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五十にして愛を知る  作者: 陽花紫


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1/5

生まれ変わった老人

 風にのって、深い茶の香りが流れていく。

 湯呑を傾けたまま、老いた男はふと目を閉じた。

 陽の光は縁側を金色に染め、庭の梅が静かに花びらを落としていた。


 非常に長い、人生だった。

 人に恵まれ、妻に恵まれ、ささやかな幸せを噛みしめて過ごしたこの八十年。


 ――決して、悪くない人生だった。


 そう微笑んだ瞬間に、湯呑が指の間から滑り落ちて男は静かに天へと召された。



 しかし、その生涯はこれだけでは終わらなかったのである。

 次に目を覚ましたとき、世界はまるで違っていた。


 見慣れぬ天井に、その空気。

 木の梁には細やかな彫刻が施され、窓の外には白い石畳の道が続いていた。

 どこか部屋の片隅で、一人の女が赤子を抱いて泣き笑いしている。

 そしてその隣では、一人の男が女の肩に手を置いて優しく微笑んでいる。


 ――これは、夢なのだろうか。


 しかし、夢などではなかったのだ。

 赤子の喉からこぼれた泣き声が自らのものであると気づいたときに、彼は悟った。

 生まれ変わったのだと。

 この見知らぬ世界に。


 母の腕に抱かれながら、彼はぼんやりと思う。

 前世の名は、”俊夫”、トシオだったような気がする。

 そして今世で呼ばれたその名は、”トシ”であった。

 どこか因果めいた偶然に、赤子の心で小さく笑った。

 父は大いに喜んで、母もまた静かに額に口づけをした。


***


 トシが育ったのは、港町にほど近い商家であった。

 父は布商を営み、母は帳簿をつける手伝いをしながら穏やかに家を守っていた。


 西洋と東洋が交わる文化の風が町を包み、港からは異国の香りが流れこんでくる。


 物心ついたときから、トシは周りの子供たちとはどこか違っていた。

 流行りの遊びにも興味を示さず、日がな一日、縁側で熱い茶をすする。

 父母が心配して声をかけると、トシは大人びた笑顔でこう告げるのであった。


「父さん、母さん。少しは休んだほうがいいよ。疲れは、知らないうちに溜まるんだ」


 年端もいかぬ子供が、まるで年寄りであるかのような口ぶりをする。

 それは近所では”じじくさい”と笑われてもいたが、誰も彼を嫌うような者はいなかった。

 穏やかで礼儀正しく、そして何より人の痛みによく気づく少年。


 ある晩、母が熱を出したときのこと。

 父が心配して湯を沸かしていると、トシは自らの手で冷たい布をしぼり、そっと母の額に当てていた。

 その手つきはまるで母の年老いた父であるかのように、静かで優しいものであった。

 母は思わず涙ぐみ、その黒い髪を撫でて言った。


「ありがとう。……トシは、不思議な子ね」


 と、小さな声で呟いた。


 そのような穏やかな日々の中で、トシは少しずつ商家の仕事も覚えていった。

 帳簿を読み解くのも早く、その計算も正確なものでもあったからだ。


 十歳になる頃には、父の留守中に簡単な取引を任されることさえあったのだ。


「風変わりだが、心の優しい子だよ」


 それが、いつしか周囲の評価になっていた。


***


 出会いは、ある取引先でのことであった。

 父に連れられて訪れた先は、上等な織物を扱う商家であった。

 その家の息子がトシと同じ年頃の少年だと言うので、その日初めてトシは大きな取引の場に同席していた。


 少年の名は、ドミニクという。

 長く伸びた金色の髪を後ろで一つに結び、青い瞳には生まれつきの知性が宿っていた。

 大人たちが商談をしている間、トシはその少年に声をかけられていた。


「君、退屈してるだろ?裏庭に大きな木があるんだ、一緒に登らないか?」


 その言葉に、トシは思わず笑っていた。

 年齢のわりに穏やかすぎる彼にとって、木登りなど久しくしていなかったからだ。

 しかしドミニクの誘い方はどこか真っ直ぐで、トシの中に眠っていた少年らしさをくすぐった。


 二人は靴を脱ぎ捨て、裏庭の木によじ登る。

 枝の上から見る街の景色はいつもより高く、とても広いもののように見えていた。


「すごいな、ここで唄でも詠んだら一日では足りないな」


 そうトシが呟くと、ドミニクもまたくすりと笑みを浮かべてこう言った。


「君、まるで老人みたいだね。今どき、誰も詩なんか詠まないよ」


 トシは一瞬むくれたものの、すぐに苦い笑みを返した。


「よく言われるよ」


「でも、そうだな。やってみるのもいいかもしれない」


 その日を境に、二人の仲は親しくなっていく。

 取引の日には必ず顔を合わせ、休日には手を繋いで港へ釣りに出かけた。

 ドミニクは頭脳明晰で、何事にも興味を持っていた。

 トシはそのような彼の姿に感心しつつ、自らよりも幾分か若々しい感性に、少しの憧れを抱いていた。


「トシ、将来は何になりたい?」

「父さんみたいに商売ができたら、それで十分だよ」

「へぇ、堅実だね。僕は……、世界を見てみたい」

「世界、か……」


 ふわりと通り抜ける風に、長い金髪がさらりと揺れた。

 その横顔を、トシはふと見つめる。

 前世では目にしたことのなかった色。その、生き生きとした若さ。


 ――このような人生も、悪くはない。


 その日から、トシの胸の奥で何かが静かに動きはじめるのであった。


***


 季節がいくつも巡り、やがて二人は青年へと成長していく。


 町では産業が発達し、商人たちの勢力も変わりゆく。

 トシは家業を支えながらも、ドミニクの家と共同で新しい事業を始めることになっていた。


 同じ志を持ち、同じ夢を語り、共に歩む日々。

 その頃には、トシにとってドミニクは”親友”という言葉では足りない存在にへと変わっていた。


 だが、トシはまだ知らない。

 ドミニクの胸の奥に、友情とはまた違う別の熱が宿っているということを。


 それは長い年月を経ても消えることのない炎であるかのように、静かに燃え続けていたのであった。


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