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五十にして愛を知る  作者: 陽花紫


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2/5

友情と恋のはざまで

 昼下がりの工房には、機械の音と紙をめくる音とが混ざり合っていた。


 陽が差しこむ窓際で、その日トシは黙々と帳簿をつけていた。

 筆先を走らせる音が規則正しく響き、その隣ではドミニクが設計図に鉛筆を走らせていた。


 二人で興した新しい事業。

 それは、織物に用いる染料を改良し、より発色のよい布を生み出す取り組みであったのだ。


 今や町でも注目を集め、多くの人々が若き二人の青年に期待の目を向けていた。


「ここをもう少し薄めたら、光の加減で柔らかく見えると思うのだが……。トシ、どう思う?」

 と、ドミニクが顔をあげた。

 トシは手を止めて、ドミニクの手元を覗き込む。


「なるほど、確かに。けれど……コストが少し嵩むな」

「そうか……」

「……悩むところだが、それでもいいと思う。品質を落とすよりは、誠実でいたい」

 そう微笑むトシの横顔を、ドミニクは何度目かわからないほどに見つめていた。


 静かな光に照らされた艶のある黒髪。皺のない額。

 どこか落ち着き払っていて、しかし実年齢よりも遥かに年上であるように見えるその雰囲気が、昔から好きだった。


 最初は、ただの憧れであった。

 幼い頃から、自らよりも穏やかで聡明なトシの振る舞いに惹かれていた。

 彼の一言で人々は笑い、彼の沈黙により場が静まる。

 まるで周りの空気を操るかのようなその落ち着きに、少年だったドミニクはただただ心を奪われていた。


 いつしかそれは、単なる憧れではなくなっていた。

 ほんの少し手が触れただけでも、この胸はひどく高鳴る。

 その声を耳にするだけで、不思議と一日が明るくなる。

 気づけばトシのいない時間が、どこか欠けて感じられるようにもなっていた。


***


「トシ、疲れていないか?」

「うん?……そう見えるかい?」

「見える。目の下が、少し暗い」

 ドミニクはそう言って、トシの手にある書類の束を奪い取る。

「少しは休め。君は昔から人の心配ばかりで、自らのことを後回しにする人間だからな」

 その言葉に、トシは苦い笑みを浮かべる。

 ドミニクはいつも、トシのことを気遣っていたのだ。

「そういうところ、昔から変わらないな」

「君もな」

「はは、確かに」

 二人の笑い声が、工房の中に柔らかく響いていく。


 外では子どもたちのはしゃぐ声や、商人たちの呼び声が絶えず飛び交っていた。

 トシはほうと息をついて、静かに立ち上がった。


「ちょうどいい、茶の時間にしよう」

「……わかった」


 ドミニクも悩ましげに息をつきながら、湯が沸くのを待っていた。

 穏やかさの中で、ドミニクの胸は少しずつ痛んでいたのだ。


 この時間が、いつかは終わってしまうのではないかと。

 トシが、誰か別の人と家庭を持つのではないかと。

 淹れたての熱い茶をすすりながら、ドミニクは静かに唇を開いた。


「……トシ」

「なんだい?」

「君は……、結婚を考えたことがあるか?」

 その突然の問いに、トシはわずかに目を瞬かせた。

「俺が、結婚?」

「そうだ。俺たちは、もう二十をとうに過ぎている。周りはみんな、家庭を持ちはじめる年頃でもある」

「そうだな。……どうだろう。あまり、想像がつかないな」

 トシは少し首を傾げて笑う。

 そして短く息を吐いて、こう告げた。


「俺は、今のままでいいと思っている。仕事が何より楽しいからな。それに、父さん母さんもまだ元気だ。焦る理由がない」

 その言葉に、ドミニクの胸の奥が小さくざわめいた。


 ――では、このまま俺のそばにいてくれるのだろうか。


 そのような言葉が喉まで出かけて、寸でのところで呑み込んだ。

 代わりに、いつもの穏やかな調子で笑みを浮かべた。


「……そうか。君らしいな」

「そう言う君のほうこそ、どうなんだ?いい相手でも、いないのかい?」

「俺も……、今は仕事が恋人みたいなものさ」

 その瞬間、トシは目尻を下げて優しく笑う。

「それも、悪くないだろう」


 ――その笑みが、たまらなく愛おしいものであるかのように思えていた。


***


 それから、年月は風のような速さで過ぎていく。

 町はますます発展し、二人の事業も軌道に乗っていた。


 気づけば三十代四十代と年を重ねても、二人は一度も離れることはなかったのだ。


 どれほど忙しくても、互いの食事の時間を合わせ、夜は一緒に帳簿をつける。

 気づけば二人の暮らしは、夫婦にも似た安定感を持っていた。


 だが、人の目は正直なものであった。


 「いつまであの二人は独り身でいるつもりなんだ」


 「仲が良いにもほどがある」


 そのような心無い声が、時折耳に入る。

 それをトシは、笑って受け流していた。

「好きなように、言わせておけばいい」

 しかしドミニクの胸には、小さな棘が刺さったままであったのだ。



 ある日、トシが客先で足を滑らせ、軽く膝を痛めていた。

 その知らせを受けたドミニクは、仕事を放り出してすぐさま駆けつけていた。


「トシ!」


 驚く人々の視線も構わず、彼はトシの肩を抱きかかえ支えていた。


 静かに歩きながら、肩を組んで工房へと戻る。


「……大丈夫だ。少し、ほんの少し打っただけさ」

「一体、何をしてるんだ!……君がいなくなってしまったら、俺はどうすればいい」

 言い終えて、自らの言葉にふと気づく。

 トシもまた、目を丸くしながらもわずかに頬を赤く染めていた。

「……大げさだな、君は。俺は、まだここにいるじゃないか」

「そうだな。……ああ、そうだな」


 肩を軽くその手に、ミニクは安堵の息を漏らしていた。

 そして、自らの手を重ねた。

 トシの手を離すことができず、しばらくの間、ドミニクはその温もりを確かめるように握りしめていた。


***


 夜になり。

 私室で湯を沸かしながら、トシはぼんやりと考えていた。


 ――あの時のドミニクの声は、まるで恋人の身を案ずるようなものだった。


 そのようなことを思い返し、まさかと静かに首を振った。


 彼は、友人だ。

 長い年月を共に過ごしてきた、かけがえのない相棒のような存在でもあったのだ。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 しかしその胸の奥に、わずかに残った熱がトシの心を乱していた。


 彼の笑顔を思い出すたびに、なぜだか胸があたたかくなる。

 けれどその感情に名をつけるには、まだ勇気が足りなかった。


 長く息を吐いて、熱い茶をその身に流し込む。



 この時のトシは、まだ知らない。

 この先、五十を迎えたある夜、ドミニクがその想いをついに口にしてしまうことを。


 そしてその日から、二人の関係が静かに、確かに変わりはじめることを。


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