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五十にして愛を知る  作者: 陽花紫


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3/6

五十にして愛を知る

 冬の訪れを告げる風が、白い石畳をなでていく。


 港町の空は灰色に沈み、海鳥が低く鳴いていた。

 その音を耳に入れながら、トシは湯気の立つ茶を口へと運ぶ。


 もう、五十を過ぎた。

 手の皺も増え、近頃は物も見えにくくなった。

 鏡の中を覗けば、黒い髪にはいくつもの白いものが混ざっていた。

 それでも背筋は真っ直ぐに伸び、瞳にはまだ若い頃の明るさが宿っていたのであった。


 隣の机では、ドミニクが書類に目を通していた。

 彼もまた、五十代。

 しかし、青年のような若々しさを保っていた。

 年を重ねても尚、その瞳の青は澄んだままで、声の張りも変わらずにあった。


 共に事業を起こして、二十年余りの月日が流れていた。

 気づけば、婚期というものはとっくに過ぎ去った。

 周囲からは仕事に生きる男たちと呼ばれてもいたが、二人にとってそれは悪くもない響きであったのだ。


 だがその言葉の裏にある寂しさを、ドミニクだけは知っていた。

 自らが結婚という選択をとらなかったのは、ただ一途にある人物を想い続けていたからなのである。

 その人物は、ずっと彼の隣にいた。


***


「トシ、少し散歩でもしないか」

「何を言うんだ、外は寒いぞ?」

「いいから。……今日は、君と歩きたい気分なんだ」


 そう言って、ドミニクは外套を手渡した。

 工房から外へ出ると、薄暗いなかに灯がひとつ、またひとつと灯りはじめていた。


 冬の夜はとても静かで、二人の足音だけが響いていた。


 並んで歩くその距離は、まるで長年連れ添った夫婦のようでもあったのだ。

 互いに言葉は少なくても、その沈黙が心地よい。


 トシは息を吐きながら、ちらりと隣を見遣った。

「……どうしたんだ、ドミニク。今日の君は、少し変だぞ」

「そう見えるか?」

「ああ、いつもよりずっと。まるで、答えのでない謎を解いているかのような顔をしている」

 その言葉に、ドミニクは立ち止まる。


 あたたかな灯りが、二人の影を長く伸ばしていた。

 冷ややかな風が、二人の間を静かに流れていく。


「トシ。ずっと、言えなかったことがある」

 ドミニクのその声には、いつもの穏やかさがなかった。

 いつもより光を抑えたその青い瞳を見つめて、トシは静かに瞬きをした。

「……なんだい?」


「俺は、君のことが好きなんだ。昔から、ずっと……」


 息が、止まるようでもあった。

 決して、ドミニクは冗談を言うような男ではない。

 そのことは、誰よりもトシがよく知っていた。


 ドミニクの青い瞳は、トシの心を覗くかのようにかすかに揺れていた。


「子どもの頃から、君と過ごす時間が俺のすべてだった。君が笑えば嬉しくて、君が疲れた顔をみせれば世界が暗くなった。……俺は、君のことを友人だなんて思えない。どうか、俺の……家族になってほしい」


 トシの胸の奥に、冷たい風が吹き抜ける。

 そのあとで、どうしようもなくあたたかな熱がこみ上げてきた。


「ドミニク……」


 トシは言葉を続けることが、できずにいた。

 思わず、目を伏せてしまう。


 長年の友の顔を、見つめることができなかった。

 まさか自らがそのように見られていたなど、思いもよらなかったのだ。

 人生の半分以上を彼と共に過ごしてきて、その想いに気づけずにいた。


 しかしドミニクの優しさやその言葉に何度も救われ、助けられてきていた。

 熱い瞳に、自らを支える大きな手。

 その優しさにまさかとは思いながらも、トシはただ友情の証であるのだからと思うようにもしていたのだ。


 申し訳なさと戸惑いと、ほんの少しの温もりが入り混じり、トシは胸の奥で静かに震えた。

 再び視線を戻せば、ドミニクは眉間に皺を寄せていた。


「……君は、ずっと……俺のことを……?」

「ずっとだ」


 深く頷き、吐き出されたその言葉にトシもまた同じように眉を寄せていた。

 そして、考える。

 なぜ、今なのかと。

 なぜ、今でなくてはならなかったのかと。


「なぜ、もっと早く言わなかった」

「言えるはずがない!君は、優しい男だ。断られても、どうせ俺の隣にいてくれることはわかっていた。……仕事が生き甲斐で、いつでも今が一番幸せだと言っていた。その幸せを、俺は壊したくはなかった」


 ドミニクは、静かに笑った。


「だが、もう限界だ。今日まで、俺は耐えに耐え抜いた。君と共に歩んできたこの時間を、言葉より大切にしたかった。確かなものに、したいんだ……」


 トシはしばらく口を閉ざし、やがて小さく息を吐いた。


「……すまないが、今すぐに答えを出すことはできない」

「わかっている、それを承知で伝えた」


 その言葉に、かすかな笑みを浮かべた。


「だけど……、ありがとう。ドミニク。俺みたいな男を、想ってくれていて」


 ドミニクもまた、わずかに口元を上げて頷いた。


「返事は、気が向いた時でいい。俺は、いつまでも待っている」


 その夜、二人は無言で帰った。

 いつものように同じ屋根の下に入り、同じ食卓に座りながら。

 しかし互いの視線が、一度も交わるようなことはなかった。


***


 あの夜の告白から、数日が過ぎていた。

 トシは仕事の合間も、ドミニクの言葉が頭から離れるようなことはなかった。


 好意を向けられていたという嬉しさと同時に、罪悪感のようなものが胸の奥で芽生えていた。


 自らの存在によって、彼の輝かしい青春やあるべきはずであった未来を奪ってしまったのではないのかと。

 そのせいで結婚もせず家庭も持たず、ただ自らのことを想ってくれていたのだとしたら。

 そう思うと、やりきれなくなりため息をこぼすばかりであった。


 夜、帳簿を閉じて灯りを落とす。


 窓の外には、大きな月が浮かんでいた。

 ふと、前世の妻の存在を思い出す。

 若くして亡くなった彼女に、自らは心からの愛を伝えることができなかった。


 ――もし、あのときに戻れるのなら。


 もう一度、誰かを愛することができる機会があるというのなら。


 ――今度こそ、正直でいたい。


 そのような思いが、静かに胸の奥へと沈んでいった。


***


 翌日、トシは早めに自らの仕事を切り上げて、港へと向かっていた。


「あの時の返事をしようと思うんだ。港で待つ」


 呆気にとられるドミニクにそう言い残して、トシは足早に石畳を進んでいた。

 返事をする前に、心の準備がしたかった。

 もし工房で返事をすれば、互いにその後のことが何も手につかないと思ったからだ。


 冷たい潮風が、さわりと頬をなでていた。

 ほどなくして、ドミニクが追いかけてきた。


「探したよ、トシ。港だけではわからないよ」

「すまないな」


 二人は、桟橋に並んで立っていた。

 夕陽が海に沈みかけ、空を茜色に染めていた。


「この前のことだが……」


 トシは、深く息を吸った。


「最初は、驚いた。……だが、君があんな真剣な顔で言うものだから、俺はずっと考えていたんだ」

「トシ……」

「俺は、鈍い男だ。恋だの愛だの、どう扱えばいいのかもわからない。でも、君のいない日々が想像できないことに気づいたんだ。君の言葉を聞いてから、ようやくわかったよ」


 その言葉に、ドミニクの瞳がゆっくりと見開かれた。

 トシは、目尻を下げて微笑んだ。


「ドミニク。俺も、君のことが特別なんだ」


 その瞬間、海風が強く二人の間を通り抜けていく。

 波の音が、まるで二人の身を祝福するかのように寄せては返していた。


 ドミニクは一歩近づき、震える声でこう告げた。

「……本当に、いいのか?」

「いいも悪いもないさ。俺の心が、そう言っているんだから」


 次の瞬間、ドミニクはトシの身を静かに強く抱きしめた。

 深い抱擁、それはまるで一面に広がる海のようでもあったのだ。


 互いの体温を確かめるかのように、ただ長く、長く抱きしめ合う。


 「トシ……、ありがとう」

 「こちらこそ。遅くなって、すまなかったな」


 海はいつまでも、二人の男を静かに見守っていた。



 その夜、二人は初めて同じ部屋で語り明かした。

 若かりし日の思い出、仕事での苦労、そしてこれからのことを。


 語りながら、ドミニクはそっとトシの手を取る。

 その手を握り返したとき、トシは自らの胸の奥で、何かが静かにほどけていくのを感じていた。


 ――愛は、決して若さではなく、真心の上に咲くものなのだな。


 そう思いながら、トシは微笑んだ。

 ドミニクもまた、静かに笑みを返していた。


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