年とともに愛を重ねていく(完)
春の風が、町の屋根瓦をなでていく。
市場には新しい布が並び、子どもたちの笑い声が賑やかに響いていた。
その喧騒を離れた小高い丘の上で、トシとドミニクは住まいを構えていた。
二人で興した事業は今や町でも評判で、工房では日夜弟子や若い職人たちが汗を流していた。
トシは引退を考えつつも、未だに現場を離れようとはしなかった。
ドミニクはそのような彼の姿を見守りながら、帳簿を整え、茶を淹れた。
「トシ、茶の時間だ」
「わかったよ」
長年の暮らしは、いつのまにか息を合わせた呼吸であるかのように、二人にとっては自然で当たり前のものになっていた。
工房を出て、二人で並んで丘へと向かう。
小さな家ではあったが、二人にとっては何よりもあたたかな心安らぐ場所でもあったのだ。
相も変わらず並んで座り、食卓を囲む。
夜は、同じ部屋で寝起きをしていた。
「……また夜更かしかい、トシ」
「すぐ終わる。明日の仕入れを、いまいちど確認しておきたいんだ」
「君は、昔から変わらないな」
「君だって、俺のことを見張っているじゃないか」
そう、トシは茶をすすりながら笑った。
その笑顔を見るたびに、ドミニクの胸は今でも熱くなる。
若かりし頃よりもずっと穏やかで、深く静かな愛がそこにはあったのだ。
そして、眠りにつく時は必ずその手を繋いでいた。
ともに皺が目立ちささくれ立ってはいるものの、何よりもあたたかな手であったのだから。
「……手を、いいか?」
「もちろん」
静かに指を絡めると、言いようのない安堵に包まれる。
「……年を取るというのも、決して悪くはないものだな」
「まったくだ。若い頃は、焦ってばかりだったよ」
「焦る必要なんて、なかった。こうして君に、愛を伝えることができるのだから」
「そうだな。ドミニク、ありがとう」
「礼を言うのは、俺のほうだ。トシ、ありがとう」
ふと笑みがこぼれ、二人はしばしそのまま目を閉じた。
長い年月を越えても、そのぬくもりは変わりはしない。
それは、愛の証でもあるのだから。
***
春が過ぎ、熱を含んだ風が吹きすさぶ夏が訪れた。
工房では今日も、弟子たちが元気に汗を流しながら声を上げていた。
「今日の納品は、もう終わりました!」
「ご苦労さま。あとは、任せたよ」
トシは微笑んで頷き、静かに椅子に腰を下ろした。
汗を拭うドミニクが隣に座り、二人で冷やした茶を飲み交わす。
「君がいなければ、ここまで続かなかったよ」
「いや、俺は君に引っ張られてここまで来ただけさ」
「そうだな。このやり取りも、もう何十年になるのだろうか……」
「よせ、数えたら老けたような気がする」
トシは笑いながら、ふとドミニクの横顔を見つめた。
その金髪は今やほとんどが白くなり、頬には皺が深く刻まれていた。
――そのすべてが、愛おしい。
前世では果たすことができずにいたその想いを、今世でようやくこの胸に抱くことができたのだ。
――愛することとは、寄り添い続けることでもあるのだな。
トシはその真実を、今になってようやく理解することができていた。
***
木々の葉が色づき、町に静けさが満ちるころ。
秋の肌寒い風が小高い丘に吹いていた。
トシは少しずつ、その身が弱くなっていた。
幸いにも大きな病をするようなことはなかったものの、歳を重ねたその身は確実にその歩みを緩めていた。
ドミニクはそのような彼の傍に、いつもいた。
仕事を減らし、時には看病をしながらも、決して悲しむような素振りは見せなかった。
絶えず穏やかな笑みを浮かべ、幾分か細くなった手を取っていた。
ある晩、トシが微睡の中でぽつりとつぶやいた。
「ドミニク、もし俺がいなくなっても……。ちゃんと生きてくれよ」
「縁起でもないことを言うな、トシ」
「約束だ。……俺のぶんまで、笑っていてくれ」
ドミニクは唇を噛みしめて、静かにうつむいた。
「そのような約束は、できないな」
「わがままだな」
「君に似たんだ」
二人は互いの目を見つめて、いつものように微笑みを交わしていた。
窓の外では、大きな月が静かに浮かんでいた。
その光が、二人の枯れ枝のような手を照らしていた。
***
冬が来た。
雪が降るその日の朝、トシは静かに目を閉じていた。
その顔には苦痛の色はなく、穏やかな安らぎだけがあったのだ。
「トシ……」
ドミニクはその手を握ったまま、掠れた声を絞り出していた。
トシの手はひどく冷たく、それでもどこか温かかった。
最後の夜、トシは微笑んでこう言った。
「幸せだったよ、ドミニク。……本当に、ありがとう」
その言葉が、ドミニクの胸に深く刻まれていたのであった。
それから、幾年かが過ぎていた。
丘の上の小さな家は、今も穏やかに息づいている。
港に近い工房では若い弟子たちが仕事を続け、その片隅には二人の描いた設計図が大切に残されていた。
ドミニクは毎朝、窓際に茶を用意していた。
あたたかな湯気が立ちのぼり、静かな風が頬をなでる。
――まるで、あの日のようだ。
茶をすすりながら、彼は微笑む。
「トシ。今日も、いい日だ」
その声に応えるかのように、一羽の鳥が鳴いていた。
――この愛は、決して消えることはない。共に過ごした時が、この世界に静かに残っているのだから。
そう信じながら、ドミニクは静かに目を閉じた。
そしてまた、柔らかな風がその身を包み込むのであった。
END
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
この後は番外編が続きます。




