番外編 初めての口づけ
その夜は、やけに静まりかえっていた。
窓の外では風が木々を揺らし、どこか遠くで犬の鳴き声が聞こえていた。
火を落とした暖炉の残り火が赤く灯り、部屋の中にはわずかな温もりが残っていた。
トシは帳簿を閉じ、深く息をついていた。
「今日も、長い一日が終わったな」
そう呟き、椅子の背にもたれて空を見上げた。
窓の外では、星がいくつも瞬いていた。
年を重ねるにつれ、季節の移ろいを感じるたびにどこか心が穏やかになっていく。
だが今夜だけは、その静けさが少し落ち着かなかった。
「……トシ」
背後から、声がした。
振り向けば、ドミニクがゆっくりと近づいてくる。
一つに束ねた金の髪をほどき、今はゆったりとその背に流していた。
彼の顔は、心なしかいつもより少し緊張しているかのようにトシの目には見えていた。
「どうした?」
「いや……、もう寝る時間だろうと思って」
「そうだな。だが、寝付けなくてね」
トシが笑うと、ドミニクもわずかに微笑んだ。
二人がこの小さな家で暮らしはじめてから、まだ数週間ほどしか経っていない。
その生活は、これまでとさほど変わらなかった。
同じ机を挟んで仕事をし、同じ湯を沸かし、同じ食卓を囲む。
ただ夜だけが、これまでとは少し異なっていたのである。
同じ部屋で寝起きを共にするようになってからも、二人は互いに遠慮がちであったのだ。
触れれば壊れてしまいそうな、そのような静かな距離。
若かりし頃の恋のような焦燥も、激しく燃え上がるような情熱もない。
しかしその分だけ深く、息を呑むほどに慎ましい愛情が二人の間にはあったのだ。
「トシ」
「なんだい?」
「……君に、言いたいことがある」
ドミニクは一歩、近づいた。
月明かりがその青い瞳を照らし、その身の影が長く床に伸びていた。
その表情には、長年胸の奥に閉じ込めてきた想いの名残があったのだ。
「俺は、君の隣でこうして暮らせることが、……ただただ嬉しい」
「……そうか」
「だが、時々思う。君の手に触れるたびに、もっと……君の心に近づきたくなる」
その言葉に、トシの胸が小さく鳴った。
どのような相手にも動じることのないこの男が、まるで少年のように迷いながら言葉を探している。
思わず愛おしさが込み上げて、トシは目尻を下げていた。
「ドミニク……」
「無理に、応えなくてもいい。俺は、ただそれを伝えたかっただけだ」
トシは席を立ち、静かにドミニクへと歩み寄る。
「君がそんな顔をするのは、初めて見るな」
「……緊張しているんだ」
「理由は?」
「君が、あまりにも穏やかに笑うからだ。トシ……」
その言葉を耳に入れて、トシはふっと笑っていた。
「年寄りの笑みなど、珍しくもないだろうに」
「違う。君が笑うと、……世界が、落ち着くような気がするんだ」
そのように言われたのは、トシにとっても生まれて初めてのことであった。
若かりし頃、前世を生きていた時でさえ、そのようなことを言われた記憶はなかった。
思わず照れくさくなり、視線を逸らしてしまう。
だが次の瞬間、ドミニクの手がそっとトシの頬に触れた。
「触れても、いいか」
トシは、少しの間だけ目を閉じた。
答えを言葉にする代わりに、わずかに頷いてみせたのだ。
その仕草が、すべての返事でもあったのだ。
ドミニクの指先が、静かに頬をなぞる。
長年、仕事で酷使したその手。
それが今は、壊れ物を扱うかのように優しくもあったのだ。
「……思ったよりも、君の手は冷たいんだな」
「緊張しているのは、君のほうだろう?」
「かもしれないな、ドミニク」
互いに小さく笑い合う。
だがその笑いはすぐに消え、沈黙が落ちた。
二人の呼吸の音だけが、夜の空気を震わせていた。
そして、ドミニクはわずかにその身を傾けた。
トシの唇が目の前にある。
静かに唇を重ねて、そっとその身を引いた。
触れたのは、ほんのわずかな瞬間であった。
柔らかく、しかし確かに唇は重なった。
長い人生で初めて、互いが心の底から誰かと愛を交わした瞬間でもあったのだ。
トシが目を開けた時、ドミニクは目を逸らしていた。
「……すまない。つい、……」
「謝ることはないさ」
「だが、君が……」
「いいんだ。ドミニク」
トシは穏やかに、微笑んでみせた。
その瞳には驚きも、戸惑いもなかった。
ただ、深い慈しみの光が宿っていたのであった。
「こんな気持ちは、初めてだ。……若い頃には、わからなかっただろうな」
「どんな気持ちだ?」
「心が、静かに満たされる。まるで窓辺で温かい茶をすするような……」
その言葉に、ドミニクは小さく笑った。
「実に、君らしい例えだな」
「年寄りだからな」
「その年寄りを、俺は世界で一番愛している。トシ、君は俺のすべてだ」
その言葉に、トシもまた照れくさそうに目を逸らした。
「……まったく、君は昔から大げさだな」
「本気だ」
ドミニクはいま一度、そっと唇を寄せた。
今度は、少しだけ長く。
呼吸が重なり、互いの温もりが混ざり合う。
唇の隙間から漏れでる吐息に、かすかな笑みが交ざっていく。
「ドミニクも、俺のすべてだよ。君こそが、俺の未来だ」
それは長い年月を経てようやく見つけた、安らぎのような口づけでもあったのだ。
やがて二人は、並んで眠りにつく
ドミニクが灯りを落とし、トシが静かに横たわる。
「……こうしてトシと一緒に眠るのも、まだ慣れないな」
「そうだな」
「嫌ではないか?」
「むしろ、嬉しいさ。寝ても覚めてもドミニクがいる。心強いよ」
ドミニクはその返事に安堵したように微笑んだ。
互いに、その手を握り合う。
外の風の音が、やわらかく響いていた。
「トシ」
「うん?」
「君の手を、離しはしない」
「離すなよ。……風邪をひいてしまっては、いけないからな」
「はは、相変わらずだ」
笑いながら、二人はそのまま静かに目を閉じた。
火が消えたあとも、互いの温もりだけが部屋に残っていた。
夜は深く、やがて月が窓を照らした。
その光の中で、二人の指は絡まったまま、決してほどけるようなことはなかった。
END




