第五十二話:闇への潜入
その夜、港湾地区は、濃い海霧に包まれていた。
月明かりも星の光も届かず、物音一つしない。それは、俺たちの潜入にとって、天が与えてくれた最高の舞台装置のようだった。
俺たちは、物音を立てない黒い夜間戦闘服に着替え、対岸の宿から手漕ぎの小舟で静かに海を渡った。
ヴァルクール鉱業社の倉庫の裏手、ちょうど死角になる桟橋に小舟を隠すと、俺たちは巨大な建物の壁に張り付く。
「……さすがに、警備は厳重だな」
バルガンが、ドワーフならではの鋭い視線で周囲を観察し、低い声で囁いた。
建物の要所要所には、屈強な傭兵が見張りに立っている。さらに、壁や窓には侵入者を感知するための魔法的な罠が幾重にも張り巡らされているのが、魔力の揺らぎで分かった。
「リリア、頼む」
「はい……!」
リリアは、懐から取り出したバルガン特製の解錠工具のセットに、そっと指を触れさせた。彼女の専門は、罠そのものを無力化するような広範囲魔術ではない。あくまで、物質に特殊な効果を『付与』することだ。
「――魔力の流れを乱す『撹乱の呪い(ディスターブ・カース)』を、この工具に」
リリアが小声で詠唱すると、金属製の工具が、ごく微かに、淡い光を帯びて揺らめいた。
この魔法は、工具が触れた先の、ごく狭い範囲の魔力の流れを一時的に麻痺させる効果を持つ。つまり、この工具で鍵をこじ開けている間だけ、その扉周辺の魔法罠は機能不全に陥るのだ。バルガンの技術と、リリアの魔法が合わさって、初めて成り立つ潜入計画だった。
俺とバルガンが、扉の前で息を潜める。
バルガンは、リリアが付与した特殊な工具を手に、ドワーフ製の複雑で頑丈な錠前と向き合った。
カチリ、カチリ、と。極小の金属音だけが、夜の闇に響く。
彼の指が、まるで生き物のように、目にも留まらぬ速さで動き、内部のピンを一つ、また一つと解除していく。工具が鍵穴の奥に触れるたび、扉に仕掛けられた魔法罠が、ジジ、と小さくノイズを立てて揺らめいているのが分かった。
時間は、永遠のように長い。
見張りの傭兵が、こちらに近づいてくる足音が聞こえる。
俺は、いつでも射出できるように、アイテムボックス内の石ころに意識を集中させた。
そして――
カシャリ、と。最後の部品が外れる、小気味よい音がした。
傭兵が角を曲がってくる、まさにその直前だった。
バルガンが、汗を拭うのももどかしく、扉を静かに押し開ける。
俺たちは、まるで影のように、その隙間から倉庫の内部へと滑り込んだ。
背後で扉を閉めた瞬間、俺たちが通り抜けた場所に、何も知らない傭兵が通り過ぎていく気配を感じる。
まさに、間一髪だった。
俺たちは、巨大な倉庫の、深い闇の中に立っていた。
鼻をつくのは、鉄と、油と、そして、微かな魔力の匂い。
ここが、敵の本拠地。
俺は、背後の仲間たちに視線で合図を送ると、この国の闇の中心へと、静かに、しかし確かな一歩を踏み出した。




