友情と恋のはざまで
昼下がりの工房には、機械の音と紙をめくる音とが混ざり合っていた。
陽が差しこむ窓際で、その日トシは黙々と帳簿をつけていた。
筆先を走らせる音が規則正しく響き、その隣ではドミニクが設計図に鉛筆を走らせていた。
二人で興した新しい事業。
それは、織物に用いる染料を改良し、より発色のよい布を生み出す取り組みであったのだ。
今や町でも注目を集め、多くの人々が若き二人の青年に期待の目を向けていた。
「ここをもう少し薄めたら、光の加減で柔らかく見えると思うのだが……。トシ、どう思う?」
と、ドミニクが顔をあげた。
トシは手を止めて、ドミニクの手元を覗き込む。
「なるほど、確かに。けれど……コストが少し嵩むな」
「そうか……」
「……悩むところだが、それでもいいと思う。品質を落とすよりは、誠実でいたい」
そう微笑むトシの横顔を、ドミニクは何度目かわからないほどに見つめていた。
静かな光に照らされた艶のある黒髪。皺のない額。
どこか落ち着き払っていて、しかし実年齢よりも遥かに年上であるように見えるその雰囲気が、昔から好きだった。
最初は、ただの憧れであった。
幼い頃から、自らよりも穏やかで聡明なトシの振る舞いに惹かれていた。
彼の一言で人々は笑い、彼の沈黙により場が静まる。
まるで周りの空気を操るかのようなその落ち着きに、少年だったドミニクはただただ心を奪われていた。
いつしかそれは、単なる憧れではなくなっていた。
ほんの少し手が触れただけでも、この胸はひどく高鳴る。
その声を耳にするだけで、不思議と一日が明るくなる。
気づけばトシのいない時間が、どこか欠けて感じられるようにもなっていた。
***
「トシ、疲れていないか?」
「うん?……そう見えるかい?」
「見える。目の下が、少し暗い」
ドミニクはそう言って、トシの手にある書類の束を奪い取る。
「少しは休め。君は昔から人の心配ばかりで、自らのことを後回しにする人間だからな」
その言葉に、トシは苦い笑みを浮かべる。
ドミニクはいつも、トシのことを気遣っていたのだ。
「そういうところ、昔から変わらないな」
「君もな」
「はは、確かに」
二人の笑い声が、工房の中に柔らかく響いていく。
外では子どもたちのはしゃぐ声や、商人たちの呼び声が絶えず飛び交っていた。
トシはほうと息をついて、静かに立ち上がった。
「ちょうどいい、茶の時間にしよう」
「……わかった」
ドミニクも悩ましげに息をつきながら、湯が沸くのを待っていた。
穏やかさの中で、ドミニクの胸は少しずつ痛んでいたのだ。
この時間が、いつかは終わってしまうのではないかと。
トシが、誰か別の人と家庭を持つのではないかと。
淹れたての熱い茶をすすりながら、ドミニクは静かに唇を開いた。
「……トシ」
「なんだい?」
「君は……、結婚を考えたことがあるか?」
その突然の問いに、トシはわずかに目を瞬かせた。
「俺が、結婚?」
「そうだ。俺たちは、もう二十をとうに過ぎている。周りはみんな、家庭を持ちはじめる年頃でもある」
「そうだな。……どうだろう。あまり、想像がつかないな」
トシは少し首を傾げて笑う。
そして短く息を吐いて、こう告げた。
「俺は、今のままでいいと思っている。仕事が何より楽しいからな。それに、父さん母さんもまだ元気だ。焦る理由がない」
その言葉に、ドミニクの胸の奥が小さくざわめいた。
――では、このまま俺のそばにいてくれるのだろうか。
そのような言葉が喉まで出かけて、寸でのところで呑み込んだ。
代わりに、いつもの穏やかな調子で笑みを浮かべた。
「……そうか。君らしいな」
「そう言う君のほうこそ、どうなんだ?いい相手でも、いないのかい?」
「俺も……、今は仕事が恋人みたいなものさ」
その瞬間、トシは目尻を下げて優しく笑う。
「それも、悪くないだろう」
――その笑みが、たまらなく愛おしいものであるかのように思えていた。
***
それから、年月は風のような速さで過ぎていく。
町はますます発展し、二人の事業も軌道に乗っていた。
気づけば三十代四十代と年を重ねても、二人は一度も離れることはなかったのだ。
どれほど忙しくても、互いの食事の時間を合わせ、夜は一緒に帳簿をつける。
気づけば二人の暮らしは、夫婦にも似た安定感を持っていた。
だが、人の目は正直なものであった。
「いつまであの二人は独り身でいるつもりなんだ」
「仲が良いにもほどがある」
そのような心無い声が、時折耳に入る。
それをトシは、笑って受け流していた。
「好きなように、言わせておけばいい」
しかしドミニクの胸には、小さな棘が刺さったままであったのだ。
ある日、トシが客先で足を滑らせ、軽く膝を痛めていた。
その知らせを受けたドミニクは、仕事を放り出してすぐさま駆けつけていた。
「トシ!」
驚く人々の視線も構わず、彼はトシの肩を抱きかかえ支えていた。
静かに歩きながら、肩を組んで工房へと戻る。
「……大丈夫だ。少し、ほんの少し打っただけさ」
「一体、何をしてるんだ!……君がいなくなってしまったら、俺はどうすればいい」
言い終えて、自らの言葉にふと気づく。
トシもまた、目を丸くしながらもわずかに頬を赤く染めていた。
「……大げさだな、君は。俺は、まだここにいるじゃないか」
「そうだな。……ああ、そうだな」
肩を軽くその手に、ミニクは安堵の息を漏らしていた。
そして、自らの手を重ねた。
トシの手を離すことができず、しばらくの間、ドミニクはその温もりを確かめるように握りしめていた。
***
夜になり。
私室で湯を沸かしながら、トシはぼんやりと考えていた。
――あの時のドミニクの声は、まるで恋人の身を案ずるようなものだった。
そのようなことを思い返し、まさかと静かに首を振った。
彼は、友人だ。
長い年月を共に過ごしてきた、かけがえのない相棒のような存在でもあったのだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
しかしその胸の奥に、わずかに残った熱がトシの心を乱していた。
彼の笑顔を思い出すたびに、なぜだか胸があたたかくなる。
けれどその感情に名をつけるには、まだ勇気が足りなかった。
長く息を吐いて、熱い茶をその身に流し込む。
この時のトシは、まだ知らない。
この先、五十を迎えたある夜、ドミニクがその想いをついに口にしてしまうことを。
そしてその日から、二人の関係が静かに、確かに変わりはじめることを。




