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五十にして愛を知る  作者: 陽花紫


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4/5

年とともに愛を重ねていく(完)

 春の風が、町の屋根瓦をなでていく。


 市場には新しい布が並び、子どもたちの笑い声が賑やかに響いていた。

 その喧騒を離れた小高い丘の上で、トシとドミニクは住まいを構えていた。


 二人で興した事業は今や町でも評判で、工房では日夜弟子や若い職人たちが汗を流していた。

 トシは引退を考えつつも、未だに現場を離れようとはしなかった。


 ドミニクはそのような彼の姿を見守りながら、帳簿を整え、茶を淹れた。


「トシ、茶の時間だ」

「わかったよ」


 長年の暮らしは、いつのまにか息を合わせた呼吸であるかのように、二人にとっては自然で当たり前のものになっていた。


 工房を出て、二人で並んで丘へと向かう。

 小さな家ではあったが、二人にとっては何よりもあたたかな心安らぐ場所でもあったのだ。

 相も変わらず並んで座り、食卓を囲む。

 夜は、同じ部屋で寝起きをしていた。


「……また夜更かしかい、トシ」

「すぐ終わる。明日の仕入れを、いまいちど確認しておきたいんだ」

「君は、昔から変わらないな」

「君だって、俺のことを見張っているじゃないか」


 そう、トシは茶をすすりながら笑った。

 その笑顔を見るたびに、ドミニクの胸は今でも熱くなる。


 若かりし頃よりもずっと穏やかで、深く静かな愛がそこにはあったのだ。


 そして、眠りにつく時は必ずその手を繋いでいた。

 ともに皺が目立ちささくれ立ってはいるものの、何よりもあたたかな手であったのだから。


「……手を、いいか?」

「もちろん」


 静かに指を絡めると、言いようのない安堵に包まれる。


「……年を取るというのも、決して悪くはないものだな」

「まったくだ。若い頃は、焦ってばかりだったよ」

「焦る必要なんて、なかった。こうして君に、愛を伝えることができるのだから」

「そうだな。ドミニク、ありがとう」

「礼を言うのは、俺のほうだ。トシ、ありがとう」


 ふと笑みがこぼれ、二人はしばしそのまま目を閉じた。

 長い年月を越えても、そのぬくもりは変わりはしない。

 それは、愛の証でもあるのだから。


***


 春が過ぎ、熱を含んだ風が吹きすさぶ夏が訪れた。


 工房では今日も、弟子たちが元気に汗を流しながら声を上げていた。

「今日の納品は、もう終わりました!」

「ご苦労さま。あとは、任せたよ」


 トシは微笑んで頷き、静かに椅子に腰を下ろした。

 汗を拭うドミニクが隣に座り、二人で冷やした茶を飲み交わす。


「君がいなければ、ここまで続かなかったよ」

「いや、俺は君に引っ張られてここまで来ただけさ」

「そうだな。このやり取りも、もう何十年になるのだろうか……」

「よせ、数えたら老けたような気がする」


 トシは笑いながら、ふとドミニクの横顔を見つめた。

 その金髪は今やほとんどが白くなり、頬には皺が深く刻まれていた。


 ――そのすべてが、愛おしい。


 前世では果たすことができずにいたその想いを、今世でようやくこの胸に抱くことができたのだ。


 ――愛することとは、寄り添い続けることでもあるのだな。


 トシはその真実を、今になってようやく理解することができていた。


***


 木々の葉が色づき、町に静けさが満ちるころ。

 秋の肌寒い風が小高い丘に吹いていた。


 トシは少しずつ、その身が弱くなっていた。

 幸いにも大きな病をするようなことはなかったものの、歳を重ねたその身は確実にその歩みを緩めていた。


 ドミニクはそのような彼の傍に、いつもいた。

 仕事を減らし、時には看病をしながらも、決して悲しむような素振りは見せなかった。

 絶えず穏やかな笑みを浮かべ、幾分か細くなった手を取っていた。


 ある晩、トシが微睡の中でぽつりとつぶやいた。

「ドミニク、もし俺がいなくなっても……。ちゃんと生きてくれよ」

「縁起でもないことを言うな、トシ」

「約束だ。……俺のぶんまで、笑っていてくれ」


 ドミニクは唇を噛みしめて、静かにうつむいた。

「そのような約束は、できないな」

「わがままだな」

「君に似たんだ」


 二人は互いの目を見つめて、いつものように微笑みを交わしていた。


 窓の外では、大きな月が静かに浮かんでいた。

 その光が、二人の枯れ枝のような手を照らしていた。


***


 冬が来た。

 雪が降るその日の朝、トシは静かに目を閉じていた。

 その顔には苦痛の色はなく、穏やかな安らぎだけがあったのだ。


「トシ……」


 ドミニクはその手を握ったまま、掠れた声を絞り出していた。

 トシの手はひどく冷たく、それでもどこか温かかった。


 最後の夜、トシは微笑んでこう言った。


「幸せだったよ、ドミニク。……本当に、ありがとう」


 その言葉が、ドミニクの胸に深く刻まれていたのであった。



 それから、幾年かが過ぎていた。

 丘の上の小さな家は、今も穏やかに息づいている。


 港に近い工房では若い弟子たちが仕事を続け、その片隅には二人の描いた設計図が大切に残されていた。


 ドミニクは毎朝、窓際に茶を用意していた。


 あたたかな湯気が立ちのぼり、静かな風が頬をなでる。


 ――まるで、あの日のようだ。


 茶をすすりながら、彼は微笑む。


「トシ。今日も、いい日だ」


 その声に応えるかのように、一羽の鳥が鳴いていた。


 ――この愛は、決して消えることはない。共に過ごした時が、この世界に静かに残っているのだから。


 そう信じながら、ドミニクは静かに目を閉じた。


 そしてまた、柔らかな風がその身を包み込むのであった。


END

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

この後は番外編が続きます。

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