第百六話:終焉の玉座
リリアは、俺の腕の中で、静かな寝息を立てていた。
彼女が放った、あの最後の希望の光は、確かに道を切り拓いた。だが、その代償として、彼女の『星の意志』との繋がりは、一時的に断ち切られたようだった。彼女は今、ただの、傷つき、疲れ果てた一人の少女に戻っている。
「――アルク、前を見ろ!」
バルガンの、緊迫した声。
工房馬車のフロントガラスの向こう、地平線の果てに、俺たちは、それを見た。
天を突くほどの、巨大な、黒い竜巻。
いや、違う。あれは、この大地の全ての絶望と怨念が、一つの場所へと吸い上げられていく、巨大な渦だ。
俺たちの羅針盤も、もはや特定の位置を指してはいない。
その光は、あの黒い渦の中心で、まるで、消えかけては燃え上がる、最後の蝋燭の炎のように、激しく、不規則に、明滅を繰り返していた。
あそこが、最後の目的地。
最後の遺産が眠る場所。
そして、あの『影』がいる場所だ。
バルガンは、工房馬車の進路を、その黒い竜巻の中心へと、まっすぐに向けた。
『ブレイカー・ベース』は、再生しようとする影の触手を、旧神の技術で強化された装甲で弾き飛ばしながら、黒い大地を疾走する。
やがて、俺たちは、巨大なクレーターのような、円形の盆地の縁にたどり着いた。
その光景を見た俺たちは、言葉を失った。
盆地の中心。
そこに、一つの、巨大な玉座が、静かに鎮座していた。
それは、この魔大陸を形成する、黒い水晶そのもので作られており、無数のルーン文字が、その表面を、血流のように明滅している。
あれこそが、最後の旧神の遺産――『調停者の王座』。
そして、その玉座に、一人の『誰か』が、深く腰かけていた。
それは、人ではなかった。
人型の、輪郭だけを持った、純粋な『影』。
まるで、宇宙の闇そのものを切り取って、人の形にしたかのような、絶対的な『無』。
そいつが、ゆっくりと、こちらに顔を向けたのが分かった。
リリアが『星の記憶』で見た、絶望の未来の元凶。
ヘファイストスや、秘密結社を、手駒として操っていた、本当の黒幕。
別の次元から、この星を喰らい尽くすために現れた、名もなき『侵略者』。
『―――よくぞ、ここまで来た。星に選ばれし、小さき者たちよ』
声は、音ではない。
あの龍と同じ、だが、どこまでも冷たく、無機質な思念が、俺たちの脳に、直接響き渡る。
『我が名は、無。汝らの世界を、我らの真理(絶望)で塗り替える者』
その『影』が、玉座の肘掛けに、そっと手を置く。
すると、玉座のルーン文字が、一斉に、赤黒い光を放ち始めた。
『この玉座は、素晴らしい。この星の法則を、自由に書き換えることができる。今、私は、汝らの世界に『死』という、新たな概念を、定義している』
その言葉と共に、俺たちの周囲の空間が、ギシギシと、軋むような音を立て始めた。
この世界の『理』そのものが、書き換えられていく。
俺たち生物が、ただ息をしているだけで、生命力が奪われていく、死の世界へと。
「……バルガン」
「……ああ」
俺たちは、馬車から降り立った。
俺の腕の中では、リリアが、急速に、その体温を失っていっている。
もはや、一刻の猶予もない。
俺とバルガンは、二人だけで、この、神に等しい、絶対的な絶望と、対峙していた。
リリアを、この世界を、守るための、本当に、最後の戦いが、今、始まった。




