが。
どれだけ揺さぶろうと些かも動じる気配の無い相手に、懐かしい震えを感じながら老骨は再び唇を湿らせる。
そう、そうしてで御座います、下人らしく落ちた天上人の有り様を一目見んと向かった先で目にしたのが、最初の光景だったので御座います。
えぇ、今ならば分かります、理解できるので御座います、私めの誤解が、あの御仁が抱えて居られた哀惜が、あの罵倒に込められた思いが……。
あの御仁は、かの名高き槍が一筋は、晒し首の辱めを受ける方を庇って居られたので御座います。
心無き、卑劣な眼差しを向ける下臈どもから。
左様、左様で御座います、あの御仁は震えておられた、震わせておられたので御座います。
自らの声を、固く握りしめた拳を、隆々としたその肩まわりを、衰えぬ肉が盛り上がる大柄な背を。
そう、そうなのです、あの罵倒も、改めて思い返せば掠れだけではない震えを持って居られました。
えぇ、はい、当時の私めが、先日の武人と同じであることに気づいたか、気づかなんだかはもはや些細な事に御座いましょう。
吸い寄せられる様に御仁を注視していた私めの、まだ掠れも衰えもしておらなんだ双眸は、確かに捉えたので御座います。
御仁の、固く握りしめられた拳がゆっくりと解かれ、生前より変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべたその首に、のろのろと両の手を差し伸ばしかけたことを。
触れる寸前に再び固く握りしめられたのを、頬を流れる熱いものの代わりに小さく、先ほどよりも小さく零れ落ちた呟きを、片の耳は拾ったので御座います。
さきち、と、そう、あの御仁は小さく零されたので御座います。
残る二杯目の茶を飲み干して、老骨は終わりに向かって口を開く。
そう、それ以降も何やら一言二言零しておられたような気も致します、なれど老骨が記憶にはもはやありませぬ、否、もはや聞きたくもないとでも言いたげでございますな?
初めて、微かに感情を見せた聞き手に、かつての切支丹と同じものを見つけて、老骨は初めて笑いの滲む声を上げた。
ふふ。さて、ここから先はもはや語るべくも御座いませぬでしょう。
皆が存じ上げておる通り、治部少輔が首は忽然と消え去ったので御座います。
えぇ、無論首に直に手足が生えて逃亡するわけもありませぬ、老骨めが戯言は、治部少輔が首が消え去る前日まで、絶えることなく仁王が立ち尽くしていたこと、のみに御座いますれば。
語り終えた老骨は慣れぬ語りに痛めた喉を労りながら気づく。
ふっ、と聞き手の顔が和らいだのを、顔を伺い知れるほどに光の差し込む時分になった事を、和らいだ顔が――
朧気な視界にも双眸に焼き付いて離れぬ、あの穏やかな笑みを浮かべた男と瓜二つであることを。
老骨は跪いて伏せる。
決して派手では無いが品のある袈裟に身を包み、刑場であろうとそうであったようにすっと背筋を伸ばした、壮年の僧に。
低く、低く、老骨の、地底より響く声が問うた。
丁重に白く輝く、右の一部を欠損した頭骨を前に押し頂いた、聡明な光を讃えた僧に。
これにてご満足頂けましたでしょうか、寿聖院三世住職、済院宗享様……いえ、古くは隼人正様と、お呼びすべきでござりましたか。
引き結ばれた唇が解け、ゆっくりと弧を描く。
聡明な光を帯びた瞳が薄い瞼に柔らかく包まれ、一部の隙もなく伸ばされた背筋がゆっくりと前へ倒される。
深々と頭を下げた、聞き手の、宗享法師の姿に老骨は微笑んだ。
それはかつて刑場で老骨が自らの手で首を落とした男の最期に、僅かに似ていたが、 無論役目を終えた老骨には預かり知らぬ。
朝靄の中、静かな読経が流れ、その低く穏やかな祈りが老骨を取り巻く。
いかばかりかの時が過ぎ、ようやく読経が終わると同時に音もなく障子が開けられた。
何処からか現れた一団が手早く老骨を回収していくのを、穏やかに見つめていた宗享法師は、部下を連れ帰る間際に一言告げた長に、深く頭を下げる。
葵の紋を背負った一団の気配が遠く去るまで、その形を崩すことの無かった宗享法師は、ふいにがばりと身体を起こして恭しく頭骨を抱え上げた。
緩められた唇が薄く開き、過去をなぞる様に目を伏せて宗享法師は低く呟く。
「全く、我が父は恐ろしいお方よ……」
補足……という名の登場人物紹介みたいなもの
石田治部少輔、治部少輔……同一人物。石田三成のこと。
治部少輔は官名。
佐吉は幼名。
切支丹の男……小西行長のこと。切支丹大名。
助平爺のような顔をした坊主……安国寺恵瓊のこと。外交僧という立場の人だった。
以上三名が関ヶ原の首謀者として斬首刑に処されている。
御仁については伏せますが、参考までに名高き槍、は賤ケ岳の七本槍のつもりで書きました。
済院宗享……石田三成の嫡男、石田重家。
隼人正は出家前の官名。
すっごい長生き。




