受験
気取ってるんじゃないよ、田舎女が…。
あんたのそのワンピース、全然似合ってないから。
◯◯◯◯のブランドだかなんだか知らないけど無理しちゃって。
ご愁傷さま。
ママ友とお茶を終えた加奈恵は、帰り道を急ぐが、ふと、白い手袋を買うことを思い出し、大通りを右に曲がる。
あの田舎女、T中を受けさせるって言ってたな。
なら、私立ではうちのほうがレベルは上だ。
うちの娘はR中を受けるんだから!!
店の前に立ち、扉が開くと同時に、涼しい風と小洒落たBGMを浴びる。
だが……
今回の模試の結果も、やはり悪かった。
あと数カ月しかない。
右手の人差し指の爪を噛む。
カリカリ…
カリカリ…
気が付いたら放心していた。
ハッとしたように周囲を見渡し、そそくさと以前から目をつけていた白い手袋の前まで行き、手に取る。
やはりこの手袋に決めた。
娘はどうして出来ないのかしら。
出来ないという感覚が分からない。
私はいつも出来ない人間を見下してきた。
完璧な人間だから。
きっと夫の遺伝子を引き継いだんだよね。
じゃなきゃあんなに不完全なはずがない。
ああ、バカすぎて恥ずかしい。
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!!!!
まるで誰かに見られているかのように片手で顔を隠しながら、マンションのオートロックを解錠する。
なにがなんでもR中に入ってもらわないと!!
娘は生理も早かった。
そんなもん要らないよね?
あんまり無理させると止まるって夫が。
知らないわよ、そんなの。
部外者は黙ってろ。
勉強さえ出来ればいいの。
キッチンに荷物を置き、慌ただしく夕飯の支度に取り掛かる。
その間も、とめどない怒りが押し寄せてくる。
包丁を持つ手が小刻みに震える。
夫は呑気でいいよね。
お気楽だこと。
夫は夫の人生、知ったことか。
せいぜい楽しむがいい。
どうせお互い関心など無い。
外見はイケオジ、高収入。
多少の浮気には目を瞑る。
周囲には素敵なご夫婦とうらやまれている。
そんな夫はお飾り程度でオーケー。
対して、娘は?
私に何を与えてくれた?
あの子が産まれてからというもの、私は必死だった。
世間は娘のことを可愛いと言う。
可愛い?笑える。
なにを以て可愛いと言うのか。
私は今まで、そんなこと思う余裕はなかった。
すべて戦ってきた。
娘、いいえ、自分のために。
あの子は、なにか私に貢献した?
見た目ぐらいのもんで。
何をやらせても失敗ばかり。
恥ばかりかかせて!!
教育にいくらかけたと思ってる。
幼児の頃は、学習能力を伸ばすための習い事多数。
送迎だけでもくたびれたわ。
結局、どれもモノにならず無駄金。
その後つけた家庭教師は合わず、何人もクビにし、塾だって何校も変わった。
今の塾でもクラス変更を求められた。
だが、私は決してレベルをおとすことはしない。
だって、うちの娘はR中を受けるんだよ?
今後、クラス変更を求めてくるなら、即退塾も辞さないと話したら、塾のほうからは何も言わなくなった。
それにしても、あの子の目!!
イライラするわ。
あの子に暴力を振るったことは一切ないのに、あの子、怯えた目をする。
なぜ?
それが無性に腹が立つ。
なんだ、その目は!!
優秀じゃなければ、娘としての存在価値なんて無いんだよ。
憎い憎い憎い憎い憎い!!!!
産んだはいいが、全く役に立たない娘が憎い!!
※※※※※
さっきママが勉強部屋に入ってきた。
私は勉強中。もう何時間も何時間も。
ママは、いつものようにビスケットとココアを持ってきて「瑠璃ちゃん、頑張ってね」と言って微笑む。
返事だけして、俯いて一生懸命勉強しているフリをする。
どうしよう。全然解けないよ。
顔を上げたら、ママにすべて見透かされそうで怖かった。
ママは鼻歌を歌いながら部屋の外へ出る。
きっと平然を装っているんだ。
いつもニコニコ笑っているママ。
どんなときも。
声には出さず表情だけ。
だけど必ず目だけは笑っていないんだ。
パパ……
パパは当たり障りのないことしか言わない。自分のことと、家の外のことにしか関心がないんだ。
パパもママも良い物は買ってくれる。
ランドセルだって、お洋服だって、靴だって、本だってなんでも。
それには感謝しているんだけど、もっと心から笑い合いたいよ。
楽しい話をして。
勉強、私だって必死に頑張っているよ。
でも、点数がなかなか上がらない。
ママのいうR中は難しすぎる。
ママは微笑みながら、瑠璃ちゃんならきっと大丈夫よと言う。
どこが?
全く採れてないよ、点数。
そもそも、なぜR中がいいのか分からない。
レベルが高すぎてクラスメイトは志望すらしない。
R中のなにがいいのか教えて。
R中が無くなってしまえばいいのに。
爆破したい。
そうすれば行かなくて済む。
横目でチラッと外を見る。
2階の窓から公園が見える。
近所の子たちがワイワイ遊んでいる。
もう羨ましいと思う気持ちもなくなった。
なぜいつもニコニコニコニコ!!
私はママに甘えたことが無い。
甘えられなかったんだ。
ママには常に氷のような冷たさがあった。
作った笑顔なんて要らないから、一度くらい本気で私を怒ってよ!!!!
もはや髪は抜け、円形脱毛症が出来ている。
爪だって噛みすぎてギザギザ。
10本全部だよ。
もちろんママは気づいていない。
というより、気づこうとしない。
震える。
からだが震える。
ガタガタガタガタ、震えて止まらなくなる。
本番まであと何日と日数を数えるのがたまらなく恐ろしい。
怖いよ。
ママは私を見捨てるだろうか。
見捨てるよね。だって、こんな出来の悪い子、要らないもん。
でも……
ひょっとしたら、この長い長い受験生活が終わってしまえば、ママは「瑠璃ちゃん、ご苦労さま。よく頑張ったね」と声をかけてくれるかもしれない。
だって、私のママなんだから!!
今までのママはきっと受験でピリピリしていただけ。
きっと本来のママに戻るはずだ。
……あれ?
本来のママって、どういうママだっけ。
※※※※
いよいよ受験前夜。
長かった……。
いままでが戦いだった。
R中専願。
ほかの中学に入ることは絶対許さない。
それはあの子が産まれたときから決めていた。
しかし……ここにきて娘の点数が足りていないことは明らかだ。
明日、入試を受ければ合否が出てしまう。
実は、途中からわかっていた。
受からないことなど。
でも、それを認めることは、私の存在意義を否定すること。
このまま一生、R中不合格の娘の親という烙印を押されるのだ。
それは絶対に耐えられない。
小学校の保護者たちの一見、無関心を装った嘲りの眼差しに、プライドは誰よりも高いこの私が耐えられるわけがない。
それは死刑を宣告されることよりも酷なことなのだ。
それならば、やはり殺るしかない。
このまま生かすか殺るか。
選ぶなら迷いなく後者だ。
苦しめることなく一撃で。
自分の娘に手を下したところで、なんの不都合があろうか。
加奈恵は、夫とはすでに別になっている寝室に入った。
着物を収納している桐箪笥の小さい引き出しに、あの白い手袋がある。
それを取り出し、右手の人差し指以外は指先まで綺麗に手入れされた私の手にはめる。
いい素材で作られた手袋は、私の手にしっとりと馴染む。
白は白でも、下品にギラついておらず、
落ち着いた品のある白である。
ふふ、私らしい。
白とは決別の色である。
加奈恵はビスケットとココアの代わりに、来たるべきこの日のために丹念に研いでいた包丁を持った。
夫は酒に酔って寝ている。
明日が娘の受験だというのに、呑気なもんだ。
いや、ひょっとしたら、夫は、私と娘の茶番に呆れて見て見ぬフリか?
見て見ぬフリが出来るのも今日までだ。
いまから一世一代の大仕事を行なう。
見てなさい!!
娘の部屋に入る。
娘は、ドアノブを回す音がしても決して後ろを振り向かない。
私がビスケットとココアを側に置くとき、横目でチラッと見るだけだ。
毎回そうなのだ。
いつもいつも熱心に勉強をするフリだけ。
それももう見納めね。
明日の入試に向けて、受かりもしない勉強をしている娘の後ろ姿。
この世に生を受けて此の方、あなたは一度も私を心から喜ばせてくれることがなかったね。
そして、人生最大の期待を与えてくれるはずであった明日でさえ、あなたは台無しにしようとしている。
そろりそろりと摺り足で娘の背後ギリギリまで近づく。
娘は振り向かない。
気づいているのに振り向かないのだ。
さようなら、私の瑠璃ちゃん。
そして悪魔。
加奈恵は、手にしていた包丁を振り上げた。
命より大事な私の「メンツ」を潰す、この小さき悪魔!!
悪魔悪魔悪魔悪魔悪魔!!!!
ギィエエエエ!!!!
加奈恵は奇声を発しながら、娘の頭上目がけて垂直に包丁を振り下ろした。